>> 2017年8月




2017年8月1日(火)

空になったペプシのダンボール箱を畳んでいたときのことである。
「──ぐッ!」
胸を衝く痛み。
「◯◯……?」
俺の呻きを聞きつけてか、うにゅほが、読んでいた本から顔を上げる。
「──…………」
「どしたの?」
「……いや、なんでもない」
畳み終えたダンボール箱を、箪笥と壁のあいだに挿し込む。
「◯◯、ぐ、っていった」
「言ってないよ」
「きこえた」
「──…………」
「◯◯、けが、してない?」
「してないって」
「ほんと?」
心の底から心配そうに、うにゅほがこちらの顔を覗き込む。
言えない。
ダンボール箱のカドが乳首にクリーンヒットしただなんて、恥ずかしくて言えない。
しかし、うにゅほの追求は容赦ない。
「◯◯のこえ、いたそうだった……」
「う」
「ほんとに、けがしてない?」
「怪我は、してない」
「──…………」
じ。
上目遣いで見つめられる。
「──と、思う。そのはず」
「てー、きってない?」
「手じゃないよ」
「どこ?」
しまった、墓穴を掘った。
「──…………」
「どこ?」
「……乳首」
「ちくび」
「はい。カドで乳首を打ちました……」
なんだこの羞恥プレイ。
だが、うにゅほの反応は、予想を遥かに越えていた。
「みして」
「……はい?」
「ちくび、みして。けがしてるかも……」
「──…………」
「はい」
ぺろん。
うにゅほが、俺の甚平の上衣をめくる。
「ぎゃー!」
思わず後じさる。
「自分で確認するから勘弁してください!」
「えー」
どうして残念そうなんだよ。
うにゅほ、恐ろしい子。



2017年8月2日(水)

「ふー……」
ペダルを漕ぐ足を止め、首に掛けたタオルで汗を拭う。
表示パネルには「20.00k」の文字。
一日一時間のエアロバイクは、俺の日課である。
「おつかれさまです」
「いえいえ」
「おちゃ、つめたいの、のむ?」
「飲む」
「いまだすね」
差し出されたタンブラーの中身を一気にあおる。
「──ッ、はー……、美味い!」
喉から染み入る冷たさが、四肢の末端まで行き渡るかのようだった。
「◯◯、すごいねえ」
「何が?」
「えあろばいく、まいにちこいで」
「毎日漕いでるわりには痩せないけどな」
「まいにちこぐのがすごい」
「だったら、××のが凄いだろ」
「?」
「掃除、料理、家事全般。毎日やってるじゃん」
「わたしのしごとだもん」
うにゅほが小さく胸を張る。
自分の仕事に誇りを持っているのだ。
「しごとだったら、◯◯も、まいにちしてすごいよ」
「……まあ、お金のためだけどな」
手放しで褒められるのは、なんとなく照れくさい。
「おかねかせげるの、すごいとおもう」
「世の中の大抵の人は、お金を稼いで生きてるんだぞ」
皮肉げな俺の言葉に、うにゅほが、てらいのない笑顔で答えた。
「だったら、みんな、すごいんだね」
「──…………」
言葉にできない暖かいものが、腹の底から溢れてくる。
「××」
「?」
「××は、癒し系だな」
「うへー……」
凄いのは、うにゅほの方だと思う。
この子を独り占めしている自分は、なんて罪深いのだろう。
そんなことを考える八月の午後だった。



2017年8月3日(木)

「あぢー……」
首筋の汗を手の甲で拭いながら、ベッドを下りる。
「あ、おきた」
「起きました」
「おはようございます」
「おはよ」
「あついねえ……」
「なんか、じっとりしてるよな」
「ペプシのむ?」
「飲む」
「はーい」
タンブラーにゆっくりとペプシを注ぐうにゅほを横目に、タオルで上半身を拭う。
「なんか、変な夢見たなあ……」
「どんなゆめ?」
「えーと──」
夢の記憶は、毎秒消えていく。
取り留めのないその内容は、手探りで掴んだとしても、言葉にするのは難しい。
「……たしか、鬼が」
「おに?」
「あーいや、鬼は忘れてくれ。あんまり関係なかった」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
気持ちはわかる。
「あ、そうだ。コロが出てきたぞ」
「!」
コロ。
数年前に死んだ愛犬の名だ。
「出てきてくれたのは嬉しいけど、まとわりつかれて暑いのなんのって──」
「◯◯、すごい」
「何が?」
「わたしも、コロのゆめみたの!」
「マジか」
「まじ」
「お盆が近いから、帰ってきたのかな」
「そか……」
「お墓に、ビーフジャーキーでもお供えしておくか」
「うん!」
ただの偶然だ。
そんなことはわかってる。
でも、偶然に意味を見出すのは、俺たちの勝手だ。
父親の酒の肴をこっそり拝借して、庭にある愛犬の墓に供えた。
「犬用じゃないけど、ま、いいだろ」
「うん」
ビーフジャーキーをはぐはぐ食べる愛犬の姿に思いを馳せる一日だった。



2017年8月4日(金)

「◯◯、えんぜるでた?」
「残念ながら」
「そか……」
「××も?」
「きいろ」
うにゅほが、チョコボールのくちばしを開いてみせる。
黄一色である。
「えんぜる、ぜんぜんでないねえ……」
「こないだなんて、一日に三枚も出たのにな」※1
「とりすぎたのかな」
「絶滅危惧種じゃあるまいし」
乱獲によってエンゼルの生息数が激減したとか、あまりに夢のない話である。
「あたらしいおもちゃのかんづめね、なでたらしゃべるんだって」
「そうなんだ……」
この子、何歳だったっけ。
「◯◯、ほしくない?」
「××は欲しいんだろ」
「うん」
「じゃあ、頑張って集めよう」
「うん」
頑張ると言っても、おやつにチョコボールを食べるだけだけど。
「◯◯の、なにあじ?」
「期間限定のやつだな。ココアビスケット、だって」
「おいしい?」
「まだ食べてない」
「あ、そか」
チョコボールを一粒、口に放り込む。
さく、さくさく。
「美味い」
「いっこ」
「はいはい」
「キャラメル、いる?」
「銀歯が取れるからいらない」
「そか」
果たして、金のキョロちゃん缶をゲットすることはできるのだろうか。
それは、エンゼルのごきげん次第である。

