2016年1月1日(金)
「メリーお正月!」 「あけ、ま、めりー?」 「お年玉をあげましょう」 「ありがとうございます」 懐からぽち袋を取り出すと、うにゅほが恭しく受け取った。 「父さん母さんから貰ったか?」 「うん」 「弟からは?」 「もらった」 「よかったな」 「うん!」 うにゅほがにこやかに頷く。 「これで、◯◯のたんじょうびプレゼント、かえる」 「もう決まってるのか?」 「ううん」 ふるふると首を横に振る。 「まだきまってない……」 「あのさ」 「?」 「毎年いいものくれるけど、もっと安物でもいいんだからな?」 去年は腕時計。 一昨年は長財布。 いずれも五桁は下らない品だ。 「でも、◯◯のたんじょうびだから……」 「××のお年玉なんだから、自分のものを買ったっていいんだぞ」 「ほしいの、あんましない」 「だったら貯金しておくとか」 「ちょきん、してるよ?」 「そうだな……」 これでいて、けっこう貯め込んでいるのだ。 「とにかく、そんな高いものじゃなくていいから」 「わかった」 こくりと頷く。 本当にわかってるのかなあ。 「ほしいのあったら、おしえてね」 「ないことはないけど……」 「じゃ、それかう」 「いや、二万円はするやつだし」 「いいよ?」 「わかってない!」 「?」 小首をかしげる。 「いや、嬉しいんだぞ。本当に嬉しいんだけどさ」 「うん」 「……誕生日プレゼントについては、すこし話し合おうか」 「わかった」 年下の異性からプレゼントを貰うというのも、なかなか難しいものだ。
2016年1月2日(土)
母方の実家へ泊まりがけで新年の挨拶に行く予定だったが、体調を崩してしまった。 「それじゃ、戸締まりしっかりね」 「はいはい」 「ほら、××も行くよ」 「──…………」 ぶんむくれたうにゅほが、母親の手に抵抗する。 「わたしものこる」 「駄目だって言ったでしょうに……」 母親が深々と溜め息をついた。 「年頃の男女をふたり家に残したら、変な勘繰りされるでしょう?」 「いまさらとおもう」 「私たちにとっては今更でも、親戚にとっては違うの」 「でも、◯◯、かぜひいてる……」 ふたりが俺を一瞥する。 「……俺は、ほら、軽い風邪だから。咳が止まらないくらいで」 「なら、いっしょに」 「でも──ごほっ、向こうには、赤ちゃんがいるだろ」 「──…………」 その意味がわからないうにゅほではない。 「ごめんな、一緒に行けなくて」 「……うー」 うにゅほが肩を落とす。 諦めたのだ。 「お年玉、たくさん貰っといで」 「……うん」 「寂しくなったら電話すればいいから」 「いいの?」 「駄目なわけないだろ」 「わかった」 「行ってらっしゃい」 「……いってきます」 胸の前でちいさく手を振って、うにゅほが玄関を後にする。 自室へ戻ろうと踵を返したとき、携帯が鳴った。 母親の番号だった。 「もしもし」 「……うへー」 早速か。 「いまね、こうそくにね、むかってるとこ」 「雨降ってるから道ひどいだろ」 「うん、がたがた」 そんな調子で、事あるごとに、電話が掛かってくるのだった。 家族間通話無料でよかった。
2016年1月3日(日)
「ただいまー!」 「おかえ──おっと」 胸に飛び込んできたうにゅほを抱きとめる。 「うへー」 すりすり。 ほんと、犬っぽい子だなあ。 「おかえり」 「ただいまあ……」 「お年玉、いっぱい貰ってきたか?」 「うと、いちまんななせんえん」 「……金額は言わなくていいんだけど」 「?」 小首をかしげる。 「◯◯のたんじょうびプレゼント、にまんえんのやつ、かえるよ」 「いや、もっと安いのでいいから」 「おばさん、プレゼントのたしにしなさいっていってた」 「うーん……」 なんと言えば納得してもらえるのだろう。 「二万円全額は、さすがに気が引ける」 「どうして?」 「どうしても」 論理的な説明を諦めた。 「だから、半額──一万円だけ出してくれないか?」 「えー……」 うにゅほがぶーたれる。 「◯◯のおかねつかったら、かけいぼのししゅつふえる……」 家計簿アプリの管理をしているのは、うにゅほである。 「いや、××のお金が減るだろ」 「わたしのおかねつかっても、ししゅつふえない」 「──…………」 あ、なんかわかってきたぞ。 「××は、もっと、自分のお金を大切にしたほうがいいと思う」 「してるよ?」 「どうかな……」 これは、なかなか根深い問題かもしれない。
2016年1月4日(月)
「──…………」 「あけないの?」 「いや、開けるけど……」 恒例、友人の恋人によるおみやげという名の一発ネタである。 「今回は食べものらしい」 「たべもの」 絶対にろくなものではないけれど、開けないわけにも行くまい。 「──よし!」 気合を入れて、ビニール袋を開く。 「きゃらめるだ」 「鮭&鰹キャラメル……」 食べなくてもわかる。 確実に生臭い。 「◯◯、へんなきゃらめる、きらいなんだよね」※1 「わざとマズく作ったものは、どうもな」 食べもので遊ぶことが悪いとは言わないが、意味のある行為とも思わない。 所詮、ジンギスカンキャラメルのn番煎じだ。 オリジナリティの欠片もない。 「……××、食べる?」 「たべない」 「俺も食べない」 「うん」 捨てよう。 「あ」 うにゅほが袋を覗き込む。 「もひとつはいってる」 「入ってるな」 「きゃらめる?」 「キャラメルじゃないっぽい」 大きさのわりにずしりと重いのが、嫌な想像を掻き立てる。 取り出すと、どうやら海外のお菓子のようだった。 可愛らしい黒猫のイラストがパッケージにプリントされている。 「あめ?」 「黒い飴──いや、グミかな」 「なんかみたことある……」 「あるな……」 俺とうにゅほの視線が、サルミアッキの安置場所へと向かう。 「原材料は──」 リコリスエキス。 「はい、アウトー!」 「……あのまずいあめ?」 「いや、いちおう、砂糖とかブラウンシュガーとかが入ってるから、サルミアッキよりはマシっぽい」 「◯◯、たべる?」 「──…………」 首を横に振る。 だって、200gも入ってるんだもの。 「そのうち、うん、食べるかも。そのうち……」 「わたし、いらない……」 「それがいい」 賞味期限は長いようだから、勇気が出たら開封しよう。
