2016年2月1日(月)
セブンイレブンの寒天ゼリーが、ダイエットに最適な上に、たいへん美味い。 「◯◯、みかんあじしかたべないの?」 「ぶどうは味が薄くてさ」 「まえ、りんごあじあった」 「あれは不味かったなあ……」 「なんか、にがかったね」 「後味がな」 というわけで、みかん味のみを大人買いする日々である。 「××、いらないのか?」 「いまはいい」 「ひとくち食べる?」 「ひとくちは、たべる」 「あーん」 「あー」 こころもち多めにゼリーをすくい、うにゅほの口元へと運ぶ。 そのときだった。 「!」 指先が重心を見失い、さじからゼリーが滑り落ちる。
すぽ。
「わ!」 うにゅほのパジャマの胸ポケットに、ゼリーの欠片が入ってしまった。 「あ、ごめ──」 ゼリーを掻き出そうと慌ててポケットに手を突っ込み、
ふに。
思いきり胸に触れてしまった。 「しみなるかなー」 「……いや、生地の色が濃いから大丈夫じゃないか?」 「そか」 「──…………」 当の本人はあまり気にしていないらしい。 まあ、考えてみたら、日常的に押しつけられたりしているわけで、うにゅほ的には今更な感じなのかもしれない。 「うーん、脱がないと難しいかも。着替えてきな」 「わかった」 「ごめんな……」 「うん」 脱衣所へ向かううにゅほの背中を見ながら、デリカシーという言葉について思いを馳せるのだった。
2016年2月2日(火)
ふと思い立ち、久し振りに髪の色を抜くことにした。 そういうことが気軽にできるのは、在宅ワーカーの特権である。 「あわあわあわー」 「あんまり遊ばないでくれよ?」 「うん」 うにゅほにヘアブリーチを塗り込んでもらい、三十分ほど待つ。 「……暇だ」 「ひま?」 「だって、なにも見えないんだもん」 俺は極度の近視である。 眼鏡がなければ生活できない。 5センチ先の文字すらおぼつかないのだから、筋金入りである。 「これなんほん?」 うにゅほが胸の前で指を立てている、らしい。 「……二本?」 「せーかい!」 勘である。 「◯◯、なんで、めーわるくなったの?」 「気づいたら悪くなってたの」 「そなんだ」 「××も、暗い部屋で本とか読んじゃ駄目だぞ」 「そしたらめーわるくなるの?」 「たぶん」 「──……!」 あ、これは、なにかいらんことを思いついたときの顔だ。 「なに考えてるか当ててやろうか」 「?」 「目悪くなったら眼鏡掛けて俺とお揃い」 「!」 「当たったか」 「うん」 「目は一度悪くなったら元に戻らないから、大切にしたほうがいいよ……」 「わかった」 うんうんと頷く。 わかってくれたようだ。 「──…………」 あ、またなにか考えてる。 余計なことじゃなければいいな。
2016年2月3日(水)
「はー、食べた食べた」 「えほうまき、ふといねえ」 「ほんとだよ」 二本食べただけで満腹になってしまった。 「つまんねーなあ……」 すべての妨害が空振りに終わった父親が、恵方巻きをかじりながらぼやく。 たかだか恵方を向いて無言で巻き寿司を食べるくらいの行事を毎年毎年失敗してはいられないのだ。 「あ、お前ら、アレやれアレ」 「あれって?」 「ポッキーあるだろ」 「うん」 「あれ両端から食い合ってくやつ、やれ」 「……父さん酔ってるだろ」 「酔ってませえん」 絶対酔ってる。 「ンなこと言ったって、さすがに無理あるだろ」 「そうかあ?」 「あぐあぐ大口開けて食べ進めてったところで、嬉し恥ずかしって感じにゃならないって」 「──…………」 ソファでテレビを見ていた弟が、呟くように言った。 「やるのが嫌とかではないんだ」 「まあ」 「うん」 俺とうにゅほが同時に頷いた。 「はいはい、お腹いっぱいです」 「(弟)、いっぽんしかたべてない」 「そういう意味じゃなくて」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「××はおもしれーな!」 「わ、わ!」 父親に頭をぐりぐり撫でられるうにゅほを眺めながら、食後の烏龍茶をすする俺だった。
2016年2月4日(木)
俺とうにゅほ以外の家族が、全員、風邪に臥せってしまった。 「珍しいなあ」 「うん……」 「普段なら寝込んでるの俺だけなのに」 「マスクしないとだめだよ」 「××もな」 「うん」 俺たちまで倒れては、家事のすべてが立ち行かない。 「夕飯の準備、手伝おうか?」 「だいじょぶ!」 「風呂沸かそうか」 「きょうは、おやすみ」 「掃除する?」 「みんなねてるから」 「──…………」 「あったかくして、ゆっくりしてて」 戦力外通告を受けてしまった。 「……もしかして、俺に風邪が伝染らないようにしてる?」 「だって、◯◯、すぐかぜひく」 「うん……」 二の句も継げない。 「◯◯は、しごとがんばって」 「はい」 「やさいジュースつくってくるからね」 「楽しみにしてる」 「うん!」 うにゅほの頭を撫でるついでに、額に手を当ててみた。 「?」 「うん、まだ大丈夫」 「かぜひいてないよ?」 「こういうのは、得てして、自分では気がつかないものだからな」 「◯◯、あたまかして」 「はいよ」 膝を曲げると、ちいさな手のひらが額に添えられた。 「……うん、まだだいじょぶ」 俺とうにゅほは運命共同体だ。 同じ部屋で過ごしているから、片方が風邪を引くと、もう片方も体調を崩す可能性が高い。 うにゅほのためにも健康に気を遣わねば。
