>> 2018年7月



2018年7月1日(日)

しとしと、しとしと。
そぼ降る雨が、窓を濡らしている。
「──…………」
「──……」
俺たちの部屋は、南東と南西に窓がある。
それは、真南から雨が降った場合、窓の一切を開放できないことを意味している。
その結果、
「あづ……」
「はちーねえ……」
蒸しに蒸した室内で、ぐでーと過ごす羽目に陥っているのだった。
「なんか、空気が濡れてる気がする……」
「わかる……」
湿度は70%を超え、素肌が無駄に潤っている。
しっとりと言うよりべたべたに近く、かなり不快だ。
「……××、今日って何日か覚えてる?」
「うと、しちがつついたち……」
「そう、七月だ」
「うん」
「七月と言えば、もはや夏。完全に夏。エアコンを解禁しても許されると思わないか?」
「おもう、おもう」
うにゅほが、うんうんと頷く。
べつに、誰かに禁止されていたわけでもないのだけど。
「じょしつ?」
「冷房より除湿のほうが電気代かかるって聞いたことがある」
「じゃあ、れいぼう?」
「とりあえず、冷房にしてみよう」
設定温度を26℃にし、運転ボタンを押す。
エアコンの室内機が稼働を始め、
「あ、すずしー……」
刺すような冷風が、湿った皮膚から熱を奪い去っていく。
「直接だと、寒いくらいだな」
「ちょっとだけ」
風の直接当たらない書斎側へ移動し、二時間ほど経ったころのことだ。
「うーん……」
「どしたの?」
「涼しいは涼しいけど、なんかべたつくな……」
「そだねえ」
「やっぱ、除湿にしよう」
「うん」
室温のみが高いときは、冷房。
湿度が高い場合は、除湿。
使い分けたほうがよさそうだ。



2018年7月2日(月)

「おー……」
「あ、おつかれさま」
仕事を終え、自室に戻ると、快適な空気とうにゅほとが俺を出迎えた。
「除湿、すごいな。空気が気持ちいい」
「うん、すごい」
昨日に引き続き、本日も雨である。
雨滴が煙り、空気に溶けて、触れたものすべてを湿らせている。
「仕事部屋はエアコンないから、大変だったよ」
「うで、べたべた?」
「べたべた」
自分の腕に触れると、かすかにべたつく感覚があった。
「××は、さらさら?」
「さらさら」
「どれ」
うにゅほの腕に触れる。
ぺたり。
「……××の腕はさらさらだけど、俺の手がべたべたしてる」
「あー」
「なんかごめん」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、なんでもない」
うにゅほが気にしないのなら、俺が気にしても仕方があるまい。
「図面の紙が湿気を吸ってたわむし、手に貼り付くし、やりにくいったらなかった」
「こまったねえ……」
「しばらく自室で仕事しようかなあ」
すこし狭いが、やってやれないことはない。
「つゆなのかな」
「梅雨か」
北海道に梅雨はない。
だが、時折、梅雨に似た気候になることはある。
「本州の梅雨って、こんな感じなのかも」
「たいへんだ」
この梅雨もどきは、いつまで続くのだろう。
カラッとした夏が恋しい。



2018年7月3日(火)

「あ゙ー……」
パソコンチェアから半分ずり落ちながら、うめき声を上げる。
だるい。
だるい。
思わず繰り返してしまうほど、だるかった。
「◯◯、だいじょぶ……?」
心配そうな表情を浮かべ、うにゅほが俺の顔を覗き込む。
「だいじょばない、かも……」
すんすん。
うにゅほが俺の胸元に顔を埋め、鼻を鳴らす。
「んー」
「どう?」
「かぜのにおい、しない」
「やっぱりか……」
自分のことだから、ある程度はわかる。
「熱っぽくないし、寒気もしないし、咳も鼻水も出ないから、そんな気はしてた」
「だるいだけ?」
「だるいだけ……」
「なんだろねえ」
「たぶん、低気圧が続いてるせいだと思う」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「あめ、ずっとだもんね」
「加えて、空気が湿っぽくて不快なせいもあるだろうなあ……」
「エアコン、じょしつする?」
「しよう」
エアコンをつけ、チェアに戻る。
「ねたほういいとおもう……」
「俺もそう思う」
「ねないの?」
「湿度が下がらないと、いま寝ても、たぶん寝苦しくて起きる……」
「そうかも……」
「エアロバイク、漕げそうにないなあ。せっかく続いてたのに、悔しいけど」
「なおったら、こご」
「そうする」
天気予報では、まだしばらく雨が続くようだ。
早いとこ晴れてほしいものだが。



2018年7月4日(水)

相変わらずの低気圧に徹頭徹尾やられていると、
「◯◯、なんかとどいたー」
小包を手にしたうにゅほが、廊下から顔を覗かせた。
「……なんだろ」
「さあー」
包みを受け取り、差出人を確認する。
ヨドバシドットコム。
「あー、あれか」
「なに?」
「テンキー」
「てんき?」
「天気じゃないよ」
「うん」
「テンキー」
「てんきー」
「キーボードの右側に、数字を打ち込む部分があるだろ」
「うん」
「あれのことを、テンキーって言うんだ」
「へえー」
「あれだけを買った」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんで?」
「いま使ってるキーボード、テンキーないから……」
「てんきーあるきーぼーど、つかわないの?」
「うーん」
説明が難しい。
「──車に、マニュアルとオートマがあるのは知ってるよな」
「まんなかのぼう、がちゃがちゃするのが、まにゅある」
「ガチャガチャ……」
まあ、間違ってはいない。
「マニュアルも、オートマも、車を走らせるという結果に違いはない。でも、使い勝手は変わるよな」
「たぶん……」
「マニュアルに慣れたらオートマは運転しづらいし、逆も然り」
「いまのきーぼーど、まにゅあるなの?」
「喩えだけど、そんな感じ」
「そなんだ」
実際、HHKBの配列に慣れると、普通の108キーボードは使いにくくて仕方がない。
「つまり、マニュアル操作のまま使い勝手をよくするために、テンキーだけを買い足したわけだ」
「なるほど……」
「わかってくれたか」
「はい」
「では、さっそく使ってみましょう」
さっそく使ってみた。
キーボードとテンキーが分離しているというのは、初めての経験だ。
だが、操作感は悪くない。
HHKBとテンキー、慣れれば最強の布陣かもしれない。



