>> 2016年5月




2016年5月1日(日)

「ヤマダ電機、けっこう混んでたなあ」
「ごーるでんうぃーく」
「そうそう」
「なにかったの?」
「これか」
小さな紙袋を掲げてみせる。
「16GBのUSBメモリだよ」
「ゆーえすびー……」
「メモリ」
「めもり」
「簡単に言うと、データを入れておくケースみたいなものだな」
「おんがくとか、はいるの?」
「入るよ」
「きけるの?」
「聞けないけど」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「おんがく、あいふぉんにいれればいいのに」
「えーと……」
なんと説明すればいいだろう。
「USBメモリには、データならなんでも入るから」
「でーた」
「写真の画像とか」
「あいふぉん、はいらないの?」
「入りますね……」
例えが悪かった。
「……パソコンには、いろんなデータが入ってるだろ」
「うん」
「音楽、画像、動画以外にも、いろんな種類のデータがあるんだ」
「そうなんだ」
「仮にデータを液体だとすると、他のパソコンに移すとき、どうしたらいいと思う?」
「うーと……」
しばしの思案ののち、うにゅほが口を開く。
「……コップにくんで、もってく?」
「そのコップが、USBメモリ」
「はー……」
うにゅほが感嘆の声を漏らす。
「わかったいただけましたか」
「とてもよくわかりました」
ぺこり。
「いえいえ、こちらこそ」
ぺこり。
何故か頭を下げ合うふたりなのだった。



2016年5月2日(月)

「火元だけ気をつけてね!」
「わかった」
「行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
両親が、三泊四日の東北旅行へと出掛けていった。
「んー……、はァ」
大きく伸びをして、深呼吸をひとつ。
「なーんか開放感あるよなあ」
「うん、ある……」
うへへとすこし笑いながら、うにゅほがこちらを見上げる。
「大して部屋から出ないから、あんまり変わらないんだけどな」
「おおきいテレビ、いつでもみれるよ」
「先週のナイトスクープでも見るか」
「みる!」
軽やかに階段を駆け上がっていくうにゅほに、ふと尋ねる。
「今日の晩ごはんは?」
「ざんぎ!」
「お、いいな」
「さっき、おかあさんと、しこみしたの。あと、あげるだけ」
「うむ、台所は任せたぞ」
「まかされた!」
ぴ、と敬礼する。
「××がいなかったら、俺も弟もろくなもん食べないだろうな……」
カップめんと外食だけで三日間を過ごす姿が目に見えるようだ。
「◯◯、りょうりできるのに」
「できるからって、するとは限らない」
「?」
小首をかしげる。
「要するに、めんどい」
「えいようかんがえないと、だめだよ」
「××がいるから、いいじゃん」
「うーん……」
「頼りにしてます」
「──……うへー」
てれりと笑う。
ちょろくて可愛いなあ。
こうして、両親のいない三日間がスタートしたのだった。



2016年5月3日(火)

「──あれ、綿棒切れてる」
綿棒の容器がカラであると気づいたのは、風呂上がりのことだった。
「××、買い置きってあったっけ」
「どうだっけ……」
うにゅほが小箪笥の引き出しを開ける。
「あ、あった」
「ナイス」
「はい、めんぼう」
未開封の容器を受け取り、綿棒を取り出す。
「♪~」
鼻歌まじりに耳の穴を掃除しようとして、
くにゃり。
「……?」
妙な感触に綿棒を検めると、軸が大きく曲がっていた。
「──…………」
容器を確認する。
ダイソー。
「……××」
「?」
「100円ショップの綿棒は、駄目だ」
「まがってる……」
「軸棒、フニャフニャだぞ」
綿棒を手渡す。
「ほんとだ、ふにゃふにゃだ」
「ドラッグストアで買うべきだったなあ」
「このめんぼう、どうしよう」
「綿棒より、耳の穴をどうにかしたいんだが……」
風呂上がりに耳掃除をするのが習慣になっているので、どうにも耳の中が気持ち悪い。
「みみかき、つかう?」
「それしかないか」
「みみかき、していい?」
「……俺の?」
「うん」
「まあ、いいけど」
眼鏡を外し、うにゅほの膝に頭を預ける。
「浅めでお願いします」
「はい」
プラスチック製の耳かきが、外耳道に進入する。
さり、さり。
「きもちいい?」
「くすぐったい」
「くすぐったい?」
「もうすこし強くして」
かり、かり。
「そうそう、それくらい」
「はい」
綺麗になっている気はまったくしないが、耳の穴の痒みは取れた。
耳かきしてもらうのも、いいなあ。



2016年5月4日(水)

「わあー……」
うにゅほが伸ばした右手の先で、満開の桜が枝先を広げていた。
「ほら、濡れるぞ」
傘の下へとうにゅほを引き戻す。
「さくら、きれいだねえ」
「そうだな」
雨模様でさえなければ、もっと綺麗なのだろうけど。
「桜の時期が終わる前に、新川の桜並木も見ておきたいな」
「あ、みたい」
「できれば、晴れの日に」
「あめのさくらも、きれいだよ」
「綺麗だけど、写真映えしないからなあ」
「しゃしん、とっていいの?」
「せっかくデジカメあるんだから、使わないともったいないだろ」
「そだね」
俺もうにゅほもインドア派だから、写真を撮る機会があまりないのだ。
「今年はバイクの自賠責取るから、いろいろ出掛けような」
「どこ?」
「ぜーんぜん、決めてない」
「きめてないの」
「行きたい場所あったら、遠慮無く言ってくれな」
「いきたいばしょ……」
しばしの思案ののち、
「おもいつかない……」
うへーと苦笑する。
「いますぐじゃなくていいって」
「いいの?」
「行きたい場所なんて、無理に決めるものじゃないんだから」
「そか」
「──さ、そろそろ買い物行こう」
「なにかうんだっけ」
「さけるチーズ、とか」
「◯◯、おとうさんのさけるチーズ、ぜんぶたべちゃうから……」
「補充しとけばバレないんだから、いいんだよ」
「いいけど」
「あと、晩ごはんの材料かな」
「なにたべたい?」
「軽いものでいいよ」
「たとえば?」
「たとえば──」
今日の晩ごはんは、かき揚げ蕎麦だった。
美味しかったです。