2016年2月5日(金)
家族が順調に快復しつつある。 インフルエンザではなかったようだ。 「××」 「?」 「部屋のなかでくらい、マスク取っちゃ駄目?」 「だめ」 「……せめて、一枚にしていい? 二重はちょっと苦しい」 「うと、じゃあ、いっことっていいよ」 「ありがとう」 外側のマスクを外す。 あまり解放感はないが、すこし呼吸が楽になった気がする。 「へやからでるとき、もっかいつけてね」 「はい……」 「みんな、まだ、なおってないからね」 「そうだな」 「あんましへやからでないでね」 「ごはん食べるときは?」 「いそいでたべてね」 「わかった」 あからさまに過保護である。 でも、まあ、さんざん心配をかけてきたことの裏返しでもあるのだし、素直に甘やかされていようと思う。 「××もマスク二重な」 「わたしは」 「××が風邪引いたら、たぶん俺も引くからな」 「……へやのそと、でるときでいい?」 「いいよ」 息苦しいもんな。 「わたしかぜひいたら、◯◯、かんびょうしてくれる?」 「当たり前だろ」 「……うへー」 「わざと風邪引くのナシだからな」 「しないよー」 「××が倒れたら俺が看病して、俺に伝染ったら××が看病して──」 無限ループである。 「……最終的に、ふたり並んで寝込んでそうだ」 「たのしそう」 「楽しくはない」 まあ、ひとりで臥せるよりは、いくらかマシかもしれないけれど。
2016年2月6日(土)
日記を書こうとキーボードに向かったとき、気がついた。 「……今日、なにやったっけ」 「?」 ひとりごとに反応し、うにゅほが顔を上げる。 「俺、今日なにやってた?」 自堕落に過ごしていたことは確かなのだが。 「うと、ひるくらいにおきた」 「ああ」 「ほんよんでた」 「読んでたな」 「ぱそこんしてた」 「してたな」 「それだけ」 「それだけか……」 「あ、しごともしてたよ」 「仕事は毎日してるし」 「にっきにかくこと、ないの?」 「ない……」 なにしろ、風邪が伝染るからと言って、ろくに部屋から出してもらえないのだ。 さすがに過保護と言わざるを得ない。 「……××」 「?」 「責任を取りたまえ」 「せきにん?」 「いまからでも、日記に書くこと作ろう」 「うと、なにしたらいいの?」 「いつもはやらないことがいいなあ」 「あそび?」 「遊ぶのでもいいぞ」 「じゃあ、つながりごっこ!」※1 「こないだやったろ」 「じゃんけん」 「じゃんけんだけ延々するのもなあ」 「だめ?」 「駄目じゃないけど、五分もたない」 「せなかにじーかくやつ」 「あれ、一時期ハマって、書くことなくなるまでやっただろ」 「うっと、えーと……」
──たん。
エンターキーを押す。 「よし、あとは〆れば今日のぶんはおしまい」 「……?」 うにゅほが小首をかしげる。 「いままでの会話、ずっと打ち込んでたんだよ」 「なんで?」 「日記にしようと思って」 「いまはなしたの、にっきでいいの?」 「普段はしない会話だろ」 「あ、そか」 納得したらしい。 まあ、たまにはこんな日記もいいだろう。 たまにはとと言いつつ何度かやっている気がするが、気にしてはいけない。
※1 つながりごっこ ── なにをするにもずっと相手に触れ続けていなければならないというアバンギャルドな遊び
2016年2月7日(日)
「あー!」 風呂あがりに下着姿で涼んでいると、うにゅほに見咎められてしまった。 「パジャマきないとだめだよ」 「そうなんだけどさ……」 暑いのだ。 体が火照っているという意味ではなく、純粋に室温が高いのだ。 「ほら、ストーブつけっぱなしにしてたろ」 「でも……」 「いま何度あると思う?」 「うと、にじゅうよんど……」 「27℃」 「あつい!」 「な?」 一瞬納得しかけたうにゅほだったが、すぐ我に返った。 「でも、またさむくなるよ」 「寒くなったら着るよ」 「さむくなるまえにきるの!」 「──…………」 ふと思いついた。 「よし、実力で着せてみるがいい」 「じつりょく?」 「××、野球拳って知ってるか?」 「ふくぬぐやつ?」 「その逆をやろうではないか」 「えと、じゃんけんでまけたら、ふくきるの?」 「そう」 「やる!」 新たな遊びの気配を感じ、うにゅほの表情がぱあっと明るくなる。 「じゃ、行くぞー」 「うん」
「「じゃーん、けーん、ほい!」」
「勝った……」 「まけた」 「では、一枚羽織ってもらおうか」 「なにきればいい?」 「半纏かな」 「わかった」
「「じゃーん、けーん、ほい!」」
「また勝った」 「まけたー」 「じゃ、次は──」 「くつした!」 「わかった、靴下を履いてもらおう」
「「じゃーん、けーん、ほい!」」
「××、弱いなあ」 「うー」 「では、半纏の上からコートを着るのだ」 「わかった……」
こんな調子で勝ち続け、俺がパジャマを着るころには、うにゅほは厚着でコロコロになっていた。 「あついー……」 「もう脱いでいいよ」 「うん」 なかなか健全で楽しい遊びである。 またやろう。
2016年2月8日(月)