※1 2015年5月14日(木)参照
2016年1月5日(火)
「思ったほど混んでないな」 「うん」 初売りも過ぎたためか、ヨドバシカメラ札幌は普段通りの混雑具合だった。 「◯◯のほしいの、どこ?」 「たぶん、電子文具のコーナーだと──あった!」 エスカレーターを下りた先で、至極あっさりと見つかった。 「どれ?」 「これ」 「ぽめら……」 ポメラ。 キングジムが製造販売するデジタルメモである。 「これ、なにができるの?」 「メモができる」 「ほかには?」 「メモしかできない」 「あいふぉんじゃだめなの?」 「iPhoneにはキーボードついてないし、ゲームとかできるから気が散るだろ」 「あー」 うんうんと頷く。 「ぽめら、メモしかできないから、きがちらない?」 「そういうこと」 実機があったので、軽くタイプしてみる。 「ちょっと大きいけど、悪くないな」 「にまんさんぜんえんかー」 「価格.comだと22,000円だったから、あんまり変わらないな」 「たんじょうび、ちょっとはやいけど、いまかう?」 「いや、今日は財布にお金入れてこなかったから──」 「──…………」 す。 うにゅほがショルダーバッグから財布を取り出した。 「おかねあるよ」 「いや」 「さんまんえんあるよ」 にこー。 満面の笑み。 「あまぞん、じかんかかるよ?」 「──…………」 「いまかったら、すぐつかえるよ?」 「う」 しばしおろおろと挙動不審な動きをしたあと、心を決めた。 「……せめて端数は出させてください」 「うん」 お買い上げである。 「ほんと、なんつーか、ありがとうな……」 ありがたいやら情けないやら。 「ほしいもの、ほかにもあったら、いってね」 「ないです!」 「そか」 ポメラ、とてもいいです。 大切に使います。
2016年1月6日(水)
「あ」 掃除機を掛けていたうにゅほが、ファンヒーターの裏側からあるものを拾い上げた。 「あいぱっどだ」 「本当だ」 正確には、iPad mini 3である。 そんなところにあったのか。 「がめんつかないよ」 「電池切れたんだろうなあ」 「さいごにつかったの、いつだっけ」 「覚えてない……」 すくなくとも一ヶ月以上前であることは確かだ。 「◯◯、もう、ゲームしないの?」 「うーん……」 モバマスもデレマスもグラブルも、半端に手を出して、すぐにやめてしまった。 「××こそ、なめこはもういいのか?」 「うん……」 さすがに飽きてしまったらしい。 むしろ、よく三年も続いたよな。 「そもそも、半端に大きくて、持ち歩きづらいんだよ」 「うん」 「iPadでできることって、たいていiPhoneでもできるし」 「うん」 「電子書籍を読むだけなら、Paperwhiteがあるし」 「うん」 「……あれ、なんでiPad買ったんだ?」 「わかんない」 ふるふると首を横に振る。 「××、なんかゲームとかやりたくない?」 「たたかうの、あんましすきくない」 「戦わないやつは?」 「どんなの?」 「デレマスとか」 「アイドルのやつ?」 「そう」 「わたし、おんがくのゲームのやつ、にがて……」 「パズルゲームとか」 「おかあさんやってるやつ?」 「そう」 「たまに、おかあさんに、やらしてもらってるから」 「自分では?」 「うーん」 小首をかしげる。 「もったいないよなあ」 「うん」 なにか、良い使い道はないだろうか。
2016年1月7日(木)
「はー、いい湯だった……」 冷蔵庫から取り出したペプシで、ほこほこした体を内側から冷やす。 「◯◯、かお、なんかついてるよ?」 「顔?」 指先で頬を拭う。 「取れた?」 「とれない」 姿見を覗き込むと、正体がわかった。 「これ、血だ」 「ち!」 「風呂場でヒゲ剃ったとき、けっこう出てたもんなあ」 「オロナインぬるから、すわって!」 そこまで慌てることじゃないと思うけど。 「ぬりますよー」 「はいはい」 ぬりぬり。 「きーつけてね?」 「ああ」 「◯◯、ひげそるの、へたっぴいなんだから」 「……そんなに下手かなあ」 「ここ」 「うひ」 うにゅほの指先がアゴの下を撫でる。 「ここ、それてない」 「マジか……」 血が出るくらい剃ったのに、剃り残しがあるのか。 「──……」 「──…………」 「♪~」 「……××さん、なんで人のほっぺた揉んでるの?」 「もちもちしてる」 剃りたてだからなあ。 「じゃ、こっちも」 「にう」 うにゅほのほっぺたを両手でむにむにする。 「ふへへ」 「はっはっは」
もちもち、 むにむに、 もちもち、 むにむに──
ふと気づくと、五分ほど経過していた。 ほっぺた。 それは、時間泥棒である。
2016年1月8日(金)
