>> 2015年02月




2015年2月1日(日)

「──……、ふ」
あくびを噛み殺し、半纏を羽織る。
寒い。
うにゅほがストーブをつけておいてくれたようだが、朝の冷気を閉め出すには、しばしの時間が必要らしかった。
「お、……ふぁよう」
リビングへ通じる扉を開き、うにゅほに挨拶をする。
「おは──」
うにゅほが顔を上げ、そのまま固まった。
「……?」
「◯◯、おっぱいでてる……」
視線を落とすと、
「うあ!」
作務衣の紐がほどけ、左の乳首がまろびでていた。
さすがにちょっと恥ずかしい。
「──…………」
努めて無表情を装い、紐を結び直す。
これでよし。
「……◯◯、あの」
「なにか?」
「さむえのひも、はんてんのひもにむすばさってる……」
「あっ」
よほど慌てていたのだろう。
自分が赤面症でないことに感謝する機会など、そう訪れるものではない。
「くふ」
「──…………」
「うぶ!」
笑いをこぼすうにゅほのほっぺたを両手で挟み、照れ隠しに揉みしだく。
「見ぃー、たぁー、なぁー」
「うぶぶ、ふふ、うくく……」
「笑うなー!」
しばらくじゃれあったあと、作務衣の紐を結び直した。
今月の不覚である。



2015年2月2日(月)

祖母のお見舞いの帰り道、パンケーキで有名な喫茶店へと立ち寄った。
「……ふんふ、や、き、すふれ」
「窯焼き」
「かまやきすふれ」
「俺はパンケーキにするけど、××はスフレでいいのか?」
「すふれって、なに?」
「なに、って──」
言われても。
「なんかこう、ふわふわーとしたケーキ、みたいな」
「ほー」
注文してしばらくすると、パンケーキが先に来た。
「あ、美味い」
ホットケーキミックスとは全然違う。
「ひとくち」
「ほれ」
切り分けたパンケーキに生クリームを乗せ、うにゅほの口元へ運ぶ。
「あー……、む」
もくもく。
「おいしい!」
「な」
パンケーキをふたりで分け合っていると、そのうちに窯焼きスフレが届いた。
うにゅほがスプーンでスフレの表面をつつく。
「かりかりしてる」
「表面はな」
薄い層が崩されると、ふわふわとろとろした黄色の生地が垣間見えた。
「いただきます」
あむ。
「!」
スプーンをくわえると同時に、うにゅほの動きが止まった。
「どうだ?」
「──…………」
「美味しい?」
「──…………」
うにゅほが無言で差し出したスプーンに、恐る恐る口をつける。
「……おお」
それは、幸せの味だった。
「なんだこれ、ものすごく美味い」
「おいしい……」
「××、もうひとくち」
「はい」
差し出されたスプーンに食いつく。
「──……ん?」
「あれ」
ふたくちめを食べたうにゅほが、俺と同様に首をかしげた。
「……××、悪いけど、もうひとくち」
「うん」
はむ。
「──…………」
「どう?」
「……飽きた」
「うん……」
ひとくちめは、あんなに美味しかったのに。
自分のパンケーキを食べながら、思う。
「最初だけすごく美味しいより、最後までずっとそこそこ美味しいほうがいいのかな」
「そだね……」
人生を学んだ気がする月曜の午後だった。



2015年2月3日(火)