「……◯◯、おしりだいじょぶ?」 「大丈夫だってば」 「あたまは?」 「打ってない」 「こしは?」 「腰も、いまのところ大丈夫」 「いまのところ……」 「心配性だなあ」 「だって」 凍結した路面に足を取られ、思いきりすっ転んでしまった。 その転び方がよほど派手だったらしく、うにゅほに心配されまくっている次第である。 「俺、ケツでかいから大丈夫だって」 「そだけど……」 肯定されてしまった。 「それにしても、車庫の前があんなに滑るとはなあ」 「うん」 「言うまでもないと思うけど、××も気をつけるんだぞ」 「きをつける」 「××、おしり小さいからなあ」 「ちいさい?」 「小さいというか、薄い」 「うすい……」 うにゅほが自分のおしりを揉む。 「そのぶん体重も軽いから大丈夫だとは思うけど、転ばないに越したことないからな」 「◯◯も、きをつけてね」 「ああ」 これで明日にも転んだら、さすがに間抜け過ぎる。 「……ところで、その手にあるものは?」 「しっぷ」 「俺のケツに貼ろうとしてたの?」 「うん」 「……貼らなくていいからな」 「だいじょぶ?」 「仮に貼るとしても、自分で貼るから」 「えー」 「えーじゃなくて」 さすがに恥ずかしいので、勘弁していただきたい。
2016年2月9日(火)
うにゅほプレイスでくつろぐうにゅほの姿をのんびり眺めていたところ、すりすりと両足を擦り合わせていることに気がついた。 「××、足冷たいの?」 「ちょっとー」 「靴下履いたらいいのに」 「うーん……」 うにゅほの靴下嫌いは筋金入りである。 「どれどれ」 ちいさな足に手を伸ばす。 「うしし」 「たしかに、ちょっと冷たいな」 「くすぐったい」 「くすぐってないぞ」 くすぐったら泣くかもしれないし。※1 「そろそろ足の爪切らないと」 「うん」 爪先を両手で暖めてみる。 「あったかい」 「風呂あがりだからな」 「みぎあしもー」 「いいけど、靴下履きなさいって」 「うーん?」 これで誤魔化しているつもりなのだから、微笑ましい。 「──…………」 ふと、うにゅほの足の裏にいたずらをしたくなった。 くすぐることができないのなら、選択肢はひとつしかない。 足つぼマッサージである。 ぐに。 「お」 ぐい、ぐい。 「お、おふ、おー」 「痛い?」 「ちょ、と、だけー」 「ここは?」 「う」 「こっちは」 「ぬ」 「このあたりは?」 「はう」 面白い。 「××は、足つぼ大丈夫なんだな」 「うん、きもちい」 うへーと笑う。 「つぎ、◯◯も、あしつぼしてあげるね」 「頼むー」 こうして足つぼを刺激し合うふたりなのだった。
※1 2016年1月28日(木)参照
2016年2月10日(水)
「だー、終わった!」 「おつかれさまー」 仕事が終わって机に突っ伏すと、うにゅほが背中を撫でてくれた。 「××も、助手してくれてありがとうな」 「たすかった?」 「助かった」 「うへー……」 てれてれと笑う。 「きょう、しごとおおかったね」 「今週は多いんだよ」 「そなんだ」 「普段の倍くらいかな……」 「ばい!」 うにゅほが目をまるくする。 「来週はもっとすごいぞ」 「もっと……」 「今日の、さらに倍」 「えー!」 反応がいちいち微笑ましい。 「◯◯しんじゃう!」 「死なない、死なない」 そのくらいで死んでたまるか。 「はんじょうしてるのかな……」 「いや、繁盛とかないから」 「ないの?」 「ない」 「なんでおおいの?」 「三月分の仕事が前倒しで来てるらしいぞ」 「はー……」 うんうんと頷いているが、たぶんよくわかっていない。 「つまり、三月のぶんの仕事をいましているわけだ」 「うん」 「ということは?」 「うん?」 小首をかしげる。 やはりわかっていなかった。 「三月は、仕事が少ないってことだよ」 「!」 理解したようだ。 「さんがつ、あそべる?」 「遊べる遊べる」 「やたー!」 天真爛漫なうにゅほの笑顔を見て、改めて頑張る決意を固める俺だった。
2016年2月11日(木)
「××」 「はい」 「明日、明後日と、夕方からちょっと留守にするから」 「……?」 うにゅほが自分を指差す。 「××は、行かない」 「いく」 「行かない」 「──…………」 あ、ぶーたれた。 「いきたい」 「……本当に行きたいのか?」 「?」 「知らない人がたくさん来るぞ」 「う」 「酒の席だぞ」 「う」 「俺だって人間だから、トイレ行ったりするぞ」 「──…………」 あ、諦めた。 「……はやくかえってきてね?」 「約束する」 「ゆびきり」 「指切りなんてしたことあったっけ」 「わかんない」 「まあ、いいか」 うにゅほの差し出した小指に、俺の小指を絡ませる。 「指切りげんまん」 「うーそー、ついたーら、はーり、せーんぼーん、のまーす!」 おぼつかないな! 「「ゆびきった!」」 と、繋いでいた小指を離す。 「指切りしたから、もう大丈夫だな」 「うん」 うにゅほがこくりと頷いた。 信頼されている。 なるべく早く帰ろうと思った。 指切りとか、約束とか、関係ない。 うにゅほの顔を見たいから、早く帰るのだ。
2016年2月12日(金)
