>> 2015年03月




2015年3月1日(日)

「──おかえり!」
「ただいまー」
友人とゲーセン巡りをして帰宅すると、うにゅほが階段の下まで出迎えてくれた。
「じゃーん」
右手に提げた戦利品を掲げて見せる。
「なに?」
「PC用2.1chサラウンドスピーカー」
「……?」
「まあ、スピーカー」
「すぴーかー、あるよ?」
「どっちにしろ安物だから、ウーファーのぶんだけこっちのがマシかなって」
「うーはー」
「低音担当のスピーカーのこと」
自室へ戻り、箱を開封する。
「あ、すぴーかーみっつある」
「そうだな」
「したのすぴーかー、おっきいね」
「下の?」
「みぎのすぴーかー、ひだりのすぴーかー、したのすぴーかー」
「──…………」
間違ってはいない、ような。
まあいい。
スピーカーをPCに接続し、マイミュージックから適当なファイルを開く。
「……音、出てる?」
「ちっちゃい」
単に音量の問題か。
PC側でボリュームをいじると、ヴァネッサ・カールトンの「サウザンド・マイルズ」がスピーカーから流れ出した。
「お」
「おー」
「ふつうだ」
「普通だな」
「したのすぴーかーは?」
ウーファーのつまみを回すと、既に最大だった。
「……あれ?」
これで低音が響いているのだろうか。
試しに最小にしてみた。
「うわ」
「?」
「おもちゃみたいな音だ……」
もしかすると、ウーファーを備えることでようやく安物のスピーカー並みの音質になるのでは。
「……ま、いいけど」
音質を求めるなら、ヘッドホンがある。
ウーファーのつまみをいじって遊ぶうにゅほの様子を微笑ましく眺めながら、そんなことを思っていた。



2015年3月2日(月)

ローソンで今週のジャンプと缶ポタとココアを買った。
「そろそろ冬も終わるから、缶ポタ飲めなくなるなあ……」
ぱき。
車内でプルタブを開き、ひとくちすする。
「ふゆしかうってないの?」
「夏でも売ってるとは思うけど──」
指先を温めながら、吐息と共に言葉を継いだ。
「冷たいのは飲みたくないし、熱いのはもっと飲みたくない」
「あー……」
うにゅほが、うんうんと頷く。
半分ほど飲んだところで、いつものように缶ポタとココアを交換した。
「つぶ、つぶ」
「つぶ好きだなあ」
「うん」
クノールのカップスープはコーンがしなしなだから、うにゅほとしては物足りないのかもしれない。
「あー」
ミラジーノの天井を仰ぎながら、うにゅほが缶の底を叩く。
とにかく全滅させる気らしい。
「あとなんつぶ?」
「うーと、あと、はんふふ」
そのはしたない様子を、ココアの空き缶をもてあそびながら眺めていると、
「──ひふ!
 うふ、ケふ、えッふ!」
うにゅほが唐突に咳き込んだ。
「え、おい、大丈夫か!」
たぶん、缶の底から剥落したコーンが気管に入ったのだろう。
背中をさすってやりながら、うにゅほの口元に手のひらを差し出す。
「ほら、出して!」
「けふ、げほ、え──……、えふ」
ころ、ころん。
ふたつぶのコーンが手のひらに転がり落ちた。
「……うふう」
「大丈夫か?」
「うん、らいじょぶ……」
うにゅほの呼吸が落ち着くのを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
「──…………」
手のひらを見る。
コーンがふたつぶ。
しばしの逡巡ののち、
「……さすがに、ちょっと」
「?」
コーンをティッシュに包んでレジ袋に捨てた。
ちょっとだけ迷った自分が、恥ずかしいような、そうでもないような。



2015年3月3日(火)

市民図書館のホールの一角に、立派な雛人形が飾り付けてあった。
「あ、おひなさまだ」
「七段飾りだな」
「ななだんかざり?」
「七段だから」
「いち、にー……、あ、ななだんだ」
「わかりやすいな」
「わかりやすい」
「──…………」
物珍しそうに雛人形を眺めるうにゅほの姿に、ふと胸が痛んだ。
七段は無理でも、ちいさなものなら買ってあげられる。
そんな簡単なことを思いつきすらしなかった自分に呆れたのだと思う。
「……××」
「?」
うにゅほが振り返る。
「お雛さま、欲しいか?」
「どこおくの?」
「……これは無理」
置けないし、買えないし。
「たとえば、お内裏さまとお雛さまだけ、とか……」
「うーん……」
七段飾りのいちばん上の段を見やり、あっけらかんとうにゅほが答えた。
「いい」
あ、本当にいらないときの反応だ。
「うち、くまのおひなさまある」
「あー……」
三年前に百円ショップで買ったやつな。
うにゅほがいいなら、いいけどさ。
図書館からの帰り道、セブンイレブンで、小鳥の顔をした可愛らしいケーキをふたつ買った。
夕飯はちらし寿司だった。
デザートに小鳥のケーキを食べようとしたところ、ひなまつりという理由で母親に奪われてしまった。
うにゅほとはんぶんこしたケーキは、ちょっと酸味がきいていた。



2015年3月4日(水)

「あ」
ばさ。
紙束の落ちる音に顔を上げると、
「わああ!」
ばささささささ!
本棚で雪崩が起きていた。
絶妙なバランスで積み上げられていた漫画の山を、不注意で崩してしまったらしい。
「大丈夫か?」
駆け寄ると、うにゅほが慌てて漫画を拾い始めた。
「ごめ、ごめんなさ……」
「いいよ、本は割れない」
うにゅほの頭を撫で、膝を折る。
あずまんが大王、ねこむすめ道草日記、ハクメイとミコチ、うまるちゃん──
「けっこう落ちたな……」
「う」
「こりゃ、弟も驚いたかもな」
「……?」
うにゅほが不思議そうな顔をしてこちらを見上げた。
「なんで(弟)がおどろくの?」
「──…………」
おや?
「ここの真下、弟の部屋だぞ」
「えっ」
「知らなかったのか」
「かんがえたことなかった」
「うーん……」
まあ、そうか。
自宅の間取りなんて、日常的に意識することないしな。
「じゃ、お風呂の真上はどこだと思う?」
「おふろ?」
「そう」
「うと──」
十秒。
二十秒。
きっかり一分経過したところで、
「……わかりません」
自分の無力を儚むように、うにゅほが大きく肩を落とした。
「正解は、ここ」
うにゅほのベッドを、ぽんと叩く。
「え、ここ?」
「そうだよ」
湯船のちょうど真上に当たる。
「◯◯、おふろはいってるとき、このしたにいるの?」
「××が入ってるときもな」
「へえー……」
うんうんと何度も頷く。
「──…………」
風呂場の天井をノックしたら、驚いてくれるだろうか。
悪戯心が疼くのだった。



2015年3月5日(木)

「あ゙ー……」
父親好みのひりつくような熱い湯につかっていたとき、

──こん、こん、

と、遠慮がちなノックみたいな音が浴室内に響いた。
「……?」
脱衣所には誰もいない。
視力の悪い俺でもそれくらいはわかる。

──こん、こん、

天井を見上げる。
なるほど。
湯船から上がり、浴室の天井を指でなぞってみた。
ギリギリだが、届く。

──こん、こん、

三度響く音に、

──コンコンコン!