節分である。
「わあー」
「今年も買い込んだなあ……」
優に二十本はある恵方巻が、食卓テーブルを黒く彩っていた。
毎度のことながら、買い過ぎである。
「俺、このエビフライ入ってるやつにしよう」
「うと……」
うにゅほは、しばし指先をさまよわせたあと、
「これにしましょう」
と、一本の太巻きを手に取った。
「カニマヨ?」
「かにかなあ」
「まあ、食べればわかる」
「うん」
母親に今年の恵方を尋ね、ふたり並んで正座する。
「──…………」
真正面にいた父親と目が合った。
嫌な予感がした。
「そう言や、会社のやつがカテキン入りの茶はいらねえっつーから持って帰ってきたんだけどよ」
恵方巻をくわえた瞬間、父親が狙い澄ましたように話しかけてきた。
「──…………」
「──…………」
黙々。
「お前ら、カテキンって何か知ってる?」
「──…………」
「──…………」
もぐもぐ。
「いや俺も緑茶に入ってるのは知ってるんだけどよ」
今年は随分と力技だな!
困惑している気配が隣からビンビン伝わってきていたので、全速力で飲み下し、うにゅほに耳打ちした。
「……んっぐ、俺が引き受けるから、××は目を逸らしてな」
「──…………」
こくり。
正座のまま、わずかに右のほうへと向き直る。
「カテキン入りの緑茶って、渋いやつじゃないの?」
父親にそう答えると、
「そっち、恵方か?」
と、うにゅほを見ながら愉快そうに言った。
「あっ」
「!」
脅威から守ろうとするあまり、恵方のことがすっぽりと抜け落ちてしまっていたらしい。
「あー……」
「──……けふ」
してやられた俺たちを肴に、父親は、ケラケラと笑いながらウイスキーをあおるのだった。



2015年2月4日(水)

「××、ちょっと端のほう押さえてて」
「うん」
コンベックスを伸ばし、すのこベッドの長さを測る。
「180cm──と、あとは誤差かな」
問題は、すのこベッドが、壁と柱のあいだにすっぽりと収まっていることだ。
「どう?」
「ギリギリだけど、確実に入らない」
「そか……」
「となると、家具の配置自体を一から考え直す必要が──」
「……あの、むりしなくていいよ?」
うにゅほが俺の袖を引いた。
「◯◯、ソファなのに、わたしだけ……」
「いや、ずーっと昔から思ってたんだ。寝心地のいいマットレスが欲しいなって」
「でも」
「半分は俺が使うんだから、いいんだよ」
もちろん、同衾という意味ではない。
生活サイクルのずれを利用して、うにゅほの起床後、ぬくもり残る寝床に潜り込むのが習慣となっているのだ。
「すのこが硬いからって敷布団重ねてるけど、ダニとか怖いしな……」
「……そなの?」
「そうだよ」
混じり気なしの本音である。
自分は我慢してうにゅほにばかり良いものを与えるだなんて、そんなことを考えるはずがない。
うにゅほが心を痛めるような真似は、しない。
「縦の長さが180cmくらいのマットレスがあればいいんだけどなあ」
「ないの?」
「ちょっと調べてみよう」
あった。
「おー、ショートシングル」
「なんセンチ?」
「100×181cmだから、すのことぴったり同じサイズ」
「いいねー」
「面倒だし、これにしよう」
ぽちぽちと注文を確定し、ささっとタブを閉じた。
「あ、ねだんみてなかった」
「──…………」
「おいくら?」
「……××、値段なんていいじゃないか」
「?」
「快適な睡眠に価格をつけようだなんて、無粋だと思わないか」
「でも、くれじっとかーどのめいさいくるよ」
「三万円でした」
「たかい!」
うにゅほは、ちょっとしか怒らなかった。
届くのが楽しみである。



2015年2月5日(木)