※1 2017年5月3日(水)参照



2017年8月5日(土)

「──××、ウナコーワどこだっけ」
「あるよー」
どこからか、うにゅほがウナコーワクールを取り出す。
「か、さされたの?」
「参ったよ。玄関先で友達と話してたらさあ」
「ぬったげるね。みして」
「えーと、まず──」
「まず?」
小首をかしげるうにゅほに、左手を差し出す。
「左手が、三ヶ所」
「わあ!」
「めっちゃ刺された」
「たいへんだ……」
「痒い」
「いまぬるね!」
さり、さり。
ウナコーワクールのもろこしヘッドが、患部を優しく刺激する。
「きもちい?」
「気持ちいい」
「ほか、どこさされたの?」
「右足の甲と、あと、確認してないけど太腿も痒い」
「そか……」
さり、さり。
さり、さり。
「あー、そこそこ」
「もうさされてない?」
「たぶん」
刺されているかもしれないが、痒くないから問題ない。
「はい」
「?」
差し出されたウナコーワクールを受け取る。
「わたしも、ぬってほしいな」
「××も刺されたのか?」
「ううん」
「あせもとか」
「できてないよ」
「……もろこしヘッドで掻いてほしいだけか」
「うへー……」
図星らしい。
「じゃあ、液が出ないように掻こう」
「はい」
「どこがいい?」
「うーとね、じゃあ──」
しばしのあいだ、もろこしヘッドでよきところを掻き合うふたりなのだった。



2017年8月6日(日)

「◯◯ー」
ウナコーワクールを手にしたうにゅほが、こちらへ歩み寄ってきた。
「てーだして」
「あー……」
うにゅほの気持ちはありがたいのだが、
「もう大丈夫だよ」
「えー」
うにゅほが不満げに口を尖らせる。
「いまかゆくなくても、またかゆくなるかも……」
「それ以前の問題でして」
「?」
左手を差し出す。
「──…………」
「な?」
「あとかたもない……」
どこに塗ればいいのかすら、判然としない。
非の打ちどころのない完治である。
「……◯◯、ずるい」
「すみません……」
うにゅほは、蚊に刺されると、数日は腫れる体質なのだ。
「でも、よかった」
ほにゃりと笑う。
「ずるいけど、かゆくないのがいちばんだもんね」
「まあなー」
「わたしさされたら、◯◯、ウナコーワぬってくれる?」
「毎日だって塗ってやるぞ」
「うへー」
「キンカンでもいいぞ」
「きんかん?」
「臭いウナコーワみたいの」
「くさいの……」
「臭いけど、好きな人は好きかも」
「そなんだ」
子供の頃はよくキンカンを使っていたので、夏の香りという気がしないでもない。
「ウナコーワがなくなったら、キンカンだな。たしか、どっかにあったから」
「はーい」
もろこしヘッドがないから、うにゅほには物足りないかもしれないなあ。
でも、もろこしヘッドは生産中止になったという話も聞くし、こればかりは仕方ないだろう。
要は、刺されなければいいのだ。
うにゅほが蚊に狙われないよう、細心の注意を払って窓の開閉を行わねば。



2017年8月7日(月)

「あち、あち」
トイレより帰還したうにゅほが、エアコンの風下に立つ。
「すずしー……」
「トイレ、そんなに暑かった?」
「あつい!」
「そうなのか」
「きょう、すーごいあついよ」
「へえー」
暑い、らしい。
起きてから一度も自室を出ていないので、よくわからない。
「人類は堕落した……」
ごろんごろん。
ベッドの上で寝転がりながら、スマホの画面をタップする。
本日の気温は30℃超。
絶対部屋から出たくない。
「去年まで、扇風機だけで過ごしてたんだよなあ……」
「うん」
「信じられん」
「ことし、せんぷうきつけてないね」
「必要ないからなあ」
「──…………」
「──……」
「……つけていい?」
言うと思った。
「では、今日は扇風機デーにしましょう」
「はい!」
エアコンを切り、窓を開け、部屋の隅で壁に向かっていた扇風機の電源を入れる。
ふわり。
うにゅほの髪が、風になびいた。
「ふいー……」
「涼しい?」
「すずしいねえ……」
「俺も俺も」
「うん」
うにゅほの隣に陣取り、一緒に風を受ける。
「おー……」
エアコンの鋭い涼気とは違う、柔らかな風。
「……たまには扇風機もいいなあ」
「ね」
夏は、まだ続く。
大いに堪能しようではないか。



2017年8月8日(火)

「××さん」
「?」
「映画を観ましょう」
「こないだかりたやつ?」
「そう」
「こわいやつ……」
「コワクナーイ、コワクナーイ」
「ほんとかな」
「真面目に答えると、人は死ぬ」
「う」
「ゾンビは出ない」
「おばけは?」
「わからない」
「……なんてやつ?」
「ファイナル・デスティネーション」
「ふぁいなる、です、なに?」
「ファイナル・デスティネーション」
「──…………」
あ、諦めた。
「とりあえず、予告編だけでも見てみるとか」
「うん」
うにゅほを膝に乗せ、ファイナル・デスティネーションのトレーラーを再生する。
「──…………」
「──……」
「こわい」
「怖いかー……」
そうでもないと思うのだが。
「じゃ、やめとく?」
「──…………」
「見る?」
「……こわいとこなったら、めーとじていい?」
「もちろん」
「そか……」
「なんなら目隠ししてあげようか」
「おねがいします……」
そんなわけで、死亡シーンのたびにうにゅほに目隠ししつつ、ファイナル・デスティネーションを観賞したのだった。
「はー……」
「けっこう面白かったな」
「うん」
「ところで、続編も借りてあるんだけど」
「……!」
うにゅほが固まる。
「……今日はやめとくか」
「はい……」
気力の限界らしい。
返却期限までに観ることができればいいのだけど。



2017年8月9日(水)

