>> 2017年3月




2017年3月1日(水)

「あ!」
仕事部屋にしている仏間で図面を引いていると、隣で暇そうにしていたうにゅほが唐突に声を上げた。
「えい」
なにやら手のひらを畳に押しつけている。
「どうかした?」
「むし」
「虫がいたのか」
「うん」
「潰したのか」
「うん」
「……どのくらいの虫?」
「ちいちゃいむし」
「そっか」
大きい虫、苦手だもんな。
俺もだけど。
「あー……」
自分の手のひらを覗き込んだうにゅほが、ティッシュで虫の残骸を拭い取る。
「虫が出てきたってことは、そろそろ春だな」
「そだねえ」
「あったかくなってきたもんなあ」
「うん」
「言うなれば、春告虫ってところかな」
「はるつげむし?」
「春を告げる虫。春告鳥はウグイスで、春告草は梅。春告魚は──なんだったか」
「はるつげむし……」
「まあ、潰しちゃったけどな」
「つぶさないほう、よかったかなあ」
「いや、潰してくれ」
「いいの?」
「春を告げようが何しようが、虫は虫です」
「はい」
「見敵必殺!」
「けんてきひっさつ!」
「私は仕事に戻るので、××隊員は他に虫がいないかチェックしてくれたまえ」
「はい!」
今年は自室にエアコンがあるので、窓を開けずに済む。
害虫を見ずに済めば良いのだが。



2017年3月2日(木)

ネット通販で、革製のブーツを購入した。
購入したはいいのだが、
「……めっちゃきつい」
「きついの……」
「纏足になりそう」
爪先に血が流れていないのではないかと心配になるくらい、きつい。
「サイズ、まちがった?」
「いや、間違ってはいないんだよ」
「?」
「27.0-27.5cmってサイズを買ったんだけど、その次のサイズが28.0-28.5cmだったんだ」
「あいだ、ないの?」
「ない」
「おおきいくつ、くつずれなるしねえ」
「そうなんだよ」
「せっかくかったのにねえ……」
うにゅほが顔を曇らせる。
けっこうしたからなあ。
「まあ、でも、さして問題はない」
「……?」
「靴に限らず、革製品は、伸びる」
「そなの?」
「めっちゃ伸びる」
「めっちゃ……」
「サイズのあいだがないのも、伸びるのを見越してのことだろうな」
「そうなんだ」
たぶん。
「このまま外を歩くのはちょっとつらいから、しばらく部屋で慣らそう」
「へやではくの?」
「そう。革が伸びてきたら、靴下を重ねて履いて、更に伸ばす」
「おー」
「いつの間にか、サイズがピッタリになってるって寸法よ」
「なるかな」
「ならないと、困る」
「こまるねえ……」
けっこうしたもんなあ。
「大丈夫、大丈夫」
「うん」
「……大丈夫と信じ続けよう」
「うん……」
あまりのきつさにちょっぴり不安がよぎる俺だった。



2017年3月3日(金)

「──これでよし、と」
L字デスクの上に、陶器でできた熊の雛人形を飾る。
五年前、百円ショップで購入したものだ。
「まあ、あんまりよくはないけど……」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、ほら、首だけになっちゃってるからさ」
よりにもよって、お雛さまの方が、である。
数ヶ月前、床に落として胴体を割ってしまったのだった。
「おだいりさま、◯◯」
「ああ」
「おひなさま、わたし」
「そうだな」
「わたし、せーちいさいから、これでだいじょぶ」
「……でも、首だけだぞ?」
「だいじょぶ!」
ああ、気を遣わせてしまっている。
「本当に、ちゃんとしたお雛さまいらないの?」
「うん」
「父さんと母さんに言えば、買ってくれると思うけど……」
「おとうさんとおかあさん、かってくれるっていったけど、いらないっていったの」
「そうなんだ」
家族なんだから、遠慮しなくていいのに。
内心が顔に表れたのか、うにゅほが言い訳するように口を開いた。
「だって、おひなさま、あんましかわいくない……」
「まあ、そういうものじゃないしなあ」
「どういうもの?」
「……どういうものなんだろう」
改めて尋ねられると、困る。
「だからね、よくわかんないから、そんなにいらない」
「あー……」
納得。
遠慮していたのではなく、本当に欲しくなかったらしい。
「……不二家でケーキでも買ってくる?」
「うん!」
雛人形がいらないのなら、今日はうんと甘やかしてやろう。
いつもと変わらないような気もするが、それはそれで気のせいということにする。



2017年3月4日(土)

「──ふー……」
ペダルを漕いでいた足を止め、首に掛けたタオルで汗を拭く。
TSUTAYAで借りてきた映画を観ながらエアロバイクを漕いでいたのだった。
「……疲れたあ」
「とうぜんとおもう……」
うにゅほが、呆れと心配とをないまぜにした表情を浮かべる。
「……まあ、俺も、二本連続で漕ぐのはやり過ぎかなと思った」
興が乗ってしまったのだ。
「どのくらいこいだの?」
「えーと」
モード切替ボタンを数回押し、走行距離を確認する。
「……70km」
「ななじゅっきろ……」
我ながらアホである。
「ななじゅっきろって、どこまでいけるの?」
「何年か前、バイクで積丹行ったろ」※1
「いった」
「お昼に海鮮丼食べたろ」
「おいしかったねえ」
「あの寿司屋くらい」
「すごい……」
バイクで一時間以上かかる距離を走破したのだから、相当なものだ。
「おかげで、ブーツもだいぶ足に馴染んだみたい」
「ほんと?」
サドルに腰掛けたまま、足を組む。
「ほら──って、見てもわからないか」
革を伸ばすため、ブーツを履いたまま漕いでいたのである。
「これなら、外歩いても問題なさそう」
「よかったー……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
「でも、こんどから、ちゃんとしちゃくしてかおうね」
「はい……」
今回は本革製だからなんとかなったが、普通の靴はそれほどサイズが変わらない。
やはり、靴は店頭で買うのがいちばんである。
「××の春靴も、そろそろ買いに行こうか」
「うん!」
雪解けが近い。
新しい靴で出歩くのは、とても気分がいいものだ。