と、強めにノックを返してみた。
しばしの沈黙があって、

──こんこんこん、

音が変わった。
ちゃんと聞こえたみたいだ。

──コンコンコン!

と、返す。

──こんこんこん、

返ってくる。

──コン!

と、返す。

──こんこんこん、

──コンコンコン!

──こんこんこん、

──コン!

「ハッ!」
レベルが上がったような気がした。
ノックの応酬をやめて体を洗っていると、脱衣所のほうから足音がした。
「◯◯!」
うにゅほだった。
「おふろ、ほんとにへやのしたなんだね!」
「俺、嘘つかない」
「つぎわたしはいるから、ノックしてね」
「はいはい」
このくらいで喜んでくれるのだから、ありがたい。
「あ、ノックはするけど、絶対に返しちゃ駄目だぞ」
「なんで?」
「××の身長じゃ、天井に届かないだろ」
湯船の縁に乗って足を滑らせたりしたら、本当に洒落にならない。
「わかった」
「約束な」
「うん、やくそく」
うにゅほは約束を破らない。
数十分ほどのち、風呂あがりのうにゅほが、聞こえた聞こえたとはしゃいでいた。
楽しそうで何よりである。



2015年3月6日(金)

「──……ふふ、ふ……」
傾いだ市松模様の紙箱を振ると、ざらざらと安っぽい音がした。
「ついに買ってしまった……」
「それなにー?」
「サルミアッキ」
「さる、びあ?」
「サルミアッキ。世界一不味いと称されるアメちゃんだ」
「えー……」
うにゅほが嫌そうな声を上げる。
「なんでそういうのかうの……」
「世界一なんて言われたら、気になるじゃないか」
「そだけど……」
輸送時に潰れた箱を開封すると、真っ黒な菱型の飴がぎっしりと詰まっていた。
ひとつ取り出し、観察する。
「くろい」
「黒いな……」
嗅いだことのない不思議な匂いがする。
悪臭ではない。
だが、食べものの香りとはとても思えない。
「××も食べるか?」
「……えー」
「そうだな、やめといたほうが」
「たべる……」
食べるんかい。
「それじゃ、一緒にな」
「うん」
「──いっ、せー、のー、で!」
掛け声と共に、サルミアッキを口に放り込んだ。
まず感じたのは、強い塩味。
次いで、ねっとりと嫌らしい舌触りと、痺れるような苦味。
「……あれ?」
不味い。
不味いが、想像していたほどではない。
うにゅほの様子を窺う。
「──…………」
嫌そうに眉根を寄せながら、もごもごと口元を動かしている。
なんだ、こんなものか。
そう、うにゅほに笑いかけようとしたとき、
「……?」
不快感が徐々に増していることに気がついた。
味が、舌の上から消えていかない。
蓄積されていく。
そのことに気づいた瞬間、俺は、デスクの上にあった烏龍茶でサルミアッキを流し込んでいた。
危なかった。
このままでは、吐き出してしまうところだった。
ほっと一息ついたとき、
「──……うぶ、うええ」
「あっ」
うにゅほが、サルミアッキを手のひらに吐き出してしまった。
「ぶえ、ごべんなざいい……」
「……いや、俺のほうこそ、ごめん。マジで」
ジンギスカンキャラメルのような、笑える不味さを想定していたのだ。
これは、駄目だ。
テンションの下がる不味さだ。
ゆっくりとせり上がってくるから、吐き気を催すまで吐き出すことができない。
茹でガエルのようだ。
俺たちは、本当に不味いものを知らなかったのだ。
「……こういうの、もう、買わないようにします」
「うん……」
ふたりで肩を落とすのだった。



2015年3月7日(土)

「ふー……」
ネグリジェの胸元をぱたぱたさせて、うにゅほが深く息を吐いた。
「ちょっとあつい」
「確かに」
新しいファンヒーターには「快適おまかせ運転」というモードがあり、室温を自動的に調節してくれる。
しかし、エアコンとは異なり、常に一定の温度で送風し続けられるわけではない。
細かな調整は難しいのだ。
「じゃ、設定すこし下げよう」
「うん」
ぴ。
おまかせ運転を解除し、設定温度を22度にする。
「──…………」
「?」
うにゅほが、じ、とこちらを見つめていた。
視線の先は、俺ではない。
ファンヒーターだった。
「……とうゆ、きれないねえ」
その声は、残念そうな色に翳っていた。
なるほど。
「灯油タンク、前の倍はあるからな」
「うん」
「燃費もいいし」
「うん」
「灯油のにおい嗅げなくて、残念だ?」
「うん」
素直である。
うにゅほは、俺の手についた灯油のにおいをこよなく好んでいる。
中毒性でもあるのだろうか。
「灯油、汲んでこようか」
「まだあるよ?」
「切れてからじゃないと入れちゃ駄目ってわけでもあるまい」
「あるまいの?」
「あるまいよ」
ストーブの電源を落とし、以前のものより遥かに大きな灯油タンクを引き抜いた。
「わたしもいく」
「はいはい」
わずかの手間でうにゅほが喜ぶのなら、そうしてあげよう。
うにゅほがそうしてくれるように。
しかし、
「──…………」
「♪」
ふすふすふすふす。
「……んふう」
ふすふすふんすふんす。
「……うふー」
年々、嗅ぎ方に遠慮がなくなってきている気がする。
フェチなのかな。
どうかな。



2015年3月8日(日)

「──……あー」
なにもやる気が起きなかった。
やるべきことどころか、暇つぶしすらしたくない。
かと言って、具合が悪いわけではないから、眠くもないし寝る必要もない。
「……××、なんかやることないかな」
差し迫ったものがあれば、動けるような気がする。
「なんか……」
「そう、なんか」
「うー……、と」
うにゅほが深々と首をかしげ、
「……そうじ?」
と、自信なさげに言った。
「××、さっきしてたじゃん」
俺はちょっとしか手伝ってないけど。
「でかける……」
「行き先がなあ」
「いつものクレープやさんいく、とか」
「体重調整中」
たぶん、あまり食べてないから、やる気が出ないんだろうなあ。
「えーと、うんと……」
一所懸命に思案するうにゅほを見ていると、なんだか悪いことをしている気分になってきた。
「……××、ありがとう。決めた。今日はもうダラダラ過ごす」
キーボードを奥へと押しやり、デスクに思いきり突っ伏した。
「えー……」
うにゅほが不満げに声を上げる。
「なんかしよ」
「なんかって?」
「なんか……」
振り出しに戻る。
「……じゃんけんする?」
「してもいいけど、二分くらいが限界だと思う」
「じゃ、しりとりする」
「しりとりかあ……」
まあ、いいか。
「じゃ、しりとりのりーから」
「りんご!」
「ゴリラ」
「らいむぎ」
「ギター」
「た? あ?」
「た」
「たんぼ」
「ボール」
「るすばんでんわ」
「Wi-Fi」
「いー、いー、いんど」
「──…………」
「──……」
三回戦が終わるころには、十五分が経過していた。
時間は潰せたが、虚しさも募った。
ルールを追加してゲーム性を上げると、すぐに終わってしまうんだよなあ。




