>> 2017年10月




2017年10月1日(日)

「──……はあ」
カレンダーをめくり、溜め息を漏らす。
「もう半分かあ……」
「はんぶん?」
「今年度が、半分過ぎた」
うにゅほが指を折り曲げる。
「しー、ごー、ろく、なな、はち、きゅう──あ、はんぶんだ」
「六月から七月は、夏に浮かれてるからか、あんまり意識しないんだけどさ」
「うん」
「九月から十月は、なんか切ないかんじがします」
「わかるかも」
うにゅほがうんうんと頷く。
「◯◯、あさ、ふとんけっとばしてないもんね」
「そうなんだ」
「うん」
「……それ、切なさと関係ある?」
「かけてあげるの、すき」
「そうなんだ……」
頑張って蹴っ飛ばそう。
「まあ、でも、秋はわりと好きかな」
「わたしも」
「××が好きなのは冬じゃないの?」
「ふゆもすき」
「夏は?」
「なつもすきだよ」
「春」
「はるもすき」
「嫌いな季節は?」
「たいふう……」
季節じゃないけど、気持ちはわかる。
「……俺も、台風ダメだわ。なんとも思ってなかったけど、ダメになった」
「ひこうき?」
「うん」
「たいふうのとき、ひこうき、もうのったらだめだよ」
「乘りません」
自動車は、安全運転をすることで事故率を下げることができる。
だが、飛行機は、自らの命をパイロットに預けることしかできない。
一介の乗客の身では、何をしても無駄なのだ。
それが怖い。
「ともあれ、残り半分もよろしくな」
「うん、よろしくおねがいします」
小さく頭を下げあうふたりなのだった。



2017年10月2日(月)

床に座り込んで作業をしていると、うにゅほが物珍しげに覗き込んできた。
「あ、のーとぱそこんだ」
「はい、ノートパソコンです」
「ひさしぶり」
うにゅほがノートの端を撫でる。
「メインマシンが壊れでもしない限り、使う機会がないからなあ」
「なにしてるの?」
「──ああ、××に確認を取ったほうがいいか」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「友達のPCが壊れたんだけど、買い換えるお金がないんだって」
「うん」
「だから、このノートを貸そうと思うんだけど、いいかな」
「……?」
うにゅほが、更に深く首をかしげる。
「なんでわたし?」
「ノートを買ったとき、これは××用にするって、言った、ような、気が……」
「そうだっけ……」
互いに記憶が曖昧である。
「なので、いちおう尋ねた次第です」
「そか」
「いいかな」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
うにゅほの頭を撫でてやる。
「うへー……」
「では、作業に戻りましょう」
「なにしてるの?」
「見られたら困るデータとか、あらかじめ消しておかないと」
「どんなでーた?」
「──…………」
しまった。
もっと言い方を工夫すべきだった。
「……えーと、ほら、クレジットカード番号とか、あるじゃん」
「あー」
「そういうところは、ちゃんとしとかないとな」
「そだね」
それも消すので、嘘ではない。
本当に消したいものが別にあるだけだ。
ともあれ、あとは送るだけである。
友人の役に立てばいいのだが。



2017年10月3日(火)

「──つッ、あー……」
唐突な目の痛みに、目薬を求めて手を伸ばす。
「わ、どしたの?」
「××、悪い、目薬取って……」
「うん!」
疲れ目だろうか。
たしかに、最近、目を酷使していた気がする。
「はい、めぐすり……!」
「ありがと」
うにゅほから目薬の容器を受け取り、ひねってキャップを外す。
そのまま点眼しようとして、
「……うん?」
ふと、違和感を覚えた。
目薬にしては大きく、目薬にしては重く、目薬っぽくない形状をしている。
薄目を開けて確認すると、目薬じゃなかった。
「あ、はなしゅー!」
点鼻用スプレーだった。
「まちがえた! めぐすりこっち!」
「うん、ありがとう」
改めて目薬を受け取り、点眼する。
まばたきをしながら薬液を目に慣らしていると、
「──…………」
うにゅほが自分のほっぺたを両手で包み込んでいた。
恥ずかしがっているらしい。
「……まあ、ほら、似てるし。隣にあったし」
「そだけど……」
「俺のせいで慌ててたんだし、仕方ないよ」
「……でも」
うにゅほが俺を心配そうに見上げる。
「◯◯、まちがって、めにしゅーしてたらどうしようって……」
「いや、しないから。間違ってもしないから」
「ほんと?」
「目薬するのとスプレーするのは、指の動きがまったく違うだろ!」
「そだけど……」
心配してくれるのは嬉しいが、ポイントがいまいち的外れである。
そんなところが可愛いのだけれど。



2017年10月4日(水)

朝起きると、冷蔵庫の上に妙なものがあった。
「……くじ引き?」
かすかに色づく透明な液体の入った瓶に、やたらと長い棒が数本突き立っている。
「あ、それ、おかあさんおいてったの」
「芳香剤か」
「うん、ほうこうざい」
数本の棒が液体を吸い上げ、揮発させる。
ちょっとオシャレなデザインだ。
「◯◯、すごいね」
うにゅほが感心したようにこちらを見上げる。
「なにが?」
「わたし、においかぐまで、ほうこうざいってわかんなかった……」
「どっかで似たようなのを見たことがあるだけだよ」
「そなんだ」
「……俺たちの部屋、臭かったのかな」
そうでもないと思うのだが。
「べーじ、ぜんぶのへやにおくんだって」
「べーじ?」
「これ」
うにゅほが芳香剤を指差す。
ラベルには「VAGE」と記されている。
「……これ、ベージって読むのかな」
「おかあさん、べーじっていってたよ」
「どちらかと言えば、ベージュって感じに読める」
でも、ベージュのスペルってBから始まってたような気がするんだよな。
「ネットで調べてみるか」
「うん」
便利な世の中になったものだ。
アカシックレコードとは、インターネットのことではあるまいか。
「──出た。VAGEと書いて、バーグだって」
「ばーぐ……」
うにゅほが渋い顔をする。
納得行かないらしい。
実に同感である。
「なにごなのかなあ……」
「わからん」
あまり英語っぽくないことは確かだ。
ともあれ、
「母さんに、ベージじゃなくてバーグだって教えておかないとな」
「うん」
母親に恥を掻かせるわけにも行くまい。
香りに文句はないのだけど。