「おあー……」
でろん。
四分の一ほどベッドからはみ出したまま、目を閉じる。
だるい。
とにかくだるかった。
「──…………」
なでなで。
俺の頭を撫でながら、うにゅほが心配そうに問う。
「……◯◯、だいじょぶ?」
「やー、だいじょばないですね……」
今日の天気は、曇り時々雨。
台風5号は、昨夜、温帯低気圧に変わったと言う。
「でも、低気圧は低気圧なんだよなあ……」
気圧が低いと、体調が悪い。
子供のときからそうなのだ。
「……寝る」
「ひざまくら、していい?」
「いや、仮眠じゃなくてガチ寝するから……」
「そか……」
膝枕は三十分まで。
それ以上は、足が痺れてしまう。
「……てーにぎってていい?」
「気持ちは嬉しいけど、それじゃ漫画も読めないだろ」
「──…………」
「──……」
「あし、ひっつけてていい?」
わかった。
くっついていなければ、不安で仕方がないのだ。
「××」
「はい」
ベッドの端に身を寄せ、空いたスペースをぽんぽんと叩く。
「一緒に寝るぞ」
「!」
「腕枕は、痺れるから無しで」
「はーい」
もぞもぞ。
「おじゃまします……」
「うい」
「……うへー」
うにゅほが、隣で、満足げに笑う。
「とりあえず、二時間くらいで起こして……」
「わかった」
うにゅほの体温を懐に感じながら、目蓋を閉じる。
次に目を覚ましたのは、案の定、三時間後だった。
「──……すう」
熟睡するうにゅほを横目に、今度から、面倒がらずにアラームを設定しようと決意する。
うにゅほの生活サイクルが乱れないか、心配だ。



2017年8月10日(木)

今日のぶんの仕事を終え、ぐっと伸びをする。
「──よー、やっと、夏休みだー!」
「おー!」
伸びのついでにうにゅほとハイタッチを交わし、立ち上がる。
「なつやすみ、いつまで?」
「15日まで」
「あしたから、いつかかん」
「……まあ、明日と明後日は墓参りだけどな」
「そしたら、みっかかん?」
「──…………」
8月11日は、山の日だ。
12日と13日は、もともと土日である。
「もしかして、純粋な夏休みって──」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「……いや、やめよう。考えないようにしよう」
考えても虚しくなるだけだ。
「よし、楽しいことだけ考えましょう」
「そうしましょう」
「××さん、楽しいことはありますか?」
「はかまいり!」
「──…………」
そういえば、うにゅほは墓参りエンジョイ勢だった。
「それ以外で」
「それいがい……」
「あ、ニコ生でシャークネードやるぞ」
「しゃーくねーど?」
「竜巻でサメが飛んでくる映画」
「……?」
よくわからないらしい。
言ってる俺も、よくわからない。
「サメ映画だし間違いなくゴア描写あるから、××は駄目かも」
「ごあ?」
「血しぶきとか、肉片とか」
「むり」
だろうなあ。
「とりあえず、今日はゆっくりしよう。明日は墓参りだし」
「そだね」
明日から五日間、仕事がない。
たったそれだけのことで、こんなにも心が晴れやかだ。
やりたいこと、すべきことは、山ほどある。
でも、半分もこなせないんだろうなあ。



2017年8月11日(金)

疲れた。
本当に、疲れた。
あまりに疲弊しきっているもので、本日の日記は最低限としたい。
まず、今日は父方の墓参りだった。
朝六時起床の六時半出立で、三時間かけて菩提寺へ。
行きの車内で睡眠時間を確保するつもりだったのだが、揺れがひどくて眠れず。
昼食後、温泉へ向かうものの、源泉の温度が30℃でかえって目が冴える。
伯父の家でのんびりするつもりが、従姉のやんちゃな子供たちに付き合わされて、残りHPがドット単位に。
アルコールの入った両親の代わりに帰途の運転を担当し、慣れない車幅のランクルを駆ること三時間、午後十時過ぎにようやく帰宅し、今に至る。
「──…………」
チェアの上で斜めになりながらキーボードを叩いていると、
「はい、◯◯」
とん。
デスクの上に、麦茶の入ったタンブラーが置かれた。
「ありがとう……」
「きょう、おつかれさまでした」
もみもみ。
「おあー……」
うにゅほの小さな手のひらが、凝り固まった肩の筋肉を揉みほぐす。
握力はないが、心地いい。
「……××、今日、楽しかった?」
うにゅほにとって、墓参りとは、家族皆で出掛ける夏の一大イベントだ。
俺だって、子供のころは、毎年楽しみにしていた記憶がある。
いつしか食傷してしまったけれど。
「たのしかった!」
「そっか」
その一言で、今日一日の疲れが報われる。
だが、
「──明日は、母方の墓参りですね」
「う」
「さしもの××も、二日連続はきついか」
「ちょっとだけ……」
母方の墓のある霊園は、父方のものより程近い。
今日ほどは疲れないはずだ。
たぶん。



2017年8月12日(土)

母方の墓参りは、三時間で終わった。
午前十一時に家を出て、帰宅したのは午後二時過ぎ。
父方の片道ぶんで行って帰ってこれるとは、子孫に優しいご先祖さまである。
「──とは言え、疲れた……」
正確には、昨日の疲れが抜け切っていないのだ。
だが、夕方には、友人と会う約束がある。
午後四時には家を出なければならない。
ひと眠りしたい。
したいのだが、
「日記を、日記を書かねば……」
帰宅がいつになるか、わからない。
であれば、最低でも半分は書いてから家を出ねば、あとで困るのは自分である。
問題があるとすれば、今日という一日がまだ終わっていないことだろう。
「……それって日記なのか?」
自問しながらキーボードを叩いていると、
「──…………」
うにゅほがそっと腕の下をくぐり、俺の膝の上でうつ伏せになった。
はみ出た四肢がだらんと垂れている。
「うへー」
「なんか猫っぽい」
「……そかな」
不満そうだ。
「お手」
「わん」
「犬っぽい」
「わふー」
うにゅほが満足げに唸る。
猫より犬と呼ばれたほうが、明らかに嬉しそうだ。
「この泥棒猫!」
ぺしぺし。
手頃な位置にあったおしりを叩いてみる。
「どろぼうしてないよ」
「知ってる」
「ねこじゃないよ」
「犬?」
「わんわん」
「このメス犬!」
ぺしぺし。
「わふー」
なにをやっているんだろう。
まあ、でも、日記が埋まったからいいか。



