>> 2017年6月




2017年6月1日(木)

「──……困った」
現状に、思わず頭を抱える。
「えい」
ぷち。
「てい」
ぷち。
うにゅほの細い指先が、アリを次々潰していく。
侵入口は、たしかに塞いだ。
だが、
「塞いでも、塞いでも、別の場所から出てくる……」
隅を塞げば、その上から。
更に塞げば、畳の下から。
食料があるでなし、何が彼らをそうさせるのだろうか。
「ありのすころり、きかないねえ……」
「入ってくるなり全滅させてるから、仕方ない」
「?」
「毒エサで巣ごと駆逐する薬剤だから、まず持って行かせないとダメなんだ」
「つぶさないほういいの?」
「それが悩ましいんだよなあ……」
アリの死骸をティッシュで拭いながら、言葉を継ぐ。
「たとえ毒が入っていたとしても、アリにとってエサであることに変わりはない」
「うん」
「家の中にエサがあると知ったら、アリはどうする?」
「──……!」
うにゅほの顔が、さっと青ざめる。
「毒で全滅するまでの短いあいだとは言え、これ以上入ってこられると対処のしようがない」
「そだね……」
「穴を塞ぐ以外で、アリが入ってこないようにできないかなあ……」
物理的に塞ぐから、別の侵入口を探すのだ。
それ以外の方法があるはずだ。
「あ」
「どした?」
「あみどにしゅーする、むしこないやつ!」
「虫コナーズか」
「うん」
「あれ、ユスリカとチョウバエ用だったと思うけど、効くかな」
「やってみよ」
「そうだな。物は試しだ」
侵入口すべてに、スプレーをたっぷり噴霧する。
果たして効果はあるだろうか。

一時間後、
「いなくなったな……」
「うん」
「でも、油断はできない。ちょくちょく確認しに来よう」
「はい!」

三時間後、
「いない」
「いないねえ」

六時間後、
「──虫コナーズ、アリにも効くんだな」
「すごい」
だが、楽観はできない。
明日明後日と効果が続く保証はないのだ。
アリとの戦いは、まだ始まったばかりである。



2017年6月2日(金)

相談の結果、眼鏡を買い換えることになった。
近場の眼鏡屋へと赴き、いろいろなフレームを試してみる。
「これは?」
「にあう!」
「こっちは?」
「にあう」
「この丸いのは?」
「うん、にあう」
「全部似合うじゃないか……」
「◯◯、なんでもにあう」
うにゅほが、うへーと笑う。
「××さん」
「?」
「俺は、視力が悪すぎて、眼鏡のフレームだけ掛けても自分の顔が見えません」
「はい」
「だから、フレーム選びは××のセンスに懸かっています」
「はい……」
「丸眼鏡とかは絶対に合わないんで、そこんとこよろしくお願いします」
「にあうけどなあ……」
そんなわけねー。
「……じゃあ、いちばん似合うのを探そう」
「はーい!」
現在のフレームに似た形のものから、順に試着していく。
「これは?」
「にあう!」
「さっきとどっちがいい?」
「うーと、こっち」
「なるほど」
そんなことを繰り返していくと、やがてひとつのフレームに行き着いた。
「これが、いちばんにあう」
「縁なしか……」
「だめ?」
「いや、これにしよう」
うにゅほが選んでくれたものだ。
強度に不安はあるものの、丁重に扱えば問題はあるまい。
一週間後が楽しみである。



2017年6月3日(土)

資格試験が明日に迫っている。
「それはそれとして、貞子vs伽椰子観ようぜ!」
「……えー」
うにゅほが渋い顔をする。
「うと、べんきょう……」
「息抜き」
試験勉強は欠かさずしているし、過去問で合格圏内の点数は取れている。
前日になって慌てる必要はないのだ。
「……さだこ、こわいやつ?」
「怖いやつ」
「うー」
しばし身悶えたあと、
「もういっこ、かりたやつみよ……?」
「アイアムアヒーローか」
「うん」
「大泉のやつ」
「うん」
「でも、あれゾンビ出てくるぞ」
「え」
「R-15指定だし」
「──…………」
「怖いのと、グロいの。普通のも借りとけばよかったな」
「うん……」
「やめとく?」
「さいしょだけみる……」
「わかった」
うにゅほを膝に乗せ、貞子vs伽椰子の再生を開始する。
しばらくのち、俺の膝には誰もいなかった。
まだ何も出ていないが、雰囲気で駄目だったらしい。

二時間後、
「──うん、けっこう面白かったな」
「◯◯、わらってた」
「あー」
「ちゃんとみればよかったかなあ……」
「いや、やめて正解だと思う」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「俺が笑ったのは、リングも呪怨もちゃんと観てて、かつホラー慣れしてるからだよ」
「そなんだ」
「××が観たら、俺がなんで笑ってるのかさっぱりわからないと思う」
「そか……」
「明日、試験が終わったら、アイアムアヒーロー観ようか」
「……さいしょだけ」
人事は尽くした。
あとは、天のみぞ知る。



2017年6月4日(日)