「──…………」 窓際に膝をついたうにゅほが、じっと空を見上げている。 天気は快晴。 ごきげんな一日だ。 「ゆき、ふらないねえ……」 「そういえば、しばらく降ってないな」 「ゆきかき、してないねえ……」 「する必要ないからなあ」 少々の積雪であれば、父親が除雪機で吹き飛ばしてしまうし。 「うー……」 不満そうである。 しかし、雪がなければどうしようもない。 「冬は長いんだから、いくらでも機会はあるって」 「ほんと?」 「保証はできないけど」 「……うー」 唸られても。 「えーと、要するに、共同作業ができればいいんだよな?」 「ゆきかき」 「雪かきは無理」 「うん……」 「だから、代わりになんかやろう。ふたりでさ」 「なにするの?」 「──…………」 「──……」 「ごめん、思いつかない」 「うー!」 「いま思いつくから!」 しばし思案し、 「掃除とか」 「そうじき、もうかけた」 「料理……」 「ばんごはん、まだだよ」 「洗濯物は?」 「たたんだ」 ほんと、家事万能だなあ。 「……ストレッチでもしようか」 「すとれっち?」 うにゅほが小首をかしげる。 「最近してなかったから、また前屈できなくなってるんじゃないか?」 「う」 うにゅほは前屈限定で体が固い。 他の部分は猫のように柔らかいくせに、不思議である。 「背中、押してやるからさ」 「うん……」 「んで、終わったら俺の背中押してくれ」 「わかった」 ふたりでしばらくストレッチをしていると、体がぽかぽかしてきた。 雪かきはできなかったが、冬場に体を動かすのも悪くない。
2016年1月9日(土)
ポメラの液晶画面とにらめっこしていると、うにゅほが手元を覗き込んだ。 「……ぽめら、いい?」 「すごくいい」 「うへー……」 お世辞ではなく、本当に使い勝手がいい。 iPhoneのフリック入力が苦手な身としては、これ以上ないメモツールだ。 「なにかいてたの?」 「いまは、日記のネタかな」 「ねた」 「今日起きたことを、忘れないうちにメモっとこうと思って」 「きょう、なにあったっけ」 「ほら、仕事用のテーブルと俺の半纏で、ニセコタツ作ったろ」 「うん」 「××、コタツに突っ伏して、すこしうとうとしてたろ」 「……うん」 「起きたら腰痛くなってて、俺に揉んでって──」 「わ、わう!」 ぱたん。 うにゅほがポメラを折りたたむ。 「そんなのかかなくていいの!」 「恥ずかしい?」 「はうかしい……」 「大丈夫、可愛い可愛い」 「う」 うにゅほが自分のほっぺたを両手で包む。 照れているらしい。 「あと──」 「あと?」 「いや、なんでもない」 「?」 小首をかしげる。 もっと恥ずかしいことを全世界に向けて赤裸々に公開しているだなんて、言ったら怒られるかもしれないし。 「ほかには、なにかいてるの?」 「ちょっとしたメモとか、小説のアイディアとかかな」 「へえー」 ポメラDM100、キングジムより絶賛発売中。 宣伝したから小銭くれないかな。
2016年1月10日(日)
「おひるごはん、なにがいい?」 「春雨スープでいいよ」 ダイエット中である。 「じゃ、わたしもはるさめ」 「俺に付き合ってたら、余計に痩せっぽちになるぞ」 「うと……」 うにゅほが小首をかしげる。 「◯◯、ふとってるのと、やせてるの、どっちすき?」 「痩せてるほう」 「はるさめたべる」 「でも、痩せすぎはよくない」 「う」 「春雨でもいいけど、ごはんも食べなさい」 「はい」 素直でよろしい。 「◯◯、なにあじがいい?」 「担々麺ある?」 「ある」 「じゃ、それで」 「わかった」 「××は?」 「うーと、ちゅうかしょうゆ……」 「ひとくち」 「わたしも、ひとくち」 「はいはい」 マグカップにお湯を入れて、三分待つ。 「たんたんって、なに?」 「……さあー」 「からいっていみ?」 「中国語の辛いは、日本と同じ辛(シン)だった気がする」 「おなじなんだ」 「漢字文化は大陸から伝播してきたものだからな」 「ふうん」 「ほら、ひとくち食べるか?」 「うん」 うにゅほが担々麺味の春雨をひとくちすする。 「か!」 「か?」 「からいー……」 そんなに辛いかなあ。 「ほら、ごはん食え食え」 「うー」 辛味は、味ではなく、痛みだ。 うにゅほは味蕾が人より敏感なのかもしれない。 「醤油味にしてよかったな」 「うん……」 担々麺味は俺が食べ尽くしておこう。
2016年1月11日(月)
「──ふぬ、ぬ、ぬ……」 手のひらを天にかざし、長時間の作業で凝り固まった背筋を伸ばす。 その瞬間だった。 ぴき。 「あっ」 腰から嫌な音がした。 正確には音ではない。 しかし、音として知覚された。 「──…………」 背筋を伸ばした状態のまま動けないでいると、 「?」 うにゅほが俺の様子に気づいた。 「どしたの?」 「その瞬間はもう過ぎ去っていて、取り返しがつかない……」 「……?」 小首をかしげる。 「わかるんだ」 「なにが?」 「……いま動くと、腰がピキーンてなる」 「え!」 油断していた。 ここ一年ほどは痛めることがなかったとは言え、爆弾を抱えていることに変わりはなかったのに。 「こ、こしもむ」 「ありがとう。まず、無事にベッドまで辿り着いてから……」 「わかった」 伸ばしていた腕を徐々に下ろしていき、肘掛けに手を掛ける。 「……××、ちょっとチェア引いてくれ」 「うん」 「ゆっくり」 「うん」 前傾姿勢になり、そのまま立ち上がる。 「……だいじょぶ?」 「とりあえず、ベッドまでは──」 右の爪先を差し出したとき、 「──が!」 腰に激痛が走った。 「◯◯!」 「……××、ちょっと肩貸して」 「うん!」 「あと、腰揉んで……」 「わかった!」 マットレスの上でうつ伏せになり、うにゅほのふわふわマッサージを受けていると、徐々に痛みが和らいできた。 「……だいじょぶ?」 「大丈夫、大丈夫……」 気をつけよう。 たったひとつの腰なのだから。
