>> 2015年06月




2015年6月1日(月)

歯医者から帰宅し、玄関の扉を開くと、うにゅほが階段まで出迎えてくれた。
「おかえり!」
「ただいま」
「は、なおった?」
「──…………」
にいっ、と歯を見せる。
「なおった!」
「現代の歯科技術は凄いもんだ」
「どうやったの?」
俺が知りたい。
「なんか、変な光をピカピカ当ててた気がする」
「ひかり……」
うにゅほが小首をかしげる。
「……ひかりあてたら、はがはえてきた?」
「それはちょっと気持ち悪いなあ……」
「ひみつどうぐみたい」
「そこまでオーバーテクノロジーではないと思うけど」
自室へ戻り、検索をかけてみる。
「──コンポジットレジンっていう歯科用のプラスチックを使った治療法、らしい」
「ぷらっちっく……」
うにゅほは、プラスチックをプラッチックと発音する。
「もともとはペースト状なんだけど、特殊な光を当てると短時間で固まるんだってさ」
「あ、へんなひかり」
「たぶん、コンポジットレジンを固めるための光だったんだろうな」
「へえー」
うんうんと頷き、
「ひみつどうぐみたい」
先程と同じ言葉を口にした。
「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」
「……?」
うにゅほがきょとんとする。
言ってみたかっただけである。



2015年6月2日(火)

「××、これシュレッダー」
「はーい」
書き損じた書類をうにゅほに渡し、シュレッダーにかけてもらう。
ずごごごごごごご──
「──…………」
電動シュレッダーに吸い込まれていく書類を、うにゅほがじっと見つめている。
「◯◯、しゅれっだーこれだけ?」
「それだけ」
「ふうん……」
楽しいのか、なんなのか。
図面を引く手を止め、尋ねる。
「シュレッダーのゴミ、どれくらい溜まってる?」
このところ確認していなかった気がする。
「うーとね」
うにゅほがダストボックスを引き開けると同時、
ばささ!
「わああ!」
大量の紙クズがカーペットの上に溢れ出した。
「あー……」
「ごめ、ごめんなさい!」
「××のせいじゃないって」
どちらかと言うと、俺の怠慢である。
「そうじきもってくる!」
「ああ」
座椅子から腰を上げ、細断された紙クズをダストボックスに戻す。
よく燃えそうだなあ。
燃やさないけど。
うにゅほと一緒に掃除を済まし、大量の紙クズを台所のゴミ箱に捨てた。
「こまめに捨てないと駄目だな……」
「そだねえ」
「あれ、なにかに使えそうだなっていつも思うんだけど、思いつかないんだよな」
「わしゃわしゃってやつ?」
「……わしゃわしゃ?」
「ごみ」
「ああ、紙クズのことか」
「そう」
「頑張れば紙粘土とか作れそうだけどな」
「かみねんど?」
うにゅほが小首をかしげる。
「紙で作った粘土のことだよ」
「つくれるの?」
「いや、どうだろう。イメージで言っただけだから」
新聞紙から作れるのは知っているが、細断してあるとは言えコピー用紙の繊維では難しいような気もする。
「……まあ、作っても仕方ないし、素直に捨てるしかないかな」
「そか……」
ちょっと残念そうだ。
でも、紙粘土なんて、百均で売ってるからな。
小学生の自由研究でもなければ、わざわざ作る必要はない。
俺の心に潜む内なる小学生がやってみたいと騒いでいるが、大人だからやらない。
やらないのである。



2015年6月3日(水)

TSUTAYAで借りてきた「シャーロック・ホームズの冒険」を観ていたところ、うにゅほが「はー」と溜め息をついた。
「ホームズ、すごいねえ」
「そうだな」
三十年前のドラマだと言うのに、ちっとも色褪せない。
原作に忠実だからこその完成度だろう。
「ね、◯◯」
「うん?」
「ホームズとコナン、どっちがあたまいいの?」
「──…………」
難題である。
さて、なんと答えるべきか。
「……解決した事件の数なら、コナンのほうが多いだろう」
「ほー」
「でも、たぶん、ホームズのほうが頭いいってことになると思う」
「なんで?」
「コナンの作者はシャーロキアンだから、ホームズより頭脳明晰ってことにはしないはずだ」
「……しゃろ?」
「シャーロキアン。シャーロック・ホームズのファンのことだよ」
「へえー」
うにゅほがうんうんと頷く。
「じゃ、ふるはた」
「ホームズかな」
「きんだいち」
「たぶん、ホームズ」
「じっちゃん」
「……じっちゃん?」
ああ、名にかけられるほうか。
「金田一耕助も、ホームズに負けるだろうなあ」
近年の探偵は、ホームズより頭がいい設定にすると、角が立つからな。
「じゃあ、ホームズがいちばんあたまいいの?」
「そんなことはない」
「だれ?」
「エルキュール・ポワロ、エラリー・クイーン、オーギュスト・デュパン──過去の名探偵たちなら、ホームズと肩を並べるだろう」
少なくとも、そう主張しても嘲笑は受けまい。
なんだかメタ的な解釈になってしまったが、頭脳を比較する方法がないのだから仕方がない。
「むかしのめいたんてい、すごいんだ」
「そういうことになっちゃうな」
「ドラマある?」
「ポワロはドラマ化されてた気がする」
「みたい!」
「じゃ、TSUTAYAで探してみるか」
「うん」
しばらく名探偵漬けになりそうである。



2015年6月4日(木)

「あー……」
iPadを膝に乗せながら、うにゅほが落胆の声を漏らす。
「どうかした?」
「なめこ、またからしちゃった……」
大きく表示された原木に、緑色の枯れなめこがびっしりと生えていた。
「さすがに飽きてきたか」
「うーん……」
うにゅほが首をかしげ、思案する。
飽きるのも仕方のない話だ。
なにしろ、NPはとっくにカンストしているし、イベントも終えて、できることなんてほとんど残っていないのだから。
これでいて、意外とやり込み派なのである。
「──あ、そういえば、なんかなめこの新しいやつ出てたぞ」
「あたらしいやつ?」
「いまやってるのがデラックスだろ」
「うん」
「ネオなめこ栽培キットってのが、たしかあった」
「ねお」
「ネオ」
「どんなの?」
「ちょっと探してみるか」
「うん」
さっそく落としてみた。
「つまり、別のアプリで最初から──ってことらしいな」
「ふうん……」
うにゅほが滑らかな指さばきで次々となめこを収穫していく。
「──…………」
「──……」
「楽しい?」
「うーん」
「やらない?」
「やる」
やるらしい。
「なんか違うの?」
「わかんない」
そりゃそうか。
表情は変わらないが、心なしかわくわくしているように見える。
なめこ以外のアプリもやればいいのにと思うのだが、RPGはどうにも肌に合わないらしい。
ともあれ、楽しそうで何よりである。