「ただーいま!」
意気揚々と帰宅し、得意げに問題用紙を掲げる。
「自己採点の結果、86点!」
「わ」
「一、二問採点ミスがあったとしても、合格は間違いない」
「すごい」
「あと、試験会場の近くのバイクショップでヘルメット買ってきたぞ」
「これ?」
うにゅほがヘルメット袋をつつく。
「在庫整理の現品限りで、二万円以上の品が四割引」
「おー」
「これで、またバイクに──」
上機嫌にそこまで言ったところで、ふと気づく。
「××、何かあった?」
心なしか、うにゅほの元気がないことに。
「……あのね」
うにゅほが訥々と語り出す。
「◯◯、でかけたあとね、でんわきてね」
「うん」
「おかあさんの、おかあさん、おばあちゃんね、のうこうそくで、たおれたって……」
「──…………」
血の気が引く。
「そいでね、おかあさんとおとうさん、むこういったの」
「……マジか」
「◯◯、しけんあるから……」
うにゅほの頭を、ぽんぽんと撫でる。
「それで、帰ってきてから教えるようにって言われたんだな」
「うん……」
「ありがとな」
「──…………」
ふるふる。
うにゅほが首を横に振る。
「わたし、なにもしてない……」
「知らされたとき、俺と話したかったろ」
「──…………」
こくり。
うにゅほが頷く。
「話せなくて、ごめんな。我慢してくれて、ありがとう。聞いてたら、動揺して実力を出せなかったかもしれないから」
「──…………」
ぎゅう。
うにゅほが腰に抱きつく。
母方の祖母は93歳だ。
亡くなったとしても、大往生だ。
だとしても、せめて一言くらい、言葉を交わしたい。
うにゅほの矮躯を抱きしめながら、そんなことを思った。



2017年6月5日(月)

「うー、あー」
うだうだ。
ばたばた。
ベッドの上で、じたばたする。
「どしたの?」
「暇」
「ひまなの」
「……いや、暇とはすこし違うな」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「昨日まで、手が空けば参考書開いたり過去問解いたりしてたじゃん」
「がんばってた」
「勉強してなかったとき、何をして過ごしてたのかが思い出せない」
「うーと……」
しばしの思案ののち、うにゅほが答える。
「ぱそこんしてた」
「……まあ、そうですね。だいたいPCに向かってましたね」
「うん」
「でも、向かっててもすることが思いつかなかったから、ベッドでこうしているわけです」
「そなんだ……」
やるべきタスクはあるのだが、すぐに手をつける気にならない。
だが、それを除くとすることがない。
「ほんよむ?」
「たしかに、積ん読が溜まってはいる」
「うん」
「でも、頭使いたくねー……」
「じゃあ、あそぼ」
「なにして?」
「あたまとり」
「××、あたまとりやたら強いからなあ……」
「しりとり?」
「しりとりだと、俺が勝つし」
「ねるごっこ」※1
「結局寝ちゃうやつか」
「ねないでがんばる」
相変わらず意味のわからない遊びである。
「それなら、いっそ昼寝したいよ」
「ひるねする?」
「……あー、寝るかあ」
「ひざまくらしたいな」
「お願いします」
「はい」
ベッドにのぼってきたうにゅほの膝に頭を乗せて、目を閉じる。
そのうち、生活サイクルも元に戻ることだろう。

※1 2016年11月20日(日)参照



2017年6月6日(火)

不意に、脳裏を駆け巡るものがあった。
「──あー、眠い! 眠い!」
「わ」
デスクの下で読書をしていたうにゅほが、小さく声を上げた。
「ねむいの?」
「いや、眠くない……」
「……?」
小首をかしげる。
「ねむくないの」
「眠くないです」
「でも、ねむいって……」
うにゅほは混乱している。
「いや、こう、なんて言ったらいいのかな」
「うん」
「ふとした拍子に、嫌なこと思い出すときってあるじゃないか」
「ある」
「それを掻き消すために、無意識に眠いって言っちゃうことがあって……」
「へえー」
うんうんと頷く。
「××、そういうのってない?」
「うーと、ない……」
「嫌な記憶のなかでも、自業自得で恥かいたこととかがフラッシュバックしたときに、つい出ちゃうんだよな……」
「いま、なにおもいだしたの?」
「──…………」
「あ、ごめんなさい……」
眉根に寄ったしわを見てか、うにゅほが慌てて頭を下げる。
「……俺も、ごめん。あんまり言いたくない」
「そだよね……」
「あー、忘れよ忘れよ!」
ぱんぱん!
両手で頬を軽く叩き、思いきり背筋を伸ばす。
「俺も忘れるから、××も忘れよう」
「はい……」
「ほら、笑って笑って」
うにゅほの頬をつまみ、持ち上げる。
「ふへへ」
「笑ったほうが可愛いぞ」
「……うへー」
嫌なことなんて、忘れてしまえ。
楽しいことだけ積み重ねていきたいものである。



2017年6月7日(水)

脳梗塞で倒れた母方の祖母の見舞いに行ってきた。
四階の端の病室はとても静かで、自分の吐息すら気になるほどだった。
「──…………」
祖母の胸が、呼吸に上下する。
脳に致命的な損傷を受けているにも関わらず、眠っているようにしか見えなかった。
母親が言う。
「すぐにも起きそうなのにね」
シーツをめくり、祖母の手を取る。
しわだらけの手は、ちゃんと温かかった。
「婆ちゃん、来たよ」
「──…………」
「××もいるよ」
うにゅほに視線で合図する。
「……うと、××です、だよ」
「ですだよ」
「う」
うにゅほは、母方の祖母と、さほど親しかったわけではない。
年に二、三度、会うか会わないか。
そんな間柄だから、感情の置きどころに困っているようだった。
悲しい。
けれど、俺たちほど悲しくはない。
つらい。
けれど、俺たちほどつらくはない。
そんな葛藤が、遠慮がちな態度として表れたのだと思う。
「××」
「はい……」
「婆ちゃんの手、握ってあげてくれ」
「──…………」
うにゅほが、そっと、祖母の手に触れる。
「もっと、話したかったな」
「……うん」
俺たちは、いつだって、失ってから気づく。
祖母に付き添うと言う母親を病室に残し、帰宅した。
会話は少なかった。