2016年1月12日(火)
「はー、食った食った……」 マットレスの上でごろんと横になり、天井を見上げながら深呼吸する。 「おなか、ぽん、ぽん」 「叩くなー」 「◯◯、たべすぎ」 「普段から節制してるんだから、誕生日くらいいいだろ?」 「いきなり、からだにわるいよ」 「まあ、うん……」 反論できない。 「たんじょうび、おめでとね」 「何回目だよ」 「さんかいめ」 「ありがとさん」 「……さんかいめだから?」 「いや、そういうつもりじゃなかったんだけど……」 「ありがとさん、ありがとさん」 ぽんぽん。 「叩くなー」 なでなで。 「撫でるなら、よし」 「あんなにたべたのに、あんましでてないね」 「腹?」 「うん」 「食べたって言っても、まだ満腹じゃないしなあ」 「え」 「たぶん──」 腹具合を確認する。 「たぶん、あとケーキ二切れくらいは入る」 「すごい」 「そうかな」 「すごいけど、たべすぎ……」 「食べ過ぎだと思うから、食べてないんだろ」 「あ、そっか」 「いまケーキ食べちゃったら、明日の楽しみがなくなるし」 「わたしの、はんぶん、たべていいよ」 苦笑する。 「どんだけ食いしん坊なんだ、俺は」 「くいしんぼうじゃないの?」 「……え、そんな食いしん坊に見えてる?」 「たまに……」 「たとえ食いしん坊だとしても、××のぶんまで取らないよ……」 「でも、たんじょうびだから」 「誕生日だとしても、人のものまで食べません」 「そかー」 「そうです」 というわけで、またひとつ年齢を重ねてしまった。 あんまり嬉しくないけれど、祝ってくれる人がいることは、素直に喜ぶべきなのだろう。
2016年1月13日(水)
──ピー!
耳慣れた電子音が室内に響く。 「灯油切れた……」 まだ部屋が暖まりきっていないのに。 「さむ」 思わず自分を掻き抱く。 灯油を入れに玄関まで行くのは面倒くさい。 「××」 「?」 「寒い」 「うん」 「さあカモン」 うにゅほに向けて両手を広げる。 「──…………」 あれ、来ない。 「……わたし、ストーブのかわり?」 「そういうわけじゃないけど……」 「ストーブとわたし、どっちがいいの!」 「──…………」 まさか、ストーブとうにゅほを比較する日が来るとは思わなかった。 「そりゃ、××だけど」 「……うへー」 一瞬で機嫌が直った。 それでいいのか。 「だっこして」 「はいはい」 うにゅほを膝に乗せ、抱き締める。 「ストーブは抱っこできないからな」 「うん」 「柔らかくないし」 「うん」 「いい匂いしないし」 「……うん」 「可愛くないし」 「──…………」 「家事できないし」 「も、も、いい。はずかしい、はずかしい」 うにゅほが両手をパタパタと振る。 褒められるのに弱いのだ。 「ま、ストーブは部屋を暖めることしかできないからな。その分野は譲ってあげてくれ」 「……わかった」 なんとも慎ましやかなやきもちである。
2016年1月14日(木)
「……?」 なんだか頭がふらふらする。 体調も悪くないのにおかしいなあ、と思っていると、本棚からカタカタと音がした。 地震だ。 「わ、わ、ゆれ、う!」 「落ち着け」 右腕にすがりついてきたうにゅほを胸に掻き抱き、様子を見る。 「──…………」 「……まだゆれてる?」 「静かに」 しばらくして、先程より大きな揺れが我が家を襲った。 「わう!」 「大丈夫、震源地は遠いみたいだ」 震度も3か4程度だろう。 「……なんでわかるの?」 「初期微動が長かったから」 「しょきびどう」 揺れが収まっていくにつれ、うにゅほも落ち着きを取り戻していく。 「雷と同じだよ。光が先に来て、後から音が来る。その時間差で距離が割り出せる」 「──……?」 「もう怖くないか」 「うん」 混乱した人を落ち着かせるためには、よくわからない話をすればいい。 聞く耳を持った相手に対しては、それなりに有効な方法だ。 「おさらとか、だいじょぶかな……」 「確認してこよう」 「うん」 今回の地震における被害は、どうやらゼロのようだった。 「よかったー……」 「そうだな」 テレビをつけて、地震速報を確認する。 「あー、やっぱ震度4あったか」 「おっきかったもんね」 「震源地は浦河沖だから、やっぱけっこう遠かったみたい」 「そうなんだ」 「すごいだろ」 「なにが?」 「──…………」 「……あ、しょきびどう!」 「そうそう」 「◯◯、すごいね」 「──…………」 あんまり嬉しくないのだった。
2016年1月15日(金)
「──…………」 「♪」 目を覚ますと、満面笑顔のうにゅほが俺の顔を覗き込んでいた。 「おはようございます!」 「……おはよう?」 「ゆき!」 上体を起こし、カーテンを開く。 「雪だ……」 「ゆき、つもってる」 「雪かきしないとなあ」 「うん!」 ふんす! うにゅほの鼻息が荒い。 今季初の雪かきに、テンションが上がりまくっているらしい。 寝間着の上からツナギを着込み、長靴を穿いて外へ出る。 「うお、マジで積もってる……」 「ゆきかきがい、あるね!」 「粉雪だから、軽いのだけが救いだな」 俺がジョンバで集めた雪を、うにゅほがダンプで運んでいく。 音のない世界。 ツナギが擦れる音と、相手の息遣いだけが聞こえてくる。 「××、楽しいかー」 「たのしい!」 「そっか」 ならよかった。 うにゅほが楽しいなら、俺も楽しい。 体を動かすのも久し振りだ。 なかば自動的な作業に身を任せるうち、気がつくと運ぶ雪がなくなっていた。 「おわったー!」 「お疲れ」 「おつかれさま!」 心地よい疲れ。 開放感。 雪かきも、そう悪くない。 そう思えるのは、 「うへー」 心の底から楽しそうに笑ううにゅほが、すぐ隣にいるからだろう。
