>> 2016年10月




2016年10月1日(土)

「あ」
セブンイレブンで買い物を済ませたあと、うにゅほが出入口にうずくまった。
「どした?」
「ごひゃくえん、おちてた」
差し出された手のひらの上に、五百円玉が乗っている。
「本当だ」
「どうしよう」
「どうしようなあ……」
ネコババすれば遺失物横領と言われそうだし、わざわざ交番に届けるのも馬鹿らしい。
拾ってしまった以上、見なかったふりもできないし。
「──あ、そうだ」
「?」
「××、店員さんに届けておいで」
「てんいんさん?」
「店内で拾ったものなんだから、店員に届けるのが正しい」
はず。
「あ、そか」
「ほら、行っといで」
うにゅほが、不安そうにこちらを見上げる。
「……あの、わたしとどけるの?」
「拾ったのは誰?」
「わたし……」
「ほら、ここで待ってるから」
「……うー」
背中を押してやると、うにゅほがしぶしぶレジへと向かった。
二言三言の会話ののち、女性店員がうにゅほの頭を撫でる。
「ただいま!」
「どうだった?」
「ほめられた……」
うにゅほが、うへーと笑みをこぼす。
「──…………」
あのオバさん店員、うにゅほのこと何歳くらいだと思って頭を撫でたんだろう。
「……うーん」
「どしたの?」
「いや、なんでもない……」
尋ねてみたいが、やめておこう。
変な顔されそうだし。



2016年10月2日(日)

「ああ、休日が終わっていく……」
「もうじゅうじだねえ」
「土曜が仕事だと、本当にあっという間だなあ」
「──…………」
「肩揉んでくれるのか?」
「はい」
「どうした、急に」
「わたし、しごとしてないから……」
「あー」
「まっさーじしかできないから……」
「待て」
「?」
「よく考えたら、××こそ休日ないだろ」
「きゅうじつ」
「俺が起きる前に母さんと朝ごはん作って、洗濯して、掃除して──」
「──…………」
「昼ごはん作って、洗濯物取り込んで、晩ごはん作って、洗い物までしてるじゃん」
「でも、おかねかせいでない……」
「そんなこと言ったら、全国の専業主婦の皆さんにどやされるぞ」
「……?」
「家事も立派な仕事です」
「そかな……」
「そうです」
「そか」
「だから──」
「わ」
「俺も、××の肩揉んであげないとな」
「いいよー……」
「凝ってませんねえ」
「うん」
「気持ちいいか?」
「きもちい」
「それはよかった」
「ひゃくもみしたら、こうたいね」
「はいはい」
そんな感じで肩を揉み合ううにゅほと俺なのだった。



2016年10月3日(月)

「──…………」
iPhoneで時刻を確認する。
午前六時過ぎ。
「……ん、はぅ……」
たおやかに閉じられたうにゅほの目蓋がかすかに震え、ゆっくりと開いていく。
相変わらず、正確な体内時計である。
「おはようございます」
「……おは、う、はわ……ぅ……」
連続であくびをしながら、うにゅほが尋ねる。
「◯◯、はやおき……?」
「ノー」
「……おそね?」
「遅寝です」
「ねないとだめですよ」
「や、なんか、うっかり寝るの忘れてて」
「うっかり?」
「うっかりだから、仕方ない」
「しかたないのかなあ……」
「仕方ないって言って」
「……しかたない?」
「仕方ない」
「◯◯、なんか、げんきだね」
「元気とは、たぶん違う」
深夜のテンションである。
「わたしのふとん、つかう?」
「どうしようかな……」
「あったかいよ」
「魅力的だけど、なんか腹減っちゃって」
「あさごはん、たべてから、ねる?」
「そうしようかな……」
空腹を抱えて眠るのは、つらい。
太りそうだが、それはそれ。
「めだまと、みそしると、ごはんでいい?」
「十分」
「めだま、ふたつ?」
「寝る前だから、ひとつでいいよ」
「わかった」
そんなこんなで、朝ごはんを食べてから眠りについた。
十一時過ぎに起きたが、一日中眠かった。
やはり徹夜は駄目だなあ。



2016年10月4日(火)

「……本当に大丈夫か?」
「うん」
愛用のくまさんポシェットを肩に掛けながら、うにゅほが頷く。
「財布は持った?」
「もった」
「中身は?」
「おさつあるよ」
「そうか……」
「やきプリンでいい?」
「それは、うん、なんでもいいんだけど……」
「わかった」
「本当の本当に、ひとりで大丈夫か?」
「だいじょぶ!」
うにゅほが、びっ、と親指を立てる。
「そっか……」
ならば、もう何も言うまい。
「……知らない人に話し掛けられたら、逃げるんだぞ」
前言撤回。
「うん、にげる」
「車に気をつけて、道の端を歩くんだぞ」
「うん、はしあるく」
「あと──」
「兄ちゃん」
俺とうにゅほの会話を聞いていた弟が、たまりかねたように口を開いた。
「心配しすぎ」
「──…………」
「たかだか近所のコンビニでプリン買ってくるだけだろ」
「や、わかってはいるんだけど……」
心配なものは心配なのだ。
「ほら、××。兄ちゃんほっといて行ってきな」
「わかった」
「あ、まだ言うことが──」
「俺、ガラナ。お金は後で払うから」
「いってきます!」
「あー……」
うにゅほが元気よく玄関を出て行く。
「大丈夫かなあ……」
「何歳だと思ってるんだよ」
「それはそうなんだけど、これって、いわゆる〈はじめてのおつかい〉じゃん……」
「そうなん?」
「……いや、ひとりで買い物させたことあったかな」
「五年も一緒に住んでるんだから、あるでしょ」
「あー……」
どうだっけ。
あれこれ心配しているうちに、うにゅほが帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり。大丈夫だったか?」
「うん、かえた」
うにゅほが、手に提げたビニール袋を掲げてみせる。
「ありがとう、お疲れさま」
なでなで。
「うへー……」
「──って、何個買ってきてるんだよ!」
「ぜんぶかってきた」
「お大尽だなあ」
弟と三人でプリンパーティを開く秋の日の午後だった。