2017年6月8日(木)

iPhoneのメモを整理することにした。
「んー、これはいらんか」
「どれ?」
「書き終わった小説のアイディアメモ」
「たくさんあるねえ」
「これから書く予定ならまだしも、改訂するつもりもないし」
いくつかのファイルを削除する。
「ね、これなに?」
「DMR-BXT3000──なんだこれ」
「さいきん」
「型番だよな、これ」
「なんだろ」
検索してみる。
「──あ、ブルーレイディスクレコーダーだ!」
「あー!」
「壊れたレコーダーの型番メモってヨドバシ行ったんだったな」※1
「おもいだした」
うにゅほがうんうんと頷く。
「Bluetoothキーボードの送り先とかいらんし」※2
「うん」
「買い物メモみたいのもいらないな」
「そだね」
サクサクと削除していき、ふとあるメモで目が留まった。
「……あからさまにヘンなのがある」
「へんなの?」
メモを読み上げる。
「パントマイム、テーブルクロス引き、回転寿司、手が取れる──と、書いてある」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「よくわかんない」
「俺もわからん」
「ちょっとこわい……」
怖いというか、気持ち悪い。
「メモの日付は、2014年7月26日か」
そのころに何があったと言うのだろう。
夢の内容でもメモっていたのだろうか。
「けそ」
「そうだな……」
謎のメモを削除して、すべてをなかったことにした。
忘れてしまおう。
日記にした時点で無理だけど。

※1 2017年5月11日(木)参照
※2 2017年5月18日(木)参照



2017年6月9日(金)

新しい眼鏡が完成した。
「似合う?」
「にあう!」
店内の姿見を覗き込む。
「うん、悪くない」
縁なしのフレームだから、顔の印象を邪魔しない。
そう見てくれの良い顔でもないが、これはこれで新鮮である。
「ただ、しばらくは酔いそうだな……」
「よう?」
うにゅほが小首をかしげる。
「すこし度が変わるだけで、見え方ってかなり違ってくるんだ」
「うん」
「そのせいで、最初は気持ち悪くなったりする」
「……だいじょぶ?」
「まあ、慣れるまでの辛抱だな」
「そか……」
「帰りの運転は、前の眼鏡にしとこう。そのほうが無難だ」
「そだね」
「ゲーセン近いし、寄ってこうか」
「うん!」
眼鏡屋を後にし、ゲームセンターへ赴いた。
いつものようにチョコボールを落とし、店内を練り歩く。
「音ゲー、最近やってないなあ」
「……!」
「何年か前は──」
数歩ほどで、うにゅほが立ち止まっていることに気がついた。
「××?」
「──…………」
うにゅほの視線を辿る。
その先には、
「……腕、組んでますね」
「うん」
ただし、男同士で。
「××さん、あまり見ないように。失礼だから」
「はい」
ゲイカップルから視線を外したうにゅほが、俺の腕を取った。
「……腕組むの?」
「うん」
まあ、いつものことだけど。
顔を上げると、
「あ」
ゲイカップルの片方と目が合った。
「──…………」
「──……」
なんとなく、互いに会釈する。
「……チョコボール取ったし、帰るか」
「うん」
そういえば、おもちゃのカンヅメの応募をまだしていなかったっけ。
さっさと森永に送りつけてしまおう。



2017年6月10日(土)

母方の祖母の訃報が届いたのは、午後八時のことだった。
「××」
「?」
「婆ちゃん、死んだ」
「──…………」
そう告げた瞬間のうにゅほの顔は、よく覚えていない。
もしかしたら、目を逸らしていたかもしれない。
「苦しまなかったって」
「……うん」
「まあ、わかってたことだし、そんなに悲しくはないよ」
「──…………」
「お通夜、明日かな。明後日かも」
「──…………」
「喪服、出しておかないと──」
「◯◯」
うにゅほが、正面から俺を抱き締めた。
「どした」
うにゅほの頭を撫でる。
「……ほんとは?」
「──…………」
「ほんとに、かなしくない?」
「……悲しいかどうか、よくわからない」
「──…………」
「悲しいとは思うんだけど」
「──……」
「……ただ、なんか、すこしだけ、寒いかな」
ぎゅう。
抱き締める腕に、更に力が込められた。
「××は、あったかいな」
「うん」
「しばらく、このままでいてくれるか」
「……うん」
俺は、この子に、支えられている。
そう思った。



2017年6月11日(日)

祖母の葬儀は、月曜日に執り行われることとなった。
「……ふー」
喪服を用意し、一息つく。
「じゅずは?」
「母さんが、全員分持ってるって」
用意が良いものだ。
「葬儀が明日で、出棺が明後日。向こうで一泊だな」
「おとまりセット、いる?」
「いる」
「わかった」
うにゅほがてきぱきと準備を整えていく。
本当に助かる。
「──そっちはそれでいいとして、だ」
「?」
「PCの調子が悪い」
「こわれた?」
「再起動すると、たまにOSが立ち上がらないんだ」
「おーえす……」
「綱引きじゃないぞ」
「……?」
通じなかった。
最近は、オーエスオーエス言わないのかなあ。
「しゅうり?」
「さっき電話したら、修理には最低で一週間かかるって」
「わ」
「ちょっと厳しいよな……」
「うん……」
プライベートだけでなく、仕事でも使うPCだ。
一週間は、手放せない。
「壊れたパーツの当たりはつくんだ。たぶん、電源がイカれてる」
「でんげん」
「幸い、パーツの換装なら一泊二日で済むらしいから、明日行きしなにショップに持ってって、帰りに受け取ろうかなって」
「なおるかな」
「直らなかったら、それこそ一週間コースだな……」
ノートパソコンは持っているから、それで凌ぐしかない。
問題というのは、どうしてか重なるものだ。
気が滅入る。