客用のお茶菓子を買うため、最寄りのロイズ直営店まで足を伸ばした。 ロイズと言えばチョコレートだが、ラスクもやたら美味いのだ。 「──……?」 店内に入り、気がついた。 「……なんか、すごい混んでるな」 「うん」 祝日は昨日で、土曜は明日だ。 そこまで考えて、ようやく理解した。 「あ、バレンタインだ!」 「うん」 うにゅほの視線に心なしか呆れが含まれている気がする。 「××、今年もくれるのか?」 「うん」 なにを当たり前のことを、という顔である。 「……いま買ってく?」 「ううん」 ちいさく首を横に振る。 「もしかして、もう買ってあるとか……」 「うん」 「……なんか怒ってる?」 「おこってないよ」 「機嫌悪い?」 「わるくないよ」 本当かなあ。 「……もっと、たのしみにしてるとおもったから」 「──…………」 うにゅほは怒っていない。 機嫌も悪くない。 ただ、すこしだけ、がっかりしてしまったのだと思う。 「……言い訳になるけどさ、楽しみにはしてたよ。これは本当に」 「ほんと?」 「最近、ほら、忙しかっただろ」 「うん」 「バレンタインって、まだ先のことだって思ってたんだよなあ……」 「──…………」 「××のチョコ、期待してるから」 「……うん」 許された。 今年はどんなチョコをくれるのだろう。 それを考えるだけで頬が緩む俺なのだった。
2016年2月13日(土)
「……あの、××さん」 「──…………」 「××さん?」 「──…………」 「あのですね……」 「──…………」 「昨日は、その、帰宅が深夜を回ってしまい、たいへん申し訳ありませんでした……」 「──…………」 ぷい。 「ごめんってばー!」 「わ!」 うにゅほを背後から抱きすくめる。 「今日は早く帰ってくるから」 「……ほんと?」 「──…………」 しばし思案する。 「……日付が変わる前には」 「──…………」 うにゅほの視線が痛い。 「じゅ、十一時半までには!」 「……うー」 「約束します」 「ほんと?」 「本当」 「わたし、ねるまえに、かえってきてね」 「……わかった」 この言葉は、裏切れない。 「──よし、そうと決まれば、今日のぶんの仕事をさっさと終わらせてしまおう!」 「うん!」 「××、手伝ってくれるか」 「てつだう」 ふんすふんす。 鼻息荒く、うにゅほが頷く。 やる気である。 いつもの倍近い仕事を済ませて家を出たのが、午後五時過ぎのこと。 ようやく帰宅できたのは、午後十一時二十分のことだった。 「ちょっとおそい」 「……すいません」 「でも、やくそくどおりだから、ゆるします」 「ありがとうございます!」 「わ!」 ぎゅうー。 うにゅほを正面から抱きすくめながら、飛ばしてくれたタクシーの運ちゃんに胸中で感謝するのだった。
2016年2月14日(日)
さて、待ちに待ったバレンタインである。 「××さん」 「う」 うにゅほの肩をやわやわと揉みながら、その横顔を窺う。 「バレンタインチョコの件なのですが……」 「あるよ」 「ありがたき幸せ」 もみもみ。 「おー……」 もみもみ。 「ふひー……」 「……あの」 「?」 「チョコ、いただけないんでしょうか」 「チョコ、かくしてあるよ」 「隠してあるの?」 「◯◯、ねてるあいだに、かくした」 宝探しというわけか。 たしか、一昨年も似たようなことがあって── ※1 「××、ちょっと両手上げて」 「?」 ぽん、ぽん。 「服の下には隠してないみたいだな」 「ことしはちがうよ」 「ヒント!」 「へやのなかにあります」 「部屋のなか……」 ひとまず布団をめくってみる。 「さすがにない、か」 「とけちゃう」 たしかに。 「えーと、俺が寝てるあいだに隠したんだよな」 「うん」 ということは、開けるのに物音がしそうな箪笥などではないだろう。 「デスクの足元!」 ない。 「テレビの裏!」 ない。 「冷蔵庫のなか!」 ない。 「ヒント!」 「ひんとはねー」 にししと笑いながら、うにゅほが答える。 「いつもとちがうところ、です」 「──……?」 部屋の中央に立ち、ぐるりと周囲を見渡してみる。 違和感。 なにかが違う。 たしかに違う。 「あっ」 気づいた。 箪笥の上のぬいぐるみ。 その並び順が違う。 「──ここだ!」 ビッグねむネコぬいぐるみを抜き取ると、その奥にピンク色の包みがあった。 「バレンタインおめでとー!」 「ありがとうございます!」 達成感を胸に包みを開けると、高級そうなチョコアソートが入っていた。 「ホワイトデーのとき、俺も隠したほうがいい?」 「うん!」 子供っぽいと笑われるかもしれないが、いつになっても宝探しは楽しいものだ。 その宝物が、価値あるものであれば、特に。
※1 2014年2月14日(金)参照
2016年2月15日(月)
「──…………」 ぼふん。 羽毛布団の上に思いきり倒れ込む。 「……◯◯、だいじょぶ?」 「だいじょばない」 「しごと、おわった?」 「終わらない」 やってもやっても終わりが見えない。 やればやるだけ増えていく。 賽の河原で仕事をしている気分だった。 「むりしないで……」 「……うん、いったん休憩する」 目を閉じる。 目蓋の裏に方眼紙のマス目。 「うう……」 今日から一週間、三月分の仕事が前倒しでのしかかってくる。 後が楽だとわかっていても、いまのつらさは変わらない。 気が遠くなりそうだった。 「よしよし」 なでなで。 「かた、せなか、こし」 「……?」 「どこいたい?」 「肩かな……」 「じゃー、かたもむね」 「ありがとう……」 「せなかのるね」 「ああ」 「ねてていいからね」 うにゅほのふわふわマッサージのリラックス効果は絶大である。 コリはちっともほぐれないが、些細なことだ。 「……もうだいじょぶ?」 「大丈夫」 「げんきでた?」 「だいぶ」 三十分ほど休憩して、仕事に戻った。 在宅ワーカーで本当によかった。 うにゅほが傍にいなければ、こんなに頑張れていない気がするのだ。