2016年1月16日(土)
唇の荒れがひどいので、指に取って塗るタイプのリップクリームを購入した。 「これ、のりみたいんじゃないね」 「リップスティックか?」 「そう」 「……あれ、不衛生じゃないか?」 唇に塗って、そのまま仕舞うのだ。 雑菌が死ぬほど繁殖していてもおかしくない。 「口紅って、どうなんだろう」 「くちべに?」 「あれ、リップスティックと同じ仕組みだろ」 「うん」 「──…………」 「──……」 「どうなの?」 「?」 「いや、口紅って不衛生じゃないの?」 「……?」 「──…………」 「あ、わたし?」 「他に誰がいるんだよ」 「だって、わたし、くちべにとかよくわかんない……」 「ふたつくらい持ってたろ」 「うん」 「塗り方、習ってたじゃん」 「うん」 「忘れたか……」 「わすれた」 誤魔化すように、うへーと笑う。 うにゅほが化粧をしているところなんて、ここ数年は見てないもんな。 「あ、クリームぬっていい?」 「えー……」 「だめ?」 「いや、さすがに、唇に触られるのは恥ずかしいというか」 「ちょっとだけだから」 「うーん」 「やさしくするから」 お前はエロ親父か。 「……ま、いいや。塗ってくれ」 「うん!」 うにゅほの細い指でリップクリームを塗られるのは、なかなか新鮮な体験だった。
2016年1月17日(日)
「はー……」 吐息であたためた手のひらを、強く、強く、こすり合わせる。 「さむいねえ……」 キンと冷えた空気が自室に満ちている。 「寒いというか、手が冷たい……」 リビングでテレビを見ていただけで、あっという間にこの室温だ。 「そろそろ大寒だっけか」 「だいかん?」 「寒さがいちばん厳しい時期のことだよ」 具体的には1月20日前後である。 「へえー」 うんうんと頷く。 「さむいはずだねえ……」 はー。 すりすり。 はー。 すりすり。 「××」 「?」 「ちょっと首筋貸して」 「くびすじ?」 「いや、手が冷たいから……」 「いいよ」 いいのかよ。 「じゃ、遠慮なく」 す。 うにゅほの首筋に手を這わせる。 「うひ」 「あったかい……」 「ちべたい!」 くすぐったそうに、うししと笑う。 「◯◯のくび、かして」 「はいはい」 うにゅほのちいさな手が、恐る恐る首根に回される。 「──…………」 「──……」 顔が近い。 「……ちょっと恥ずかしいな、これ」 「そかな」 あまり気にならないらしい。 「あったかー……」 ほにゃりとしたうにゅほの笑顔に、まあいいかと流される俺なのだった。
2016年1月18日(月)
ふと視線を上げたとき、気がついた。 「……あれ?」 「どしたの?」 「上のディスプレイ、電源落ちてる」 「ほんとだ」 「いつから切れてたんだろ」 PCを操作していたにも関わらず、気づくのが遅れたのには、明白な理由がある。 「……画面がみっつあっても、あんまり意味ないな」 「うん」 トリプルディスプレイにしてから九ヶ月ほど経つが、正直なところ、持て余していたと言っていい。※1 人間の視野には限界があるのだ。 「つかない」 「こわれた?」 「壊れたかも……」 電源ボタンをいじっても、コードを抜き差ししても、PCを再起動しても、うんともすんとも言わない。 「……まあ、いいか」 「いいの?」 「しばらくデュアルで使ってみて、やっぱり不便だったら考える」 「ふうん……」 あまり興味がなさそうだ。 そりゃそうか。 「はっかー、もう、できないねえ」 「……前も言ったと思うけど、ディスプレイ増えたからってハッカーになれるわけじゃないからな?」 「そなの?」 「そもそも、ハッカーって、なにする人だと思ってるんだ」 「うと──」 しばし思案し、 「……わるいこと?」 「悪いことしてると思ってたの?」 「ううん」 ふるふると首を横に振る。 「いい、わるいこと」 なんだそりゃ。 「君の同居人は、いいことも悪いこともしてません」 「いいことも?」 「いいことも」 「なにしてるの?」 「なにって言われても……」 困る。 「趣味もあるし、実益もあるし、仕事もあるし、遊ぶこともあるし」 「いろいろあるねえ」 「……とりあえず、一緒に動画でも見るか?」 「うん」 「ほら乗れ」 ぽんぽんと膝を叩く。 「しつれいします」 膝の上のうにゅほを抱き締めながら、ディスクトレイに入りっぱなしだった水曜どうでしょうのDVDを再生した。 うにゅほはonちゃんが好きである。
※1 2015年4月25日(土)参照
2016年1月19日(火)
