>> 2015年10月




2015年10月1日(木)

「──…………」
眼鏡を外し、親指と人差し指の腹で、眉根を挟むように刺激する。
目が痛い。
「……きょう、ずっと、パソコンだねえ」
「急に立て込んでさ」
肘掛けの下から顔を覗かせたうにゅほの頭に手を置き、うりうりと撫でる。
滑らかな髪の毛が指先に心地よい。
「今月、ずっとこんな感じかも」
「えー……」
うにゅほが立ち上がる。
「◯◯、しんじゃう」
「死なない死なない」
この程度で死んでいたら、日本の労働力人口の八割は鬼籍に入ってしまう。
「なんとかならないの?」
「こればかりは、さっさと作業を終わらせるしか……」
「しんじゃう」
「死なないって」
「かたもむ……」
「ありがとう」
うにゅほに背中を向ける。
もみ、もみ。
「きもちい?」
「ああ、気持ちいい」
マッサージとしてはいささか握力が足りないが、リラクゼーション効果はすこぶる高い。
「……あふ」
「ねむい?」
「ちょっとな」
昨夜もあまり眠れてないし。
「ひるねしたほう、いいよ」
「いや、切りのいいところまで──」
「……ひるねしたほう、いいよ?」
「──…………」
なんだか、昼寝しなければいけないような気分になってきた。
「……いや、でも」
「◯◯、きょう、めが、ちゃんとあいてない」
「目が?」
「うん」
背中越しに、うにゅほが頷く気配。
「これは、ちゃんとねれてなくて、つかれてるひ」
よく見てるなあ。
「だから、ちょっとでいいから、ねたほういいの」
「……そっか」
そこまで言われてしまっては、休まないわけにはいかない。
「じゃ、ちょっとだけ横になるよ」
「うん」
「膝枕で」
「うん」
目を閉じて三十分ほど休憩すると、作業効率が目に見えて上がった。
やはり、休息は大切である。
あと、膝枕はいいものだ。



2015年10月2日(金)

「──…………」
「?」
んべ、と舌を出していると、うにゅほがこちらを覗き込んできた。
「どしたの?」
「ひたが痛い……」
「こうないえん?」
「わからない。口内炎になってるかも」
「どこ?」
再び舌を突き出し、付け根のあたりを指し示す。
「ほほ、ほのあたり」
「あ」
つん。
「いて」
「はれてる」
「腫れてる?」
「なんか、けがしてて、はれてる」
「あー……」
ふと、昨夜のことを思い出した。
「……寝る前にパン食ったとき、ガリッとやった気がする」
「それだ」
「痛い……」
左頬に手を添える。
激痛ではないが、じんわりとした痛みが自己主張を続けている。
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげる。
「くちのなか、オロナインぬれないもんねえ」
「やめてくれ……」
「こうないえんは、ビタミンびーつー、だっけ」
「口内炎というより、単純にケガだからなあ」
我慢するより他になさそうだ。
「……まあ、あまり刺激物は口に入れないようにして」
「しげきぶつって?」
「唐辛子とか」
「……きずぐちに、とうがらし……」
うにゅほがふるふると首を振る。
「とうがらし、たべたらだめだよ!」
想像してしまったらしい。
「食べないって」
特に辛いものが好きというわけでもないし。
「ほかには?」
「アルコールとかかなあ」
「のんじゃだめだよ」
「ちょっとにしよう」
「えー……」
うにゅほが眉根を寄せる。
「……やめときます」
「はい」
俺の健康は、うにゅほが握っている。



2015年10月3日(土)

「──……うう」
腹部を押さえながら、マットレスに倒れ込む。
「……◯◯、だいじょぶ?」
「だいじょばない……」
「はまずし、いける?」
「……ちょっと、いま、ものを食べる気分じゃないな」
いつまた波が来るかもわからない。
「じゃ、わたしもいかない」
「──…………」
「ぶみ」
うにゅほのほっぺたを両手で挟み、ゆっくりと首を横に振る。※1
「それはな、駄目だ」
「だめ?」
「だって、母さんと弟が行くって言ったとき、喜んでたじゃないか」
「うん……」
「お寿司、食べたいんだろう?」
「──…………」
「久しぶりだもんな」
「……うん」
「俺なら大丈夫だから、行ってきなさい」
「でも」
「……じゃあ、こうしよう」
「?」
「帰り、コンビニかなんかで、おみやげを買ってきてくれ」
「おみやげ……」
「そう。そしたら、俺も楽しみに待てるからさ」
「うん……」
うにゅほが躊躇いがちに頷く。
しぶしぶながらも納得してくれたようだ。
「おみやげ、なにがいい?」
「……うーん、とりあえず、甘いものかな」
「あまいの、なにがいい?」
「それは、××のセンスで選んでくれ」
「えー」
「××なら、俺の食べたいものを当ててくれるはず」
「──…………」
うにゅほが真剣な瞳で考え込む。
「……プリン?」
「正解は、買ってきてくれたときに言うよ」
「シュークリーム!」
「だから──いや、そうそう。プリンとシュークリーム。正解」
「やた!」
あまりに真剣に考えこむものだから、つい頷いてしまった。
「よくわかったなー」
なでなで。
「うへー……」
ともあれ、素直に家族と出掛けてくれて、よかった。
俺の虚弱に付き合わせてばかりでは、罪悪感が増すばかりだ。
買ってきてくれたプリンとシュークリームは、俺の好きな銘柄のものだった。
さすがである。

※1 ちゃんと手を洗っています



2015年10月4日(日)

「ふー……」
呼吸を整えながら、呟く。
「最近、運動不足な気がする」
「いまうでたてしたよ?」
「したけどさ」
「ふっきんもした」
「したけどさ」
窓ガラスに手を添え、外を窺う。
青空を隠す分厚い雲は、水分をたっぷりと溜め込んでいるように見えた。
「……散歩行こうにも、この天気じゃな」
「うん……」
いつ降り出すか、わかったものではない。
「せめて、その場足踏みでもしようかな」
最近してなかったし。
「ひゃっぽ?」
「百歩じゃ少ないよ」
「にひゃっぽ?」
「そうだなあ……」
デスクの引き出しを開き、十面ダイスをふたつ取り出した。
「これで決めよう」
「……これ、さいころ?」
「専門用語で言うと、1D100だな」
「いちでぃーひゃく……」
「片方が十の位、片方が一の位で、出目が1から100まである」
「はー」
「振ってみるか?」
「うん!」
うにゅほが十面ダイスをひとつずつ転がした。
「きゅうと、いち」
「91か」
「きゅうじゅういっぽ?」
「いや、910歩」
「──…………」
うにゅほが絶句する。
毎日千歩足踏みをしていた時期もあるのだし、このくらい物の数ではないのだが。
「××は、91歩でやってみるか?」
「あ、うん。やる」
「太腿が地面と水平になるように足踏みするんだぞ」
「はい!」
一分後、
「……はっ、はー、はー」
「五十歩でダウンか」
「も、むり、あし、ぱんぱん……」
ぼす。
うにゅほがマットレスに倒れ込む。
「……運動不足なのは、俺より、××のほうかもしれないなあ」
「うん……」
負荷の軽いうにゅほ向けの運動でも調べておこうかな。