2016年10月5日(水)

映画「君の名は。」を観に行ってきた。
新海誠作品を観るのは「雲のむこう、約束の場所」以来のことである。
「××、雲のむこうって見たっけ」
「くものむこう?」
「雲のむこう、約束の場所って映画」
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげる。
「あれ、DVD持ってたと思うけど」
「きおくない」
「じゃあ、見てないのかな」
そういえば、誰かに貸したっきり、返ってきていない気もする。
「じゃあ、君の名はが面白かったら、TSUTAYAで借りて帰ろうか」
「うん」
ゴディバのショコリキサーとラージサイズのポップコーンを購入し、シアター内へと足を踏み入れる。
平日昼間の上映のためか、観客は俺たち以外にいなかった。
「かしきりだ!」
「よし、真ん中座ろう」
「うん!」
こんなとき、時間の融通がきく在宅ワーカーでよかったと思う。
「おもしろいかな」
「評判はかなりいいみたい」
「たのしみ」

──二時間後、

「……うぶ、うー……」
うにゅほが俺の腕を取り、涙を袖に染み込ませている。
「よかったねえ……よかったねえ……」
「ああ、よかったな」
空いた左手でうにゅほの頭を撫でてやりながら、しばらくそのままでいた。
「君の名は。」は、とてもよかった。
それ以外の言葉が思い浮かばないくらい、よかった。
「……雲のむこう、借りてくか?」
「かりてく……」
ハマったらしい。
秒速5センチメートルは、まあ、見なくてもいいか。



2016年10月6日(木)

「ぶー……」
ガッツリ風邪を引いてしまった。
風邪気味程度なら幾度となくあれど、熱が出たのは久しぶりである。
「急に冷え込んだからなあ……」
「◯◯、くすりのんだ?」
「飲んだ」
「はなしゅーした?」
「した」
「ねましょうね」
「はい」
ベッドに体を横たえると、うにゅほが肩まで毛布を引き上げてくれた。
「はい、ますくも」
「ありがとな」
なにからなにまでしてくれる。
にわか病人にとって、これほど嬉しいことはない。
「さむくない?」
「大丈夫、あったかいよ」
「そか」
「──…………」
目蓋を下ろす。
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
やがて、うにゅほの気配が離れていく。
しばしの辛抱ののち、夢を見た。
それは、灼熱の苦しみを味わいながら、いつもの仕事をこなす夢だった。
「──ッ!」
苦しみ抜いて目を覚ますと、毛布の上に羽毛布団が掛かっていた。
「まだ早いって……」
苦笑し、羽毛布団を畳む。
汗をかいたせいか、体調はすこしだけ良くなっていた。
連休までは引きずりたくないものだが。



2016年10月7日(金)

昨日に引き続き、風邪を引いている。
「──…………」
姿見を覗き込むと、側頭部の凹んだ男がそこにいた。
「寝過ぎで寝癖がえらいことになっとる……」
「ほんとだ」
てしてし。
うにゅほが俺の頭に手を伸ばし、寝癖のあたりを撫でつける。
「なおんないねえ」
「××パワーでも無理か」
「うん」
「床屋行きたいなあ……」
「かぜ、なおってからだよ」
「今日行こうとは思わないよ」
うにゅほの頭を軽く撫で、一階へ下りる。
「おひるごはん、なにたべる?」
「食欲ないなあ……」
「たべないとだめだよ」
「野菜ジュースとか」
「おかゆは?」
「おかゆでもいい」
「じゃあ、おかゆね」
「野菜ジュースは?」
「よるのぶん、なくなるから……」
「そっか」
ソファでうとうとしているあいだに完成していた卵がゆを平らげ、自室に戻る。
「よるまでおやすみね」
「眠くない……」
「さっき、ちょっとねてた」
「テレビがつまんなかったから……」
「テレビつけたら、ねれる?」
「寝過ぎもよくないと思うなあ」
「うーん……」
「夜、寝れなくなるかも」
「おきててもいいけど、ふとんはいってないとだめだよ」
「やった」
「ほん、もってくる?」
「お願いします」
「なにがいい?」
「頭使わないやつ」
「ギャグマンガびより」
「それでいいや」
「はい」
ずっと安静にしていたためか、幾分か復調した気がする。
だが、風邪は治りかけが肝心だ。
うにゅほの言うことをよく聞いて、さっさと治してしまおうと思った。



2016年10月8日(土)

「──えッ、きし!」
「わ」
「ぶー……」
「ティッシュ、ティッシュ」
「あんがと……」
うにゅほが手渡してくれたティッシュで鼻をかみ、まるめて捨てる。
「……熱は下がったけど、今度はくしゃみが出てきた」
「よくなったのかな」
「たぶん」
鼻水に色がついていないし。
「エアコンは微調節が利くのがいいなあ」
26℃と設定したら、26℃を保ってくれる。
ファンヒーターにはできないことだ。
「──…………」
「どした」
「ストーブも、いいとおもう」
「うん」
「すごくいいとおもう……」
「××はストーブ派か」
「◯◯、エアコンは?」
「どっち派ってこともないけど」
「えー……」
うにゅほが不満そうな顔をする。
「何度か言った気がするけど──」
そう前置きして、口を開く。
「エアコンは微調節が利くけど、パワー不足で真冬には使えない」
「うん」
「ストーブはエアコンよりずっと暖かいけど、室温を一定に保てない」
「うん……」
「秋はエアコン、冬はストーブ。北海道は冬が長いから、ストーブの世話になることが多いかな」
「ストーブ!」
「××、ストーブ好きだなあ……」
「うん」
「てか、好きなのは灯油の匂いだろ」
「……うへー」
あ、笑って誤魔化した。
今年もまた、手についた灯油の匂いを嗅がれまくるんだろうなあ。
いいけど。