2017年8月13日(日)

「──……ゔー」
ここ数日の疲れが噴出したのか、寝ては起き、起きては寝てを繰り返す一日だった。
「……眠い……」
「ぶえ」
背後からうにゅほにのしかかる。
「お、も、い゙ー……」
「ごめんごめん」
うにゅほが潰れてしまう前に、離れて、ベッドに腰掛ける。
「◯◯、ねむいの?」
「眠い」
「ねむいとき、ねたほういいよ」
「俺もそう思う」
「ねましょう」
うにゅほが、俺の肩に丹前を掛ける。
「でも、このやり取りも、今日だけで三度目だからな……」
「うん」
「もう五時だし」
「うん」
「……さすがに起きようかと」
「ねむくない?」
「眠いけど、用事があるし」
「──…………」
うにゅほの表情が、見るからに翳る。
「……◯◯、また、やくそくあるの?」
「あー……」
勘違いさせてしまったようだ。
「××も、一緒に行こう」
「?」
「TSUTAYAにDVD返しに」
「いく」
「用事ってのは、それだけだよ」
「そか……」
うにゅほの頭をぽんと撫でる。
「しばらくは、××を置いて出掛けないよ」
「──…………」
「出掛けるときは、一緒に行こうな」
「うん!」
寝癖を整え、普段着に着替えて、ふたりでTSUTAYAへ赴いた。
帰り際に食べた自販機のアイスが、そこそこ美味しかった。



2017年8月14日(月)

「んあー……」
チェアの背もたれに体重を預けながら、天井を振り仰ぐ。
夏休み、四日目。
やりたいことはある。
すべきこともある。
だが、
「なーんもやる気起きねえー……」
キーボードを叩くのが億劫だ。
マウスすら重い。
動画をぼけーっと眺めているだけで一日が終わるのは、この上なく自堕落な休日の過ごし方と言えるだろう。
膝の上にちょこなんと腰を据えたうにゅほが、自信満々に口を開く。
「やすみは、やすむひ」
「そうだけどさ」
「やすまなかったら、やすみじゃないよ?」
言い得て妙である。
「でも、夏休みに入ってから、何もしてない気がする……」
「いちにちめと、ふつかめは、はかまいりいった」
「行ったな」
「みっかめは、ひろうかいふく」
「物は言いようだなあ」
確かにそんな感じだったけど。
「よっかめは、ほんとのおやすみ」
「ふむ」
「だから、やすんでいいんだよ」
「──…………」
うにゅほを、ぎゅーと抱き締める。
「……じゃあ、休む」
「うん」
五日目は、どうしようかな。
晴れたらふたりで出掛けるのもいいな。
夏休みに入ってから、ずっと天気が悪い気がする。
一日くらいは、晴れ間を見たいものだ。



2017年8月15日(火)

「──晴れた!」
カンカン照りとは行かないものの、ここ数日の空模様を考えれば、十分過ぎる好天だ。
「××!」
「わ」
うにゅほの手を引き、立ち上がらせる。
「出掛けるぞ」
「どこいくの?」
「小樽」
「おたる……」
「連れて行くって、言っただろ」※1
「!」
うにゅほの瞳が、ぱあっときらめいた。
「いく!」
「よーし、準備だ。まずは着替えだな」
「きがえ?」
「バイクで行くから、ホットパンツはまずい。ジーンズに穿き替えよう」
「はーい」
「あと、日焼け止めはきちんと塗るように」
「わかった!」
しっかりと準備を整えたのち、タンデムシートにうにゅほを乗せて出発する。
「──…………」
ぎゅう。
発進するとき俺の背中に顔を押しつける癖は、いつまで経っても直らない。
日焼け止めクリームがライダースジャケットにべったりくっついていそうで、それはそれで気に掛かるが、まあいいや。
国道5号線を西進し、小樽市へ着くころには、ちょうど昼時になっていた。
「こないだ、◯◯、かいせんどんたべたの?」
「はい、食べました」
「わたしもたべたいな……」
「同じ店でいいか?」
「うん!」
先月、友人たちと辿った道を、うにゅほとふたりで辿り直す。
北一ヴェネツィア美術館に足を運び、ルタオでパフェに舌鼓を打ち、あれやこれやと会話しながら大正硝子館をはしごする。
最後に赴いたのは、小樽オルゴール堂の本館だった。
「わあー……!」
高い天井、広い空間、クラシカルな店内が、無数のオルゴールに彩られている。
数十万点、あるいはそれ以上あるかもしれない。
「床、滑りやすいから気をつけろよ」
「わかっ、──ほあ!」
「ちょ!」
言った傍から滑ったうにゅほを、慌てて胸元に引き寄せた。
「ごめんなさい……」
「気をつけるように」
「はい……」
オルゴール堂の店内を、おっかなびっくり歩いていく。
「これ、ぜんぶ、おるごーる?」
「そう」
「ぬいぐるみも?」
「たぶん……」
「すごいねえ、すごいねえ!」
「せっかくだし、ひとつ買っていくか」
「うん!」
ふたりで三十分ほど迷った結果、小さな12角オルゴールをひとつ購入することにした。
バイクだから、大きすぎると持って帰れないし。
曲目は「虹の彼方に」。
理由は、なんとなく気に入ったからだ。
今日という一日が、うにゅほにとって、素晴らしい夏の思い出となれば幸いである。
美しいオルゴールの音色を聞きながら、そんなことを思うのだった。

※1 2017年7月14日(金)参照



2017年8月16日(水)

「夏休みが、終わりました」
「──…………」
「終わってしまいました」
「はい……」
「今日から、また、仕事です」
「がんばって……」
「頑張ります」
「!」
ぴ、と敬礼してみせると、うにゅほも敬礼を返してくれた。
「……でも、正直、夏休み短いよね……」
「うん……」
「一ヶ月とかわがまま言わないから、せめて二週間くらい──」
そこまで口にして、ふと気づく。
「……学生みたいに夏休みって呼ぶから、期待はずれな気分になるんだ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「社会人にあるのは夏休みではない! お盆休みだ!」
「あー」
うんうんと頷く。
「同様に、冬休みは正月休みとなる」
「なるほど」
「夏休みが五日間だと短いけど、お盆休みが五日間なら妥当な感じしない?」
「おぼんって、それくらいだもんね」
「──…………」
「◯◯?」
「夏休みが欲しい……」
「……うん」
「名目はなんだっていいから、二週間くらい休みたいです……」
「がんばって……」
「頑張る」
「うん」
「頑張るので、ごほうびをください」
「なにほしい?」
「膝枕をしてほしい」
「そんなでいいの?」
「生足で」
「なまあし」
「具体的に言うと、ホットパンツで」
「きがえるね」
なんて素直な。
今日の仕事を終えたあと、うにゅほの生足膝枕を堪能した。
うん。
このためならば、頑張れる。