2015年10月5日(月)

駐車場として使っていた空き地にガレージを建てることになった。
「──…………」
「おー、やってるな」
階段の途中にある窓から外を見下ろすと、小型のショベルカーが土を掘り起こしているところだった。
コンクリートを打つのだ。
「──…………」
くい。
「うん?」
うにゅほが俺の袖を引く。
「……なんでべそかいてるんだ?」
「──……ず」
鼻をすする。
「……かていさいえん、のこすっていったのに」
「あー……」
祖母が入院したせいで放置されていた家庭菜園の跡地が、見る影もない。
「ぐちゃぐちゃにされちゃった……」
「今年はなにも植えてなかったろ」
「でも」
「……ショッキングな光景ではあるけどな」
うにゅほの頭に手を乗せ、滑らかな髪に指を通す。
「××も聞いてた通り、全部をコンクリにするわけじゃない」
「でも……」
「まあ、聞け」
「──…………」
うにゅほの頬に手を添え、親指で涙を拭う。
「掘り返されたのが嫌だったんだよな」
「うん……」
「でも、よく考えてみろ」
「……うん?」
「農業において、土地を掘り返すなんて当たり前のことだぞ」
「あたりまえ……」
「人はそれを耕すと言う」
「あ」
理由は違うが、やってることは同じである。
「来年はいいアスパラが生えるんじゃないかな」
「そか……」
うにゅほがうんうんと頷く。
泣きやんだようだ。
祖母をよく手伝っていたうにゅほだから、家庭菜園への思い入れがひときわ強いのだろう。
「──…………」
「?」
入院している祖母を想い、うにゅほを後ろから抱き締めた。



2015年10月6日(火)

「××ー」
「う」
マットレスの上でうつ伏せになりながら買ったばかりの漫画を読んでいたうにゅほを小脇に抱え上げ、膝の上に乗せた。
「……なにー?」
「いや、理由とかは特にないけど」
「ふうん……」
不意にうにゅほが立ち上がる。
そして、
「といれー」
不要な宣言と共に自室を後にした。
「──…………」
逃げられたかな。
もしかして、嫌だったろうか。
「あー……」
モヤモヤしながらマットレスに倒れ伏していると、うにゅほが戻ってきた。
「ん」
「……?」
俺の手を引き、マットレスの上に座らせ、さっきと同じように膝の上に腰を落ち着ける。
「──…………」
なんか嬉しい。
「……本当にトイレに行きたかっただけか」
「そんなうそ、あるの?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんか、きゅうに、おしっこしたくなった」
「急に?」
「うん」
「──……あ」
ふと思い至ることがあった。
「小脇に抱えたとき、おなかを押したから……」
「?」
膀胱が刺激されたのだろう。
なんのことはない、すべて俺のせいである。
「……なんか、俺、馬鹿みたいだな」
「ばかじゃないよ」
「いや、まあ、こっちの話だ」
「──……?」
よくわからない、という顔をする。
わからなくていいこともある。
うにゅほと一緒に漫画を読みながら、夕刻のひとときを過ごした。



2015年10月7日(水)

「あ」
ぷち。
「まだある?」
「まだある」
「……白髪、増えたなあ」
うにゅほに白髪を抜いてもらいながら、そっと溜め息をつく。
「しらが、ふえてないよ」
「だって、まだあるんだろう?」
「まえからこんくらいあるよ」
「──…………」
それはそれでショックなんだけど。
「あ」
ぷち。
「ちぎれた……」
頭上で嘆くうにゅほの声を聞きながら、ふと思い出した。
「そういえば、そろそろ××の誕生日だな」
「うん」
「欲しいもの、あるか?」
「うーん……」
いきなり尋ねたところですぐに思いつく子じゃないことは、経験上わかっている。
「考えてるものはあるけど」
「なに?」
「……聞きたい?」
「──…………」
ぴた、と、うにゅほの手が止まる。
しばしして、
「……うと、ききたくない」
「だよな」
これまでも当日に驚かせてきたし、これからもそうするだろう。
「◯◯は、たんじょうび、ほしいのある?」
「俺の誕生日はまだ先だろ」
一月だぞ。
「さんこうまでに」
「……うーん」
ヒゲを剃ったばかりの顎を撫でながら、思案する。
物欲はすぐに満たすほうだ。
安いものは自分で買ってしまうし、悩むほど高価なものは、うにゅほには手が出せないだろう。
「思いつかない……」
「そか」
「まあ、わりとなんでも喜ぶぞ」
「うん」
「あと三ヶ月もあるし」
「かんがえる」
「それより、まずは自分の誕生日のほうを楽しみにしといてくれ」
「わかった」
こくりと頷く。
「あ」
ぷち。
「まだあるのか……」
「まだある」
「──…………」
うにゅほが飽きるまで、白髪を抜かれ続けていた。



2015年10月8日(木)

暴風雨。
家が揺れ、ガラスが軋み、うにゅほが俺の背中に貼り付いている。
「──……うー」
いつまで経っても家鳴りに慣れないうにゅほだった。
「大丈夫だって」
「でも」
「雷よりマシだろ」
「かみなりよりましだけど……」
こないだは、世界の終わりかと思ったもんな。※1
「なんか、おんたいていきあつ、だって」
「台風?」
「たいふうが、おんたいていきあつ、に、なったんだって」
「あー……」
台風より台風らしい温帯低気圧だ。
「おんたいていきあつ、なのに、さむいねえ」
「台風は熱帯低気圧だからな」
「ねったい」
「冷たい空気と混ざり合って、温帯低気圧に変わるんだよ」
「◯◯、ものしり」
「こないだテレビで見た」
「うん」
うにゅほが適当に頷く。
ソースに興味はないらしい。
「……十月が終わったら、冬が来るな」
「ゆき」
「できれば降らないでほしいけど」
「ふるよ」
「まあ、降るだろうな……」
現実は非情である。
「ゆきかき、たのしみだね」
「いや、雪かきは楽しみではない」
「えー」
「正気か」
「ゆきかき、ふたりでやると、たのしいよ」
「ふたりでやるぶんにはマシだけど、決して楽しみじゃない……」
ちゃんとしたウィンタースポーツに誘うべきか悩む悪天候の午後だった。