2016年2月16日(火)
「──ッ!」 パソコンチェアから立ち上がったとき、右足の小指に激痛が走った。 「た、たた、た……」 思わずチェアに腰を落とす。 「ど、どしたの!」 「いや、なんか──」 なにが起こったのか、よくわからない。 右足を持ち上げ、小指に触れる。 「……痛くない」 押しても、引っ張っても、叩いても、揉んでも、ぜんぜん平気である。 しかし、 「──て、いてて」 体重をかけると、刺すような痛みが走る。 「だいじょぶ……?」 「わからない」 「はれてる?」 「どうかな」 「みして」 うにゅほが俺の足を取る。 「はれて──は、ない」 「熱は?」 「ねつもない」 「なんだろう……」 「うーん」 ぶつけた記憶も、ひねった記憶も、ない。 「びょういんいったほう、いいよ」 「いや、仕事が……」 「──…………」 きゅ。 ジーンズの裾を軽く引っ張りながら、上目遣いでこちらを見上げる。 「しんぱい……」 「うっ」 かなりの破壊力だった。 「いやでも今日のぶんの仕事が終わらないと、明日のぶんに上乗せされるわけで」 「──…………」 「……病院、明日でいいですか?」 「うん」 明日のぶんの仕事を、すこし、今日のうちに終わらせておこう。 「明日までに治ってたら、行かなくていいよな」 「……うーん」 「なんなら来週行くから」 「わかった」 よし。 治れ、治れ、足治れ、いいから治れ、さっさと治れ!
2016年2月17日(水)
右足の痛みは治まったものの、うにゅほの押しに負けて、整形外科を受診することにした。 その結果、 「……なんか、よくわからなかったな」 「うん……」 「骨に異常はないし、筋を痛めたのでもないし」 「うん」 「そもそも、もう痛くない」 「うーん……」 「採血と採尿はしたけど、あれ、なに調べるんだろうな」 「さあー」 ふたり揃って小首をかしげる。 「まあ、ともかく──」 「わあ!」 その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてみせると、うにゅほが慌てて俺を制した。 「怪我じゃないってわかっただけ、よかったな」 「い、いたくない?」 「大丈夫、痛くないよ」 「すわって、すわって」 「はいはい」 チェアに腰を下ろすと、うにゅほが俺の右足を愛おしげに撫でた。 「むちゃしないでね」 「無茶ってほどじゃ……」 「しないでね」 「はい」 素直に頷く。 「あし、つめたい」 「冷え性だからな」 「あったかくしたら、いたくならないかな」 「どうだろう」 「くつしたはかないと」 「××もな」 「……うへー」 「笑って誤魔化さない」 「はい……」 うにゅほの靴下嫌いは筋金入りである。 「俺も履くから、××も履く」 「わかった……」 こんなことでもなければ、なかなか素直に靴下を履いてくれないのだ。 変なところで頑固なんだよなあ。 痛みの原因はよくわからなかったが、まあ、よしとしよう。 再発しませんように。
2016年2月18日(木)
「──……う」 枕元の携帯を布団のなかに引きずり込み、時刻を確認する。 午後二時半。 何度寝したかは覚えてないが、いくらなんでも寝過ぎである。 「……おはよう」 「あ、おきてだいじょぶ?」 「疲れが取れない……」 くらくらする。 頭が重い。 「──…………」 ちいさな手のひらが額に添えられる。 「ちょっとあつい」 「うん……」 「まだねてたほういいよ」 「いや、仕事が」 ぐ。 両肩を押されて布団に戻る。 「ねてなさい」 「でも」 「ねて」 「はい」 目が本気だ。 「……もう三十分だけ寝たら、仕事の続きやるよ」 「──…………」 「休んでも意味ないんだ。今日のぶんが明日に回されるだけだから……」 「かわりのひと、いないの?」 「いない」 大腸内視鏡検査の際に入院したときですら、病室で仕事をこなしていたくらいである。 ちょっと体調が悪い程度で仕事を休めるはずもない。 「うー……」 悔しげに下唇を噛むうにゅほの頭を撫で、目蓋を閉じた。 「三十分経ったら、起こして」 「……うん」 マットレスに溶けていくような浮遊感に身を任せ──
次に目を覚ましたのは、午後四時過ぎのことだった。 「××さん?」 「はい……」 「……いや、なんでもない。ありがとな」 おかげですこし疲れが取れた。 前倒しの仕事が重なるのは、明日までだ。 それが終わったら、うにゅほを連れて、買い物にでも出かけようと思う。
2016年2月19日(金)
時刻を確認する。 午前六時。 うにゅほの起床時刻である。 「──……う」 長い睫毛がかすかに動き、徐々に目蓋が開いていく。 「おはようございます」 「おは、う、ごあいます……」 くしくしと手の甲で目元をこすりながら、うにゅほが上体を起こす。 「……◯◯、ねれなかったの?」 「寝れなかったと言えば、寝れなかった」 「?」 小首をかしげる。 「パソコンが壊れた」 「え!」 「で、いま復旧作業中」 「なおるの?」 「わからない」 唐突なブルースクリーンと共に、DドライブのHDDが認識されなくなった。 Cドライブは生きているのでPC自体は起動するのだが、ほとんどのデータにアクセスできない状態である。 「……うと、だいじょぶ?」 「データ自体はサルベージすれば問題ないけど、いずれにしても買い換えだな」 「ぱそこんかうの?」 