2018年6月1日(金)
父親を居酒屋へ送った帰り道、我が家の近くでのことである。
「あ、いえつくってる」
助手席のうにゅほが窓の外を指差した。
「本当だ」
「さいきん、こうじおおいねえ」
「空き地がどんどんなくなってくな」
「うん」
「ここ、札幌のベッドタウンだからな。需要が多いんだろ」
「……なんか、ちょっとさみしいね」
「桜、切られたしなあ」
「うん……」
かつて、家の近くには、誰のものとも知れない小さな庭園があった。
その庭園には桜が植えられており、春が来るたびに俺たちの目を楽しませてくれたものだった。
「……まあ、仕方ない。管理にもお金かかるだろうし」
「そだね……」
「俺が子供のころは、もっと空き地多かったんだぞ」
「そなの?」
「空き地というより、飛び石だな。むしろ家のほうが少なかった」
「えー!」
うにゅほが目をまるくする。
「なにしろ、家から中学校見えたからな」
「……ほんと?」
疑いの眼差し。
「嘘だと思う?」
「ほんとだとおもう、けど……」
頭ではわかっていても、にわかには信じがたいらしい。
「じゃあ、もっとびっくりすること教えてあげよう」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「家の前、砂利道だった」
「うそ!」
「本当」
「ほんと……」
ぐわん、ぐわん。
うにゅほの頭が、左右に振れる。
想像力のキャパシティをオーバーしたらしい。
今度、俺が子供のころの写真を見せてあげよう。
きっと目を輝かせてくれるはずだ。
2018年6月2日(土)
「──ら゙ッ!」
半分寝ながら朝食のバナナを食べていたところ、頬の内側を思いきり噛んでしまった。
「いひー……」
「◯◯、だいじょぶ? ちーでてない?」
人差し指で、傷口に触れる。
「血は、れてない……」
「きーつけないとね」
「はい……」
情けないことこの上ないが、おかげで目が覚めた。
「口のなかって、薬塗れないのが嫌だよな」
「いそじんは?」
「ああ、イソジンがあったか。塗り薬というよりオキシドールに近いと思うけど」
「おきしどーる?」
「傷口にぶっかけて消毒するやつ」
「いたそう……」
「わりと痛い」
ここ十年は確実に使っていないから、実のところ、あまり覚えていないのだけれど。
「擦り傷切り傷打撲に捻挫、気をつけないとな。転んだりしたら一大事だ」
「おきしどーる、かける?」
「血が出たら、かける」
「うひい……」
まだ見ぬオキシドールに怯えるうにゅほを微笑ましく眺めながら、残りのバナナを口へ放り込む。
二、三度咀嚼したところ、
「──だッ!?」
今度は舌先を噛んでしまった。
「◯◯!」
「──…………」
「ちーでてない?」
「たぶん、らいりょぶ……」
「……きーつけてね?」
「はい……」
意識は冴えても、体はまだ目覚めていないらしい。
起床してすぐ朝食をとるの、やめようかな。
2018年6月3日(日)
「──あ、むしだ」
「どれ?」
「うーとね、とけいんとこ」
うにゅほが天井付近を指差す。
「……本当だ」
天井に近い壁の隅を、目を凝らさねば気づかないほどの大きさの羽虫が飛んでいた。
「ちっさ」
「ちいちゃいね」
「あのサイズだと、網戸意味ないな」
「そだねえ」
俺は、虫が嫌いだ。
うにゅほも同様だろう。
だが、体長1mm程度の小虫まで駆逐するほど潔癖というわけでもない。
「ころす?」
「うーん」
羽虫は、PCデスクの設置された壁際にいる。
指で潰そうにも、デスクに上がらねば届くまい。
「めんどい、けど」
「けど?」
「……あれ、成長したらでかくなるやつかな」
大きくなられると、困る。
「わかんないねえ……」
「この距離だと、虫博士でもわからないかも」
「ころす?」
「殺しとくか……」
「きーつけてね」
「ああ」
階段をのぼる要領で、チェアの座面からL字デスクに足を掛ける。
ぎし。
デスクが悲鳴を上げた。
「!」
「……俺の体重だと、ヤバそう」
「わたしのる?」
「うーん……」
「あ、きんちょーる!」
「あー」
それがあったか。
「でかした」
「うへー」
「では、キンチョールを持てい」
「はい!」
キンチョールによる遠距離攻撃で、悪は滅びた。
だが、第二第三の以下略。
2018年6月4日(月)
「──あ、むし」
「どれ?」
「ほんだなんとこ」
「本当だ」
既視感のあるやり取りののち、体長1mm程度の羽虫を手のひらで潰す。
「このサイズだと、網戸すり抜けてくるんだよな」
「うん……」
「なんか方法ないかな」
「んー」
軽く思案し、うにゅほが口を開く。
「あれ、どこやったっけ」
「あれ?」
「あみどにしゅーするやつ」
「あ、虫コナーズか」
「うん」
完全に忘れていた。
「でかしたぞ」
「うへー」
うにゅほの頭を撫でくりまわす。
「しかし、××でも場所がわからないのか。どこやったっけ」
「へやにはないとおもう……」
「えーと、最後に使ったのは──」
いつだったろう。
「きょねん?」
「去年は間違いない」
「うーん」
しばし、記憶を掘り起こす。
「……アリ対策のために、仕事部屋で使った、ような」
「あ、つかったきーする」
「仕事部屋、行ってみるか」
「うん」
一階の仕事部屋へ赴くと、虫コナーズのスプレー缶が部屋の隅に堂々と置いてあった。
「こんなところに……」
「毎日見てるのに、記憶に残らないもんだな……」
やっと見つけた虫コナーズの缶は、ものの見事に空だった。
新しいものを買ってこなければ。
2018年6月5日(火)
「──◯◯! ◯◯!」
「んお」
チェアの上でうつらうつらしていたところ、うにゅほが自室に駆け込んできた。
