>> 2017年7月




2017年7月1日(土)

不穏な音と共にシーリングライトが点かなくなったのが、昨夜のことである。
丸型LED灯の口径を確認するためにカバーを外したところ、あることに気がついた。
「ネジが打ってある」
「ねじ」
「これ、そもそも交換できないのでは……」
「そうなのかな」
「型番で調べてみよう」
「うん」
「読み上げるから、メモってくれるか」
「かくのもってくるね」
型番で検索したところ、NECのLIFELED'Sというシリーズであることがわかった。
「あー……」
「わかった?」
「わかった。これ、LEDだけ交換できないやつだ」
「まるごと?」
「まるごと」
「おかねかかるねえ……」
「このシーリングライト、いくらだったっけ」
それがわかれば、予算を組める。
「ぱそこん、でない?」
「生産終了してるから──いや、検索ワード工夫すればわかるか」
再度検索する。
「7,690円だって」
「けっこうするねえ」
「まあ、必要経費だ。割り切ろう」
「うん」
「買いに行くとしたら、ヨドバシだけど──」
窓の外を見やる。
スコールじみた大雨が世界を煙らせていた。
「……明日にしようか」
「うん……」
「それにしても、今日は蒸すなあ」
甚平の上衣をパタパタさせる。
「エアコン、つけよ」
「……いいのかな」
「もう、しちがつだよ?」
「言われてみれば」
7月は、夏だ。
我慢する必要はあるまい。
エアコンを26℃に設定して、始終だらだらと過ごした。
涼しかった。
文明の利器、ばんざい。



2017年7月2日(日)

壊れたシーリングライトを買い換えるため、ヨドバシカメラへと赴いた。
「8畳、10畳、12畳──寝室だから6畳あればいいんだけど」
「ろくじょう、あんましないね」
あるにはあるのだが、価格帯が8畳のものと大差ない。
「素直に6畳のを買うと、損した気分になりそう……」
「わかる」
うにゅほがうんうんと頷く。
「8畳の部屋に6畳のライトだと暗いかもしれないけど、6畳の部屋に8畳のライトでも明るすぎるってことはないだろう」
「じゅうじょうは?」
「さすがに落ち着かないかも」
価格帯も二千円くらい変わるし。
「じゃあ、はちじょうで、やすいの」
「高くなければいいよ」
「はちじょうで、たかくないの」
「あとはデザインかな」
「はちじょうで、たかくなくて、かっこいいの」
「そうなりますね」
「はい」
照明コーナーを、ぐるりと一周する。
「あ」
すると、うにゅほが不意に足を止めた。
「これ、かわいいねえ」
「これか」
「うん」
うにゅほが指差したのは、カバーに蔓のイラストが描かれたものだった。
「じゃあ、これにしようか」
「いいの?」
「気に入ったんだろ」
「うん……」
「なら、決まりだ」
「……うへー」
うにゅほが俺の腕を取る。
「寝る部屋にはちょっともったいないから、こっちを書斎に取り付けよう」
「ねるへやは?」
「書斎のをお下がりにする」
「なるほどー」
こうして、俺たちの部屋は、夜の明かりを取り戻したのだった。
あと、ちょっとおしゃれになった。



2017年7月3日(月)

「──……うー」
あまりの不快さに目を覚ます。
首筋に手をやると、指の付け根まで寝汗で濡れた。
ベッドを下り、書斎へ向かう。
「あ、おきた」
「起きた」
「おはようございます」
「おはよう……」
冷蔵庫を開けて、1.5Lのペプシをラッパ飲みする。
げっぷをひとつこぼし、うにゅほに尋ねた。
「……なんか、すげー暑くない?」
「そかな」
本棚の温湿度計を覗き込む。
26.5℃、56%。
「そうでもない……」
「うん」
「えらい寝汗かいたんだけど」
「ほんとだ……」
うにゅほが箪笥を開き、タオルをこちらへ差し出した。
「ふいて」
「ありがとう」
「◯◯、あせ、すごいねえ……」
「……暑くも蒸してもいないのに、なんでこんなに汗まみれなんだろう」
「やなゆめみた?」
その瞬間、記憶の蓋が開いた。
「──見た、見ました」
「どんなゆめ?」
「……××には言ってなかったけど、昨夜、玄関でゲジを見たんだよ」
「!」
うにゅほの表情が強張る。
「外に逃がしたし、侵入口に虫コナーズ噴霧したから大丈夫」
「そか……」
「それとは別に、寝る前に、毛虫の画像を見てしまってな」
「──…………」
「どんな夢か、聞きたい?」
「いいです……」
賢明である。
「今年はエアコンあるし、なるべく窓は開けないようにしような」
「うん」
望まない遭遇は、互いにとって損失だ。
どうか入ってきませんように。



2017年7月4日(火)

近所のセイコーマートでレジを待っていたときのことである。
「──その、すみません」
唐突に、人好きのする笑顔を浮かべた老爺に声を掛けられた。
「え、あ、俺ですか?」
老爺がこくりと頷く。
知らない人に話し掛けられるのなんて、何年ぶりだろう。
思わず声が上ずってしまった。
「市役所へは、どちらへ行けばいいでしょう」
「──……」
「──…………」
うにゅほと顔を見合わせる。
老爺の年齢は、見るからに八十を越えており、もしかすると九十に届いているかもしれない。
「あの、歩いて行かれるんですか?」
「はい、歩いて行くのです」
「歩くには、少々遠いと思いますが……」
「大丈夫です」
老爺が、その場で軽く足踏みしてみせる。
健脚である。
「……◯◯、しやくしょまで、どのくらい?」
「5kmくらいかなあ」
「5kmなら、ほら」
老爺が再び足踏みをする。
やはり、健脚である。
「では、まず、ここを出たら左へ行って──」
市役所までの道のりは、すこし遠いが単純だ。
説明には一分と掛からない。
「とまあ、そうすれば右手に見えてくるはずなので」
「ありがとうございます」
老爺が、深々と頭を下げる。
「あ、いえいえ」
「いえいえー」
俺とうにゅほも、頭を下げ返す。
老爺の背中を見送ったあと、レジを済ませて店を出た。
「おじいさん、しやくしょ、つけるかなあ」
「元気そうな人だったし、大丈夫だろ」
「そだね」
なんとなく心温まる出来事だった。