※1 2013年9月23日(月)参照



2017年3月5日(日)

「ケツが痛い」
「けつが……」
「……ケツはよくない、おしりにしよう」
「おしり」
「よろしい」
「はい」
「おしり、いたいの?」
「痛い」
「ぢ?」
「そっちが痛かったら、××に内緒で肛門科に行きます」
「ないしょにしなくていいのに」
「恥ずかしいの」
「そか……」
「そっちじゃなくて、尻っぺたのほうが痛いんです」
「えあろばいく、のりすぎとおもう」
「まあ、そうなんだけど」
今日も既に30kmほど漕いでいる。
「あんまし疲れないから、ずっと漕いでいられるんだよなあ」
「すごい……」
「××がすぐダウンしたのって、負荷が大きかったからだと思うぞ」
「そなの?」
「最初は7にしてたけど、いまは5だしな」
高負荷短時間より、低負荷長時間運動のほうが良いと判断したのだ。
「よんにしたら、のれるかな」
「やってみるか?」
「……こんど」
苦手意識がついてしまったらしい。
「それはいいとして、ケツが痛い」
「けつが」
「おしりな」
「おしり」
「皮膚が痛いわけじゃないから、軟膏も意味ないしなあ」
「まっさーじする?」
うにゅほが両手をわきわきさせる。
「頼もうかな……」
「はーい」
思うさま尻を揉まれたら、幾分かは楽になった気がする。
サドルにクッションでも乗せようかな。



2017年3月6日(月)

「あれ……」
「ん?」
「きょう、えあろばいくしないの?」
「今日はおやすみ」
「おしりいたいから?」
「いや、足の筋肉がパンパンでさ」
「のりすぎとおもう……」
「俺もそう思う」
「だから、おやすみ?」
「しっかり休養を取らないと筋肉がつかないって聞いたことあるし」
「そなんだ」
「そこらへんは諸説あるみたいだけどな」
「あし、さわっていい?」
「いいよ」
うにゅほの小さな手のひらが、ふくらはぎのあたりを這い回る。
「うひ」
「あし、ふといねえ」
「太いぞ」
「あし、ぱんぱんだねえ」
「パンパンだぞ」
「もみもみしていい?」
「いいぞ」
もみもみ。
「いたい?」
「そんなには」
「きもちい?」
「わりと」
「じゃあ、もっともみもみするね」
「お願いします」
もみもみ。
「あ、左足も」
「はーい」
もみもみ。
「あしのうら、いいんだって」
「足裏マッサージか」
「うん」
「お願いしていいですか」
「でも、いたいかも」
「大丈夫」
「やってみるね」
ぐい、ぐい。
「いたい?」
「いや、まったく」
「きもちいい?」
「うん、気持ちいい」
「そか」
そんな具合に、ひととおりマッサージをしてもらった。
疲れが取れた気がした。



2017年3月7日(火)

「やる気スイッチが欲しい」
「やるきすいっち?」
「やる気スイッチ」
「やるきすいっちって、なに?」
「押すとやる気が出る」
「すごい」
「凄いんだ」
「どんなしくみ?」
「いや、知らんけど」
「いくら?」
「……売ってないんです」
「そうなんだ」
「そもそも、実在しないものだから」
「ないのにほしいの?」
「ないから欲しいの」
「あー」
「あったら連打するのになあ」
「いま、やるきないの?」
「あんまりない」
「えあろばいくしてるのに」
「やるべきことから逃げるために漕いでるんです」
「そうなんだ……」
「エアロバイクだから、漕いでも漕いでも逃げられないんですけどね」
「──…………」
うにゅほが座椅子から腰を上げる。
そして、俺の背後ににじり寄り、腰のあたりを指で押した。
「ぴ」
「……?」
「やるきすいっち、おした」
「おー」
「やるき、でた?」
「出ないなあ」
「でないかー……」
「そこは、やる気スイッチではなく、よる気スイッチでした」
「よるきって、なに?」
「知らんけど」
「しらんの……」
「やる気スイッチは別の場所です」
「!」
「さて、どこでしょう」
「どこかなー」
うにゅほが肩甲骨のあたりを押す。
「ぴ」
「そこは、ぬる気スイッチですね」
「ぴ」
「そこは、ねる気スイッチです」
「ねるの?」
「ちょっと眠くなりました」
「ぴ」
「そこは、ある気スイッチです」
「あるくの?」
「歩きます」
「どこいくの?」
「トイレです」
トイレから帰ってきてからも、いろいろなスイッチを押しまくられた。
やる気スイッチは見つからなかったけれど、楽しかったので良しとしよう。



2017年3月8日(水)

「──…………」
上体を起こし、前髪を掻き上げる。
夢を見た。
内容は記さない。
日記を読み返したとき、思い出したくないからだ。
「あ、おきた」
「──…………」
「……やなゆめみた?」
「見ました」
「そか……」
相当に険しい顔をしていたらしい。
「──うし!」
ぱん!
両手で自分の頬を張り、立ち上がる。
「顔洗ってくる!」
「うん」
冷たい水で顔を雪ぎ、自室に戻る。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「どんなゆめ、みたの?」
「……秘密」
「そか」
口にしたくもない。
「××は、嫌な夢って覚えてる?」
「うと」
うにゅほがしばし考え込む。
「いやなゆめ……」
「たとえば、俺が死ぬ夢とか」
「やだ」
険しい顔で首を振る。
俺も、こんな表情を浮かべていたのだろう。
「……嫌な夢なんて、さっさと忘れるに限る」
「うん」
「というわけで、朝ごはんだ」
「はーい」
今日の朝ごはんは、チーズオムレツだった。
美味しかった。