※1 2015年9月29日(火)参照



2015年10月9日(金)

「──…………」
ヒャン!
「に!」
両親の友人の飼い犬を、久方ぶりに預かることになった。
うにゅほは、よく吠えるこの犬がたいへん苦手である。
「警戒するから吠えるんじゃないか?」
「そかな……」
「冷蔵庫からお茶取ってくるから、見てな」
「うん……」
うにゅほの肩をぽんと叩き、自室を出る。
キャン!
ヒャンヒャン、ヒャン!
ヒャン!
ウー、ワウ、ヒャンヒャンヒャン!
ペットボトルを手に、帰投する。
「な?」
「◯◯、すごいほえられてた……」
「うん……」
「ひざのうらにたいあたりされてた……」
「……あれは強烈だったな」
カクンてなりかけた。
「でも、まあ、単純に遊びたい盛りなんだろう、たぶん」
「うん……」
「怖いか」
「こわい」
仕方ないか。
怖いものは怖いし、苦手なものは苦手なのだ。
「母さんか弟が抱っこしてれば大人しいから、その隙に移動するしかないな」
いまはふたりともいないけど。
「……◯◯」
「うん?」
うにゅほがもじもじしながら言った。
「といれ……」
「──…………」
仕方あるまい。
ヒャン!
「ぴ!」
ヒャンヒャン!
「だーもー、うるさい!」
うにゅほを背中にかばいながら、トイレまでの動線を確保する。
過保護だろうか。
まあ、いいじゃん。



2015年10月10日(土)

両親の友人から預かった犬が、ぴたりと鳴かなくなった。
「──…………」
じ。
カーペットの上で毛づくろいする犬の様子を、うにゅほが物陰から窺っている。
「どしたー?」
「……なかないなって」
「いいかげん、慣れたんだろ」
こうして預かるのも、もう何度めかわからない。
「──というか、犬は慣れても××は慣れないんだな」
「うー……」
うにゅほが唸る。
「ほら、こっち来て一緒にテレビ見ようぜ」
ソファの隣をぽんぽんと叩く。
途端、
「お」
毛づくろいをしていた犬がおもむろに立ち上がり、俺の膝の上でまるくなった。
「あー!」
「はは、我が物顔だなあ」
「だめ、だめ!」
うにゅほがこちらへ駆け寄り、
──キャン!
「ひ」
くるりとUターンして自室へと逃げ帰った。
しばらくして、
「──…………」
おずおずと開かれた扉の隙間から、うにゅほの顔がそっと覗いた。
「……いぬ、どこ?」
「台所のほう行ったけど」
「ふー……」
うにゅほが肩を落とす。
「……なにも、犬に対抗心燃やさなくても」
「だって」
「だって?」
「……だって、だめなんだもん」
犬属性だからかな。
猫や子供なら許しそうな気がする。
「じゃ、ほら、いまのうちにおいで」
「──…………」
ぽす。
うにゅほが俺の膝に腰を下ろす。
「一緒にナイトスクープを見ましょう」
「はい」
犬は、それから吠えなかった。



2015年10月11日(日)

「──……くあ」
大あくびをかましながら起床する。
「……××、おはよう」
「──…………」
「××?」
眼鏡を掛ける。
体育座りをしながら、うにゅほがふてくされていた。
「……どこいったの」
「うん?」
「きのうのよる、どこいったの」
「カラオケだけど」
深夜、中学時代の友人から呼び出しがかかったのだ。
「よる、でかけるとき、おこしてってやくそくしたのに……」
「起こしたぞ」
「え?」
うにゅほが小首をかしげる。
「わたし、おきてない……」
「起きたぞ」
「う?」
「起きたし、話したし、行ってらっしゃいも言ったぞ」
「──…………」
しばしの沈黙。
「……あ」
「思い出した?」
「おもいだした……」
「だろ」
「◯◯、よばれたっていって、うきわもって、ふねから」
「それたぶん途中から夢」
「うち、うきわないもんねえ」
「そういうことではなく」
うにゅほのほっぺたをつつく。
「うりうり」
「うー」
「約束したんだから、ちゃんと守りますよ」
「ごめんなさい……」
「謝らなくてもいいけどな」
思い出したのだし。
「今度、ふたカラでも行くか?」
「ふたから?」
「ふたりでカラオケ」
「うーん……」
首をひねる。
「……こんどね」
あまり気乗りしないらしい。
うにゅほ、レパートリーないからなあ。
今度、気まぐれに連れて行こう。



2015年10月12日(月)

預かっていた犬が、両親の友人のもとへと帰っていった。
「──……はー」
うにゅほが深い溜め息をつく。
「寂しい?」
「!」
ふるふると勢いよく首を横に振る。
本当に苦手なんだな。
「……でも」
うにゅほが、呟くように口を開いた。
「また、なかよくなれなかったなあ……」
仲良くなる気はあったらしい。
うにゅほの髪をくしゃりと撫でながら、言う。
「また、そのうち来るよ」
「……くるの?」
あ、嫌そう。
「仲良くなりたいのか、なりたくないのか」
「うーん……」
小首をかしげながら、答える。
「くるならくるで、なかよくなりたいけど……」
「うん」
「こないならこないで、いい」
乙女心は複雑らしい。
「──…………」
「──……」
ふたりのあいだに沈黙の帳が下りる。
たぶん、同じことを考えているのだろう。
「犬、飼いたいか?」
「──…………」
俺の問いに、深く思案し、ゆっくりと首を横に振る。
「いい」
「そっか」
飼い犬が死んだのは、もう三年も前のことだ。※1
俺も、うにゅほも、愛犬の死を引きずっているわけではない。
ただ、ぽっかりと空いた穴のなかに、別のものを入れる気になれないだけだ。
「あ、ねこならかいたい」
「飼いたいなあ」
猫は別枠である。
「でも、弟が猫アレルギーだからな……」
「うん……」
これから先も、ペットを飼うことはなさそうだ。

※1 2012年11月30日(金)参照



2015年10月13日(火)