2016年5月5日(木)

「はー……」
「……ふいー」
だらだら、だらだら。
寝間着のままで着替えもせずに、ふたりだらだらと時間を過ごす。
「……たまには、こういうのも、いいなあ」
「うん」
正月以外にこんなことをしていると、まず間違いなく叱られる。
「どうでしょうリターンズでも見るかー」
「みるー」
羽毛布団を引きずりながらリビングへと移動し、ふたりくるまってテレビをつける。
「あ、たいけつれっとうだ」
「DVDで見たな」
「うん」
「でも、暇だし見よう」
「うん」
二、三番組ほどハシゴするころには、だんだんと目蓋が重くなってくる。
「──…………」
うと、うと。
「……◯◯、ねむい?」
「眠い……」
「ひざまくら、する?」
「頼むう」
うにゅほの膝に頭を乗せて、欲求の赴くままに目を閉じる。
「……父さん母さん、今日、帰ってくるなあ……」
「うん」
「嬉しいか?」
「うれしい」
「そっか」
「◯◯は?」
「……まあ、無事に帰ってきてくれるなら、それはそれで嬉しいけどさ」
「けど?」
「あと数日くらいなら、ゆっくりしてきてくれてもいい」
「……うへー」
うにゅほが苦笑する。
「ちょっとわかる……」
「だよなー」
「うん」
両親が帰宅したのは、午後十時を過ぎたころだった。
少々残念な気もするが、ともあれ無事を喜ぼう。



2016年5月6日(金)

「ぶー……」
ずひ。
鼻水をすする。
「はい」
「ありがとう……」
差し出されたティッシュを受け取り、鼻をかむ。
「かふんしょう?」
「たぶん違う」
「かぜ?」
「たぶんそう」
「ねたほういいよ」
「そうする……」
のそのそと寝床に戻り、布団をかぶる。
「……暑い」
「まど、すこしあけるね」
しばしして、
「寒い……」
「まど、しめるね」
「待って」
「?」
南西側の窓へと向かいかけたうにゅほが、足を止める。
「わかった、これ、駄目なやつだ」
「だめなやつ?」
「なにをしても暑いか寒いかで、ちょうどいい温度がないやつだ」
「あー……」
うんうんと頷く。
「かぜのとき、あるよね」
困ったような笑顔を浮かべながら、うにゅほが窓を閉める。
「きりがないから、次は開けなくていいよ」
「ううん」
ふるふると首を横に振る。
「あつくなったら、いってね」
「いいって」
「あせかいたら、からだ、きもちわるいでしょ」
「まあ……」
「さむかったら、かぜ、ひどくなるし」
「うん……」
「あけしめくらい、するから」
「……ありがとう」
その甲斐あってか、夕方には、すこし体調がよくなっていた。
今日は早く寝よう。



2016年5月7日(土)

「──◯◯、◯◯!」
ペラ紙を一枚ひらひらさせながら、うにゅほが自室へ戻ってきた。
「これみて」
「えーと、間取り図?」
「うん」
「どれどれ」
日記では触れていなかったが、来月から自宅をリフォームすることになっている。
工事期間は約二ヶ月。
そのあいだ、家族が一時的に身を寄せる家を探していたのだった。
「……3LDKか」
「うん、さんえるでぃーけー」
「4LDKは見つからなかったって?」
「みつからなかったって!」
うにゅほがニコニコと笑顔を浮かべている。
「3LDKってことは、だ」
「うん」
「両親が一部屋、弟が一部屋、残りの一部屋が俺たちってことになるな」
「うん」
「いまの部屋は、十畳あるな」
「うん」
「引越し先の部屋、六畳しかないんだけど」
「うん」
「……どう考えても狭いぞ」
「うん」
「いいのか」
「いい」
「そうか」
「うん」
いいならいいんだ、うん。
「4LDKあれば、部屋を分けられたんだけどな……」
「──…………」
ふと、うにゅほが目を伏せる。
「わたしといっしょ、いや?」
「嫌なわけないだろ」
「……うへー」
うにゅほがてれりと笑う。
嫌ではない。
嫌ではないけれど、
「六畳間にふたり、か……」
いろいろとつらい気がするのは、俺だけなのだろうなあ。



2016年5月8日(日)