2015年3月9日(月)

「──……あふ」
大あくびをかましながら台所を漁っていると、カップのお吸いものが出てきた。
「おとうふと鯛つみれ……」
「おいしそう」
「朝飯、これでいいや」
「すくないね」
「調整中」
カップにお湯を注ぎ、掻き混ぜる。
立ちのぼる、芳しい──
「──…………」
とは、言いがたい香り。
「くさい」
「……うん、くさい。くさいよな」
俺の鼻がおかしくなったわけではないらしい。
なんだこれ、腐ってるのか?
発酵系の臭気じゃないから違うとは思うが、断言はできない。
「まつたけかおる……」
「松茸?」
「ここ」
うにゅほが商品名の上部を指さした。
「松茸……」
「これ、まつたけのにおい?」
「だとしたら俺は一生松茸なんて食べられなくてもいい」
そもそも松茸なんてものは希少性によって価値を認められているもので、味を評価されているわけではない。
日本では良いとされる香りも、欧米諸国では「靴下の臭い」などと貶められている。
「……まあ、本物食べたことないけどさ」
「たべたい?」
「同じ金額払うなら、寿司か焼肉でも食う」
「きのこだもんね……」
「でも、トリュフはちょっと美味そう」
「あ、わかる」
「あと、舞茸は美味い」
「うまい」
「松茸汁、飲む?」
「いい」
松茸の香り高いお吸いものは、飲み干したあとも香り高く、事あるごとに喉の奥からせり上がってくるのだった。
うん、やっぱ、松茸は一生食べたくない。




2015年3月10日(火)

「♪~」
お湯を注いで二分待ち、やわらかくなった春雨を箸でくるくる掻き混ぜる。
数本すくって口へと運び、
「──…………」
無言で開封したスープの袋を手に取った。
「……中華しょうゆ、だよな」
「?」
「××は、シーフード」
「うん」
ちゅるん、とうにゅほが春雨をすする。
「どしたの?」
「この箸、ちょっと使ってみてくれるか」
「……?」
うにゅほが俺の箸で春雨をすくい取る。
そして、
「──ぶ!」
軽く噴き出しかけた。
「まつたけ!」
「そう、松茸なんだよ……」
ちゃんと洗ったはずなのに、昨日食べた松茸のお吸いものの臭いが残っていた。
「まつたけ、しつこい」
「いや、たぶん、箸のせいだと思う」
「……はし?」
俺とうにゅほの箸は、出会ったころに土産物店で購入したものだ。※1
もう三年以上も使い込んでいるため、塗料が落ち、箸先の木地が剥き出しになってしまっているのである。
これでは臭気が染み込むのも無理はない。
「新しい箸、買うかな」
「ぶぇー……」
うにゅほが、自分の箸の先を不満げに噛んだ。
「おそろいがいい……」
「お揃いで買えばいいだろ」
「このはしがいい……」
「まあ、わかるけどさ」
うにゅほは、興味の範囲が狭いぶん、所有物への執着が強い。
しかし、そろそろ替えどきなのも事実だ。
「そうだなあ……」
どう説得すればいいだろう。
「──××、こう考えてみよう」
「?」
「箸は、いつか折れる」
「……うん」
「残念だが、折れた箸はもう使えない」
「うん」
「だったら、折れる前に引退させてあげたほうがいいよな」
「いんたい?」
「ああ」
「いまのはし、すてなくていい?」
「いいよ」
思い入れがあるのなら、大切に取っておけばいい。
俺も、そのほうが嬉しい。
「……じゃ、あたらしいはし、かう」
「そっか」
ほ、と胸を撫で下ろす。
箸を買い替えるのも一苦労である。
「ま、今日明日に急いで買う必要はないさ。いいの見つけたら、買おうな」
「うん」
説得したら喉が渇いた。
なにも考えずスープと春雨を掻き込んで、
「──……う」
再び、松茸の臭気に閉口したのだった。

※1 2011年11月27日(日)参照



2015年3月11日(水)

「──よし、できた!」
「できたー!」
「いぇー」
「いぇー」
うにゅほとハイタッチを交わし、組み立てたばかりの本棚を見やる。
大きさの異なる箱を互い違いに重ね合わせたような、デザイン重視の一品だ。
「電灯のスイッチがなければ、ふつうの本棚にしたんだけどな」
互い違いの部分がうまくスイッチを避けている。
あらかじめコンベックスで高さを測っておいたおかげで、迷わず購入することができた。
「でも、かっこいい」
「まな」
なんだかんだで俺も気に入っていたりする。
「パソコンチェアも買ったし、今日はなんだか盛り沢山だったな」
「そだねー」
「その代わり、すげえ疲れたけど……」
ぼす、とベッドに倒れ込む。
「だいじょぶ?」
「あー、大丈夫大丈夫。手のひら痛いけど」
「てのひら?」
「ほら、素手でドライバー握ったから……」
軍手でもすればよかった。
「てーみせて」
「はい」
うにゅほが、手相でも見るかのように、俺の手のひらをまじまじと観察する。
「あかくなってる……」
「だろうなあ」
「オロナインぬらないと」
「べつに──」
いいよと続ける前に、うにゅほが駆け足でリビングへと消えていった。
元気だなあ。
「ぬるよー」
「はいはい」
軟膏をたっぷりと指に取り、ぺと、と俺の手のひらを撫でる。
「うひ」
「くすぐったい?」
「だから、手は駄目なんだって……」
「がまんしてね」
「うしゃしゃしゃ!」
「がまん」
「──……う」
されるがままにしていると、右手がてかてかになってしまった。
でも、痛みは引いた気がする。
単に優しく撫でられたせいかもしれないけれど。



2015年3月12日(木)

本棚とチェアを購入した家具店に再度赴き、転倒防止グッズとボックスティッシュケースを買ってきた。
「……やっぱいいなあ、これ」
竹皮を編み込んだようなデザインのティッシュケースを、目に沿って撫でる。
「きのう、おかねぎりぎりだったもんね」
「小銭しか残らなかったもんなあ」
ボックスティッシュをケースに入れ、フタをする。
「ほら、どうだ」
「いいねー」
1,800円もしたが、いつまでも使えるものだし、無駄遣いには当たるまい。
「あー、このティッシュ残り少ないな」
「あたらしいのもってくる」
「ありがとう」
うにゅほの背中に礼を告げ、転倒防止グッズのほうに手を伸ばした。
粘着系のって大丈夫なのかな。
「──……◯◯ー」
しばらくして、情けない声を上げながらうにゅほが戻ってきた。
「これしかなかった……」
「うん?」
ボックスティッシュを受け取る。
「エリエール、贅沢保湿……」
高そうなティッシュだ。
しかし、問題はそこではない。
「……なんかこれ、縦に大きくない?」
「うん……」
具体的に言うなら、いま使っているネピアのおよそ二倍である。
「どうしてこんな……」
「なんか、やすかったんだって」
「──…………」
いちおうケースに入れてみる。
「はみ出るな」
「はみでる」
まあ、いいか。
こんな高そうなティッシュ、いつまでも買い続けるはずがないもの。
「しゃーない、ケースはしばらく仕舞っとこうか」
「うん……」
どうにもタイミングの悪い家系である。