2017年3月9日(木)

「あ」
靴下を履こうとして、気がついた。
「穴空いてる」
「どこ?」
「ほら、親指のとこ」
冬用の厚手の靴下に、直径1cmほどの小さな穴が空いている。
「ほんとだ……」
「何年くらい履いたっけ」
「にねんくらい?」
「二年も履けば十分でしょう」
「あな、とじないの?」
「うーん……」
「こないだ、べつのくつしたのあな、おさいほうしてた」
「あれは、引っ掛けて空けた穴だからなあ」
「ちがうの?」
「今回は、経年劣化で薄くなって空いた穴だから、根治が難しい」
「こんち」
「ほら、見てみな」
靴下を手に履かせ、穴のあたりに指を添える。
「穴の周辺の生地が薄くなってるの、わかるか?」
「わかる」
「薄くなっているということは、そこに重点的に力が加わっているということ」
「うん」
「穴を塞ぐことはできるけど、またすぐに空く可能性が高い」
「そか……」
「この場合、有効なのは、裏から布を当てることかな」
「それ、しないの?」
「しません」
「しないの……」
「履き心地が悪くなるし、そもそもそこまでするような品じゃない」
靴下なんて、所詮は消耗品である。
うにゅほが手編みした靴下とかなら繕ってでも大事に使うけど、単なる既製品だし。
「あと、まったく同じデザインの靴下、もう一組あるし……」
「そだねえ」
そちらはほぼ未使用なので、あと二年は使えるだろう。
次に靴下を買うのは、いったいいつになることやら。



2017年3月10日(金)

「──…………」
右の奥歯の付け根を舌でなぞる。
気になる。
とても気になる。
「◯◯、へんなかおしてる」
「してないよ」
「してる」
「……奥歯がな」
「いたいの?」
「痛くはない」
「ほんと?」
「痛くはないが、気になるんだ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「舌で触れると、こう、ざらついてるというか」
「うん」
「こんなこと言うとあれなんだけど」
「うん?」
「有り体に言って、虫歯になってる気がするというか……」
「はいしゃいこ」
「待て、待ってくれ」
「いかないの?」
「行くけど待ってくれ」
「まつけど……」
「ほら、気のせいかもしれないし」
「はーみして」
「奥歯の裏側だから、さすがに見えないよ」
「そか……」
「そうそう」
「じゃあ、つめたいの、しみる?」
「──…………」
「しみる?」
「もともと知覚過敏ですし……」
「はいしゃいこ」
「……歯医者かあ」
「はやくいかないと、むしばひどくなるよ」
「それは、そうなんだけど……」
憂鬱この上ない。
「……今日はもう遅いから、明日にでも予約の電話をします」
「はい」
歯医者かあ……。
嫌だなあ……。



2017年3月11日(土)

ばたん。
両親と弟の姿が、玄関の向こうに消える。
「くくく……」
「?」
隣のうにゅほが首をかしげる。
「自由だ!」
「わ!」
うにゅほを肩に担ぎ、階段を駆け上がる。
「なにするの?」
「家族がいるときにはできないことに決まってる」
「あー」
うんうんと頷く気配。
「さ、準備準備」
自室に戻り、うにゅほを下ろす。
そして、PC本体背面の配線を点検する。
「よし、繋いだ!」
「つかうの、ひさしぶりだねえ」
「父さんがいると、うるさいって言われるからな……」
「うん」
「聞きたい曲あるか?」
「スピッツ!」
「了解」
家族がいるときには、できないこと。
それは、サブウーファー付きのサラウンドスピーカーを使って、大音量で音楽を聴くことである。
マイミュージックからwavファイルを開くと、ウーファーを載せているデスクがビリビリと震え始めた。
「はくりょくあるねえ……」
「ほんとな」
迫力があり過ぎるせいで、普段は使えないのだけれど。
「──…………」
「──……」
スピッツを二、三曲聴いたあたりで、再生ソフトをそっと閉じる。
「もういいかな……」
「そう?」
「わりと満足」
「そか」
ロジクール製の2.1chスピーカー、宝の持ち腐れのような気がしなくもない。



2017年3月12日(日)

「あー……」
チェアの背もたれに体重を預け、天井を振り仰ぐ。
「だらだらしてると、日曜ってすぐに過ぎてくな……」
「そなんだ」
「……××、休日ないもんなあ」
家事に休みはない。
これは、大変なことだ。
「家族で相談して、今度、××にお休みを作ろうか」
「おやすみ?」
「そう」
「でも、ごはんつくらないと」
「母さんにまかせよう」
「おさらあらう」
「それくらい、俺がするよ」
「せんたく」
「次の日にまとめてやればいい」
「そうじ……」
「一日くらい、しなくたって大丈夫」
「そかな」
「そんで、一緒にだらだらしよう」
「──…………」
うにゅほが、困ったように笑みを浮かべる。
長い付き合いだ。
その表情が何を意味しているかくらい、わかる。
「あんまり気が乗らない?」
「うん……」
「そっか」
「ごめんなさい……」
「謝らない、謝らない」
うにゅほの頭に手を伸ばし、優しく撫でる。
「家事をしてたほうが、落ち着く?」
「わたしのしごと、だから」
そう告げるうにゅほの瞳には、矜持が宿っていた。
「……いらんこと言っちゃったな」
「ううん」
ふるふると首を横に振る。
「◯◯とだらだらするの、すき」
「そうかそうか」
「ごはんのじかんまで、だらだらしよ」
うにゅほが、ぽんぽんと自分の膝を叩く。
「どうぞ」
「では遠慮なく」
うにゅほに膝枕をしてもらいながら、全力でだらだらした。
有意義な一日だった。