2015年6月5日(金)

コンビニに立ち寄り、豆乳を買った。
「とうにゅうココアー」
うにゅほがストローに口をつけ、ちうちうと吸う。
「美味しい?」
「おいしい」
「豆乳嫌いなのに、それだけは好きだよな」
「うへー」
満足げに笑みを浮かべる。
「◯◯、なにとうにゅうだっけ」
「深煎りきなこ豆乳」
「きなことうにゅう……」
小首をかしげ、口を開く。
「だいず、だいず」
「……?」
「とうにゅうだいず、きなこもだいず」
「あ、そうか」
言われてみれば。
「ダブル大豆だな」
「うん、ダブルだいず」
信号を確認し、パックにストローをさす。
そして、ひとくち。
「あ、美味い」
「おー」
「すごいまめまめしいけどな」
「わたし、のめる?」
「……うーん」
どうだろう。
前述の通り、うにゅほは豆乳が苦手である。
紀文の変わり種豆乳の一部フレーバーのみ、例外的に飲めるというだけだ。
「やめといたほうがいいんじゃないか」
「──…………」
あ、飲みたそうな顔をしている。
「……試しに飲んでみる?」
「うん!」
「ほら」
「あー」
左手でパックを差し出すと、うにゅほがストローに吸いついた。
ちう。
「──…………」
「美味しい?」
「のめる」
美味しくはなかったらしい。
「まめまめしかったろ」
「まめまめしかった」
ストローに口をつける。
やはり、大豆の風味が濃い。
「でも」
「でも?」
「まめまめしさを、ごまかしてない」
食レポみたいなことを言い出した。
「××が苦手なのって、無調整じゃなくて、調整豆乳のほうだよな」
「うん」
「あれは、誤魔化そうとして失敗してるのか」
「しっぱいしてる」
うんうんと頷く。
「ココア豆乳とどっちが好きだ?」
「ココア!」
ちゅう。
うにゅほがココア豆乳を美味しそうに吸った。
「ひとくち」
「はい」
二本の豆乳を分け合いながら、のんびりと帰宅した。



2015年6月6日(土)

「──……ぶー」
ビッグねむネコぬいぐるみが、うにゅほの腕のなかでヒョウタンのようにくびれていた。
細胞分裂せんばかりの勢いだ。
「あー……、」
大丈夫か。
そう尋ねようとして、愚問であると気がついた。
答えなんてわかりきっている。
「……なんか、してほしいこと、あるか?」
「してほしいこと……」
ふすー。
ビッグねむネコぬいぐるみの頭頂部に呼気を送り込みながら、うにゅほが思案する。
しばしして、
「──…………」
ころん。
うにゅほがソファに寝転んだ。
「……おなかなでて」
「はいはい」
それくらいのことなら、いくらだってしてあげよう。
うにゅほの傍に膝を突き、ビッグねむネコぬいぐるみを受け取る。
そして、腹巻きの上からうにゅほのおなかを撫でた。
「……ふー」
長い吐息。
表情がかすかに緩んでいる。
「すこしは楽になりそうか?」
「ちょくせつ」
「うん?」
「ちょくせつなでて」
「──…………」
まあ、そのくらいなら、いくらでも。
腹巻きをめくり上げ、汗ばんだおなかに直接触れる。
なで、なで。
「──……ほー」
「どうだ?」
「もっとなでて」
「はいはい」
脂肪も筋肉も薄いふにふにとしたおなかを優しく撫でさする。
「──…………」
「──…………」
「……はっ」
気がつくと、左腕に抱えていたビッグねむネコぬいぐるみがヒョウタンのようにくびれていた。
右手の緊張が変な形で伝わったらしい。
うにゅほが寝入るまで撫で続け、腹巻きを下ろしてタオルケットを掛けた。
女性は大変である。



2015年6月7日(日)

今日は祖父の一周忌だった。
体調の優れないうにゅほと弟を置いて法要へと赴き、午後四時ごろ帰宅した。
「具合、どうだった?」
「だいじょぶ」
「そっか」
顔色は悪くない。
弟のように風邪を引いているわけではないし、問題なさそうだ。
喪服を脱ごうと襟に手を掛けた瞬間、
「あ!」
と、うにゅほが声を上げた。
「……?」
「ぬいじゃうの?」
「──…………」
なるほど。
スーツなんてそう着ないから、物珍しいのだろう。
「じゃ、もうすこし着てる」
「うへー……」
うにゅほが照れ笑いを浮かべる。
かわいい。
「あ、仕出しで出たお寿司、持って帰ってきたけど、食べるか?」
「たべるー」
ふたりでリビングへ行き、仕出し弁当の包みを開けた。
「わー……、あ?」
うにゅほが小首をかしげる。
「みどり……」
それは、鮮やかな緑色をした魚卵の軍艦巻きだった。
「なにこれ……」
気味悪そうに、海苔部分を箸でつつく。
「ああ、海老の卵だよ」
「えび?」
「嘘」
「うそ!」
「いや、俺たちも最初はそう思ったんだけど、海老にしては色が鮮やかすぎるんだよな」
「じゃ、なにー?」
「わからん」
「──…………」
うにゅほが眉をしかめる。
「ただ、味と食感からして、とびっこを緑色に染めたものだと思う」
「そめたの?」
「たぶん」
「なんで?」
「わからん」
「──…………」
うにゅほが眉をしかめながら、大きく首をかしげた。
「それ、食べるか?」
「……たべる」
食べるんだ。
「あじ、へんじゃないよね」
「ああ」
「した、みどりにならない?」
「ああ」
べ、と舌を見せる。
「──…………」
しばらく逡巡したあと、箸の先に魚卵を数粒ほど乗せた。
ぱく。
むぐむぐ。
「おいしい」
「とびっこ好きだっけ」
「すき」
うにゅほは、緑色の軍艦巻きを躊躇いがちに食べたあと、いくらとホタテとサーモンとエンガワをたいらげた。
食欲があるのは良いことである。