2017年7月5日(水)

Amazonから、新しい甚平が届いた。
「Lサイズが俺で、××はMサイズ。Sサイズなかったから、そこは我慢な」
「うん」
うにゅほが、レディース用の甚平は嫌だと言うから仕方ない。
デザインが気に入らなかったらしい。
「生地が薄くて、涼しそうだな」
「なつのかんじ」
「透けないとは思うけど、シャツは着ないとダメだぞ」
「わかった!」
ハサミでタグを切ったあと、うにゅほが遠慮がちに言った。
「きてみたいな……」
「是非是非着てくださいな」
「◯◯も……」
「俺も?」
「うん」
まあ、いいか。
「××は、書斎で着替えな。俺は寝室で着替えるから」
「うん!」
数分後、
「じゃーん」
大きめの甚平を着こなしたうにゅほが、その場でくるりと回ってみせた。
「うん、似合う似合う」
「うへー……」
「俺は?」
「にあう!」
「そっか、よかった」
「いえー」
「いえー」
うにゅほとハイタッチを交わす。
「──まあ、それはそれとして、だ」
「うん」
甚平の袖口を鼻先に寄せる。
「……なんか、酸っぱい匂いがしませんか?」
「します……」
「これ、いったん洗濯しないとだな」
「そだね」
新しい服は、洗ってから身に着けたほうがいいらしい。
次から気をつけましょう。



2017年7月6日(木)

「──……あふ」
午前十時ごろ起床し、あくびを噛み殺しながら書斎へと向かう。
「あ、おはよー」
「おは──、よ、う……」
思わず絶句する。
「××さん」
「はい」
「なんか、髪型変わってません?」
「うん」
具体的に言うなら、毛先にウェーブが掛かっている。
「びんぼうパーマ、してみたの」
「貧乏パーマ」
はて。
聞いたことがあるような、ないような。
「うーとね、みつあみおさげにしてね、そのままねるの」
「あー」
思い出した。
「たしか、髪が傷みそうだからしないって言ってなかったっけ」
「うん」
「でも、してみたんだ」
「うん」
うにゅほが、上目遣いで俺に尋ねる。
「……その、にあう?」
「──…………」
「◯◯?」
その仕草に、しばし胸中で悶え苦しんだのち、答える。
「……似合う。お嬢さまっぽい」
「おじょうさま……」
ほっぺたを両手で包み、うにゅほが照れる。
可愛いなあ。
「××、お嬢さまっぽいこと言って」
「え!」
「ほらほら」
「ぱ、パンがなければ……」
お嬢さまではなく王妃さまではないかと思ったが、そのまま泳がせてみる。
「……その、つくればいいじゃない?」
「──…………」
「うへー……」
あ、笑って誤魔化した。
許す。
うにゅほの髪型がすこし変わっただけで、なんとなくそわそわしてしまう俺だった。



2017年7月7日(金)

本日、札幌管区気象台は、最高気温33.2℃を記録した。
文句なしの真夏日である。
しかし、
「涼しいなあ……」
「ふふふぃー……」
エアコンの真下に陣取り、ふたりでごろごろする。
「文明の利器、万々歳だなあ……」
「うん……」
ごろんごろん。
設定温度は、26℃。
暑くなく、寒くもない、ちょうどいい室温だ。
「外は30℃超えてるってさ」
「おとうさん、だいじょぶかなあ……」
「いまごろカーエアコンガンガンにかけてガリガリ君でも齧ってるよ」
「そかな」
無理をして熱中症になるような性格ではない。
「といれー」
「行ってら」
不要な宣言と共に、うにゅほが自室を後にする。
しばらくして、
「……はちー……」
額に汗を光らせながら、うにゅほが戻ってきた。
「トイレ、そんなに暑い?」
「うん、あつい……」
「へえー」
興味が湧いた。
尿意はさほどないが、行けば行ったで多少は出るだろう。
「俺も、トイレ行ってくるな」
「うん」
自室を出た瞬間、
──むわっ!
と、熱気が体の前面を襲う。
「──…………」
ばたん。
「あれ、といれいかないの?」
「後にする」
「?」
日が傾いてから、我慢しきれずトイレへと向かった。
死ぬほど蒸し暑かった。
いくら自室が快適でも、夏から逃げ切れるわけではないのだ。



2017年7月8日(土)

「──……ん」
目を覚ましたあと、しばしベッドの上でまどろんでいると、
「うー……」
書斎のほうから小さな唸り声が聞こえてきた。
「……どしたー」
ベッドを下り、声の主の元へと向かう。
「かゆい……」
すると、うにゅほが自分の二の腕をつねっている光景と出くわした。
「蚊?」
「たぶん……」
「窓、開けてないのになあ」
「……うー」
掻かないのは偉いが、見ているこちらまで辛くなってくる。
「ウナコーワ、塗った?」
「ぬった……」
「もう一度塗ろうか」
「ぬって……」
うにゅほが二の腕をこちらに差し出した。
「ウナコーワは?」
「はい」
ウナコーワクールの容器を受け取り、蓋を外す。
「もろこしヘッド!」
「はやくー」
「はい」
さり、さり。
「ほー……」
うにゅほが気持ちよさそうに吐息を漏らす。
「はい、おしまい」
「もっと」
塗ってほしいというより、掻いてほしいのだろう。
しかし、いくらもろこしヘッドと言えども、掻き過ぎには注意である。
「……ちょっとだけだぞ」
「うん」
さり、さり。
さり、さり。
「はー……」
「今度こそ、おしまい」
「──…………」
うにゅほが、潤んだ瞳でこちらを見上げる。
「う」
「──…………」
「……もうすこしだけだぞ」
「うん!」
少々甘すぎるだろうか。
痕が残らなければいいのだが。



2017年7月9日(日)