※ 明日の「うにゅほとの生活」はお休みとなります



2017年6月12日(月)
2017年6月13日(火)

葬儀はつつがなく執り行われた。
記すべきことは、そう多くない。
祖父が亡くなったときと同じで、うにゅほはずっと母親に寄り添い、支えていた。
寝泊まりした場所も別々だから、会話も数えるほどだった。
「──だー!」
父親の運転で帰宅し、自室のベッドにダイブする。
「疲れたー、あー、あー、あー……」
「おつかれさま」
なでなで。
うにゅほが俺の頭を撫でる。
「××こそ、疲れたろ」
「ううん」
ふるふると首を横に振る。
「わたしは、だいじょぶ」
「嘘つけ」
「わ」
うにゅほの手を引き、抱き寄せる。
「いろいろとさ、まかせてごめんな。ありがとう」
「──…………」
ぽん、ぽん。
抱き締めたまま、うにゅほの背中を優しく叩く。
「頑張ってるの、見てたから」
「……うん」
「だから、すこし休もう」
「ぱそこんは?」
「──…………」
そう。
パーツの換装を終えたPCを、ショップに受け取りに行かねばならないのだった。
「……ほら、午後八時までは開いてるから」
「◯◯、しごともある……」
「──…………」
そう。
昨日と今日で、二日ぶんの仕事をこなさねばならないのだった。
「……三十分だけ休もう」
「うん」
スマホのタイマーをセットし、うにゅほを抱き締めたまま目を閉じる。
また、忙しない日々が始まる。
せめて、今くらいは、穏やかな時間を。



2017年6月14日(水)

「あー、よーやっと自由だ!」
ごろんごろん。
「冠婚葬祭は窮屈で嫌だ嫌だ。スーツなんて何年ぶりかわからんぞ」
「でも、にあってた」
「××も、喪服似合ってたよ」
「うへー……」
うにゅほが照れ笑いを浮かべる。
「葬式も終わったし、PCも戻ったし、これでようやく──」
そこまで口にして、胸にこみ上げる感情があった。
「──…………」
「どしたの?」
「……ああ、いや、なんでもない」
「?」
それは、あまりに唐突だった。
唐突過ぎて、自分自身すら理解できないほどだった。
「……◯◯、なきそうなかおしてる」
「なんでだろ、いきなり……」
悲しい。
俺は、いま、悲しいのだ。
「──…………」
深呼吸ひとつして、口を開く。
「こんなこと言うのもなんだけどさ」
「うん」
「俺、婆ちゃんが死んでも、ひとつも悲しくなんてなかった」
「──…………」
「滅多に会わないし、半分ボケてたし、死んだところで生活変わらないし」
「……うん」
「だから、葬式は面倒なだけで、お経だって聞きながら半分寝てたくらいだ」
「うん」
「でもさ──」
流れる前に、涙を拭う。
「もっとさ、会いに行けばさ、よかったなあ」
感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「──…………」
うにゅほが、俺の頭を、胸元へ導いた。
「なけるとき、なこうね」
「──…………」
その後の描写は、小っ恥ずかしいので割愛する。
祖母はもういない。
もう会えない。
だから、いま会える人たちを、大切にしようと思った。



2017年6月15日(木)

帰宅し、開口一番言った。
「──というわけで、大腸内視鏡検査を予約してきました」
「おしりの……」
「大腸内視鏡だってば」
「でも、おしりから……」
「そうだけど」
「う」
うにゅほが自分のおしりを押さえる。
「……いつ?」
「7月13日」
「らいげつかー」
「婆ちゃんの件も、一段落ついたからさ」
「うん」
「泣こうが喚こうが、二年に一度は必ず検査受けなきゃならないから」
「そか……」
俺は、腸内にポリープのできやすい体質である。
癌化する前に発見し、切除しておかねばならない。
「……また、にゅういん?」
「ポリープが見つかったら、そうなる。一泊二日だけどな」
「なかったら?」
「即日帰れるけど、いままで検査して見つからなかったことがないからなあ……」
楽観視すべきではないだろう。
「寂しい?」
「さみしい……」
きゅ。
うにゅほが俺のシャツの裾を掴む。
「一晩だから」
「うん……」
「すぐに戻ってくるから」
「うん……」
うにゅほの頭を撫でながら、言葉を継ぐ。
「あと、来月だからな」
「あ」
うにゅほの寂しがりは、いつまで経っても治らない。
いまからこの調子だと、当日が不安である。



2017年6月16日(金)