2017年3月13日(月)

「……ない」
DACアンプをどかし、キーボードを持ち上げ、液晶タブレットを裏返す。
「ないなあ……」
「なにさがしてるの?」
「毛抜き」
「けぬき……」
「××、知らない?」
「しらない」
ふるふると首を横に振ったうにゅほが、デスクの下に這い入る。
「したにおちてないかな」
「なるほど」
「ちょっとまってね」
ごそごそ。
「ありそう?」
「ない……」
「落としたわけでもないのか」
どこへ行ったのやら。
「さいごにみたの、いつ?」
「いつだっけ……」
「さいごにつかったのは?」
「最近、使ってなかったと思う」
「そか」
「ごめん、なんのヒントにもならなかったな」
「ひきだしは?」
「引き出しは、最初に探したんだ」
「そか……」
「まあ、毛抜きくらい、買い直せばいいんだけどさ」
百円ショップで買ったやつだし。
「でも、きになるねえ」
「あるとしたら、デスク周りのはずなんだけど……」
冷蔵庫を開こうと、チェアから腰を上げる。

ちゃりん。

「なんかおちた」
そう言ってうにゅほが拾い上げたものは、探し求めていた毛抜きだった。
服に挟まっていたらしい。
「──…………」
「──……」
「……灯台もと暗し」
「うん」
間抜けなオチがついたが、見つかったことは素直に喜ばしい。
気になっていた指毛をさっそく根絶する俺だった。



2017年3月14日(火)

ホワイトデーである。
「××、これ」
「?」
「ホワイトデーのお返し。去年と同じ、ちょっと高いマカロン」
「!」
うにゅほが目をぱちくりさせる。
忘れていたらしい。
「ありがと!」
「今年のバレンタイン、すごく凝ってたからさ。迷ったんだけど──」
ポケットから、三枚の紙切れを取り出す。
「これもあげよう」
「……?」
うにゅほが、受け取った紙切れを読み上げる。
「なんでもいうこときくけん」
「なんでも言うこと聞くぞ」
「おー……」
「ただし、その場ですぐにできることに限ります」
「そのばですぐ?」
「長生きしてね、とかは駄目ってこと」
「そか……」
「あと、能力的に難しいことも拒否します」
「たとえば?」
「フルマラソンしてきて、とか」
「いわないよー」
「たとえばね、たとえば」
「うん」
「それ以外のことなら、たいてい聞きます」
「いちまいつかっていい?」
「お、いいぞ」
「うへー……」
はにかみながら、うにゅほが口を開く。
「ひざ、すわりたいな」
「──…………」
俺は、大きくかぶりを振った。
「もったいない!」
「だめ?」
「駄目じゃない、駄目じゃないけど、つーかそれ券いらないからな!」
「わ」
うにゅほの手を引き、膝の上に座らせる。
「券を使うのは、もっと特別なことにしなさい」
「とくべつなこと……」
「そう、特別なこと」
「──…………」
考え込んでしまった。
「まあ、期限はないから、ゆっくり考えたまえ」
「うん」
たまにはわがままを言ってほしい。
そう考えて作った券だ。
どんな使われ方をするか、楽しみにしておこう。



2017年3月15日(水)

「はー、さむさむ……」
摩擦熱で暖を取るために、両手をすりすりと擦り合わせる。
「三月も半ばなのに、まだ寒い」
「そだねえ……」
「膝カモン」
「はーい」
うにゅほを膝の上に乗せ、そのほっぺたを両手で挟む。
「ふめたい」
「冷たいんだよ」
むにむに。
「うぶぶ」
「××のほっぺたも冷たいなあ」
「うん」
「××の手は?」
「はい」
小さなうにゅほの手のひらが、さらに上から俺の手に添えられる。
「冷たい」
「つめたいの」
うにゅほには冷え性の気がある。
「その様子だと、爪先はもっと冷たそうだなあ」
「うん……」
「靴下履かないから」
「う」
「まあ、俺も履いてないけどさ」
どうにも靴下の嫌いなふたりである。
「ストーブをつけよう」
「うん」
チェアを滑らせ、ストーブの前に移動する。
「ぴ」
うにゅほが爪先で電源を入れる。
見事な連携プレイである。
「はやく春が来ないかなあ……」
「すぐくるよ」
「明日?」
「そんなにすぐじゃないかも……」
長い冬にはもう飽きた。
雪解けを願う。



2017年3月16日(木)

「んー……」
マウスを軽く持ち、左右に振るように動かす。
「いまは大丈夫か」
「どしたの?」
「最近、たまに、マウスの挙動がおかしくなるんだ」
「こわれた?」
「壊れたとは思いたくないなあ……」
いま使っているマウスは、LogicoolのM950tである。
三年の保証期間は既に過ぎてしまったため、壊れたら買い換えるしかない。
「まうすのよび、あったきーする」
「予備はあるけど、予備は予備だよ。新しいのを買うまでの繋ぎ」
「そなの?」
「3ボタンしかない有線マウスなんて、いまさら使ってられないからなあ……」
「◯◯のまうす、ボタンたくさんあるもんね」
「8個かな」
「すごい」
「凄いだろ」
「そしたら、こわれたら、おなじのかうの?」
「そうしたいんだけど──」
キーボードを叩き、Amazonの当該ページを開く。
「これ」
「?」
うにゅほがディスプレイを覗き込み、
「──にま!」
あまりの値段に妙な声を上げた。
「廃番になって、プレミアついちゃったんだよ」
「たかい……」
「さすがに買えない」
うにゅほが無言でうんうんと頷く。
「壊れてないことを祈るしかないな……」
「だいじにつかお」
「ああ」
いつか壊れるのが道具の定めだとしても、そのいつかを遠ざけることはできるはずだ。
丁重に扱っていこう。