エアコンは、涼しい。
だが、エアコンの効いた部屋でだらだら過ごすばかりでは、駄目になってしまう気がする。
「──と、言うわけで、今日はバイクで出掛けましょう」
「はい!」
暑さの厳しい日中を、バイクに乗ってやり過ごし、涼しくなってから悠々と帰宅する。
完璧なプランである。
「日焼け止めは?」
「ぬった!」
「では出発!」
「おー!」
図書館で涼み、ゲームセンターをはしごし、喫茶店で休憩して、ようやく帰途についた。
家族に帰宅を告げたあと、自室の扉を開ける。
「ただい──、ま……」
ばたん。
閉じる。
「どしたの?」
「──…………」
無言でうにゅほに先を譲る。
「?」
小首をかしげながら、うにゅほが扉を開ける。
「わ」
ばたん。
閉じる。
「すごいあつい……」
「これは、あれですね」
「あれ?」
「窓を開けるのを忘れたまま、出掛けたみたいですね」
「ですね……」
「ちょっくら入って、エアコンつけてくるよ」
「おねがいします……」
意を決して自室に押し入ると、一瞬で首筋に汗が浮いた。
エアコンを稼働させ、ついでに温湿度計を覗き込む。
36.4℃。
「うへえ……」
人肌かよ。
リビングでしばし涼んでから自室へ戻ると、快適な室温になっていた。
今年の夏は、エアコンから離れられなくなりそうだ。



2017年7月10日(月)

「──…………」
六月分のクレジットカードの利用明細をブラウザで開き、愕然とする。
「いくらだったー?」
「!」
慌ててページを閉じる。
「どしたの?」
「なんでもないです」
「……?」
うにゅほが、きょとんと小首をかしげた。
「……こないだのゆっくり実況、新作来てたから一緒に見ようか」
「くれじっとかーど、いくら?」
「──…………」
「わかんないと、かけいぼつけれない……」
「××さん」
「はい」
「最近、僕たちは、日常生活における支払いのほとんどをクレジットカードに頼っていますね」
「うん」
「だから、少々高くても仕方がないのです」
「いくら?」
利用明細を、再びブラウザで開く。
ディスプレイを覗き込んだうにゅほが、
「──……!」
数分前の俺のように、口を開けたまま絶句した。
「……こんなにつかった?」
「みたいです……」
「こまかくみれる?」
「はい」
詳細を表示する。
「これは?」
「バイク用のヘルメットですね」
「あまぞん」
「いろいろ買いましたね……」
「──…………」
「──……」
「コンビニ、おおいね」
「たぶん、原因はそれかと……」
出掛けるたび、コンビニへ。
小腹が空くたび、コンビニへ。
コンビニエンスとは「便利」という意味だが、明らかに利用し過ぎである。
「……きーつけようね」
「はい……」
来月分の明細を笑顔で開けるよう、頑張ろう。



2017年7月11日(火)

母親が、仕事中、脚立から落ちた。
その一報が舞い込んだのは、正午過ぎのことだった。
落ち着かない様子のうにゅほを宥めながら母親の帰宅を待っていると、やがて玄関から物音がした。
「!」
俺に抱き着いたまま離れようとしなかったうにゅほが、慌てて玄関へと駆け出す。
「ただいまー」
「──おかあさん!」
父親に連れられて帰宅した母親は、思いのほか元気そうだった。
右手を包む真新しい包帯が、痛々しい。
「おかあさん、だいじょぶ……?」
パタパタと左手を振りながら、母親が答える。
「大丈夫大丈夫。手首にヒビ入ったけど、MRIで見ないとわからないくらいだから」
「そか……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
「全治までは?」
「一ヶ月くらいだって」
「おかあさん、きーつけてね……?」
「はい、すいません」
「そもそも、なんで脚立から落ちたのさ」
「……荷物持ったまま脚立下りようとして、段数間違って」
「間が抜けてるなあ」
「うるさいよ」
ともあれ、軽口を叩ける程度の怪我で済んでよかった。
包帯の下は、添え木をしているだけで、ギプスで固めてもいないらしい。
「××さん」
「はい」
「しばらく、母さんの代わりを頼むな」
「うん、私からもお願い」
「……わかった!」
うにゅほが、ぴっと背筋を伸ばす。
「まずは、今日の晩御飯からね」
「はい!」
「まあ、俺は食べられないけどな」
「なんで?」
「明後日、大腸内視鏡検査だから」
「あー……」
憂鬱である。
ポリープが見つからなければ良いのだけど。



2017年7月12日(水)

「……暑い」
「あちーねえ……」
大きく開いた窓から夜風が入り込み、静かに頬を撫でていく。
エアコンは快適だが、たまにはこうして自然の空気に触れるのも良いものだ。
「それにしても、暑い……」
「うん」
「──…………」
「──……」
「さて、問題です」
「はい」
「夜風は涼しいのに、どうして暑いのでしょうか」
「くっついてるから」
「正解!」
「うへー……」
「うへーではなく」
それも、尋常なくっつき方ではない。
ダッコちゃん人形の如く、俺の左半身にべったりと抱き着いているのだ。
役得な位置にある左腕だが、だんだん感覚が麻痺してきた。
「暑い……」
「あちーねえ」
「××さん」
「はい」
「せめて、膝の上に来ませんか。腕が痺れてきた」
「うん」
うにゅほが、俺の膝に腰を下ろす。
こちらを向いて。
「××さん」
「はい」
ぎゅー。
正面から抱き締められる。
嬉しいが、暑い。
「今日は、随分と甘えっ子だなあ……」
「だって」
「だって?」
「あした、◯◯、だいちょうないしゅちょう……」
言えてない。
「あー、ポリープ見つかったら一泊二日の入院だからか」
「うん……」
それが寂しくて仕方がないらしい。
「大丈夫──と、言いたいんだけどなあ」
断言したいのだが、ポリープがある気がしてならないのだった。
「あした、がんばってね……」
「頑張る」
ポリープが見つかった場合、明日の日記はお休みとなります。
御了承をば。



2017年7月13日(木)