「もし直ったとしても、いつまた壊れるかわからない状態で使っていられないもの」 「そか……」 うにゅほが目を伏せる。 「……いくらくらいかかる?」 「グラボはいま使ってるのを乗せ換えるから、十二、三万ってところかな」 「むうー……」 「あと、もしものときのために、ノートパソコンも買っておこうかと思って」 「え!」 「最低限ネットに繋がってないと、仕事もなにもできないんだよ……」 「……おいくら?」 「安いのでも数万はするだろうから、トータルで二十万くらいになるかな……」 「に!」 うにゅほの背筋がピンと伸びる。 「にじゅうまん……」 口座残高に幾許かの余裕があるとは言え、手痛い出費であることに変わりはない。 「ごめんな、朝っぱらからこんな話して」 「……ううん」 ちいさく首を横に振る。 「ひつようだもんね……」 「ああ……」 午後九時現在、Dドライブの再認識には成功したものの、ブルースクリーンの恐怖からは逃れられていない。 早急にデータを退避し、新しいPCを組むべきだろう。
2016年2月20日(土)
「……はふー」 喫茶店でスフレパンケーキをつつきながら、うにゅほが溜め息をついた。 散財にはある種の快感が伴う。 しかし、その快感は、散財した当人のみが得るものだ。 「にじゅう、にまんえん……」 「ちょっと足が出てしまいました……」 ちいさく首を振りながら、うにゅほが口を開く。 「いいの」 「……本当に?」 「あたらしいのかうなら、いいやつのほう、いいもんね」 うへー、と苦笑を浮かべてみせる。 「──…………」 フレンチトーストをフォークで突き刺し、無言でうにゅほの口元へと運ぶ。 「?」 「あーん」 「あー」 ぱく。 「美味しい?」 「おいふい」 なでなで。 「どしたの?」 「なんか、甘やかしたくなって」 「……?」 うにゅほが不思議そうに小首をかしげる。 そういったところがいじらしいのだ。 「──よし、パンケーキもう一枚食うか!」 「そんなにたべれない……」 「なに注文してもいいぞ」 「あ、ここ、わたしはらうから」 「えっ」 「だって、これいじょう、◯◯におかねつかわせたくない……」 「……いえ、その、それはさすがにですね」 「わたしはらう」 「いくらなんでも」 「はらう」 「はい」 弱いぞ、俺。 情けないぞ、俺。 でも、不思議と嫌ではないのだった。 尻に敷かれるのも悪くないと思ってしまうのは、きっと相手がうにゅほだからだろうな。
2016年2月21日(日)
「ぬあー……!」 パソコンチェアの背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見る。 「なんか、久々に、休んでるって感じ……」 「しごと、たくさんだったもんね」 「ほんとな」 「しばらく、しごと、ない?」 「ないこたないけど、少なくはなる」 「よかったー……」 うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。 「ずっとあのままだったら、◯◯、しんじゃう」 「死なないってば」 「◯◯、かおいろ、すごいわるかった」 「……そうなの?」 「そう」 他ならぬうにゅほが言うのなら、そうなのだろう。 「でも、世の中には、もっと大変でもっと死にそうな人たちがたくさんいるんだぞー」 「ううん」 ふるふると首を横に振りながら、うにゅほが言う。 「そんなの、しらない」 「知らないって」 「◯◯がげんきなら、いい」 「──…………」 「?」 うにゅほを手招きする。 とてとてと近づいてきたうにゅほを軽く抱き締め、膝の上へと導いた。 「わ」 「ここにいなさい」 「はい」 素直である。 「はー……」 うにゅほを抱っこしていると、安らぐ。 「おもくない?」 「重くない」 「あったかい?」 「あったかい」 「わたしも、あったかい」 うへーと笑ううにゅほが愛おしくなって、抱き締める腕に力を込めた。
2016年2月22日(月)
「××」 「はい」 「今日はなんの日でしょう」 「うと……」 「カレンダーには書いていません」 「にがつ、にじゅうに?」 「そう」 「──…………」 「──……」 「……あ、ねこのひ!」 「思い出したか」 「にーにーにーで、にゃん、にゃん、にゃん」 「ストップ!」 「?」 「××は、今日、猫語でしか話してはいけません」 「ねこご」 「はい、スタート」 「……にゃ、にゃー?」 「──…………」 「にゃん、にゃーにゃー」 「あざとい……」 「にゃ?」 「××さん」 「にゃい」 「いまからこの指先を猫じゃらしと仮定します」 「?」 「振ります」 「にゃい」 「はい、じゃれて!」 「にゃ……」 「もっと猫っぽく!」 「にゃん!」 「獲物を狙うように!」 「にゃあ!」 「甘噛みして!」 「がぶ!」 「いてえ!」 「ごめんなさい!」 そんな感じで遊んでいたら、いつの間にか日が暮れていた。 来年もやろう。
2016年2月23日(火)