2017年10月5日(木)

「──すもももももももものうち」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「もももも?」
「すももも、ももも、もものうち」
「あー」
うんうんと頷く。
理解したらしい。
「すもも、ももだもんね」
「さっき、ふと思ったんだけどさ」
「?」
「スモモって、本当に桃なのかな」
「ちがうの?」
「××、スモモ食べたことある?」
「ない……」
「プラムは?」
「あ、たべたことある」
「スモモって、プラムなんだよ」
「──…………」
うにゅほが絶句する。
「ぷらむは、すもも……」
「うん」
「すももは、もも?」
「調べてみるか」
Wikipediaの当該ページを開く。
「桃は、バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ」
「ばらなの?」
「桃がバラ科なのは聞いたことあるな」
「へえー」
「次、スモモ」
「うん」
「スモモは、バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモ」
「……うーん?」
「近い種類ではあるけど、桃のうち、とは言えないかな……」
衝撃の事実である。
「ぷらむ、すももだったんだねえ……」
そこなんだ。
「プラム、たしかに酸っぱいもんな」
「うん」
そんな、小さな発見をした一日だった。



2017年10月6日(金)

「──◯◯、◯◯」
不意に肩を揺さぶられる。
「んが」
「いすでねたら、かぜひくよ」
「……寝てた?」
「ねてた」
姿勢を正す。
首が痛い。
かなり不自然な体勢で寝落ちしていたようだ。
「ねるの、おそかったの?」
「いや──まあ、××基準では遅いだろうけど、普段通りだよ」
「そか……」
「春も眠いけど、秋も眠いんだよなあ」
「なんでだろね」
「気候の急激な変化で、自律神経がうんぬん」
「じりつしんけい……」
「気温やら湿度やら気圧やらが一気に変わる時期だから、体が慣れるまで時間がかかるのだな」
「へえー」
うにゅほがうんうんと頷く。
「だから、秋は眠い」
「うん」
「春も眠い」
「うん」
「あと、冬も眠い」
「ふゆはなんで?」
「冬は、寒いから眠い。哺乳類の本能です」
「なつは?」
「夏は眠くない。気候が安定してるし、活動的になれる」
「うん」
「だから、俺は、夏が好きです」
「またらいねん、だねえ」
「まあ、冬は冬で好きだけどな」
「うん、ふゆすき」
「××は、台風以外ぜんぶ好きだろ」
「うへー……」
うにゅほが照れたように笑う。
季節には、季節それぞれの楽しみ方がある。
雪かきまで楽しんでしまううにゅほは、そのエキスパートなのかもしれないと思った。



2017年10月7日(土)

ゲームセンターで、星のカービィのブランケットをゲットした。
「ふー……」
ブランケットを膝に掛けた途端、思わず溜め息が漏れる。
「ブランケットって、あったかいんだな……」
「そなの?」
「××、使ったことなかったっけ」
「ない、とおもう」
「使ってみる?」
「うん!」
うにゅほが隣へやってきて、
「う、しょ」
俺の膝に腰掛けた。
「××さん」
「?」
「ブランケットの上に座ってどうする」
「すわりごこち、いい」
「まあ、ふかふかしてるしな」
「うん」
「……わかっててやってますね?」
「うん!」
うへーと笑う。
「じゃ、いったん下りて」
「はい」
膝の上、おしりの下にあったブランケットを手に取り、再びうにゅほを座らせる。
「膝に掛けるんだぞ」
「うん」
ふぁさ。
「おー……」
「あったかいだろ」
「うん、あったかい」
「六百円で取れたとは思えないぞ」
「でも、おしりのほうがあったかいな……」
「そりゃな」
人肌だもの。
「◯◯は、わたしと、ぶらんけっと、どっちあったかい?」
「××」
「うへー……」
ブランケットより暖かいと言われただけで、嬉しそうだ。
なんというか、ちょろ可愛いなあ。



2017年10月8日(日)

「──なんか、今日、暑くない?」
作務衣の共襟をパタパタと動かし、内側に空気を送り込む。
「あついかも……」
「何度?」
「うと、ちょっとまってね」
うにゅほが温湿度計を覗き込む。
「にじゅうななてん、ごど!」
「夜なのに随分暑いな」
「なつみたい」
「窓開けたら、さすがに寒そうだ」
なんだかんだ、もう十月だし。
「弟とか、大丈夫かな。暑さにやられてるんじゃないか」
「◯◯、へやにいないから、だいじょぶとおもう」
「……?」
言ってる意味がよくわからない。
「◯◯いるへや、あったかくなるから」
「……そうなの?」
「そだよ?」
初耳である。
「弟の部屋に行ってみよう」
「うん」
こんこん。
「あーい」
返事を待って、弟の部屋の扉を開ける。
「どうかしたの?」
「……涼しいな」
「うん、すずしい」
「何?」
「この部屋って、温度計ある?」
「あるよ」
弟が、PC本体の上を指す。
「何度?」
「24℃」
「──…………」
「……何?」
「うーとね、◯◯のいるへや、あったかいねって」
「いや、もしかして、俺の部屋は××と俺でふたりいるからでは──」
「昔からそうだよ」
「昔からそうなの……?」
「兄ちゃんのいる部屋、冬でも暑いから」
「……なんかショックなんだけど」
べつに、汗かきでも、平熱が高いわけでもないのに。
「ふゆ、あったかくていいよ」
「夏は?」
「わたし、あついのすき」
「夏は俺の部屋来ないでね」
「うるせー」
なんだろう、そんな体質があるのだろうか。
言われてみれば、俺の部屋は、冬でもストーブなしで20℃弱はある。
普通はもっと寒いのかもしれない。
謎だ。