「ありいた!」
「!」
一瞬で目が冴える。
「……仕事部屋か?」
「かだんとこ!」
「わかった」
未開封のアリメツを手に、階段を駆け下りる。
まだ間に合う。
屋内へ侵入される前にすべてを終わらせるのだ。
「はなにみずやってたらね、ありいたの」
うにゅほに案内され、花壇へ向かう。
「ここ……」
指し示された場所に、目を凝らす。
いた。
体長3mm程度の吸蜜性のアリが四匹、列をなしている。
「××、追うぞ」
「うん」
追跡は、ほんの数秒で終わった。
「──…………」
「──……」
ぞわり。
背筋を悪寒が走る。
アリが向かい、消えていったのは、経年劣化でひび割れた家の基礎。
「……もう、入り込んでる」
「うん……」
アリは既に、屋内への侵入を果たしている。
表面化していないだけなのだ。
「どうしよう……」
「とにかく、アリメツだ。出てくる前に全滅させる」
専用容器にアリメツを垂らし、アリの通り道に設置する。
「あり、しぬかな」
「死んでほしい」
「しんでほしいね……」
生き物の死をこれほど強く願うのは、初めてのことかもしれない。
頼む、死んでくれ。
苦しまなくていい。
速やかに死んで、二度と目の前に現れないでくれ。
2018年6月6日(水)
「あつ……」
ぐでー。
「はちいねえ……」
ぐでー。
本日の札幌、最高気温は29℃。
30℃の大台まであと一歩である。
「暑いし、バイクでどっか行くか……」
「いく!」
フローリングの床でとろけていたうにゅほが、人の形を取り戻す。
「どこいくの?」
「まあ、ゲーセン巡りでいいだろ」
「おー」
「待ってて、いまコンタクト入れる」
「◯◯、バイクのるとき、ぜったいコンタクトするね」
「眼鏡のままだと、つるが歪むんだよ。ヘルメットかぶるから」
「あー」
うんうんと頷くうにゅほを横目に、箱からコンタクトレンズを取り出す。
そして、
「──…………」
そのまましばし動作を停止した。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「××」
「はい」
「どっちが右で、どっちが左だっけ」
「え、しらない……」
ですよね。
「わすれちゃったの?」
「ど忘れしたみたい」
片方は近視のみ。
もう片方は、乱視入り。
「よし、勘で入れよう」
「かんで」
「見え方がおかしければ、交換すればいいんだし」
「そだね」
乱視用のコンタクトレンズを左に、近視用のコンタクトレンズを右に装着する。
「んー……」
「みえかた、へん?」
「たぶん、合ってると思う……」
「たぶん?」
「違和感ないし、大丈夫かな。たぶん」
「たぶん……」
そのままバイクで出掛けたが、見え方に問題はなかった。
コンタクトレンズの箱に、左右をしっかりと記載しておこう。
2018年6月7日(木)
「──…………」
液晶タブレットの放つ僅かな熱が、ペンを握る右手を汗ばませていく。
「……ふう」
切りの良いところまで描いて顔を上げると、あっという間に三時間が経過していた。
「腰いてえー」
「◯◯、がんばりすぎ……」
「なんか、筆が乗っちゃって」
「いま、なんにんめ?」
「六人目かな」
「うーと」
うにゅほが指折り数えていく。
「ゆかりさん、まきさん、あかねちゃん、あおいちゃん、とうほくずんこ」
何故ずん子だけフルネーム。
「で、いまはきりたん描いてる」
「だれまでかくの?」
「ひとまず、きりたんで終わりかな。ボイロ実況でよく見る面々って、これくらいだし」
「あたらしいこ、いたきーする」
「……あー、名前なんだっけ」
たしか、大物VTuberの名前を掛け合わせたような──
「そう、紲星あかりだ」
「そのこ」
「嫌いじゃないけど、まだキャラがあんまり確立してないからな。描きにくい」
「そなんだ……」
「きりたん仕上げて、まだやる気が残ってたらかな」
「そか」
チェアから腰を上げ、凝り固まった筋をほぐしていく。
「──あ、そうだ。××、これ知ってるか」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「Softbankにペッパーくんってロボットいるじゃん。微妙にキモいやつ」
「うん、いる」
「あれ、弦巻マキと同じ声」
「!」
うにゅほが目をまるくする。
「YouTubeで、ペッパーくんの声聞いてみる?」
「ききたい!」
うにゅほを膝に乗せ、そのまま流れで一時間ほど休憩した。
最近、空き時間のほとんどを絵に費やしている気がする。
2018年6月8日(金)
「あー、めー、だー……」
「雨だな」
「さむい」
「寒いな」
「まどあけていい?」
「寒いのに?」
「ちょっとだけ」
「いいよ」
「やた」
うにゅほが、南東側の窓をほんの少しだけ開く。
「空気の入れ換え?」
「うん」
「雨が入ってきそうにないなら、全開にしちゃっていいぞ」
「わかった」
がらがら。
滞留していた部屋の空気に、冷たい外気が混ざっていく。
「はー……」
「ふいー……」
ふたり揃って、深呼吸。
「雨の日の空気って、なんかいいよな」
「うん、すき」
「風向きによっては雨がじゃんじゃか入るけど」
「まど、ふたつあって、よかったね」
「南東と南西だから、南風だとどっちからも入るけどな」
「たまにある……」
「そのときは諦めよう」
「うん」
「しかし、あれだな」
「?」
「開けっ放しに慣れ過ぎたせいか、すぐに空気が澱む気がするな」
「そうなの」
うんうんと頷きながら、うにゅほが続ける。
「なんか、いきぐるしいきーする」
「冬のあいだなんて、軽く数ヶ月は窓開けられないのに」
「ふしぎ」
「寒くてそれどころじゃないからかな」