「──よし、仕事終わり!」 ぱん、と両手を打ち鳴らし、座椅子から立ち上がる。 「はやい!」 「先週頑張ったからな」 「がんばったかい、あったね」 「そうだな」 うにゅほの頭をぐりぐりと撫でる。 「うへー……」 幸せそうな笑顔に、こちらの頬まで緩んでしまう。 「ね、あそべる?」 「遊ぼうか」 「やた!」 「なにして遊びたい?」 「うと……」 困ったように小首をかしげる。 まあ、いきなり言われても困るよな。 「昨日は猫になったから、今日は犬にでもなってみるか?」 「いぬのひじゃないよ?」 「おすわり」 「!」 うにゅほが反射的に腰を下ろす。 「お手」 「わん」 「おかわり」 「わん」 「ノリノリじゃないか」 「わふん」 とくいげである。 「それにしても、違和感がないと言うか」 うにゅほの頬に手を添える。 「くーん」 「むにー」 「わふ、わふ」 「××、もともと犬っぽいからな」 「わふー」 「よし、おなかを撫でてやろう」 「わん!」 「うりうり」 「くふ、わふふふ……」 犬ごっこもたいへん楽しかった。 またやろう。
2016年2月24日(水)
「××、ストーブつけて」 「わん!」 ぴ。 「わんわん!」 「よしよし」 なでなで。 「わふー……」 手を止める。 「わん!」 「もっと撫でろと」 「わふ」 なでなで。 「くーん……」 何故だかよくわからないが、犬ごっこがたいそうお気に召したらしく、昨夜からずっとこんな調子である。 「お手」 「わん」 「おかわり」 「わん」 「よしよし」 「わふー……」 うにゅほの顎の下を掻いてやっていたとき、不意に視線を感じた。 「──…………」 弟が、扉の隙間からこちらを窺っていた。 「……兄ちゃん、とうとう」 「ご、誤解だ!」 「俺、ジャンプ置きに来ただけだから……」 「頼む、聞いてくれ!」 「わん?」 ここ数日の流れを弟に説明する。 「犬ごっこ、ねえ」 「そうそう」 「……それは、楽しいの?」 「××は楽しいらしい」 「わん」 頷く。 「せっかくなら、逆をやればいいのに」 「逆?」 「兄ちゃんが犬で、××が飼い主」 「──…………」 「──……」 うにゅほと顔を見合わせる。 「うと、おて……」 「わん」 うにゅほの手のひらに右手を乗せる。 「おかわり」 「わん」 左手に乗せ替える。 「──…………」 「──……」 「どう?」 「「しっくりこない」」 ハモった。 「──…………」 あ、弟が呆れてる。 「……まあ、楽しいならそれでいいんじゃないですかね」 「敬語やめて」 「わふー」 うにゅほが飽きるまで犬ごっこに付き合わされそうである。
2016年2月25日(木)
行きつけの喫茶店まで足を伸ばし、窯焼きスフレとフレンチトーストを注文した。 「悪いな、付き合わせちゃって」 「……?」 うにゅほが小首をかしげる。 「わるくないよ?」 「いや、いまからちょっと作業するからさ」 そう言って、カバンの中からあるものを取り出した。 「あ、ぽめら」 「そう、ポメラ」 誕生日プレゼントとしてうにゅほに買ってもらったデジタルメモである。 「こういうのを喫茶店で開くの、やってみたかったんだよ」 「かっこういいもんね」 「MacBookとかだともっとカッコいいと思うけど、そこまで行くと意識高いとか言われそうだしな」 「いしきたかい?」 「気にしなくていいよ」 「うん」 ポメラを開き、意味もなくエンターキーを連打する。 「さて、なにを書こうかな……」 「なにかくの?」 「企画書の草案とか、今後の戦略とか、シナリオの調整とか、書くべきことはいろいろある」 「おー」 「すこし集中したいから、フレンチトースト食べててくれな」 「うん」 「スフレも、届いたら味見してていいから」 「うん」 アイスコーヒーを飲みながら三十分ほどポメラとにらめっこしていると、うにゅほが隣の席に移動してきた。 「ごめん、暇だったか」 「よんでいい?」 「いいけど、メモ書き程度だし、面白くないと思うぞ」 ポメラの画面をうにゅほに譲り、すっかり冷えてしまったスフレを口に運ぶ。 「冷めても美味いなあ」 甘すぎて、すぐ飽きるけど。 「スフレ食べたら、ヨドバシ行こうか」 「かうものあるの?」 「ないけど、電器屋さん好きだろ?」 「すき」 うへーと笑う。 短時間だが、それなりに集中することができた。 喫茶店の雰囲気って、偉大だ。
2016年2月26日(金)
買いそびれていたノートパソコン用のマウスを購入するため、近場のヤマダ電機を訪れた。 「わー……」 ずらりと並べられた見本品の数に、うにゅほが感嘆の声を上げる。 「たくさんあるねえ」 「八割くらいBUFFALOとELECOMだけどな」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「××は、どれがいいと思う?」 「わたし?」 「ああ」 「うーと……」 しばし真剣に悩んだのち、 「これ」 赤と黒を基調とした大きめのマウスを指さした。 「カッコいいけど、ちょっとでかくないか?」 「◯◯のまうす、こんなかんじだった」 「そうだな」 「うん」 「──…………」 「──……」 「あれ、言ってなかったっけ」 「なにー?」 「新しく買ったノートパソコン、××用にしようかって」 「え!」 ぱちくり。 「俺は緊急時に使えればいいし、普段から腐らせとくのはもったいないだろ」 「うーん……」 あ、困ってる。 「好きな動画とか、好きなときに見れるぞ」 「ひとりでみてもおもしくない……」 「母さんがやってるパズルゲームとか、自由にできるぞ」 「おかあさんのぱそこんでやる……」 「だよなー」 実を言うと、この反応は予想済みである。 良きにつけ悪しきにつけ、うにゅほは変化を好まない。 「まあ、するしないは別にして、いつでもできるようにはしておくよ」 「うん……」 「マウスも、小さめのにしておこう」 「うん」 うにゅほがノートパソコンを使いこなす姿は、どうにも想像できないけれど。