「◯◯」
「んー?」
「あさって、ちちのひ」
「マジで?」
「まじで」
完全に忘れていた。
「まあ、ちょっと良いウイスキーでもあげれば、ホイホイ喜ぶでしょう」
母の日とは違い、実に楽である。
「うーとね」
うにゅほが、言いづらそうに口を開く。
「おとうさん、ことしはおさけいいって」
「……マジで?」
「まじで」
「何が欲しいとか、言ってた?」
「いんたーねっとで、とれーなー、ほしいっていってた」
「トレーナー……」
「とれーなーって、ふく?」
「厚手の長袖シャツかな」
「おとうさん、よくきてる、ちゃいろみたいやつ?」
「そうそう」
「それがね、ゆにくろとかいったけど、いいのなかったんだって」
「それで、ネット通販か」
「うん」
「それって、俺たちが選んでいいの?」
「おまかせだって」
酒はいらんと言われたときはどうなることかと思ったが、それならなんとかなりそうだ。
「しかし、通販で服なんて買ったことないぞ……」
「しちゃくできないもんね」
「父さん、Lサイズだっけ」
「うん」
「通販サイトを一通り調べて、候補を挙げて、そこから二着見繕おうか」
「わたしと、◯◯で、にちゃく!」
「その通り」
ふたりでわいわい騒ぎながら、四千円前後のトレーナーを二着注文した。
父の日に間に合うだろうか。
まあ、間に合わなくてもいいけれど。



2017年6月17日(土)

リビングのソファでまどろんでいたときのことだった。
「──な!」
「んお」
素っ頓狂な声に、思わず背筋を正す。
垂れかけていたよだれを啜り、声の主に視線を向けた。
「──…………」
窓際で涼んでいたうにゅほが、きょろきょろと外を窺っている。
「……どうかした?」
「ねずみ!」
「ねずみ……」
「ねずみ、いた!」
「どれ」
どっこいしょと腰を上げ、うにゅほの隣に陣取る。
「どこ行った?」
「うーとね、そっちからね、そっちにはしってった」
「てことは、裏のほうに行ったのか」
「うん」
「なら、戻ってこないかもしれないなあ」
「そか……」
見たかったような、そうでもないような。
「ねずみ、はじめてみた……」
「リフォーム前なんかは、たまに床下収納の野菜かじられてたみたいだけど」
「うん、かじられてた」
「いまは、ちゃんと塞いだから大丈夫らしい」
「うん、まだかじられてない」
「ただ通り過ぎただけなのかな」
「たぶん……」
「冬とか、どうしてるんだろうなあ」
「とうみん?」
「ねずみは冬眠しないと思う」
「そなんだ」
「たぶん、どこかの家のなかに巣を作って、ぬくぬく冬ごもりしてるんじゃないかな」
「えほんみたい」
くすくすと笑いを漏らすうにゅほを横目に、ふと気づく。
「──そう言えば、俺、ねずみって見たことないかも」
「そなの?」
「ハムスターは見たことある」
「はむすたー、わたしもみたことあるよ」
「ペットショップな」
「うん」
どうしても見たいというほどではないが、近くにいるならちょっと見てみたい。
そんな気持ちでしばらく窓際にいたのだが、結局、二度と現れることはなかった。
すこしだけ残念である。



2017年6月18日(日)

友人から、定山渓みやげの温泉まんじゅうをいただいた。
「美味い」
「おいしいねえ……」
ふかふか、もちもち。
あんこたっぷり、それでいて甘すぎない。
「これは、牛乳が必要な案件ですな」
「そうですな」
ふたり頷き合い、階下の台所へと向かう。
すると、
「ありだ!」
シンクからワークトップ、上下のキャビネットにかけて、十数匹のアリがうようよと這っていた。
「──……はあ」
もう、溜め息しか出ない。
「××。調味料を退避させるから、可能な限り潰しておいて……」
「はい!」
ふんすふんすと鼻息荒く、うにゅほがアリを潰していく。
小さな虫には滅法強い子である。
ひととおり殲滅し終えたあと、侵入口の当たりをつける。
「今回、床には一匹もいなかったよな」
「うん」
「窓際には、いちおう、虫コナーズを噴霧してあるし」
「そだねえ」
「てことは、上か……」
「うえ?」
うにゅほが天井を見上げる。
「もし、キャビネットの奥に穴があって、そこから入ってきたのなら──」
キャビネットの内側に虫コナーズを噴霧し、言葉を継ぐ。
「アリは、既に、壁の裏を通り道にしていることになる」
「うん……」
「このままじゃ、また、俺たちの部屋に侵入されるかもしれない」※1
「どうしよう……」
「ほんッと、毎年毎年……」
和気あいあいと温泉まんじゅうに舌鼓を打っていたのに、そんな気分じゃなくなってしまった。
ほんと、どうすればいいのやら。

※1 2016年5月15日(日)参照



2017年6月19日(月)

塞いでも塞いでも別の場所から現れるアリへの対策は、素人には荷が勝ちすぎる。
そこで、ダスキンの害虫駆除サービスを利用することにした。
費用は10,800円。
お手頃である。
その結果、
「──まさか、花壇に巣があるとはなあ」
「うん……」
「縁の下じゃなかったんだな」
「びっくりした」
玄関先の花壇から、経年劣化で割れた基礎を侵入口として、屋内へと入り込んでいたらしい。
台所は家の奥側だ。
かなりの数のアリが、見えないところを這い回っていたのだろう。
「縁石どけたら、すごかったな……」
「ぶわーって」
「……正直、鳥肌立った」
「わたしも……」
体長3ミリ程度の小さなアリとは言え、数百匹がうようよと蠢いているのを見れば、背筋も冷えるというものだ。
「死ぬほど薬剤ぶっかけてたから、死ぬとは思うけど」
「しんだらいいねえ……」
「ほんとな……」
花壇に巣を作るのは構わない。
アリには、蛾やゲジほどの嫌悪感はないからだ。
屋内に迷い込んでくるのも、いい。
気分がよければ、殺さずに、外に逃がしてやることもあるだろう。
だが、一斉に侵入してくるのだけは、駄目だ。
嫌悪からではない。
精密機器──特にPCに入り込んで、壊してしまう可能性があるからだ。
「素直に外で暮らしていれば、長生きできたものを」
外に向かって合掌すると、うにゅほがそれにならった。
「みんなしんでね……」
えらいこと言っとる。
これで全滅しなければ、いよいよもってどうしよう。