2017年8月17日(木)

ペプシの備蓄が切れたため、買いに出掛けようとしたときのことだった。
「──あっ」
「?」
「ストラップの紐が切れた……」
「ほんとだ……」
愛用の携帯ストラップの松葉紐が、なかばほどで完全に千切れていた。
「えんぎわるいねえ」
「逆に、運がよかったかもしれないぞ」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「外で千切れてたら、本体部分を落としてたかもしれない」
「あ、そか」
「本体さえなくさなければ、松葉紐を交換するだけで済むからな」
「まつばひもっていうの?」
「そうだよ」
「へえー」
玄関で靴を履こうとして、
「靴紐が解けてる」
「──…………」
うにゅほの表情が、目に見えて翳る。
「……縁起が悪いのは、靴紐が切れたときだからな?」
「うん……」
「解けてるのは、普通だから」
靴を履き、玄関を出る。
家の前にある児童公園の向こう側に、小さくカラスの姿があった。
「……きょう、いくのやめよ」
「いや、遠い遠い!」
目の前を横切られたならまだしも、この距離のカラスを縁起が悪いと言うのなら、日本全国どこだって縁起が悪いだろう。
「気にしすぎだって」
「──…………」
俺の上着の裾を握りながら、うにゅほが無言の抵抗を貫く。
「……はあ」
溜め息ひとつつき、
「わかった。行くの、明日にしよう」
「うん……」
ペプシを飲まないと死んでしまうわけでもない。
水でも啜ってやり過ごせばいいだろう。
「××って、けっこう縁起とか気にするよな」
「きにする」
俺はさほど気にならないのに、いったい誰に似たのだろう。
母親だな、うん。



2017年8月18日(金)

「──…………」
ホームセンターで備蓄用のペプシを購入したあと、自室のベッドに突っ伏した。
「ねむみがある……」
「ねむみ」
「ねむみ」
「ねむみ、かわいいねえ」
「響きが?」
「うん」
文法としてはガッツリ間違っているのだが、それでもなんとなく通じてしまうのは、日本語の奥深さである。
「ねずみ」
「ねずみ?」
うにゅほが小首をかしげる。
「ねむみのある、ねずみ」
「ねずみ」
「うとうとしてる」
「かわいい……」
「次は、××の番」
「うーと」
しばしの思案ののち、
「……みみず?」
「みみず、可愛いかなあ」
「ねずみと、みみず」
「……なんか、急に絵本っぽくなったな」
「うん」
「ねむみのある、ねずみと、みみず」
「とうみん」
「冬眠だな」
「つぎ、◯◯のばん」
「あー……」
ルールのない言葉遊び。
意味などないが、それでも楽しい。
「じゃあ、寝耳に水」
「ねみみにみず」
「ねむみのある、ねずみとみみず、寝耳に水」
「おきちゃうかな」
「寝耳に水だからな」
なんだか、絵本が一冊描けそうな勢いだ。
絵の上手い方、三人で一山当ててみませんか。



2017年8月19日(土)

「──たー、べたー……」
ぼす。
自室のベッドに背中から倒れ込む。
「たべた、たべた」
うにゅほが、自分のおなかをぽんと叩いてみせる。
家族で焼肉を食べに行ったのだった。
「新しい焼肉屋さん、美味しかったな……」
「おいしかったー」
「××、おなかぽんぽん?」
「ぽんぽん」
「どれ」
両手をわきわき動かしながら、うにゅほに向かってにじり寄る。
「はい」
ぺろん。
うにゅほが、シャツの裾を自らめくり上げた。
なんと無防備な。
「ふむ……」
なでなで。
「おなか、まるい?」
「そうでもない」
「そか」
「──…………」
「──……」
「ぶす」
「うひ!」
「へそじゃへそじゃ!」
「へそだめー!」
うにゅほがこちらに背中を向ける。
「ぐへへ、へそを寄越すがよろしいのだ……」
「……かみなりさま?」
「そうです、雷様です」
「うそだー」
「嘘です」
「うそかー」
「へそをいじらせろー!」
「だめ」
「おなか痛くなっちゃうもんな」
「うん」
「あと、へそってけっこう臭──」
「あらってます!」
「確認させろー!」
「だめ」
「ぐへへー」
「わー!」
酒が入っていると、だいたいこんなテンションである。
うにゅほはへそを守りきったので、ご安心を。



2017年8月20日(日)

自室の小型冷蔵庫を覗き込みながら、呟く。
「……これは、まずい」
「うん……」
「これはまずいと思い始めてから、何ヶ月経ったっけ」
「……さんかげつくらい?」
「たぶん、もっとかな」
「もっとかー……」
何がまずいのかと言えば、ズバリ、冷蔵庫の霜である。
幾度も解けて固まって、もはや巨大な氷塊に近い。
「まえ、しもとりしたとき、ちいちゃいバケツつかったけど……」
「駄目だ。ぜんぜん容量が足りない」
「うん……」
ですよねー、という表情を浮かべ、うにゅほが頷く。
「これは、日向に放置しておくしかないですね」
「そと?」
「ベランダでいいか」
「きょう、あつーいもんね」
「俺が運ぶから、物とかどけてくれるか」
「はーい」
冷蔵庫をベランダへと運び出し、太陽の方角に向けて扉を開ける。

がたん!
がらん、ごろ、──どざッ!