2018年7月5日(木)

「雨だけど、今日は涼しいなあ……」
「からだ、だいじょぶ?」
「良くはないけど、悪くもないかな。すこし眠いくらいで」
「ねる?」
「寝たいけど、あんまり昼寝ばかりするのもな」
「うーん……」
小首をかしげながら、うにゅほが思案する。
「ねむいとき、ねないと、ずっとねむいきーする」
「しばらくしたら、眠気も覚めると思う」
「さめるかな」
「たぶん」
「ほんとかな」
「たぶん……」
「ねむいとき、ねないと、◯◯、うとうとするから……」
「──…………」
否定できない。
「うんてんするとき、あぶない」
「運転するときは、事前にちゃんと寝ます」
「きょうは?」
「出掛ける予定はないかな」
「ねないで、なにするの?」
「仕事が来たら、仕事するけど……」
「しごといがいは?」
「まあ、ネットかゲームでもして時間潰そうかと」
「──…………」
「──……」
「むりしてすること?」
「うッ」
たしかに。
「ねたほういいとおもう」
「うん……」
完全に論破されてしまった。
「……昼寝ばかりしてると、ダメ人間になった気がして」
「そかな」
「世間一般的には……」
「わたし、◯◯は、だめじゃないとおもう」
「……ありがとう」
「ねましょう」
「はい」
うにゅほに手を引かれ、ベッドに潜り込む。
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
二時間ほど睡眠を取ると、眠気もようやく治まった。
不便な体である。



2018年7月6日(金)

「晴れたー!」
網戸ごと窓を開け、軽く身を乗り出す。
「風が気持ちいいし、空気も美味いし、言うことなしだな……」
「うへー」
うにゅほが、にんまりと笑みを浮かべる。
「◯◯、げんき」
「ごめんな、心配かけて」
うにゅほの頭を優しく撫でる。
「ずっとはれなら、いいのにね」
「それはそれで、四国が水不足になりそうだなあ……」
「ほっかいどう、みずぶそくならないの?」
「北海道には雪解け水があるから」
「そなんだ」
網戸を閉めて、伸びをする。
「雨も、低気圧も、一日くらいならいいんだよ。ただ、続くとダメだな」
「あめ、ながかったもんねえ……」
「おまけに蒸し暑いもんだから、俺でなくても体調崩すって」
「うん」
「──…………」
「──……」
「××、丈夫だよなあ……」
病気知らずとまでは行かなくとも、病院の世話になったことは、この数年で数えるほどしかない。
「おとうさんも、おかあさんも、じょうぶ」
「丈夫じゃないのは、俺と弟だけだな」
「そだねえ」
「血が繋がってるの、実は、××のほうだったりして」
「だったりして」
ふたり、小さく笑い合う。
「──さて、やるか」
「やる?」
「ここ数日、できなかったことがあるだろ」
「あ、えあろばいく!」
「その通り」
「◯◯おわったら、わたしもこいでいい?」
「もちろん」
明日から、また雨模様が続くらしい。
せめて涼しければいいのだが。



2018年7月7日(土)

ふと、壁に掛けたカレンダーを見やる。
「今日、7月7日か」
「うん」
「本州では七夕だな」
「たなぼた?」
「七夕」
「たなから、ばたもち」
「わかってて言ってるだろ」
「うへー」
「今日が七夕なら、織姫と彦星は会えないな」
「そだねえ」
「岡山とか、短冊どころじゃなさそうだし」
「うん……」
さきほど見たニュース番組を思い出す。
記録的豪雨により、床上浸水ならぬ"屋根上浸水"となった無数の家屋。
脱いだ服を旗のように振り、助けを求める人々は、今日が七夕であることなど思い出す余裕もないだろう。
「水が引いても、さすがに住めないだろうなあ……」
「こわいね……」
ぎゅ。
うにゅほが、俺の服の裾を掴む。
「……すーごいあめふったら、うちも、あんななる?」
「ならないとは思うけど……」
「ほんと?」
「川が近いけど、海も近いから。海は増水しないし」
「そなんだ」
「そもそも、短期間に大量の雨が降る機会がない。梅雨がないし、台風も届かないからな」
「うん」
「万が一があっても、床下浸水止まりだと思う」
「そか……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
「安心した?」
「した」
「でも、防災グッズは揃えておいたほうがいいかもな。乾パンとか、懐中電灯とか」
「そだね……」
備えあれば憂いなし。
使う機会が訪れないことを祈る。



2018年7月8日(日)

「××ー」
ちょちょいとうにゅほを手招く。
「?」
「さて問題です」
「!」
「今日は何の日でしょー……か!」
「にっき、かくことないの?」
「──…………」
見透かされていた。
「あると言えばあるし、ないと言えばない」
「……?」
「なければ作ればいいじゃない」
「なんのひしりーず」
「そんな感じ」
「うーと、きょう、しちがつようか……」
小首をかしげながら、うにゅほが思案する。
「なな、やー。なな、はち。しち、は、や、しちや──しちや! しちやのひ!」
「質屋の日か」
「あってる?」
「まだ調べてない」
「しらべてみましょう」
「そうしましょう」
Googleを開き、「7月8日」で検索する。
「──お、合ってる。7月8日は質屋の日で間違いない」
「やた」
「すごいな、××」
「うへー……」
うにゅほが、てれりと笑う。
「あと、那覇の日でもあるらしい」
「なー、はー、で、なはのひ?」
「そうそう」
「それはおもいつかなかった……」
「あと、中国茶の日」
「ちゅうごくちゃのひ?」
「これは苦しいぞ」
「どんなの?」
「麻雀知ってればわかるけど、七は中国語で"チー"って読むんだよ」
「そなんだ」
「八は、音読みで"ヤ"だろ」
「ちーや?」
「縮めて、チャ。だから、中国茶の日」
「──…………」
「──……」
「むりがあるとおもう……」
「俺もそう思う」
無理のある語呂合わせなど、この世に溢れているものだ。
それでも語呂に惹かれてしまうのは、人の性か、あるいは日本人の性なのか。
後者のような気がしないでもない。



