2018年8月1日(水)
「──…………」 「──……」 柔らかな風が、そよそよと肌を撫でていく。 暑い。 だが、不思議と心地よい。 「なんか、今日、あれだな……」 「あれ?」 「いい感じ……」 「うん、いいかんじ……」 黙っていても汗が吹き出る。 肌に触れると、ぺたりと貼り付く。 されど、不快ではない。 俺たちの求める夏が、ここにあった。 「××、いま何度?」 「いまー?」 「うん」 うにゅほが、大儀そうに温湿度計を覗き込む。 「わ」 「どした」 「いま、さんじゅうさんど……」 「……ワーオ」 普段であれば確実にエアコン案件である。 「湿度は?」 「うーとね、よんじゅうにぱーせんと」 「低い」 「うん、ひくい」 「それでか……」 いくら気温が高くとも、湿度が低ければ不快にはならない。 むしろ体調がいいくらいだ。 「この湿度が続いてくれないかなあ……」 「ねー」 「よし、くっつくか」 「!」 ぽんぽんと膝を叩いてみせると、うにゅほがホイホイ寄ってきた。 「うへー」 膝の上に腰掛けたうにゅほを、ぎゅうと抱き締める。 「──あつ!」 「はちーねえ……」 「××、ぺたぺたしてる」 「ぺたぺた」 さすがに、十分ほどで耐えきれなくなって、離れた。 夏を舐めてはいけない。
2018年8月2日(木)
「ふー……」 手のひらでパタパタと首筋をあおぐ。 「なんか、暑くない?」 「すずしいとおもうけど……」 エアコンのおかげで、室温は27℃を維持している。 湿度もそう高くはない。 にも関わらず、体が妙に火照っていた。 「暑い……」 「んー」 うにゅほが、俺の額に手を当てる。 「ねつあるきーする……」 「マジで」 「うん」 「風邪っぽい感じ、あんまりしないんだけど……」 「──…………」 すんすん。 「かぜのにおい、しない」 「しないか」 「うん」 「熱だけ測ってみよう」 「たいおんけい、もってくるね」 「頼む」 体温計を腋窩に挟むことしばし、 「……37.5℃」 「ねつあった……」 「夏バテかなあ」 「ねよ」 「眠くないんですが」 「よこになったほう、いいとおもう」 「せっかくなので、××も測ってみましょう」 「わたしも?」 「せっかくなので」 測ってみた。 「36.1℃」 「ねつないね」 「××、平熱もっと高かった気がするんだけど……」 「うーん」 この猛暑で、自律神経が狂い始めているのかもしれない。 夏はまだ続く。 栄養だけは、しっかり摂ろう。
2018年8月3日(金)
両手で前髪を掻き上げながら、呟く。 「髪、切りに行かないとなあ……」 「えー」 うにゅほが口を尖らせる。 「××、それ反射的に言ってない?」 「そんなことないよ」 「……冷静に考えて、今この髪ぼっさぼさな状態って、カッコいいと思うか?」 「──…………」 「──……」 しばしの沈黙ののち、 「もっとのびたら……」 うにゅほは俺の髪型をどうしたいのだろう。 「切ります」 「はーい……」 しかし、ひとつ問題がある。 「新しい床屋、探さないとなあ」 「とこやのおじさん、やめちゃったもんね……」 「ああ」 床屋を経営していた伯父が、高齢を理由に店を畳んでしまったのだ。 「床屋はいくらでもあるけどさ。どこが腕いいかとか、どこが俺に合ってるのかなんて、行ってみなけりゃわからないからなあ……」 「うん……」 幼いころから床屋と言えば伯父の店一択だったため、勝手がまったくわからない。 ノーヒントであるにも関わらず、選択を失敗すると一ヶ月弱は微妙な髪型を強制される。 これがゲームならクソゲーと言わざるを得ない。 「わたしとおかあさんいってるびようしつ、いく?」 「美容室か……」 「うん」 「××の行ってるとこ、男性客見たことある?」 「ないかなあ」 「じゃあ、やめといたほうが無難だな」 「そか……」 「誰か、知り合いにでも紹介してもらうか」 まったくのノーヒントより、少しはましだろう。 「だれ?」 「──…………」 「──……」 「まあ、それは今から考えるとして」 実際に髪を切るのは、いつになることやら。
2018年8月4日(土)
今日も今日とて自室でくつろいでいると、うにゅほが廊下から顔を出した。 「◯◯、◯◯!」 「んー?」 「なんか、はなさいた!」 「なんか?」 「うん」 「なんの?」 「なんかへんなはな」 「──…………」 「きて!」 いまいち要領を得ないので、素直についていくことにする。 手を引かれて向かった先は、玄関先の花壇の中でもひときわ目立たない一角だった。 「これ」 うにゅほが指さした先にあったものは、 「変な花だ……」 「でしょ」 なんと表現すればいいのだろう。 まず、この植物は、いわゆる多肉植物だ。 多肉植物とは、サボテンやアロエに代表される、肉厚な茎や葉の内側に水分を貯めることができる植物である。 緑色の分厚い葉が小さな渦を巻き、それが幾つも密集して土壌に貼り付いている── 以上が普段の姿である。 この平べったい姿であれば、俺も見覚えがある。 だが、渦のひとつが赤く染まり、 それが縦に数十センチも伸びて、 二股に分かれた先にそれぞれ赤い花を咲かせているとなれば、 うにゅほが「なんかへんなはな」としか表現できなかったのも、無理からぬことだろう。 「これ、なんてはなかな」 「……この条件から逆引きするのって、厳しくない?」 「◯◯でもわかんない?」 「やってみるけど」 iPhoneで、「多肉植物 花」などのワードで画像検索をしてみる。 すると、 「……センペルビウム、かなあ」 「せんぺるびうむ」 「ちょっと違う気もするけど、花の咲き方はそっくりだ」 うにゅほにiPhoneを見せる。 「ほんとだ」 「センペルビウムか、その仲間だろうな」 「へえー」 数年前に亡くなった祖母が植えたのだろうが、まさかこんな花を咲かせようとは。 びっくり箱を開けたような心持ちだった。