「そうかも……」
今年の夏は、暑くなるだろうか。
楽しみなような、怖いような。
2018年6月9日(土)
「──…………」
「──……」
中腰になりながら、花壇の周囲をぐるりと回る。
「いた?」
「──…………」
うにゅほが無言で首を横に振る。
「そっち、いた?」
「いや、見当たらない」
アリの通り道を割り出し、大量のアリメツを設置したのが四日前のことだ。※1
「仕掛けた次の日は、いたよな」
「うん、いた」
「一昨日は?」
「おとといから、みてない」
「そうか」
「あり、しんだかな」
「ある程度は死んだと思うけど、全滅はどうだろう。あいつら、しぶといし……」
ぶるり。
吹きすさぶ寒風に、思わず身を震わせる。
「……それに、今日クソ寒いからな。巣から出てきてないだけかも」
「いえ、はいる?」
「入ろう。甚平にはまだ早かった」
「そだねえ」
花壇を離れ、玄関の扉を開く。
「今日の最高気温、たしか14℃だってさ」
「えー……」
「こないだ30℃だったのにな……」
「はんぶんいかだね」
「半分以下?」
「きおん」
「あー……」
「?」
俺の反応に、うにゅほが小首をかしげる。
氷点を0℃と定義したセルシウス度において、数値の乗除を語るのはナンセンスだ──などと、うにゅほに言っても仕方ない。
「……なんでもない」
「ほんと?」
「本当、本当」
「ほんとかなあ……」
鋭い。
ともあれ、アリに関してはまだ油断できない。
観察は適宜続けていこう。
※1 2018年6月5日(火)参照
2018年6月10日(日)
今日は、母方の祖母の一周忌法要だった。
少々腹回りのきつくなった喪服に袖を通し、小一時間ほどかけて霊園へ向かうと、親戚連中が既に揃っていた。
仲の良い従弟と談笑していたところ、
「──……◯◯、◯◯」
「?」
意外と喪服の似合ううにゅほが、小さく俺の袖を引いた。
「どした」
「こっちきて……」
「あ、うん」
不思議そうな従弟に軽く頭を下げ、そのままうにゅほに連れられていく。
車の陰に隠れたころ、うにゅほが口を開いた。
「チャックあいてる……」
「──…………」
無言で股間に手を伸ばす。
全開だった。
「……××、ありがとう」
「うん」
人前で指摘しないあたり、できた子である。
法要を終え、会食を済まし、午後三時ごろ帰宅の途についた。
車内で、笑いながら母親が言った。
「お父さん、さっき、チャック全開でねー」
「そんなもん、わざわざ言わんでもいいべや……」
「──…………」
「──……」
思わず、うにゅほと顔を見合わせる。
「……親子だな」
「おやこだね……」
妙なところばかり似る。
「なに、もしかして、◯◯もチャック開いてたの?」
「開いてました……」
「親子だねえ」
「ほんとだね」
今度から、喪服を着るときは気をつけようと思った。
2018年6月11日(月)
「うぐぐ……」
自分の左肩に手を置き、乱暴に揉みしだく。
肩凝りなのか、なんなのか、肩がすこぶる痛かった。
「◯◯……」
うにゅほが心配そうに口を開く。
「そんなにつよくしたら、もっといたくしちゃう」
「そうなんだけど……」
だが、じっとしていられないのだ。
「わたし、かたもむね」
「……頼んだ」
うにゅほの小さな手のひらが、俺の肩にそっと添えられる。
もみ、もみ。
「かた!」
「肩だけに……」
「?」
「なんでもない」
もみ、もみ。
「こってますねえ……」
「たまにあるんだよな。普段は平気なのに、急に肩が痛み出すの……」
「こころあたり、ないの?」
「ない」
ない、はずだ。
「あれかな。悉無律がどうとか、閾値がこうとか」
「しつむりつ?」
「……えーと」
どう喩えれば、わかりやすいだろう。
「自動販売機があるとする」
「うん」
「130円入れればジュースが買える」
「かえる」
「でも、120円では買えないよな」
「かえないねえ」
「自動販売機に十円玉を一枚一枚入れていくように、俺の肩にも疲労が徐々に蓄積されていたんだと思う」
「あー……」
「それが、今日、ちょうど130円ぶん溜まったんじゃないかなって」
「ジュースでたんだ……」
「そういうこと」
モーラステープを貼ってしばらくすると、痛みは徐々に治まってきた。
疲労が溜まると、ろくなことがない。
定期的なストレッチを心がけようと思った。
2018年6月12日(火)
「◯◯、◯◯」
「んー」
台所で牛乳パックを切っていると、うにゅほが両手を差し出した。
「もなかあった」
「お、食べる食べる」
「ぎゅうにゅう、のむ?」
「飲む飲む」
牛乳パックをサクサク切り終え、遅めのおやつと洒落込むことにした。
「──…………」
むぐむぐ。
最中の皮と甘みの強い餡が、口の中の水分を奪い去っていく。
そこに牛乳を流し込むと、なんとも言えずちょうどよい。
だが、
「なーんか物足りないよな、最中って」
「そかな」
「せめて、餅とか栗とか入っててほしい……」
「あ、それはわかる」
何かないかと周囲を見渡すと、あるものが視界に入ってきた。
電子レンジ。
「温めてみるか」
「え」
「あんまんみたいになるかも」
「そかなあ……」
「ま、物は試しだ。いってみよう、やってみよう」
最中を小皿に乗せ、電子レンジで20秒ほど温める。
すると、
「──あつ!」
最中の餡が、手で持てないくらいに熱されてしまった。
「にじゅうびょう、やりすぎかも……」
「しゃーない」
菜箸を取り出し、最中を掴む。
「そんなにあついの、たべれる?」
「熱かったら牛乳で流し込むから、大丈夫」
「そか」
熱を帯びてしっとりとした最中を、口に運ぶ。
むぐむぐ。
「は……──!」
熱い!
熱い!
熱い!