2018年7月9日(月)

「ぐ……」
下腹部をさする。
すこしだけ腹が痛かった。
「……◯◯、だいじょぶ?」
「大丈夫……」
「といれ、いってきたら?」
「いや、さっき行ってきたけど、出なかったんだ」
「べんぴ?」
「便秘ではないと思うんだけど……」
「げり?」
「下痢でもない」
「もうちょう……」
「盲腸って、たぶん、もっと痛むものだと思う」
「うーん……」
しばし思案したのち、うにゅほが口を開く。
「……べんぴ?」
一周した。
「だから、便秘じゃないって」
たぶん。
「なんだろ……」
「最近、たまにあるんだよな。ぼんやりと腹が痛むの」
「ストレス?」
「ストレス、かなあ……」
ストレスの多い生活は送っていないと思うのだけど。
「へそのとこ、つぼあるんだよね」
「あるとは聞くけど」
「おなかなでるから、ねて」
「んー……」
まあ、いいか。
「それじゃあ、お願いします」
「はい」
言われるがままベッドに横になると、うにゅほの小さな手がへその周囲を這い回った。
「うひ」
くすぐったい。
だが、それを我慢していると、徐々に心地よさが勝ってきた。
「どう?」
「……落ち着いてきた」
「そか」
しばらくのちにトイレへ向かうと、便通があった。
うにゅほに撫でてもらったおかげかもしれない。



2018年7月10日(火)

「ただいまー……」
仕事部屋で図面を引いていると、青い顔をした弟が帰ってきた。
「兄ちゃん。××。やっちゃった……」
「どしたの?」
「あー……」
なんとなく察する。
「……車、擦っちゃった」
やはりか。
「どれ、見せてみ」
「うん……」
仕事をいったん切り上げ、外へ向かう。
「擦ったの、どこ?」
「左……」
玄関先に駐車されたライフの左側に回り込む。
すると、
「あー……」
左後輪のフェンダーがべろんと剥がれ、ホイールにも擦り傷がついていた。
「ライフくん、いたそう……」
「ゔッ」
うにゅほの何気ない一言が、弟の心臓を貫いた。
「ホイールまで行っちゃったか」
「ガリッて音がしたとき、止まればよかったんだけど……」
「アクセル踏んじゃった?」
「踏んじゃった……」
まあ、気持ちはわかる。
咄嗟のアクシデントに対し、誰しもがいつでも正しく対処できるとは限らないのだ。
「……修理、いくらくらいかかるかな」
「わからん」
「わたしもわかんない……」
「いちばん詳しいの、父さんだからな。帰ってきたら聞いてみよう」
「……気が重い」
いちばん車を大切にしているのも、父親である。
「しゃーない」
弟の背中をぽんぽんと叩き、家に入る。
帰宅した父親はあまり怒らなかったが、修理費は当然弟持ちということになった。
人のふり見て我がふり直せ。
俺も気をつけよう。
うにゅほを乗せることが多いから、特にだ。



2018年7月11日(水)

「んー……」
両肩を、大きく回す。
数回転ほどさせたのち、右手で左肩を揉む。
硬い。
「凝ってるなあ……」
「かたこり?」
「そうみたい」
「こりこり?」
「こりこり」
うにゅほが俺の肩に手を伸ばす。
もみ、もみ。
「こりこりだ」
もみ、もみ。
「きもちい?」
「もっと強くてもいい」
「!」
ふんすと鼻息荒く、うにゅほが両手に力を込める。
「これ、くら、いー……?」
「おー」
うにゅほの小さな指先が、ぐいぐいと肩に押し付けられる。
「××、力強くなったな」
「うへー」
「あ、弱くなった」
「!」
ぐい、ぐい。
ぐい、ぐい。
「──…………」
もみ、もみ。
もみ、もみ。
「弱くなった」
「!」
ぐい、ぐい。
「──……ふー」
もみ、もみ。
「ふう、ふう……」
ふに、ふに。
「……も、だめ」
握力は強くなっても、持久力はてんでダメらしい。
「ありがとな。すこし楽になったかも」
「そか」
お世辞ではない。
本当に、楽になったのだ。
「手、痛くなった?」
「ちょっと」
「では、マッサージしてあげましょう」
「おねがいします」
うにゅほの手を取り、親指と人差し指のあいだにあるツボを優しく刺激する。
「ほー……」
「気持ちいい?」
「きもちい」
「疲れが取れたら、また、肩もみをお願いします」
「はーい」
こうして、延々とマッサージをし合うふたりなのだった。



2018年7月12日(木)