2018年8月5日(日)
晴れの日は、部屋が暑い。 南東と南西に窓がある関係上、日中常に直射日光に晒されているためだ。 隣家に遮られて日の射さない弟の部屋と比べると、室温が平気で5℃くらい違ったりする。 「……さすがに暑いな」 「あついねえ」 「エアコンつけるか」 「つけましょう、つけましょう」 ぴ。 エアコンが稼働を開始する。 「これで、しばらくすれば──」
十分後、 「暑い……」 「はちいねえ……」 おかしい。 普段であれば、とっくに冷風がこちらへ届いているころだ。 温湿度計を覗き込む。 「……34℃」 「さんじゅうよん……」 「エアコン、壊れてないよな」 「こまる……」 エアコンのなかった数年前まで、俺たちはどのようにして過ごしてきたのだろう。 "便利"を手に入れた結果、"不便"を忘れてしまった。 まあ、過去の日記でも漁れば、いくらだって思い出せるのだけど。 「まさか、間違って暖房入れたりしてないよな」 「まさかー」 「──…………」 「──……」 確認してみる。 「……暖房だった」 案の定である。 「へんなボタン、おしちゃったのかな」 「そうらしい」 「こわれてなくて、よかったね」 「うん」 「きーつけないとね……」 「うん……」 真夏に暖房は洒落にならない。 注意せねば。
2018年8月6日(月)
「──…………」 「──……」 ぐでー。 「……窓開けてても33℃かあ」 「しつどひくいから、がまんできるけど……」 「これはエアコン案件ですね」 「ですね」 「では、間違って暖房にしないように──」 そこまで口にして、ふとあることを思いついた。 「……窓閉めたら、何度くらいになるかな」 「なんどだろ」 「──…………」 「──……」 「試してみたくない?」 「みたい……」 好奇心、猫を殺す。 だが、気になってしまったものは仕方がない。 「では、実験してみましょう」 「はい!」 「××助手、そちらの窓を」 「わかりました」 自室にあるふたつの窓を、手分けして閉める。 もうこの時点で暑い。 「下で、一時間くらいテレビでも見るか」 「みるー」 みぞれアイスを食べながら一階で時間を潰し、自室へ戻る。 「では、扉を開けたいと思います」 「はい……」 緊張の一瞬だ。 自室の扉を開け放つと、
むわっ!
「あッづ!」 「あつい!」 サウナを思わせる熱気が自室から溢れ出した。 「なんどかなあ」 わくわくと瞳を輝かせるうにゅほと共に温湿度計を確認すると、 「──38℃!」 「すごい!」 「大台には乗らなかったか」 「でも、すごい」 「本州はこれ以上に暑かったんだよな……」 今年の猛暑はヤバい。 俺は改めてそう思った。
2018年8月7日(火)
ローソクだーせー、だーせーよー……
だーさーないとー、かっちゃくぞー……
遠くから、子供たちの歌声が聞こえてくる。 「あ、ろーそくだせきた」 「もうそんな時期か」 ローソクもらいとは、子供たちが近所の家々を歌いながら訪問し、お菓子を貰い歩くという北海道の行事である。 「こどものころ、◯◯も、ろーそくだせしたの?」 「したした。向こう一ヶ月のおやつは、これで稼いだもんだ」 「へえー」 「××も混ぜてもらってきたら?」 「むり、むり」 うにゅほが、苦笑交じりに首を横に振る。 「小学生のふりは、さすがに無理か」 「うん」 「……中学生のふりなら行けるんじゃないか?」 「わかんないけど……」 「よし」 意を決し、立ち上がる。 「ローソク出せごっこでもするか」 「ごっこ?」 「俺が、お菓子用意して部屋で待ってるから、××は歌いながら入ってきて」 「えー……」 「やりたくない?」 「うたうの、ちょっとはずかしい……」 「頑張れ」 「がんばる」 やる気はあるようだ。 子供たち用のお菓子をすこしだけちょろまかし、自室で待機する。 すると、こんこんと遠慮がちなノックのあとに、 「……ろ、ろーそくだーせー、だーせーよー……」 と、か細い歌声が聞こえてきた。 「だーさーないとー、かっちゃくぞー……」 「──…………」 「おーまーけーにー、…………、ぞー」 歌詞がわからなかったらしい。 扉を開き、コアラのマーチの小袋を手渡す。 「はい、よくできました」 「うへー……」 うにゅほがてれりと笑う。 「◯◯も、ろーそくだせやる?」 「……俺はいいかな」 「そか」 さすがに恥ずかしい。 夏の風物詩を手軽に楽しむ七夕の夜だった。
2018年8月8日(水)
「──…………」 「──……」 うにゅほと目配せを交わす。 「……暑い、とは思う。この部屋は、たしかに暑い。それは間違いない」 「うん」 「でも──」 本棚の最下段に設置した温湿度計を見やる。 室温の数値が、33℃から36℃までの範囲で激しく増減していた。 「……これはおかしいよなあ」 「おかしい」 どう考えても壊れている。 「こわれてたの、いつからかなあ……」 「……実は、心当たりがある」 「いつ?」 「一昨日」 「おととい……」 「窓閉め切って、室温が何度まで上がるか試したとき」※1 「……あー」 「あのとき、センサーがぶっ壊れたんじゃないかな」 「そうかも……」 アホな遊びをするんじゃなかった。 「──よし! 気を取り直して、新しいのを注文しましょう」 「つうはん?」 「行くのめんどい」 「そか……」 ネット通販は人を堕落させる。 ヨドバシドットコムで商品検索していると、よさそうな温湿度計を見つけた。 「××、これなんてどうだ」 「どんなの?」 「その日の気温と湿度の推移を記録して、グラフにしてくれるみたい」 「へえー」 うにゅほが目を輝かせる。 「面白そうだろ」 「おもしろそう!」 「寝てるあいだの室温がわかれば、いつ毛布出せばいいかわかるし」 「べんり」 「よし、これにしましょう」 「おいくら?」 「四千円ちょっとするけど、ポイントあるから千円くらいになる」 「ポイントすごいね」 「まあな」 出費のほとんどをヨドバシのクレジットカードで賄っているので、これくらいにはなる。 土曜日には届くそうなので、楽しみだ。