母の日である。
「──さて、どうすべきか」
「うん……」
忘れていたわけではない。
その証拠に、カーネーションの一輪ならば、既に贈呈済みである。
俺たちの頭を悩ませているのは、母親の誕生日のことだ。
「5月26日……」
「すぐだね」
「母の日のぶんも合わせていいもの贈るって、啖呵切っちゃったもんなあ」
「うん……」
予算はべつにいい。
一、二万円くらいなら、喜んで出そう。
問題は、なにをプレゼントすればいいか、まったく思いつかないことである。
「……なにがいいと思う?」
「う、と……」
「思いつかない?」
「おもいつかない……」
「俺も」
完全にノープランである。
「おかあさんに、ほしいの、きく?」
「うーん……」
「きかない?」
「なにを贈るか悩むのも、プレゼントのうちだって思うんだよな」
「あ、わかる」
「明確に欲しいものがあるならまだしも、無理にひねり出してもらうのも、なんか違う気がしてさ」
「どうしようねえ……」
「ほんとな……」
高い酒を贈れば喜んでくれる父親が可愛く思えてきた。
「とりあえず、あと二週間ある」
「うん」
「××は、母親との何気ない会話から、欲しいものを割り出してくれ」
「はい!」
「俺はネットでよさそうなものを探してみるから」
「わかった」
「いぇー」
「いぇー」
こつんと拳を合わせる。
同じ金額を出すのなら、良いプレゼントにしたいものだ。



2016年5月9日(月)

「ぬあー」
ぼふ。
帰宅して早々、羽毛布団に倒れ込む。
ふしゅー……。
布団から空気が抜けていく感触が心地いい。
「新川の桜並木、綺麗だったなー」
「うん」
「散り際だったけど……」
「またらいねん」
「だな」
目蓋を閉じる。
自分の体が液体になって、とろけていくような錯覚。
「……◯◯、つかれた?」
「なんか、うん」
「ごめんなさい……」
「なんで謝る」
「さくら、みたいって、むりいったかなって」
「──…………」
上体を起こし、うにゅほの手を取る。
「頼むから、謝るなよ」
「うん……」
「謝られたら、楽しかったことが、楽しくなかったことになる」
「……?」
「××のために無理したわけじゃない」
「──…………」
「ちょっとくらい体調が悪くても、××と桜を見たかったんだよ。俺が、そうしたかったの」
「そか……」
「よくわからない?」
「はんぶんくらい、わかる」
「なら、これからは謝らないように」
「はい」
「そして、俺にマッサージを施すように」
「はい」
やたらと疲れていたせいもあってか、わずか五分で眠りの世界に飛ばされる俺なのだった。



2016年5月10日(火)

近所のスーパーマーケットに1000円カットの店がオープンしていたので、試しに髪を切ってもらうことにした。
結果、
「──…………」
「なんか、でこぼこしてるね」
「してるな」
「ひだりのほうが、みじかいね」
「短いな」
「こういうかみがた?」
「そう思う?」
「おもわない……」
苦笑を浮かべながら、うにゅほが首を横に振る。
「はあ……」
前髪を掻き上げる。
なんだかガタガタしているような気がする。
「……1000円だから、こんなもんなのかなあ」
「でも、とこやのおじさんとこも、せんえんだよ」
「親戚価格だからな」
「おじさんとこのが、いいね」
「行くの面倒だからって、手近で済ませるなってことだな……」
「うん」
しっとりとしたうにゅほの髪の毛を指のあいだに絡ませて、尋ねる。
「××は、しばらく伸ばすのか?」
「うん」
「ロングヘアの××、楽しみにしてるな」
「うん」
頭頂部に鼻先を埋めてシャンプーの香りを楽しんでいると、うにゅほが言った。
「つぎ、わたしね」
「次?」
「あたまかぐの」
「いいぞ」
互いの匂いを嗅ぎ合うのって、なんか犬っぽいよな。
まあ、それはいい。
さっさと床屋の伯父のところへ行って、髪を切り直してもらわなくては。



2016年5月11日(水)

自宅をリフォームするということは、家財をすべて、いったん外に出す必要があるということだ。
「──…………」
「──……」
部屋の中央に立ち、ぐるりと本棚を見渡した。
「……これ、全部運び出すのか」
「なんさつあったっけ……」
「たぶんだけど、2,500冊くらい……」
「──…………」
はあ。
ふたり同時に溜め息をつく。
「……りふぉーむ、たいへんだねえ」
「本当だよ」
できればしたくないけれど、家の寿命を延ばすためには仕方のないことだ。
「◯◯、りふぉーむ、はじめて?」
「初めて」
「いっしょ」
うにゅほが、うへーと笑ってみせる。
「うち、ちくなんねん?」
「三十年くらいかな」
「へえー」
「お兄さんだな」
「うん」
「お姉さんかもな」
「どっち?」
「どっちがいい?」
「うと……」
しばし思案し、答える。
「おねえさんが、いいな」
「お姉さん、いないもんな」
「うん」
「──…………」
「──……」
現実逃避をしてみたところで、本棚は、厳然としてそこにある。
リフォームの開始まで三週間。
時間はあるのだから、ちまちま進めていこう。



2016年5月12日(木)

「に!」
「──……?」
唐突に、うにゅほが妙な声を上げた。
「──…………」
「──……」
「にっ!」
「それ、しゃっくり?」
「たぶん……」
随分と可愛らしいしゃっくりである。
「××のしゃっくりって、初めて聞いたかも」
「ひさ、にっ、ひさしぶ、みッ」
「大変そうだな」
「うん……」
「息を止めたら、止まるらしい」
「──…………」
五秒後、
「……にっ」
「駄目か」
「がま、ひっ、がまん、できな、な、にっ」
「舌を引っ張る」
「れ」
うにゅほがこちらに舌を伸ばす。
引っ張れ、ということらしい。
「失礼して」
親指と人差し指で、うにゅほの短い舌を挟む。
ぬる。
「あっ」
つるん。
「駄目だ、滑りがよくて掴めない」
「ひっしゅ、てぃっしゅ……」
唾液を拭い取り、
「れ」
再びこちらに舌を伸ばす。
「掴むぞ」
「ん」
ぷにぷにの舌を指で挟み、軽く引っ張る。
「むい」
「痛くない?」
こくこく。
「──…………」
「──……」
「これ、どれくらい引っ張ってればいいんだろうな」
うにゅほが小首をかしげる。
「──…………」
「──……」
「なあ」
「?」
「しゃっくり、止まってない?」
「あっ」
「ていうか、けっこう前から止まってた気がするんだけど……」
「あー……」
引っ張り損である。
いや、得かもしれない。
いずれにしても、うにゅほのしゃっくりが止まってよかった。