慌てて牛乳を飲み下す。
その行為が無意味だと悟ったのは、グラスの中身を飲み干したあとだった。
何故なら、過剰に熱された餡は、俺の上顎にぴたりと貼り付いていたのだから。
「◯◯、みず! みず!」
「!」
うにゅほが汲んでくれた水で口内を満たし、ようやく地獄から解放された。
「──…………」
舌で、上顎をつついてみる。
「……皮、剥がれそう……」
「わああ」
悪い意味で、あんまんみたいなことになってしまった。
餡は、不用意に熱するべきではない。
つまり、そういうことさ。
2018年6月13日(水)
「んが……」
上顎が痛い。
その上、なんだか体がだるい。
そのことをうにゅほに伝えると、
「──……んー」
ぎゅ。
すんすん。
正面から俺に抱き着き、胸元で鼻を鳴らし始めた。
「かぜのにおい、すこしする」
「するか……」
うにゅほは、俺の体調を、匂いで判別することができる。
原理こそわからないものの、的中率は非常に高い。
「寒かったり暑かったり、暑かったり寒かったり、そら風邪も引くよなあ……」
「そだねえ」
「××は大丈夫?」
「うん、わたしはだいじょぶ」
「伝染さないように、マスクをしておきましょう」
「おねがいします」
サージカルマスクを装着し、ベッドに横たわる。
「仕事来たら、教えて……」
「わかった」
夏用の布団にくるまり、膝を抱える。
すこし寒い。
羽毛布団を仕舞うべきではなかったかもしれない。
でも、このあいだまで、最高気温が30℃もあったしなあ。
そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にか意識を手放していた。
「──…………」
むくり。
壁掛け時計を確認すると、午後二時過ぎだった。
三時間ほど眠っていたらしい。
「あ、おはよー」
「……おはよう。すこし腹減ったかも」
「ごはんたべる?」
「なんか、つまむ程度でいいや」
「もなかあるけど……」
「──…………」
無意識に嫌な顔をしていたらしく、うにゅほが苦笑混じりに続けた。
「ちがうのさがすね」
「お願いします……」
最中は、しばらく見たくない。
2018年6月14日(木)
明日から五日間、母親が旅行に出掛ける。
そのあいだ、我が家の食卓は、うにゅほの双肩に掛かっていると言っても過言ではない。
「五日分の食材は買ってあるから、お願いね」
「うん」
「◯◯のこと、好きなだけこき使っていいから」
「だいじょぶ」
うにゅほが気楽に頷く。
母親が旅行へ行くのは、当然ながらこれが初めてではない。
うにゅほひとりでも台所を回せるのは、既に証明済みの事実である。
「言ってくれれば、材料切るくらいは手伝うぞ」
「んー」
しばし小首をかしげたのち、うにゅほが答える。
「ゆっくりしてていいよ」
「そっか」
頼もしい。
「◯◯、あした、なにたべたい?」
「……うーん?」
急に言われてもなあ。
おもむろに冷蔵庫を開きながら、母親に尋ねる。
「食材って、なに買ってあんの?」
「とりあえず、カレーかシチューは作れるように、豚肉と野菜。玉ねぎとじゃがいもは野菜庫にあるから」
「うん」
「卵も買ったし、牛乳もあるし、足りなかったら渡したお金で買ってね」
「わかった」
「◯◯、車出してあげなさいね」
「わかってるって」
「残ったぶんはお小遣いにするから、無駄遣いはしないように」
「はーい」
「俺には?」
「なんであんたにお小遣いあげなきゃならないの」
ごもっともである。
「困ったことがあったら、電話しなさいね」
「うん」
「了解」
今回の旅行が、母親にとって良い慰安になりますように。
2018年6月15日(金)
リビングのソファに寝転がり、夕方のニュースを眺めていたときのことだ。
「◯◯! ◯◯!」
ソファ裏手の食卓テーブルで弟と談笑していたうにゅほが、唐突に俺の名を呼んだ。
上体を起こし、そちらを見やる。
「どした」
「(弟)、すごい!」
「?」
弟に視線を送る。
「いや、大してすごくないから」
「すごいよ」
「気になるんですけど……」
弟が居住まいを正し、自分の目を指差す。
「見てて」
「見てる」
「右目で視野を固定して、左目の力を抜くと──」
「!」
右の瞳はまっすぐ前を見つめているのに、左の瞳は顔の端へと逸れていく。
つまるところ、寄り目の逆だ。
「……うわっ」
「そのリアクション傷つくんですけど」
「いや、すごい。すごいけど、写真撮って見せてやろうか?」
「やめとく……」
「お前、斜視だっけ?」
「違うよ。なんか、やってみたらできただけ」
「両目は離せないのか」
「さすがにね」
弟とそんな会話をしていると、うにゅほが口を開いた。
「わたしもできるかなあ……」
「──…………」
「──……」
弟と顔を見合わせる。
「よし、この話はやめよう」
「うん、やめよう」
「?」
小首をかしげるうにゅほの肩を掴む。
「挑戦しないでくれ、頼むから」
「わかった……」
うにゅほのそんな顔は、できれば見たくない。
その点で意見の一致をみた俺たち兄弟なのだった。
2018年6月16日(土)
「◯◯、ばんごはん、なにがいい?」
「あー……」
思案する。
この場合、「なんでもいい」は御法度だ。
「……肉かなあ」
「にく」
「たしか、豚肉あったろ」
「うん、ある」
うにゅほがひとりだけで作れる料理のレパートリーは、実を言うとよくわからない。
たいていの場合、母親と肩を並べて台所に立っているからだ。
「××、豚肉だったら何が得意?」
「うーと、しょうがやきかなあ」
「生姜焼き……」
そう言えば、何度か作ってもらった記憶がある。
「しょうがやき、きらい?」
「好き」
「しょうがやきでいい?」
「お願いします」
「はい、わかりました」
父親も、弟も、生姜焼きは好物の範疇だ。
勝手に決めたが、文句は言うまい。