「──…………」
「いま、なんのおと?」
「入れっぱなしだったペプシのペットボトルが地面に落ちる音……」
「わあ!」
どうして確認しなかったのか。
「破裂してないかな……」
「みてくる!」
しばしして、うにゅほがペットボトルを持って戻ってきた。
「だいじょぶだった」
「貸してみて」
「はい」
ペットボトルを受け取り、腹のあたりを押してみる。
「……固い」
炭酸ガスでパンパンになっているらしい。
「これ、家の中では絶対に開けないように」
「ぶしゅーってなる?」
「天井まで飛び散る」
「わー……」
冷蔵庫の霜は、幾度かマイナスドライバーで掘削することで、夕刻までにはすべて除去することができた。
面倒がらず、次は早めに霜取りしよう。



2017年8月21日(月)

行きつけのゲームセンターで、ルートビアなる清涼飲料水を手に入れた。
「──…………」
「──……」
「のむ?」
「飲む、けど……」
尻込みするのには、理由がある。
「……てんいんさん、しっぷのあじするって」
「言ってたな」
「しっぷって、しっぷかな……」
「聞き間違いでなければ……」
湿布の味がする飲み物とは、いったい。
「……まあ、飲んでみるか。ぬるくなっちゃうし」
「そだね」
プシュ!
A&Wと大きく書かれた茶色い缶のプルタブを引き開ける。
「行きます」
「……!」
うにゅほが見守るなか、ルートビアをひとくち啜る。
「──…………」
「どう?」
「感想聞いてから飲む? 聞かないで飲む?」
「……きいてから」
「砂糖を大量にぶち込んで甘く煮た湿布の煮汁に炭酸を入れて冷やしたものの味がする」
「──…………」
「──……」
「おいしい?」
「不味い」
「……やめとこかな」
「まあまあ」
うにゅほの手に、ルートビアの缶を握らせる。
「ひとくち、ひとくち」
「うー……」
「あとは俺がなんとか処理するから」
「わかった……」
うにゅほが恐る恐る缶を傾けていく。
くぴ。
「……うべえ」
「どうだった?」
「しっぷのあじする……」
「な?」
残りのルートビアは、俺がなんとか飲み干した。
不味いは不味いが、話の種にはなる味だ。



2017年8月22日(火)

「──お、銀のエンゼル」
「おー!」
「××は?」
「きいろ」
うにゅほが、チョコボールのくちばしを開いてみせる。
「黄色だな、うん」
銀のエンゼルも、金のエンゼルも、九割方は黄色だけれども。
「ともあれ、これで四枚目か」
「うん」
「あと一枚だな」
「──あ!」
うにゅほが立ち上がり、寝室へと向かう。
「どした?」
そして、うにゅ箱から何かを取り出した。
「これ……」
「……銀のエンゼル?」
「はじめてね、あたったやつ……」
「──…………」
思い出した。
三年ほど前、たまたまおやつに食べたチョコボールで、銀のエンゼルを一枚だけ手に入れていたのだ。※1
「いいのか?」
うにゅほが大切に仕舞っておいたものだ。
交換してしまうのは、気が引ける。
「……いいの」
うにゅほが、困ったような笑顔を作る。
「だって、あたらしいおもちゃのかんづめ、なでたらしゃべるもん……」
そこなんだ。
「──…………」
受け取ったエンゼルを、うにゅほの手にそっと握らせる。
「?」
「頑張って、あと一枚当てよう」
「でも──」
「おもちゃのカンヅメはどのエンゼルでも交換できるけど、初めて当てた銀のエンゼルはそれ一枚だから」
「──…………」
「それに、おもちゃのカンヅメは一年くらい変わらない。このペースでチョコボールを食べていれば、すぐだよ」
「……うん」
うにゅほが、エンゼルを握った手を胸元に寄せる。
「ありがと、ね」
「ああ」
会話の内容がおもちゃのカンヅメについてでなければ、もうすこし感動的だったかもしれない。
ともあれ、あと一枚だ。
頑張ろう。

※1 2014年10月10日(金)参照



2017年8月23日(水)

「……んー?」
風呂上がり、左手の爪を切っていた際に、ふと気がついた。
「爪がでこぼこしている……」
「うん」
うにゅほが、あっけらかんと頷く。
「◯◯の、ひだりての、なかゆびのつめ、でこぼこしてるよ」
「知ってたのか」
「しらなかったの?」
「自分の爪なんて、大して興味ないし」
「しってるとおもってた……」
「いつからか、わかる?」
「まえは、でこぼこしてなかったよ。さいきんだよ」
「調べてみるか」
Googleを開き、適当に検索してみる。
「えーと、爪のでこぼこは三種類。縦線、横線、湾曲──なんか違うな」
「うん、ちがう」
「小さなくぼみが無数にある感じなんだけど……」
検索ワードを追加し、更に調べてみる。
「──あった。爪甲点状陥凹、だって」
「びょうき?」
「病気がどうかはわからないけど、病気のサインかもしれないって」
うにゅほの表情が曇る。
「……なんのびょうき?」
「かもしれない、恐れがあるってだけで、確実にその病気ってわけじゃないから」
「うん……」
「発熱性疾患、栄養不足、糖尿病、腎臓病──」
そこまで読み上げて、止まる。
「?」
うにゅほがディスプレイを覗き込み、続きを読み上げた。
「とうにょうびょう、じんぞうびょう、えんけいだつもうしょう……」
「××」
「はい」
「ハゲがないか、確認してくれ」
「わかった」
俺は、円形脱毛症によくかかる体質である。
最近はそうでもないが、数年ほど前までは、時折小さなハゲができていた。
「はげ、ないよ」
「そっか……」
とりあえず、安心した。
だが、油断はできない。
とは言え、円形脱毛症の予防って、なにをどうすればいいんだか。



2017年8月24日(木)