2015年6月8日(月)

「──……っ、はー」
自室の床に突っ伏しながら、体力の回復を待つ。
ズキン、ズキン。
心臓の脈動に合わせて目の奥が痛む。
頭蓋に杭を打たれているかのような気分だった。
「◯◯!」
頭上から声がした。
うにゅほだった。
「◯◯、だいじょぶっ!?」
「……大丈夫」
うにゅほに支えてもらいながら、ゆっくりと上体を起こす。
「かぜ、ひどくなった?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど……」
弟から風邪を伝染されてしまって、少々のどが痛む。
熱は、まあ、ないだろう。
しかし──
「……あれだな。風邪引いてるときに、筋トレしちゃ駄目だな」
「──…………」
びし。
「いて」
チョップされてしまった。
「……ばか」
「すいません……」
俺は、変に病弱なせいか、自身の苦痛に鈍感なところがある。
うにゅほからすれば、見ていられないのだろう。
「マスクして」
「はい」
「ふとんはいって」
「はい」
「ねて」
「こんな時間から眠れないんですけど……」
「──…………」
「はい」
目蓋を閉じる。
額に冷たい感触。
うにゅほの手のひらだろう。
「……ねつ、ちょっとある、かも」
「筋トレしたからじゃ」
「ねて」
「はい」
動悸が治まるにつれ、頭痛は徐々に引いていった。
同時に、すこしずつ意識が沈みはじめ、
「──……は」
気がつくと夜だった。
自分で思っていたより体調が悪かったらしい。
心配かけちゃ、いかんよなあ。
軽く自己嫌悪に陥る俺だった。



2015年6月9日(火)

家の裏手に住む兄妹のPCトラブルを解決し、謝礼にケーキとシュークリームをもらった。
「××、どっち食べたい?」
「いいの?」
「ふたつも食べたら太るしなあ」
「ありがとー」
うにゅほが紙箱を覗き込み、「うーと」と悩む。
そして、
「……◯◯、どっちたべたい?」
困ったような上目遣いでこちらを見上げた。
うにゅほには優柔不断のきらいがある。
俺に似たのかもしれない。
「じゃ、俺はこっちにしようかな」
チョコブラウニーを取り、小皿に乗せる。
「わたしこっち」
うにゅほがシュークリームを皿に移し、紙箱を軽く潰した。
グラスに牛乳を注ぎ、ブラウニーをひとくち食べる。
「──ぶ!」
「?」
シュークリームの上蓋をかじっていたうにゅほが、不思議そうにこちらを見やった。
「……オレンジ混じってる」
「あー」
うにゅほがうんうんと頷く。
俺の果物嫌いをよく知っているからだ。
「わたし、そっちたべる?」
「……あんま美味しくないぞ」
「たべたらおいしいかも」
「──…………」
まあ、好きな人もいるんだろうし。
小皿を交換し、フォークを渡す。
そして、ひとくち。
「……むぶ」
口に合わなかったことが一目でわかった。
「父さんにでも残しとくか……」
「うん……」
父親は好き嫌いがないので、残しておけばなんでも食べるだろう。
「で、シュークリームはふたりで──」
「……わけれる?」
コンビニで売っている98円のシュークリームならまだしも、質量の九割八分がクリームでは分けようがない。
仕方がないので、
「あー……、ぐ!」
シュークリームの半分ほどをひとくちで胃の腑に落とし、残りをうにゅほに手渡した。
「でっかいくちだねえ」
うにゅほがくすりと笑う。
「おいしい?」
「ふまい」
美味いが、普通のチョコブラウニーも食べたかったなあ。
そのうち自分で買ってこよう。



2015年6月10日(水)

たまには贅沢でもと、ハーゲンダッツを幾つか買い込んだ。
「濃いなあ……」
期間限定のリッチカスタード味の濃厚さに舌をヒリヒリさせていると、
「!」
不意に、うにゅほが天井を見上げた。
数秒ほど停止したのち、
「◯◯、◯◯、あーん!」
マカダミアナッツ味のアイスをスプーンいっぱいにすくい取り、俺の口元に差し出した。
「……?」
怪訝に思いながら、ひとくち食べる。
「!」
コリ、という歯ごたえに、思わず背筋が伸びた。
バターの香るシンプルなアイスクリームに、クラッシュしたマカダミアナッツがふんだんに練り込まれている。
「なんだこれ、美味い!」
「──…………」
うにゅほがうんうんと頷いている。
「うわー、俺もマカダミアナッツにしとけばよかった」
「りっちかすたーど、おいしくないの?」
「いや、美味いけど、普通……」
濃すぎるし。
互いにあーんをしあううち、ふとあることに気がついた。
「××、自分のアイス食べないのか?」
リッチカスタードは無くなりそうなのに、マカダミアナッツは半分以上残っている。
「たべてるよ?」
きょとんとした様子で、うにゅほが答えた。
「いや、あんまり食べてない」
「たべて──ない。ない、かも」
「マカダミアナッツ味、せっかく美味しいんだからさ」
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげ、問う。
「◯◯、マカダミアナッツ、すき?」
「好きだよ。××も好きだろ」
「すき」
こくりと頷き、
「すきだけど、◯◯にたべさせたげたほうが……おいしい?」
「聞かれても」
俺に食べさせたほうが、美味しい。
言っている意味はよくわからないが、俺に餌付けをするのが楽しいらしいことはわかる。
「じゃあ、俺が食べさせてあげよう」
「わー」
しかし、餌付けが楽しいのはこちらも同じなのだ。
気の合うふたりであった。



2015年6月11日(木)

「──…………」
「──……」
読書に没頭するうにゅほの横顔を眺めていると、不意にある衝動に駆られた。
「──…………」
ぷに。
うにゅほのほっぺたをつつく。
「──…………」
無反応。
ぷにぷに。
無反応。
すごい集中力である。
「──…………」
ふに。
「むい」
ほっぺたをつまむと、妙な声が漏れた。
「──…………」
だが、依然として無反応。
むにー、とほっぺたを伸ばす。
無反応。
ぱ、と手を離すと、ほっぺたがババロアのようにふるんと揺れた。
「──…………」
いつでもぷにぷにできるほっぺたがすぐ傍にあるのは役得だが、ちょっとくらいは反応してほしいものだ。
人差し指の爪が伸びていないことを確認し、
ぷにぷにぷにぷに!
百裂つつき。
「?」
さすがに気づいたうにゅほがこちらを振り返り──
すぽ!
「むぶ」
人差し指の先が、口のなかに入ってしまった。
「──…………」
「──……」
見つめ合う。
「──…………」
ちゅー。
「うひ」
吸われた。
慌てて指を抜く。
「なにー?」
「いや、なんでもない」
「ふうん」
うにゅほが、それ町14巻に視線を戻す。
「──…………」
「──…………」
ぷに。
「……なにー?」
あ、気づいた。
「なんでもない」
「そか」
今日のいたずらは、こんなところにしておこう。