2017年10月9日(月)

外出の準備を終え、立ち上がる。
「──さて、行くかな」
「うん」
「──…………」
一緒に出掛けようとしたうにゅほの肩を押し戻す。
「××は、行かない」
「?」
なに小首かしげてんだ。
「さて、問題です」
「はい」
「俺は、何をしに行くでしょうか」
「わたしの、たんじょうびプレゼント、かいに」
「わかってるじゃないですか」
「うん」
「──…………」
部屋を出ようとするうにゅほの肩を押し戻す。
「言ったろ。一緒に選ぶのもいいけど、今年は当日に驚かせたいって」
「うん……」
「ふたりで出掛けたら、わかっちゃうだろ」
「かうとき、めーとじるとか……」
「無理があるね?」
「はい……」
「買うものは決めてあるから、すぐ帰ってくるよ」
「ほんと?」
「おみやげに、チョコボールも買ってくるから」
「わかった……」
肩に提げていたポシェットを、ようやく下ろす。
「どこいくの?」
「ヨ──」
「よ?」
「……秘密」
危ないところだった。
「じゃあ、行ってくるから」
「いってらっしゃい……」
指でも咥えそうな表情で見送られ、家を出る。
小一時間で帰宅し、プレゼントは階段下の収納スペースに隠しておいた。
あとは当日を待つばかりである。



2017年10月10日(火)

「──…………」
頭を右に傾ける。
かぱ。
開く。
「──…………」
頭を左に傾ける。
ぱた。
閉じる。
「……うーん」
かぱ。
ぱた。
かぱ。
ぱた。
「なにみてるの?」
俺の肩越しに、うにゅほがディスプレイを覗き込む。
だが、開いているのは、なんら変哲のないニュースサイトだ。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、耳掛けイヤホンの右側だけ、開閉が緩くなってるみたいでさ」
右に傾ける。
かぱ。
左に傾ける。
ぱた。
「ほんとだ」
「困ったなあ……」
高かったのに。
「◯◯、のりのりなのかとおもった」
「ノリノリ?」
「あたまふってるから」
「あー……」
後ろからだと、そう見えるかもしれない。
実際は、ノリノリどころかションボリである。
「あ、そうだ」
「?」
「買ってまだ一年経ってないから、保証効くかも」
「おー」
クローゼットからイヤホンの箱を取り出し、レシートと保証書の有無を確かめる。
「──あった!」
「なおる?」
「直る、はず。大丈夫なはず」
煩雑な手順を経て、イヤホンをオーディオテクニカサービスセンターへと送付した。
しばらくは予備で我慢することにしよう。



2017年10月11日(水)

「──…………」
PCで作業中、ふと喉が渇いた。
冷蔵庫に近いのはうにゅほだが、読書の邪魔をする気にはなれない。
いつものようにチェアのキャスターを滑らせ、

──ぶつん!

イヤホンから垂れ流していた作業用BGMが、唐突に途切れた。
「あー……」
またやってしまった。
今日だけで、既に三回目である。
「くび、だいじょぶ?」
「首は大丈夫だけど……」
心配なのは、イヤホンジャックのほうだ。
「このイヤホン、修理に出したのよりコード短いんだよなあ」
修理に出したイヤホンのコードの長さが染み付いてしまっているため、たびたびプラグを引っこ抜いてしまうのである。
「◯◯、あれないの?」
「あれ?」
「うーとね、せん、ながくするやつ」
「延長コードか」
「それ」
「あるよ」
全部繋げば部屋のどこへでも行くことができるくらい、ある。
「つかわないの?」
「さすがに使ったほうがいいかもなあ」
「なんか、だめなことあるの?」
「延長コードって、最低でも1mはあるんだ」
「うん」
「今度は長すぎて、キャスターに絡まる」
「あー……」
「まあ、注意して使えばいいんだけどさ」
だが、そんなことを言い出してしまえば、コードが短くても注意して使えばいい、となる。
それができていないから現状があるわけで、恐らく延長コードには、キャスターに絡まる未来が待っているのだろう。
「しゅうり、はやくおわったらいいね」
「まったくだ」
音質だけでなく、コードの長さまでベストだったとは。
失って初めて気づくことは、やはりあるのだなあ。



2017年10月12日(木)

「──あ、ガム切れた」
推定200粒は入っているボトルガムだが、噛んでいればいつかはなくなるものだ。
「からっぽ?」
「うん」
「あんなにからいのに……」
「最初の辛さを乗り切れば、あとはけっこう甘かったりするんだよ」
「……ほんと?」
「本当は本当だけど、試さないほうがいいんじゃないかな……」
すぐに吐き出してしまうのがオチである。
「なんかのついでに、また買ってこないと」
「あ」
うにゅほがぴょんと立ち上がる。
「ものおきにね、あたらしいのあったよ」
「マジか」
「もってくる!」
小走りで自室を後にしたうにゅほが、ほんの一分少々で戻ってくる。
「あった!」
右手には、クロレッツのビッグボトルが掲げられていた。
「はい」
「ありがとな」
うにゅほの頭をぽんぽんと撫でて、ボトルを受け取る。
「うへー」
買わずに済んで、嬉しい。
取ってきてくれて、ありがたい。
だが、女の子にガムをもらうと、口くせーんだよおめーという含意が脳裏をよぎるのだ。
もちろん、うにゅほはそんな子ではない。
俺自身も、女性に限らず、人からガムをもらった経験すらあまりない。
では、この被害妄想はどこから来たのだろう。
「……ネットかなあ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、なんでもない」
情報と共に偏見まで取り入れてしまうのは、インターネットの功罪である。
とは言え、こうして不特定多数の方々に日記を閲覧してもらえるのも、ネットがあるからに他ならない。
「──…………」
うにゅほがネットに興味を持ったら、止めるべきか、止めざるべきか。
いまから悩んでも仕方がないけれど。