内視鏡を慎重に引き抜いたあと、医師が告げた。
「今回ですが、大腸内にポリープは見つかりませんでした」
「マジですか」
「ええ」
「では、入院は……」
「しなくて結構ですよ」
心の中でガッツポーズを決める。
検査料金を支払い、病院を後にした。
「暑い……」
札幌は、今日も晴れ。
日陰に逃げ込み、母親に電話を掛ける。
呼び出し音、しばし。
「──◯◯!」
受話口から響いたのは、うにゅほの声だった。
「おー、××」
「どうだった……?」
「なんと!」
「なんと……」
「ポリープ、ありませんでした!」
「……!」
はっと息を呑む音がして、
「よかったー……」
「これで、入院せずに済むな」
「うん!」
「母さんに、迎えに来てって伝えてくれるか」※1
「わたしもいくね」
車で十分の距離なのに?
いいけど。
「ついでだし、そこの牧場でソフトクリーム食べたいな」
「◯◯、おなかぺこぺこだもんね」
そう言って、うにゅほがくすりと笑いをこぼす。
「じゃあ、切るな」
「あ」
「どした?」
「◯◯、おつかれさま」
「……うん、ありがとうな」
「うへー」
帰り際、三人で食べたソフトクリームは、身震いするほど美味しかった。
空腹は最高の調味料とは、よく言ったものである。

※1 右手首を負傷したばかりの母親だが、運転に支障はないらしい。



2017年7月14日(金)

午後九時ごろ帰宅し、静かに玄関を開く。
「ただいまー……」
「!」
物音を聞きつけたのか、うにゅほがリビングから顔を出した。
「おかえりなさい!」
「うん、ただいま」
本州から友人が遊びに来たので、観光案内がてら遊びに出掛けていたのだった。
「きょう、どこいったの?」
「小樽」
「おたる……」
「映画館があるところ」
「あ、わかった」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「うみのほう」
「そうそう」
「なにしてあそんだの?」
「海鮮丼食べたり、喫茶店でだべったり、ガラスの工芸品を見たりもしたな」
「たのしそう……」
「あと、オルゴール堂にも行った」
「おるごーるどー?」
「オルゴールの専門店。明治に建てられた古い建物で、雰囲気あったなあ」
「──…………」
「××?」
「うー……」
あ、ぶーたれてる。
当然か。
「……おみやげ」
「お土産は、ありません。買おうか迷ったんだけどな」
「──…………」
うにゅほが、ますますぶーたれる。
だが、土産を買わなかったことには、ちゃんとした理由がある。
「オルゴール堂も、大正硝子館も、いいところでさ」
「──…………」
「だから、××と一緒に来たいなって、思ったんだよ」
「……えっ」
「夏のあいだに、バイクで行こう。ふたりでさ」
「──…………」
うにゅほが無言で俺に抱き着く。
「……ごめんなさい」
「なんで謝る」
「なんとなく……」
「じゃあ、俺もごめん」
「なんで?」
「なんとなく」
「……うへー」
うにゅほが照れ笑いを浮かべる。
俺は、その笑顔を、ずっと見ていたいのだ。



2017年7月15日(土)

森永から、おもちゃのカンヅメが届いた。
「わあ……!」
「ダマされちゃうカンヅメ、だって」
金属製の箱に、五つの鍵穴。
同梱されていたキーホルダーには、プラスチック製の鍵が三つと、細長いプレートが括られている。
「このかぎであけるのかな」
「どうだろう」
カンヅメの名前からして、一筋縄では行かない気がする。
「うーと……」
うにゅほが、鍵穴と鍵の総当たりを始める。
しばしして、
「──あ、まわった!」
「開く?」
ぐいぐい。
「あかない……」
たぶん、騙されてるんだろうなあ。
「◯◯、あけてー」
「はいはい」
カンヅメを受け取り、観察する。
「……あー」
「わかった?」
「たぶん、これをここに差し込んで──」
カチッ。
「あいた!」
「開いたな」
中身は、知恵の輪とジグソーパズル、おまけにスーパーボールだった。
「大したものじゃないな……」
「そだね」
謎解きは面白かったけど。
「これなんだろ」
うにゅほが、カンヅメの底から小冊子を取り出す。
「きみは、まだ、だまされてる、だって」
「まだ……?」
カンヅメを調べる。
「あ、蓋が二重になってる」
「ほんとだ!」
「どうやって開けるんだ……?」
今度は、謎を解くまで数分ほど掛かってしまった。
森永、なかなかやりおる。
何が入っていたかは、秘密である。



2017年7月16日(日)

「あめだー……」
「雨だな」
窓の外が、雨滴に煙っている。
雷様が雲の上でバケツをひっくり返したような天気だった。
「きょう、ずっとあめ?」
「天気予報だと、夕方には上がるみたい」
「どこにもいけないねえ……」
「どこか行きたかった?」
「……んー」
肯定とも否定ともつかない返答だが、うにゅほ歴の長い俺にはわかる。
行きたい場所はある。
だが、どうしてもと言うほどではないのだろう。
「晴れたら出掛ける?」
「はれるかなあ」
「晴れなかったら、のんびりしよう」
「うん」
休日を思い思いに過ごし、午後四時を回ったころのことだった。
「──あ、はれた!」
うにゅほが窓の外を指し示す。
「お、本当だ」
雨が上がり、雲のあいだから晴れ間が覗いていた。
「せっかくだし、出掛けようか」
「うん!」
「行きたい場所、ある?」
「うーとね、ゲームセンター……」
「珍しいな」
普段は俺が付き合ってもらう立場なのに。
「あのね」
「うん」
「おもちゃのかんづめね、あたらしくなったんだって」
なるほど。
「じゃあ、ゲーセン行ってチョコボール荒稼ぎしてくるか」
「うん!」
本日の釣果は、五百円で十六個。
銀のエンゼルが揃うまで、しばらくおやつはチョコボールである。



2017年7月17日(月)