「ふー……」
首に掛けたタオルで額を拭いながら、エアロバイクを降りる。
本日の札幌は夏日である。
当然ながら、汗だくだ。
「おつかれさまー」
「次、××乗る?」
「うと、よるのろうかなって」
「暑いもんな……」
「うん」
暑いことは暑いが、運動さえしなければ快適に過ごせる範疇の気温でもある。
「ペプシのむ?」
「……あー」
思案し、答える。
「久し振りに、プロテイン飲もうかな」
「ぷろていん」
「最近飲んでなかったし」
「しょうみきげん、だいじょぶ?」
「──…………」
プロテインの袋を手に取り、裏返す。
「……ギリ!」
「よかった」
「ギリギリアウト」
「よくなかった……」
「前みたいに一年過ぎてるわけじゃないし、大丈夫だろ」※1
「しょうみきげん、いつ?」
「一ヶ月前」
「ぎりだ」
「な?」
「それなら、だいじょぶかなあ……」
「大丈夫、大丈夫。もったいないし、さっさと飲んでしまおう」
「わたしものんでいい?」
「前みたいに味整えてないから、粉っぽくて不味いぞ」
「うん」
「いいならいいけど」
「はやくなくさないと……」
そんなに気負わなくてもいいのに。
久々に飲んだプロテインは、適当に溶かしたせいもあり、上等とは言い難い味だった。
きなこやココアを混ぜれば美味しくはなるのだが、手間が掛かるし、そのぶんカロリーも膨れ上がる。
薬と割り切って飲んでしまおう。

※1 2016年7月13日(水)参照



2018年7月13日(金)

「──…………」
ふと気がつけば、L字デスクの上が、また雑然とし始めていた。
「……片付けるかー」
「かたづけるの?」
「そうしようかと」
「てつだうね」
そう言って、うにゅほが立ち上がる。
俺が言い出すのを待っていたのかもしれない。
「これ、なんだろ」
うにゅほが、デスクの端にまとめてあった数通の封筒を手に取る。
「よどばし」
「クレジットカードの明細書だな」
「いる?」
「うーん……」
要不要で言えば不要なのだろうが、捨てるのも憚られる。
「小箪笥の上の引き出し、入れといて」
「はーい」
うにゅほに指示し、デスクに向き直る。
デスクの上でいちばん幅を利かせているのは、なんと言っても読み終えた本の山である。
「……二十冊くらいかな」
「よんだら、すぐ、かたづけないと」
「はい……」
わかってはいるのだが、つい積んでしまう。
手分けして本を片付けると、その麓から、幾つもの「いますぐは必要ではないもの」が現れる。
唇が荒れたときに塗る、リップバーム。
プラスチック製のスプーン。
風邪を引いたときに出されたよく知らない薬。
オロナイン軟膏。
全体的に、薬が多い印象だ。
「──…………」
「──……」
「つかったら、すぐ、かたづけないと」
「はい……」
読んだら、すぐ、片付ける。
使ったら、すぐ、片付ける。
結局のところ、それに尽きるのだ。
前向きに善処しようと思った。



2018年7月14日(土)

「──……あつ」
エアコンの効いた自室を出た瞬間、蒸れた空気が全身にまとわりついた。
「あっついねー……」
「暑いのは嫌いじゃないけど、蒸し暑いのはちょっとな」
「わかる」
「ほんと、エアコン様々ですね」
「ですねえ」
「サッと行って、パッと帰ってきちゃおう」
「うん」
最寄りのコンビニへ赴き、月曜祝日のため早売りのジャンプと、アイスを幾つか購入する。
ふたり揃ってクーリッシュを咥えながら帰宅すると、弟がリビングでテレビを見ていた。
「なに見てんの?」
「録画してたやつ。万引きGメン」
「……お前、そういうの好きだよなあ」
「けいさつにじゅうよじとか、いつもみてるもんね」
「わりと好き」
「人気あるから定期的に放送してるんだろうけど、何がいいのかよくわからん」
「そう?」
弟が、不思議そうな表情を浮かべる。
「馬鹿な奴らが馬鹿なことやって自業自得で報い受けてるんだから、面白いじゃん」
「ああ、そういう……」
「なんだよ」
「いえ、文句ありません。ハイ」
「わたし、ちょっとにがてだな……」
「××はそうかもね」
うにゅほは、威圧的な態度を取る人間が苦手である。
得意な人はあまりいないと思うけど。
「でも、兄ちゃんは小説書くんだから、人の汚い部分とか見といたほうがいいんじゃないの」
「サイコパスとかシリアルキラーの出る映画はよく見るけどなあ」
「それはまたジャンルが違わない?」
「違うかもしれない」
「(弟)、アイスたべる?」
「食べる」
しばしのあいだ弟と一緒にその番組を見てみたが、やはり面白さがよくわからなかった。
感性の共有は難しい。



2018年7月15日(日)

「──……◯◯、◯◯」
肩をぽんぽんと叩かれ、意識を取り戻す。
「あれ……」
すこしばかり痛む首を気にしながら、チェアの上で居住まいを正す。
「……俺、寝てた?」
「ねてた」
マウスを握りながら意識を手放していたらしい。
「いま何時?」
口でうにゅほに尋ねながら、壁掛け時計に視線を投げる。
「さんじはん」
三時半である。
いつから寝落ちしていたのか、まったく思い出せない。
「休日は無限に眠い……」
「ベッドでねたほういいよ」
「そうなんだけどさ」
「◯◯、くび、すごいまがってた」
「あー」
だから痛むのか。
「ほら」
うにゅほが俺の手を取り、引く。
「ベッドでねよ」
「あー、うん……」
導かれるままベッドで横になり、眼鏡を外す。
「はい、あいますく」
「……このアイマスクも、ゴムがびろんびろんになってきたなあ」
「てんぴゅーる」
「そう、テンピュール」
愛用しているテンピュールのアイマスクは、同じ商品の二代目である。
おおよそ一年半ほどでゴムが伸び切ってしまうのは、素材としての宿命なのだろう。
「ゴム部分を張り替えれば、まだ使えるんだけどな」
「はりかえる?」
「めんどい」
「めんどいかー」
「三千円もしないし、それなら新しく買っちゃうよ」
「そだねえ……」
「じゃ、寝る。三十分くらいで起こして」
「はーい」
三十分ほど仮眠すると、驚くほど眠気が取れた。
うたた寝では、睡眠としてカウントされないのかもしれない。



2018年7月16日(月)