「うーん……」
姿見に映った自分を睨み、低く唸る。
「なんだろう、しっくり来ない」
「ぼうし?」
「ああ」
買ったばかりのニット帽を脱ぎ、髪型を軽く整えた。
「帽子が似合わないのは、もうどうしようもないんだけどさ」
「そかな」
「ほら、俺って頭でかいだろ」
「うん」
「──…………」
躊躇なく頷かれてしまった。
まあいい。
「……頭が大きい人は、大きな帽子を買えばいいよな」
「うん」
「でも俺、ぶかぶかの帽子が好きなんだ」
「はいいろのやつ?」
「そう」
「びろんびろんのやつ」
「そう」
「……あれは、うってないねえ」
もともと大きなワッチキャップの生地が更に伸びきった代物である。
いくらなんでも商品にはならないだろう。
ちいさな溜め息と共にニット帽を畳んでいると、うにゅほが口を開いた。
「ぼうし、のばしたらいいんじゃないかな」
「伸ばすって……」
ニット帽に両手を入れ、ぐいぐいと広げる。
「こうやって?」
「うん」
「──…………」
不可能ではないが、かなりの手間が掛かりそうだ。
思ったことが顔に出てしまったらしく、うにゅほが慌て気味に言葉を継いだ。
「じゃあ、じゃあ、うーと──」
振り子のように首をかしげ、
「ぼうし、ずっと、ひろげるから、なかに、なにかいれる……?」
「あ、なるほど」
それでは何を入れるべきかと自室をぐるりと見渡したとき、俺とうにゅほの視線が、ある一点で交錯した。
「ぬいぐるみ」
「ああ、ぬいぐるみだな」
俺たちの部屋には、ゲームセンターで獲得した特大サイズのぬいぐるみが幾つも飾ってある。
「はいるかな」
「やってみよう」
ポヨポヨ観察日記のポヨのぬいぐるみを手に取り、ニット帽のなかにギュウギュウに詰め込んでみた。
「──…………」
「はいった」
「入ったな」
「かわいい」
「妙に可愛いな……」
まるで、ジャケットの内側から入って袖口から顔を出した猫のようである。
「しばらくこのままにしておこう」
「うん」
帽子が伸びるかどうかはわからないが、ずっとこのままでもいいような気がしないでもないのであった。



2015年2月6日(金)

「──……う」
うにゅほの目が薄く開いた。
焦点が合っていない。
たぶん、まだ半分も起きていないのだろう。
携帯で時刻を確認する。
午前五時五十八分。
うにゅほの体内時計は、強靭で、正確だ。
「…………──……」
とろんとした瞳が隠れ、またゆっくりと目蓋が開いていく。
寝乱れた胸元がかすかに上下する。
呼吸が深い。
また眠りに落ちるのだろうかと興味深く見入っていると、
「……──!」
ぱ、と目蓋が開いた。
時刻を確認する。
午前六時。
「すごい、ぴったりだ」
「はれ、◯◯……」
「おはようございます」
「おあ、お、はようございます」
ぺこり。
うにゅほが首だけでお辞儀をした。
「◯◯、どしたの?」
「なんか寝れなくてさ」
あまりに暇だったので、うにゅほが起床する瞬間を観察していた次第である。
上体を起こしたうにゅほが、俺の腕を引いた。
「わたしおきるから、ふとんはいって」
「うーん、でもなあ……」
なんだか、このまま起きててもいいような気がしていた。
「ねないとだめだよ」
「眠れなかったから起きてるわけだし」
「あー……、あ、だめだめ」
不覚にも頷きかけたうにゅほが、慌てて首を振った。
「もっかいねて、ねれなかったら、おきよ?」
「……わかった」
うにゅほと入れ替わりで布団に入る。
「あったけー……」
「ねれそう?」
「それは、わからんけど」
熱を帯びたうにゅほの手のひらが、俺の額を優しく撫でた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ……」
立ち上がる気配、扉の開閉する音、両親の声、朝の天気予報──
気がつくと、午前十時を回っていた。
傍にいたうにゅほが、
「おはよう」
と言った。



2015年2月7日(土)

「──……は」
じゅる、とよだれを啜りながら、携帯で時刻を確認する。
午前八時五十分。
よかった、まだ大丈夫だ。
友人が十時半に迎えに来るのだった。
携帯のアラームを午前九時半から十時にセットし直し、再び目を閉じる。
ゆったりとした落下感にまどろんでいると、ルロイ・アンダーソンの「タイプライター」が携帯から流れ出した。
時刻を確認する。
午前十時。
まだ大丈夫。
携帯のアラームを十時十五分にセットし直す。
三度、目蓋を下ろし──
「……──◯、◯◯、けいたいなったよ」
「──……は」
じゅる、とよだれを啜りながら上体を起こす。
「いま何時?」
「じゅうじ、じゅうはっぷん」
「やべ」
手の甲で目元の眠気を拭い取り、眼鏡を掛ける。
「あ、らいんきてるよ」
「読んで」
「うと、すこしおくれるって」
「──…………」
眼鏡を外し、布団に突っ伏した。
「◯◯、だめだよー」
「眠い……」
「なんじにねれたの?」
「たぶん、五時過ぎくらい」
「ねれないねえ……」
「マットレスが届いたら、マシになる、気が、す──」
「だめだよー!」
うにゅほに胸を揺さぶられ、薄く目を開く。
「せめて、きがえてから」
「いいよ別に待たせておけば……」
「やくそくでしょ!」
「約束──」
約束。
うにゅほの口からその言葉を聞いた瞬間、すっと眠気が引いた。
「顔、洗ってくる」
「うん」
うにゅほの前で約束を破るわけには行かない。
見栄っ張りな俺は、たぶん、うにゅほがいるから自分を律することができている。
「じゃ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
うにゅほに見送られ、玄関の扉をくぐる。
人間の関係とは、面白いものだ。