2017年10月13日(金)

「いてて」
「だいじょぶ……?」
「皮一枚だし、大丈夫だよ。血もほとんど出なかったし」
風呂場でヒゲを剃る際、T字カミソリで手のひらを切ってしまったのだった。
「おろないんぬるね」
「お願いします」
「はい」
うにゅほに右手を差し出す。
「──それにしても、不思議なんだよなあ」
「ふしぎ?」
ぬりぬり。
「誰がどんな剃り方したって、右の手のひらなんて切れるはずないんだよ」
「◯◯、ひげそるの、へたっぴいだから……」
「へたっぴいだとしても!」
「そなの?」
「そうなのです」
「うーん……」
納得が行かないようだ。
「第一に、俺は右利きだ」
「うん」
「××が右手で包丁持ったとき、右手に怪我するか?」
「しない……」
「これだけでも、ちょっと不思議だろ」
こくこく。
うにゅほが頷く。
「第二に、最近のT字カミソリは横滑りに強い」
「よこすべり」
「刃物を横にスッと動かすと、切れるだろ」
「あぶない」
「それを防止するガードが付いてる」
「へえー」
「第三に、手のひらは平らである」
「たいら……」
「ヒゲ剃りで難しいのは、口まわりのデコボコした部分だ」
「◯◯、よく、ちーだしてる」
「逆に、滑らかな曲面であるほっぺたは切らない」
「うん、あんましちーでてない」
俺、そんなにヒゲ剃るの下手だと思われてるのか。
「考えられるとしたら、刃の部分をぎゅっと握るくらいだけど──」
「したの?」
「したらアホだと思う」
「──…………」
うにゅほが苦笑する。
ノーコメントらしい。
でも、無意識ながらそれをした可能性があるんだよなあ。
俺、アホなのかもしれない。



2017年10月14日(土)

「あし、さむいー……」
座椅子に腰掛けたうにゅほが、伸ばした足を擦り合わせる。
「俺も、足冷たい」
「ね」
「部屋はわりかしあったかいんだけどなあ」
「うん」
「何度ある?」
うにゅほが、本棚の最下段に設置してある温湿度計を覗き込む。
「うーとね、にじゅうよんてんごど」
「そこそこだな」
「そこそこ」
「でも、足冷たい」
「つめたい」
「何故だろう」
「くつしたはいてないから……」
「正解!」
「うへー」
「なーんか履く気にならんよな、靴下」
「うん」
靴下嫌いなふたりである。
夏場は良いのだが、冬場はつらい。
それでも履きたくないのだから、筋金入りだ。
まあ、本格的に冬が到来してしまえば、そうも言っていられなくなるのだけど。
「××、足こっち」
チェアを回して、下半身をひねる。
そして、うにゅほに向けて両足を突き出した。
「!」
即座に意図を理解したうにゅほが、俺の足に自分の足を重ねる。
「◯◯のあし、つめたいねえ」
「××の足も冷たいぞ」
「◯◯のあし、おおきいねえ」
「××の足は小さいな」
しばしくっつけたままでいると、
「あ、あったかくなってきた」
「なってきたな」
「くつしたいらないね」
「いや、いるだろ」
「いるかー」
まだ履かないけど。
束縛感のない靴下はないものか。



2017年10月15日(日)

「──…………」
目を覚ます。
晴れ。
張り詰めた秋の朝の空気に、思わず身を震わせる。
「あ、おはよー」
半纏を羽織ったうにゅほが、とてとてとベッドへ歩み寄る。
朝の挨拶より先に、言いたいことがあった。
「誕生日おめでとう、××」
「!」
「あと、おはよう」
「──うん!」
この極上の笑みを見ることができただけで、早起きをした甲斐があったというものだ。
「誕生日プレゼントがあります」
「はい」
ベッドの下から、綺麗に包装された小箱を取り出す。
「なにかなあ……」
「開けてみて」
「あけていいの?」
「開けなきゃ使えないよ」
「あけるね」
「どうぞ」
包装紙すらプレゼントの一部とばかりに、うにゅほが恐る恐る包みを開けていく。
「しろいはこだ」
「白い箱だな」
「だぶりゅー、あい、しー、しー、えー」
「ウィッカ」
「あけていい?」
「いいってば」
「──…………」
かぱ。
「あ!」
うにゅほが目をまるくする。
「とけいだ!」
「はい、腕時計です」
「でも、わたし、とけいもってるよ?」
「三年くらい前にプレゼントしたやつな」
「うん」
「みっつも年を重ねれば、着けるべき時計も変わります。あれはすこし子供っぽい気がして」
「そかな」
「こっちは大人っぽいだろ」
「うん、かっこいい」
「しかも、ソーラー電波時計で、電池交換も時刻合わせも不要」
「おー!」
「服装によって、前の時計と使い分けてください」
「まえのとけい、まだ、つけていいの?」
「××は俺の着せ替え人形じゃない。好きなときに好きなほうを使えばいいよ」
「……うん」
うにゅほが小箱ごと腕時計を抱き締める。
「◯◯、ありがと」
「どういたしまして。あとでサイズ調整するから」
「はーい」
午後にふたりでケーキを買いに行って、夜は家族みんなで手巻き寿司を食べた。
両親からのプレゼントは相変わらずの図書カード、弟からは合わせやすそうなシンプルなマフラーだった。
年を取るのは、良いことばかりではない。
けれど、祝わない理由にはならない。
特別な日を特別な相手と過ごすことに、喜びが伴わないはずがない。
来年は、何を送ろうかな。
今から悩むのは、さすがに気が早いけれど。