「──……うー……」
布団からのそのそと這い出し、タイルカーペットの上で力尽きた。
体調がすこぶる悪い。
恐らく、気圧の急激な下降が原因だろう。
「……◯◯、だいじょぶ?」
「大丈夫……」
ではないが、正直に言ったところでうにゅほの心配を深くするだけだ。
「あ、やま、ゆきふったよ」
「降ったか……」
体調の悪化から、なんとなく予想はしていた。
程近い山々の風景は、季節のバロメーターである。
雪が降り積もったからには、もうすぐ冬が来るのだろう。
「ゆき、みる?」
「……いちおう」
あまり興味はなかったが、わくわくしているうにゅほに水を差すのも悪いように思われた。
両親の寝室の窓を開き、身を乗り出す。
頬が冷たい。
小雨が降っていた。
そして、
「──…………」
「つもってる?」
「積もってない……」
「えっ」
俺の下からうにゅほが顔を出す。
「あれ……」
「積もってないな」
黒に緑の山々は、いつものように佇んでいる。
「……つもってたんだよ?」
「ああ」
「うそじゃないよ?」
「××が嘘つくなんて思ってないよ」
二重窓を閉じ、ネジを締める。
「たぶん、雨で解けちゃったんだろうな」
「えー……」
うにゅほが不満げに声を上げる。
「ふゆきたとおもったのに」
「……俺は、もうすこし秋がいい」
北海道の秋は、短い。
すべてが白く染まる前に、秋の色を楽しみたいものだ。



2015年10月14日(水)

さけるチーズの新しいフレーバーが出たと聞き、最寄りのスーパーへと久しぶりに足を運んだ。
「バターしょうゆあじ、だって」
「美味いに決まってる組み合わせだな」
「バターしょうゆあじ、あるかな」
「新発売だし、あるんじゃないか」
最寄りであるにも関わらず訪れる機会が少ないのは、品揃えが少なく、かつ安くないイメージがあるからだ。
しかし、気軽に歩いて行ける距離にあるスーパーは、ここだけである。
ふたりで乳製品コーナーへ向かうと、
「あ、あった!」
「あったな」
「おいしそう」
「いや、見た目はみんな同じだからな」
バター醤油、プレーン、ローストガーリックをカゴに入れ、店内を回る。
「豆乳飲みたいな」
「きなことうにゅう?」
「××はココア豆乳か」
「うん」
「好きだなあ」
そんな会話を交わしながら、精肉コーナーを通り過ぎたときのことだった。
「あっ」
「うん?」
「あれ」
うにゅほが指差した先に、鳥のささみの燻製があった。※1
「ええッ!?」
思わず妙な声を上げる。
「いつもわざわざ片道三十分はかかる遠くの西友まで買いに行ってたのに……!」
低脂肪高タンパクのささみの燻製は、ダイエットのお供である。
まさか、最寄りのスーパーにも売っていたとは。
「とうだいもとくらし」
「──…………」
このことわざがここまでしっくりくる事例も他にそうあるまい。
「……とにかく、買い占めて帰ろう」
「うん」
バター醤油味のさけるチーズは、予想通りの美味しさだった。
「でも、やっぱ、プレーンがいちばん好きだなあ」
「わたしも」
「他の味は、たまにでいいな」
「うん」
そもそもさけるチーズをたまにしか食べないのだが、気にしてはいけない。
ささみの燻製は、いつもどおりの味だった。

※1 2015年9月15日(火)参照



2015年10月15日(木)

「××、誕生日おめでとう」
「……ありがと」
てれてれと、うにゅほが両手でほっぺたを包む。
うにゅほと出会ったのは、いまからちょうど四年前のことだ。
雨のそぼ降る夕刻、外灯に照らし出された公園の東屋で、俺たちは出会った。
犬の散歩をしていたときのことだった。
「懐かしいなあ……」
あの偶然がなければ、いまの俺たちはない。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
俺は、誤魔化すように口を開いた。
「──さ、出掛けるか」
「でかけるの?」
「だって、誕生日プレゼントを買わないといけないからな」
「いまからかうの?」
「品物が品物だから」
「ふく?」
「惜しい」
「なんか、みにつけるもの……」
「そうそう」
「うと、えーと……」
正解が出そうになかったので、早々と答えを教えることにした。
「ポシェットとか、ショルダーバッグとか、そういうのをプレゼントしようかと思ってさ」
「ポシェット……」
うにゅほの表情が曇った。
愛用のくまさんポシェットを手に取り、顔の前に掲げる。
「……ポシェット、あるよ?」
「それ、財布しか入らないだろ」
「うん」
「デジカメとか、持ち歩けないだろ」
「うん……」
「それに──」
「……?」
いくらなんでも、子供っぽい。
似合っているから問題はないのだが、問題ないのが問題な気もする。
「……いや、ふつうの女の子は、バッグなんて何個も持ってるもんなんだよ」
「そなの?」
「お気に入りはお気に入りであるだろうけど、服装や用途で使い分けてるんだ」
「ほー……」
「だから、くまさんポシェットを使うなとか、捨てろとか、そういうわけじゃないよ」
さらさらとした髪の毛を指のあいだにくぐらせながら、諭すようにそう言った。
「そか」
うにゅほが安心したように笑みを浮かべる。
「んじゃ、行くか」
「うん!」

祖母のお見舞いを済ませたあと、その足でイオンモールへと向かい、いくつかの専門店をはしごした。
一時間ほど迷いに迷った結果、うにゅほは、落ち着いたデザインの赤い2wayバッグを手に取った。
「……これがいいな」
「ああ、可愛いと思うよ」
「おかね、だいじょぶ……?」
「値札見せて」
「これ……」
2,980円。
「たかい?」
「……むしろ、これでいいのかって感じだけど」
まあ、でも、高ければ上等なプレゼントってわけでもないしな。
「試着してみるか」
「うん」
ベルトを調節し、渡す。
「……にあう?」
「お」
白いフレアスカートに、赤いバッグが映えていた。
「いいじゃんいいじゃん」
「うへー……」
ちいさく拍手を送ると、うにゅほが嬉しそうに照れた。
お買い上げである。
イオンモールからの帰り道、近所の不二家に寄って、誕生日ケーキを買った。
両親は、今度の土日、うにゅほを連れて服を買いに行くらしい。
弟は、ワールドトリガーの単行本を全巻セットで買ってきた。
自分が読みたいだけじゃないのか。

今年の誕生日も、笑って過ごすことができた。
うにゅほを膝に抱いて一緒にワールドトリガーを読みながら、達成感に口元を綻ばせたのだった。



2015年10月16日(金)