2015年6月12日(金)

「××、帽子曲がってない?」
「しゃがんで」
膝に手を置いて軽くかがむと、うにゅほが俺の頭に手を伸ばした。
「んー、よし!」
「直った?」
「なおった」
「さんきゅー」
うにゅほの頭をぽんぽんと撫でる。
「わたしもぼうしかぶる」
「麦わら?」
「うん」
「もう夕方だけど……」
「だめ?」
「駄目じゃないけど、ちょっと邪魔くさいな」
「ふゆようのやつ……」
「暑いだろ」
箪笥の引き出しを開き、買ってから一度もかぶっていなかった白いワッチキャップを取り出した。
「これ、サイズ間違えたやつだけど」
「かぶっていいの?」
「いいよ」
ワッチキャップをかぶり、うにゅほが尋ねる。
「◯◯、ぼうしまがってない?」
「ちょい待ち」
帽子の傾きを直し、前髪を整える。
「よし!」
「なおった?」
「直った」
「にあう?」
「──……うーん」
腕を組み、首をかしげる。
「にあわない……?」
「いや、帽子は似合ってるんだけど、服と合わない」
今日のうにゅほの服装は、胸の下で絞るタイプのペールブルーのワンピースだ。
どちらかと言えば、麦わら帽子のほうが合っている。
しかし──
「◯◯、××、そろそろ行くよー!」
階下から母親の声がした。
「はーい!」
これから家族で回転寿司を食べに行くのである。
「あ、でも、ぼうし……」
「服装とは合ってないけど、似合ってるからいいんじゃないか」
「いいかな」
「ああ」
清楚なワンピースに合う麦わら帽子以外の帽子って、なんだろうか。
猫耳ニット帽とか?
嫌いじゃないよ。
嫌いじゃないけどさあ。
うん。



2015年6月13日(土)

「──……うわ」
姿見に映し出された自分の姿に、思わず顔を引き攣らせる。
サリーちゃんのパパみたいな寝癖がついていた。
「きょう、すごいねえ」
「すごいだろ」
「どんなねかたしたの?」
「普通に寝たと思うんだけどなあ……」
後頭部をボリボリと掻きながら、あくびをひとつ。
「……眠い」
「まだねる?」
「いや、起きる……」
いくら土曜日だからって、これ以上は寝ていられない。
「ねぐせなおさないと」
「直す……」
顎を撫でながら思案し、
「……いや、いいかな。出かける予定ないし」
「えー」
「だってこれ、直すとなると一仕事だぞ」
洗面所で髪を濡らし、ドライヤーで乾かし、櫛を通し、蒸しタオルを押し当て、以上を二、三度繰り返して、ようやく直るか直らないか。
「どうせ夜にはシャワー浴びるんだし、そのときでいいよ」
「シャワーあびたらなおる?」
「たぶん……」
「いまあびるの、だめなの?」
「──…………」
ぽん、と両手を打ち鳴らす。
「その手があったか」
「うん」
「昼間からシャワー浴びるとか、贅沢な休日って感じだな」
「そかな」
「風呂は夜に入るものっていう先入観が……」
「あー」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」

十五分後──
「びよん、びよん」
うにゅほが俺の濡れ髪を撫でつけて遊んでいる。
「なおんないねえ」
「ああ……」
どれだけ強靭な寝癖なんだ。
自分の髪の硬さに溜め息を禁じ得ない一日だった。



2015年6月14日(日)

「ゔー……」
首筋をバリバリと掻きむしる。
寝汗をかきすぎて、あせもができてしまった。
「ウナコーワもってきた」
「さんきゅー」
「ぬったげる」
「頼むー」
甚平の上衣をはだけ、首筋を露出する。
「──…………」
「……?」
「──……」
沈黙。
「おーい」
「あ、ぬるよー」
ぴと。
「うひ」
湿ったスポンジが首筋に押しつけられる感覚に、思わず妙な声が漏れた。
「くすぐったい?」
ぬりぬり。
「いや、最初だけだわ」
「そか」
「あ、それくらいでいいよ」
「はーい」
襟元を正し、振り返る。
「ありがとうな」
「も、だいじょぶ?」
「うーん……」
無意識に肘の裏側を撫でると、うにゅほがそれを指摘した。
「あかい」
「言われてみれば、かゆいな……」
「ぬったげる」
ぴと。
ぬりぬり。
「くすぐったくない?」
「ああ」
「ふうん……」
「なんでがっかりしてるんだよ」
「うへー」
うにゅほが誤魔化すように笑う。
「ほかはー?」
「そうだなあ──」
全身のあせもっぽいところにウナコーワクールを塗布しまくった結果、
「……俺、ハッカくさくない?」
「ちょっと」
「ちょっとかあ?」
随分と色々な場所に塗りまくられた気がするけれど。
そんなことを考えながら空気清浄機の前を横切ったとき、

──ぶおおおおお!