2017年10月16日(月)

寝不足にまかせて午睡にまどろんでいたときのことだ。
「◯◯──、あっ」
声と気配に、薄く目を開く。
「ごめんなさい、おこしちゃった……」
「寝てない、寝てない……」
半分くらいしか。
「どうかした?」
「うん。◯◯にね、なんかとどいたの」
うにゅほが手にしていたのは、小さめのダンボール箱だった。
その左手首には、昨日プレゼントしたばかりの腕時計が光っている。
気に入ってくれたようだ。
「どこから?」
「うーと、おーでぃおてくにか、だって」
「なら、イヤホンだな。修理が終わったんだろう」
ベッドから身を起こし、箱を開封する。
「ほら」
「ほんとだ」
イヤホンを装着し、頭を右に傾けてみる。
開かない。
「うん、直ってるみたい」
「よかったー」
まずは一安心である。
「やっぱ、長く使いたいもんなあ」
「そだね」
買い替えるのは最後の手段としたい。
高かったし。
「なんか、見えないとこのネジが緩んでただけみたい」
「そなんだ」
「……これ、保証期間外だったらお金掛かってたのかな」
「うーん……」
謎だ。
少なくとも、返送料くらいは掛かっていたかもしれない。
「せっかくだし、ふたりでなんか見るか」
「ひるね、しなくていいの?」
「夜寝れば問題ない」
「そか」
まあ、夜にちゃんと寝てないから眠いのだけれど。
今日こそは早めに寝よう。



2017年10月17日(火)

「んー……」
通販サイトをぽちぽち巡りながら、小さく唸る。
「なにみてるの?」
ぽす。
うにゅほが俺の肩にあごを乗せ、ディスプレイに視線を投げた。
「いや、カバン欲しいなーと」
「かばん?」
「こんな感じの、メッセンジャーバッグ」
「おー」
「カッコいいだろ」
「◯◯のたんじょうび、これにする?」
「しない」
「しないの?」
うにゅほが不思議そうに小首をかしげる。
「普段の俺なら、××に相談したあと、パパッと自分で買っちゃうだろ」
「そだね」
「それをしないのは──」
ページを進め、価格表示をポインタで指し示す。
「ご!」
「クッソ高いから」
「これは、たかいねえ……」
「だろ」
「──…………」
しばしの思案ののち、うにゅほが口を開く。
「でも、わたしちょきんあるから──」
「ダメ」
それ以上は言わせない。
「決めてるんだよ。××にあげた誕生日プレゼントより、高価なものは受け取らない」
「えー……」
「年上で、働いてる、男性だぞ。沽券に関わる」
「きにしなくていいのに」
「気にするの」
「じゃあ、いくらまでいいの?」
自分の左手首を見ながら、うにゅほが問う。
「……プレゼントの金額は、あんまり言いたくないなあ」
「あ、ごめんなさい……」
しょぼんとするうにゅほの頭を撫でて、告げる。
「とりあえず、高くても一万程度でお願いします」
「わかった」
プレゼントをあげるぶんには気楽だが、もらうときには気を遣う。
難しいものだ。



2017年10月18日(水)

「──…………」
ぼけー。
チェアに背中を預けながら、天井の壁紙を見つめる。
「◯◯、ねてる?」
「起きてる」
「あ、おきてた」
「考えごとをしていました」
「そなんだ」
「首が痛い」
「リクライニング、しないの?」
「あ」
失念していた。
座面の横のレバーを引き、背もたれを思い切り倒す。
「ふー……」
170度のリクライニング。
その売り文句に惹かれて購入したチェアだったが、当の機能はあまり使っていなかったりする。
もっとも、座り心地はいいのだけれど。
「フットレストも出してみるか」
「だしてだして」
うにゅほが目を輝かせる。
「はいはい」
座面の下からフットレストを引っ張り出し、足を伸ばす。
「第二形態!」
「わー」
ぱちぱち。
「××、こういう変形するのとか好きだよな」
「すき」
どちらかと言えば、男の子向けのような気がするのだが。
「わたしもねていい?」
「……あと、リクライニングすると、絶対一緒に寝たがるよな」
「うへー」
まあ、いいけど。
寒いし。
「あったかいね」
「あったかさに椅子は関係ないけどな」
「いいの」
最高の暖房器具が、腕のなかで微笑みを浮かべる。
考えごと?
すっかりどこかへ行ってしまったよ。



2017年10月19日(木)

両手を擦り合わせながら、呟く。
「……寒い」
「はだざむいねえ」
「肌寒いとかじゃなくて、めっちゃ寒いんですが……」
思わず鼻をすする。
薄着なことも理由のひとつだろうが、それにしたってあまりに寒い。
「いま何度?」
うにゅほが温湿度計を覗き込む。
18℃くらいだろうか。
「うーと、にじゅうにーてんごど」
「──…………」
「しつど、よんじゅうさんぱーせんと」
「マジで?」
「まじ」
どんだけ寒がりなんだ、俺は。
「◯◯いるのに、にじゅうにーてんごどだから、きょうはさむいひ」
俺がいる部屋は、室温が妙に高くなる。※1
理由は、謎である。
「体温が高いのかなあ……」
体表面の温度と室温との差が大きいから、余計に寒く感じるとか。
でも、末端は冷たいぞ。
そんなことを考えていると、
ずぼ。
「うひ」
うにゅほが作務衣の共襟に手を突っ込んできた。
「あったかー……」
「いきなりはやめなさい、いきなりは」
「ごめんなさい」
ぺこりと謝る。
だが、手を抜こうとはしない。
「◯◯はね、からだがあったかい」
「そうなん?」
「いつもあったかい」
胴体部からの放熱が激しいのだろうか。
「ひざにすわると、せなかあつい」
「そうなんだ……」
初めて知った。
うにゅほが俺にとって最高の暖房器具であるように、俺もうにゅほにとって極上の暖房器具なのだろう。
Win-Winの関係である。