2017年3月17日(金)

「ただいま!」
母親と美容室へ行っていたうにゅほが、元気いっぱいに帰宅した。
「にあう?」
「似合う似合う。さっぱりしたな」
「うへー……」
ロングだったうにゅほの髪が、セミロングほどになっている。
分け目も変わっていて、すこしお嬢様っぽい。
「いけてる?」
「イケ──って、まあイケてると思うけど、それ死語だぞ」
「しご?」
「使われなくなった言葉ってこと」
「そなんだ」
「おじさんが言ってたんだろ」
「うん」
うにゅほが通う美容室は、父親の従兄弟が経営しているところである。
その言語センスでいろいろ大丈夫なのだろうか。
「あ、きのとやでプリンかってきたよ」
「お」
「はい、これ」
うにゅほが手に提げていたケーキ箱を受け取る。
「?」
なんだか、やたらと重い。
「あけてみて」
「うん」
ケーキ箱を開くと、陶器製のデザートカップが五つ並んでいた。
「極上牛乳プリン……」
と、書いてある。
「自ら極上と名乗るからには、よほど自信があると見える」
「おいしいかな」
「食べてみよう」
「うん!」
自室に戻り、牛乳プリンに舌鼓を打つ。
「──美味い!」
「うん、おいしいねえ」
牛乳プリンにしては固めの生地が、舌の上で滑らかにほぐれていく。
「極上を名乗るだけはあるなあ」
「うん、うん」
「なにより嬉しいのは、牛乳プリンだからカラメルが──」
スプーンで底をつついた瞬間、茶色い液体が噴き出し、純白の生地を穢した。
「……入ってた」
「え!」
うにゅほがプリンを掘り返す。
「ほんとだ……」
「どうして、どうして牛乳プリンにカラメルを入れるんだ……」
プリンと言えば、カラメルソース。
そんなの絶対おかしいよ。



2017年3月18日(土)

「暑い」
「あついねえ……」
「いよいよ春めいてきたな」
「うん」
窓の外に降り注ぐ陽光が、残雪を優しく焦がしている。
「ゆき、とけるかなあ」
「今日だけで、だいぶ解けると思う」
「あったかいもんね」
「暑いくらいだもんな」
「うん」
「まあ、暑いのは陽射しのせいだけじゃないけど……」
「?」
俺の膝の上に鎮座ましましているうにゅほが、ちいさく小首をかしげた。
「……暑くない?」
「あつい」
「ちょっと汗ばんできた」
「わたしもー」
うへーと笑う。
「──…………」
「──……」
下りる気はないらしい。
俺の戸惑いを察したのか、うにゅほが遠慮がちに尋ねる。
「いや?」
「嫌ではないけど」
夏場だって、くっつくときはくっついているのだし。
「あ、そだ」
「?」
「わたしね、かんがえたの」
うにゅほが、スカートのポケットから紙切れを取り出す。
「はい」
それは、ホワイトデーに渡した「なんでも言うこと聞く券」だった。
「いま使うの?」
「うん」
「なんでも言うこと聞くぞ」
「じゃあ、あついけど、ぎゅーってして」
「──…………」
無言でうにゅほを抱き締める。
「……うへえ」
「こんなことでいいのか」
「うん」
安上がりだなあ。
暑いけれど、ほんのり幸せな、土曜日の午後だった。



2017年3月19日(日)

「しりとりの、しーからね」
「了解」
パン、と軽く両頬を叩く。
「──小石!」
「なまこ」
「バナナ」
「すなば」
「アクエリアス」
「ドア」
「アーモンド」
「あー、あー、ふぉーくろあ!」
「よくそんな言葉知ってたな」
「うへー……」
うにゅほの語彙が、たまによくわからない。
「揚げ豆腐」
「また、あー……?」
「ふふふ」
あたまとり。
それは、しりとりの反対のことをする遊びである。
「××、やたら強いからな。作戦を考えたんだ」
「さくせん?」
「しりとりなら、〈る〉攻めや〈ぬ〉攻めが有効だな」
「うん」
「あたまとりでは、〈あ〉攻めがわりと有効だと気づいたんだ」
「そなの?」
「実際、ちょっと困るだろ?」
「うん……」
「さ、どうぞ」
「あかしあ」
来たな、カウンターパンチ。
だが、対策はいくつも考えてある。
「アンパイア!」
「あー、あー、あくあ……」
「アイディア」
「あうとどあ」
「──…………」
〈あ〉で始まって〈あ〉で終わる言葉、けっこうあるなあ。
「……そうか」
「?」
「〈あ〉で終わる言葉、日本語以外ならある」
「あー」
盲点だった。
「アジア」
「うーと、あんもにあ」
「アームチェア」
ルールが変わっているような。
しばらく競っていたが、やはり〈あ〉攻めは強かった。
読者諸兄も、あたまとりをする際には、〈あ〉攻めの導入をおすすめする。



2017年3月20日(月)