2017年6月20日(火)

「──…………」
むくり。
「あ、おきた」
「……あーよーございます」
「おはようございます」
ぺこり。
「◯◯、うーうーいってた」
「寝言?」
「うーうー」
「うなされてたのか……」
「うん、うーうーいってた」
「うーうー」
「うーうー」
うにゅほがここまで言うからには、文字通りうーうー唸っていたのだろう。
「ゆめみたの?」
「見た」
「どんなゆめ?」
「早く起きなくちゃ、学校行かなくちゃ、って夢」
「やなゆめだ」
「悪夢ってほどではないけど、まあ、よく見る嫌な夢だな……」
「だから、うーうーいってたんだねえ」
うんうんと頷く。
「……叩き起こしてくれてもよかったんですぞ?」
「うん……」
うにゅほの表情が翳る。
「おこそうかね、まよったの」
「そうなんだ」
「でも、まだはちじだし……」
「──…………」
壁掛け時計を見やる。
七時五十分。
「……二度寝します」
「おやすみなさい」
次に目が覚めたのは、午前十時過ぎのことだった。
せっかく、朝、時間に追われない生活を手に入れたのだ。
そんなわけのわからん悪夢とは、おさらばしたいものである。



2017年6月21日(水)

父の日にと注文してあったトレーナーが、今日になってようやく届いた。※1
「おとうさん、よろこんでたね」
「よかったな」
「うん!」
「……まあ、還暦迎えたおっさんのファッションショーとか、どうかと思うけど」
「えー」
うにゅほが不満げに声を上げる。
「あげたの、きてみてほしいな」
「わかるけどさ」
「でしょ」
「でも、せっかくなら××のファッションショーのほうがいいなあ」
「……うへー」
うにゅほが照れ笑いを浮かべる。
「××も、そろそろ夏服買わないとな」
「なつふくかー」
「たくさん買って、ファッションショーしてもらおう」
「たくさんはいいよー……」
苦笑する。
「夏用のパジャマは?」
「あ、ほしいな」
「甚平」
「ほしい!」
「××は安上がりだなあ」
「うへー」
まあ、そういうファッションショーがあってもいいだろう。
「◯◯も、ふぁっしょんしょーしようね!」
「えー……」
「えーじゃなくて」
「三十路男のファッションショーなんて、誰が喜ぶんだ」
「わたし」
「……まあ、観客は××だけだけど」
「しようね」
「わかりました」
変な約束を交わしてしまった。
まあ、楽しそうではあるけれど。

※1 2017年6月16日(金)参照



2017年6月22日(木)

ベッドの上でうだうだと読書をしていたときのことである。
「◯◯ー」
「んー」
「よんかんしらない?」
「なんの?」
「ゆるめいつ」
枕元を調べる。
「あ、あった」
「よかったー」
うにゅほがとてとてこちらへ歩み寄る。
その途中、
「──ニ゙ゃ!」
踏まれた猫のような悲鳴を上げて、うにゅほがその場にうずくまった。
「どうした!」
慌ててベッドから飛び降り、うにゅほの背中を撫でる。
「ほッ、ゆび……、こゆび……」
「あー……」
クローゼットのカドに小指をぶつけたのだ。
これは痛い。
「──よいッ、しょ!」
「ふい」
よたよたとうにゅほを抱き上げて、ベッドの端に腰掛けさせる。
「小指、見せてみ」
「うん……」
その場にひざまずき、うにゅほの左足を手に取った。
「あー、赤くなってるな」
「とれてない……?」
「取れないって」
「ほんと?」
「爪も割れてないし、折れてもいないと思う」
たぶん。
「……まあでも、痛みが治まらなかったら、病院かな」
「ぶええ」
半泣きである。
「ほら、泣かない泣かない。なでなでしてあげるから」
「……うん」
しばらく患部をさすっていると、痛みも取れたようだった。
家具のカドに小指なんてありがちな笑い話だが、笑い話では済まないこともある。
気をつけましょう。



2017年6月23日(金)

「××、小指大丈夫か?」
「こゆび?」
うにゅほが小首をかしげる。
「左足の小首、昨日打ったろ」
「あー」
「……その様子なら、大丈夫そうだな」
喉元過ぎれば熱さ忘れる。
痛くないのは良いことである。
「いちおう見せてみて」
「はい」
チェアを譲り、うにゅほの前で膝をつく。
「赤みはない、かな」
「うん」
「痛みは?」
「いたくないよ」
「動かしてみて」
「うーと……」
ぴく、ぴく。
ピンと伸ばした左足の指すべてが、わずかに屈曲する。
「動きが悪いな」
「もともとうごかない……」
「そうだっけ」
「◯◯、あしのゆび、すごいうごくよね」
「ああ」
爪先を浮かせ、足の指をすべて開いてみせる。
「パー」
「おー」
ぱちぱち。
続いて、爪先をぎゅっと丸めてみせる。
「グー」
「すごい……」
「チョキはさすがに無理だけどな」
「やってみて」
「無理だと思うけど……」
いちおう試してみる。
「えーと、人差し指と中指を残して──あ、無理無理」
すべて曲がってしまう。
「むりかー……」
「チョキだけ難易度高すぎる」
「あしでじゃんけん、できないね」
「手ですればいいんだよ、そんなもん」
「ざんねん」
残念がられてしまった。
とは言え、無理なものは無理である。
ひとりでこっそり練習してみたけれど、やはり無理だった。
できる人、いるのだろうか。