2015年2月8日(日)

「──……だー! ELECOMめ!」
頭を抱えて天井を仰ぐ。
買ってきたばかりのBluetoothアダプタのデバイスをインストールしたら、PCにログインできなくなってしまったのだ。
「さっきかったやつ、だめなの?」
「それすらわからない……」
システムを復元する片手間に、極小サイズのアダプタを指先で弄ぶ。
思えば、Bluetoothアダプタをすんなり使えた試しがない。
「まえのやつ、こわれたんだっけ」
「壊れたわけじゃないけど、2m離れただけでブツブツ音が途切れるからさ」
「もうひとつなかったっけ?」
「あれはあれで、遅延がひどくて」
「ちえん」
「映像と音が1秒ずれてたら、動画なんてまともに見れないだろ」
「あー……」
うにゅほがうんうんと頷く。
「ひもながいのは、だめなの?」
紐て。
イヤホンコードのことを言いたいのはわかるから、問題はないけど。
「いくら長くても、仕事しながらだとさすがに遠いよな」
「すぴーかー……」
「動画サイトで怪談流しながら仕事するのが好きなんだけど、××あんま聞きたくないだろ。怪談」
「ききたくない」
「そういうこと」
「うん……」
なにか方法があるはず、とばかりに、うにゅほが大きく首をかしげた。
「とりあえず、明日にでもELECOMのサポートに電話して──」
「かいだんききながら、しごとしたい」
「あ、うん」
「すぴーかーは、つかわない」
「××、部屋から追い出したくないしな」
「あいぱっどは?」
「──…………」
「──…………」
「あっ」
iPadで動画を開き、イヤホンで聞く。
完璧である。
「よーしよしよしよし」
「あうあうおうあう」
嬉しいと迷惑のあいだくらいの表情を浮かべたうにゅほの頭を撫でくりまわし、指先に挟んでいたBluetoothアダプタをデスクの上に置いた。
思わぬ方向から解決してしまった。
でも、Bluetoothはいちおう使えるようにしておこう。



2015年2月9日(月)

「◯◯、◯◯ー」
リビングから戻ってきたうにゅほの両の手のひらに、小綺麗な青い箱が載っていた。
「チョコたべる?」
「えっ」
バレンタイン直前の、このタイミングで?
虚を衝かれ一瞬戸惑ったが、詳しく聞くと、単にテーブルの上にあっただけのものらしい。
「まかだーみあん」
機嫌よく呟きながら、うにゅほがマカダミアチョコレートを口へと運ぶ。
「……美味しい?」
「ほいひー」
たいへん満足そうである。
マカダミアナッツ、好きだもんな。
「◯◯も、はい!」
「ああ、うん」
舌の裏でチョコレートを転がしながら、内心では忸怩たる思いに駆られていた。
五日も前にチョコを差し出されて狼狽するくらい、俺はバレンタインデーを楽しみにしていたらしい。
「この年で……」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
誤魔化すように口に放り込んだチョコレートを、マカダミアナッツごと噛み砕いた。
バレンタインか。
うーん。



2015年2月10日(火)