今日は父親の誕生日だった。
「ふー、食った食った……」
背中からベッドに倒れ込み、自分の腹をぽんぽんと叩く。
「くったくったー」
俺の真似をして、うにゅほが隣に倒れ込んだ。
ベッドが軽く軋む。
「◯◯、すごいたべたねえ」
「久々の焼肉だから、張り切ってしまった」
「おなかぽんぽん?」
「ぽんぽん」
「さわっていい?」
「いいよ」
うにゅほの小さな手のひらが、俺の腹部を優しく撫でる。
すこしくすぐったい。
「あんましぽんぽんじゃないねえ」
「そうか?」
「へこんでる」
「腹筋に力入れてるからな」
「えー」
うにゅほが不満げに唸る。
「なんか恥ずかしいじゃん……」
「そかな」
「××のおなか、触っていいか?」
「うん」
細っこいおなかに手を乗せる。
「なでてー」
「はいはい」
なでなで。
呼吸によって上下するおなかが、なんとなく愛しい。
「ぶす」
「う」
「へそはここかー!」
「ちがうよ」
「こっちか!」
「やめへー!」
笑い合いながら、へそ当てゲームに興じるふたりだった。



2017年3月21日(火)

「──…………」
ぐてー。
チェアの背もたれを170度リクライニングし、だらしなく側臥する。
「……◯◯、だいじょぶ?」
「だいじょばない……」
「かぜ?」
「すこし風邪っぽいかな」
「そか……」
頭痛もするし、喉もいがらっぽい。
だが、問題はそこにない。
「そんなことより、全身の筋肉がめっちゃ痛い……」
「きんにくつう?」
「わからんけど、ビッキビキ」
「つん」
「うッ」
うにゅほが俺のふとももをつつく。
「いたい?」
「くすぐったい」
「きのう、えあろばいく、なんきろのったの?」
「30kmくらい」
「のりすぎとおもう」
「そうかなあ……」
「そだよ」
感覚が麻痺してきている。
「きょうは、えあろばいくきんしね」
「えー……」
「だめ」
「昨日の焼肉ぶんを落とさないと」
「だめ」
「どうしても?」
「だめです」
「××が寝たあとも?」
「──…………」
「あ、はい」
無言の圧力に屈してしまった。
「むりしたらだめ」
「はい」
「やすむとき、やすむ」
「はい……」
「あしたがんばろ」
うにゅほが俺の頭を撫でる。
「──…………」
なんだか子供の頃に戻った気分だった。



2017年3月22日(水)

「さむ」
ファンヒーターの運転ボタンを爪先で押すと、給油表示が点灯した。
「灯油切れてたか……」
そう呟いた瞬間、
「!」
漫画を読みふけっていたうにゅほが、勢いよく顔を上げた。
「とうゆ、いれるの?」
「寒いからな」
「うへー……」
うにゅほは、俺の手についた灯油の匂いが大好きなのだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるな」
「はーい」
ファンヒーターからタンクを取り出し、自室を後にする。
玄関先に並べて置いてあるポリタンクから給油を行っていると、階段を下りる足音が聞こえてきた。
「……××さん」
「はい」
「我慢できなかったの?」
「はい……」
どんだけ好きなんだ。
「これでさいごかなっておもって……」
「あー」
春はもう程近い。
灯油を入れる機会は、次の冬までないだろう。
タンクの蓋を閉じ、うにゅほの鼻先に右手を差し出す。
「はい」
「♪」
ふんすふんす、
ふー。
ふんすふんす、
はー。
「満足した?」
「もすこし」
「続きは、部屋に戻ってからにしようか」
「うん」
この冬最後の灯油の香りを余すところなく満喫するうにゅほなのだった。



2017年3月23日(木)

「はー……」
ペダルを踏む足を止め、前髪を掻き上げる。
生え際が汗に濡れていた。
「はい、タオル」
「さんきゅー」
「なんきろくらいこいだの?」
「今日は、33kmかな」
「さんじゅうさんきろだと、どこまでいける?」
「いつもの映画館くらい」
「おー」
「四月に入って空いてきたら、ドラえもん観に行こうな」
「うん!」
「じゃあ、シャツ取り替えてくる」
「はーい」
エアロバイクを降り、隣室で着替えを済ませて戻ってくると、
「──…………」
すんすん。
「……××さん?」
「!」
うにゅほが、サドルと尻のあいだに噛ませていた座布団のにおいを嗅いでいた。
「それは勘弁していただけませんか……」
さすがに恥ずかしい。
「ちがくて!」
うにゅほがあわあわと首を振る。
「くさかったら、ふぁぶりーずしようとおもったの……」
「あー」
なるほど。
「ちょっと引くところだった」
「ひかないでー……」
「それで、臭かった?」
「あせくさかった」
「じゃあ、ファブリーズしとくか」
「うん」
座布団の両面にファブリーズを噴霧して、陽光の射し込む場所に立て掛けた。
どうかにおいが取れますように。



2017年3月24日(金)