2016年10月9日(日)

「……けほッ」
「せき、でてきたね」
「うん……」
風邪の諸症状オールスター総出演のような病態を呈してきた。
幸いなのは、それらが同時に出てこなかったことだろう。
「とろーち、もってきたよ」
「トローチか」
「しんじきなとろーち、だって」
「ありが──げほッ、けほ、……ありがとうな」
シートからオレンジ色のトローチを取り出し、口に入れる。
「──…………」
独特の甘みと風味が口内に広がった。
「とろーち、ラムネみたい」
「うん……」
「おいしい?」
トローチを口内で転がしながら、答える。
「……まあ、不味くはない」
口に含んでゆっくり溶かすものだから、味はそれなりに整えられている。
「のどいたくないのに、なめたら、だめかな」
「いいと思うけど……」
「なめていい?」
「言っとくけど、美味しくもないぞ」
「そなの?」
「飴とかラムネを想像して食べると、がっかりする」
「そうなんだ……」
しばし迷ったあと、うにゅほがシートからトローチを一錠押し出した。
好奇心が勝ったらしい。
「いただきます」
ぱく。
「──…………」
ころころ。
「味はどう?」
「……うん、まずくはない」
「美味しい?」
「おいしくも、ない」
「薬だからなあ」
不味いと舐めるのがつらいし、美味しすぎても無意味に食べられてしまうかもしれない。
薬として絶妙な味なのではないか、と思った。



2016年10月10日(月)

「ああ……」
暮れていく秋の空へと手を伸ばしながら、呟く。
「連休が……終わっていくんだなって……」
「うん」
「風邪が治らないまま……」
「……うん」
反対側の手を、うにゅほがきゅっと握る。
「あんせいにしてたのにねえ……」
「……年々、風邪の治りが遅くなってる気がする」
「そかな」
「わからないけど……」
この俺は、去年の俺より、ひとつだけ年を重ねている。
うにゅほとは異なり、あとは衰えていくばかりの年齢だ。
気のせいと断ずるのは楽観的に過ぎるだろう。
「……でも、××に伝染さずに済みそうで、よかったよ」
「きーつけたもんね」
「マスクも二重にしてるし」
「てーあらってるし、いそじんでうがいもしてるよ」
「完璧だな」
「かんぺき」
うへーと笑みを浮かべたそのとき、
「──ぷし!」
と、うにゅほがちいさくくしゃみをした。
「……××、もしかして」
「ら、らいじょぶ……ぷしっ!」
「──…………」
「ぶー……」
うにゅほの額に手を当てる。
「……熱は、ないかな」
「だいじょぶ……」
「俺も安静にするから、××も安静にしとこう」
「はい……」
単に鼻がムズムズしただけならいいのだが。



2016年10月11日(火)

「──…………」
「──……」
「……ぷし!」
「はい、ティッシュ……」
「ぶー……」
ふたりなかよく風邪を引いてしまった。
不幸中の幸いだったのは、うにゅほの病状が鼻風邪程度に治まったということだ。
「かぜ、ひいちゃったねえ……」
「かなり気をつけてたはずなんだけどな……」
同じ部屋で暮らしている以上、やはり限界はあるのだろう。
「おそろいだね」
「あんまり嬉しくないお揃いだけどな……」
「そかな……」
「もしかして、嬉しい?」
「……うへー」
嬉しいらしい。
「ひとりでかぜひくと、ちょっとだけ、さみしい」
「あー……」
わからないでもない。
看病してくれる相手に対しても、申し訳ない気持ちになるし。
「それにね」
「お」
うにゅほが俺の膝に乗る。
「ひとりでかぜひくと、これできない」
すっぽりと腕のなかに収まった矮躯を抱き締めて、髪の毛に鼻先を埋める。
詰まりかけた鼻腔を通して、かすかにうにゅほの匂いを感じた。
「あったかいねえ……」
「そうだな」
すこし熱があるのだから、当然だ。
「××は、ストーブ派だよな」
「うん」
「ストーブとこれ、どっちがいい?」
「これ……」
「そっか」
人肌を超える暖房器具は、なかなかない。



2016年10月12日(水)

喉の痛みが取れないので、空気清浄機の加湿機能の封印を解くことにした。
給水タンクになみなみと水を注ぎながら、呟く。
「このあいだまでは除湿してたのに……」
「そだねえ」
「あのときの水分、戻ってこないかな」
「うまくいかないねえ……」
「気温も湿度も年中一律になったら、それはそれでつまらないけどさ」
「なつも、ふゆも、なくなっちゃうね」
「過ごしやすいけど、嫌だな」
「うん、やだ」
四季のうつろいを捨ててまで、快適さを取ろうとは思わない。
「──さ、頑張ってくれたまえよ、加湿機能くん」
「がんばれー」
給水タンクをセットし、加湿ボタンを押す。
「××隊員、いまの湿度を」
「さんじゅうはちぱーせんとです!」
喉が痛むはずである。
「目指せ50%!」
「おー!」
とは言ってみたものの、特に何をするわけでもない。
暖かい格好をして読書など嗜んでいると、すぐに二時間ほどが経過してしまった。
「××隊員、いまの湿度はー?」
「あ、よんじゅうろくぱーせんとだ」
「上がったな」
「あがった!」
「これだけ条件が整ってるんだから、明日明後日には風邪も治ってるはず」
「うん」
「××の誕生日には、間に合わせるから」
「うん!」
10月15日は、うにゅほの誕生日だ。
風邪で臥せっている場合ではないのである。
       