重い頭をゆっくりと左右に振りながら、呟く。
「……だるい」
「◯◯、だいじょぶ……?」
「大丈夫、大丈夫」
起きたばかりには、よくあることだ。
「エアコン、つけたままねたからかなあ……」
「××、体調は?」
「ふつう」
「なら、関係ないんじゃないかな」
「でも、エアコンつけたままねたら、よくないって」
「よく聞くけど、俺はあんまり納得行ってないんだよな」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「エアコンは、26℃設定だ。室温はどうなる?」
「……にじゅうろくどなる?」
「室温26℃の部屋で寝て体調が悪くなるなら、冬なんて越せないだろ」
「あ」
「むしろ、熱帯夜で寝付けないほうが体に悪いと思う」
「そだねえ」
うんうんと頷く。
「俺のベッドはエアコンの真下にあるから、風も直接当たらない」
「うん」
「丹前を掛けて寝てるから、冷え過ぎということもないだろう」
「なんでだるいのかな……」
「俺なんて、年中だるいだるい言ってるだろ」
「あ、そか」
自慢できることではないが、今更と言えば今更である。
「しかし、エアコンをつけっぱなしで寝て、体調を崩す人が、一定数いることは確かだ」
「きのせい?」
「全部が全部気のせいではないだろうな」
「じゃあ、なんで?」
「専門家じゃないから、あまり自信はないんだけど──」
そう前置きし、言葉を継ぐ。
「屋外は暑くて、屋内は涼しい。それを繰り返すと、自律神経がおかしくなる」
「じりつしんけい……」
「起きているあいだの負担が、寝ているあいだに症状として表れるんだと思う」
「そうなのかな」
「室温が一定の部屋で24時間過ごしても、恐らく体調は悪くならないだろ」
「そんなきーする」
「まあ、実際はどうかわからないけどな」
「じゃあ、エアコンわるくない?」
「悪くありません」
「そか」
もちろん、冷え過ぎはよくない。
だが、節度を持って正しく使うぶんには、体調管理の手段として用いることも十分可能だと思うのだ。
これからまだまだ暑くなる。
快適に夏を楽しもう。



2017年7月18日(火)

「マジか……」
ニュースサイトの記事に、思わず息を呑んだ。
「?」
うにゅほが俺の肩越しにディスプレイを覗き込む。
「うーと、とうきょう、いけぶくろをちゅうしんに──これなんてよむの?」
「雹」
「ひょう」
「東京で、雹が降ったんだってさ」
「いつ?」
「今日」
「……なつなのに?」
「夏なのに」
「にわかにはしんじがたいですね……」
なんだその口調。
「信じがたいけど、降ったらしい。動画も上がってるな」
「みたい」
「見てみようか」
イヤホンを片方うにゅほに渡し、スマホで撮影された動画を再生する。
次の瞬間、
「──わ!」
「うるさッ!」
慌てて音量を絞る。
「──…………」
「──……」
「……しろいの、ひょう?」
「たぶん」
うにゅほが、人差し指と親指でマルを作る。
「これくらいありそう……」
「大きいのは、たぶん、それくらいあるな」
「くるま、べこべこなるね……」
「実際、なっただろうなあ……」
こちらで降ったら、車好きの父親が発狂しそうだ。
「ね」
うにゅほが俺の腕を取る。
「せかい、だいじょぶかな……」
気持ちはわかる。
世界の終わりみたいな光景だもんな。
「まあ、世界は大丈夫だろ」
「……ほんと?」
「本当」
建造物の窓ガラスやら車のボンネットやらは大丈夫じゃないと思うけど。
うにゅほの頭を撫でてやりながら、札幌近郊で降らないことを切に願う俺だった。



2017年7月19日(水)

チェアの背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見る。
「──あったま、いてェ……」
そう呟いた瞬間、
「!」
うにゅほが弾かれたように立ち上がり、俺の額に手を当てた。
「ねつは、ない……」
「風邪ではないと思う」
「ちゃんとねれた?」
「飛び飛びだけど、八時間は……」
「あっちむいて」
「はい」
うにゅほに背中を向けると、小さな手のひらが肩にぽんと乗せられた。
もみ、もみ。
「かたい」
「凝ってる?」
「こってますねえ……」
もみ、もみ。
握力はないが、心地いい。
「肩もそうだけど、目の奥が痛いんだよな……」
「めのおく、もめない……」
揉めたら怖いがな。
溜め息をひとつつき、
「……日曜が二次試験だから、今日も勉強しないと」
「そだけど……」
描写は省いていたが、試験勉強はちゃんと毎日やっている。
あまり自信はないけれど。
「──…………」
もみ、もみ。
俺の肩を揉みながら、うにゅほがか細い声で言う。
「むりしないで……」
資格を取れば、給料が上がる。
自分ひとりなら決して無理をしないのに、うにゅほにこう言われると頑張りたくなるのは、皮肉である。
「薬飲んで、大丈夫そうなら、勉強しようかな」
「……そか」
ロキソニンを一粒飲み下す。
痛み止めでも、薬は薬だ。
気合を入れて、頑張ろう。



2017年7月20日(木)

うにゅほの小さな手のひらが、俺の額に添えられる。
「ねつないね」
「うん」
「あたま、いたくない?」
「痛くないよ」
「きのう、なんだったんだろうねえ……」
「わからん」
だが、不意の体調不良はままあるものだ。
それが試験当日でなくて良かったと考えるべきだろう。
「きょうも、べんきょうする?」
「もちろん」
二次試験は三日後に迫っている。
のんびりしてはいられない。
「がんばってね」
「はい、頑張ります」
「でもね、あたまいたくなったらね、がんばらないでね……」
「はい、頑張りません」
無理して倒れてしまっては、元も子もあったものではない。
「一時間集中したら、十五分休憩することにしよう」
「じゅうごふんで、だいじょぶ?」
「じゃあ、二十分くらい?」
「さんじっぷん……」
「──…………」
うにゅほが甘やかしてくる。
ああ、でも、昨日は心配を掛けたしなあ。
「……わかりました。一時間勉強するたびに、三十分の休憩を取ることにしましょう」
「そうしましょう」
「じゃあ、勉強始めるな」
「うん」
「一時間経ったら教えてくれ」
「はい!」
シャープペンシルを手に、参考書とノートを開く。
試験まで、あと三日。
頑張れるのは、あと三日だけだ。
悔いだけは残さぬよう、頑張ろう。