※1 2018年8月6日(月)参照
2018年8月9日(木)
先日購入した漫画の新刊をすべて読み終えたうにゅほが、ふとディスプレイを覗き込んだ。 「ね、なにみてるの?」 「んー……」 「ゆーちゅーぶ?」 「……むかーしのゲームのOPとかEDを見て、心にダメージ受けてるの」 「だめーじを……」 「はい」 「だめーじうけるのに、みるの?」 「××も、いつかわかるさ」 「そか……」 うにゅほが俺の膝に腰掛ける。 「わたしもみていい?」 「いいぞ」 耳掛けイヤホンを片方渡す。 「いまから流すのは、俺が学生のころにプレイしてたゲームのOPムービーだ」 「へえー」 「では、再生」 再生ボタンをクリックする。 観賞することしばし、 「──ぐあー!」 「!」 「懐かしさと時の流れの残酷さに殺される……ッ!」 「だいじょぶ……?」 「冗談はさておき」 「うん」 「あれから、もう、十数年が経つんだなあ……」 しみじみ。 「2018年なんて、ちょっとした近未来SFの舞台だったはずなのに」 「そなんだ」 「いま見たゲームも、たしか、2017年って設定」 「すぎちゃったんだね」 「そうなんだよ」 テラバイトディスクは普及しなかったなあ。 「まあ、べつに、昔に戻りたいとはあんま思わないけどな」 「そなの?」 「学生時代に戻ったら、××がいない」 「……うへー」 うにゅほがてれりと笑う。 俺は、俺の現在に納得している。 変えるべきは未来であって、過去ではないのだ。 「一ヶ月くらい前になら、戻ってもいいけどな」 「かえたいの、あるの?」 「祭りとか、もっかい楽しみたいし」 「あー」 うにゅほが、うんうんと頷く。 同意してくれるらしい。 夏も、既に折り返しを過ぎた。 すこし涼しくなってきたら、またどこかへ出かけよう。
2018年8月10日(金)
そのとき、俺に電流走る。 「──今日、鳩の日だ」 「はとのひ?」 「8月10日で、鳩の日」 「はとのひだ……」 「まあ、だからなんだってこともないけど」 「そだね」 わりとどうでもよかった。 「鳩の日って、なにやるんだろうな」 「はと……」 しばし小首をかしげたのち、うにゅほが口を開く。 「へいわとか、いのる?」 「あー」 そのへんでポッポポッポ言ってる土鳩を想像していたので、平和の象徴という発想がなかった。 「8月10日、他にも語呂合わせがありそうだよな」 「しらべてみましょう」 「そうしましょう」 調べてみた。 「やーと、どーで、宿の日だってさ」 「あ」 うにゅほが、それがあったかという顔をする。 「あと、健康ハートの日だって」 「はーと、とー?」 「鳩の日と同じだな」 「うん」 「あと、ハットで帽子の日」 「あー」 うにゅほが、うんうんと頷く。 「思ったとおり、語呂がいい日みたいだ」 「ほかにもある?」 「えーと──」 マウスを操作し、ページをスクロールする。 すると、 「……焼き鳥の日」 「やー、き、とー、りで、やきとり?」 「よりにもよって、鳩の日と焼き鳥の日が同じなのか……」 諸行無常である。 「はと、やくの?」 「鳩は焼かないんじゃないかな」 そんな話をしていると、鳩サブレが食べたくなった。 ないけど。
2018年8月11日(土)
「──……む」 貪り食っていたビーフジャーキーが、上の奥歯に挟まった。 「××、爪楊枝取ってー」 「はーい」 うにゅほから爪楊枝を受け取り、奥歯の隙間に突っ込む。 「んー……」 なかなか取れない。 左手で口元を隠しながら、爪楊枝で該当部分を掻き回していると、
かぽ。
そんな音が、どこかから聞こえた気がした。 「──…………」 口内に、異物。 取り出してみる。 「銀歯取れた……」 「あらー」 歯の隙間に挟まっていたビーフジャーキーも取れたが、あまり嬉しくはない。 「はいしゃいこ」 「そうだな。さっそく予約入れて──」 そこまで言って、ふと気づく。 「土曜じゃん」 「あっ」 「明日、日曜じゃん」 「あー」 「そもそも、今日からお盆休みじゃん……」 「タイミングわるい」 誰かが言った。 歯が痛むのは、たいてい土曜日の夜である──と。 誰の言葉かはよく覚えていないが、内容は非常に頷ける。 「お盆明けるまで、奥歯このままか……」 「だいじょぶ?」 「右側で硬いものを噛まなければ、たぶん」 「きーつけないとね」 「そうだな」 痛むわけではないのが、不幸中の幸いといったところだ。 しばらく爪楊枝が友達になりそうである。
2018年8月12日(日)
昨日、新しい温湿度計が届いた。 一日の気温と湿度の推移を記録し、グラフ化してくれるスグレモノだ。 「××。昨日からずっと、窓閉めてないよな」 「うん」 「当然、エアコンもつけてない」 「つけてない」 人為の介在しない環境で、俺たちの部屋の温度と湿度はどのように変化しているのだろうか。 わくわくしながらグラフを覗く。 「まず、これが温度だ」 「あんまかわってない?」 「だいたい横這いだけど、朝方はすこし涼しいみたいだな」 「にじゅうななどくらい」 「それは予想通りなんだけど……」 現在の室温へと視線を向ける。 「日が沈んでからガンガン暑くなってるの、どうしてなんだろう」 「いま、さんじゅういちど……」 午後二時の室温は30℃弱だから、1.5℃ほどの上昇が見られる。 日が照っているときのほうが暑くなりそうなものだが、なかなかに不可解だ。 「では、湿度を見てみよう」 「はい」 切り替えボタンを押す。 「うーと、よるがたかくて、ひるがひくいかんじ」 「低くて55%、高くて65%だから、こっちも横這いかな」 「そだね」 「でも、そうか……」 「?」 「気温も湿度も低いんだから、この部屋は昼間のほうが過ごしやすいんだなって」 「ふしぎ……」 うにゅほが首をひねる。 「外は涼しいのにな」 「かぜ、ないからかなあ」 「そもそも、俺たちの部屋だけこんなに熱されてるのも謎だし」 「うん……」 廊下も、弟の部屋も、両親の寝室も涼しいのだ。 この部屋だけが、暑い。 「計測終わったし、エアコンつけるか」 「おんど、もすこしきになる」 気になるなら仕方ない。 「扇風機、中にしとこう」 「うん」 うにゅほは考える葦である。