2016年10月13日(木)

後から風邪を引いたはずのうにゅほが、俺より先に完治した。
「これが、若さか……」
「あんましかんけいないとおもう」
「果たしてそうだろうか」
「だって、わたし、ねつでなかったもん」
「くしゃみだけだったな」
「うん」
「でも、同じ病原菌に罹患したはずなのに、程度が異なるのは、抵抗力の差ではあるまいか」
「そうかも」
「つまり若さ」
「あんましかんけいないとおもう」
「尚も」
「だって、◯◯、もともとびょうじゃく……」
「……そうだった」
よくよく思い出してみると、子供のころから、風邪の長引く性質だった。
「××には苦労をかけるねえ……」
「ううん」
ふるふると首を横に振る。
「◯◯のおせわ、わたしのしごと」
「仕事なんだ」
「うん」
そうなんだ。
「なら、××の面倒を見るのは、俺の仕事かな」
「おねがいします」
「こちらこそ、お願いします」
一蓮托生、比翼の鳥だ。
健康面での苦労は仕方がないとしても、金銭面での苦労はかけないよう、頑張ろうと思った。



2016年10月14日(金)

「あー、あ゙ー、ん゙ー……」
喉の調子を確かめる。
「声、どう?」
「ちょっとだけひくいかも」
「まだすこし痰が絡んでるからなあ……」
「でも、かぜのにおい、しなくなった」
「そっか。なら、完治には向かってるんだな」
うにゅほ曰く、風邪を引いたときには、風邪の匂いがするらしい。
「どんな匂いなんだっけ」
「なんか、ラムネと、なんかまじったみたいなかんじ」
「うーん……」
薬っぽい匂いなのだろうか。
「◯◯、かいだことない?」
「ないなあ」
「──…………」
すんすん。
作務衣の共襟に鼻先を入れ、うにゅほが俺の匂いを嗅ぐ。
「風邪の匂い、する?」
「もうしない……」
「自分の匂いだから、わからないのかもな」
「わたし、かぜのにおい、する?」
「んー」
うにゅほを抱き締め、髪の匂いを嗅ぐ。
「いい匂いがする」
「うへー」
「風邪の匂いは、よくわからないな」
「そか……」
「鼻炎だし」
「びえんだもんね」
「でも、いまはちゃんと鼻通ってるぞ」
「はなしゅーしたの?」
「してないけど、通ってる」
「はなづまり、なおったね」
「あとは喉だけなんだけどな……」
明日はうにゅほの誕生日だ。
一緒に出掛ける予定だから、ぶり返さないように気をつけなければ。



2016年10月15日(土)

「××、誕生日おめでとう」
「ありがと!」
うにゅほと出会ったのは、いまから五年前のことだ。
最初は、感情表現の苦手な、人形のような少女だと思っていた。
「──………」
「?」
この笑顔を見れば、五年前の自分は、きっと驚くに違いない。
そんなことを考えながら、うにゅほの頭を撫でた。
「さ、行くか」
「どこいくの?」
「誕生日デート」
「でーと!」
「とりあえず、プレゼントに洋服を一揃い買おうと思うんだけど……」
「んー」
うにゅほがiPhoneの家計簿アプリを起動する。
「よさんはいくら?」
「二、三万は欲しいかなと」
「はんぶんくらいになりませんか?」
「それだと、アウター一着くらいしか……」
自分の経済状況を隅から隅まで管理されていると、非常にやりにくい。
結局、イオンの専門店街で、毛糸のポンポンのついた可愛らしいコートを買った。
「あの、インナーも一揃いどうですか?」
「コートたかかったので、だめです」
「はい……」
こんなことを言われていると知れば、五年前の自分は、まず間違いなく驚くだろうなあ。
へそくりでも貯めてやろうかしらん。
その後は、
行きつけのクレープ屋へ行ったり、
行きつけの喫茶店でスフレパンケーキを食べたり、
行きつけの電器屋で買いもしないものを眺めたりした。
不二家でバースデーケーキを購入して帰宅すると、夕飯はごま豆乳鍋だった。
ごちそうは明日にするらしいが、うにゅほは満足そうだった。
両親からの誕生日プレゼントは、一万円分の図書カード。
弟からのプレゼントは、ポンポンのふたつついた帽子だった。
うにゅほに毛糸のポンポンが似合うというのは、共通の見解であるらしい。
「ほー……」
風呂上がりのうにゅほを膝の上に乗せながら、尋ねる。
「今日は、いい誕生日だった?」
「うん!」
うへーと笑みをこぼすうにゅほを抱き締めながら、俺は、満足感に包まれていた。
うにゅほがいてくれて、よかった。



2016年10月16日(日)