唸り声と共に、ニオイランプがオレンジ色に輝いた。
「くさいんじゃん……」
「ちょっとだけ」
うにゅほがちょっとと言うからには、けっこうくさいのだろう。
まあ、汗くさいよりはいいか。



2015年6月15日(月)

運動不足解消の方法を検討した結果、ジョギングなんていいんじゃないか、という結論に達した。
「──と、言うわけで、走るぞ!」
「おー!」
ランニングシューズまで買い揃えてしまったからには、逃げ道はない。
「サイクリングロードを経由し、水田を大回りして帰宅する!
 距離は2.5km!」
「お、おー……」
完走は無理としても、せめて1kmは走りたい。
念入りにストレッチを行い、万全の態勢で走り出した。

一分後──
「──……ぜ、はー、ぜ、はー……」
膝に手を突き、肩で息をしているのは、俺ではなくうにゅほだった。
「……大丈夫か?」
まだ100mくらいしか走ってないんだけど。
「ら、らいじょぶ……」
「嘘つけ」
運動不足の根が思っていた以上に深く、走ること自体が難しいようだった。
うにゅほの背中を撫でてやりながら、問う。
「いきなり張り切り過ぎたな。いったん帰ろうか?」
「──…………」
ふるふると首を振る。
「じゃあ、ウォーキングに切り替えよう」
「──……うん」
頷くうにゅほの手を取り、優しく引いた。
ウォーキングと言うより、ただの散歩になってしまったが、陽気のせいもあってそれなりに汗ばんだ。
「ただいまー」
「はー……」
玄関の扉を開き、上がり框に腰を下ろす。
「疲れた?」
「つかれた……」
「たまには運動しないとな」
「うん」
玄関の天井を見上げ、ゆっくりと息を吐く。
心地よい疲れ。
全身がぽかぽかと暖かい。
「──……アイス食べたいなあ」
「たべたい」
「ジェラート屋さん行くかー」
「いく!」
ウォーキングで消費したカロリーをすっかり無駄にする俺たちなのだった。



2015年6月16日(火)

「ぐう……」
うにゅほと一緒に昨日と同じコースをウォーキングしたあと、ひとりで1kmほどジョギングに勤しんだところ、足が上がらなくなってしまった。
「つん」
「──…………」
「つんつん」
「──…………」
「だいじょぶ?」
「そう思うなら、つつかないでくれよ……」
痛くはないけど。
「本当、ひどい運動不足だよなあ」
「うん……」
「十年前なら、たかだか1kmくらい──」
そこまで口にして、ふと気がついた。
「……俺、十年前からこんなもんだったわ」
「そなの?」
「よくよく考えたら、運動と名のつくものを自主的に行った記憶がない」
「えー」
「仕方ないだろ、ずっと文化系だったんだから」
体格がよく筋肉量が多いため、瞬発力を問われるものはそれなりだが、持久力が致命的にない。
ほとんどが速筋なのだろう。
「俺も問題あるけど、××だって同じだからな」
「うん……」
「ウォーキング続けないと、ぶよぶよになっちゃうかも」
「!」
うにゅほの背筋がピンと伸びた。
「……◯◯、ぶよぶよ、いやだ?」
「イヤってほどでもないけど、スリムなほうが好きかな」
「──…………」
ぐ、とうにゅほが拳を握り締める。
「ウォーキング、します、はい」
「ああ、頑張ろうな」
「うん!」
「……俺、明日は休むけどな」
明日は筋肉痛で死ぬ予定である。
明後日から頑張ろう、うん。



2015年6月17日(水)

「──……げ!」
体重計に表示された数字を見て、思わず声が漏れた。
「ふとった?」
「太った……」
「なんきろ?」
「5キロ……」
「ご!」
うにゅほが驚愕に後じさる。
「そ、そんなにふとったの……」
「まあ」
「あんましふとったかんじしない、けど」
「体脂肪率は下がってるからな」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「増えたぶんの体重は、筋肉だってことだよ」
「はー」
「もともと3キロくらいは増やすつもりだったんだけど……」
ボディビルには、増量期に筋肉と脂肪を同時に増やし、減量期に脂肪のみを削ぎ落として行くというトレーニング法があるらしい。
それを真似てみることにしたのだ。
「……あのね?」
うにゅほが遠慮がちに口を開く。
「◯◯、なんになりたいの?」
「──…………」
なんに、と言われても。
「腹筋バキバキに割ってみようかなって思って……」
「あんましむりしちゃだめだよ」
「いや、まあ、そうなんだけど──」
ふと気づく。
うにゅほが心配しているのは、「落差」なのだ、と。
毎日ダラダラと過ごしていたかと思えば、その翌日には無茶なトレーニングを始めたりする。
極端なのだ。
ゆっくりと改善していけばいいものを、1か0かという性格だから、うにゅほに心配をかけてしまう。
「……そうだな。ウォーキング始めたもんな」
「うん……」
「腹筋割るのは、もうすこし後にする」
「うん」
「現時点でも既に、けっこうバキバキなんだけどな」
ふん、と腹筋に力を入れる。
「触ってみ」
「かた!」
「ふはは」
アーノルド・シュワルツェネッガーよろしく筋肉モリモリマッチョマンの変態にでもなってやろうか。
嘘だけど。



2015年6月18日(木)

「暑いなー」
「あっちーねー……」
うにゅほに膝枕をしてもらいながら、iPhoneを操作する。
「うわ、25℃だって」
「うあー」
「暑いなー」
「あっちいねー」
「──…………」
「──……」
沈黙。
「◯◯、あつくない?」
「××のふともも、ひんやりしてる」
「そか」
「暑い?」
「ちょっとあつい」
「我慢」
「がまん」
何の権利で我慢を強いるのか、自分でもよくわからないが。
「◯◯、めがねとっていい?」
「いいよ」
眼鏡を外し、うにゅほに手渡す。
こん。
額に軽い衝撃。
「──…………」
燃料電池のひみつ。
図書館で借りてきた本の背表紙である。
「顔に乗せるなよー」
「だめ?」
「いいけど」
冷たくて気持ちがいいし、視界が薄暗くなってちょうどいい。
「──…………」
目蓋を閉じる。
開け放した窓から、公園で遊ぶ子供たちの声が聞こえる。
穏やかな時間だ。
「……さてと」
本格的に眠くなる前に上体を起こし、おもむろに伸びをする。
「もういいの?」
「暑いだろ」
「あついけど」
「そろそろ扇風機が欲しいなあ」
「ねー」
今年も暑くなるだろうか。
夏は嫌いじゃない。
うだるような暑さのなか、うにゅほと暑い暑いと言い合えれば、それだけで満足だ。
あと井村屋のあずきバー。
あれは美味い。
あと市民プール。
あと夏祭り。
盆踊り。
いろいろ。
つまり、楽しみだということである。



2015年6月19日(金)