仮音源を聴きながら、中指で軽くデスクを叩く。
鼻歌も出ていたかもしれない。
気がつくと、
「──…………」
うにゅほが俺の顔を間近で覗き込んでいた。
「のわ!」
「あ、ごめんなさい……」
ばつが悪そうに、ぺこりと頭を下げる。
「◯◯、のりのりだなって」
「ノリノリとはすこし違うんだけど……」
「?」
「音数を数えてたんだよ」
「おんすう」
「簡単に言うと、音符の数だな」
楽譜を画像ファイルで開く。
「基本的には、一音一文字。大きくずれると歌えなくなる」
「へえー」
「自分で作詞作曲するシンガーソングライターなら融通もきくんだろうけど……」
「あ、さくし」
「うん?」
「◯◯、さくししてたんだね」
気づいてなかったのか。
「なにしてると思ってたんだ?」
「おんがくきいて、のりのりしてるのかなって」
「──…………」
そう思われていたことが、なんだかちょっとだけ恥ずかしい。
「さくし、ひさしぶりだね」
「そうか?」
「いちねんくらいぶり」
「えーと……」
wavファイルの更新日時を確認する。
「今年に入って既に三曲作詞してるな」
「え!」
「基本、××が寝たあとに作業してるからなあ」
深夜のほうが集中できるし。
「そうなんだ……」
「そうなのだ」
「カラオケなるの?」
「知らんけど」
なんでもかんでもカラオケに入るわけではない。
「かし、みていい?」
「駄目」
「えー……」
「歌詞単独で読まれると恥ずかしいので、曲として仕上がってからでいいですか?」
「はーい」
うにゅほプレイスに戻っていくうにゅほを横目に、作業を再開するのだった。



2017年3月25日(土)

友人が、愛知のおみやげにういろうをくれた。
「××、これなーんだ」
包装を剥き、うにゅほの眼前に差し出す。
「……?」
つん。
「ぷにぷにしてる」
「うん」
「なにかのー、そざい、です」
「なんだ、わかってたのか」
「うへー」
いまのはラーメンズのネタである。
「××、ういろう食べたことあったっけ」
「うん」
「いつだっけ……」
「うーとね、ずっとまえ」
「俺も、何年か前に買って食べた記憶あるから、そのときだな」
「──…………」
つん。
ぷに。
つん。
ぷに。
「ね、◯◯」
「ん?」
「ういろうって、なに?」
「……言われてみれば、なんだろう」
「そざい?」
「それはいいから」
スマホを取り出し、Wikipediaを開く。
「──えーと、蒸し菓子の一種だって」
「むしがし」
「米粉と砂糖と水を練り合わせて、型に注いで蒸して作るって書いてある」
「おもちじゃないんだ」
「米粉はもち米で作るから、餅の一種と言えば言える」
「そうなんだ」
うにゅほが俺の手からういろうを奪う。
「◯◯、あーん」
「あー」
差し出されるまま、ひとくちサイズのういろうを頬張る。
「おいしい?」
「まあ、普通かな……」
「ふつうなんだ」
「××も食べてみ」
「うん」
決して不味くはないが、すごく美味しいわけでもない。
ういろうって、そんな味だ。



2017年3月26日(日)

昼食後、眠気にまかせて仮眠をとっていたときのことだ。
「──……ぃ……」
「……?」
ふと名前を呼ばれた気がして、アイマスクを上げる。
すると、
「◯◯ぃ……」
いまにも泣き出しそうな顔をしたうにゅほが、ベッドの真横に立っていた。
差し出された両手に、なにかコードのようなものが乗せられている。
「……イヤホン?」
「いやほん、おとして、ふんじゃった……」
「──…………」
両目を細め、カナル型イヤホンを検める。
右耳側が継ぎ目からひび割れ、導線が露出していた。
「……完全に壊れてますね」
「ごめんなさい……」
「新しいの買わないと」
「ごめ……」
「あー、気にしない気にしない」
上体を起こし、うにゅほの頭を撫でる。
「イヤホンなんて、そもそもが消耗品なんだから」
「──…………」
「それに、こんなこともあろうかと──」
ベッドサイドの飾り棚から、コード類をまとめた紙袋を取り出す。
「予備のイヤホンが、ちゃんとある」
「!」
「ほら、コードもU字型」
「ほんとだ……」
「いつだったか、携帯を買い換えたときにおまけでついてきたやつでさ」
「そなんだ」
枕元のiPhoneに繋ぎ、音楽を再生してみる。
「──…………」
「きこえる?」
「……なにも聞こえない」
「こわれた……?」
「壊れてる、かも。そもそも十年くらい前のやつだから……」
一度も使っていないのになあ。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいは一回でいいよ」
「はい……」
「買えばいいんだ、買えば。Amazonで同じのポチりましょう」
「すみません……」
「そういう意味じゃないって」
そのあとも、うにゅほはしばらく落ち込んでいた。
本当に気にしなくていいんだけど。



2017年3月27日(月)

「──はァ、ひい、ふー……」
エアロバイクを降り、ふらふらとベッドに倒れ込む。
「……自己ベスト更新」
たしかな満足感に、思わず頬が緩む。
頑張った。
本当に頑張った。
「◯◯、だいじょぶ……?」
「大丈夫、大丈夫」
「おしり、いたくない?」
「すこし痛いけど……」
そんなことより、自慢したくてたまらない。
「××」
「?」
「さて、本日は何キロくらい漕いだでしょー、か!」
「ひゃっきろ」
うにゅほが即答する。
「──正解。すごいな、××」
「わかるよ……」
呆れたように苦笑しながら、言葉を継ぐ。
「さんじゅっぷんでじゅっきろで、ごじかんこいでたから」
「……改めて言葉にすると、とんでもないな」
「あらためてことばにしなくても、とんでもないとおもう……」
「頑張りました」
「がんばりすぎです」
「ストレッチしたら、休もう……」
「うん」
軽く筋肉をほぐしたあと、再びベッドに倒れ込む。
「あし、まっさーじするね」
「ありがとう」
うにゅほの小さな手のひらが、太腿のあたりを這い回る。
「◯◯、あし、ふとくなったねえ」
「あー……」
これだけ酷使していれば、当然だろうなあ。
「じーんず、きつくない?」
「ちょっと」
「むりしたら、もっときつくなるからね」
「はーい」
頑張り過ぎて体を壊していては、本末転倒だ。
今後は、一日一時間程度に留めておこう。



2017年3月28日(火)