2018年8月13日(月)
カリカリ、カリカリ。 マウスホイールを回す音が、静かな自室に響く。 「なんか、調子悪いなあ……」 「!」 うにゅほが立ち上がり、俺の額に手を当てる。 「ねつない」 「いや、俺じゃなくて」 「?」 「マウスの調子が悪いなーって」 「あー」 うんうんと頷く。 「こわれた?」 「壊れたってほどじゃないんだけど……」 ディスプレイを指し示し、マウスホイールをカリカリと回す。 「──こんな感じで、ページをスクロールすると、一瞬だけ反対側に戻される」 「はー」 「よくわからない?」 「よくわかんない」 素直である。 「ぜんぜん使えるんだけど、なんかこう、微妙にストレスが」 「そなんだ……」 「喩えるなら、気に入ってる服のタグが、たまにチクチクして鬱陶しい感じ」 「あ、わかる!」 「わかってくれたか」 「うん」 上手く喩えられてないような気もするが、些末な問題である。 「あたらしいの、かうの?」 「このマウス、なんだかんだ四千円くらいするからなあ」 「たかい」 「それに、いま売ってる新モデルだと、俺の好きな機能が削られててさ」 「なんで?」 「……バージョンアップすることでどんどん悪くなっていくことが、PC業界では多々ありましてな」 直近だとSkype。 「まあ、騙し騙し使ってみるよ」 「そか……」 ワンタッチサーチとのお別れも近いのかもしれない。
2018年8月14日(火)
今日は、父方の墓参りだった。 朝六時起床、六時半出発で、三時間かけて菩提寺へ。 懇意にしているメロン農家でメロンをたらふく食わされたあと、両親の友人宅へ挨拶回りを行った。 最後に焼肉を食べて帰途についたのだが、 「──……すう」 ランクルの後部座席で、俺の膝を枕にうにゅほが寝入ってしまった。 終始楽しそうにしていたのだが、さすがに体力が尽きたらしい。 「ごめんな、父さん。帰り俺が運転するはずだったのに……」 「気にすんな。ちゃめ起こすわけにも行かねえし」※1 「そうそう」 父親の言葉に、母親が頷く。 「それにしても、意地でも(弟)には寄り掛からねえんだな」 「うッ」 うにゅほを挟んで反対側の弟が、痛いところを突かれたという顔をする。 「……俺が××に嫌われてるみたいな言い方やめてくんない?」 「違うのか」 「違うって! ……違うよね?」 同意を求められた。 「俺とお前だから俺に寄り掛かってるのであって、お前と知らん人だったらお前に寄り掛かってるよ」 「知らん人と比べられても……」 そりゃそうか。 「おう、◯◯。俺と(弟)だったら、どっちに来ると思う?」 「父さんと弟か……」 難しい問題だ。 「……父さんと母さんだったら、母さんに行くと思う」 「あら嬉しい」 「弟と母さんでも、母さんかな」 「××、母さんにも懐いてるもんね」 「で、俺と(弟)なら?」 「うーん……」 しばし黙考し、 「……そもそも、寝ないんじゃない?」 「──…………」 「──……」 ずうん。 父親と弟がふたり揃って落ち込むSEが、どこかから聞こえた気がした。 「いや、実際のところはわからんからね。ただの予想だから……」 弁解の言葉が、虚しく車内に響く。 真実を握る少女は、気持ちよさそうに夢の中。 そんなこんなで今年の墓参りは終わりを告げたのだった。 疲れた。
※1 父親はうにゅほのことを「ちゃめ」と呼ぶ。
2018年8月15日(水)
「んー……」 マウスホイールの隙間から、マウスの内側を覗き込む。 「どしたの?」 「マウスの調子悪いって話しただろ」 「うん」 「この、ホイールの芯の部分に、ゴミが絡まってるのが原因らしい」 「みえる?」 「よく見えない……」 貯金箱の投入口から中身を窺うようなものである。 「分解、あんまりしたくないんだよなあ」 「ぶんかい……」 「さらに壊れる気しかしない」 「そだねえ」 「見えない場所のゴミを取る方法、か……」 「うーん」 ふたり並んで思案する。 「あ、ふーってするとか」 「息で?」 「うん」 「なるほど」 わりと良いアイディアかもしれない。 「でも、隙間が細いからな……」 「あー」 貯金箱の投入口に息を吹き込むようなものである。 「──いや待て。いいものがある」 「?」 本棚の下段の隅を漁り、 「じゃーん、エアダスター!」 「あ、ぷしゅーってするやつ」 「これなら威力もバッチリだろ」 「おー」 「××、やってみるか?」 「いいの?」 「誰がやっても同じだし」 「やる!」 うにゅほが、エアダスターのノズルをマウスホイールの隙間に合わせる。 そして、 「ぷしゅー!」 エアダスターが唸りを上げた瞬間、隙間からぽろりと何かが転げ落ちた。 それは、ほんの小さなホコリの塊だった。 「これ、ひっついてたのかなあ」 「かもしれない」 カリカリとマウスホイールを回し、動作を確認する。 「──あ、直ってる!」 「やた!」 「いえー」 「いえー」 うにゅほとハイタッチを交わす。 愛用のマウスだけに、あと二、三年は頑張ってほしいものだ。
2018年8月16日(木)