「生姜焼きの生姜って、チューブでいいんだっけ」
「うん」
「切らしてないかな」
「びちくあるから、だいじょぶとおもう」
「なんか手伝おうか?」
「んー……」
「キャベツの千切りとか」
しばし小首をかしげたのち、うにゅほが答える。
「てつだわなくていいけど、ちかくにいてほしい……」
なるほど。
ひとりでできるけど、ひとりは寂しいらしい。
「じゃあ、食卓でテレビ見てるな」
「うん」
うにゅほ謹製の生姜焼きは、文句なく美味しかった。
明日は何が食べられるかな。
2018年6月17日(日)
父の日である。
今年は、うにゅほと弟と三人で、父親に似合いそうな服を一着ずつプレゼントした。
還暦を過ぎた男性のファッションショーの様子は、割愛する。
「いやー、ありがとうな。大事に着るわ」
父親が笑顔でそう告げる。
「喜んでもらえたなら、よかったよ」
「うん、うん」
去年はネット通販でトレーナーを購入したんだっけ。
このぶんなら、来年以降の父の日も、服を贈れば間違いはなさそうだ。
「よし、ペヤング食うか」
「ペヤング?」
「ぺやんぐ……」
うにゅほと顔を見合わせる。
何故ペヤング。
「名古屋から送ってもらってな」
「ペヤングを?」
「ペヤング、食べたことないべや」
「まあ、うん」
北海道のカップ焼きそば市場において、ペヤングの占めるシェアはゼロに近い。
北海道には、やきそば弁当があるからだ。
「それにしても、わざわざ送ってもらったのか……」
物好きな。
「ぺやんぐ、おいしいかな」
「どうだろ」
「ひとくちたべてみたいかも」
「俺はひとりでひとつ食うから、お前らはふたりで食え」
「何個送ってもらったのさ」
「ダンボール一箱で、十八個あったな」
「そんなに……」
日持ちするものでよかった。
「ふたつ作るから、お前ら待ってろ」
「はーい」
「わかった」
弟は弟で、あとで自分で作るだろう。
初めて食べたペヤングは、思ったよりあっさりめの味付けだった。
悪くはない、悪くはないが、やはり食べ慣れたやきそば弁当のほうが舌に合う。
うにゅほも同じ感想のようだった。
2018年6月18日(月)
「ふー、食った食った……」
「くったー、くったー」
ほどよく膨らんだ腹を撫でながら、自室へ戻る。
「まさか、お好み焼きで来るとは思わなかったなあ」
「おいしかった?」
「美味しかった」
「うへー」
うにゅほがてれりと笑う。
「おこのみやき、たのしいよね」
「わかる」
家族でわいわい言いながら、自分で自分のぶんを焼くのが楽しい。
自分の裁量ですべてを決められるため、食べ過ぎてしまうのが玉に瑕ではあるが。
「あした、なにたべたい?」
「うーん……」
チェアに腰を下ろし、思案する。
「いま、満腹満足状態だからなあ。あんまり食べたいもの思い浮かばない」
「そか……」
「強いて言うなら、アイスが食べたい」
「アイスあるよ」
「おー」
「スーパーカップと、ジャイアントコーンある」
「極楽じゃないか……」
「どっちがいい?」
「今日はチョコな気分」
「じゃあ、わたし、スーパーカップにする」
「ひとくちくれ」
「◯◯も、ひとくちちょうだいね」
「交換だな」
「うん、こうかん」
お好み焼きをたらふく食べて、デザートのアイスに舌鼓を打って、今日はもう何もしたくない。
「あー、こら太るな……」
「えあろばいく、しないの?」
「──…………」
「──……」
「明日、明日乗る……」
「そか」
明日から頑張る。
古来より伝わる先延ばしの言葉に身を委ねる俺なのだった。
2018年6月19日(火)
「あづー……」
パソコンチェアの上で、でろりと溶ける。
「──…………」
うにゅほに至っては言葉すらない。
「……いま、何度?」
フローリングの床と蜜月の時を過ごしていたうにゅほが、本棚最下段の温湿度計を覗き込む。
「にじゅう、きゅうど……」
「マジで」
「まじ……」
「いま、午後五時なんだけど……」
「うん……」
「窓全開なんだけど……」
「うん……」
「──…………」
網戸を開き、右腕を外に出してみる。
「……あれ、外は涼しい」
「ほんと?」
「なんか変だな……」
そう言えば、昼間はさして暑くなかったような。
チェアに戻り、本日の最高気温を調べる。
「──午後一時に、24.4℃。それから少しずつ下がってる」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「へや、なんであついのかな……」
「わからん」
輻射熱だろうか。
「窓際はすこし涼しいから、耐えきれなくなったら窓際で凌ごう」
「──…………」
うにゅほがむくりと起き上がり、よろよろと窓際へ向かう。
「あ、ふぶふぃー……」
風と呼ぶのも烏滸がましい程度の空気の流れが、うにゅほの髪をかすかにそよがせる。
「六月でこれなら、真夏になったらどうなってしまうんだろう……」
「うん……」
「意外と冷夏になったりして」
「あるかも」
29℃でへろへろな身ではあるけれど、夏は暑くあってほしいものだ。
2018年6月20日(水)
「はー、疲れた疲れた」
母親が、五泊六日の旅行から帰宅した。
「この大量の荷物って……」
「ぜんぶ、お土産」
「すごい」
うにゅほが目をまるくする。
どこの誰にどれだけ配るのやら。
「豪華客船、どうだった?」
「それがね、船なのに17階まであって──」
西郷どんのクッキーを開封しつつ、母親の土産話に耳を傾ける。
「ちょっとだけど、韓国の釜山にも寄ったのよ。ちゃんとキムチも買ってきた」
「そう言えば、パスポート取ってたね」
「生まれて初めて海外へ行きました」
「すごいねえ」
「××も来ればよかったのに」
「わたしは、うん……」
うにゅほが、困ったように笑顔を浮かべる。
「××が残ってくれないと、男性陣は生活力ないから」
「情けないなあ……」