「……ゔ―」 俺の膝に乗ったうにゅほが苦しげにうめいている。 「もっとつよくなでて……」 「はいはい」 腹巻きの上からうにゅほのおなかを撫でる。 熱い。 しっとりしている。 「もっとゆっくりなでて……」 「はいはい」 女の子は大変だなあ。 心底そう思う。 うにゅほの場合は、初日がピークで、二日目以降は楽になっていくらしい。 「今日さえ乗り越えればな」 「うん……」 その先にあるものを凝視するかのように天井を見上げ、うにゅほが口を開いた。 「ゆき」 「うん?」 「ゆき、つもってる?」 「すこしな。でも、父さんひとりで済む程度だよ」 「そか……」 「雪かきだけどさ」 「うん」 「終わるまで駄目だからな」 「えー……」 「××、俺が風邪引いてたら、雪かきさせるか?」 「かぜじゃないもん……」 「でも、つらいだろ」 「──…………」 表情は見えないが、ぶーたれているのが気配でわかる。 しかし、うにゅほだって分別のつく年齢だ。 俺の言うことだってちゃんとわかっているし、物の道理も弁えている。 「……かわりに、おなかなでてくれる?」 「いま撫でてるけど」 「ずっと」 「はいはい」 もとよりそのつもりである。 つらいときのほうが、よく甘えてくれる。 嬉しいけど、複雑だ。
2016年1月20日(水)
「……ゔ―」 ず。 鼻をすする。 また風邪を引いてしまった。 「ほら、ねてねて」 「はい……」 「しょくよく、ある?」 「ない……」 「たべないとだめだよ」 「はい……」 「おかゆつくる?」 「ちいさいおにぎり食べたい……」 「つくってくるね」 「はい……」 風邪を引くたび自分の情けなさが身に沁みる。 そして、甲斐甲斐しく看病してくれるうにゅほを、心底愛おしく思う。 俺は果報者だ。 「ちいちゃいおにぎり、つくってきたよ」 「おお……!」 昔話に出てくる三角おにぎりをミニチュアにしたようなものが、皿の上に並んでいた。 「海苔まで巻いて……」 「かわいくできた」 えへん、とうにゅほが胸を張る。 「ありがとうな」 なでなで。 「たべてたべて」 「いただきます」 親指ほどのおにぎりを、ひとつ、口へと放り込む。 「……美味い」 ちょうどいい塩加減である。 「うへー……」 「××も、ほら、あーん」 「あー」 「美味しい?」 「おいふぃ」 互いに食べさせあううち、ミニおにぎりはすぐに無くなってしまった。 「つくってくる?」 「いや、もう大丈夫。十分だよ」 「げんきでる?」 「元気出た」 「でも、ねないとだめだよ」 「はい……」 目を覚ますころには、だいぶ復調していた。 しかし、油断はできない。 これ以上うにゅほに心配を掛けたくないので、さっさと治してしまおうと思った。
2016年1月21日(木)
外出のための身支度を整えている最中、ふと視線を感じた。 「どした?」 「すごいねえ……」 「なにが──って、ああ、靴下か」 「うん」 何度か書いているかと思うが、うにゅほは立ったまま靴下が履けないのだ。 「運動不足だよなあ……」 「ゆきかき」 「降ったらな」 「うん」 「とりあえず、スクワットでもするか?」 「あたまにてーのやつ?」 「そう」 「やったら、くつしたはける?」 「たぶんな」 「やる!」 うにゅほが後頭部で両手を組む。 「えっ、」 いま? そう口にしようとした次の瞬間には、やる気満々にスクワットを始めていた。
記録:六回
「はひー、ひ、ひ……」 「大丈夫か?」 「らいじょぶ……」 ちっとも大丈夫じゃなさそうだけど。 「みへ、みててね……」 自分の靴下を手に、うにゅほが片足を上げる。 「えっ、」 いま? そう口にしようとした次の瞬間、うにゅほは、マットレスの上に尻もちをついていた。 「……大丈夫か?」 「あれ?」 小首をかしげる。 「すくわっとしたのに……」 そういう意味じゃない。 「ほら、掴まれ」 「うん」 うにゅほの手を取り、引っ張り起こす。 「毎日スクワットして、筋力をつけないと」 「そかー……」 うにゅほが残念そうに呟く。 ちらりとぱんつが見えたけど、それは言わぬが花である。
2016年1月22日(金)
自室で静かに読書を嗜んでいたときのことである。 「──に゙!」 うにゅほが唐突に変な声を上げた。 「どうした?」 「したかんだー……」 「大丈夫か?」 「うん」 大したことはなかろうと、文庫本に視線を落とす。 「──…………」 ふと思った。 「……あれ、なにか食べてたっけ?」 「たべてないよ」 「喋って──は、いないよな」 「うん」 「なんで舌噛んだの」 「わかんない……」 逆に器用である。 「なんにせよ、気をつけてな」 「はい」 どう気をつければいいか、さっぱりわからないが。 「口内炎にならないように、早めにビタミン剤飲んどきな」 「ビタミンびーつー?」 「そうそう」 「わたし、くすりのむのにがて……」 「知ってる」 「うー」 「なら、やめとくか?」 「う?」 「口内炎なんて、ちょっと痛いくらいのもんだし」 「──…………」 「──……」 「……やっぱし、のむ」 「一日2錠な」 「はい……」 扱いやすい性格である。 たぶん、俺に似たのだろうなあ。
2016年1月23日(土)
「──よし、今日の仕事終わり!」 引き終わった図面をファイルに綴じ、背筋をうんと伸ばす。 「おつかれさまー」 「ああ」 「かたもむ」 「ありがとう」 俺の肩をやわやわとマッサージしつつ、うにゅほが尋ねる。 「さいきん、しごとすくないの?」 「どうして?」 「しごとおわるの、はやいから」 「あー」 そりゃま、そう思うよな。 「仕事の量は、あんまり変わってないよ」 むしろ、平均的には増えているくらいだ。 「そなんだ」 「単に、急いで終わらせてるだけ」 「いそいで?」 小首をかしげる。 「だって、早く終わらせたら、そのぶん自由時間が増えるだろ」 「あ、そか」 「自由時間が増えたら、××とだってたくさん遊べるぞ」 「おー!」 うにゅほが目を輝かせる。 「なにしてあそぶ?」 「ちょっと待って、すこし休憩してから……」 座椅子を倒し、横になる。 「……ふー」 作業速度を上げたおかげで、疲労感も幾許か増している。 LED照明を見上げながら、す、と目蓋を閉じた。