2016年5月13日(金)

「──んー……、はっ!」
座椅子の背もたれに体重を預け、精一杯に伸びをする。
「今週の仕事、終わり!」
「おつかれさまー」
「××も、手伝ってくれてありがとうな」
「うん」
ひとりで作業しているとあちらこちらへ散らばってしまう作図用具を手渡してくれる助手の存在は、実はけっこうありがたかったりする。
「……あふ」
口元を隠し、ちいさくあくびをする。
「◯◯、ねむい?」
「ちょっとな」
「それなら、ひざ──」
自分のふとももを叩こうとして、うにゅほが不意に手を止める。
「あ、だめだ……」
「駄目か」
「うん……」
理由は、なんとなくわかる。
聞いてはいけないたぐいのことだ。
「じゃ、三十分くらいしたら起こしてくれるか」
「はい」
「気持ちよさそうに寝てても、叩き起こしてくれていいから」
「たたかないよ」
「なら、揺さぶって起こしてくれ」
「はい」
ぼふ。
マットレスにうつ伏せに倒れ込み、外した眼鏡をうにゅほに手渡す。
「──…………」
「──……」
なでなで。
頭を撫でられる心地いい感覚と共に、意識が薄れていく。
三十分は、まさに一瞬だった。
疲れていたのだろう。
「おはよ」
「……おはよう」
目が覚めたとき、信頼できる誰かが傍にいるのは、素晴らしいことだと思った。



2016年5月14日(土)

「◯◯、◯◯」
「んー?」
「いやほんとって」
「ん」
耳掛け型のイヤホンを外す。
「どうかした?」
「うへー……」
俺の右耳に手を添えて、うにゅほがそっと耳打ちをする。
「……さけるチーズ、なにあじすき?」
「!」
ぞくっ。
柔らかな吐息と声に、全身の皮膚が軽く粟立つ。
なるほど、今日はこういう遊びか。
「××、××」
「はい」
うにゅほの左耳に手を添えて、そっと耳打ちを返す。
「……プレーン」
「くふ」
大した会話でもないのに、不思議と楽しい。
「……わたし、バターしょうゆ、すき」
「……俺も好き」
「……からいの、きらい」
「……スモークは?」
「……すき」
「──…………」
「──……」
しばらく互いに耳打ちし合ったあと、不意にイタズラを仕掛けてみることにした。
「……ふー」
うにゅほの耳に、優しく息を吹き掛けてみる。
「うひ」
うにゅほが妙な声を上げた。
「◯◯、もっかいふーってして」
「ふー……」
「いしし」
「くすぐったい?」
「……ふー」
うにゅほが俺の耳に息を吹き掛ける。
「おふ」
ぞわっ!
再び、鳥肌が全身を覆う。
「……俺、耳弱いかもしれない」
「そなの?」
「わからないけど」
「ふー」
「のふ!」
あ、弱いわ。



2016年5月15日(日)

「あ、ありだ」
「アリ?」
「えい」
ぷち。
うにゅほが人差し指を強く床に押しつける。
「潰した?」
「はい」
「いや、見せなくていいけど」
ティッシュをドローし、うにゅほに渡す。
「だいぶ春めいてきたし、窓から迷い込んできたのかな」
「そうかも──あっ!」
ぷち。
せっかく拭った指を、今度は冷蔵庫の扉に押しつける。
「またありだ」
「……二匹も?」
嫌な予感がする。
視線をデスクに戻すと、三匹目がそこにいた。
「うあ!」
慌ててつまみ取り、ティッシュにくるんでゴミ箱に捨てる。
「これ、どこから入り込んで来てるんだ……?」
窓はしっかりと閉じているし、見つかった場所に統一性がない。
「どっか、あなあいてるのかなあ」
「かもしれない」
「もうすぐりふぉーむするから、あな、なおるね」
「それはいいんだけどさ……」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「このまま大量に忍び込んできて、パソコンのなかに入られたら──」
「こわれる!」
「壊れたら?」
「おかねかかる!」
うにゅほの顔色が蒼白になる。
「な、なんとかしないと……」
「ああ」
ふたりでアリの侵入経路を捜索したのだが、一向に見つからない。
「ないねえ……」
「侵入口がわからないと、アリの巣コロリも置けないしなあ」
困った。
ろくに食べ物のない部屋だから、さっさと見限ってくれればいいのだが。



2016年5月16日(月)