「◯◯、おやつあったよ」
そう言ってうにゅほが差し出したのは、ギンビスのたべっこどうぶつだった。
「──…………」
「なんかたくさんあった」
母親がコストコで大人買いしたものらしい。
「ぎゅうにゅうのむ?」
「……飲む」
これは、食べてもいいものか?
いや、いいんだろうけど、対象年齢的にどうなのだ。
「あ、おいし」
WOLFをぽりぽり齧りながら、うにゅほが感嘆の声を上げた。
「──…………」
似合っている。
似合ってはいけない年齢のはずだが、似合ってしまっている。
複雑な心情に揺れ動きながら、RHINOCEROSを口に運んだ。
「美味い……」
牛乳との親和性が異常に高い。
安定のギンビスである。
もくもくと食べ進めるうち、ふとあることを思いついた。
「××の英語力を試してみよう」
「ほほう」
「さて、この動物はなんでしょう」
袋に手を入れ、適当に取り出す。
DOG。
「ばかにしてる?」
「……すまん、ちゃんと見てから出題します」
どのくらいの難易度が妥当なのだろうか。
軽く思案し、
「じゃ、これ」
DUCK。
「あひる!」
GOAT。
「やぎ」
SPARROW。
「つばめ?」
「惜しい、スズメだ。ツバメはSWALLOW」
「あー」
POLAR-BEAR。
「うと、たぶん、ほっきょくぐま」
「正解!」
けっこうわかるもんだな。
「◯◯、これなに?」
「どれ」
うにゅほが手にしたのは、PEAFOWLだった。
「……ピーフォウル?」
「わかる?」
「わからん」
初めて見る単語だ。
「まあ、こういうのは形がヒントになってるから」
「かたち……」
「──…………」
「……えびふらい?」
「エビ、ではない。たぶん」
iPhoneで検索してみると、どうやらクジャクのことらしかった。
「クジャクに見えないよなあ」
「えびふらい」
正直、エビフライにも見えない。
ともあれ、たべっこどうぶつは思いのほか美味しいお菓子だった。
機会があればご賞味あれ。



2015年2月11日(水)

からん。
食器棚から取り出したロックグラスを氷で満たす。
「◯◯、おさけのむの?」
「ああ」
「なんか、ひさしぶりだね」
「正月の梅酒が残ってたからさ。駄目だったか?」
「ううん」
うにゅほが首を横に振る。
「たまにだから、いいよ」
「そっか」
「うめしゅもつ」
「ちょっと重いぞ」
「もつ」
未開封のまっこい梅酒2000mlパックをうにゅほに渡し、自室へ戻った。
「おしゃくしますよー」
「お」
赤い外蓋を開き、うにゅほが紙パックを傾ける。
「ささ、いっこんどうぞ」
「はい」
「おっとっと、は?」
それ好きだなあ。
「はいはい、おっと──」
「……?」
梅酒が出てこない。
「××、内蓋取ってないんじゃ」
「あ」
うにゅほが恥ずかしそうに片手でほっぺたを包んだ。
「……かんわきゅうだい」
それ、使い方合ってるかな。
今度はしっかりと内蓋を引き抜いてから、
「いっこんどうぞ!」
「おっとっとっと……」
金色に輝く酒が、ロックグラスになみなみと注がれた。
「お、太っ腹だな」
「こおりはいってるから」
「なるほど」
そう頷き、ずず、と啜る。
甘い。
熱い。
鼻孔を満たす梅の香りが、焼けた鉄に変わりながら食道を流れ落ちていく。
「おいしい?」
「美味い」
「そか」
うにゅほが微笑んだ。
「××も、二十歳になったら一緒に飲もうな」
「うん」
法律なんてどうでもいいが、アルコールは内臓に負担のかかるものだからな。
うにゅほが二十歳になったとき、俺はいったい何歳だろう。
「──…………」
なんとなく気が滅入り、グラスを一気に飲み干した。



2015年2月12日(木)