前回までのあらすじ。 行きつけの床屋が店を畳んでしまった。 「──それで、新しい床屋を誰かに紹介してもらうって話だったけどさ」 「うん」 「正直めんどい」 数人に尋ねたが、地理的に少々遠かったり、足を運びにくい店ばかりだった。 車で二十分以内。 通うのであれば、この条件は譲れない。 「じゃあ、のばす?」 「これ以上伸ばしたら、不審者まっしぐらだから」 「そかなあ……」 「××は、補正が入って目が狂っとる。現時点でもだいぶ怪しいからな」 もともと威圧的な外見なのに、それが蓬髪ともなれば、いよいよもって近寄りがたいというものだ。 「とこや、ちかいとこいくの?」 「いっそのこと、1000円カットでいいんじゃないかと思って」 「まえ、しっぱいしてたきーする」※1 「失敗したな、うん」 「いいの?」 「どんなに下手な床屋でも、失敗しないであろう髪型がある」 「!」 うにゅほも、ピンと来たらしい。 「ぼうず!」 「正解。もう丸坊主でいいかと思ってさ」 「いいとおもいます」 「撫でたいだけだろ」 「うん」 こくりと頷く。 素直である。 「と言うわけで、ちょっくら丸刈りにしてきます」 「たのしみ……」 うにゅほは、髪が長い俺と、坊主頭の俺、どちらがいいのだろう。 バリカンで蓬髪を刈られながら、そんな他愛ないことに思いを馳せるのだった。 なお、帰宅したら死ぬほど撫でられた。
※1 2016年5月10日(火)参照
2018年8月17日(金)
「──注文、確定しちゃうぞ」 「うん」 「本当に買っちゃうぞ」 「うん」 「いいんだな!」 「いいよ」 震え出しそうな手でマウスを操り、"注文を確定する"ボタンをクリックする。 「買っちゃった……」 「かっちゃった」 事は、十分前に遡る。
「……ひび割れ、ちょっとひどいな」 購入してから二年弱、パソコンチェアの合皮の劣化が著しい。 「ぱりぱりだねえ……」 「あ、つまむと」 「?」 ぺり。 合皮の一部が剥がれ、うにゅほの指先に黒い欠片が残された。 「あー……」 「だいぶボロボロだからな」 「ごめんなさい」 「気にしなくていいよ」 大勢に影響はない。 「座り心地はいいんだけど……」 「ね」 その座り心地も、座面の合皮と共に損なわれつつあるのだが。 「二万円くらいのパソコンチェアって、こんなもんなのかなあ」 「んー……」 しばし思案し、うにゅほが口を開く。 「たかいのかったほう、いいのかな」 「安物買いの銭失いよりは、高くて良いものを長く使ったほうがいい気はする」 「じゃあ、たかいのかう?」 「……いいの?」 「だって、ぼろぼろだよ」 「まあ、うん……」 「すーごいリクライニングするの、すきだけど……」 うにゅほがチェアの肘掛けを撫でる。 左側の肘掛けは特に劣化がひどく、灰色の地肌が随分と覗いてしまっている。 「……実は、ちょっと欲しいなーって思ってるチェアがあるんですけど」 「どんなの?」 「エルゴヒューマンっていうメーカーの──」
買う前はあんなに悩んでいたのに、買うと決まれば一瞬だ。 というわけで、お値段実に九万円という高級パソコンチェアが、月曜日には我が家に届く。 楽しみではあるのだが、すこし怖くもある。 合わなかったらどうしよう。
2018年8月18日(土)
「××、サン・ジョルディの日って知ってる?」 「あ、きいたことある」 「親しい人に本を贈る日らしい」 「きょう、サン・ジョルディのひ?」 「違うけど」 「ちがうの……」 「サン・ジョルディは、4月23日」 「きょうは?」 「八、十、八で、米の日らしい」 「かんけいないね……」 「関係ないけど、本をあげよう。さっき届いたんだ」 そう言って、Amazonのダンボール箱を取り出す。 「なんだろ。あけていい?」 「いいぞ」 「うーしょ、と」 受け取ったダンボール箱をベッドに置き、不器用に開封していく。 すると、 「──あ、アタゴオルだ!」 「懐かしいだろ」 「うん!」 アタゴオル玉手箱、全九巻。 図書館で借りては読み、借りては読みしてきたものを、ついに購入したのだった。 「◯◯、ありがと!」 「俺も読みたかったからさ」 「でも、ありがと」 真正面から感謝されると、すこしくすぐったい。 「さきよんでいい?」 「いいよ」 「やた」 「そのうち、映画のDVDも欲しいな。レンタルは絶望的だし」 「つたや、なくなっちゃったもんね……」 「ゲオにもなかった気がする」 「うん」 メジャーな作品とは言い難いから、仕方ない。 アタゴオルの他のシリーズも、ちょこちょこ買い揃えていこうと思う。
2018年8月19日(日)
「巣蜜……」 「すみつ?」 膝の上でアタゴオル玉手箱を読んでいたうにゅほが、顔を上げた。 「美味しそうな広告があってさ」 「これ?」 「うん」 ディスプレイには、四角いお菓子の中央を崩し、すくい取っている写真が表示されている。 さじからは、とろりと蜜が滴っていて、なんとも食欲をそそる。 「これ、巣蜜っていうんだって」 「すみつ……」 「お菓子じゃないんだよ」 「ちがうの?」 「よく見ればわかるんだけど、これ、蜂の巣なんだ」 「!」 うにゅほが目をまるくする。 「蜂の巣のままのはちみつだから、巣蜜」 「へえー……」 「美味しいのかな」 「はちのすって、たべれるの?」 「食べられるみたい」 「はち、すごいねえ……」 「ちなみに、蜂の幼虫も食べられるんだぞ」 「──…………」 うにゅほが絶句する。 「……むしなのに?」 「虫なのに」 「えー……」 「見る?」 「みない、みない!」 うにゅほの嫌がる様子を見て、ちょっと楽しくなってきた。 「蜂の子はまだ食べ物感あるけど、イナゴの佃煮なんか、まんまでかいバッタだからな」 「うひえ……」 「見る?」 「みない!」 「昆虫食と言えば、他にも──」 「やー!」 耳を塞がれてしまった。 「よし、××。猫の動画でも見て落ち着こう」 「うん……」 ここで虫の動画を再生したら鬼畜だなーなどと後ろ髪引かれつつ、素直にアニマルビデオを再生する俺だった。 人の嫌がることはしない。 当然である。