自分でもそう思う。
「◯◯、そのうちどこか連れてってあげなさいよ」
「日帰りなら……」
「うん、ひがえりでいいよ」
「夏のあいだにツーリングかな」
「たのしみ」
「出不精ねえ……」
「旅行とは、家がいちばんであることを確認するための作業である」
「誰の名言?」
「いや、適当言った」
「めいげんぽい」
「じゃあ、俺の名言で」
「まあ、ちょっとわかるけどね。旅行先で食べ過ぎて太ったし」
「おかあさん、ばんごはんいらない?」
「食べるけど」
「食べるんかい」
「わたしつくるから、おかあさんやすんでてね」
「いい子いい子」
「うへー」
うにゅほは、このあとも、母親の土産話をとても楽しそうに聞き続けていた。
つくづく聞き上手である。
2018年6月21日(木)
久方振りに晩酌をすることにした。
台所からくすねてきた父親の焼酎をタンブラーに注ぎ、ペプシで五倍程度に希釈する。
お手製コークハイの完成だ。
「──あれ、コークハイってウイスキーとコーラだっけ?」
うにゅほが小さく首を横に振る。
「しらない……」
そりゃそうか。
「おさけ、おいしい?」
「美味しいけど、お酒だから美味しいってわけじゃない」
「?」
「この、コロコロ名前の変わるペプシって、安い焼酎と相性がいいんだよな」
「そなんだ」
「普通に飲むより、焼酎を割ったほうが、単純に味がいい」
「へえー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「そもそも、俺、お酒の味嫌いだもん。ビールとか最悪。苦くて酸っぱくて……」
「わかる」
「××、飲んだことあったっけ」
「ちょっとだけ……」
「××が不良になった!」
「ちがうよー」
あわあわするうにゅほの頭を、ぽんと撫でる。
「わかってる。覚えてる。父さんに飲まされたんだろ」
「もー……」
「ははは」
「◯◯、よってる?」
「まだひとくちしか飲んでないんだけど……」
「そんなすぐよわない?」
「スピリタスとかならすぐ酔うかもしれないけど、これたぶん3パーとか4パーくらいだし」
「すぴりたす」
「ウォッカの一種で、度数が95度くらい」
「よくわかんない」
「えーと──」
消毒用エタノールのボトルを手に取る。
「これよりアルコール度数が高い」
「え」
「消毒用エタノールは80度くらいだからな」
「……これのむより、すごいの?」
「単純に言うと、そうなる」
「うへえ……」
うにゅほが軽く引いている。
「消毒用とか無水エタノールは有毒物質が入ってる可能性があるから、飲んじゃダメだぞ」
「のまない」
そりゃそうだ。
読者諸兄も気をつけるように。
2018年6月22日(金)
「だるい……」
ホコリひとつないフローリングの上で、ぐでーと横になる。
「だるいし、暑い……」
「だいじょぶ?」
すんすん。
うにゅほが、俺の首筋で鼻を鳴らす。
「かぜじゃないとおもう」
「原因はわかってるから、大丈夫……」
「げんいん、なに?」
「エアロバイク」
「えあろばいく……」
「さっき、久し振りに漕いだじゃん」
「うん」
「久し振りだから、気合い入れて、たくさん漕いだせいだと思う」
「どのくらいこいだの?」
「二時間で、40km」
「いつもは?」
「一時間で、20km」
「ばいだ」
「倍です」
「◯◯、いつも、きゅうにたくさんする……」
「そうなんだよなあ」
久し振りなら久し振りで、半分くらいから慣らしていけばいいものを、いきなり普段の倍にしてしまう。
こればかりは性格としか言いようがない。
「極端から極端に走るというか、ゼロとイチしか存在しないというか」
「なんぎだねえ……」
「自分でも難儀だと思います」
「あしもむ?」
「お願いします……」
うにゅほのふわふわマッサージなら、既に確定している明日の筋肉痛を、少しは緩和できるかもしれない。
そんなことを考えながら足を揉んでもらっていると、いつの間にか寝落ちしていた。
相変わらずのリラックス効果である。
2018年6月23日(土)
「よし、今日もエアロバイク乗るぞ!」
「がんばりすぎないでね」
「はい」
運動不足はよろしくないが、運動のしすぎもよろしくない。
「きんにくつう、だいじょぶ?」
「思ったよりは痛くない」
「そか」
「××にマッサージしてもらったおかげかも」
「うへー……」
てれりと微笑むうにゅほを横目に、エアロバイクを漕ぎ始める。
「いちじかん?」
「時間じゃなくて、距離で決めてる」
「にじゅっきろだっけ」
「そうそう。平均時速が20km少々だから、だいたい一時間弱かな」
「すごいねえ」
「××もやる?」
「いい……」
一度漕いで懲りたらしい。※1
「運動不足はよくないぞ」
「う」
「ペダルの重さを変えれば、××でも漕げると思うんだけど……」
「そかな」
「あとで試してみよう」
「わかった……」
うにゅほが、渋々ながらも了承した。
一時間後──
「いまは重さが5だから、ひとまず3にしてみよう」
「にーがいい……」
「はいはい」
ダイヤルを2に合わせ、サドルを適当に下げる。
「どうぞ」
「──…………」
エアロバイクにまたがったうにゅほが、緊張しいしいペダルを踏んだ。
「わ」
ぐるんとペダルが一回転。
「かるい!」
「軽すぎない?」
「うん、だいじょぶ」
「十五分くらい漕いでみようか」
「うん!」
十五分後──
「ふー……」
「どうだった?」
「ちょっとあせかいた」
「悪くないだろ」
「わるくない」
うにゅほが、うへーと笑う。
「じゃあ、明日から××もエアロバイクだな」
「がんばる」
やる気だ。
負けないように、俺も頑張ろう。
※1 2017年2月27日(月)参照
2018年6月24日(日)
「◯◯、◯◯」
「んー……」
ベッドに寝転がりながらiPhoneをいじっていると、うにゅほが俺の名を呼んだ。