ふたり並んでコストコのチーズケーキを食べていたときのことである。
「あ、が!」
「……あが?」
「ちいちゃいが!」
うにゅほが指さした先に、最近よく見るようになった体長1センチほどの蛾の姿があった。
「きんちょーる、きんちょーる」
「お待ち」
腰を浮かしかけたうにゅほを制し、おもむろに立ち上がる。
そして、
「──せいッ!」
短い呼気と共に、蛾を掴み取った。
「おー!」
ぱちぱち。
気の抜けた拍手を浴びながら、掌中の蛾をティッシュにくるむ。
「最近、コツがわかってきてさ」
「こつ?」
「飛んでる虫を掴むコツ」
「ほう」
うにゅほがちょっと身を乗り出した。
興味があるようだ。
「まず、立ちます」
「はい」
うにゅほが立ち上がる。
「直接パーで掴みに行くと、風圧で虫がどっか行ったりするだろ」
「──…………」
うんうんと頷く。
「だから、いきなり掴みに行かず、虫のすぐ横に向けて貫手を放ちます」
「ぬきて?」
「こう」
「こう?」
「そう」
「おー」
「貫手で突くと、風が起こらない」
「──…………」
うんうんと頷く。
「あとは、腕を胴体に引き戻すように、虫を掴むだけ」
ば!
貫手を放ち、
ば!
引き戻す。
「おー!」
「なんかちょっと空手っぽいだろ」
やってることは虫を掴む練習だけど。
「こうして、こう?」
「肘は突き出さなくてもいいよ」
「こう?」
「そうそう」
二、三度ほど練習したあと、
「やってみたい!」
「……と、言われてもなあ」
さきほどの蛾はティッシュに包まれ天寿を全うしてしまっている。
「次に出たときだな」
「そか……」
うにゅほが残念そうにうつむいた。
こればかりは仕方あるまい。
できれば次も、無害な小さい虫に出てきてほしいものである。



2015年6月20日(土)

「──……!」
悪夢に目を覚ますと、全身が汗まみれだった。
「……うわ」
パジャマ代わりの甚平が、湿っているのではなく、濡れている。
気持ち悪い。
慌てて上衣を脱ぎ捨て、手近なタオルで汗を拭う。
「わ!」
「……?」
自室の奥に目をやると、ソファに腰を下ろしたうにゅほが目元を本で隠していた。
「あ、悪い……」
デリカシーのない行動をとってしまった。
本棚の陰で着替えを済まし、布団乾燥機をセットする。
「これでよし、と」
「……◯◯、へんなゆめみたの?」
「変な夢というか、悪夢というか……」
「どんなゆめ?」
「えーと──」
記憶に残る夢の残滓を掻き集め、言葉を繕っていく。
「……なんか、そう、誰かにとても好かれる夢だったな」
「すかれる……」
「でも、夢のなかの俺は、それが嫌だった」
「すかれるのに?」
「誰かに好意を向けられるのが、必ずしも喜びに繋がるわけではないってことだよ」
「ふうん……」
あまり納得していないようだ。
「だれ?」
「……誰、だったんだろうなあ」
「おぼえてない?」
「すくなくとも、××じゃなかったことは確かだけど」
「……そか」
ちょっとだけ安心したような素振りで、うにゅほがちいさく頷いた。
「──…………」
「?」
なでなで。
うにゅほに好意を向けられる夢が、悪夢のわけがない。
それを直接伝えるのが面映ゆかったので、なんとなく頭を撫でてみた。
夢は夢だ。
意味なんて考えず、ただ忘れるにまかせよう。



2015年6月21日(日)

「──かーッ、美味い!」
昼間からビールをあおる父親を前に、うにゅほと目配せを交わす。
父の日ということで、ヱビスビール1ケースを折半して贈ったのだった。
「◯◯、お前も飲むか」
「俺はいい」
「お前はほんッと、子供舌だな!」
余計なお世話である。
「ちゃめ、ちゃめ来い! ひとくち飲んでみ」※1
「わたし?」
「未成年に勧めるなって」
「舐めるくらいいいだろー!」
「いいの?」
「──…………」
よくはないが、当のうにゅほがビールの味に興味津々である。
「ノンアルコールビール、飲んだことあるだろ。あれと同じだよ」
「◯◯、わかってねーな! ぜんぜん違う!」
違うらしい。
「ほれ、飲んでみ」
「うん」
グラスに注がれたビールにそっと口をつけ、
「──ッ!」
瞬間、うにゅほが固まった。
ジブリ作品であれば、背中まであるロングヘアがぶわっと逆立ったに違いない。
「にぎゃ、が、すっぱ!」
「わはははは!」
「言わんこっちゃない……」
台所で水を汲み、うにゅほに手渡す。
慌ててコップを傾けるうにゅほを尻目に、父親が口を開いた。
「大人の味には、ちょーっと早かったな」
「けほ、けほ!」
「……大人とか関係あんのかな」
大人になると苦味に強くなるのは、味蕾の数が減っていくからだ。
しかし、ビールは苦いだけではない。
要は好みと慣れの問題であって、大人かどうかは無関係のように思う。
「……もうのまない」
「それがいい」
「はっはっは!」
とりあえず、父親が喜んでくれたことについては、よかった。
父の日なので、それ以外のことは脇に置いておこう。

※1 父親はうにゅほのことを「ちゃめ」と呼ぶ。



2015年6月22日(月)

ヨドバシカメラでリビング用のシーリングライトを購入し、オーディオコーナーへと立ち寄った。
「いやほんかうの?」
「いいのがあったらなー」
「あいふぉんのやつ、こわれたもんね」
「ああ……」
iPhone用のカナル型イヤホンが、片側からしか鳴らなくなってしまったのだ。
適当なイヤホンを手に取り、うにゅほが呟く。
「たくさんあるねえ」
「たくさんあっても意味ないんだけどな」
「?」
「ここにあるイヤホン、ほとんどY字型なんだよ」
「……わい?」
「右耳と左耳のケーブルが同じ長さのイヤホンのこと」
「おなじなの?」
「同じなの」
「へんなの」
うにゅほが小首をかしげる。
「ふつう、かたっぽながいのに」
「……うん」
深々と頷く。
「片方が長いのはU字型って言うんだけどさ」
「ゆう」
「実を言うと、こっちのが珍しいんだよな」
「え!」
うちにあるイヤホンはすべてU字型だから、勘違いするのも仕方ない。
「へんなの……」
「変だよなあ」
「うん」
「××みたいにロングヘアだと、首の後ろに回さないから、あんまり関係ないと思うけどさ」
「◯◯、はずしたとき、くびにひっかけてるよね」
「そうそう」
それがU字型ケーブルの最大のメリットである。
というか、それができないのが、Y字型ケーブルの最大のデメリットだと思う。
「なんでU型が淘汰されつつあるのか、それがわからない……」
音質なんて絶対に大差ないのに。
「へんだねえ」
「変なんだよ」
変だ変だと言い合いながらヨドバシカメラを後にし、帰りしなに寄ったケーズデンキでオーディオテクニカのATH-CK505Mを購入した。
オーディオテクニカが最後の砦だ。
なんとか生産し続けてほしいものである。