2017年6月24日(土)

たまたま近くを通り掛かったので、いつものゲームセンターへと立ち寄ることにした。
五百円玉一枚でチョコボールを荒稼ぎし、店内をぐるりと回る。
「……?」
すると、うにゅほがある筐体の前で立ち止まった。
「なんだこれ」
視線の先にあったものは、
「──ああ、ハンドスピナーか」
「はんどすぴなー?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんか流行ってるらしいけど、知らない?」
「しらない……」
「××はネットしないしなあ」
「うん」
最新のデジタルギアでSNSを使いこなすうにゅほ──なんて、とてもじゃないが想像できない。
「ともあれ、そういうのが流行ってるんだってさ」
「なにするもの?」
「中心にベアリングが組み込まれてて──」
「べありんぐ?」
そこからか。
「まあ、とにかく、めっちゃ滑らかに回転するらしい」
「……なにするもの?」
「だから、回して遊ぶもの」
「おもちゃ?」
「そうそう」
「はー……」
うにゅほが筐体を覗き込む。
いささかの興味はありそうだ。
「取ろうか?」
「おいくらでとれますか」
「この形式なら、千円あれば」
「おねがいします」
ぺこり。
「お願いされました」
財布を取り出し、両替機で千円札を崩す。
結果、宣言通り九百円でハンドスピナーを入手することができた。
「はー……」
帰途の車中、助手席のうにゅほが、指で挟んだハンドスピナーをくるくると回し続けていた。
「それ、面白いの?」
「わかんない」
「わからないのか」
「でも、なんかやっちゃう……」
しゅるるるる。
静かな回転音が耳朶を打つ。
「……帰ったら、ちょっとやらせてな」
「うん」
面白いような、そうでもないような。
不思議な感じである。



2017年6月25日(日)

しゅるるるる。
背後から、ハンドスピナーの回転音が聞こえてくる。
「──…………」
「──……」
るるる──
回転速度が落ちたのか、やがて音が止む。
「──…………」
「──……」
しゅるるるる。
再び、回転音が始まる。
このサイクルが、淀みなく繰り返され続けている。
「××さん」
「?」
しゅるるるる。
「それ、やり過ぎ」
「そかな」
「どのくらいやってるか、自覚ある?」
「じっぷんくらい……」
「──…………」
無言で壁掛け時計を指し示す。
「……いちじかんたってる!」
「気づいたか」
「きづいた……」
「ずっとやっちゃうのはわかるけど、ハンドスピナーだけいじってるのは大いなる時間の無駄だと思うぞ」
「うん……」
「せめてこう、本読みながらとか」
「わたし、かたてでほんめくれない」
手、小さいからなあ。
「……一緒に映画でも観る?」
「みる!」
うにゅほを膝に乗せて、Amazonのプライムビデオを開く。
レンタルする必要すらないとは、すごい時代になったものである。
「──…………」
「──……」
しゅるるるる。
大長編ドラえもんを観賞しながら、うにゅほがハンドスピナーを回す。
ハマるのはいいが、やり過ぎはよろしくない。
気にかけておこうと思った。



2017年6月26日(月)

昼食後、自室へ戻ろうとしたときのことである。
「……?」
階段の下から三段目──右に折れ曲がる段の端に、消火器が立っていた。
「なんだこれ」
「しょうかきだよ」
「それはわかる」
「うん」
「──…………」
「──……」
会話が終わってしまった。
「いや、そうじゃなくて」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんでこんなところに消火器があるのかなって」
「ないと、かじのとき、あぶないよ?」
「まあ、うん」
「──…………」
「──……」
会話が終わってしまった。
「いや、そうでもなくて」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「さっきまでなかっただろ、消火器なんて!」
「え」
うにゅほが絶句する。
「しょうかき、ずっとあったよ……?」
「えっ」
今度は俺が絶句する番だった。
「……ずっとって、どのくらい?」
一ヶ月くらい前からだろうか。
「りふぉーむしてから、ずっと」
「マジかよ……」
「まじ」
この一年間、一升瓶より大きな消火器の存在に一切気付かず過ごしてきたというのだろうか。
「──いや、違う、消火器があるのは知ってた」
「うん……」
「もし火事が起こったら、真っ先に階段に向かってたと思う」
「うん」
「……認識はしてたけど、意識にはのぼってなかったってことなのかな」
「◯◯、だいじょぶ……?」
心配されてしまった。
「大丈夫、たぶん」
「たぶん……」
「大丈夫です」
盲点には、人が思っている以上に大きなものが入るらしい。



2017年6月27日(火)