※1 2017年10月8日(日)参照



2017年10月20日(金)

「あ」
ブラウジングをしていて気づく。
「今日の金曜ロードショー、ハリー・ポッターだって」
「そなんだ」
ぺら。
うにゅほが、ふしぎ研究部二巻のページをめくる。
いまいち反応が淡白である。
「××、ハリー・ポッター興味ない?」
「おもしろい?」
「……いや、実は俺、映画版はちゃんと観たことないんだよな」
「はりーぽったー、ほんもあるよね」
「小説が原作だな」
「しょうせつ、おもしろかった?」
「──…………」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「あんまり内容を覚えていない、ん、だけど……」
「うん」
「さほど面白くなかった気がする」
「そなんだ……」
「でも、人気あるんだし、映画は面白いのかも」
「んー」
うにゅほが思案する。
「やっぱ興味ない?」
「うーとね」
「うん」
「もう、くじはんだから……」
壁掛け時計を見上げる。
「あ」
「ね?」
「今から見ても、途中からだな……」
「でも、ぜんろくあるから」
「まあ、うん」
いつでも見れるとなると、途端に見なくなるんだよなあ。
最近、自室のテレビの前がぬいぐるみ置き場になっている。
いいけど。



2017年10月21日(土)

カチカチッ。
「……?」
カチカチッ。
「あれ、変だな……」
「どしたの?」
「フォルダを開いたときのシステム音が鳴らない」
「しすてむおん?」
「えーと、カチッて音」
「──…………」
うにゅほが心配そうな表情を浮かべる。
「まうす、かちってなってるよ……?」
「……言い方が悪かった」
うにゅほを手招きし、イヤホンを片方渡す。
「画面見てて」
「うん」
適当なフォルダを開く。
エロ画像のサムネイルが紛れていた。
「……いまのはいったん見なかったことにして」
「うん」
すべてを受け入れ許す微笑みの隣で、今度は確実にそういったもののないフォルダを開く。
「──いま、不自然じゃなかった?」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
普段からPCを使い慣れていないと、わからないかもしれない。
「こうしてフォルダを開いたりすると、カチッて音が鳴るはずなんだ」
「あー」
「わかる?」
「したきーする」
うんうんと頷く。
「特に困りはしないけど、なーんかイヤな感じ」
「そなの?」
「故障とかって芋づる式だから、ひとつおかしいと、もっとおかしい場所があるかもしれない」
「あー……」
「……とりあえず、直してみよう」
「なおせるの?」
「ネットで調べながら、なんとかやってみる」
「おー」
システム音の異常は五分程度で簡単に直ったが、その原因がわからない。
データのバックアップだけはしておこう。



2017年10月22日(日)

風呂上がりのことである。
「あれー……」
濡れ髪を左手で撫でつけながら、引き出しを順々に開いていく。
「なにさがしてるの?」
「化粧水切れたから、新しいやつ」
「ふた、あかいやつ?」
「そうそう」
「あけてないの、あったきーする」
「一気に三本買った記憶があるから、どっかにあるはずなんだけど……」
心当たりのある場所は、すべて探した。
心当たりのない場所まで探した。
けれど、
「──ない!」
短髪が乾きかけるまで探し回ったのだから、もうないということにしてしまおう。
「うん、新しいの買ってこよ」
「いま?」
「やだよ寒い」
「だねえ」
「一日二日化粧水つけなかったくらいで、どうにかなるものでなし」
そもそも、つけたらどうなるかすら、実はよくわかっていない。
習慣だから、そうしているだけだ。
「わたしのつかう?」
「××の、高そうだし……」
「そかな」
母親に貰ったものらしいが、俺の使っていた数百円の化粧水とは容器からして違う。
「化粧水だけじゃなくて、乳液とかも別にあるんだろ」
「うん。けしょうすいのあとに、にゅうえきつけるんだよ」
「……化粧水だけ借りようかな」
「えー」
「乳液って、なんかベタベタしない?」
「ちょっとする」
「苦手」
「そか……」
結局、化粧水だけ借りた。
数百円の化粧水と、違いはよくわからなかった。



2017年10月23日(月)

表現しにくい感覚──というものは、存在する。
痛い、ではない。
苦しい、とも違う。
もちろん、快くは決してなく、かと言って耐えがたいほどでもない。
総合的に"気配"とでも呼ぶしかないその感覚は、言わば風邪の前触れだ。
ひとつでも不摂生をすれば、いますぐ風邪を引いてやる。
そんな、体からの最終警告である。
「──…………」
「あ、おはよー」
「おはよう」
起床し、真っ先に靴下を履く。
「……?」
うにゅほが不思議そうな顔をする。
俺も、うにゅほも、靴下嫌いだ。
外出時以外は冬でも履きたくない。
「どっかいくの?」
「行かない」
「あし、つめたいの?」
「そうでもないかな」
「──…………」
うにゅほが正面から俺に抱きつき、すんすんと鼻を鳴らす。
「……かぜのにおいする」
「もうするか……」
風邪の匂い。
うにゅほ曰く、ラムネと何かが混じったような匂いらしい。
「ますくもってくるから、ねてて」
「起きたばかりなんですが……」
「ねれない?」
「頑張れば」
「がんばって」
「はい……」
相変わらずの甲斐甲斐しさに、申し訳なくなってくる。
だが、その思考自体が風邪特有の弱気であるように思えて、慌ててかぶりを振った。
看病してくれる相手がいて、幸福だと思わなければ。
お返しは、うにゅほが風邪を引いたときにしてやればいい。
そんなことを考えながら安静にしていたら、夕刻には復調していた。
だが、まだ油断はならない。
数日は様子を見るべきだろう。



2017年10月24日(火)