「──わ、とと!」
風に煽られて、うにゅほが数歩たたらを踏む。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょぶ……」
今日は、とても風の強い一日だった。
生木がしなって折れるほどの暴風なんて、何年ぶりだろうか。
「さっさと帰ろう」
「うん」
八本入りのペプシのダンボール箱を後部座席に積み込み、慌てて乗車する。
「……はあ」
「かぜ、すごいね……」
「たぶん、家も揺れてるだろうなあ」
「うう……」
「ちょっとくらい壊れても、リフォームするから大丈夫」
「こわれるの……?」
「壊れないと思うけど」
「ほんと?」
「三十年間風雨に積雪に耐え忍んできた家なんだから、信じなさい」
「そろそろげんかいかも……」
「……まあ、その可能性はあるけど」
「あるの」
「それより──」
首を左右に振りながら、右耳を押さえる。
「……耳、変じゃないか?」
「へん?」
「なんか、水入ったみたいな感じしない?」
「──……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「しないか」
「うん」
「たぶん、とんでもなく気圧が下がってるんだろうなあ……」
「わかるの?」
苦笑し、答える。
「……気圧の変化に敏感な体らしくてな」
「そか……」
「ま、いいや。さっさと帰ろう」
「うん」
右耳の違和感は、帰宅してすぐに治まった。
低気圧が通り過ぎたのかもしれない。



2016年5月17日(火)

リフォームに向けてデスク周りの整理を行っていたところ、昔の写真が数枚ほど出てきた。
「××、ほらこれ」
「わ」
うにゅほが目をまるくする。
「これ、◯◯?」
「そうだよ」
「かみながい……」
「今よりかはな」
「へえー」
「こっちの写真なんて、××と同い年くらいの頃だぞ」
「え!」
大きな目をきらきらと輝かせ、うにゅほが写真を覗き込む。
「わあー……」
「若いだろ」
「わかい」
「これは、たしか、演劇部の合宿に行ったときの写真だったかな」
「──…………」
うにゅほの表情が、不意に曇った。
「となりのこ、だれ?」
「隣?」
見ると、懐かしい顔をした女生徒が、写真のなかの俺に身を寄せていた。
「ああ、後輩だよ」
「なまえ」
「名前は、えーと──」
腕を組み、天井を見上げる。
「……思い出せない」
「おもいだせないの……」
「十数年も経てば、人の名前くらい忘れもするさ」
「ふうん……」
「高校卒業して以来、会ってないしな」
「……そか」
うにゅほが、あからさまにほっとする。
「やきもち焼いた?」
「ちょっとやいた……」
「ういやつめ」
うりうり頭を撫でると、うにゅほは照れくさそうな笑みを浮かべた。
こういうとき、本当に可愛いなあと思うのである。



2016年5月18日(水)

「──パン粉」
「?」
「パン粉って、濡らして、こねて、また焼いたら、パンに戻るのだろうか」
「うと……」
しばし考え込み、うにゅほが答える。
「もどらないとおもう」
「戻らないか」
「パンこ、やいたパンからつくるから」
「うん」
「やいたパン、またやいたら、トーストになる」
「あー……」
問答無用の説得力だった。
「そうか、戻らないか……」
「もどしたいの?」
「戻ったら楽しそうかなと思って」
「たべものであそんだら、だめですよ」
「そうですね……」
たしなめられてしまった。
「あ、でも、こうしたら美味しくなるかもしれないぞ」
「……?」
「牛乳とバターと砂糖を入れて、よくこねて、小分けにしてオーブンで焼く」
「クッキーみたい」
「パン粉クッキー、どうだ」
「おいしそう」
「だろ」
「つくってみる?」
「作ってみるか」
「うん」
意気揚々と台所へ赴くが、
「……パンこ、ないね」
「常備してるかと思ってたんだけど」
「そいえば、さいきんつかってなかった」
「コロッケとか?」
「ハンバーグとかも……」
「つなぎに入れるんだっけ」
「そう」
「……わざわざ買ってきてまで作るほどのものでもないよなあ」
「そだねえ」
「また今度にしよう」
「うん」
パン粉クッキー、美味しそうだと思うけど。



2016年5月19日(木)

今日の午後は、来たるべきリフォームに向けて、箪笥の中身を整理していた。
「××のほうは、捨てる服あんまりなさそうかな」
「うん、みんなきてる」
「俺のほうは──」
マットレスの上に築かれた小山を見やる。
「……これ、どうしようか」
「すてちゃうの?」
「まあ……」
着ない服など、邪魔でしかない。
せっかくの機会なのだし、ここで一掃してしまうべきだろう。
「あ、これ」
うにゅほが小山から一枚のシャツを抜き取った。
「◯◯、まえきてたやつ」
「それなあ」
「もうきないの?」
「そのシャツ、袖のあたりがすこしほつれてるんだよ」
「……あ、ほんとだ」
「な」
「でも、ここなおしたら、まだきれる……」
「わざわざ修繕しなくても、シャツなら他にたくさんあるからなあ」
「──…………」
しばし考え込んだあと、うにゅほが口を開く。
「これ、わたしきていい?」
「部屋着?」
「うん」
「……まあ、いいけど」
「あ、このふく」
「たしか、色落ちしてから着てないんだよな」
「ほしい」
「──…………」
「あ、このズボン──」
「××さん」
「?」
「このままだと、服がぜんぜん減りません」
「もったいない……」
「リピートアフタミー」
「……?」
「もったいないの精神が、ゴミ屋敷を作る」
「もったいないのせいしんが、ごみやしきをつくる」
「よくできました」
「はい……」
残念そうなうにゅほを見ていると心が痛むけれど、仕方ない。
必要ないものは徹底的に捨てると決めたのだ。



2016年5月20日(金)