2015年3月13日(金)

「──……すぅ」
祖母のお見舞いを終えて帰宅すると、うにゅほがソファで寝入っていた。
「……ただいま」
かさ。
ドーナツの袋をテーブルに置き、ジャケットを脱ぐ。
いくら暖かくなってきたとは言え、このままでは風邪を引いてしまうだろう。
起こさないようにジャケットを掛けるには、どうしたらいいのかな。
「──…………」
なにも浮かばない。
そっと静かに掛けるしかなさそうだ。
幸いにして、ジャケットを羽織らせても、うにゅほが目を覚ますことはなかった。
「……はあ」
溜め息をつく。
終わりが近づいている。
その道に苦しみしかないのであれば、はやく途切れてしまえと思う。
だが、現実は、そう都合よくも美しくもない。
編集のない悲劇は、ドブ臭く、みじめで、だらだらと長い。
「──…………」
ドーナツを取り出し、乱暴に食らいついた。
演技だ。
苛立ってなんかいない。
たまに、自分の理性が嫌になる。
「──……うぐ」
喉に詰まった。
詰まりそうだと思っていた。
慌てずに冷蔵庫を開き、牛乳をラッパ飲みする。
「ふう……」
ほっと一息ついたとき、うにゅほと目が合った。
「……ただいま」
「おかえり」
「ドーナツ買ってきたけど」
「たべる」
変なところを見られてしまった。
「◯◯」
「うん?」
「ぎゅうにゅう、コップでのまないとだめだよ」
「……すいません」
情けないなあ、とぼんやり思った。



2015年3月14日(土)

「──××、これ」
小綺麗な紙袋をうにゅほに差し出した。
「?」
「ホワイトデー」
「!」
すっかり忘れていたらしい。
「ロイズのショコラキュイだけど……」
「あ、おいしいやつ」
「そう」
うにゅほは、ショコラキュイのことを漠然と「おいしいやつ」と呼ぶ。
たぶん名前を覚えるのを諦めたのだろう。
「ありがと!」
「……どういたしまして」
きまりの悪さに顎を撫でた。
本当は、もっと凝ったものを贈るつもりだったのだ。
一昨年のように刺繍でもいいし、去年のように映画に誘うことも考えた。※1 ※2
そして、思案の末、お揃いの箸をプレゼントしようと決めたのだが──
「……結局、一緒に見て回ったほうがいいような気がしてきてさ」
「あー」
うにゅほが深々と頷く。
「うん、いっしょにさがしたい」
「そっか」
俺の判断は間違っていなかったようだ。
「あまぞんは?」
「ネット通販もいいけど、いちおう手に取って決めたくないか?」
「うむう……」
毎日使うものだから、妥協はしたくない。
「じゃ、はしやさん?」
「箸オンリーの店ってあるのかな」
「わかんない」
「とりあえず、店探しからだな」
「うん」
「××は、どんな箸がいい?」
「……うと、かわいいやつ」
うにゅほが、ちょっと照れながら答えた。
「──…………」
お揃いのピンク色の箸を使う自分の姿を想像して、想像しなかったことにした。
「……そのあたりは、うん、なんとかすり合わせていこう」
「?」
ホワイトデーには間に合わなかったが、できるだけ早めに購入したいものである。

※1 2013年3月14日(木)参照
※2 2014年3月14日(金)参照



2015年3月15日(日)

「♪~」
タイルカーペットの上でうつ伏せになりながら、うにゅほが漫画を読んでいた。
爪先がぴこぴことせわしなく動いているのは、ストーブで足を暖めているからだ。
「××、靴下履いたら?」
三月もなかばとは言え、今日は冷えるし。
「……うーん」
うにゅほは嘘をつかない。
その代わり、都合の悪いことは誤魔化そうとする傾向にある。
「はいきんしなきゃ、はいきん……」
わかりやすい。
「──ん、しょ! ん、しょ!」
指をしおりに漫画を閉じて、二十回ほど反り返る。
「ふー……」
汗を拭うふりをしながら、おもむろに立ち上がろうとして、
ごいん。
「わた!」
うにゅほのおしりがストーブに直撃した。
──PiPiPiPiPiPiPi!
「わああ!」
「あーあ……」
──PiPiPiPiPiPiPi!
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
甲高い電子音がうにゅほを焦らせる。
「ほら、電源ボタン押して」
「でんげん、でんげん──……、ない!」
ないわけあるか。
うにゅほを優しく押しのけて、ストーブの前に膝をつく。
「……あ、運転ボタンだった」
──Pi!
責め立てるような電子音が止まり、ストーブが運転を再開する。
「はー……」
うにゅほが、ほっと肩を落とした。
「××、おしりには気をつけないとな」
「……う」
恥ずかしそうに目を伏せ、うにゅほが靴下を履き始めた。
原因は靴下じゃないと思うけど、履いてくれるのなら、まあいいか。


────────※


2015年3月16日(月)

「……だー!」
仕事を終え、ベッドに倒れ込む。
マットレスが俺の体重を受け止め、ぽいん、と弾き返した。
「ははは」
この瞬間だけを切り取っても、マットレスを購入した甲斐があったというものだ。
「◯◯、それすきだねえ」
くすりと笑みを浮かべ、からかうようにうにゅほが言った。
「前も言ったけど、憧れだったんだよ」
夢見がちな少女のように天蓋付きのベッドを望んでいたわけではないが、それに近いものはあるのかもしれない。
「でも、ベッドこわれないかな」
「大丈夫だと思うよ」
「そなの?」
「このマットレスは、ポケットコイルって構造になっててさ」
ぽすぽすと叩きながら解説を始める。
「ぽけっとこいる?」
「コイルはわかるか?」
「はりがねぐるぐる……」
「そう。そのぐるぐるを袋に詰めて、たくさん並べてあるんだ」
「ほー」
「衝撃が分散されるから、全身で倒れ込むぶんには俺の体重でも問題ない──、はず」
たぶん。
「すごいねえ」
「でも、ひとつひとつのコイルは弱いから、立ったまま飛び跳ねたりすると歪んじゃうけどな」
「えっ」
「えっ?」
うにゅほが固まる。
「……たったら、だめ、なの?」
「いや、××の体重なら、立つくらいなら大丈夫だと思うけど……」
「ほんと?」
「本当」
「──……っ、はー」
ぽいん。
うにゅほが俺の隣に倒れ込んだ。
「びっくりした……」
「俺だってびっくりしたよ」
「たつのは、だいじょぶ?」
「ああ」
ベッドの上に立たなければうにゅほの身長では手が届かない位置にも、本棚が設えられている。
床から天井まですべて本棚、というのも考えものだ。
「とにかく、大事に長く使おうってことだな」
「うん、わかった」
乱れたうにゅほの髪を手櫛で直す。
マットレスの上に寝転がりながら、しばらくのあいだ談笑していた。