2017年7月21日(金)

休憩時間中、YouTubeで音楽を聞いていると、うにゅほが膝の上に乗ってきた。
「なにみてるの?」
イヤホンを片方外し、答える。
「十年くらい前に流行った曲のPV」
「ぴーぶい」
「先週、友達がこっち遊びに来たとき、カラオケも行ったんだけどさ」
「うん」
「あまりに久し振りだったもんだからレパートリーすら忘れてて、これ歌えばよかったなーって」
「へえー」
「聞いてみる?」
「うん」
外したイヤホンをうにゅほに手渡す。
「これ、なんてきょく?」
「SOUL'd OUTのTOKYO通信だな」
「はやくちことば……」
早口言葉と言われてしまっては、ヒップホップも形無しである。
「◯◯、これうたえるの?」
「なんとか」
「すごいねえ」
合コンで女性ウケするために覚えたことは秘密である。
「ラップとかってあんま好きじゃないけど、歌えると気持ちいいんだよな」
「そなの?」
「難しいことって、できると達成感があるだろ」
「あー」
うんうんと頷くうにゅほを抱き締めるようにして、キーボードを叩く。
「この曲なんかも歌えるぞ」
「みもざのさくころ?」
「そう」
しばし聞き入ったのち、
「……これ、うたえるの?」
「歌える」
「◯◯、した、すごいねえ……」
「わはは」
上機嫌に笑いながら、うにゅほの頭を撫でくり回す。
「ね」
「うん?」
「きいてみたいな」
「試験終わったら、ふたりでカラオケ行こうか」
「うん!」
「××も歌うんだぞ」
「えー……」
「歌わないなら、行かない」
「うたう、うたいます」
「よろしい」
うにゅほとカラオケなんて、久し振りだなあ。
楽しみだ。



2017年7月22日(土)

「うあー……」
だるーん。
ベッドから半ば落ちかけながら、読書に勤しむ。
「◯◯」
「んー」
「あした、しけん?」
「そうだよ」
「べんきょうしないの?」
「するけど、あとで」
「いいのかな」
「一夜漬けでもない限り、前日に足掻いたところであんまり意味はないよ」
「そなの?」
「覚えるべき部分は、すべて頭に入れてある。だから、寝る前に復習するだけでいい」
「へえー」
「……問題があるとすれば、覚えるだけではどうしようもない部分かな」
「どうするの?」
「明日、頑張るしかない」
「そか……」
うにゅほが、俺の右足を持ち上げ、ベッドの上に戻す。
「う、しょ!」
「──…………」
「おちちゃうよー」
「試験に?」
「おちるとか、すべるとか、だめなんだって」
それは、受験生のメンタルの問題では。
「あ、落ちるー」
だらーん。
ベッドから、両腕と首を垂らす。
「××、助けてくれー」
「もー」
うにゅほが、俺の頭を抱えて押し戻す。
「これでよし」
ごろんと仰向けになり、左足を下ろす。
「××ー」
「はーい」
だんだん楽しくなってきた。
しばしふたりで遊んだあと、参考書を開く。
「がんばってね」
「了解」
やるべきことは、やった。
あとは、得意な分野が出題されることを祈るのみである。



2017年7月23日(日)

「ただいまー」
資格試験を終え、解放感に背筋を伸ばしながら帰宅した。
「おかえり!」
うにゅほの頭をぽんぽんと撫でて、自室へ向かう。
「ね」
「んー」
「どうだった?」
「うん……」
芳しくない俺の反応に、うにゅほの表情が曇る。
「……だめだった?」
「正直、わからん」
「わからんの」
「半々くらい」
「はんはん……」
「一次と違って自己採点できないから、結果発表を待つしかない」
「けっかはっぴょう、いつ?」
「えーと──」
カバンから受験票を取り出し、確認する。
「書いてないなあ」
「あさってくらいかな」
うにゅほの言葉に、苦笑する。
「明後日にわかれば、ハラハラしなくていいんだけどな」
「だめかー」
「国家資格だし、受験者も多いから、一ヶ月はかかるんじゃないか」
「ながいねえ……」
「そんなもんだよ」
カバンを床に下ろし、ベッドに倒れ込む。
「──ともあれ、終わった!」
ごろんごろん。
「もー勉強しなくて済むぞー!」
「おつかれさま」
「うむ」
「ひざまくら、していい?」
「天国かな」
「うへー……」
ベッドの端に腰掛けたうにゅほのふとももに頭を預ける。
「がんばった、がんばった」
なでなで。
「……三十分くらい仮眠していい?」
「うん」
眼鏡を外し、うにゅほに渡す。
そして、そのまま目を閉じた。
疲れていたのか、夢は見なかった。



2017年7月24日(月)

「──◯◯、◯◯!」
のんびりブラウジングなどしていると、うにゅほが自室に駆け込んできた。
「どした」
「ちいちゃいあり、いた!」
「──!」
思わず腰を浮かす。
「どこに出た」
「かだん!」
「家の中では?」
「みてない」
「よし」
最悪のケースは免れた。
「ダスキンのひとに、ぶしゅーって、ころしてもらったのにねえ……」
「アリを全滅させても、巣には卵がある。卵が孵れば、またコロニーを作る」
「そなんだ……」
「だが、そうなることは予測済みだ!」
デスクの引き出しから、あるものを取り出す。
「理想的殺蟻剤、アリメツ!」
「おー」
うにゅほが小さく拍手する。
「◯◯、ドラえもんみたい」
「そう?」
声真似でもしておけばよかったか。
「ともあれ、これは、市販されている中では最強と謳われる対アリ用撲滅兵器でな。こんなこともあろうかと、通販で買っておいたんだ」
「ありのすころりより、すごい?」
「レビューを信じるならば」
そもそもアリの巣コロリが効いた試しはなかったような気がするけれど。
「これを原液のまま添付の小皿に入れて、巣の近くか通り道に置くだけでいいらしい」
「へえー」
「やってみよう」
「うん!」
花壇まで足を運び、アリメツを入れた小皿をアリの通り道に置く。
すると、あっという間にアリが群がってきた。
「すごい」
「何入ってるんだ、これ」
成分を確認すると、糖蜜が含まれていた。
そりゃ群がるはずである。
「あり、しぬかなあ……」
「これで全滅してくれればいいんだけど」
「うん……」
新しいコロニーは、まだ家屋内へと通じる道を学習していない。
その前に、何としても潰さねば。