「──……寒い」
「さむいねえ……」
ふたり身を寄せあって、寒い寒いとただ嘆く。
それだけで、なんとなく楽しい。
「寒いねと言えば、寒いねと……」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、なんか、そんな短歌があった気がして」
俵万智だったっけ。
授業で習った記憶がある。
「……ま、そんなことはどうでもいいんだ」
「うん」
「問題は、ストーブをつけると、まず間違いなく暑くなるということだ」
「そだね……」
ストーブは、エアコンではない。
設定した室温を維持し続けてくれるわけではないのだ。
「あ、ふとんかんそうき」
「ダニ滅殺モードか」
「そんななまえだっけ」
「意味は同じだろ」
ちょうど布団が湿気てくるころだと思っていたのである。
布団乾燥機のノズルを丹前の隙間に差し入れ、ダニ対策モードにしてスタートボタンを押す。
ダニは、約60℃で死滅する。
それだけの熱風を布団に浴びせかけていれば、室温も上がろうというものだ。
しばらくして、
「──……暑い」
「あついねえ……」
布団乾燥機の威力を甘く見ていたらしい。
「途中でオフにするわけにも行かないし……」
「まど、あける?」
「そうだな……」
しばらくして、
「──……寒い!」
「さむいー……」
と、いうようなことを、しばらく繰り返していた。
室温の調整は難しい。



2015年10月17日(土)

ローソンに立ち寄ったとき、あるものを見かけた。
「マカロンだ」
「まかろん」
「和栗&ピスタチオ、だって」
「おいしいかな」
「前食べたときはどうだったっけ」
「うと、おいしかったきーする」
試しに購入し、車内で食べてみることにした。
「──!」
さっくりとした薄い皮の下に、濃厚な生地が隠されている。
芳醇なピスタチオの香りが鼻道を遡り、俺は思わず溜め息をついた。
「美味い……」
「──…………」
うにゅほがうんうんと頷いている。
「××、はんぶんこ」
「うん」
さく。
「お、こっちも美味いな」
「ぴすたちお、こんなあじなんだ」
「食べたことなかったっけ」
「たぶん」
ナッツと言えばまずマカダミアナッツなうにゅほだから、ピスタチオには興味がなかったのだろう。
「いろんなあじ、たべたいな……」
うにゅほがおなかを撫でさする。
マカロンひとつでは、さすがに物足りなかったらしい。
「──そうだ、不二家だ」
「ふじや?」
「一昨日、××の誕生日ケーキ買ったとき、マカロンも売ってた気がする」
「おー」
「せっかくだから、全種類買ってみよう」
「でも、おたかいんじゃ」
「給料入ったばっかだし、それくらいはいいだろう」
「あんましかんけいない……」
俺の家計簿を管理してるの、うにゅほだからなあ。
「じゃ、やめとく?」
「──…………」
しばし思案し、
「……たべたい」
マカロンに屈したうにゅほだった。
幸か不幸か、近所の不二家には、バニラ味とかぼちゃ味のマカロンが、ちょうどふたつずつしか残っていなかった。
「──バニラあじ、おいしい!」
「なんだこれ……」
やたら美味い。
「かぼちゃ味は普通かな」
「でも、かぼちゃあじのがたかかった」
「一個二百円だもんな……」
バニラは百五十円だったのに。
「まあ、高いお菓子には、それなりの理由があるってことかな」
「うん」
バニラ味のマカロンをすこしずつ食べ進めながら、うにゅほが頷いた。
今度はチョコと抹茶を買おう。



2015年10月18日(日)

「ただいまー」
パソコンチェアでうとうとしていると、うにゅほと両親が帰ってきた。
「……おかえり」
手の甲で口元を拭う。
「どんな服、買ってもらったんだ?」
「うへー……」
満足げな笑みを浮かべながら、うにゅほが手に提げた袋を開く。
「ジーンズとね、パーカー」
「ボーイッシュだな」
これから冬が来るのだし、暖かそうでいいけれど。
「パーカー、これ!」
「──……?」
なんだか見覚えがあるようなデザインの、厚手の黒いパーカーだ。
「なんか、俺のパーカーに似てない?」
「うん」
「……わざと?」
「おそろい」
「──…………」
いわゆるペアルックである。
「さすがにちょっと恥ずかしいんだけど……」
「そかな」
「父さん母さん、なんか言ってなかった?」
「すきにしなさいって」
諦めたな。
「せめて、こう、同じパーカーを着るときは、スカートにするとかしてほしいんだが……」
「えー」
「えー、ではなく」
わりと切実に。
「おそろい、いや?」
「……お揃いは嫌じゃない、けど」
「けど?」
「さすがに視線が気になるぞ、これ……」
神経は図太いほうだと自覚していたが、実はそうでもないのかもしれない。
「じゃー、いま、おそろいしていい?」
「部屋のなかでってこと?」
「うん」
「なら、まあ……」
「やた」
うにゅほの着替えを待ち、部屋着の上からパーカーを羽織る。
そして、姿見の前にふたりで並ぶ。
「おそろい」
「……お揃いだな」
うへーと笑ううにゅほを横目に、このまま外に出るのとかマジ無理だなと決意を固くするのだった。



2015年10月19日(月)

ケン、ケン、と、狐じみた空咳が喉を震わせる。
「だいじょぶ……?」
心配そうに俺の顔を覗き込むうにゅほの頬に手を添えて、薄く笑ってみせる。
「まだ、大丈夫」
「まだ……」
「これくらいなら、風邪のうちに入らない」
悪化すると、わからないけれど。
「でも、ねたほういいよ」
「そうだな……」
サージカルマスク越しの呼吸に息苦しさを感じながら、眼鏡を外し、目蓋を閉じる。
「──…………」
うにゅほが俺の手を取った。
俺が病弱なせいで、過度に心配を掛けてしまっている。
本当に苦しいときを幾度も見せてしまったから、その印象が脳裏から離れないのだろう。
「おやすみ、ね」
「……うん」
こくりと頷く。
皮膚の内側がすべて水銀になったかのような錯覚を感じながら、俺は意識を手放した。
次に目を覚ましたのは、午後四時だった。
「……けほ」
咳が弱くなっている。
体も軽い。
八割方回復したようだ。
上体を起こそうとすると、
「あ、ねてないとだめだよ」
すぐ傍で漫画を読んでいたうにゅほに、両肩を押さえられた。
「でも、ちょっと、体が痛くて……」
「どこ?」
「腰のあたり……」
「まっさーじするから、うつぶせなって」
「……はい」
言われた通りうつ伏せになると、うにゅほが俺の太腿の上に腰を下ろした。
「いくよー」
「うん」
「う、しょ、うん、しょ」
うにゅほの両手がやわやわと腰を揉む。
効かない。
だが、心地いい。
しばらくのあいだうにゅほ式マッサージを受けていたところ、いつの間にか時間が飛んでいた。
不眠治療に効果があるのではないか。