「◯◯ー」
「お」
湯上がりで髪を乾かしたばかりのうにゅほが、俺の座っているパソコンチェアをくるりと反転させる。
そして、
「うへー……」
いそいそと俺の膝に腰掛け、チェアの向きを元に戻した。
シャンプーの芳しい香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「ね、あのゲームやらないの?」
「ホロウナイト?」
「うん」
「好きだなあ」
「かわいい」
「まあ、可愛いけど……」
ホロウナイトは、最近俺がハマっている2Dアクションゲームである。
デフォルメされたムシたちの住む広大な地下迷宮を冒険するという内容なのだが、難易度はなかなか骨太だ。
「じゃあ、すこしやるか」
「やた」
「コントローラー取って」
「はーい」
うにゅほを抱き締めるようにしてコントローラーを握り、Steamからホロウナイトを起動する。
「昨日、どこまで行ったっけ」
「なんか、でんしゃみたいののった」
「トラムか」
「とらむ」
しばし"古代の穴"を探索し、貯まったお金を消費するために街へ戻る。
「あ、そうだ」
「?」
「××も、ちょっとだけ操作してみるか?」
「いいよー……」
「敵のいないとこだから」
「……うと、ちょっとだけ」
うにゅほがコントローラーを受け取る。
最初こそ遠慮していたものの、実際に操作してみると、けっこう夢中になっているようだった。
「よし、敵のいるとこ行ってみるか」
「やだ……」
それは嫌らしい。
難易度が低くて可愛らしいゲームでも見繕っておこうかなあ。



2018年7月17日(火)

うにゅほを膝に乗せてホロウナイトをプレイしていると、全身が徐々に汗ばんできた。
「……暑くない?」
「あつい……」
チェアを滑らせ、温湿度計を覗き込む。
「──あれ、26℃しかない」
意外だ。
30℃までは行かなくとも、29℃は確実にあると踏んでいたのだが。
「◯◯、ゲームすると、あつくなる」
「そんなに熱くなるほうじゃないと思うけど……」
対戦ゲームじゃあるまいし。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「◯◯、いま、あつくなってる」
「いま?」
「うん」
ぺた。
うにゅほが俺の腕に触れる。
「あつい」
「……熱いって、物理的に?」
「うん」
なるほど、そういう意味か。
「そんなに熱いですか」
「せなかとおしり、あせかいてきた」
「それは単にくっついているからでは……」
「それもある」
「夏場だから仕方ないよな」
「うん、しかたない」
くっつかないという選択肢は、うにゅほの中にはないらしい。
べつにいいけど。
「たいおんけいもってくる?」
「いや、そこまでは……」
「ななどはあるとおもう」
「それ、風邪じゃない?」
「かぜのにおいしないから、かぜじゃないよ」
「そっか」
うにゅほが言うなら、そうなのだろう。
こと俺の体調に関して、うにゅほの判断が外れたことはない。
「いったん休憩するか」
「うん」
エアコンをつける室温ではないので、数日前に出したばかりの扇風機でしばし涼を取った。
扇風機も悪くないものだ。



2018年7月18日(水)

「……んー?」
マウスを握りながら、首をひねる。
「どしたの?」
「なんか、PCの挙動が重い」
「おもいの」
「重いの」
タスクマネージャーを開くと、RAMの使用率が普段より高めだった。
「再起動するかな」
「さいきどうするの」
「するの」
そう言えば、ここしばらくPCの再起動をした覚えがない。
常駐ソフトで起動日時を調べてみると、
「──……うわ」
思わず引き攣った声が漏れた。
「どしたの?」
「いや、なんでもない」
「なんでもないの」
「なんでもないの」
「うそだー」
「の、はいいのか?」
「いいの」
続けてるじゃん。
「……本当に大したことないんだよ」
「どんなこと?」
「PCを起動したのが先月の21日で、一ヶ月弱もつけっぱなしだったんだなーって」
「そなんだ」
「──…………」
「──……」
「ほら」
PC関連の話は、うにゅほに言っても通じないからなあ。
「でも、うわっていわれたら、きになる」
「まあ、そうか」
「そうなの」
「続けるの?」
「つづけるの」
「意味は?」
「ないの」
だろうなあ。
しばしのあいだ、うにゅほと言葉遊びに興じるのだった。



2018年7月19日(木)

「あ、桃だ」
昼食後、ふと覗いた仏壇に、桃がふたつ供えられていた。
「もも、かわむく?」
「いや……」
俺は、フルーツのたぐいがあまり好きではない。
そのことを熟知しているうにゅほが、やっぱりという顔をする。
「なんかさ」
「?」
「桃を見たとき、何かを思い出しかけた気がする……」
「なんだろ」
「うーん」
しばしのあいだ、首をひねる。
「××、桃に関して思い当たることとかある?」
「わたし?」
「たいてい一緒にいるんだから、××も経験した何かかもしれない」
「もも、もも……」
うにゅほが大きく首をかしげ、
「◯◯、わたしのこと、ももっぽいっていってたきーする」
「あー」
言った気がする。
「果物に喩えると、桃だな。××は」
「なんでだろ」
「たまに桃みたいな匂いするから、とか」
「におい……」
うにゅほが、自分の手首を鼻先に当てる。
「しないとおもう」
「全身から絶えず桃の匂いがしてたら、天人か何かだろ」
「てんにん?」
うにゅほが小首をかしげる。
「まあ、今回はその件とは──」
そう言いかけたとき、ふと脳裏に形作られた映像があった。
「……焼き桃だ」
「やきもも」
「今朝見た夢で、焼いた桃が出てきた。それだ」
「やきももって、あるの?」
「さあ……」
調理法として存在はしていそうだが、美味いのか不味いのかまったく想像がつかない。
「もも、やいてみる?」
「いや……」
うにゅほが、やっぱりという顔をする。
「大したことじゃないと思ってたけど、思った以上に大したことなかったな」
「どんなゆめだったの?」
「たしか、桃がロウソクの火で炙られて──」
今日も平和な一日だった。



2018年7月20日(金)