2015年3月17日(火)

ロートV11が切れたので、新しい目薬を買ってきた。
「どらいえいど、いーえっくす」
「今度こそ、ドライアイに効く目薬だぞ」※1
「どらいえいど、だもんね」
「意味はわかる?」
「わかるよ」
うにゅほが胸を張る。
「どらいは、かわく」
「そうそう」
「えいどは──……、えいどは、えいどは、」
「エイドは?」
「……えいどゅ」
「ちょっと英語っぽく言っても駄目だぞ」
「うー……」
「たぶん、ファーストエイドのエイドだろうな」
「ふぁーすとえいど?」
「応急処置」
「へえー」
開封し、説明書を広げる。
「箱にも書いてるけど、この目薬は超・高粘度なんだって」
「ねばねば?」
「たぶん」
「……ねばねばなの?」
「たぶん」
「それだいじょぶなの?」
「たぶん……」
念を押されると、なんだか不安になってきた。
「ちょっと指に出してみよう」
「うん」
「××、指」
「はい」
差し出された人差し指の先に、ドライエイドEXを一滴垂らす。
うにゅほの親指がしずくを押し潰し、ゆっくりと開いた。
「──……?」
「あれ、思ったよりネバネバしてないな」
「うん」
ふんふん。
うにゅほが自分の指先を嗅いだが、匂いはしないようだった。
「高粘度って言っても基準が水だから、そこまでは変わらないみたいだな」
「そっかー」
眼鏡を外し、点眼する。
ネバネバしないのはすこし残念だったが、目の乾きには効果があるような気がした。

※1 2014年12月7日(日)参照



2015年3月18日(水)

「──…………」
クレジットカードの利用明細を開き、うにゅほが絶句した。
「……う、と」
iPhoneの家計簿アプリを起動し、慣れた手つきで金額を入力していく。
「──…………」
「──…………」
「……あの、ね、◯◯」
「うん?」
「びっくりしないでね?」
「ああ」
「こんげつのししゅつ、もう、せんげつのばい……」
「そっか」
まあ、そんなところだろう。
「……びっくりしないの?」
「するなって言うから」
「えー……」
不満そうだ。
実に理不尽である。
「今月は大きな買い物が多かったから、それくらいは覚悟してたよ」
「えと、マットレスと──」
「パソコンチェアと、あと本棚もそうだな」
日記には残していないが、デスクトップのGPUも換装していたりする。
「ちょきん、へっちゃった」
「ずっと増やしてたんだから、たまにはいいでしょう」
「うー……」
ぽちぽちと家計簿をいじりながら、うにゅほが小さく唸り声を上げた。
「落ち着かないなあ」
「……うん」
「総額に比べて、それほど減ったわけでもないだろうに」
「そうなんだけど……」
iPhoneをデスクに置き、溜め息ひとつ。
「……ふえてないんだもん」
「増えてないと嫌なのか……」
「ちょっとだけ」
毎月すこしずつ増えていく貯金額を見るのが楽しみだったらしい。
悪いことをしたかもしれない。
「あ!」
不意に、うにゅほが声を上げた。
「わたしのちょきん、たしていい?」
とんでもないことを言い出した。
「駄目に決まってるだろ」
「えー……」
「駄目」
きっぱりと断る。
「××は××で、ちゃんと貯めときなさい」
「……はい」
不承不承といった様子で、うにゅほが頷いた。
いまは使わなくても、いつか必要になる日が来るんだよ。



2015年3月19日(木)

「──…………」
すんすん。
加湿空気清浄機の吹出口の上で、うにゅほが鼻を鳴らしていた。
「すっぱい!」
「そろそろ洗いどきかあ」
呟き、腰を上げる。
去年の末に購入した加湿空気清浄機は、手入れをしてから一ヶ月ほどで酢酸臭がし始める。
加湿器部分に雑菌が繁殖しているらしい。
「……うわ」
空気清浄機本体から加湿トレイを取り外すと、内側がすこしぬめっていた。
「ぬるぬるする?」
「する」
「わあー」
なんで嬉しそうなんだよ。
加湿器部分の手入れは簡単である。
加湿トレイは水洗い、フィルタは中性洗剤でつけ置き洗いをするだけでいい。
「うひー……」
楽しげな悲鳴を上げながら、うにゅほが水道でトレイを洗い流す。
指先でぬめりをこそぎ落とすのが楽しいらしい。
あまり理解したくない趣味だ。
「……トレイ洗ったら、ちゃんと手を洗いなおすんだぞ」
「はーい」
うにゅほが素直に頷いた。
以前「あらったのに?」と尋ねられたことがあったが、
「素手で便器を洗ったらどうする?」と問い返すと、いちおう納得してくれたようだった。
正直なところ、このぬめりがどのくらい不衛生なのか、よくわからないのだけれど。
「──できた!」
きゅきゅ、きゅ。
加湿トレイを指でこすり、得意げにこちらを見上げる。
「お疲れさま」
うにゅほの肩を揉んでやると、
「おう、おぅ、おう」
と、オットセイのような声を上げた。
うにゅほのおかげで俺たちの部屋は今日も清潔である。



2015年3月20日(金)

「──……う、ふう」
幾度めかの水音を背に浴びながら、トイレのドアを後ろ手に閉じた。
完全に下っている。
「だいじょぶ……?」
「……大丈夫じゃない、けど、自業自得っちゃ自業自得だし」
父親の誕生祝いで焼肉屋へ行き、そこでカルビだのロースだのシマチョウだのと脂の多い部分ばかりを食べ過ぎてしまったのである。
「◯◯、これ……」
うにゅほが差し出してくれたのは、六粒の赤玉はら薬だった。
「……ありがとな」
「うへー」
うにゅほの頭を左手でぐりぐりと撫で、水道水で赤玉を飲み下した。
たぶん、これで大丈夫だろう。
「◯◯、ねて、ねて」
「?」
うにゅほに袖を引かれるまま、ベッドに横たわる。
ぽむ。
ちいさな手のひらが俺の腹部を軽く押した。
「てあて」
「ほう」
「てをあてるから、てあてっていうんだって」
「へえー」
俗説だった気がするが、いちいち指摘するほど野暮ではない。
「──…………」
目を閉じる。
体温が高いのか、へその周囲が熱い。
まるで、手のひらサイズの太陽のようだった。
「……なでたほういいのかなあ」
「ふひ」
くすぐったかった。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫」
さすり、さすり。
うにゅほの手のひらが、へそを中心に楕円の軌道を描いている。
なんとも言えず心地いい。
「──…………」
「どう?」
「ああ、だんだん──、うッ!」
唐突な便意に上体を起こした。
「ちょ、ごめん、ちょ、トイレ……」
「あ、うん」
うにゅほを押しのけトイレに急ぐ。
ズボンのベルトを外しながら、俺は、ふとあることを思い出していた。
人間の大腸は、時計回りに円を描いている。
大腸の流れに沿うよう時計回りに腹部をさすると、便通がよくなる。
「──…………」
今度は、反時計回りに撫でてもらおう。
便器に腰掛けながら、そんなことを思うのだった。