「──…………」
すんすん。
「うん。かぜのにおい、もうしない」
「とりあえずは一安心かな」
「ゆだんしたらだめだよ」
釘を刺されてしまった。
「大丈夫大丈夫」
「ほんとかな」
「ほら、靴下履いてるし」
「ほんとだ」
「半纏も羽織ってる」
「うん」
「マスク外しちゃダメ?」
「うーん……」
うにゅほがしばし思案する。
「……ますくは、うん、いいかな。いきぐるしいもんね」
「やった」
サージカルマスクを外し、ゴミ箱に捨てる。
「伝染らないとは思うけど、××が風邪引いたら、ちゃんと看病するから」
「おねがいします」
ぺこり。
「お願いされます」
ぺこり。
「わたしもがんばるね」
うにゅほが、ぐ、と気合いを入れる。
「はい、ねてねて」
「さっきまで寝てたんですが……」
「ねれない?」
「さすがに」
「ねれないかー……」
うにゅほの頭を撫でながら、告げる。
「看病を頑張るのは、俺がつらいときだけでいいから」
「◯◯、つらくない?」
「いまは特に……」
「なら、よかった」
うへーと笑う。
「××も、つらくなったら言ってくれな」
「──…………」
うにゅほがインナーの裾をめくる。
腹巻き。
「あー……」
「おなか、なでてほしいな」
「了解しました」
自分がつらいのに、人の心配ばかりして。
まったくもう。



2017年10月25日(水)

天井に届かんばかりに腕を伸ばし、伸びをする。
「──復、活!」
「わー」
ぱちぱち。
「うむ、快調である」
「よかった」
「看病してくれて、ありがとうな」
うにゅほの頭を撫でる。
「うへー……」
「まあ、でも、出掛けるのもなんだし、今日はお部屋で遊びましょう」
「はーい」
「ちと面白そうなものを手に入れたのだ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「ちょい待ち」
カバンを開き、それを取り出す。
「あいぱっど?」
「デザインは明らかにパクってるけど、iPadにしちゃ安っぽいだろ」
「そだねえ……」
「えーと、電子メモ帳だか、電子メモパッドだか、そんな名前のやつなんだけど」
「……?」
「つまり、だ」
メモパッドの背後からペンを取り出す。
「これで、メモが書ける。ボタンを押すと、消せる」
「おー!」
「単純だけど、ちょっと楽しそうだろ」
「やってみたい!」
「待て待て、電池を入れないと」
「あ、そか」
「単三──、単四? いや、乾電池じゃないな。ボタン電池か」
「でんち、ある?」
「あるある」
引き出しから新しいボタン電池を取り出し、メモパッドに入れる。
「うと、もうかけるの?」
「書いてみ」
「うん……」
うにゅほが、パッドの上でペンを動かす。
「あ、かけた!」
画面には、「メモ」と書かれていた。
「ボタン押してみ」
「うん」
ぽち。
「あ、きえた!」
「一瞬で消えるんだな」
「ふしぎ……」
「絵も描けるぞ」
メモパッドを受け取り、さらさらとドラえもんを描く。
「わたしもかいていい?」
「いくらでも」
実用的かどうかはさて置くとして、小一時間ほど遊べたので満足である。



2017年10月26日(木)

「──…………」
舌先で、左奥歯の裏をつつく。
気になる。
とても気になる。
「◯◯、また、もごもごしてる」
「……そんなにしてる?」
「さいきんしてる」
「そうか……」
そうかもしれない。
「もしかして、はーいたいの?」
「痛くはない」
「しみる?」
「しみる、というほどでもないけど……」
「けど?」
「歯の裏側に、穴が開いてる」
「!」
うにゅほが目をまるくする。
「なんか、銀歯の下あたりが欠けたみたい」
「だいじょぶ……?」
「いまのところは、食べカスが詰まるくらいかなあ」
「あ、だから、つまようじ」
「そういうこと」
さすがうにゅほ、よく見ている。
最近、食後に爪楊枝を使うことが増えたのは、そういう理由からだった。
「はいしゃ」
「……まあ、うん。行かないととは思ってたんだ」
「あしたいこ」
「明日かあ……」
「ようじある?」
「ないけど」
「いこ」
「でも、まだ、痛くないし……」
「いたくなるよ」
「痛く、なるよなあ……」
いくら食べカスを除去しても、歯ブラシの毛先は届かない。
その場所だけは、磨いていないのと変わらないのだ。
「……うん。明日、予約入れる」
「そうしましょう」
こういうとき、うにゅほがいてよかったとつくづく思う。
自分だけだと、痛くなるまで行かないもんなあ。



2017年10月27日(金)

「ただいまー」
玄関の扉を開くと、ぱたぱたという足音と共に、うにゅほが俺を出迎えた。
「おかえり!」
ぽんと頭を撫で、靴を脱ぐ。
「はーなおった?」
「銀歯を作り直すから、一日じゃ無理だなあ」
「むしば、なかった?」
「やはりと言うか、軽く虫歯になってたみたい」
「そか……」
「もう削っちゃったけどな」
左の口角を指で引き、奥歯を見せる。
「はーない」
「銀歯ができたら、かぶせて終わり」
「あ」
すんすん。
うにゅほが鼻を鳴らす。
「どした?」
「◯◯のくち、はいしゃのにおいする」
「あー……」
口元に手を当て、口臭を確認する。
「うん、する。歯医者の匂い」
喩えられない、あの匂い。
「──…………」
すんすん。
「嗅ぐな嗅ぐな」
「えー」
「あんまりいい匂いじゃないだろ」
「いいにおいじゃないけど、いやなにおいじゃないよ」
「そうかな……」
俺にとっては、嫌な記憶を想起させられる嫌な匂いなのだけど。
「××、虫歯になったことないもんな」
「ないよ」
いー。
先程の俺の真似をして、両の口角を指で引いてみせる。
「……一度でもなれば、嫌な匂いになるよ」
「そなの……?」
「そうならないために、ちゃんと歯を磨きましょう」
「はい」
ちゃんと磨くべきは、むしろ俺なのだけど。