2015年10月20日(火)

「──……ぶー」
呼吸のたび、鼻が豚のような音を立てる。
「……悪化してしまいました」
「ねて」
「はい」
「なんかたべれる?」
「食欲ない……」
「やさいジュース、つくる?」
「それなら……」
「わかった」
なにを入れているのか知らないが、うにゅほが母親と作る野菜ジュースは絶品だ。
作るところは、なんとなく、見ないようにしている。
しばらくして、
「おいしかった?」
「うん」
キウイの種らしきぷちぷちとした感触を飲み下しながら、頷いた。
「うへー」
嬉しそうに笑ううにゅほにコップを渡し、横になる。
「ねれる?」
「眠れる──と、思う」
既に、意識にもやがかかりつつある。
「……ふあ」
あくびをひとつ。
「起きたら、たぶん、具合よくなってるよ」
感覚でわかる。
「……でも、◯◯、いつもよるげんき」
「確かに……」
言われてみればその通りだ。
体調が悪い日も、夜にはマシになっていることが多い。
「よるも、あんせいにしないと、だめ」
「……はい」
「あと、はやくねないとだめ」
「はい」
昼寝して、夜も眠れるかなあ。
いつもそれで悪化していく気がする。
「……昼寝を早めに切り上げて、そのぶんの眠気を夜に持ち越してみようかな」
「うん、いいかも」
携帯電話のアラームを午後二時にセットし、目蓋を閉じた。
起きたのは午後五時だった。
今夜も眠れない。



2015年10月21日(水)

「──…………」
風邪はよくなった。
よくなったのだが、
「……眠い」
「ねれなかったの?」
「ほとんど××と交代だよ……」
うにゅほの起床時間は、おおよそ午前六時である。
「きのう、ひる、すごいねたもんね」
「昼と言うか、夕方まで寝てたからな……」※1
生活サイクルが完全に逆転してしまっている。
「今日は昼寝しない! 起きてる!」
「でも、まだ、あんせいにしないとだめだよ」
「風邪、治ったと思うんだけど……」
「なおりかけがかんじん」
一理ある。
うにゅほがぽんぽんと布団を叩き、
「はい」
と、俺を促した。
「いや、それはまずい」
「ねちゃう?」
「寝ちゃう」
「うーん、どうしようね……」
揃って首をかしげる。
「……とりあえず、くつした」
「はい」
履く。
「はんてん」
「はい」
羽織る。
「あったかい?」
「あったかい」
「よこになると、ねちゃうねえ」
「寝ちゃう」
既にちょっと眠い。
「テレビ、みる?」
「……見るか」
いま本を読むと、確実に意識が飛ぶし。
ソファに背を預け、うにゅほを膝に乗せながら、録画してあった鉄腕ダッシュを見た。
内容はよく覚えていない。
だが、うとうとはしても、昼寝はしなかった。
今夜こそ安眠を貪れますように。

※1 2015年10月20日(火)参照



2015年10月22日(木)

備蓄分のペプシと飴を購入した帰りのことだった。
「……なんか、小腹が空いたな」
「うん」
「コンビニ寄ろうか」
「うん」
「食べたいものある?」
「あ、」
うにゅほが、なにかを言いかけて、口をつぐんだ。
「うん、なんでもいい」
「──…………」
なるほど。
「××が食べたいもの、当ててやろうか」
「?」
「マカロン」
「えっ!」
うにゅほが目を見開いた。
「すごい」
「いや、大してすごくないと思うぞ」
直近で美味しかったものを言ってみただけだし。
「不二家寄って帰ろうか」
「でも」
iPhoneの家計簿アプリを起動しながら、うにゅほが言った。
「まかろん、いっこ、ひゃくごじゅうえんもする……」
「それはそうだけど」
「ひゃくごじゅうえんあったら、ペプシいっぽんかえる」
「──…………」
たしかに、1.5リットルのペプシとマカロン一個が同じ値段と考えると、躊躇のひとつもしたくなる。
だが、
「マカロン買えないほど逼迫してるつもりはないんだけど……」
さして多くはないが、収入も貯蓄もある。
たとえ百個買ったところで大した痛手ではない。
「……じゃあ、まかろん、かっていい?」
「ああ」
鷹揚に頷く。
「何個買おうか」
「みっつ」
「みっつずつ?」
「ううん」
うにゅほが首を横に振る。
「みっつかうと、くじひけるから」
「あー、あったな」
不二家でマカロンを三個買うと、ハズレなしのスピードくじが引ける。
このあいだはペコちゃんのほっぺが当たったんだっけ。
「じゃあ、××はマカロンふたつ食べな」
「いいの?」
「いいよ」
大通りを左折し、不二家へと向かう。
バニラひとつ、抹茶ふたつを注文し、くじを引くと、「金と銀」というシュークリームが当たった。
これも美味しかった。
さすが不二家、侮れない。



2015年10月23日(金)

「……眠い」
「きのう、ねれなかったの?」
「すこしは寝れたよ」
「すこしかあ」
「風邪のせいで、生活サイクルが完全に逆転しちゃったからな」
「すこしずつもどさないとね」
「……できれば、一気に戻したいんだけどな」
「だめだよ」
「駄目か」
「だって、てつやでしょ?」
「そうなるかな」
「ぜったい、とちゅうでねむくなって、へんになる」
「……反論できない」
「◯◯、いっきにやろうとしすぎだとおもう」
「──…………」
「ダイエットも、きんとれも、いきなり、すごくやる」
「──…………」
「からだよわいのに……」
「心配かけてすいません……」
「ひる、ねむいなら、ひるねしてもいいとおもう」
「そうなると、また──」
「よる、ねむくなくなる?」
「ああ」
「だからね、じかんをきめてねるの」
「三十分とか?」
「そう」
「なるほど……」
「きょう、なんじかんねれたの?」
「えーと、何度か起きてるけど、総計では五時間ちょっとくらい……」
「いちじかんくらいなら、ひるねしてもよさそう」
「……こないだ、それで寝過ごした気がするけど」
「おこす」
「起こせる?」
「おこせるよ」
「本当に?」
「……たぶん、おこせる」
「遠慮しないで、べしべし叩いてくれていいんだからな」
「うん……」
「もしくは膝枕」
「ひざまくら」
「膝枕の場合は、三十分かな」
「いちじかん、いいよ?」
「足しびれるだろ」
「ちょっと」
「じゃあ駄目だ」
「いいのに」
「俺が無理しないのに、××が無理してどうする」
「……そだね」
うにゅほの膝枕で、三十分×二回の仮眠を取った。
いま、いい感じに眠い。
そこはかとなく作戦成功の予感がする。