「えあろばいく、こいでいい?」
「お、やる気だな」
「やるき」
ふんす、と鼻息荒く頷く。
「廊下にあるから、自由に漕いで──」
「──…………」
言いかけた途端、うにゅほの眉尻が目に見えて下がる。
わかりやすい。
「部屋で漕ぎたいのか」
「みててほしい……」
「はいはい」
苦笑し、ベッドから下りる。
「待ってて、いま運ぶから」
「おせわかけます」
「いいよ。××が漕ぎ終わったら、俺も使うし」
「うん」
廊下からエアロバイクを運び入れ、自室に設置する。
「きょうはね、にじゅっぷんやる」
サドルにまたがりながら、うにゅほがそう宣言した。
「できるかな」
「できるよ」
「じゃあ、タオル用意しとくな」
「ありがと!」
「暇つぶしはどうする?」
「ひまつぶし……」
「ただ二十分漕ぎ続けるのは、つらいぞ。テレビつけるか、動画見るとか」
「じゃあ、まいんくらふとのやつみたい」
「好きだなあ……」
PCのロックを解除し、動画サイトの視聴履歴から、うにゅほの好きなシリーズを再生する。
「準備万端整った。あとは頑張れ」
「がんばる」
うにゅほが、エアロバイクのペダルを踏み込んだ。
二十分後──
「はー……」
「お疲れさん」
うっすらと汗ばんだうにゅほに、タオルを手渡す。
「ありがと」
「記録更新だな」
「うーとね、まだいけそう」
「××さん」
「?」
「俺と同じ病気だぞ、それ」
「!」
うにゅほが目をまるくする。
「まだ行けそうは、もう危険。筋肉痛になりたくなければ、頑張りすぎないこと」
「はい……」
「では、交代しましょう」
「うん」
うにゅほが率先してエアロバイクを漕いでくれれば、俺もやる気が出るというものだ。
ふたり一緒に運動不足から抜け出そう。
2018年6月25日(月)
「──…………」
うと、うと。
マウスを握りながら、幾度か意識が途切れる。
「……◯◯?」
「!」
うにゅほに名前を呼ばれ、はっと意識を取り戻す。
「ねてた?」
「寝てない、寝てない……」
「ほんと?」
「──…………」
「──……」
「いや、寝てた」
「やっぱし」
「うたた寝してるときに寝てたか聞かれると、なんで反射的に否定しちゃうんだろう……」
「あ、わかる」
「××もか」
「うん」
万人共通のあるあるネタなのだろうか。
「なんか、今日、眠りが浅くてさ……」
「そなんだ」
「毎度のことだけど、変な夢見たし」
「どんなゆめ?」
「母さんが車で川に落ちて、救急車を呼ぼうと思ったんだよ」
「おかあさん、だいじょぶだった?」
「擦り傷くらいだったけど、いちおうな」
「そか」
「その夢の中では、手が携帯電話になっててさ」
「てー?」
「指の付け根がボタンになってて、左手の親指が1、右手の中指が8って感じ」
「おもしろい」
「それで、一所懸命119番に掛けようとするんだけど、なかなか上手く行かないって夢だった」
「へえー」
夢の話を楽しげに聞いていたうにゅほが、ふと尋ねる。
「わたし、でなかった?」
「今日は出なかった」
「そか……」
「普段はよく出るけどな」
「どのくらい?」
「まあ、二日に一度くらい……?」
「そか」
うにゅほの見る夢に、俺は出演しているのだろうか。
すこし気になる俺だった。
2018年6月26日(火)
「……んー?」
iPhoneのメモを開きながら、首をかしげる。
「どしたの?」
「話せば長くなるんだけど……」
「うん」
「俺、日記書いてるじゃん」
「かいてる」
「でも、書くことが毎日あるとは限らないから、二、三日ぶんくらいネタをストックすることがあるのよ」
「?」
うにゅほの頭上に疑問符が浮かぶ。
「えーと……」
言葉をまとめ、口を開く。
「すごい充実した一日で、二個も三個も書くことがあったら、日記に書き切れないだろ」
「あー」
「そんなとき、一日で起こった出来事を、二日に分けて書く場合がある」
「にっき……」
「長く続けるためには、ある程度の妥協も必要なの!」
「そか」
「基本的に、二、三日過ぎたらメモから消してるので、大目に見ていただきたい」
「わかりました」
「では、これを見てください」
iPhoneを差し出し、画面を見せる。
「消すとは言ったけど、消し忘れがけっこうあって、何年も前のネタがいくつも残ってるのよ」
「みていいの?」
「いいよ」
うにゅほが、iPhoneの画面をスワイプする。
「うーと、いきなりだんごをたべる……」
「熊本名物、いきなりだんご」
「いものやつ?」
「そうそう」
「おいしかったねえ……」
「こんな感じで、日記に書き損ねたことがズラリと羅列してあるわけだ」
「おもしろいね」
うんうんと頷くうにゅほを横目に、メモのいちばん下までスクロールする。
「で、問題は、いちばん最近に書かれたことなんだけどさ」
うにゅほが、その一行を読み上げる。
「べんざまで、あげてしまう……」
そう。
メモの最下段に、"便座まで上げてしまう"とだけ書かれている。
「自分でメモしたはずなのに、意味がわからないし、書いた記憶もなくて」
「べんざって、といれだよね」
「他にないと思う」
「いつかいたの?」
「履歴によれば、一週間前らしい」
「いっしゅうかんまえのにっきに、なにかかいてるかも」
「書いてなかったんだよなあ……」
「うーん……」
しばしのあいだ、ふたりで頭をひねったが、納得できる答えを導き出すことはできなかった。
迷宮入りである。
2018年6月27日(水)
「ふー……」
エアロバイクを漕ぐ足を止め、右手でパタパタと首筋をあおぐ。
「はい、タオル」
「さんきゅー」
うにゅほが手渡してくれたタオルで、上半身の汗を拭う。
「つぎ、わたしこいでいい?」
「サドル下げるから、ちょっと待ってて」
「ありがと」
サドルの位置を調節しながら、ふと気になったことを尋ねる。
「部屋、汗臭くないかな。大丈夫?」
「──…………」