「ふー……」
ベッドに寝そべりながら、膨らんだ腹を撫でる。
すき焼きを食べ過ぎてしまった。
「おなか、ぽんぽんだねえ」
「早く食べないと、肉が固くなるから……」
「おふ、おいしかったね」
「車麩っていうんだってさ」
「わっこだから、くるま?」
「そうじゃないかな」
「へえー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「おふって、なに?」
「麩?」
「うん」
「そりゃあ──」
しばし思案し、答える。
「……なんだろうな」
「◯◯も、わからないの?」
「なんとなく食べてたから、考えたこともなかった」
麩菓子とか、月に一度くらいの頻度で食べるのに。
「調べてみるか」
「おきてだいじょうぶ?」
「大丈夫」
PCの前へ行き、「麩」で検索をかける。
「えーと、小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り──」
「こむぎこ!」
「小麦粉からできてたのか」
「なんか、だいずなきーしてた」
「わかる」
正体不明の食べ物は、とりあえず大豆が原料って言っとけば三割くらい当たる。
「てことは、パンの仲間なんだな」
「うどんは?」
「うどんも小麦粉」
「スパゲティ」
「デュラム小麦のセモリナ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「俺もよく知らないけど、パスタの原材料名のとこに大体こう書いてあるんだよ」
「そうなんだ」
「まあ、小麦であることは間違いないな」
「こむぎこ、すごいね」
「そうだな」
麩からパスタまで何でもござれである。
今度麩菓子を食べるときは、小麦粉に思いを馳せてみようと思った。



2016年10月17日(月)

「──…………」
PCを操作しながら、ふと意識が途切れる。
ぐき。
「あで」
首が、変な音を立てた。
「◯◯、だいじょぶ?」
「大丈夫、大丈夫……」
「ねむいの?」
「眠い……」
「ねたの、なんじ?」
「最後に時計見たのは、四時だったと思う……」
「はやくねないとだめだよ」
「ちょっと、やることがあって」
「そか……」
簡単にベッドを整えたあと、うにゅほが口を開く。
「ねむいなら、ねたほういいよ」
「寝たいんだけど、なんか暑くて……」
「きょう、あついよねえ」
「いま何度?」
「うと、にじゅうはちど……」
「あつ!」
「なつみたい」
「──…………」
ふと、思いついたことがあった。
「ちょっとだけ、床で寝てみていい?」
「ゆかで?」
「気持ちよさそう」
「ゆか、きたないよ」
「××が掃除してるから、綺麗だよ」
「かぜ、ぶりかえすかも……」
「三十分だけ」
「うー……」
しばしの思案ののち、うにゅほが座椅子に腰を下ろした。
ぽんぽんと膝を叩きながら、言う。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
うにゅほのふとももに頭を乗せ、目蓋を閉じる。
「さんじゅっぷんだけだよ」
「わかった」
涼しい。
火照った体に、無垢材のフローリングが心地よかった。
「きもちいい?」
「うん……」
意識が溶けて、沈んでいく。
きっかり三十分後に起こされたときには、眠気はすっかり飛んでいた。
夏場に、もっと、こうしていればよかったなあ。



2016年10月18日(火)

風邪が治りそうで治らない。
よくなってきているのは確かなのだが、完調には程遠い。
「◯◯、はんてんきないとだめだよ」
「暑くて……」
「あ、くつしたもはいてない」
「さっきまで履いてた」
「ぬいじゃったの」
「ぬいじゃった……」
「あし、つめたくなるまえに、はかないとだめだよ」
「はい」
うにゅほが俺の肩に半纏をかける。
「かぜ、ながいね」
「本当な」
「びょういん、いったほういいとおもう……」
「早い段階で行っておけば、ここまで長引かなかったかもしれないなあ」
「いまからでも」
「とは言え、いまの症状なんて、ちょっと痰が絡むくらいのものだし」
痰を切る薬を処方されて終わりだろう。
「でも、かぜじゃないかも……」
「……うーん」
俺は医者ではない。
なにか重篤な病気である可能性はゼロではないのだし、行けるときに行っておくのは正しい選択だろう。
「わかった。明日まで待って、症状が改善されなかったら病院行くよ」
「やた!」
なにより、これ以上うにゅほに心配をかけたくない。
「半纏も着ます」
「うん」
「靴下も履きます」
「うん」
「あと何したらいいかな」
「ねよう」
「ちょっと待って、この作業終わったら」
「うん」
というわけで、今日も一日寝て過ごしました、まる。



2016年10月19日(水)

風邪が一向に治らないので、かかりつけの耳鼻科へ行ってきた。
「ただいまー」
「──おかえり!」
玄関の扉を開くと、うにゅほが階段を駆け下りてきた。
「どうだった?」
「うん、ただの風邪だって」
「そか……」
ほっと胸を撫で下ろすうにゅほの姿を見て、病院へ行ってよかったと確信する。
長引いているだけで、大した風邪でないことはわかっていた。
ただ、うにゅほを安心させてあげたかったのだ。
「鼻水が喉に流れ込んで、痰になってるんだってさ」
「のどじゃなくて、はななんだ」
「そうみたい」
「おくすりは?」
「抗生物質と、痰を切る薬と、うがい薬をもらったよ」
「いそじん?」
「えーと──アズノールうがい液、だって」
「いそじんじゃないんだ」
「これ、青いらしい」
「あおいの?」
「いまからうがいするから、ちょっと見てみるか?」
「うん」
洗面所へ向かい、コップの中にうがい液を数滴垂らす。
「……青ッ!」
「えのぐみたい」
「んで、水を100ml──」
蛇口をひねり、コップに水を注ぐ。
「わ」
原色の青が撹拌されて、透明感のある美しい液体となった。
「なんかきれい……」
「××も、うがいしとくか?」
「する」
ふたり並んでうがいを済ませ、自室へ戻る。
今度こそ無事に完治してくれればいいのだけど。



2016年10月20日(木)