2018年8月20日(月)
新しいパソコンチェアが届いた。 洗濯機がまるごと入りそうな大きさのダンボール箱を屋外で開封し、その中身をヒイコラと二階の自室へ運び入れる。 「意外と重い……!」 「てつだう」 「大丈夫、大丈夫」 階段さえ乗り切ってしまえば、あとはキャスターで転がすだけだ。 「ふー……」 L字デスクの前に、新しいチェアを設置する。 「よし!」 「おー」 「エルゴヒューマン プロ。九万円のチェアにございます」 「すけすけだ」 「座面も、背もたれも、全面メッシュだからな」 「◯◯、すわってみて!」 「では、さっそく」 恐る恐る、チェアに腰掛ける。 「──…………」 「どう?」 「んー」 「すごい?」 「腰のあたりが、ちょっと気になる感じ」 「これ?」 うにゅほが、背もたれから独立した腰部のパーツを指し示す。 「ランバーサポートってやつだな」 「らんばー?」 「ランバーは、たしか、腰って意味」 「こしのサポート」 「これがあると、腰痛になりにくいし、長時間座ってても疲れにくいんだって」 「へえー」 「でも、いままでなかったものだから、ちょっと気になる」 「わたしもすわっていい?」 「いいぞ」 チェアから腰を上げ、うにゅほと交代する。 「あ、こしのびる……」 「猫背にならないように設計されてるんだろうな」 「いいかも」 「それはそれとして、だ」 「?」 「……外に置いてあるダンボール、どうしよう」 「あー……」 「とりあえず、まとめとくか」 「てつだうね」 「ありがとう」 幸い、火曜日は燃やせるゴミの日だ。 今日届いてよかった。
2018年8月21日(火)
「──に!」 唐突に、うにゅほが奇声を発した。 「に?」 「──…………」 「──……」 「ぴっ!」 「あ、しゃっくりか」 「うん……」 うにゅほのしゃっくりは、すこしあざとい。 「なん、にっ! なんか、ひゃっくり、で、みっ!」 「しゃっくり止める方法でも調べてみるか」 「まえ、した、ひっ! ……ぱった」※1 「あれ、効いたんだか効いてないんだか、よくわからなかったな」 「そだ、にっ!」 キーボードを叩き、しゃっくりの対処法を検索する。 「××、茄子は何色?」 「にっ」 「何色?」 「……むらさきいろ?」 「──…………」 「──……」 「にっ」 「ダメか」 「なにが?」 「いまので止まるんだって」 「えー……」 「じゃあ、これはどうだ。豆腐の原料は?」 「だいず」 「──…………」 「──……」 「みっ」 「ダメか……」 「……◯◯、あそんでない?」 「遊んでるけど、そういう民間療法があるのは本当だぞ」 「あそん、にっ、でるの……」 「他にもあるけど、試してみるか?」 「みる」 「柿のへたはないから、まず、スプーン一杯の砂糖を──」 いろいろと試すうち、うにゅほのしゃっくりはいつの間にか止まっていた。 正直なところ、どれが効いたのかよくわからないけれど。
※1 2016年5月12日(木)参照
2018年8月22日(水)
暇だったので、うにゅほで遊ぶことにした。 「××、××」 「?」 うにゅほが、読んでいた本から顔を上げる。 「じゃーんけーん」 「わ」 右手を軽く振りながらじゃんけんの構えを取ると、うにゅほが慌てふためいた。 「しょ!」 「ほ!」 俺は、グー。 うにゅほは── 「なんだそれ」 チョキに似ているが、指が三本立っていた。 「──…………」 す。 無言で薬指を畳む。 「いまさらチョキにしても、負けだぞ」 「うー……」 「チョキとパーが混ざったのかな」 「たぶん」 「負けた××は、罰ゲームです」 「なんだろ……」 「今回の罰ゲームは、セルフサービスとなっております」 「せるふさーびす?」 うにゅほが小首をかしげる。 「自分で罰だと思うことを考え、実行してください」 「ばつ……」 「開始!」 「わ」 「ごー、よん、さん──」 「まって! まって!」 「にいー……」 「うと」 ぺち! 「た!」 うにゅほが、自分の額にデコピンをしてみせた。 「いーち……」 「いまの、だめなの!」 「いや、いいけど」 「よかったー……」 ほっと胸を撫で下ろす。 面白い。 「──…………」 「──……」 「……◯◯、わたしであそんだしょ」 「はい」 「もー!」 からかいがいのある子だなあ。
2018年8月23日(木)
お盆休みの初日に、銀歯が取れた。※1 十日以上も経った今日になって、ようやく、歯医者へ行くことができたのだが── 「ただいま……」 「ぎんば、なおった?」 「直った」 「よかったー」 「よかったけど、よくないんだよな」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「取れたとこは問題なかったんだけど、その手前に虫歯が見つかって……」 「あー」 「……歯磨き下手なのかなあ、俺」 一緒に歯を磨いているうにゅほは、見事に虫歯ゼロである。 「◯◯、ちゃんとみがいてるとおもう」 「そうかな」 「うん」 「じゃあ、単に虫歯になりやすい体質なのか……」 「なりやすいとか、あるの?」 「ある。口腔内細菌の割合とか、唾液の分泌量とかで、個人差があるみたい」 「へえー」 「××は唾液多いもんな」 「そかな」 「あんまり口とか渇かないだろ」 「くち?」 うにゅほが、あーと口を開いてみせる。 「くひかわくって、のどかわくっていみ?」 「違う。口の中が渇くんだ」 「……?」 小首をかしげる。 実感として、よくわからないらしい。 「わからないってことは、唾液がちゃんと出てるってことだよ」 「だえき、でたら、むしばなりにくいの?」 「らしい」 「みずのんだら、でるのかな」 「俺、水分めっちゃ取ってるけど、口渇くときあるぞ」 「むずかしい……」 結局のところ、定期的に歯医者へ通う以外に道はないのかもしれない。 憂鬱である。