「……あー」
図面が腕に貼り付き、書いた文字が汗で滲む。
「駄目だ、暑くて仕事になんないよ」
「きょう、むすもんねえ……」
首筋をパタパタと手のひらであおぎながら、うにゅほが言う。
「エアコンつける?」
「お願いします」
「はーい」
ぴ。
電子音と共に、エアコンが稼働を始める。
「もすこししたら、すずしくなるからね」
「それまで休憩だ」
「しごと、ぱそこんでできたらいいのにねえ……」
「できるぞ」
「できるの?」
「CADって言って、図面を引く専用のソフトがある」
「きゃど」
「なんの略かは忘れた」
あとで調べたところ、コンピュータ設計支援(Computer-Aided Design)の略称らしい。
「ぱそこんで、しごと、しないの?」
「何度か試してみたんだけど、手描きのほうが早くてさ」
「へえー」
「正確で精密な製図をするならCADがいいんだろうけど、俺の仕事は大雑把に枚数をこなすだけだから」
「そなんだ」
「わかればいいんだよ、わかれば」
「あはは」
「××、タオル取って」
「うん」
手渡されたタオルで腕の汗を拭い取り、再び図面に向かう。
「さっさと終わらせて、散歩がてらアイスでも買いに行くか」
「いく」
「んじゃ、虫除けスプレー出しといて」
「わかった!」
夏も、終わりが近い。
やり残したことはないだろうか。



2017年8月25日(金)

Amazonから荷物が届いた。
「なにかったの?」
「秘密」
「えー……」
「嘘だよ」
「うそかー」
「パソコンチェアのケツのあたり、汗臭くなってたじゃん」
「うん、くさくなってた」
「それで、合皮でも大丈夫な消毒液を買ってみたんだ。EMWっていうんだけど」
「ふぁぶりーず、だめなの?」
「ファブリーズは、合皮には効かない。ていうか効かなかった」
「そなんだ……」
「さっそく使ってみよう」
「どうつかうの?」
「えーと──」
EMWのボトルに書かれた使用方法を読み上げる。
「50倍程度に希釈して、スプレーすればいいんだって」
「めんつゆみたい」
「まあ、適当でいいだろ」
スプレーボトルにEMWをすこしだけ注ぎ、水道水で薄めてシェイクする。
「においのきになるところに、うすめえきをスプレーするだけ」
「効けばいいけど」
「うすめたら、ひもちがしないので、そのひのうちにつかいきってください……」
「──…………」
スプレーボトルの容量を確認する。
「……240ml」
「たくさんつくっちゃったね……」
「しゃーない。チェアから床から枕まで、思いつく限り噴霧しまくろう」
「わたしもやっていい?」
「やりまくれ!」
「わかった!」
EMWは発酵液で、独特のにおいがある。
これを部屋中に噴霧するのはいささか不安があったが、うすめ液を大量に作ってしまったものは仕方がない。
窓を全開にして外出すること数時間、
「──あ、汗臭くなくなってる」
「ほんと?」
チェアの座面からは、ほのかに甘い香りが漂っていた。
「ほんとだ!」
「効くなあ、EMW」
「うん」
読者諸兄も、掃除のお供に一本いかがだろうか。
株式会社EM研究所さまへ、宣伝したのでもう一本ください。



2017年8月26日(土)

今日は、うにゅほとふたりでゲームセンターめぐりをした。
以下は車中での会話である。
「チョコボール、たくさんとれたねえ」
「五百円で十個以上取れれば、買うよりお得だよな」
「えんぜる、いるかなあ」
「当たればいいな」
「うん!」
「──ところで、××」
「?」
「まったく関係ない話していい?」
「うん」
「ケンタウロスっているじゃん」
「けんたうろす……」
「半人半馬というか、馬の首から上が人間になってるやつ」
「いるの?」
「いや、いないけど、神話とかに出てくるじゃん」
「うん」
「……あれ、ちょっと虫っぽくない?」
「むし……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「手が二本、足が四本で、合わせて六本あるだろ」
「うん」
「昆虫は?」
「あしろっぽん……」
「な」
「……でも、むしっぽいかなあ」
「では次」
「はい」
「ケンタウロスの腹は、どこでしょう」
「おなか……?」
「よーく思い浮かべてみてくれ」
「──…………」
「人間の腹と、馬の腹が繋がって、めっちゃ長いだろ」
「!」
「手足がスラリとしてるから気付かないんだ。もし、半分の長さだったとしたら?」
「むしっぽい、かも……」
「具体的に言うと、芋虫っぽい」
「うん」
「わかった?」
「わかった」
「これ、人に説明しても、あんまり共感してもらえなくてさ」
「けんたうろす、かっこいいもんねえ」
「だからなんだってわけでもないんだけど、ふと思い出したので」
「そか」
こんなどうでもいい話に付き合ってくれる相手がいることは、幸福である。



2017年8月27日(日)

「はちー……」
直射日光から身を隠しながら、BLACKアイスにかぶりつく。
「今日も暑いですね、××さん……」
「あついですねえ……」
「どっか行く?」
「いく!」
「今日、けもフレのラッキービーストのぬいぐるみがゲーセンに入荷するってさ」
「ぼす?」
「ボス」
「ほしい」
「俺も欲しい」
「チョコボールもとろうね」
銀のエンゼル、ひいてはおもちゃのカンヅメの入手を確実のものにしようとするうにゅほの意欲がすごい。
「あそこの店員に顔覚えられてるだろうな……」
チョコボールくらい買えよと思われているに違いない。
だって買うよりお得なんだもん。
「それにしても、こう暑いと──」
そこまで口にして、はたと気付く。
「どしたの?」
「……今年、プール行ってないじゃん」
「あ」
「なーんか忘れてるよーな気がしてたんだよ……」
「プール、いきたいねえ」
「行きたいと、思ったときが、行くときだ」
五・七・五で宣言し、アイスの棒をゴミ箱に捨てる。
「××、水着を用意しろ!」
「ゲームセンターは?」
「帰りに寄る!」
「はーい」
箪笥の奥から水着を取り出し、厚手のビニール袋に詰める。
「した、はいてこかな」
「いいけど、パンツは忘れないように」
「わすれないよー」
「一回忘れただろ」※1
「……うへー」
あ、笑って誤魔化した。
アイスを食べて、プールで遊び、ゲームセンターに寄って、ぬいぐるみを抱いて帰る。
絵に描いたような夏の一日だった。

※1 2013年9月11日(水)参照



2017年8月28日(月)