2015年10月24日(土)

「♪」
ぺき。
ぽき。
ふんふんと鼻歌まじりに、うにゅほが俺の指を鳴らしていく。
「楽しい?」
「うん」
楽しいらしい。
左手中指の第二関節を、ぱき。
左手薬指の第一関節を、ぽき。
自分の指は痛くて鳴らせないからって、やりたい放題である。
べつにいいけど。
視線をテレビへと戻したとき、うにゅほが俺の小指を折り曲げた。
ぼき。
「──つッ!」
激痛。
慌てて左手を引き戻す。
「え──」
呆然とするうにゅほの顔を見て、はっと我に返る。
忘れていた。
今朝、起きたとき、誤って左手の小指を痛めていたのだった。
「あ、あの、だいじょぶ……?」
「大丈夫、大丈夫」
あえて左手でうにゅほの頭を撫でる。
この痛みを知られてはならない。
気づかれてはならない。
うにゅほには、自分自身を過剰に責め立ててしまう悪癖があるからだ。
「手の甲が急にかゆくなって……」
そう言って、ぼりぼりと掻いてみせる。
「──…………」
疑いの目。
「ほら、右手もやってくれ」
「……いたくなかった?」
「どうして」
「いたそうだったから……」
「痛かったら言うよ」
「──…………」
うにゅほが小首をかしげ、
「そか……」
不承不承に頷いた。
「ほら、右手」
「うん」
うにゅほが俺の右手を取る。
「──…………」
ぺき。
「──…………」
ぽき。
恐る恐る、指を鳴らしていく。
「いたくない?」
「痛くない」
「そか」
左手の倍以上の時間を掛けて、右手の指をすべて鳴らし終えた。
「いたくなかった?」
「痛くないって」
疑り深い。
「また、ならしていい?」
「いいよ」
そう答えると、ようやく笑ってくれた。



2015年10月25日(日)

「──…………」
パソコンチェアに深く腰を下ろしながらぼへーっとしていると、うにゅほが俺の頭に触れた。
なでなで。
くすぐったいが、悪い気分ではない。
「かみ、のびたねえ」
「伸びた」
最後に散髪をしたのは、いつのことだったっけ。
「このくらいのびるとね、かっこいい」
「カッコいいか」
「いちばんは、きったあと」
「やっぱり」
床屋行こうかなあ。
「切ったあとが一番で、いまくらいが二番なら、ちょっと前の半端な時期は?」
「──…………」
あ、苦笑してる。
つまりそういうことなのだ。
「しらが」
ぷち。
「……誤魔化してる?」
「うへー……」
ぷち。
「あっ」
間違ったらしい。
「ごめんなさい……」
「べつにいいよ」
ハゲる家系じゃないし。
「ながいと、しらが、ぬきにくい」
「そうなのか」
「とくていがむずかしい」
「髪、切ろうかな」
「──…………」
「──……」
ぷち。
「……もすこし、このまま」
「はいはい」
切るのはいつでもできるけど、伸びるまでには時間が掛かる。
うにゅほがいいと言うまでこのままにしておこう。



2015年10月26日(月)

早々と仕事を片付け、マットレスの上に倒れ伏す。
深呼吸。
うにゅほの香りがする。
「おつかれさまー」
なでなで。
頭を撫でられている。
「疲れた」
「ねる?」
「いや、夜に眠れなくなるから……」
仮眠はしばらく禁止である。
生活サイクルが戻りつつあるのに、元の木阿弥になっては事だ。
「××、なんか、漫画持ってきてくれる?」
「まんが?」
「小説でもいいけど」
とにかく読むものが欲しかった。
「……なんのまんが?」
「任せる」
「うーと……」
うにゅほが困ってしまうのがわかっていて、曖昧な注文をしている。
女の子をちょっとだけ困らせたいというのは、世の男性に共通する欲求なのではあるまいか。
「……これでいい?」
うにゅほが本棚から持ってきたのは、ますむらひろしの銀河鉄道の夜だった。
「お、いいな」
「──…………」
安心したように、うにゅほがほっと息を吐いた。
「ありがとう」
「うん」
マットレスにうつ伏せになったまま、両手を伸ばして漫画を開く。
「うしょ」
ずし。
「──……?」
背中の上に、暖かくて柔らかいものが乗ってきた。
「うへー……」
耳元で、照れたような笑い声。
くすぐったい。
「一緒に読みたいのか」
「うん」
親亀子亀になって読書をするのは久しぶりかもしれない。
夏場は暑くてやってられないからなあ。
「あったかいねえ」
「ああ」
しばらく読み進めていると、ふと首筋に寝息が触れた。
「──……すう」
どうしよう。
迂闊に動けない。
銀河鉄道の夜を読み終えたあとも、うにゅほが目を覚ますまで、トイレを我慢する羽目になったのだった。



2015年10月27日(火)

病院にて、ふと財布の中身が気になった。
「あー……」
「?」
「財布にお金入れるの、忘れてた」
「あらー」
気付いたのが会計待ちの時間でよかった。
「ちょっと、そこのコンビニで下ろしてくるよ」
「うん」
「悪いけど、先に呼ばれたら、そう説明しといてくれな」
「わかった」
「おとなしく人質になっているように」
「ひとじち?」
うにゅほが小首をかしげる。
「ほら、ずっと前だけど、ここでお金が足りなかったとき──」※1
「……あっ」
うにゅほの頬が朱に染まる。
思い出したらしい。
「むかし! むかしのこと!」
「はいはい」
恥ずかしがるうにゅほをなだめ、病院を後にする。
コンビニATMで一万円札を下ろしながら、ふと思った。
「……また飴もらってたりして」
うにゅほは、俺が目を離した僅かな隙に通りがかりの人から飴をもらう才能を天に与えられた少女である。
待合室へ戻ると、案の定だった。
「♪~」
ころころ。
「……何味?」
「ぶどう」
「誰からもらったの?」
注意したほうがいいかもしれない。
「うけつけの、おねえさん」
うにゅほが指さすほうに視線を向けると、四年越しの顔見知りである受付の女性が笑顔で頭を垂れた。
不器用に笑顔を浮かべ、返礼する。
「……知らない人じゃないから、いいのか」
「?」
「いや、こっちの話」
なんだか病院中の人間がうにゅほに飴を与える機会を窺っているような気がしてきた。
学齢期の少女が平日の昼間から大の男に付き添っているのだから、目立つし、印象に残りやすいのだろう。
「◯◯にも、あめあるよ」
「……ありがと」
温州みかん味のキャンディを口に放り込み、財布を取り出して、受付へと足を向けた。