「──見る」
「?」
「見るって、どういうことだろうな」
「あった?」
「光が網膜へ入射した瞬間、人間はそれを見たことになるのだろうか」
「──…………」
「それとも、電気信号が神経を伝って脳に達した瞬間?」
「のうに」
「たとえば、新宿の往来の写真をたった一秒だけ見せられたとして、そこに写っていた数百人すべての顔を〈見た〉と言えるかな」
「うーん」
「でも、その写真の中央に、場違いなウェディングドレス姿の女性が写っていたとしたら、話はすこし変わってくる」
「うん」
「写真のなかに目を引くものがあれば、それを〈見た〉と言って差し支えないはずだ」
「うん」
「認識と記憶」
「きおく」
「いくら網膜が映しても、いくら脳が処理しても、認識と記憶が伴わなければ〈見た〉とは言えない」
「いえない」
「そこで、これを見てほしい」
「あ、ほんだ」
「そう、本だ」
「あったの?」
「あったの」
「どこにあったの?」
「──…………」
す、とデスクの上を指さす。
「えっ」
「ここに……」
「あんなにさがしたのに」
「いくら網膜が映していても」
「あー、うん」
うにゅほが生暖かい笑みを浮かべる。
俺の長広舌が照れ隠しであることを察したらしい。
「違うんだ、意識の死角にだな」
「あるある」
「××も気づかなかっただろ!」
「わたし、どんなほんかしらなかったもん」
「──…………」
そりゃそうだ。
「……ボケてきたのかな」
「ぼけてもだいじょぶだよ」
うにゅほが自分の二の腕を叩き、おまかせとばかりに白い歯を見せた。
それはそれでありがたいが、できればボケのほうを否定してほしかった。



2015年2月13日(金)

壊れかけていた石油ファンヒーターを新調した。
というか、買ってもらった。
「……いいのかなあ」
「いいんだよ」
「でも」
「素直に喜ぶのも親孝行」
血が繋がっていないとは言え、遅くにできた娘である。
両親としては甘やかしたくてしょうがないだろうに、当の本人はわがままをまったく言わないと来たものだ。
生活必需品が壊れたときくらい、素直に甘えておくべきだろう。
ちなみに、自分の財布が痛まずに済んだから言っているわけではない。
ほんとだぞ。
「ストーブ、あったかいね」
「あったかいだけなら、前のだってあったかかったけどな」
設定温度を16度にしているのに、放って置くと室温が30度前後まで上がり続けるだけで。
「あたらしいの、ちゃんととまる?」
「ああ。快適おまかせモードってのがあるらしいぞ」
取扱説明書をパラパラとめくる。
「湿度に合わせて快適な室温に自動で調整してくれるんだって」
「はいてくだねえ」
「しかもリモコン付き」
「すごい」
「灯油も7リットル入る」
「はいてくだ」
タンクの容量はハイテクと関係ないと思うが。
そんな会話を交わしていたとき、不意にうにゅほが立ち上がった。
「おとうさんとおかあさんに、もっかいありがとうしてくる」
「──…………」
そりゃ、甘やかしたくもなるよなあ。
「××、俺も行く」
「うん」
うにゅほがいるだけで、家の空気が優しくなる。
不思議な娘だ。



2015年2月14日(土)

祖母の主治医と気の滅入るような会話をして帰宅すると、うにゅほと母親が台所でなにか作業をしていた。
当然、ピンとくる。
「なに、チョコ作ってんの?」
「うん」
しかし、ただのチョコにしては準備が大仰に見えた。
「もしかして、ケーキ?」
「せーかい!」
「今年のバレンタインはこれで一括だからね」
「ああ……」
母親の言葉に頷かざるを得ない。
たぶん、きっと、恐らく、予定外の出費が原因だろう。※1
いささか残念だが、貰えないよりずっといい。
「どんなケーキにするんだ」
「うと、ふじやの、チョコなまケーキみたいんにする」
「おー」
ケーキ作りなんて数年ぶりのはずだが、大丈夫だろうか。
数時間後、俺は、その心配が杞憂だったことを知った。
「──なにこれ、うま!」
外見や生地の滑らかさは市販品に及ぶべくもないが、荒く挽いたくるみが採算度外視でふんだんに仕込まれている。
また、チョコ生クリームと生クリームが併用されているため、飽きが来ない。
「あ、美味い」
「な、美味いよな」
「うん、美味い」
弟と頷き合っていると、
「うへー……」
と、うにゅほが自分のほっぺたを両手で包んだ。
照れている。
ケーキ作りは久しぶりでも、料理スキルは以前とは段違いだものな。
「はー、食った食った」
満足して部屋に戻ると、
「──……◯◯」
うにゅほが俺を呼び止めた。
「これ」
俺の手を取り、その上にチロルチョコを乗せる。
そして、
「ないしょね」
しー、と人差し指を立ててみせた。
「──…………」
ちいさな、たしかな、特別扱い。
「……おりゃ!」
「わ」
なんだかすこし照れくさくて、うにゅほの頭をぐりぐり撫でた。