「──……ん」
羽毛布団にくるまりながら目を覚ます。
轟音。
家が揺れている。
そして、パラパラと硬質の音──
「◯◯……」
きゅ。
なんだか熱いと思っていたら、うにゅほが左手を握っていたらしい。
「××、どした」
「こわい」
「リフォームしたばっかだから、大丈夫だよ……」
あくびを噛み殺しながら上体を起こし、窓の外を見やる。
「……うわ」
真っ白だった。
より正確に言うならば、間断なく降り注ぐ白い落下物が視界を染め上げていた。
「初雪は、霰だったか」
「あられ……」
「一足飛びに冬になったなあ」
北海道に秋はない。
晩夏の次は、初冬である。
「道理で寒いわけだよ……」
布団を引き上げ、くるまりなおす。
「おきないの?」
「まだ眠い」
「あられ、すごいよ」
「すごいなあ……」
「──…………」
「──……」
「すごいよ?」
「──…………」
「わ」
うにゅほの腕を取り、布団のなかに引きずり込む。
「怖いなら、ここにいな」
「あったかー……」
「──…………」
うにゅほを抱き締めたまま、すう、と意識が遠のいていく。
同衾である。
倫理的にどうかと思い至ったのは、正午過ぎに気持ちよく目を覚ましたあとだった。
まあ、そのへんは今更として、風邪がまた伝染らなければいいのだが。



2016年10月21日(金)

「さむ……」
無意識に両手を擦り合わせる。
「エアコンつけてるのにねえ」
「早くも力負けかあ……」
一時氷点下まで冷え込んだというから、エアコンを責めるのは筋違いだろう。
北海道の気候が厳しすぎるのだ。
「仕方ない、ストーブつけるか」
「ストーブ!」
「来月までは我慢しようと思ってたけど、寒いもんな」
「うん、さむい」
うにゅほが楽しげに頷く。
理由は明白である。
ファンヒーターを稼働させるためには、ある行為が必要不可欠だからだ。
「さ、灯油を入れてこないと」
タンクを取り出し、玄関へ向かう。
「……うへー」
うにゅほは、俺の手についた灯油の匂いが大好きなのである。
給油を終えて灯油タンクの蓋を閉じた瞬間、うにゅほに手を取られた。
「──…………」
ふんすふんす、
はー。
ふんすふんす、
はー。
「♪」
満足げである。
「××さん、部屋に戻ってからにしませんか」
寒いし。
「すいません……」
「そんなにいい匂いかねえ」
右手の匂いを嗅ぐと、かすかな灯油くささが鼻についた。
「……よくわからないな」
「いいにおいなのに」
自室に戻ったあと、五分くらい嗅がれ続けた。
冬の風物詩である。



2016年10月22日(土)

「──……?」
昼食後、羽毛布団にくるまりながら安静にしていると、ふとあることに気がついた。
眠気がないのである。
髪の毛を掻きむしりながら、上体を起こす。
「……なんか、眠れないぞ」
このところしばし、一日に十二時間は眠りに眠り果てていたのに。
「ねれないの?」
「うん」
「ねるの、へたになった?」
「なんだそれ」
苦笑し、ベッドから下りる。
「んー……」
肩を回し、
首を回し、
目を見開き、
咳払いをする。
「……もしかしてだ、風邪、治ったんじゃないか?」
「のど、いたくない?」
「痛くない」
「たん、でない?」
「今日は出てないかな」
「あー、っていってみて」
「あー……」
「こえ、かすれてない」
「治った?」
「なおったかも」
「やっとかー、もー!」
ぼすん。
ベッドの上に倒れ込む。
「ながかったねえ……」
「半月くらい引きっぱなしだった気がする」
「つらかったね」
うにゅほがよしよしと俺の頭を撫でる。
「いや、別につらいことはなかったけど……」
「あんしんして、のみかい、いけるね」
「もはや後顧の憂いはない!」
「でも、のみすぎたらだめだよ」
「はい」
釘を刺されてしまった。
「遅くなったら、先に寝てていいから」
「うん」
うにゅほはこうして頷くけれど、たぶん起きて待っているんだろうなあ。
なるべく早く帰宅することにしよう。

「……ただいまー」
「おかえり!」
帰宅すると、案の定起きていたうにゅほが出迎えてくれた。
「たのしかった?」
「ああ、すごく楽しかった」
「──……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「……ぐあい、わるい?」
「頭重い……」
「やっぱり」
十月の冷たい雨のなかを駆け足で通り抜けたのが悪かったらしい。
「ほら、ふとんはいって」
「待って、日記書いてから……」
「はやくね」
「はい」
というわけで、書き終わり次第布団に放り込まれます。
お疲れさまでした。



2016年10月23日(日)

「──…………」
蓬髪を掻きむしりながら上体を起こすと、既に日が沈んでいた。
「マジか……」
眠っているうちに休日が過ぎ去ってしまったらしい。
「あ、◯◯おきた」
「起きた……」
「おはようございます」
「おはようございます」
「かぜ、だいじょぶですか?」
「風邪……」
ああ、そうだ。
飲み会の帰りに雨に降られて、熱がぶり返したのだった。
「あー、あー、んー」
喉の調子を確かめる。
痛くはない。
「声、ちゃんと出てる?」
「うん、でてる」
「喉は大丈夫か……」
「◯◯、あたまこっち」
「はい」
うにゅほが俺の額に手を当てる。
「ねつは、ないかな」
「うん、熱っぽい感じはしない」
「はなは?」
「ちょっと詰まってるけど、もともと鼻炎だからな……」
「はなしゅーする?」
「あとで」
「こんどこそ、なおったかなあ」
「治ってたらいいな」
「むりしたらだめだよ」
「はい……」
「くつしたはいて」
「はい」
「はんてんきて」
「はい」
「ストーブつける、かしつきついてる、やさいジュースいまからつくる」
「お願いします」
「おねがいされました」
互いに頭を下げ合う。
今度こそ、ぶり返さないように気をつけよう。