「あぢー……」
ぐでえ。
なかばとろけながら、パソコンチェアの肘掛けにもたれかかる。
「むしむしするう……」
「扇風機先輩だけじゃ、ちょっと力不足かな……」
「──…………」
うにゅほが、エアコンの設置してある壁を物欲しげに見つめる。
「……つけますか」
「はい」
こんな蒸し風呂状態じゃ、夏の暑さを楽しむどころではない。
枕元のリモコンを手に、うにゅほがこちらを振り返る。
「じょしつ、する?」
「除湿もしたいけど、そもそも室温が30℃あるからな……」
「そだねえ」
「冷房にしましょう」
「せっていおんど、なんど?」
「27℃かな」
「わかった」
ぴ。
リモコンの電子音と共に、室内機が駆動を始める。
「──さてと」
扇風機を持ち上げ、数メートルほど移動させる。
「どしたの?」
「サーキュレーター代わりに使えないかと思って」
「さーきゅれーたー」
「まっすぐ風が出る扇風機みたいなやつ」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「それ、せんぷうき……」
「用途が違う」
「ようとが」
「扇風機は人に当てて涼を取るけど、サーキュレーターは部屋の空気を循環させるのに使う」
「あ、エアコンのかぜ」
「そうそう。冷たい空気を拡散して、冷却効率を上げるわけだ」
「へえー」
「扇風機の風じゃ弱い気もするけど、まあ、やらないよりましかなって」
「やってみましょう」
「そうしましょう」
やってみた。
「涼しい……」
「ふぶふぃー……」
快適空間と化した部屋で、ふたりだらだらと時を過ごす。
冷却効率とかはよくわからなかったです。



2018年7月21日(土)

「ふー……」
扇風機の風に当たりながら、口を開く。
「日が暮れて、涼しくなってきたな。これならエアコンなしでも大丈夫そうだ」
「うん、すずしい」
「昼間は暑かったけどなー」
「ねー」
本州では40℃近い猛暑と聞くから、それに比べれば随分ましなのだろうけど。
「今日はまだ、風があるから──」
そう言って、窓へと視線を投げたときのことだ。

──ザッ!

窓の外の光景が、一瞬で、雨滴に塗り潰される。
風が入るということは──
「××! 窓閉めるぞ!」
「はい!」
自室の窓を閉めたあと、廊下、トイレ、階段の窓を順にチェックしていく。
「……よし、なんとか濡れずに済んだな」
「あぶなかった……」
自室に戻り、再び扇風機の風を浴びる。
「──…………」
「──……」
隣のうにゅほと視線を交わす。
暑い。
扇風機ではどうにもならないくらい、暑い。
「今年、ほんと蒸すなあ……」
「むしむしする」
「さっぱり晴れないし」
「うん……」
「たぶん、本州の高気圧に押し出されて、雨雲がこっち来てるんだろうな」
「よんじゅうどもやだけど、むしむしするのもやだねえ……」
「ほんとな」
北海道にとっても厳しい夏となりそうだ。



2018年7月22日(日)

「◯◯、◯◯」
「んー?」
涼しい自室でくつろいでいると、乾いた洗濯物を手にうにゅほが戻ってきた。
「ここ、じんべのおしりんとこ、やぶけてる……」
「あー」
本当だ。
尻のあたりの縫い目がほつれ、見事にぱっくり開いていた。
「めんどくさいけど、繕っとくか……」
最寄りのコンビニ程度なら甚平のまま行くのだし、これではさすがにみっともない。
デスクの引き出しから、ソーイングセットを取り出す。
「ね」
うにゅほが、自分を指差して言った。
「わたし、やっていい?」
「やってくれるなら嬉しいなあ」
めんどいし。
「やります!」
「では、お願いします」
「はい」
うにゅほにソーイングセットを手渡す。
「やり方、わかる?」
「たぶん……」
ボタン付けはできたはずだが、繕い物はどうだったろう。
「××、針に糸通しといて。俺は、ほつれた糸を切っとくから」
「うん」
繕い物の邪魔になる糸束を糸切りバサミでザクザク切り落としていると、
「あれ、いととおしない……」
「あっ」
思い出した。
iPhone用のケースにストラップの紐を通そうとして、壊してしまったままだった。※1
「……糸通しなしで、針に糸通せる?」
「やってみる」
俺、苦手なんだよなあ。
「できた!」
「はや」
うにゅほは、基本的に小器用である。
「じゃあ、言うとおりに縫っていってな」
「はい」
「まず、縫い目を合わせて、待ち針で──」

しばしして、
「──できたー!」
うにゅほが、甚平の下衣を頭上に掲げた。
少々不格好ではあるものの、破れ目はしっかりと縫い合わされている。
「うん、綺麗にできたな。ありがとう」
うにゅほの頭を撫でてやる。
「うへえー……」
満足げだ。
「今度破れたら、また頼もうかな」
「おまかせください」
「お任せします」
「うん!」
うにゅほの家事スキルが、どんどん育っていく。
末恐ろしい。

※1 2017年4月10日(月)参照



2018年7月23日(月)

「××さん」
「?」
「お願いがあります」
「なにー?」
「今日は、これを穿いてくださいませんか」
うにゅほに、恭しく、あるものを差し出す。
「ホットパンツだ」
「ホットパンツです」
「いいよ!」
「ありがたき幸せ」
「はくのいいけど、どしたの?」
「今年、まだ、穿いてなかったじゃないですか」
「うん」
「──…………」
「──……」
「俺、××のホットパンツ姿、好きなんだ……」
「……うへー」
うにゅほが、自分のほっぺたを両手で包む。
照れているらしい。
「じゃあ、きがえるね」
「お願いします」