すんすん。
うにゅほが鼻を鳴らす。
「うーと、まだだいじょぶ」
「部屋でトレーニングしてると、においが気になるよな」
「そだねえ……」
「換気できればいいんだけど……」
窓の外を見やる。
あいにくの雨模様で、風向きも悪い。
窓を開ければ、雨粒が、すぐさま部屋を濡らしてしまうだろう。
「きーつけてれば、くさくならないよ」
「そうかな」
「ゆかにおちたあせ、ちゃんとふいてー」
「うん」
「シャツきがえたら、したもってってー」
「うん」
「まいにちおふろはいったら、だいじょぶとおもう」
「なら問題ないな」
「うん、もんだいない」
うにゅほが、うへーと笑う。
「サドル調節したから、乗っていいぞ」
「はーい」
よじよじとエアロバイクにまたがったうにゅほが、軽くしたペダルを揚々と漕ぎ始める。
「今日も二十分?」
「うーとね、きょうは、ごキロこいでみる」
「距離にしたのか」
「うん」
「頑張れ」
「がんばるー」
なかなかいい調子だ。
このまま一週間、一ヶ月と、続けていければ良いのだが。
2018年6月28日(木)
ふと、カレンダーを見やる。
「──6月28日、か」
「どしたの?」
「夏だなあと思って」
「そだねえ」
「夏だなあ……」
「なつだねえ……」
「夏だなあ……」
「なつだねえ……」
ふたり、しみじみと、「夏だなあ」「なつだねえ」を繰り返す。
「夏だなあ……」
「なつだねえ……」
「──…………」
「──……」
「ナッツだなあ……」
「なっつ?」
「××は、どのナッツが好き?」
「うと、マカダミアナッツ」
「美味しいよな」
「うん、おいしい」
「──…………」
「──……」
「茄子だなあ……」
「なす?」
「××は、どの茄子が好き?」
「どのなす……」
「昔から、秋茄子は嫁に食わすな、などということを申しましてな」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんで?」
「いや、知らん」
「そか……」
「××、賀茂茄子って知ってる?」
「かもなす」
「まーるい茄子」
「まるいの?」
「丸い。××が思ってるより、倍は丸い」
「そんなに」
キーボードを叩き、"賀茂茄子"で画像検索をする。
「ほら」
「まるい!」
「思ってたより丸いだろ」
「ばいはまるい……」
「ヘタ取ったら野球できそうだよな」
「よくまがりそう」
「たしかに」
どんなに内容がなくとも、うにゅほと話しているだけで楽しい。
そんな相手がいつも傍にいることを、感謝すべきなのかもしれない。
誰にかは、よくわからないが。
2018年6月29日(金)
「あぢー……」
室温より、湿度が高い。
蒸し暑さが服の内側をダイレクトに蝕んでいく。
そろそろ扇風機でも出そうかしらんと、思案を巡らせていたときのことだ。
「◯◯、たいやきたべるー?」
紙袋を持ったうにゅほが、廊下から顔を出した。
「食べる食べる」
「クリームしかないけど、いい?」
「あんこもチョコもクリームも好きだから、なんでもいいよ」
「そか」
冷蔵庫から取り出した烏龍茶をタンブラーに注ぎ、うにゅほに手渡す。
「◯◯のおちゃは?」
「回し飲みでいいかと思って」
「いいよ」
紙袋から、たい焼きをひとつ取り出す。
「あ、粉砂糖まぶしてあるやつじゃん」
「ほんとだ」
「これ、ちょっと好き」
「わたしも」
小さな幸せに微笑みあって、たい焼きを口に運ぶ。
「──…………」
じー。
「?」
うにゅほが、俺をじっと見つめている。
微妙に食べにくい。
「どした」
「◯◯、あたまからたべるは?」
「頭から……」
たしかに、いま口をつけようとしていたのは、たい焼きの頭側だ。
「いや、どっち派とかないけど」
「ないの?」
「しっぽから食べるときもあるし……」
そのときの気分次第である。
「おかあさんは、しっぽはだって」
「××は?」
「うーと……」
うにゅほが、自分の手元に目を落とす。
「……しっぽは、かなあ」
「常に?」
「わかんない……」
「そんなもんだよな」
「そだねえ」
たい焼きの食べ方に、さほどのこだわりもない。
どちらから食べたとしても、美味しいものは美味しいのだから。
2018年6月30日(土)
「ただいまー」
「──……んが」
昼もはよから昼寝と洒落込んでいた俺の目を、帰宅の挨拶が覚まさせた。
「ただいま、◯◯」
「おかえり……」
よだれをすすりながら、上体を起こす。
「えいが、おもしろかった!」
「映画?」
「うん」
そう言えば、母親と映画を見に行くだのと話していたような。
「◯◯も、きたらよかったのに……」
「なんて映画だっけ」
「まんびきかぞく」
「あー」
タイトルからして興味ないやつだ。
「おもしろかったよ?」
「よかったな」
「うん」
うにゅほが楽しめたなら、何よりである。
「◯◯も、きたらよかったのになあ……」
「何回言うねん」
「えいが、きらい?」
「嫌いじゃない」
「すき?」
「好きか嫌いで言えば、好きなほうじゃないかな」
「んー……」
難しい顔をしながら、うにゅほが小首をかしげる。
「なんて説明すればいいかわからんけど、映画を観に行くってことは、俺にとって、けっこう大きなイベントなんだよ」
「おっきなイベント……」
「観に行く映画を決めて、何日も前から予定を組んで、その日までわくわくして過ごすのがワンセットなのだな」
「あ、わかる」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「だから、前日とか当日に"映画行こうぜ"ってなると、つい反射的に断ってしまうというか……」
「そかー」
「まあ、今度また行こう。次は、何日か前から予定組んでさ」
「うん!」
何か、面白そうな映画を探しておこう。
うにゅほと一緒に観るのだから、エンタメ寄りの作品がいいだろうか。 |