2017年7月25日(火)

「◯◯ー」
自室の扉を押し開けながら、うにゅほが俺の名を呼んだ。
「うん?」
「きてきて」
手を引かれるまま、花壇へと赴く。
「ちいちゃいあり、すごいへった!」
「……ほんとだ」
完全にいなくなったわけではない。
だが、明らかに数を減じている。
「ありめつ、すごいねえ!」
「理想的殺蟻剤を謳うだけはあるな……」
成分を見るに、ホウ酸と糖蜜の水溶液に過ぎないのだが、その効果は絶大だ。
シンプルイズベストということなのだろう。
「あ゙ー! ん、ん゙!」
「?」
咳払いして、声を作る。
「──長きに渡る人間とアリとの戦争は、対アリ用殲滅兵器アリメツの投入によって終わりを告げた」
「えいがみたい」
「だが、アリはまだ諦めていなかった!」
「!」
「地下に潜ることを余儀なくされたアリたちは、ついに対ヒト用決戦兵器ヒトメツを完成させたのだ」
「──…………」
「ヒトとアリとの運命を分かつ最終戦争が、いま始まろうとしていた」
「おー……」
「Coming Soon...」
「かみんぐすーん?」
「近日公開という意味です」
「そなんだ」
どこで何を公開するのかは知らないが。
「ひと、かってほしいな……」
「俺もそう思う」
わりと本気で。
ともあれ、アリメツの効果は証明された。
この一手でアリを封じ続けることができれば良いのだが。



2017年7月26日(水)

「──来たな」
キーボードの上に指を置きながら、そう呟く。
「?」
俺の膝に腰掛けたうにゅほが、小さく首をかしげてみせた。
「なにきたの?」
「数ヶ月に一度訪れる、伝説の──」
「でんせつの」
「日記に書くことが、特にない日」
「でんせつなの?」
「適当言った」
「かくことないの?」
「ない」
「ちいちゃいあり、いなくなったよ」
「それは昨日書いた」
「じゃあ、かくことないねえ……」
「ないんだよ」
うにゅほを抱き締めるような姿勢で、キーボードを叩き続ける。
「いまはなしたの、かいてるの?」
「そう」
「……にっき?」
「その日に起こったことを記してるんだから、日記だろ」
「そか」
「××、なんか言って」
「なんか……」
「面白いこと」
「えー」
「5」
「ご?」
「4、3、2、1、0!」
「むり!」
うにゅほの脇腹に手を這わせ、
「こちょこちょこちょこちょ!」
「うし、うひひひ!」
「面白いこと言えー!」
「ま、ふい、うひ、ししし、ひー!」
ひとしきりくすぐったあと、再びキーボードに向かう。
「──こうして、××は、日記の犠牲になったのだった」
「もー……」
「ごめんごめん」
不満げなうにゅほの頭を撫でて、本日の日記は終わりです。



2017年7月27日(木)

「──……◯◯、◯◯」
「んが」
遠慮がちに左腕を揺さぶられ、目を覚ます。
「……どしたー?」
「おこしてごめんね……」
「何時?」
「まだしちじ……」
うにゅほの言葉に、よくないものを嗅ぎ取る。
この子が、俺を、こんな時間に、用もないのに起こすはずがない。
上体を起こし、改めて尋ねた。
「……何かあった?」
「──…………」
言葉を探してか、しばしの沈黙のあと、うにゅほが問い返す。
「◯◯、けがしてない……?」
「怪我?」
「あのね……」
「うん」
「せんめんじょとか、だいどことか、ちーがぱたぱたおちてたの……」
「──…………」
血。
ふと、記憶が蘇る。
「もしかして──」
布団代わりの丹前の下から、右足を出す。
小指に絆創膏。
「……昨夜、寝る前に、柱のカドに小指ぶつけてさ」
「だいじょぶ……?」
うにゅほが、恐る恐る、俺の右足の甲を撫でる。
「当たり方が良かったのか悪かったのか、骨に異常はないよ」
「でも、ちー……」
「……その代わり、爪の上のあたりの皮膚が、ぺろんとめくれてな」
「ひ」
「血は拭ったと思ったけど、残ってたか」
「うん……」
「びっくりさせて、ごめんな」
「……◯◯、いたくない?」
「今は痛くない。オロナインを塗ってから絆創膏貼ったし、大丈夫だよ。ちょっと驚いたけどな」
「そか……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
処理が甘かったせいで、要らぬ心配を掛けてしまった。
怪我も含めて、気をつけよう。



2017年7月28日(金)

「──…………」
眠い。
だが、この案件を早く仕上げてしまいたい。
その一心でディスプレイを睨みつけ、キーボードを叩き続ける。
やがて、
「──ん、ぅ……」
ごそごそ。
寝室から届いた物音で、ようやく現在の時刻に気がついた。
午前六時。
うにゅほが起きる時間である。
「◯◯ー……?」
「おはようございます」
ぺこり。
「おあようございまう……」
ぺこり。
「……ずっとおきてたの?」
「はい」
「ねないとだめだよ」
「はい……」
「きょう、おばあちゃんの、のうこついくんだよ」
「うん」
「おきれる?」
「まあ、ほら、運転は父さんだから」
そう言って、再びPCへと向き直る。
「ねないとだめだよ……」
「もうすこしだけ」
「うー」
うにゅほには申し訳ないが、切りの良いところまで本当にあとすこしなのだ。
「……◯◯、めーどうしたの?」
「目?」
「ひだりめ、つむってるから……」
「眠いと、左目がかすんでくるんだよな」
「──…………」
うにゅほが俺の腕を取る。
「ねよ」
「いや、もうすこしで──」
「だめ」
あ、これ本気のやつだ。
「……はい、わかりました」
手を引かれるままに、ベッドへと向かう。
「ねるまで、てーつないでますからね」
「いや、そこまで──」
「おやすみなさい」
「……はい」
俺がうにゅほに勝てなくなったのは、いつからだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。
納骨は、始終眠かった。