数分後、
「はきました」
「おお……」
すらりとした細い足が、ホットパンツの裾から伸びている。
「にあう?」
「たいへん似合います」
「うへー」
「××さん」
「?」
「重ねてお願いがあります」
「なにー?」
「そのまま膝枕をしてほしいのですが……」
「ひざまくら」
「膝枕です」
「いいよ!」
「ありがたき幸せ……」
このノリで頼んだら、なんでもしてくれそうで怖い。
うにゅほの生足膝枕は、極楽浄土浄穢不二でした。
満足。



2018年7月24日(火)

「◯◯、◯◯」
「んー?」
「あまぞん、なんかきたよ」
うにゅほからメール便の包みを受け取る。
「なんだろ」
何か頼んでたっけ。
「ほんかな」
「サイズ的にはそれっぽいけど……」
まあ、開ければわかるか。
「──開封!」
すると、
「はさみ……?」
それは、チタンコーティングのハサミだった。
「あー、思い出した思い出した。プライムデーのときに買ったんだ」
「ぷらいむでー」
「Amazonの、なんかいろいろ安い日」
「そなんだ」
「前のハサミ、無理に鉄切ろうとしてボロボロになっちゃったから」
「がたがただもんねえ」
我が事ながら、何をしているんだか。
「あたらしいはさみ、しゅってしてかっこいいね」
「チタンコーティングだから、刃も黒いしな」
「ちたんて、くろいの?」
「わからんけど、黒いイメージがある」
「なんかきってみよう」
「鉄?」
「ちたん、てつきれる?」
「チタン以前に紙用だから、無理だと思う」
「まえのはさみ、かみようじゃなかったの?」
「紙以外にもいろいろ切れるって触れ込みではあった」
「てつは、だめだったんだね」
「鉄だからなあ……」
「じゃあ、かみきってみる?」
「柔らかくて意外と切りにくいティッシュで試してみよう」
ティッシュを手に取り、刃を入れる。
スパッ!
「きれた!」
「おー、これはなかなか」
「ちたん、すごいね!」
「チタンだからな」
うにゅほの、チタンへの信頼度が3上がった!
上がったところで何がどうなるのかは、よくわからないが。



2018年7月25日(水)

「××さん、××さん」
「?」
今週のジャンプを最初から読み直していたうにゅほが、顔を上げる。
「さて、今日は何の日でしょう!」
「あ、なんのひしりーずだ」
「はい」
「にっき、かくことないんだ」
「はい……」
図星である。
「でも、7月25日の語呂合わせは、ちょっと当たらないと思う」
「むりあるの?」
「無理があるというか……」
「こたえ!」
「かき氷の日、だって」
「かきごおり……」
「はい」
「かーも、きーも、ないきーする」
「かき氷って、昔、夏氷って名前だったんだってさ」
「なな、つー、ごー?」
「そうそう」
「これ、わかんないねえ……」
「だろ」
「ほか、なんのひ?」
「えーと、最高気温記念日ってのがある」
「さいこうきおん」
「1933年7月25日に山形県山形市で、最高気温40.8℃を記録──だって」
「あれ?」
うにゅほが小首をかしげる。
「どした」
「こないだ、どっかで、よんじゅういちどいってたきーする……」
「そういえば」
調べてみると、7月23日に、埼玉県熊谷市で41.1℃を記録していた。
「さいこうきおんきねんび、かわるのかなあ」
「2007年に40.9℃出てるけど記念日は変わってないから、たぶんそのままじゃないかな」
「そか」
今年の猛暑は災害レベルなのだと、どこかで耳にした覚えがある。
読者諸兄も熱中症には重々気をつけるように。



2018年7月26日(木)

一仕事終えて自室へ戻ると、網戸の汚れが気になった。
「なんだ、この白いの……」
「ひ」
うにゅほが引き攣った声を上げる。
「どした?」
うにゅほの視線を辿ると、
「……ワーオ」
大きめの蜘蛛が、立派な巣を張っていた。
「さっきまでなかったのに」
「どうしよう……」
「あんまり触りたくないなあ……」
「でも、まどあけれない」
「うん……」
大きさからして網戸を抜けてくることはないと思うが、あまり気分の良いものでもない。
「きんちょーる、する?」
「キンチョールで死ぬかなあ」
「いつかは……」
「まあ、放置するわけにもいかないし、噴霧してみるか」
「うん」
「では、キンチョールを持てい!」
「はーい」
とてとてと廊下に出たうにゅほが、キンチョールを手に戻ってくる。
「せんせい、おねがいします」
「うむ」
窓を開き、網戸越しに照準を合わせる。
「ファイア!」
ぷしゅー。
「しぬかな」
ぷしゅー。
「あ、ばたばたしてる」
ぷしゅー。
「うえにげてく……」
「屋根の上まで行ったみたいだな」
「しんだかな」
「わからん、けど──」
「けど?」
「……いずれにしても、この巣は撤去しないとなあ」
「うん……」
よりにもよって、随分と豪奢な巣を張ってくれたものだ。
面倒だ。
巣の撤去は、明日の自分に丸投げすることにしよう。



2018年7月27日(金)

「はー……」
ごろんごろん。
「今日は涼しいなあ……」
「ねー」
「どうしてこんなに涼しいのかな」
「エアコンつけてるから」
「真夏日だからな……」
「うん……」
外の気温は31℃。
おまけに無風ときたものだ。
「あのさ」
「?」
「俺たち、一昨年までエアコンなしで過ごしてきたはずだよな」
「うん」
「……正直、信じられない気分」
「わかる……」
毎年、どうやって夏を乗り切ってきたんだっけ。
「──…………」
「──……」
「エアコン、切ってみる?」
「ちょっとだけ……」
ぴ。
エアコンが、稼働を止める。
「──…………」
「──……」
じりじり。
「……暑くなってきた」
「うん……」
「窓開けるか」
「あけましょう」
がらがら。
むわっ!
「うッ」
嫌というほど熱された空気が、冷えた空気を押し出しにかかる。
「──…………」
がらがら、ぴしゃっ!
ぴ。
ごー……。
「今日は涼しいなあ……」
「ねー」
なかったことにした。



2018年7月28日(土)

休日である。
休むのである。
「ふひー……」
ベッドの上でごろごろしていたうにゅほが、呟くように口を開いた。
「きょう、かぜつよくていいねえ……」
「陽射しは強いけど、これなら我慢できるな」
「うん」
両親の寝室から入り込んだ風が、廊下を吹き渡り、俺たちの部屋の窓から抜け出ていく。
エアコンとはまた違う、自然の涼しさだ。
「ちょっとだけ贅沢言うなら、風が強すぎるかなあ……」
「そかな」
「なんか、どっかギシギシ言って──」

──ガタン!