「◯◯」
「んー?」
「きょう、げんきだね」
「そう見えるか」
「うん」
「自分ではよくわからないけど」
「んとね、めーちゃんとあいてる」
「普段はちゃんと開いてないのか……」
「あいてない、ときもある」
「そう……」
「あとね、せすじがね、ちゃんとのびてる」
「普段は伸びてないのか……」
「ねこぜ」
「まあ、それは自覚ある」
「うん」
「××が言うなら、たぶん今日は元気なんだろうな」
「あったかいもんね」
「あったかいと言うか、暑いよ」
「なんどかな」
「温度計見てみてくれるか」
「わ」
「何度?」
「にじゅうはちどある」
「夏じゃん」
「なつだねえ……」
「……夏、楽しみだな」
「うん」
「家の前の公園で、今年も──あっ」
「?」
「夏祭りの時期って、ちょうどリフォーム中かもしれない」
「あー」
「家のなかで祭り囃子を聞くの、好きなんだけどなあ」
「うん……」
「仕方ない、今年は普通に行こうか」
「うん」
「焼き鳥買おうな」
「ぶたくしたべたい」
「豚串食べたいなあ……」
「おなかすいた?」
「空いた」
「おひるごはん、つくるね」
「頼むー」
今日の昼食は、カレーナンピザだった。
美味しかった。



2016年5月21日(土)

「うへへぇ……」
「?」
シャワーを浴びて自室へ戻ってくると、うにゅほの様子がおかしかった。
「◯◯ぃ」
ぴと。
俺の背中に張り付き、作務衣越しに息を送り込む。
「──あっつ!」
「うしし」
「えーと、どした?」
「うへー……」
おかしい。
明らかにおかしい。
もしやと思い、飲みかけだったチューハイの缶を手に取ると、見事にカラになっていた。
「……××さん」
「ふい」
「お酒、飲みましたね」
「のみました!」
「──…………」
うん。
これは、飲みかけで放置していた俺が悪い。
「……はあ」
溜め息をひとつつき、パソコンチェアに腰を下ろす。
「うしょ」
背もたれと背中のあいだに体を滑り込ませたうにゅほが、俺の首筋に手を回す。
「××さん」
「はい」
「熱いんですけど……」
アルコールのせいか、明らかに発熱している。
「あつくないです」
「……本当に?」
「あついです」
「ですよね」
「うへー」
かぷ。
「肩、噛まないでほしいんですけど……」
「あぐあぐ」
「……も、いいや。好きにして」
「♪~」
うにゅほの酒癖は、悪い。
人前では絶対に飲ませないようにしよう。



2016年5月22日(日)

「──う、しょ、うん、しょ」
CDの詰まった小箱を抱えながら、うにゅほが階段を横歩きで下りていく。
「足元、気をつけてな」
「うん!」
「元気だなあ……」
「げんき!」
二日酔いで動けなくなるかと心配していたのだが、嬉しい誤算である。
「だからって、もう、勝手にお酒飲んじゃ駄目だぞ」
「ごめんなさい……」
ガレージにダンボール箱を積み上げ、ふう、と一息つく。
「××、昨日のこと覚えてる?」
「あんまし……」
「俺の背中にずっと負ぶさってたのは?」
「なんとなく」
「肩だの首筋だのをがぶがぶ甘噛みしてたのは?」
「おぼえてない……」
「暑い暑いって言って、いきなりパジャマ脱ぎ出したのは?」
「え」
「慌てて止めたら、俺にコート着せ始めたのは?」
「えー!」
「逆立ちしようとして失敗したのは?」
「──…………」
「ひとりでトイレ行けないって、俺を引っ張って行こうとしたのは?」
「すいません……」
「途中から嘘だけど」
「……?」
「途中から嘘です」
「うと、どこから……」
「秘密」
「もー!」
「はっはっは」
「……おさけ、もう、のまない」
「それがいいよ」
お酒は二十歳になってから。



2016年5月23日(月)

「──賽の河原って知ってる?」
「さいのかわら?」
「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」
「……?」
「死んだ子供が両親のために石で塔を作るんだけど、そのうち鬼がやってきて、それを壊してしまうんだ」
「あ、きいたことある」
「いま、そんな気分」
「あー……」
運び出しても運び出しても荷物整理が終わらない。
掘り進むごとに新たな地層が現れて、いっそ荷物が増えていっているような錯覚すら覚える。
「でも、おにいないよ」
「うん……」
「ちゃんとおわるよ」
「うん」
「がんばろ?」
「……××は頼りになるなあ」
「うへー……」
「そして、俺は、頼りにならないなあ……」
「そんなことない」
「そうですかね……」
「◯◯と、おとうさんいないと、おもいのだせない」
「……まあ、男手だからな」
「◯◯、つめるのとくい」
「詰め過ぎて重くなっちゃうけどな」
「あと、あと──」
うにゅほの頬に手を添える。
「ありがとう、元気出たよ」
「うん」
「あと一週間、頑張ろうな」
「──…………」
「××、どうした?」
「……わたし、おもいのもてないし、つめるのへただし、◯◯のみみせん、どっかやったし……」
「いやいやいや!」
うにゅほに俺のネガティブが伝染ってしまった。
「……休憩するか」
「うん……」
疲れていると、ろくなことを考えない。
ペース配分を考えて、ゆっくり作業を進めていこう。



2016年5月24日(火)