2015年3月21日(土)

こん、
こん、
……こん。
「──……?」
断続的な音に振り返ると、うにゅほがペットボトルで自分の膝を叩いていた。
「なにやってんだ?」
「かっけ」
膝蓋腱反射、だっけ。
今度はなにを見たのやら。
「あしあがんない……」
こん、こん、こん。
「いたい……」
「痛くなるまで叩くことないだろ」
「でも、かっけになっちゃう」
なにやら勘違いがあるようだが、まあいい。
「××、それ貸して」
「うん」
未開封の爽健美茶を受け取り、ソファに座るうにゅほの前に膝を突いた。
「脚気の検査って、自分でやるとなかなか上がらないんだよな」
「そなの?」
「人にやってもらうと──」
こん、
こん、
こん、びよん!
「わ!」
「ほら上がった」
「あはははは! もっかい、もっかい!」
「はいはい」
こん、こん、びよん!
こん、びよん!
「……ふー」
「そろそろいいか?」
「うん」
満足げに頷き、ひょいと立ち上がる。
「ごはんのてつだいしてくるね」
壁掛け時計を見上げると、午後六時をすこし回ったところだった。
「行ってらっしゃい」
「いってきます」
うにゅほが台所へ向かったあと、チェアに腰を下ろし、膝の下を叩いてみた。
こん、
こん、
こん。
「──……?」
こん、
こん、
こん。
一向に跳ね上がらない。
えーと、たしか、膝の皿の下にあるくぼみのあたりだったよな。
こん、こん、こん、こん。
こんこんこんこんこんこんこんこん。
「……痛い」
脚気?
いや、まさか、でも、そんな。
「──…………」
ちょっと不安になって脚気について調べてしまう俺だった。



2015年3月22日(日)

「さて──、と」
メリケン針に黒糸を通し、細長く裁断した端切れを手に取った。
「なにするの?」
「ほら、こないだアイマスク買い替えただろ」
「うん」
「あれ、耳掛け型で具合がよくないから、頭の後ろを通るように改造しようと思って」
「そんなことできるの?」
「ああ」
左右の耳掛けを端切れで繋げばいいだけのことだ。
さして難しくはない。
注意すべきはサイズの調整くらいだが、アジャスター付きのアイマスクなので、さほど気にする必要はないだろう。
「◯◯、なんでもできるね」
「××だって、ボタン付けできるだろう」
「できるけど……」
「俺は、なんでも、最低限しかできないの」
「さいていげん?」
「咄嗟のとき、なんとか凌げればいいって考え方だよ」
初期スキルすべてに1だけ振っているようなものだ。
それ以上はできない。
する気もない。
「だから、××みたいに、毎日料理して、洗濯して、掃除して──そういう人には絶対に敵わないんだ」
「◯◯、りょうりできる」
「最低限な」
うにゅほが思うほど、俺は万能ではない。
「──よし、できた!」
「おー」
ぺちぺちと拍手をいただいた。
「みして」
「はいはい」
修繕したアイマスクを手渡す。
「──……?」
うにゅほが小首をかしげた。
「なんか、ねじれてる?」
「えっ」
アイマスクを受け取り、確認する。
ブリッジにした端切れがねじれ、メビウスのアイマスクになっていた。
「……な、最低限だろ?」
「あはー……」
苦笑されてしまった。
繕い直したアイマスクの着け心地は、それなりに納得の行くものだった。



2015年3月23日(月)

父方の祖父の七回忌をつつがなく終え、帰宅したのは午後三時だった。
「あ゙ー……」
世界が傾いでいる。
首が痛い。
車中、無理な体勢で居眠りをしていたものだから、軽く寝違えてしまったのだ。
「うー……」
俺と同じ方向に首を傾けながら、うにゅほが唸る。
うにゅータス、お前もか。
「くびいたい……」
「俺も」
「あ、◯◯、あたまだいじょぶ?」
「──…………」
さりげなく罵倒されたのかと思った。
「くるまんなかで、あたま、すごいおとしてた」
「音?」
「みちわるいとこ」
「──……?」
しばし黙考し、
「あっ、──いでッ!」
思い出した瞬間、脳天に鈍い痛みが走った。
そうだ。
整備されていない道を通り掛かったとき、車体が跳ねて、シートベルトのスルーリング部に頭頂部をしたたか打ちつけたのだった。
「……半分寝てたから忘れてた」
我ながら鈍感である。
「みして」
うにゅほの眼前へ頭を下げる。
さり。
指先が髪の毛を掻き分ける心地よい感触に、思わず目を閉じた。
「……うーん、こぶにはなってない、と、おもう」
「よかった」
「いちおうひやす?」
「そこまでしなくていいよ」
「じゃ、いたいのとんでけ、しとく?」
「……しといて」
気恥ずかしくはあるものの、悪い気はしないのだった。



2015年3月24日(火)

「──……ふう」
カーヒーターを切り、運転席の窓をすこしだけ開けた。
「あったかくなってきたなあ」
「うん」
うにゅほが楽しげに頷く。
「……ま、風景は一向に春じゃないけど」
「あはー……」
なにしろ、全高十数メートルはあろうかという雪捨場が左右にそびえ立っているのだから。
最短距離で祖母の病院へ行こうとすると、この道を通ることになる。
「ゆき、とけたねえ」
「道はな」
「もうすぐ、しがつだねえ」
「早いもんだ」
「そろそろ──、あ、むし!」
「えっ」
ぱん!
うにゅほが自分の膝を叩く。
春だなあ、などとのんきに考えながら、おもむろに窓を閉めた。
「そこ!」
ぱん!」
「いてっ」
不意にふとももを叩かれた。
「××、赤信号だからいいけど──」
「あー……」
自分の手のひらを見つめながら、うにゅほが嘆息を漏らした。
「つぶれちゃった」
「どれ」
どうせ孵化したての羽虫かなにかだろうと油断して覗き込んだところ、
「……うわっ」
軽く引いてしまった。
「なにこの虫……」
「わかんない」
初めて見る虫だ。
体長は1センチほど、オレンジ色をした棒状の体にちいさな羽根が生えている。
トンボにスモールライトを当てたような外見だった。
「……××、手ー拭きな」
「はい」
ティッシュを抜き取り、うにゅほに渡す。
「はるだねえ」
「……うん、たしかに、いま強烈に春を感じたけど」
あまり嬉しくない春の訪れだった。



2015年3月25日(水)