「わ」
両親の寝室から物音が響いた。
慌てて行ってみると、寝室の網戸が外れていた。
カーテンのはためきが網戸を揺らし、やがて立て付けが限界を迎えたのだろう。
「……柵がなかったら、下に落ちてたな」
「あぶない……」
網戸を直しながら、家の前の公園を見下ろす。
「そう言えば、明日は夏祭りだっけ」
「うん」
町内会の人々が、公園の中心にやぐらを立てている。
「××、明日は浴衣着る?」
「んー」
「着ない?」
「わかんない」
「着て」
「きる」
即答である。
「おかあさんに、ゆかた、だしてもらわないと」
「楽しみだなあ」
「うへー……」
明日、晴れるといいのだが。



2018年7月29日(日)

「♪」
浴衣に合わせて髪をまとめたうにゅほが、俺の前でくるりと回ってみせた。
「にあう?」
「ブラーヴォー……!」
ぱちぱちと大仰に拍手を送る。
なかば照れ隠しだ。
「うへー」
うにゅほがてれりと目を伏せる。
可愛い。
「さ、年に一度の夏祭りだ。行こう」
「うん!」
差し出した手を、うにゅほが握る。
恋人同士に見えるだろうか。
「……まあ、所詮は町内会の祭りだから、出店も大したものはないんだけどさ」
「うーと、やきとりでしょ」
「焼きそば」
「くじもある」
「あとで引いてみようか」
「うん」
「おでん」
「うどん」
「オディロン・ルドン」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、なんでもない」
そんな会話を交わしながら、家の前の公園へ繰り出した。
晴れたはいいが、死ぬほど暑い。
買ったばかりのかき氷が溶けてしまう前に、エアコンのきいた自室へと駆け戻る。
「すぶふぃー……」
「文明の利器、万歳……」
「ねー」
「かき氷食べるか」
「うん」
自分の部屋に浴衣姿の女の子がいるのって、なんだか非日常感があって胸が躍る。
「××、舌、べーしてみ」
「れー」
言われるがまま、うにゅほが舌を出す。
「メロン味なのに、緑色になってないなあ……」
「◯◯は?」
「べー」
「あおくなってない」
最近の着色料は、舌に色が残らないのだろうか。
「──…………」
「──……」
かき氷を食べたあとは、ふたり寄り添い、祭りの喧騒を遠くから楽しんだ。
夏が、半分終わってしまった。
もう半分も、一緒に過ごすのだ。



2018年7月30日(月)

「──…………」
うと、うと。
マウスを握ったまま船を漕ぐ。
「えい」
ぺし。
「んが」
頭頂部への一撃で目を覚ました。
「ねるならねるで、ちゃんとねましょう」
「はい……」
ふらふらとベッドへ向かう。
「……◯◯、ぐあいわるい?」
「具合が悪いというか、ただただ眠くてだるい……」
「んー」
ぎゅ。
うにゅほが俺に抱き着き、胸元に鼻を埋める。
「どう?」
「あせくさい」
「それは、まあ、仕方ない」
「かぜのにおい、しないねえ」
「しないか」
「うん」
うにゅほ曰く、風邪を引いたときは「かぜのにおい」がするらしい。
「じゃあ、夏バテかもしれないなあ……」
「なつばて」
「今日も真夏日だっけ」
「うん」
「自律神経おかしくなりますよ……」
ばふ。
ベッドに倒れ込む。
「せめて、蒸し暑くさえなければなあ……」
「エアコン、じょしつにする?」
「うん」
冷房では冷えすぎる。
だから、こんなにもだるいのかもしれない。
「じゃあ、仕事来たら起こして……」
「はーい」
やりたいことも、やらなければならないことも、たくさんある。
もどかしさを感じながら惰眠を貪る一日だった。



2018年7月31日(火)

「──……ひいッ、ふ、ひ……」
ホームセンターで購入したペプシのダンボール箱を玄関に積み上げていく。
本日の最高気温、33℃。
一歩ごとに汗が吹き出る。
くらくらとめまいがする。
買いに行くのが面倒だからって、三箱も一気に買うんじゃなかった。
「◯◯、だいじょぶ……?」
「大丈夫……」
ぜんぜん大丈夫じゃない口調で答え、最後の一箱から手を離す。
「ほら、家のなかに入れば、陽射しが──」
陽射しはない。
だが、異常なほど蒸し暑かった。
「──…………」
「……だいじょぶ?」
「××さん」
「はい」
「部屋のエアコンつけてきて」
「わかった!」
うにゅほが階段を駆け上がっていく。
嗚呼。
この暑さのなか、単純計算で12kgはあるダンボール箱を抱えて、階段を三往復しなければならないのか。
しかし、玄関に捨て置くわけにも行かない。
全身に汗を滲ませながら、すべてのダンボール箱を自室へ運び込む。
「──……ッ、はー……!」
「おつかれさま……」
ぼすんとベッドに倒れ込むと、うにゅほが背中を撫でてくれた。
「ペプシ飲みたい……」
「ひえたの、あったっけ」
「……ない」
無くなったから買いに出たのだ。
「みずじゃだめ?」
「水でもいい……」
「じゃあ、こおりいれて、もってくるね」
「お願いします……」
次買うときは、二箱までにしよう。
俺は、そう誓うのだった。

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