「ありがとうございましたー」
挨拶に背を押されるように、セイコーマートを後にする。
「また買ってしまった……」
「かってしまったねえ」
車内に戻り、袋を開く。
「セイコーマートの、バタークロワッサン」
「かけるに」
「それと、豆乳」
「かけるに」
「いま食べる?」
「たべる!」
バタークロワッサンと豆乳をひとつずつ、うにゅほに手渡す。
「いただきます」
「いただきます」
クロワッサンを開封し、端っこにかぶりつく。
口内から鼻腔までを、バターの香りが満たしていく。
「……美味いんだよなあ」
「うん、おいしい」
普段の俺なら生クリームでも欲しがるところだが、このバタークロワッサンには何も足したくない。
それくらい、完成された美味しさなのである。
「──…………」
もぐもぐ。
バターの風味を豆乳で押し流し、豆乳の後味をバターで塗り替えていく。
それを幾度か繰り返すと、バタークロワッサンは、あっと言う間になくなってしまった。
「ごちそうさま」
「◯◯、たべるのはやい」
むぐむぐ。
助手席を見ると、うにゅほはまだ、三分の一ほどしか食べ終えていなかった。
「はんぶん、たべる?」
「いや、悪いよ」
「そか……」
「──…………」
「──……」
「やっぱひとくちだけ」
「あーん」
「あー」
ぱく。
やはり、セイコーマートのバタークロワッサンは美味である。



2017年6月28日(水)

Amazonから荷物が届いた。
「なにかったの?」
「ふっふっふー……」
開封する。
「新しいハンドスピナー!」
「わ」
「××があんまり楽しそうだから、自分用に買ってみました」
「にじいろだ」
「色が綺麗なのを選んでみた」
「まわしていい?」
「いいよ」
うにゅほが、左手の指でハンドスピナーを挟み、右手で勢いよく回転させた。
四六時中触っているためか、手慣れている。
「きれい……」
「だな」
虹色の回転にうっとり見入っていると、
「……ゆび、つらい」
「どした」
「ちょっとおもい……」
うにゅほが苦痛を訴えた。
「ああ、金属製だもんなあ……」
か弱い指で支え続けるには、少々重すぎたらしい。
「おもいけど、◯◯、だいじょぶ?」
「俺は指太いから大丈夫だよ」
「そか」
「それより、何分回し続けられるか試してみよう」
「うん!」
「××は、何分くらい行くと思う?」
「……うと、わたしのがにふんくらいだから、おなじくらい?」
「じゃあ、俺は三分くらいにしとこう」
うにゅほから虹色のハンドスピナーを受け取り、iPhoneのストップウォッチを起動する。
「せーので開始な」
「わかった」
「──せー、の!」
手首のスナップを効かせ、ハンドスピナーを思いきり回転させる。
シュルルルル!
「いい音だ」
「おー……」
「これは、三分行くんじゃないか」
「どかなー」

二分後、
「すごいすごい」
「これ、四分くらい行くかも」

四分後、
「……止まらないんだけど」
「うん……」

六分後、
「やっと止まった」
「これ、すごいねえ……」
なかなか楽しいぞ、ハンドスピナー。
うにゅほがハマるのも頷ける。



2017年6月29日(木)

こんにゃく粉入りのゼロカロリーゼリーにハマっている。
ほのかな果汁の甘みと、こんにゃく由来のなめらかな舌触り。
味も然ることながら、280gの大容量で、胃袋も確かな満足という次第である。
しかし、
「──…………」
四隅の一角にある開け口から、徐々にフィルムを剥がしていく。
「◯◯、がんばって……」
うにゅほの声援に無言で頷いた、そのとき、

ぴゅー!

「ぬあ!」
フィルムの下から汁が飛び散り、作務衣の上衣を点々と濡らした。
「駄目か……」
「これ、おいしいけど、ぜったいとびちる……」
「糖分が入ってないからベタベタはしないけど、白い服着てるときは食べられないな」
「ぶどうあじ」
「うん、ぶどうは特に」
開けては啜り、開けては啜りを繰り返し、完全に開封したものをうにゅほに手渡す。
「はい」
「うん、ありがと」
「すげえ口ついてるけど……」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
まあ、いまさらか。
「それにしても、こんなギリギリまで充填しなくてもいいのになあ」
「じゅうてん?」
「ギリギリまで入れなくてもいいのにな、って」
「そだねえ……」
「賞味期限を延ばすためらしいけど、ちゃんと開けられないのは問題だと思う」
「プリンみたいしてほしい」
「わかる」
「プリンは、ゼリーみたいしてほしい」
「量が多くなるから?」
「うん」
うへーと笑う。
「わかる」
「ね」
ゼリーはより開けやすく、プリンはより多く──なりませんかねえ。



2017年6月30日(金)

PCで動画を再生しながらエアロバイクを漕いでいたときのことである。

──バツン!

唐突に、ベッドルームのほうから異音が響いた。
「わ!」
「どした!」
慌てて視線を向けると、
「でんききえたー……」
ベッドに寝転がって漫画を読んでいたうにゅほが、不安げにそう答えた。
エアロバイクから降り、真っ暗なベッドルームへと赴く。
「××、リモコン取って」
「はい」
シーリングライトのリモコンを受け取り、全灯ボタンを押す。
無反応。
「えるいーでぃー、きれたのかな」
「違うと思う」
俺たちの部屋は、ベッドルームと書斎とに分かれている。
普段はふたりとも書斎にいることが多いため、ベッドルームのLED灯が先に切れるとは考えにくいのだ。
「てことは、故障かな……」
「こわれたの?」
「なんか、それっぽい音してたし」
「してたねえ……」
「LEDを交換してなんとかなるならいいけど……」
「なるかな」
「わからん」
「わからんかー……」
「ならなかったら、どうしようかな」
「あたらしいの、かう?」
「──…………」
しばし黙考し、問う。
「ベッドのほうって、電灯いる?」
「いるよー」
「いるかー……」
なくてもいいような気がちょっとだけしたのだが、うにゅほがいると言うなら仕方ない。
まずは、明日にでも換えのLED灯を買ってこよう。
話はそれからだ。

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