「──……は!」 次に目を開けたときには、一時間ほどが経過していた。 「あ、おはよー」 「せっかく作った時間が!」 なんとまあ、もったいないことを。 「◯◯、やすめた?」 「そりゃまあ、スッキリはしたけど……」 「ならよかった」 うにゅほがほにゃりと笑う。 「……ま、いいや。遊ぶか」 「うん!」 そんなわけで、うにゅほと一緒にだらだらしたのだった。
2016年1月24日(日)
午前四時二十一分、祖母が亡くなった。 享年八十八歳だった。 死に目には、会えなかった。 「──…………」 病室。 母親が言う。 「……あと五分でも早く着けたらね」 父親が言う。 「道が凍ってるんだから、仕方ねーべや」 弟が言う。 「まだ眠ってるみたいだ」 俺が言う。 「……でも、もう起きない」 うにゅほは、口を閉ざしたまま、なにも言わない。 背中から抱き締め、尋ねる。 「また、怖いか?」 愛犬が死んだときのことを思い出す。※1 あのとき、うにゅほは、こわい、こわいと泣きじゃくっていた。 死ぬことが怖いのか。 残されることが怖いのか。 「──…………」 沈黙。 「……××?」 うにゅほの顔を覗き込む。 「──…………」 うにゅほは、見ていた。 口を真一文字に結んで、眠るように逝った祖母の顔を見つめていた。 死を、真正面から、睨みつけていた。 俺は、思った。 強くなったのだ、と。 脆くなったのだ、と。 ぎゅ、と腕に力を込める。 壊れないように。 壊れても、崩れないように。 泣いたっていいのだと、告げるように。
※1 2012年11月30日(金)参照
2016年1月25日(月) 2016年1月26日(火)
祖母の葬儀は、終始、和やかに執り行われた。 涙する者は少なかった。 一年間に及ぶ入院生活は、誰しもの心に、覚悟の種を植え付けていたのだろう。 「どうして死んでしまったのか」 ではなく、 「よくここまで頑張った」 と、讃える声の多さこそが、祖母の人徳を詳らかにしていると思う。 「──…………」 告別式を終え、帰宅するなり、喪服も脱がずマットレスに倒れ込んだ。 頭が痛かった。 理由はわかっている。 感情に負荷が掛かり過ぎたのだ。 「◯◯、だいじょぶ?」 「……××こそ、大丈夫か?」 うにゅほは、まだ、泣いていない。 あれほど祖母に懐いていたのに。 祖母が弱音を漏らすたび、頬をしとどに濡らしていたのに。 「おばあちゃん、らくになったって」 「ああ」 「しにたいって、いってたから」 「……ああ」 「よかったのかなって」 「そうだな」 実際、その通りだったのだと思う。 祖母が退院できる見込みはなかった。 先のない退屈には、死しか望みがない。 祖母は賢明な人物だ。 それがわかっていたからこそ、死にたい、死にたいと、漏らしていたのだろう。 「◯◯」 うにゅほが自分の膝を叩く。 「すこし、ねたほういいよ」 「……ああ」 うにゅほの膝に頭を預け、横になる。 すべすべとした喪服の生地が、頬に心地よい。 「──…………」 うにゅほの手が、俺の前髪を掻き上げる。 頭痛。 熱っぽさ。 溢れ出したもの。 戻らないこと。 それらが、すべて、溶けていく。 「◯◯」 「うん」 「おばあちゃん、しんじゃったねえ」 「──…………」 「……しんじゃったねえ」 「──…………」 ぽた。 水滴が、目蓋を濡らす。 ぽた。 頬を濡らす。 「──…………」 俺は、目を開けなかった。 これは、俺の涙だ。 泣くことができなかった俺の代わりに、うにゅほが流してくれた涙だ。 悲しいのに。 つらいのに。 そのはずなのに。 泣けなかったから。
泣けなかったから。
2016年1月27日(水)
ちいさな手のひらが額に添えられる。 「ねつある」 「だろうなあ……」 予想はしていた。 過負荷だ。 数日分の疲れが一気に噴出したのだろう。 「きのうの、あまったおべんとう、たべる?」 「いい……」 「やさいジュース、のむ?」 「飲む」 「わかった」 うにゅほ印の野菜ジュースを飲み干し、横になる。 「マスク、いらない?」 「いらない。風邪じゃないし……」 「そだね」 半日も休めば復調するはずだ。 感覚でわかる。 「ひざまくら、する?」 「いや……」 壁掛け時計を見上げる。 午後一時。 「二時間くらい寝るつもりだから」 二、三十分の仮眠ならともかく、膝枕慣れしているうにゅほでもつらいだろう。 足の痺れはもちろん、トイレにだって立てない。 「じゃ、そいねする?」 「さすがにそれは……」 「あたまなでる?」 「ずっと?」 「うん」 「ずっとはいいかな……」 「て、にぎる?」 あ、わかった。 触れていないと落ち着かないのだ。 「……じゃ、手ー握っててもらおうかな」 「うん」 俺の左手を、うにゅほの両手が包み込む。 すこし冷たい。 だが、すぐに、俺の手と同じ温度になった。 「おやすみ」 「ああ、おやすみ……」 目蓋を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。 起きたとき、手のひらが汗ばんでいたけれど、安眠はできたと思う。 「手、熱くない?」 と尋ねると、 「ちょっとあつい」 と苦笑が返ってきた。 体調は、いつの間にかよくなっていた。
2016年1月28日(木)