※1 2018年8月11日(土)参照
2018年8月24日(金)
普段通りの日常。 俺は、ディスプレイに向かってキーボードを叩き、 うにゅほは、座椅子に腰を下ろして読書の真っ最中。 穏やかな時間が過ぎていく。 だが、心地良い静寂が失われるのは、まさに一瞬だった。 「ぎッ!」 がたッ! 思わず跳ねた右膝が、L字デスクを下から突き上げる。 「わ!」 ばさ! 物音に驚いたうにゅほが、読んでいた本を取り落とした。 「──……!」 無言で痛みに耐える。 「◯◯、どしたの……?」 うにゅほが、心配そうに俺の肩に触れる。 そのあたりで、ようやく、喋ることができるようになった。 「歯が……」 「はが?」 「昨日削ったとこが、痛んで」 「だいじょぶ……?」 「──…………」 スッ、と痛みが消える。 「……なんか、大丈夫になった」 「ほんと?」 「なんだ今の……」 一瞬だけ激痛が走って、一瞬で治まった。 「はいしゃいく?」 「行くけど、29日かな。予約入れてあるし」 「あしたいったほう、いいとおもう」 「まず、様子を見よう。詰め物したあとしばらく痛むのって、よくあるから」 「そか……」 不安げなうにゅほのほっぺたを両手で挟み、こねる。 「うぶぶ」 「過保護だぞ、××くん。ちょっと歯が痛んだだけだって」 「うん……」 痛みが続くようなら、早めの受診を考えよう。
2018年8月25日(土)
「──あれ?」 ふと、読書にふけるうにゅほの手の甲が気になった。 「××、手ー出して」 「て?」 うにゅほがこちらに両手を差し伸べる。 「手のひらじゃなくて、手の甲」 「はい」 ひっくり返す。 「……やっぱり」 「?」 「××、怪我してるぞ」 「あ、ほんとだ」 どこかに引っ掛けたのだろうか。 右手の甲の端に、1cmほどの赤黒い線が走っていた。 「痛くない?」 「うん」 「血は出てないみたいだけど、いちおう絆創膏貼っとくか」 デスクの引き出しから、絆創膏のあまりを取り出す。 「さびおだ」 「サビオって言うの、北海道だけらしいぞ」 「そなの?」 うにゅほの手の甲に絆創膏を貼りながら、記憶を漁る。 「絆創膏が正式名称で、サビオが商品名。日本全国で、いろいろ呼び名が違うみたい」 「へえー」 うんうんと頷く。 「どんなよびかたあるの?」 「たしか、カットバンとか、バンドエイドとか」 「ばんどえいど、きいたことある」 「九州のほうではリバテープって言うらしい」 「りばてーぷ、きいたことない……」 「本州でサビオって言ったら、首かしげられるかもな」 「あれみたいだね」 「どれ?」 「おやき」 「あー、おやきな。あれも全国津々浦々、呼び方違うらしいから」 今川焼き、回転焼き、御座候なんて呼び方もあるらしい。 「にほん、ひろいねえ……」 「そうだなあ」 うにゅほの怪我から派生して日本の広さに思いを馳せる俺たちなのだった。
2018年8月26日(日)
「……なんか、ちょっと肌寒いな」 「そだね……」 新しい温湿度計を覗き込む。 26℃。 快適な室温のはずなのに、これまでがこれまで過ぎて寒く感じてしまう。 「××」 ぽんぽんと膝を叩く。 「はーい」 以心伝心。 うにゅほが俺の膝に腰を下ろす。 「あたらしいチェア、ちょっとせまいね」 「肘掛けがな」 「うん」 「でもこれ、開くんだぞ」 カチッ。 肘掛けが、ハの字に開く。 「おー」 「ちょっと広くなったかな」 「うん」 右手にマウスを持ったまま、左腕でうにゅほを掻き抱く。 暖かい。 「やっぱ、人肌だなあ……」 「ねー」 「あ、でも、窓──」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「……窓は、閉めなくていいか。蒸し暑くなりそうだし」 「そだね」 「夏も終わりが近いなあ」 「うん……」 「締めに、なんか夏らしいことしたいな」 「なつらしいこと?」 「花火とか」 「はなび!」 「見かけたら、買ってみるか。小さいやつな」 「うん!」 目を輝かせるうにゅほを見て、去年も、一昨年も、花火くらい買えばよかったと後悔する。 明日、ホームセンターにでも行ってみよう。
2018年8月27日(月)
「……口寂しい」 「ガムあるよ」 「ガム、噛みたいんだけどさ」 「?」 「噛んだら、歯の詰め物が取れる。仮のやつだから」 「あー……」 「おかげで水ばっか飲んでる」 「◯◯、といれ、すーごいいってるもんね」 「三十分に一回くらい行ってる気がする」 「そんなきーする」 「右側の歯を使わなきゃいいんだけど、左側だけで延々ガム噛み続けるとか、ちょっとした苦行だし」 「あご、いたくなりそう」 「こんなとき、飴があったらなあ……」 「◯◯、あめ、かわなくなった」 「そうだな」 「まえ、おおきいかんかんに、いっぱいあめいれてたのに」 「歯医者に止められたんだよ。虫歯になるって」 「そなの?」 「飴なんて舐めてなくても虫歯になってるから、関係ない気もするけど」 「そだねえ……」 「××、歯医者にかかったことないんだっけ」 「ないよ」 「虫歯もない?」 「ない」 「すごいなあ」 「うへー」 「同じもの食べて、一緒に歯磨きしてるのに、どうして俺だけ虫歯になるんだろう」 「わたし、はーみがく?」 「ん?」 「◯◯の、は」 「……膝枕で?」 「うん」 「それは──うん。さすがに絵面がひどい」 「だれもみないよ?」 「俺が見てるんだよ」 「ふうん……」 「気持ちだけありがたく受け取っとくな」 「うん」 「じゃあ、トイレ行ってくる」 「また?」 「飲み過ぎかなあ」 「のみすぎとおもう……」 しかし、やはり口寂しく、延々と水ばかり飲んでまう俺だった。
2018年8月28日(火)