2015年6月23日(火)

「──……ぶー」
枕に顔を突っ伏したまま、頼りない呼吸を繰り返す。
雨の日は苦手だ。
「◯◯……」
うにゅほの指が俺の寝癖をくしけずる。
「◯◯、だいじょぶ?」
「……ふーぶっふ」
「?」
「大丈夫」
枕から顔を上げ、ごろんと仰向けになる。
「仕事の時間までには、なんとか」
「うん……」
うにゅほの視線から逃げるように、そっと目を閉じた。
心配をかけてしまっている。
ここしばらくは体調がよかったから、余計だろう。
「ねる?」
「寝ようかな」
「これ、あいますく……」
「ありがとう」
手渡されたアイマスクを着けると、世界が真っ暗になった。
落ち着く。
「さむい?」
「ちょっとだけ」
「タオルケット、おなかまでかけるね」
「ああ」
「おなかこわしたらね、だめだから」
「うん」
「あ、おちゃのペットボトル、まくらもとにおいとくね」
「わかった」
ああ、俺はいま、甘やかされている。
「◯◯、ねれる?」
「うん」
「──…………」
「──……」
「あ、わたし、うるさい?」
「うるさくないよ」
「ほんと?」
「本当」
「──…………」
「──……」
ぺら。
ページを繰る音。
あたたかな気配に口元をほころばせるうち、意識が徐々に滑り落ちていった。
誰かが傍にいる。
それだけで、安心して眠ることができる。
自分は恵まれているな、と思った。



2015年6月24日(水)

「あ、あーあー、あ、え、い、う、え、お、あ、お」
「あ、え、い、う、え、お、あ、お?」
「か、け、き、く、け、こ、か、こ」
「か、け、き、く、け、こ、か、こ」
声がかすれているような気がしたので、軽い発声練習をしてみた。
「は、へ、ひ、ふ、へ、ほ、は、ほ」
「は、へ、ひ、ふ、へ、ほ、は、ほ」
「ま、め、み、む──」
「ま、め、む?」
ふと、あることを思いついた。
「まみむめも」
「まみむめも」
「××、唇を合わさずにまみむめもって言える?」
「くちびる?」
「そう」
うにゅほが怪訝そうに口を開く。
「うあ、に、う、え、の……」
「ま!」
「あ!」
「み!」
「んぃ!」
「言えてない」
「いえない!」
驚愕の表情を浮かべ、こちらを見返す。
「なんで?」
「いや、なんでかは俺もよく知らないけど」
「◯◯もしらないの?」
「知らないけど、バ行とパ行も同じだってことは知ってる」
「ば?」
「ば」
「うぁ」
「ぱ」
「んぁ」
「な?」
「いえない!」
「不思議だな」
「ふしぎ……」
うんうんと深く頷きながら、うにゅほが不思議に浸っている。
「なにぬねのはいえるのにねえ……」
「ナ行は、舌を上顎につけないと発音できないぞ」
「うわあご?」
「そう」
「あ、んに、ん、え、お、いえない!」
「不思議だな」
「ふしぎ……」
面白い。
発声練習は途中で止まってしまったが、うにゅほが楽しそうなのでよしとした。



2015年6月25日(木)

「うー……」
うにゅほがくしくしと目元をこする。
「めーかゆい……」
「こすり過ぎると、痛くなるぞ」
「でも」
「でもじゃなくて」
「はい」
「ほら、見せて」
「むい」
うにゅほの顎を持ち上げて、左の目蓋を上下に開く。
「赤いなあ」
「かゆい」
「まつげ──じゃ、ないな。なんでかゆいんだろう」
「わかんない……」
「目薬さしとこうな」
「うん」
「自分でさせるか?」
「……やってほしい」
うへー、と照れくさそうに笑う。
以前はなんでも自分でやりたがっていたように思うが、最近では素直に甘えることのほうが多くなってきた。
「さすぞー」
「うん」
ぽた。
「う」
「ぱちぱちして」
「はい」
うにゅほが目をしばたたかせる。
「どうだ?」
「きもちい」
ドライアイ用の目薬だけど、大丈夫だろう。
「目を開けてると痛いんだと思うから、目ー閉じて横になってな」
「はい」
目蓋を下ろしたまま手探りで枕を探し、ソファに横になる。
「閉じても痛いなら、氷にハンカチ巻いて持ってくるけど……」
「うん、だいじょぶ」
「そっか」
なら、よかった。
「ほんと、なんでかゆかったんだ?」
「うと──」
しばし黙考し、
「……わかんない」
「わかんないか」
そんなもんだろう。
綺麗好きのうにゅほのことだから、汚い手で目元に触れたわけではあるまい。
アレルギーかもしれないし、続くようなら対処を考えなければ。



2015年6月26日(金)

ドライアイ用の目薬が切れかけていたこともあり、新しい目薬を購入した。
「ろーと、ごーるどよんじゅう」
「そう」
「なにがよんじゅう?」
「説明書に書いてないか?」
「うーと……」
うにゅほが、取扱説明書に視線を落とす。
「かいてない」
「本当?」
「……あ、かいてた」
「だろ」
「こうおんのばしょ、かっこ、よんじゅうどいじょう、にほうちしないでください」
「それ違う」
「ちがうねえ」
結局、明記されていなかった。
有効成分の数か、対象年齢か、どちらかだと思われる。
「××、もう目はかゆくない?」
「うん」
「でも、いちおうさしとこうな」
「はい」
うにゅほが、ソファに腰を下ろしたまま、背筋を伸ばすように天井を見上げた。
さして、ということである。
うにゅほの傍に歩み寄り、そっと目蓋を押し開く。
「いくぞー」
「はい」
ぽた。
「う!」
点眼した瞬間、うにゅほが激しくまばたきを始めた。
「すーすーする!」
「あ、これすーすーするやつだったか」
「うー……」
「すまん、確認しなかった」
清涼感の少ない目薬ばかり買っていたためか、いつしかそれが当たり前になっていたらしい。
「……あ、でも、すーすーする」
「うん?」
「すごいすーすーのあと、きもちいすーすーする」
語彙が足りない。
「さしたあとは、気持ちいいのか?」
「うん」
「なら、悪くなかったかな」
「うん」
気を遣われたような気もするけど。
「あとは、自分でさせるようになればな」
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげる。
いまのところ、そのつもりはなさそうである。