「──…………」
パソコンデスク代わりに使っていた学習机を撫でながら、独りごちる。
「この机とも、お別れだな」
「うん……」
なでなで。
俺にならい、うにゅほが天板を撫でる。
「頑丈な机だよ、こいつは」
「なんねんくらい、つかってたの?」
「二十年以上」
「わ」
「なにせ、小学校に入学したときに買ってもらったものだからなあ」
「がんばったねえ……」
「ああ、頑張った」
なでなで。
「もう、つかえないの?」
「使えないことはないさ」
「なら」
「でも、あちこちガタが来てるのは確かでさ」
「──…………」
「大きくて重い机だから、家の外に出すだけでも業者の手がいる」
「……うん」
うにゅほの頬に手を添え、もにもにとつまむ。
「××は優しいなあ」
「?」
「可哀想だって思ったんだろ」
「うん……」
「でも、仕方のないことはあるのさ」
「──…………」
「捨てるとき、いままでありがとうって言おうな」
「……うん!」
長い年月を経た道具には、魂が宿ると言う。
せめて、感謝と共に送り出そう。
そのくらいの感傷ならば持ち合わせている。
うにゅほと同じ視点に立つことができる。
それはきっと、幸福なことだろう。



2016年5月25日(水)

「よい……ッ、しょお!」
30kgの米袋を、一息に持ち上げる。
「……重ッ!」
「◯◯、てつだう?」
「大丈夫、大丈夫」
米袋をガレージへと運び入れ、ぐるぐると腕を回す。
腕力が落ちている気がする。
「おこめ、おもかった?」
「それなりかな」
「なんきろ?」
「30kg」
「さんじゅっきろ……」
何事か考え込んでいたうにゅほが、不意に目を伏せて言った。
「……いつも、だっことか、おんぶとか、ごめんね」
「なんで謝る」
「だってわたし、おこめよりおもい……」
「あー」
言いたいことは理解した。
「××さん、重心ってわかる?」
「じゅうしん?」
小首をかしげる。
「ここに、捨てようと思っていた2kgの鉄アレイがあります」
「はい」
うにゅほに鉄アレイを手渡す。
「重い?」
「おもくない」
「じゃあ、鉄アレイを持ったまま右手を前に持ち上げて」
「はい」
「重い?」
「お、も……いぃ……」
鉄アレイを受け取り、元の場所に戻す。
「抱っこするときは密着するし、××も、俺が持ちやすいよう体勢を整えますね」
「はい」
「そうすると、重心が安定します」
「はい」
「だから、××を重いって思ったことはありません」
「そうなんだ……」
「それに──」
「わ」
うにゅほを高い高いしたあと、いつものように抱っこする。
「米袋を抱っこしても、嬉しくないし」
「……うへー」
てれりと笑う。
「よーし、部屋までダッシュ!」
「おー!」
と、勢いよく駆け出したものの、階段はさすがにきつかった。
体力づくり、しよう。



2016年5月26日(木)

「ぐへー……」
ぼふ。
マットレスに沈みながら、苦悶に喘ぐ。
「◯◯、だいじょぶ?」
「だめ」
「たべすぎ」
「返す言葉もございません……」
今日は母親の誕生日である。
普段の労をねぎらい、夕食に回転寿司を食べに行ったのだった。
「……最後の炙りサーモン四皿はいらなかったな」
「たのみすぎだよ」
「来る順番がメチャクチャなんだもん」
「こんでたもんね」
「でも、大トロは美味かったな……」
「おいしかったねえ」
「とろけたな」
「とろけた……」
「530円もするだけはあるよなあ」
「……そんなにするの?」
「する」
「みんなたべた……」
「食べたな」
「……にせん、ろっぴゃく、ごじゅうえん?」
「──…………」
「──……」
「……そう考えると、すごいな」
「うん……」
「まあ、行ったらまた頼むんだけど」
「うん」
「美味かったもんなあ……」
「とろけた」
「トロだけにな」
「とろって、そのとろなの?」
「たしかそうだよ」
「へえー」
母親への誕生日プレゼントは、ブラウンの電動歯ブラシにした。
家族みんなで虫歯ゼロを目指すのだ。



2016年5月27日(金)

「……?」
うにゅほが俺の手元を覗き込む。
「◯◯、なにのんでるの?」
「ワイン」
「ふつうのコップ……」
「ワイングラス、片付けちゃったから」
「あー」
うんうんと頷く。
「ワイン、ふつうのコップでのんでいいの?」
「駄目ってことないと思うけど」
「そなんだ」
「セイコーマートの500円ワインだし」
「たかいワイン、だめなの?」
「気分的に、ものすごくもったいないことしてる気はするよな」
「うん」
「高いからって必ずしも美味しいわけではないけどさ」
「そなの?」
「これは、持論になるんだが──」
残り僅かなワインを飲み下し、言葉を続ける。
「値段が高くなればなるほど、満足度の上がり幅が少なくなる」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「千円のワインしか飲んだことない人が一万円のワインを口にしたら、たぶん美味しいって思うよな」
「たぶん……」
「一万円のワインしか飲んだことない人が十万円のワインを口にしたら、どうだ?」
「おいしいって、おもうとおもう」
「十万円のワインしか飲んだことない人が、百万円のワインを飲んだら?」
「おいしい……」
「このあたりから怪しくなってくると思うんだよな」
「……?」
「美味しいって感覚には限界値があると仮定しようか」
「はい」
「マズいと美味しいの差は明確だけど、〈すごく美味しい〉と〈ものすごく美味しい〉って、もはや好みの問題だと思うんだよ」
「ふんふん」
「だから──」
ふと我に返る。
「……なにを言いたかったんだっけ」
着地点を決めずにだらだらと言いたいことを垂れ流してしまった気がする。
「まあ、あれだ」
「うん」
「俺は、安いワインでいいや」
「そか」
高いワインに手を出して、舌が肥えてしまっては困る。
節制、節制。