2016年2月27日(土)
「──よし、セットアップ終わり!」 座椅子の背もたれに体重を預け、思いきり伸びをする。 「ブラウザ入れた、メーラー入れた、ウィルス対策も万全だ」 「うん……」 「さて、電源落とすか」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「わたし、ぱそこん、つかわなくていいの?」 「使いたいの?」 「ううん」 ふるふると首を横に振る。 「このノートパソコンは××用にするって言ったけど、使えとは言ってないぞ」 「……?」 反対側に首をかしげる。 「使っても、使わなくても、どっちでもいいってこと」 「いいの?」 「だって、興味ないだろう?」 「うん……」 「興味ないのに、無理やり使わせないよ」 「──…………」 「そもそもこれは、緊急時のために買ったもので──」 ぎゅ。 俺の右手に、手のひらが重ねられた。 右手の下には、マウスがある。 「ちょ、ちょっとだけ、つかってみる……」 「? いいけど」 気が変わったらしい。 「じゃ、パソコンつけてから、Yahoo!ゲームまで行く方法を教えましょう」 「はい」 座椅子を譲ろうと腰を上げかけたとき、 「うしょ」 と、うにゅほが膝に乗ってきた。 「うへー……」 「画面見にくいから、ちょっとだけ左にずれてくれるか」 「はーい」 そんなこんなで、すこしだけ、パソコンの使い方を教えることになった。 キーボード打てるようになるかなあ。 先に心が折れる気がする。
2016年2月28日(日)
「はー……」 うにゅほが感嘆の息を漏らす。 「あたらしいぱそこん、おおきいねえ」 「そうだな」 「まえのぱそこんより、おおきい?」 「すこしだけな」 「はこ、もっとおおきい!」 「××、入れるんじゃないか?」 「はいれるかな」 「ほら、体育座りしたら──」 すっぽり。 「おお、入った」 「ふたとじてー」 「はいはい」 ダンボール箱のフタを閉じる。 「くふ、ふふふ……」 箱が笑っている。 怖い。 「よし、クロネコヤマトを呼ぼう」 「やめてー!」 「──…………」 ふ、と既視感。 「……前にパソコン買い換えたときも、同じことやらなかったっけ」 ダンボール箱から顔だけ覗かせたうにゅほが、小首をかしげる。 「そだっけ」 やった。※1 「まえ、まえ──」 歌うように呟いていたうにゅほの表情が、 「……あっ」 不意に、曇った。 「◯◯、データいこう、するの?」 「しないと使えないからな」 「……まえみたいに、てつや、するの?」 「──…………」 遠慮がちにこちらを見上げるうにゅほの頭に手を乗せる。 「しない」 「……ほんと?」 「しないと言うか、できない。作業が立て込み過ぎてて、丸一日なんて、とても割けない」 「──…………」 「だから、最低限の体裁を整えたら、あとは一週間くらいかけてゆっくり移行していくつもりだよ」 「……それ、だいじょぶなの?」 「徹夜よりはいいだろ」 「そだけど……」 「疲れたら休むし、無理はしないよ」 「ほんと?」 「俺は、嘘はつかない」 「たまにつく」 「たまにしかつかない」 「いま、たまにじゃない?」 「たまにじゃない」 「わかった」 「心配してくれて、ありがとうな」 「うん」 うにゅほのために、無理はしない。 泣き顔なんて見たくない。 俺にとって、ずっと笑顔でいてほしい子なのだから。
※1 2013年4月27日(土)参照
2016年2月29日(月)
PCを二台、同時起動して、環境の移行を行っている。 「こういうとき、トリプルディスプレイにしといてよかったって思うな」 「したふたつ、あたらしいぱそこん?」 「そうだよ」 「うえが、ふるいぱそこん」 「そうそう」 うにゅほが小首をかしげる。 「なにちがうの?」 「うーん……」 壁紙まで同じにしてしまったので、当然と言えば当然の疑問である。 「できることは基本的に同じなんだ」 「そうなんだ」 「iPhoneを買い換えたとき、動作が軽くなったろ」 「うん」 「つまり、そういうこと」 「なるほど……」 うんうんと頷く。 「それに、古いほうのパソコンは、動作が不安定になってたからな……」 「なおせなかったの?」 「直せたよ」 「なおせたの!」 「悪いところはわかってたから、そこを取り換えれば済む」 「え、なんで……」 「その悪いところっていうのが、HDDっていう、データの入ってるところでさ」 「うん」 「新しくしたら、どうなると思う?」 「……うと、データなくなる?」 「実際には、外付けHDDにデータをバックアップするんだけど、こうして二台並べて作業できないから、けっこう手間なんだ」 「ふうん……」 「あと、壊れるときって、他のパーツも連動して故障することが多くてさ」 「うん」 「そう考えると、新しく買ったほうがいいかなって」 「そだねえ……」 納得していただけたようだ。 「あと、完全に壊れたら、売値が安くなるってのもある」 「ふるいぱそこん、うるの?」 「ああ」 「うれるの?」 「四、五万にはなると思う」 たぶん。 「やた!」 「貯金の足しにしましょう」 「はーい」 俺専用の会計士は、とても頼りになるのだ。 |