2017年10月28日(土)

「──あ、ダメだ」
クロレッツのボトルに手を伸ばしかけ、慌てて引っ込める。
「ガム、だめなの?」
「銀歯ができるまで、仮の詰め物をしてるんだよ」
「あー……」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「ガムかんだら、とれちゃうね」
「そうかも」
ガムは、案外大丈夫かもしれない。
だが、キャラメルを食べたら確実に取れるだろう。
食べないけど。
「みぎでかむとか」
「顎痛くなりそう」
「そだねえ……」
「ガム食べなきゃ死ぬわけでもないし、しばらく我慢するよ」
「ダイエット、だいじょぶ?」
「うん……」
もともと、小腹が空いたときのために用意したものだ。
「まあ、気休め程度だし」
噛めば噛むほど満腹中枢が刺激されるらしいが、どうあっても100にはできまい。
「でも、◯◯、やせたねえ」
「わかるか」
「うん、しゅってした」
目に見えて痩せたのなら、ダイエットをした甲斐があったというものだ。
「これでも、一時期よりはまだ体重あるんだけどな」
「むかし、すーごいほそかったもんね」
「そんなに?」
「かおとか、げそってしてた」
「二年くらい前の写真とか見ると、たしかに……」
「ね」
「××はあんま変わらないよな」
「まえより、すこし、ふとったきーする」
「そうかあ?」
ぜんぜんわからん。
「わたしも、ダイエットしようかなあ……」
「やめときなさい。不要なダイエットは、逆に太るぞ」
「そなの?」
「1kg痩せて2kgリバウンドするとか、ざらにあるからな」
「それはやだな……」
痩せるのは簡単だが、維持するのは難しい。
ダイエットとは、かくも面倒なものなのである。



2017年10月29日(日)

Steamを開くと、セールが行われていた。
「あー、ハロウィンが近いのか」
「そだよ」
「トリック・オア・トリート!」
「まだはやい」
「まだ早いか」
「うーと、たしか、さんじゅういちにち」
「あんま関係ないけどな」
「そだね」
仮装をする気もなければ、騒ぐつもりもない。
近所を練り歩いて菓子をねだるには、あまりに歳を重ね過ぎている。
「──…………」
じー。
うにゅほを見つめる。
「?」
小首をかしげる。
「……××は、うん。ギリギリ……、いや、ギリギリ無理か……」
「なにが?」
「なんでもない」
「……?」
「お菓子なら、俺が山ほど買ってあげるから」
うにゅほが苦笑する。
「そんなにはいらない……」
そりゃそうだ。
「──お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、か」
「とりっく、おあ、とりーと」
「イタズラって、具体的に何をされるんだろうな」
「さあー……」
「調べてみよう」
「うん」
調べてみた。
「……玄関に生卵を投げる」
「えー!」
思った以上にガチだった。
「他にも、ホイップクリームを車に投げつけたり、水鉄砲を浴びせたりするらしい」
「くるまよごしたら、おとうさんおこるよ……」
「素直にお菓子をあげましょう」
「うん……」
ハロウィン、思った以上に恐ろしい祭りだった。
ここが日本でよかった。



2017年10月30日(月)

「わー……」
窓に貼りついたうにゅほが、外の様子に見入っている。
「あめ、すごいねえ」
「台風かな」
「たいふう、おんたいてきあつになったって」
「そうなんだ」
「うん」
「××は詳しいな」
「あさ、てんきよほうでみたの」
「俺、天気予報あんま見ないからなあ。関係ないし」
在宅勤務の特権である。
「ううん」
うにゅほが首を横に振る。
「かんけいあるよ」
「そうかな」
「◯◯、ていきあつだと、ぐあいわるいから」
「あー……」
たしかに。
事実、今日も体調が芳しくない。
「ねむい?」
「ちょっとだけ」
「ねたほういいよ」
「うーん……」
やることあるしなあ。
「あれしよ」
「あれ?」
「かみん」
「……それなら、まあ」
「ひざまくらと、リクライニング、どっちする?」
二択なんだ。
「じゃあ、今日は膝枕で」
「うへー……」
うにゅほが嬉しそうに微笑む。
当たりを引いたらしい。
「じゃ、こっち!」
「はいはい」
うにゅほに手を取られ、ベッドへ向かう。
三十分の幸せだ。
体調が悪くても、まあいいかと思えるのは、とても恵まれているのだろう。



2017年10月31日(火)

ハロウィンである。
「──トリック・オア・トリート!」
「わ」
「お菓子くれなきゃ、生卵ぶつけるぞ!」
「それ、ほんばのやつ……」
ハロウィンの本場がどこかは知らないが、調べた限りではそうらしい。
「うん、生卵はやめよう」
「やめよう」
「改めて、お菓子くれなきゃイタズラするぞ!」
「おかしない」
「では、イタズラですね」
じり。
一歩、うにゅほに近づく。
「──…………」
じり。
一歩、うにゅほが下がる。
「くくく……」
じり。
一歩、うにゅほに近づく。
「!」
じり。
うにゅほが、本棚に追い詰められる。
「イタズラじゃー!」
「わあ!」
うにゅほの横っ腹に手を伸ばし、
「こちょこちょこちょこちょ!」
「ま、うひ、うしし、ひゃひふ、ふふひー!」
しばしうにゅほをくすぐり倒す。
「成敗」
「ひー……」
くて。
うにゅほが力なくその場に横たわる。
満足してチェアに戻ろうとしたとき、うにゅほが小さく口を開いた。
「……とりっく、おあ、とりーと……」
「!」
「……◯◯、おかしもってる?」
「ガムなら──」
「もんどうむよう!」
「ちょ、ま、ぐ、うひひひゃははははは!」
なべて世は事もなし。

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