※1 2011年12月20日(火) 参照



2015年10月28日(水)

「──つッ」
パソコンチェアに腰を下ろしたとき、尻に痛みが走った。
「どしたの?」
うにゅほプレイス※1でくつろいでいたうにゅほが、軽く身を乗り出した。
「いや、ちょっと……」
「?」
「ちょっと、尻に、おできが……」
「あー」
「座ったあとは気にならないんだけど、座るとき痛くてさ」
「みして」
「えっ」
「オロナインぬらないと」
「いや、自分で塗れるから……」
いくら相手がうにゅほでも、改めて尻を露出するのは恥ずかしい。
「ちゃんとぬれる?」
「塗れるって」
「さびお、はれる?」
「貼れるって」
「そか……」
どうして残念そうなんだ。
「××だって、おしり見せるの嫌だろ」
「うーん」
うにゅほが小首をかしげる。
「──…………」
「──……」
沈黙。
「……恥ずかしいだろ?」
「はずかしい」
こくりと頷く。
よかった、羞恥心はあるようだ。
「背中とかだったら、絆創膏貼ってもらったんだけどな」
恥ずかしくないし、そもそも届かないし。
「せなかにおできできたら、いってね」
「ああ」
「はるからね」
「わかった」
そんなに頻繁にできるものでもないが、そのときはうにゅほに頼むことにしよう。

※1 うにゅほプレイス
座椅子にクッション完備の快適空間
自室のソファが撤去された際、うにゅほの新しい居場所として冷蔵庫の隣に設置された



2015年10月29日(木)

風呂上がりのストレッチをしていたときのことである。
「ね、◯◯」
「んー」
「ふとった?」
「──…………」
前屈をしたまま、ぴたりと固まる。
「……わかる?」
「ちょっとふとったきーする」
「わかるかー……」
横っ腹の肉をつまむ。
全身にまんべんなく贅肉がつくタイプなので、悟られにくいが、確実に太った。
「……ダイエット、する?」
「ダイエット事案でしょうな」
「あんまし無理しないでほしいな……」
冬が近づくにつれ悪化していく俺の体調を心配してのことだろう。
「……あー、うん、今回はゆっくり落とそうかな」
「ほんと?」
「無理なく痩せるには、一ヶ月に3kgくらいがいいらしい」
「へえー」
うにゅほがうんうんと頷く。
「だから、今回は、一ヶ月で5kgくらいを目標にしよう」
「……むりなく?」
小首をかしげる。
「一週間に1kgくらいなら、無理じゃないと思うけど」
「うーん……」
「ほら、一週間に5kgとか言い出すよりはさ」
「うん」
深々と頷く。
「◯◯、すぐむりするから」
「つい、ゼロかイチかで考えちゃうんだよなあ……」
やるときはやり過ぎるし、やらないときはまったくやらない。
この考え方は正していくべきだろう。
「……でも、一週間で1kgって、さすがに余裕すぎないか?」
「そかな」
「一週間に2kgくらいでも──」
「──…………」
うにゅほの視線が痛い。
「……うん、一週間に1kgにしとこう」
「むりしない」
「はい」
心配してくれる誰かがいるということは、幸福だ。
冬に向けてゆっくりと痩せていこう。



2015年10月30日(金)

「いて」
ダンボールで親指の付け根を切ってしまった。
「あー……」
血が滲み出す様子をぼんやり眺めていると、
「ちー! ちーでてる!」
「××、ティッシュ取って」
「はい!」
舌先で血を舐め取ると、かすかに塩味がした。
「◯◯、これ、ティッシュ……」
「ありがとう」
「……いたくない?」
「痛い」
紙で指を切ると、刃物での切り傷より痛む気がする。
切れ味が鈍いせいだろうか。
「だいじょぶ……?」
「痛いけど、痛いだけだし、問題ないよ」
「オロナイン、ぬる?」
「血が止まってから」
「うん」
傷口をとんとんと叩くたび、鮮紅色の染みがティッシュに咲いていく。
思いのほか深く切ってしまったようだ。
「いたくない?」
「痛いよ」
「あんましいたくなさそう」
「痛い痛いって言ったところで、痛くなくなるわけじゃないしなあ」
「そかな……」
「あ、止まったかな」
「オロナインぬる」
「頼む」
「さびおもはるね」
「ああ」
オロナインはともかく、絆創膏は、片手では貼りづらい。
ほんのちいさなことだが、こんなとき、うにゅほがいてくれてありがたいと思う。
「はい、おしまい」
「ありがとうな」
なでなで。
手当てしてもらった方の手で、うにゅほの頭を撫でる。
「うへー……」
「さ、ダンボール畳んじゃわないとな」
「わたしやる」
「──…………」
しばし思案し、
「……気をつけてな」
「うん」
うにゅほに任せることにした。
畳んだダンボール箱は、いつものように、まとめて玄関に出しておいた。



2015年10月31日(土)

「──……ず」
サージカルマスクの下で、ちいさく鼻をすする。
鼻風邪を引いてしまった。
「……ほんと、季節の変わり目は駄目だなあ」
「ねたほういいよ?」
「いや、ちょっと、用事があるから……」
「ぱそこん?」
「そう」
「じゃあ、あったかくしないと」
そう言って、うにゅほがストーブの電源を入れる。
「はんてんきて」
「はい」
「くつしたはいて」
「はい」
言われるがまま対冬用装備を着込む。
「あったかい?」
「あったかい」
「よし!」
うにゅほが満足げに頷いた。
「あとは、にじゅうごどになったらストーブけして、にじゅうどになったらストーブつける」
「完璧だな」
「かんぺき」
完璧すぎて、逆に体が弱くなってしまいそうなほどだ。
「いつもありがとうな」
「うん」
「……あと、なんか、すまないな」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんであやまるの?」
「その、これだけ的確に動けるってことは、その数だけ、心配を掛けてきたってことだから……」
「──…………」
うにゅほの手が、俺の頬に添えられた。
「びょうにんは、そんなことかんがえないで、いいの」
「いや、病気のときだから──」
「いいの!」
ぺし。
両手で頬を挟まれる。
「わたしがかぜひいたとき、◯◯がかんびょうしてくれたら、いいの」
「……わかった」
「うへー」
その微笑みを見て、うにゅほが風邪を引いたときは嫌と言うほど甘やかしてやろうと心に誓う俺だった。

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