ヨドバシカメラから帰宅する道すがらのことだった。
「あっ」
助手席のうにゅほが、不安げに俺の袖を引いた。
「じこ……」
「あー、派手にやったなあ」
交差点の中央に、巨人にバンパーを剥がされたかのような惨状を晒すセダンの姿があった。
「ひと、ひとだいじょぶ?」
ちらりとうにゅほの顔を覗くと、目蓋をぎゅっと閉じていた。
「××、もう通り過ぎたよ」
「……ほんと?」
「嘘だと思うか?」
「──…………」
ゆっくりと目を開き、うにゅほがこちらを見上げた。
「ひと……」
「ざっと見た感じ、怪我人はいなかったよ」
「……そか」
ほっと胸を撫で下ろす。
「見た目は派手だったけど、怪我しても打ち身程度だと思う。たぶん」
「わかるの?」
「相手方の車も見たから、どういう事故かは大体わかるよ」
「へえー」
恐らく、直進車と右折車の衝突事故だろう。
右折車の鼻先が直進車の後部座席に突っ込んだが、完全に停止しなかった。
そのため、直進車にめり込んだままの右折車のバンパーが、シールでも剥がすかのように派手にめくれてしまったと思われる。
「あー、怖い怖い」
「◯◯、あんぜんうんてんね」
「いつも安全運転だよ」
「うと、あんぜんのなかの、あんぜん」
「わかった」
左手でうにゅほの頭を撫でようとして、
「あ、あんぜんうんてん!」
厳しく叱責されてしまった。
安心させようと思ったのだが、逆効果だったらしい。
しばらくして、赤信号に捕まったとき、うにゅほが俺の手を取った。
「?」
「あたま……」
遠慮がちにねだる。
「はいはい」
信号が青になるまでのあいだ、うにゅほの頭を撫でてあげた。
なんだかんだ言って、交通事故の現場を目撃したのがショックだったようである。



2015年3月26日(木)

iPhoneの電池が急にくたってしまったため、5sから6へと乗り換えることにした。
契約手続きを終えて帰宅し、さっそく箱を開封する。
「おー……」
「薄いな」
「うん、うすい」
「でかいな」
「うん、でかい」
5sと6を並べてみると、二回りほどの差があった。
Plusはどのくらい巨大なのだろうか。
「……画面が大きいのも良し悪しだよなあ」
「?」
うにゅほが小首をかしげた。
「おっきいの、だめなの?」
「駄目ってことはないけどさ」
5sを左手に、6を右手に持ち、それぞれ操作してみる。
「ほら、どう頑張っても、右手の親指が画面の左上に届かないだろ」
「あー」
「攣りそう」
「むりしない」
「はい」
5sでも両手で扱ううにゅほからすれば、画面は大きいほうが良いのだろうけど。
「──あ、そうだ」
いちおう尋ねておこう。
「××、古いほうのiPhone欲しい?」
「こっち?」
「そう。Wi-Fi繋がるから、家のなかでなら今までどおり使えるけど」
「うと……」
数秒ほど思案したのち、
「……つかわない、かも」
と、遠慮がちに答えた。
だろうなあ。
うにゅほの傍らには、既に、4GモデルのiPad miniがある。
どうせ両手で持つのであれば、わざわざ小さい画面でなめこを収穫する理由はない。
「じゃ、売ったお金で外食でもしようか」
「わあ」
ぱん!
不器用な音を立て、うにゅほが両手を合わせた。
「なにが食べたい?」
「おすし!」
「じゃ、はま寿司でも行こうか」
「うん」
弟を誘ってやろうかどうしようかと思案しながら、熱を帯び始めたiPhone6をデスクに置いた。



2015年3月27日(金)

「──はー、食った食った」
「くったくった」
シートを倒して腹をさすると、うにゅほが俺の真似をした。
「ははは」
「うへー……」
満腹は幸福である。
「……兄ちゃん、狭いんだけど」
後部座席の弟が不平を漏らす。
「寿司おごってやったんだから文句言うなよ」
「いうなよー」
なにも押し潰しているわけじゃあるまいし。
「あ、帰りコンビニ寄って」
「ローソンでいいか?」
「セコマ」
「帰り道にないじゃん……」
べつにいいけど。
そういえば、最近、セイコーマートのふわふわ大福を食べていなかったっけ。
デザートにちょうどいい。
「あれ、ないな」
「ない……」
最寄りのセイコーマートを見渡すが、スイーツコーナーにも、レジ横スペースにも、見当たらなかった。
売り切れたのだろうか。
「あー、あれ、しばらく見てねーかも」
レジ袋からあげせんを覗かせた弟が、財布を仕舞いながらそう言った。
それは困る。
なにしろ舌がもうふわふわ大福待ちなのである。
うにゅほに視線を送ると、目が合った。
「××、他のセコマも行ってみよう」
「うん」
同じことを思っていたようだ。
「あ、俺は家置いてって」
「このやろう」
べつにいいけど。
近所のセイコーマートを二軒ほど巡ったが、ふわふわ大福を見つけることはできなかった。
仕方がないので、トリプルクリームシューという二個入り270円のシュークリームをふたりで食べた。
美味しかった。



2015年3月28日(土)

「──……、は」
生あくびを噛み殺し、二度目の起床を果たした。
「あ、おはよ」
「……おはよう」
「まだねむい?」
「眠いけど……」
ぐ、と大きく伸びをすると、腰のあたりに鈍痛が走った。
これ以上寝るとまずい気がする。
「××、着替えるからちょっとそっち向いてて」
「はーい」
作務衣の紐をほどき、上半身をはだける。
ぽと。
ポケットから何かが転げ落ちた、気がした。
ま、いいか。
ぼんやりとした頭で着替えを済まし、
「××、もういいよ」
と、うにゅほに声を掛けた。
「うん──、ん?」
こちらへと向き直ったうにゅほが、俺の足元を指さした。
「なんかおちてる」
「ああ……」
拾い上げると、それは、ブラックペッパー入りとラベルの貼られたベビーチーズだった。
「……チーズ?」
どうして作務衣のポケットに。
たぶん、二度寝する前に入れたのだろうが、経緯がまったく思い出せない。
「チーズ」
「ああ」
「たべていい?」
「──……うーん」
少々悩む。
「?」
小首をかしげるうにゅほにベビーチーズを手渡した。
「ぶにゅぶにゅだ」
「体温で柔らかくなったんだろうなあ……」
あまり食欲の湧く状態とは言えない。
言えないのだが、
「──…………」
ぺり。
「え、開けるの?」
「え、あけないとたべれない……」
「……食べるの?」
「だめ?」
「いや、駄目じゃないけど……」
「♪~」
うにゅほが、ぶにぶにのチーズを躊躇いなく口に入れた。
「おいしい」
「美味しいのか……」
まあ、味はそうだろうけど。
「◯◯もたべる?」
「……じゃあ、ひとくちだけ」
ねっとりとしたベビーチーズを指先ですくい取るようにして食べると、クリーミーな舌触りだった。
「──…………」
美味しいは美味しいけど、やはり体温でぬくまったチーズには抵抗がある。
うにゅほはよく平気だなあ、と感心しながら、口のなかを烏龍茶で洗い流した。