ふと思い立ち、うにゅほを褒め殺してみることにした。
「××」
「?」
うにゅほが顔を上げる。
「××は可愛いなあ」
「!」
「よ、美少女!」
「うと、どしたの?」
ぱちくり。
「思ったことを素直に言ってるだけだよ」
「そなんだ……」
「××は、本当に可愛いなあ」
「!」
「肌が白くて、目がくりっとしてて、まつげも長いし、小顔だし」
「……その、ほんと?」
「こんなことで嘘なんかつかないよ」
「うへー……」
てれてれ。
「身内贔屓かもしれないけどさ。そこらへんのアイドルなんかより、ずっと可愛いと思う」
「──…………」
「すっぴんでこれなんだから、本当に素材がいいんだな」
「──…………」
「まかり間違ってテレビになんて出た日には、ネットで話題騒然かも」
「も、も、やめてえ……」
耳まで真っ赤に染めたうにゅほが、両手で顔を隠してしまった。
照れちゃって、まあ。
「そういうところも可愛いぞ」
「うひい……」
うにゅほが、笑い声と悲鳴が混ざったような声を上げる。
そろそろ勘弁してあげよう。
「♪」
今日一日、うにゅほはずっと上機嫌だった。
ほとぼりが冷めたころ、また褒め殺してあげようと思う。



2017年3月29日(水)

Amazonから新しいイヤホンが届いた。
Philips SHE9720
うにゅほが踏んで壊してしまったSHE9712の後継機種である。
さっそく包装を解いていると、
「あっ……」
それに気づいたうにゅほが、さっと顔を曇らせた。
「◯◯、あの──」
「××」
「はい……」
「怒ってないんだから、もう謝らない」
「うん、ごめん……」
「こら」
「──あ、ちがくて! いまのごめん、いやほんのごめんじゃなくて」
「はいはい、落ち着きましょうね」
「うー……」
苦笑し、開封に戻る。
「……◯◯、あかいのすき?」
「そうだな。赤があるときは、だいたい赤を──」
赤い塗装の施されたイヤホンを取り出そうとして、軽く絶句する。
「……コードまで真っ赤じゃないか」
「はで……」
「派手だな……」
SHE9712は、本体は赤でもコードは黒かったのに。
「まあ、気にしないし使うけど、コードはもうすこし大人しい色がよかったなあ」
「あかいふくきたら、めだたない、かも」
「白い服着たら、超目立つな」
「ちーでてるみたい」
「耳血が……」
「うん」
「鼻に入れたら、鼻血に見えるかな」
「いれたらだめだよ」
「はーい」
DACアンプに接続し、試聴したところ、音質に問題はなかった。
大切に使いましょう。



2017年3月30日(木)

「──…………」
雨のそぼ降る窓の外を、少女が憂い顔で眺めている。
実に絵になる光景だ。
せっかくだから写真に収めておこうかとiPhoneのカメラアプリを起動したとき、うにゅほがこちらに気がついた。
「あ!」
「やべ」
「いま、しゃしんとろうとした?」
「シテナイヨ」
「やべっていった」
「ごめんごめん」
「もー……」
うにゅほは、写真を撮られるのがあまり好きではない。
もっと思い出を残しておきたいんだけどなあ。
「ところで、何を見てたんだ?」
うにゅほの隣に並び、窓の外を見やる。
春の雨。
凍えるほど冷たい雨粒が、薄汚れた雪を水に還していく。
梅も、桜も、まだ先だろうか。
「うーとね」
うにゅほが、窓のある一点を指差した。
「にじゅうまどのなかにね、はえがいるの」
「……ハエ?」
「うん」
「ハエを見てたの?」
「うん」
「そうなんだ……」
現実とはそんなものである。
「はえ、どっからはいったんだろうねえ」
「さあー……」
「はるつげむし?」
「……あんまりハエに告げられたくないなあ」
「そだねえ」
春が、手の届くところまで来ている。
四月の雪は見たくない。



2017年3月31日(金)

ふと人の気配を感じ、仏間を覗き込む。
「──…………」
うにゅほが、仏壇に手を合わせながら、小さな声でなむなむと呟いていた。
お経らしきものが落ち着くまで待ち、声を掛ける。
「××」
「あ、◯◯」
「なにしてんだ?」
「◯◯も、てーあわせなかったらだめだよ」
「?」
思わず小首をかしげる。
「今日、なにかあったっけ……」
「あるよ」
「なに?」
「きょう、おじいさんのめいにち」
「……あー」
完全に忘れていた。
「あれ、××って、爺ちゃんに会ったことないよな」
祖父が亡くなったのは八年前のことだ。
うにゅほが家に来たのが五年前だから、夢枕にでも立たない限り会えるはずがない。
「うん、あったことない」
「それなのに、よく命日なんて覚えてたなあ」
「おかあさんのしろいやつに、だいじなひーかいてるから」
「白いやつ?」
「うーと、しろくて、ペンでじーかくやつ」
「ああ、ホワイトボードか」
「それ」
「……そういえば、書いてあったかも」
「◯◯、てー」
「はいはい」
うにゅほの隣に正座し、線香に火をつける。
「──…………」
胸中で南無大師遍照金剛と七回唱え、ロウソクの火を吹き消した。
「おじいさん、どんなひとだったの?」
「あー……」
しばし思案し、答える。
「……酒飲みで、偏屈な人かな」
「ふうん……」
「そういえば、こんなことがあってな──」
俺の語る祖父のエピソードに、うにゅほが耳を傾ける。
忘れていたこと。
忘れかけていたこと。
そんな思い出を、訥々と語り続ける。
一年に一度くらい、こんな日があってもいいだろう。

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