「んー……」
前髪をつまみ上げながら、呟く。
「髪、伸びたなあ」
「そかな」
「前髪が額に掛かったら、切りどき」
「はやい」
「男なんて、そんなもんだよ」
人によるけれど。
「◯◯の、かみながいの、みてみたいな……」
「高校のときは、いまより長かったぞ。卒業アルバム見せたことあっただろ」
「うん、みた」
「あんな感じになる」
「なるかなあ」
「いや、なるだろ」
「こうこうせいのときの◯◯、いまとかおちがう」
「生きてる以上、多少はな」
「いまよりふけてる」
「……マジで?」
「まじ」
卒業アルバムを引っ張り出し、自分の写真を探す。
「ほら、これ」
「……まあ、老け顔ではある」
「いまのかお」
うにゅほが俺に卓上鏡を向ける。
「──…………」
「ね?」
「鏡と写真じゃ、比べられないって」
「しゃしんとる?」
「勘弁してくれ……」
三十路男の十人並みの顔など、写真に収める価値はない。
「今日──は、もう遅いか。明日は火曜日だし、床屋行くなら明後日かな」
「そか……」
残念そうである。
「──あ。ぼうず、する?」
「坊主もしません」
「うー」
「うーでなく」
「ざんねん……」
中間でいいじゃないか、中間で。
まったくもう。



2017年8月29日(火)

「──…………」
無言で体重計から下りる。
「ふとった?」
「!」
「やっぱし」
「……わかる?」
「わかる」
「鏡を見る限りでは、そこまででもないと思ってたんだけどなあ……」
腹肉をつまむ。
つまめることはつまめるが、そこまで厚みがあるわけではない。
「そこじゃないよ」
「?」
「◯◯、ふとるとき、そこからじゃないの」
「じゃあ、どこから?」
「おしりからだよ」
「──…………」
自分の尻に触れてみる。
「……うわ」
なんと揉み甲斐のある肉厚の尻だろう。
そんじょそこらのケツバットであれば、余裕で跳ね返してしまいそうだ。
「こんなところに肉がついてたのか……」
気付かなかった。
腹から肉がついていくよりマシだが、これ以上デカ尻になるわけにも行くまい。
「──××、ダイエットだ! 俺はダイエットをするぞ!」
「うん」
「あ、××は痩せなくていいぞ」
「はーい」
うにゅほの場合、これ以上痩せたら明らかに不健康である。
むしろ、ちょっと肉をつけたほうがいいのではないか。
「……あのね」
「うん?」
うにゅほが、言いづらそうに口を開く。
「わたし、◯◯がなんでふとったのか、わかるかも……」
「……続けて」
自分のことだ。
当たりはついているけれど。
「うとね、チョコボールとね、クロワッサン……」
「××もそう思うか」
「うん……」
おもちゃのカンヅメ入手のためにゲームセンターで荒稼ぎしているチョコボール。
セイコーマートに立ち寄るたびに購入している発酵バターのクロワッサン。
間違いなく、このふたつが原因である。
「チョコボール、ちょっとがまんするね」
「俺も、コンビニへはなるべく寄らないようにする……」
節制しよう。
せめて体型くらいは維持しなければ。



2017年8月30日(水)

「──おい、◯◯」
「んー?」
夕食後、父親に呼び止められた。
「こんなん貰ったんだけど、これ、いいものか?」
「まーたなんか貰ってきたん……」
「いいじゃん」
「いいけどさあ」
父親は貧乏性だ。
よく物を貰ってくるし、時には拾ってくることさえある。
それは、たいてい、どうしようもないものだ。
「今度はなにさ」
「こいつ」
差し出されたものは、5cm四方程度の白いケースだった。
受け取り、開いてみる。
「──…………」
隣にいたうにゅほが、中身を覗き込んだ。
「なんだこれ」
「……待て、見覚えがある」
「◯◯、しってるの?」
「──…………」
中身をそっと取り出してみる。
四分音符を白く染めたような物体が、ふたつ。
「AirPodsだ」
「えあぽっど?」
「Apple製の、Bluetoothイヤホン」
「……?」
うにゅほと父親が、同時に首をかしげる。
「簡単に言えば、ワイヤレスイヤホン。コードがなくても聞けるやつ」
「へえー」
「で、使えんの?」
「壊れてなければね」
「んじゃ、お前にやる。俺イヤホン使わねえし」
「……ありがたいけど、こんなもんどこで貰ってきたのさ。純正品なら二万はするよ」
「にまん!」
びっくりするうにゅほを満足そうに見つめたあと、父親が答える。
「秘密」
「えー」
「秘密って、あんた……」
子供じゃあるまいし。
「まあいいじゃん。使え使え」
「使うけど……」
父親の伝手や人脈には、いまだに謎が多い。



2017年8月31日(木)

「──…………」
もっち、もっち、もっち、もっち。
ダイエットのため、小腹が空いたらガムを噛んでいる。
「ひとつぶあたり、にきろかろりー、だって」
「ガムって、カロリー表示あるんだ」
「ここ」
うにゅほがボトルガムの下部を指差す。
「ほんとだ」
「ね」
「ま、誤差だよ誤差」
「これ、ぜんぶかんだら、なんきろかろりーになるんだろ……」
「1粒2kcalだから、仮に100粒あれば200kcalになるな」
「アイスくらい?」
「ものによる。スーパーカップだと、400kcal近くになるし」
「わー……」
美味しいものは、たいていカロリーも高い。
「──数えてみるか」
「?」
「ボトルガムの中身、数えてみるか。俺もちょっと気になるし」
「うん、きになる!」
「えーと──」
ボトルガムの蓋を開き、充填率を確かめる。
「まんぱいだ」
「たぶん、まだ10粒くらいしか食べてないと思う」
「たくさんたべるまえにおもいついて、よかったね」
「そうだな」
ティッシュを敷いたデスクの上にボトルガムを開け、10粒のまとまりを作っていく。
「……これ、けっこう大変だな」
「そかな」
せっせ、せっせ。
ふたりでガムを数えていく。
最終的に、10粒のまとまりが18、あまりが9粒となった。
「てことは、189粒あるのか」
「じゅっつぶたして……」
「199粒。たぶん、元々は200粒入ってたのかな」
「おー……」
「100粒くらいかと思ってたけど、けっこう入ってるもんだなあ」
「にひゃくつぶで、よんひゃくきろかろりー」
「……これ全部で、スーパーカップと同じくらいなのか」
「すごいね」
恐るべし、スーパーカップ超バニラ。
ダイエットが成功したら、暴れ食いしてやるからな。

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