2016年10月24日(月)

「××、いま何度?」
「うーと、にじゅうにーてん、にど」
「んー……」
すくなくとも、ファンヒーターの電源を入れるほどの室温ではない。
「さむいの?」
「寒いってほどでも」
「はだざむい?」
「そうだな、それくらい」
「エアコンつける?」
「室外機にカバー掛けちゃったんだよな……」
「あ、そか」
気が早すぎたかもしれない。
「どうしようかなあ」
我慢しようと思えば我慢できるが、しなくていい我慢ならしたくない。
「……うへー」
「お」
うにゅほが俺の膝に腰掛ける。
「あったかい?」
「うん、××はあったかいなあ」
人肌は、極めて優れた暖房器具である。
あったかいし、やわらかいし、いい匂いがするからだ。
「よし、半纏で二人羽織するか」
「する!」
半纏の紐を解き、うにゅほに覆い被せる。
「……?」
袖に腕を通そうとしたうにゅほが、不思議そうな顔でこちらを振り返った。
「なんか、いきどまり……」
「行き止まり?」
確認する。
「──あ、この半纏、内ポケットあるじゃん!」
「ほんとだ」
長年愛用してきたのに、初めて気がついた。
「べんりだねえ」
「携帯とか入れるのにちょうどいいな、これ」
「うん」
ふと、うにゅほにも、俺の知らない一面があるのかな、と思った。
知りたいような、知りたくないような。



2016年10月25日(火)

「××」
「?」
「じゃーんけーん」
「わ」
「しょ!」
「しょ!」
「勝った」
「じゃんけん、いきなり……」
「なにしてもらおうかなー」
「もっかい」
「いいぞ」
「やた」
「じゃーんけーん」
「じゃーんけーん」
「しょ!」
「しょ!」
「勝った……」
「まけたー……」
「ははは、わしに勝てると思うたか!」
「うー、なにしたらいい?」
「特に考えてない」
「かんがえてないの……」
「理由なきじゃんけんだった」
「そうなの」
「せっかく勝ったんだから、なにかしてもらいたいな」
「いいよ」
「でも、××って、勝敗とは無関係にだいたいなんでもしてくれるよな」
「するよ」
「普段しないことをしてほしい」
「しないこと?」
「よし、腹筋百回だ」
「えー!」
「嘘です」
「◯◯、もしかして、きげんいい?」
「うん」
「そか」
「じゃーんけーん」
「わ」
そんな感じで、しばらくうにゅほで遊んでいた。



2016年10月26日(水)

マウスホイールをカリカリと回しながら、無意識に呟く。
「めっちゃ欲しい……」
「?」
座椅子でくつろいでいたうにゅほが膝立ちになり、ディスプレイを覗き込んだ。
「なにほしいの?」
「あ、いや、どうしても欲しいってわけじゃなくてだな」
「……?」
「できれば欲しいけど、買い換えるにはまだ早いかなって」
「なにー?」
「……その、パソコンチェア」
うにゅほが小首をかしげる。
「まえ、かったのに」※1
「そう言われると思ったから言い淀んでたのに……」
「あ、ごめん」
ひとつ息を吐き、ディスプレイを指し示す。
「これを見てくれ」
「はい」
「これが」
「うん」
「こうなって」
「うん」
「170度リクライニングする」
「おー!」
「足も伸ばせる」
「すごい」
「超欲しい……」
「おいくら?」
「一万七千円」
「かえな、く、は、ないけど……」
「いまのチェア、まだ一年半くらいしか使ってないんだよなあ」
「うん……」
壊れてもいないのに、買い換えるのは早すぎる。
「ちょっと身じろぎしただけでバキバキ音鳴るけど……」
「うん」
「足浮かせたら、何故か右に回転するけど……」
「うん」
「……わりとポンコツだな」
「うん……」
買い換えようかどうしようか、しばらく悩むことにする。

※1 2015年3月11日(水)参照



2016年10月27日(木)

「◯◯ー!」
軽やかに階段を駆け上がる音と共に、うにゅほが俺を呼ぶ声がした。
「どした」
「おかあさんにいったら、パソコンのいす、はんぶんだしてくれるって!」
「え、なんで?」
思いがけない事態である。
「あのね、◯◯が、いすほしいっていってたっていったらね」
「うん」
「いすのばきばき、したにすごいひびくんだって」
「……マジか」
まったく意識していなかった。
「そんでね、うるさくないいすかっていいっていったらね、いいっていったからね」
「うん」
「はんぶんだしてくれるっていったら、だしてくれるって、おかあさんいったの」
「よくやった!」
うにゅほの頭をぐりぐり撫でる。
「うへー……」
たぶん、俺が直接言っても、出してくれなかっただろうなあ。
「よし、さっそく注文しよう」
「うん!」
タブに出しっぱなしになっていた商品ページから注文を確定し、互いに顔を見合わせる。
「たのしみだねえ」
「楽しみだな」
「わたしもすわっていい?」
「当然」
「ねてもいい?」
「いいよ」
「あ、いまのいす、どうしよう」
「あー……」
考えていなかった。
「ハードオフに売るとか」
「うれるかな」
「五百円くらいにはなるんじゃないか」
「かったとき、おいくらだったっけ」
「たしか、一万五千円くらい」
「……うーん」
「捨てるにも金がかかるから、値段がつくならマシじゃないかな」
「そか……」
中古の家具なんて、そんなものである。
ともあれ、届くのが楽しみな俺たちなのだった。