2015年3月29日(日)

「はー……」
狭い店内を見渡し、うにゅほが溜め息をついた。
「はし、たくさんある」
「そうだな」
「はしやさんだ」
「いちおう、箸以外も売ってるみたいだけど……」
塗料の剥げ落ちかけた箸を買い替えるため、さっぽろ地下街にある箸の専門店を訪れていた。
その名に恥じぬ品揃えだ。
ひとつ問題があるとすれば、
「……色違いでお揃いとなると、夫婦箸になっちゃうんだよなあ」
夫婦でなければ使えないわけではないが、やはり、幾分かの気恥ずかしさはある。
「めおとばし?」
「夫婦の箸のことだよ」
「へえー」
うんうんと頷き、うにゅほが箸の物色に戻る。
あれ?
「これかわいい」
「……ちょっと子供っぽすぎないか?」
「あー……」
拍子抜けだった。
夫婦箸という言葉に対し、喜ぶか、嫌がるか、照れるか、困るか──いずれにせよ、なんらかの反応があると予想していたのだ。
「あ、これかっこいい」
「渋すぎる……」
黒檀の八角箸なんて、高級料亭じゃないんだから。
「じゃあ──」
しばし店内を見て回ったのち、
「あ、うさぎ!」
うにゅほが手にしたのは、斜めに寸断された箸頭にうさぎの装飾が施された夫婦箸だった。
「お、これいいじゃん」
可愛らしいが落ち着いたデザインだ。
これなら俺も文句はない。
黒いほうの箸を指さして、うにゅほが言った。
「こっちのうさぎが、だんなさん」
赤いほうの箸を手に取り、続ける。
「こっちのうさぎが、おくさん」
「──……?」
ふと違和感を覚え、自分の顎を撫でた。
「……箸の、旦那さん」
「?」
「箸の、奥さん」
「うん」
「××、もしかして──」
夫婦箸のことを、夫婦で使う箸ではなく、箸の夫婦だと思っている?
その発想はなかった。
「……このはし、いいなー」
「ああ、そうだな」
遠慮がちに言ううにゅほの頭を撫でて、うさぎの夫婦箸をレジへと持っていった。
少々高くついたが、長く、毎日使うものである。
大切に扱うことにしよう。

※1 2015年3月10日(火)参照



2015年3月30日(月)

「──…………」
ぽり。
魔方陣グルグルを読んでいたうにゅほが、無造作に膝を掻いた。
「──…………」
ぽりぽり。
何の気なしに見ていると、今度はネグリジェから覗くふとももを掻く。
「……?」
そこで、不思議そうに顔を上げた。
ぽり。
ぽりぽり。
再び膝を掻き、ふとももの裏側を掻き、足の甲を掻く。
皮膚が乾燥しているのだろうか。
「××、オロナイン塗るか?」
「──…………」
ふるふると首を横に振り、今度はふくらはぎを掻く。
「あんまり掻くと、ひりひりするぞ」
オロナインを手に取り、蓋を開いた。
「ちがくて」
むずむずと腰を浮かしながら、うにゅほが言葉を継いだ。
「どこかゆいのか、わかんない……」
「あー」
あるある、と俺は思うのだが、読者諸兄はいかがだろうか。
「そういうとき、わりと突拍子もないところが痒かったりするよな」
「とっぴょうしもないとこ?」
「足が痒いと思ったのに、本当は二の腕だったりとか……」
「にのうで」
ぽりぽり。
「……ちがう」
「たとえばね、たとえば」
「◯◯、てつだって……」
「はいはい」
ぽりぽり。
背中を掻く。
ぽりぽり。
首筋を掻く。
ぽりぽり。
膝の裏を掻く。
「……うー、うー」
しかし、痒い場所がわからない。
切なそうにうめくうにゅほの姿を見て、一計を案じることにした。
「──…………」
うにゅほの前に膝をつき、足の裏に指を這わせる。
「ひ」
ぴく、と動きが止まるのを確認し、
「こしょこしょこしょこしょ!」
思いきりくすぐってみた。
「うひ、ひ、ひはゃひゃひゃひゃ!」
「おらおらー!」
「ひゃめ、ひゃめへー!」
うにゅほのくすぐったポイントを巧みに攻め立て、三十秒ほど笑い転がしてみた。
「……ひ、ひー……」
「ふう」
くったりと力なくソファに横たわるうにゅほに問う。
「まだ痒い?」
かゆみ以上の刺激を与え、かゆみを吹き飛ばしてしまおうという作戦である。
「──…………」
「どう?」
「……かゆ、くない、けど」
「よしよし」
「よくないー……」
うにゅほはあまり納得いっていないようだが、目的は果たした。
及第点と言えよう。



2015年3月31日(火)

去年に引き続き、映画「ドラえもん のび太の宇宙英雄記」を観に行ってきた。※1
「おー、ひとおおい」
「そうだな」
「こどもおおい」
「春休みだからなあ」
多いと言っても、座席を埋め尽くすには程遠い。
普段、平日の昼間しか映画を観ないので、二割ほどしか埋まっていなくとも多く感じてしまうのだろう。
「──…………」
座席についてしばらくすると、むずむずと尿意が迫り上がってきた。
「……××、ちょっとトイレ」
「え!」
うにゅほが驚く。
「さっきいったのに」
「いや、なんか、これから二時間トイレに行けないと思うと……」
精神的なものとわかってはいるのだが、尿意に本物も偽物もない。
「悪い、ちょっと行ってくる」
「うん……」
館内の照明が落ちる前に戻ってこよう。
モギリのスタッフの会釈に苦笑を返し、小用を済ませてトイレを出ると、
「──……◯◯」
うにゅほが出入口付近の壁に背を預けていた。
「なんだ、寂しかったのか」
頭を撫でようとして、慌てて手を引っ込めた。
まだすこし手が湿っている。
「ちがくて」
「違うの?」
「なんか、いづらくて……」
「あー」
子供ばっかだもんな。
俺だって、とてもひとりでは観に来れなかっただろう。
うにゅほと一緒だから平気なのだ。
「いこ」
うにゅほが俺の腕を引く。
モギリのスタッフの苦笑に会釈を返し、急いで座席へ戻る。
すぐに館内が暗くなり、お決まりのCMが流れ出した。

──二時間後、

「おもしろかった!」
「うん、かなり面白かったな」
去年の映画は「のび太の大魔境」のリメイクだったが、今年は完全新作である。
クライマックスが少々あっさりし過ぎていたきらいはあるが、文句なしの良作と言えるだろう。
「らいねんもみたいな」
「いいぞー」
帰る道すがら、行きに見かけたジェラート屋へと立ち寄った。
ジェラートも当たりだった。
映画を観た帰りは、必ずここに寄ることにしよう。

※1 2014年3月14日(金)参照

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