2016年5月28日(土)

「ありだ!」
ぷち。
うにゅほが人差し指をコルクボードに押しつける。
「ほい、ティッシュ」
「ありがと」
「アリだけに」
「ありだけに」
「結局、どこから入り込んでるのか、わからずじまいだったなあ」
「そだね」
「まあ、二、三日に一匹くらいだから、実害はなかったけどさ」
「ぱそこんなか、はいんなくて、よかったねえ」
「入ってないとは限らないけどな」
「え」
「一匹くらい焼け死んでる可能性もあるから、引っ越したらパソコンのなか掃除してみないと」
「あり、はいって、だいじょぶなの?」
「大丈夫ではないけど……」
「?」
「つまり、場所による」
「ばしょ」
「転んで膝を打っても打ち身で済むけど、頭を打ったら命に関わるだろ」
「あー」
うんうんと頷く。
納得していただけたようだ。
「あ」
ぷち。
「またあり」
「今日は多いなあ」
「しらないだけで、たくさんいるのかも」
「──…………」
「ほんだなどかしたら、びっしり」
「あー、あー、聞きたくない聞きたくない」
「りふぉーむしたら、いなくなるかな」
「そう願いたい……」
引っ越しは明後日だ。
それまでPCが無事であることを祈ろう。



2016年5月29日(日)

「──…………」
「はー……」
三十三個のダンボール箱で築かれた小山に寄り掛かりながら、疲弊のこもった吐息を漏らす。
総数2,500冊。
五時間かけて、詰め切った。
「……あとは、業者のひとに頼めば、ガレージに持ってってくれるから……」
「うん……」
「──…………」
「──……」
言葉もない。
「……なんか、ホコリっぽくなったな」
「うん……」
「今日、シャワー?」
「……さいごだから、おふろ、いれるって」
「そっか」
「うん……」
「引っ越し、明日だもんな」
「うん」
「××、下見に行ったんだっけ」
「いった」
「どうだった?」
「いいへやだった」
「そっか、なら安心だな」
「うん」
「──……?」
手の甲で目元をこする。
違和感。
空気中を舞うホコリの粒子が目に入ったらしい。
「××、目薬ってどこやったっけ」
「めぐすり?」
「うん」
「うーと、もってくようのダンボールにいれたとおもう」
「持ってく用のダンボールって、どれ?」
「──…………」
「──……」
三十三個のダンボール箱で築かれた小山を見上げる。
「……目薬くらい、買えばいいか」
「そだね……」
あきらめた。
必要最低限のものは取り分けてあるので、もうそれだけでいいです。



2016年5月30日(月)

「──…………」
「──……」
ぱたぱたり。
敷いたばかりの布団に、ふたり並んで倒れ込む。
「引っ越しなんて二度としない……」
「でも、りふぉーむおわったら」
「……三度はしない」
「うん……」
俺とうにゅほに与えられたのは、クローゼット付きの六畳間である。
パソコンデスク代わりの座卓を置いて、ふたりぶんの布団を敷いたら、それでもういっぱいになってしまう。
「それにしても──」
同じく布団に横になっているうにゅほと視線を交わす。
「……いや、なんでもない」
「?」
同衾ではないにしろ、完全に夫婦の距離だよなあ。
「布団、すこし離したほうがいいかな」
「なんで?」
「……なんとなく?」
「せまいとおもう」
「──…………」
しばし黙考するが、すぐにどうでもよくなった。
「ま、いいや……」
「うん」
本人が気にしていないものを過度に配慮しても仕方がない。
「前の部屋みたいに死角がないから、着替えるときは気をつけないとな」
「そだねえ」
「えーと、あとは……」
「うん」
「──…………」
「あとは?」
「……ちょっと寝てから考える」
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
一時間ほど仮眠をとったあと、仕事をこなして今に至る。
疲れた。
今日はもう、さっさと寝よう。



2016年5月31日(火)

「──…………」
うと、うと。
「◯◯?」
「……は!」
「ねてた」
「寝てない、寝てない……」
「ほんと?」
「……いや、ちょっと寝てた」
うたた寝を指摘されると反射的に否定してしまうのは何故なのだろう。
「えいが、おもしくないの?」
「どうだろう……」
Media Playerのシークバーを操作し、数分ほど巻き戻す。
「字幕だからなあ」
「ふきかえなかったやつだっけ」
「そう」
「こわいやつ」
「怖くはないと思うんだけど」
「そなの?」
「たぶん……」
「ひと、しなない?」
「人は死んでる」
「こわいやつ」
「殺人シーンがあっても、怖くないやつは怖くないと思うけどなあ」
「うーん」
「コナンとか」
「コナン、アニメだもん」
「まあ、あんな気軽に殺人事件が多発しまくる世界観はむしろ怖いと思うが……」
あふ、とあくびをひとつ。
「……疲れ、取れてないな」
「ひるねしたほう、いいとおもう」
「でもこれ明日返却なんだよ」
「でぃーぶいでぃーって、ひゃくえん?」
「そう」
「またかりたらいいとおもう」
「……たしかに」
無理をしてまで観るものではないよな。
Media Playerを閉じ、いそいそと寝床へ這い戻る。
「三十分くらい寝る……」
「ひざまくらしたい」
「お願いします」
「はい」
いくら寝ても疲れが抜け切らず、幾度も居眠りをした一日だった。

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