「××、ゼリーひとくち食べるか?」 「……あーん」 「なんだ、甘えっ子だな」 「うへー……」 祖母が亡くなって数日、うにゅほにすこしずつ笑顔が戻ってきた。 まだ、ぎこちない。 けれど、笑えないよりずっとましだ。 「美味しい?」 「おいしい」 「もうひとくち、食べるか?」 「たべるー」 うにゅほの口元にスプーンを運びながら、思った。 もっと笑わせたい。 悲しみなんて吹き飛ぶくらい。 「──…………」 す。 「?」 うにゅほの脇腹に手を這わせ、 「こちょ」 「うひにゃ!」 「こちょこちょ」 「うしし」 「こちょこちょこちょこちょ!」 「ひ! うひは、ひひ、やめへ、ひ、ひー!」 笑い転げるうにゅほに追撃を加えながら、俺は満足感を覚えていた。 それがどんな形であれ、うにゅほが爆笑する姿を見るのは久し振りだったから。 「ひ、ひー……」 「参ったか」 「まいりました、まいりました……」 力なく横たわっていたうにゅほが、ゆっくりと上体を起こす。 「もー!」 「ごめんごめん」 怒ったように頬を膨らませたうにゅほの瞳から、 「……え?」 つ、と涙がこぼれ落ちた。 「うわ、マジごめん! 泣くとは思ってなくて……」 「ちが──う、ぶ……うう、ずー……」 うにゅほを抱き寄せる。 「……ごめんな、嫌だったか?」 「──……!」 うにゅほが激しく首を振る。 嫌ではなかったらしい。 推測ではあるが、急に思いきり笑わせたために、感情の揺り返しが起きたのだと思う。 「ごめんなー……」 うにゅほの頭を優しく撫でる。 「……ぶー」 涙と鼻水でシャツが濡れていく。 冷たい。 だが、自業自得だ。 「ぐじゅ、く、っで、いいからね……」 くすぐっていいからね、と言いたいらしい。 「わかった。また今度な」 「うん……」 次にくすぐるのは、うにゅほが精神的に安定してからだ。 それまでは我慢しよう、うん。
2016年1月29日(金)
「四色、黒」 「はい」 「──…………」 「──……」 「蛍光ペン、紫」 「はい」 仕事を手伝いたいとうにゅほが言うので、助手を務めてもらうことにした。 「四色、青」 「はい」 「雲形定規」 「はい」 気分は手術中の外科医である。 「てつだい、できてる?」 「できてるよ」 「たすかる?」 「助かってる」 実際、普段よりストレスなく仕事をこなすことができている。 「ごはんしたく、ないとき、てつだっていい?」 「ああ、頼む」 図面を引いていると作図用具があちらこちらへ散らばるもので、それを手渡してくれる助手の存在は、お世辞抜きでありがたい。 「雲形定規」 「はい」 「四色、赤」 「はい」 「お手」 「はい?」 「お手」 「──……?」 小首をかしげながら、うにゅほがお手をする。 「よしよし」 なでなで。 「うへー……」 「おかわり」 「はい」 「雲形定規持ってて」 「はい」 「普通の定規」 「はい」 犬扱いされたことには、さして疑問はないらしい。 「──終わった!」 「おつかれさま」 普段より十五分ほど早く仕事を終えることができた。 たまに手伝ってもらうことにしよう。
2016年1月30日(土)
「──…………」 「……?」 うにゅほがチェアの肘掛けに顎を乗せてこちらを覗き込んでいたので、ぽんぽんと膝を叩いてみせた。 「!」 うしょうしょと俺の膝の上に腰を下ろし、うへーと笑う。 最近のうにゅほは、以前にもまして、俺とくっつきたがる。 空虚。 不安。 焦燥。 そういった感情を心の底に押し込めるには、うにゅほはまだ幼いのだろう。 「てーにぎっていい?」 「左手なら」 「なにきいてたの?」 「谷山浩子」 「だれ?」 「歌手」 「きいていい?」 「じゃ、スピーカーに切り替えるな」 「うん」 まっくら森の歌を流しながら、思いついたことを口にする。 「暇だなー」 「しごとは?」 「夕方」 「そか」 「なんかして遊ぶか」 「あそぶ!」 「したいこと、ある?」 「うーん……」 うにゅほが小首をかしげる。 「あ、あれやるか。前に一度やったやつ」 「なにー?」 「なにをするにも、ずっと相手に触れていなければならない」 「つながりごっこ!」 「やる?」 「やるー」 という名目で、今日はずっとくっついていた。 うにゅほの心に空いた穴を一時的にでも埋めることができたなら、僥倖である。
2016年1月31日(日)
仮眠を取ろうと横になっていたところ、不意に気配を感じた。 アイマスクを上げると、うにゅほと目が合った。 「……どうかした?」 「うと、その、ねてるかなって」 「不安だったか」 「うん……」 祖母は、眠るように逝った。 そのイメージが脳裏に焼きついて離れないのだと思う。 「大丈夫、寝るだけだよ」 「……うん」 「鼻詰まってるから、ぴーぴーうるさいだろ」 「うん」 「手でも握るか?」 「ひざまくら……」 「膝枕するの好きだなあ」 「すき……」 「じゃあ、お願いしようかな」 「うん」 マットレスに腰を下ろしたうにゅほが、伸ばした両足をぽんぽんと叩く。 「いいよ」 「はいはい」 細く、しなやかで、芯のあるふともも。 慣れた寝心地だ。 「あいますく、ずらしていい?」 「ずらしたらアイマスクの意味がないと思うんだけど……」 「めかくしするから」 「……まあ、いいか」 テンピュールのアイマスクを外すと、うにゅほの両手が俺の目元を隠した。 「──…………」 手が熱い。 落ち着かない。 「……××、目隠しいいわ」 「あかるいよ?」 「大丈夫、すこしくらい明るくても眠れると思うから」 「そか」 「代わりに頭でも撫でててくれ」 「わかった」 髪の毛が掻き上げられ、うにゅほの手のひらがぎこちなく頭頂を這いまわる。 懐かしい感触だ。 仮眠はできなかったが、休息は取れた。 十分である。 |