2015年6月27日(土)

「◯◯、りょうてだしてー」
「両手?」
うにゅほの眼前に両手を伸ばす。
「くっつけてー」
「ああ」
手のひらを合わせる。
「がちょん」
と、両手首を軽く握られた。
「てじょう」
「──…………」
しばし思案し、
「……つまり、いま、手錠をされたってこと?」
「そう」
なるほど、そういう遊びか。
「ガシャーン!」
「!」
両手を思いきり離す。
「手錠破り!」
「なし、なし」
「駄目なのか」
「だめ」
駄目らしい。
「がちょん!」
今度は後ろ手に手錠を掛けられてしまった。
「うへー」
「──…………」
「──……」
「……?」
満足そうなうにゅほを前にして、ふと疑問が湧いた。
「手錠を掛けて、なにかしたいことがあったんじゃないの?」
「ううん」
ふるふると首を横に振る。
「特にないのか……」
「うん」
ノープランにも程がある。
「やめろー! 手錠を外せー!」
「だめ」
「このままじゃトイレにも行けないだろー!」
「あ、といれいきたい?」
「いやまだ」
「じゃ、だめー」
「くそー」
楽しそうである。
「◯◯、すわって」
「はいはい」
両手を後ろに回したまま、ソファに座る。
「いっしょにほんをよみましょう」
そう言って、うにゅほが俺の膝の上に腰を下ろした。
慣れ親しんだやわらかな重み。
「なに読むんだ?」
「うーとね、サイダーのひみつ」
「サイダーってたしか、平野水っていう鉱泉──」
「ねたばれだめ」
「はい」
窘められてしまった。
やはり、学研のまんがでよくわかるシリーズは面白い。
俺ですら面白いと思うのだから、うにゅほにとってはもっと面白いはずだ。
図書館にあるぶんは、全部読んでしまおう。



2015年6月28日(日)

「うう……」
ちいさくうめき声を上げながら、胃のあたりを撫でさする。
食事制限のおかげで空腹だった。
「……◯◯、あした、けんさ?」
「そう」
「おしりの……」
「おしりと言うか、大腸内視鏡な」
ポリープのできやすい体質である俺は、二年に一度の大腸内視鏡検査を義務づけられている。
「おしりじゃないの?」
「いや、まあ、肛門から入れるのはそうなんだけど……」
「う」
無意識にか、うにゅほが両手でおしりを隠す。
「◯◯、また、にゅういんするの?」
「ポリープが見つかったらな」
「──…………」
「でも、入院たって一泊二日だから」
「うん……」
うにゅほの寂しがりは、いつまで経っても治らない。
嬉しいような、困るような。
「それに、お見舞いに来てくれるんだろ?」
「うん」
「というか、ずっといるんだろ?」
「うん」
「じゃあ、寝るときいないだけじゃないか」
「あさもいない」
まあ、そうだけど。
「朝なんてだいたい寝てるだろ、俺」
「うん……」
「大丈夫、大丈夫」
「──…………」
「──……」
雰囲気が重い。
「……と言うか、まだ入院するって決まったわけじゃないからね」
「そだけど……」
うにゅほが再びおしりを押さえる。
「◯◯、ないしきょうだけでもたいへんなのに……」
「──…………」
ああ、そうか。
単に寂しがっているだけではなく、俺の心配をしてくれていたのか。
「大丈夫だよ、慣れてるから」
「なれてるの?」
「……変な意味じゃないぞ」
「へんないみ?」
あ、余計なこと言った。
「大腸内視鏡もこれで三回目だからな。いいかげん慣れもする」
「そか」
「だから、大丈夫」
「……うん」
うにゅほの表情が、すこしだけ明るくなった。
ポリープさえ見つからなければ、なんの問題もないのだけれど。



2015年6月29日(月)
2015年6月30日(火)

「と、いうわけで、ポリープを切除して参りました」
「──…………」
「──……」
「……おなか、いたくない?」
「大丈夫」
大腸に痛覚はない。
「ん」
待合室で待っていてくれたうにゅほから入院セット一式を受け取る。
「このあと、点滴だって」
「うん」
「暇だから、話し相手になってくれな」
「……うん!」
点滴をし、夕食をとり、病室の狭いサイドテーブルでなんとか仕事を済ませたあと、母親がうにゅほを迎えに来た。
「──……暇だ」
うにゅほが帰ってからが退屈だった。
持ち込んだハードカバーに目を通したり、iPadで動画などを見るうち、ようやく消灯時間がやってきた。
しかし、午後九時に眠れるはずがない。
悶々と一夜を過ごしたあと、朝食の流動食を無理矢理に流し込み、午前九時に退院した。
「ただい──」
「おかえり!」
玄関の扉を開くと、既にうにゅほが待機していた。
「……ただいま」
自分を待っていてくれる人がいる。
その事実が、如何に心を暖かくしてくれるものか。
「弟は?」
「たぶんねてる」
あのやろう。
いや、そっちが普通か。
「……はー、休むための入院なのに、余計に疲れたよ」
「なんでにゅういんだったの?」
「経過観察だよ。焼き切るから問題はないんだけど、たまに出血する人がいるから」
「ふうん……」
「××は、どうだった?」
「?」
「寂しかった?」
「さみしかった」
「よーしよしよし!」
「うへー……」
髪の毛がぐちゃぐちゃになるまで、うにゅほの頭を撫でる。
「さて、部屋戻るかー」
「うん!」
荷物を片付け、自室へ戻る。
PCの電源を入れたとき、異常に気がついた。
「……ネットに繋がらない」
「いんたーねっと?」
「あれ、なんでだ」
原因を調べたところ、どうやらマザーボードのLANポートが認識されていないらしい。
「なんでだー!」
「つながんないの?」
「繋がらない……」
「はー」
「最悪、Wi-Fiの受信機を買ってきて──」
などと考えながら幾度目かの再起動を行うと、繋がった。
「なんでだー!」
「つながった?」
「繋がった……」
ばたんとマットレスに倒れ込む。
「……疲れた。ちょっと寝る」
「うん」
そろそろ新しいPCを買うべきなのかもしれない。

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