「花火だ!」 「はなびだー!」 コンビニで、安くなっていた花火セットを購入した。 暗くなるまで待って、庭先に出る。 「××、バケツに水汲んできて」 「はーい」 うにゅほがバケツを取りに行くのを横目に、あらかじめ入手しておいた仏壇用のロウソクに火をつける。 だが、 「……風があるな」 つけてもつけても火が消えてしまう。 仕方がない。 電子ライターでは風情が削がれるような気もするが、目的を果たせないよりましだ。 「くんできたよ」 「さんきゅー」 「ね、どれからやる?」 「選んでいいぞ」 いちばん小さなセットだから、どれも大差ない気がするけれど。 「じゃあねー、これ!」 うにゅほが手に取ったのは、線香花火によく似た手持ち花火だった。 ただし、大きさが線香花火の倍はある。 「ひーつけて!」 「はいはい」 紫色の放電が、花火の先に火を灯す。 しばしして、 「わあー……!」 緑色の火花が、持ち手の先で花開いた。 「◯◯! ◯◯! ひーきえるまえに、◯◯のもつけて!」 「了解」 ふたり、花火を継いでいく。 消えたら、また、ライターでつけ直す。 すべての花火が燃え尽きるのに、十分とかからなかったように思う。 「……おわっちゃった」 「そうだな」 「なつ、おわりだね」 「あんまり終わり終わり言ってると、秋が怒るかもな。俺の始まりだぞーって」 「あはは」 2018年の夏が終わる。 できたことも、できなかったこともある。 楽しかったことは思い出にして、やり残したことはまた来年だ。 夏はまた来るのだから。
2018年8月29日(水)
「ただいまー……」 歯医者で新しい銀歯を被せてもらい、帰宅した。 「おかえりなさい。どこかよってたの?」 「寄ってないよ」 「でも、おそかったねえ」 「予約してたのに、一時間以上待たされた……」 「おつかれさまです……」 「予約順だから仕方ないけど、簡単な施術は先にしてほしいよな。銀歯つけるの、十分で終わったもん」 「ほんとだね」 「でも、よかった。これでようやくガムが噛める」 「◯◯、ガムすき」 「嫌いじゃないけど、大好物でもないぞ。口寂しいだけで」 「くち、そんなにさみしい?」 「わりと」 「わたし、あんましさみしくない」 「いいことだ」 「いいの、なんかないかな」 「ガム以外に?」 「うん」 「飴はダメだぞ。虫歯になるから」 「なんかたべるのは?」 「ナッツ類なら延々食べ続けられると思うけど、太るからなあ」 「そだね」 「食べても太らないものって考えると、結局ガムに行き着くわけで……」 「あ、あれは?」 「どれ?」 「あかちゃんくわえてるやつ」 「……おしゃぶり?」 「おしゃぶり」 「──…………」 最悪の絵面だ。 「ないわー」 「ないかー……」 赤ちゃんプレイに興味はない。 「素直にガム噛むから、いいです」 「はい」 ガムの消費が激しい今日このごろである。
2018年8月30日(木)
夕食後のことである。 「──……眠い」 「ねむいの」 「眠い……」 「ねる?」 「……仮眠取るか。三十分くらい」 「じゃあ、さんじゅっぷんたったらおこすね」 「頼むー……」 ベッドの上に這い上がり、アイマスクを着けて横になる。 「──…………」 丸い意識が、傾斜の緩い坂道を、ゆっくりと転がり落ちていく。
三十分後── 「──◯◯、◯◯」 肩を揺すられ、目を覚ます。 「おきた?」 「起きた……」 「ねれた?」 「そこそこ」 アイマスクを外し、眼鏡を掛ける。 「なんか、変な夢見たな」 「どんなゆめ?」 「えーと──」 こぼれ落ちていく砂のような記憶を、なんとかして掻き集める。 「……夢の中で、俺は、自分が夢を見てるって気づいてたんだ」 「めいせきむ?」 「よく知ってるな。そんな感じ」 「うへー」 「で、その夢の中で、更に夢を見た」 「ゆめのなかで……」 「でも、とっくに夢の中だから、それ以上の奥はなくて、"夢の中の夢の世界"には入れなかったんだ」 「どうなったの?」 「夢の中で、俺が増えた」 「ふえた!」 「で、なるほど、こうなるのかって納得する夢」 「へえー」 「起きてから考えたら変な話だけど、夢の中では辻褄が合ってるんだよな……」 「ゆめのはなし、おもしろい」 「わかる」 つげ義春とか大好きである。 夢を忠実に漫画化した作品が、もっと増えればいいのに。
2018年8月31日(金)
「──ピーマンの肉詰め」 「?」 うにゅほが顔を上げる。 「ピーマンの肉詰めって、報われない料理だよな」 「ピーマンのにくづめ、たべたいの?」 「いや特に……」 「……?」 うにゅほが小首をかしげる。 「ピーマンの肉詰めの材料って、ピーマン抜いたらほぼハンバーグじゃん」 「そだね」 「ハンバーグは、大人も子供も大好き。俺も大好き」 「わたしもすき」 「でも、ピーマンの肉詰めは、好みが分かれる。好きな料理ランキングを集計したら、確実にランクは落ちるだろう」 「そうかも……」 「ハンバーグに材料を足して、詰める手間まで掛けたのに、結果はこれだ。報われない」 「◯◯、ピーマンのにくづめ、きらい?」 「嫌いじゃないけど……」 「ハンバーグのほう、すき?」 「好き」 「むくわれないね……」 「報われない」 ふと思う。 「……もしかして、ピーマンありきの料理なのかな」 「ピーマンありき?」 「野菜嫌いの子供がピーマンを食べられるように、ハンバーグの要素を足した──とかなのかなって」 「あー」 いかにもありそうな話だ。 「いずれにしても、ピーマンの肉詰めを手間暇掛けて作るくらいなら、いっそハンバーグが食べたいなって話」 「ピーマンのにくづめ、さいごにつくったの、いつだっけ」 「一年は食べてない気がする」 「なんで、いきなり?」 「さあ……」 思いついてしまったのだから、仕方がない。 平和な午後のことだった。 |