2017年7月29日(土)

「──…………」
「××、緊張してる?」
「──……」
うにゅほが、うんうんと無言で頷く。
「大きな声を出してもいい場所なんですが……」
「だって」
「うん」
「カラオケ、ひさしぶりだから……」
「何年ぶりだっけ」
「わかんない」
ふるふると首を横に振る。
あとで調べたところ、実に四年半ぶりのカラオケであるらしい。
なんとしても楽しませてあげなければ。
「××、そっち向いて」
「……?」
画面の方へ体を向けたうにゅほの肩をそっと揉む。
「ほー……」
「はい、リラックスリラックス」
「──…………」
「俺しか聞いてないんだから、恥ずかしくないだろ」
「……はずかしい」
恥ずかしいらしい。
「ともあれ、最初は俺な」
「なにうたうの?」
「まずは、喉慣らしから」
「のどならし」
「最初にこれを歌わないと、声が出ないんだ」
端末を操作し、平原綾香の「Jupiter」を予約する。
「しらないきょく」
「たぶん、聞いたことはあるぞ」
左手を腹部に添えながら、そう自慢でもない喉を披露する。
曲が終わったことを確認したあと、うにゅほがぱちぱちと両手を打ち鳴らした。
「すごいねえ! うまいねえ!」
そうでもない。
褒め過ぎである。
「次は、××──」
「──…………」
あ、固まった。
「……一緒に歌う?」
「うん!」
ひとりで歌うのは恥ずかしくても、ふたりで歌うなら問題ないらしい。
気持ちはわかる。
「じゃあ、君をのせてとか、どうかな」
「きみをのせて?」
「ラピュタのエンディングテーマ」
「あ、しってる!」
「入れるぞー」
「おねがいします」
うにゅほの歌声は、とても細い。
音痴でこそないものの、調子外れな部分もあって、決して上手とは言い難い。
でも、一緒に歌っていて、とても楽しかった。
「また来ようか」
帰途の車中でうにゅほに尋ねると、
「うん」
と、満足そうに頷いた。
楽しかったのは、うにゅほも同じようだ。
よかったよかった。



2017年7月30日(日)

両親の寝室から、眼下の公園を眺める。
夏祭り。
町内会が開催する、本当に小さな規模のお祭りだ。
「──てーびょおし、そーろえて、ちゃちゃんがちゃん♪」
母親のベッドに腰掛けたうにゅほが、足をぱたぱた動かしながら、機嫌よく盆踊りの歌を口ずさむ。
「今度カラオケ行ったとき、これ歌おうか」
「はいってるの?」
「わからん」
「わからんの」
「そもそも、タイトルがわからん」
「ぼんおどりのうた」
「間違いではないけど、正確でもなさそうだなあ」
「そかー」
あまり興味はなさそうだ。
「焼き鳥は、食べた」
「うん」
「豚串も、食べた」
「たべた」
「焼きそばも食べた」
「おいしかった」
「おでんも食べた」
「うん」
「ラムネも飲んだ」
「うん」
「××は、浴衣も着てるし」
「うん」
「可愛いぞ」
「うへー……」
「あと、やり残したことって、何かあるかな」
「んー」
うにゅほがしばし思案する。
「ないかなあ……」
「盆踊りは、いいのか?」
「うん」
「そっか」
「おまつりのおと、きいてるの、いちばんすき」
「同じく」
たぶん、俺に感化されたのだろうけど。
「……やり残したことはないけど、名残惜しいな」
「──…………」
「夏が半分、終わったみたいでさ」
「うん」
うにゅほの隣に腰を掛け、そのまま寝転がる。
「ねむい?」
「ちょっとな」
「ひざまくら、する?」
「お願いします」
浴衣での膝枕は、ちょっと特別な感じがした。
今年の夏は、一度きりだ。
覚えていたい夏にしよう。



2017年7月31日(月)

しと、しと。
朝から降り続ける雨が、窓の外を静かに煙らせている。
「──あーめ、あーめ、ふーれ、ふーれ、かーあさーんがー」
囁くようなうにゅほの歌声が、雨音と混じって心地よい。
「ふーふふーで、おーむかーえ、うーれしーいなー」
「ふふふ?」
「わすれちゃった……」
「思い出してみよう」
「ひんと」
「和傘のことです」
「わがさ……」
「時代劇に出てくるような傘のことだよ」
「あかいかさ?」
「色はその時々だと思うけど……」
まあ、でも、赤い和傘が多い印象はある。
「わーがさーで、おーむかーえ、うーれしーいな?」
「ヒントだってば」
「うー」
「わからない?」
「わかんない」
「では、一生その疑問を抱えて生きていくがよい」
「えー」
「冗談」
「こたえ……」
「蛇の目」
「じゃのめ?」
「ヘビの目と書いて、蛇の目。蛇の目模様の傘のこと」
「じゃーのめーで、おーむかーえ、うーれしーいな」
「そうそう」
「ぴーち、ぴーち、じゃーぶ、じゃーぶ、ふん、ふん、ふん♪」
相変わらず、微妙に違う。
「××、ドレミの歌とか歌える?」
「うん」
「歌ってみて」
「どーは、どーなつーのーどー」
「うん」
「れーは、れもんのれー」
「──…………」
「みーは、みーんなーのーみー。ふぁーはふぁいとのふぁー」
頷きながら、続きを促す。
「そーは、あおいそらー。らーはらっこのらー」
「あ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「……いや、なんでもない」
ちょっとだけ間違えて覚えているのが、うにゅほらしくて可愛いので、無粋な指摘はしないでおこう。

← previous
← back to top


inserted by FC2 system