2016年10月28日(金)

ふんすふんす、
はー。
ふんすふんす、
ほー。
「♪」
灯油の付着した指先をいつものように嗅がれていると、うにゅほが言った。
「ちょっと、チョコみたいにおいする」
「チョコ?」
「うん」
「──…………」
しばし思案し、
「あ、食べたわ。チョコ。朝方に起きたとき」
「やっぱし」
「でも、食べたのって、半日くらい前だぞ」
すんすんと手の匂いを嗅ぐ。
灯油くささしか感じない。
当然だ。
この半日のあいだに幾度も手を洗っているし、食器を洗った覚えだってある。
「……××、鼻いいんだな」
「うへー」
「××わんこ」
「わん!」
「お手」
「わん」
「おかわり」
「わん」
「よーしよしよし」
「わふー」
「××、犬ごっこ好きだよな」
「わん」
好き、と言っている。
「猫ごっこは?」
「わふー……」
あまり興味がないらしい。
「××、もともと犬っぽいもんな」
「わん!」
見えないしっぽが振れている。
嬉しいらしい。
「──…………」
「わふ?」
犬と言われて喜ぶのはどうなんだろう。
「××、服従のポーズ!」
「わん!」
うにゅほが仰向けに寝転び、ぺろんとおなかを出す。
「撫でろと」
「わん」
ほんと、犬だなあ。
しばらくのあいだ、うにゅほと犬ごっこをして遊んでいた。



2016年10月29日(土)

「──お」
ばき。
「××、これ見てみ」
ばき、べき。
「どれー?」
「これ」
「しばいぬだ」
「犬用ケーキを食べた柴犬の顔がさあ──」
ばきッ!
「──…………」
「?」
「……椅子、めっちゃうるさいな」
「まえからだよ?」
「マジか……」
新しいパソコンチェアを注文したことで、ようやく、いまのチェアのポンコツさに気がついた。
「座り心地はいいんだけど」
ぼき、べき。
「足を浮かせると、何故か右に回転するし」
「なんでだろうねえ」
「分解したらわかるのかな……」
床から足を離す。
無音でチェアが左に回転する。
「……逆回転になった」
「ほんとだ」
意味がわからない。
「買い換え、いいタイミングだったかもしれないな」
「そだね」
床を蹴り、チェアの向きを元に戻す。
ばきばきばきばき、ぼき。
「──…………」
「──……」
「……なんか、いままでごめんな。うるさかったろ」
「ううん」
うにゅほが、ふるふると首を横に振る。
「なれた」
あ、やっぱりうるさかったんだ。
新しいチェアが届いたら、大事に使おうと思った。



2016年10月30日(日)

「──…………」
眠い。
映画の内容が、ちっとも頭に入ってこない。
「ちょっと顔洗ってくる……」
「はーい」
洗面所へ向かい、蛇口をひねる。
両手ですくった冷水で顔を洗おうとして、
「──危なッ!」
眼鏡を外していないことに気がついた。

「と、いうことがありました」
笑い話のつもりで話すと、うにゅほが眉をひそめた。
「きのう、なんじにねたの?」
「──…………」
「なんじ?」
「五時です……」
「はやくねないと、だめだよ」
「えーと、その、映画を見始めてしまって……」
「えいが?」
「うん」
「おもしろかった?」
「いや、全然」
「おもしろくなかったの……」
「クソ映画でした」
「おもしろくなかったのに、みたの?」
「面白くなるかなーと」
「そか……」
「正直、俺も、時間無駄にしたなーと思ってます」
「いまみてたえいが、おもしろい?」
「──…………」
無言で首を振る。
面白かったら、そもそも眠くならない。
「きょう、おやすみだし、ねたほういいとおもう」
「そうします……」
ベッドに横になると、うにゅほが肩まで布団を掛けてくれた。
睡眠は大切である。



2016年10月31日(月)

六角レンチを放り出し、大きく伸びをする。
「──でーきたッ!」
「かんせい?」
「完成!」
「いぇー!」
「いぇー」
こつんと拳を合わせる。
数日前に注文したパソコンチェアがようやく届き、いままさに組み立てが終わったところなのだった。
「りっぱないすだねえ」
「コンセプトが違うからな」
「こんせぷと?」
「前のチェアは、普通のオフィスチェア。こっちは──」
レバーを引き、背もたれを後方へと押し倒す。
「170度リクライニングして、横にもなれるチェアだ」
「おー……」
「フットレストもあるから、足も伸ばせる」
「おー!」
「どうよ、これ」
「すごいねえ、すごいねえ!」
うにゅほの瞳がきらきらと輝いている。
「ねてみて、ねてみて!」
「では、失礼して」
チェアに腰を下ろし、ゆっくりと上体を横たえる。
「──……おー」
「ねごこち、いい?」
「ソファとまでは行かないけど、ちょっと休みたいときには十分かな」
「わたしものっていい?」
「ああ、いま──」
チェアから下りる前に、うにゅほが俺に跨がった。
「わー……」
そして、俺の上にぴたりと横たわる。
「あったかい」
「そりゃな」
「ねごこち、いいねえ」
「……それ、椅子の寝心地じゃなくて、俺の寝心地だろ」
「うへー……」
いたずらっ子の笑みを浮かべて、うにゅほが俺に抱きついた。
それにしても、丈夫なチェアだ。
長く使えそうだと思った。

← previous
← back to top


inserted by FC2 system