※1 2015年2月13日(金)参照



2015年2月15日(日)

「◯◯ー、あれない?」
チェアに腰を下ろしたまま凝り固まった筋肉をほぐしていると、うにゅほが指示代名詞の有無を尋ねてきた。
「あれって?」
「うと、くるくるってするやつ」
「くるくる……」
「くるくるってして、ねじねじするやつ」
「ねじねじ……」
さっぱりわからん。
「もうすこし、こう、具体的に」
「うーと……」
しばし思案に暮れたあと、
「こういうやつ?」
うにゅほが両手でふたつの輪を作り、くっつけたあと、左右に離した。
「──…………」
棒?
「で、こうするやつ」
ふたつの輪がくるくると回り、くっつき、また離れる。
「──…………」
紐?
「で、こうする」
輪を作っていた人差し指と親指が、すりすりと擦り合わされた。
「──…………」
チップの催促?
いかん、埒が明かない。
「えーと、物なんだよな」
「もの」
「とりあえず、どういう物かは置いといて、なにをしたいのか言ってみてくれ」
「うんと、あのね──」
要約すると、
「ドライヤーのコードが長すぎて邪魔くさいから、まとめたい」
らしい。
「……もしかして、これか?」
デスクの引き出しから、かつてパンの袋を閉じていた金色のビニタイを取り出した。
「あ、これ!」
「合ってたか」
「うん、あってた」
ビニタイを手渡すと、礼を言ってリビングへと戻っていった。
説明が苦手なのはよく知っているが、ボディランゲージも絶妙に不得手のようだ。
うにゅほの行く末がちょっと不安である。



2015年2月16日(月)

「◯◯、こっちむいて」
「うん?」
肘掛けに体重を預けてソファを振り返ると、うにゅほが右手を顔の横に掲げていた。
「さいしょはぐー、」
「!」
慌てて握りこぶしを作る。
「じゃんけん、しょ!」
「ほい」
うにゅほがパーで、俺がチョキ。
「まけたー」
「勝った、けど……」
なんらかの説明があるものだと身構えていたのだが、
「♪~」
当のうにゅほは、手元のサナギさん2巻に視線を戻してしまった。
「おいおいおいおい」
「?」
「いまの、なんのじゃんけんだったんだ」
「なんの?」
小首をかしげる。
「いや、じゃんけんって普通、なにかを決めるときにするものだろ」
「そうなんだ」
「──…………」
「……?」
もしかして、純粋にじゃんけんをしたくなっただけ?
「××」
「はい」
「じゃーん、けーん、ほい!」
「しょ!」
俺がチョキ、うにゅほがパー。
「勝った……」
「またまけたー」
残念そうに笑みを浮かべたまま、す、と読書に戻る。
いっそ斬新である。
そりゃもちろん駄目じゃないのだが、なんとなくモヤモヤが残るのも事実だった。
なんかこう、頼めることはないか。
「……××、サナギさん1巻取って」
「はーい」
思案の末、特に読もうと思っていなかったサナギさんを読み返すことにした。
「うわこれ初版から十年経つのか!」
「そうなんだ」
古いものにも発見がある。
光陰矢のごとし。
うにゅほとの生活を、一日一日大切に過ごしていこうと思った。



2015年2月17日(火)

病院の案内パネルの前で、うにゅほが立ち止まった。
「──…………」
「どうした?」
「ここのびょういん、ひろいのかな」
「広──い、んじゃないかな。マップを見ると」
かれこれ三年は通っているが、ロビーと待合室と診察室にしか入ったことがない。
用もないし。
「あ、向こうって談話室なんだ」
「うん」
誰もいないし、暗いけど。
「……ね」
うにゅほが遠慮がちに俺の袖を引いた。
「ちょっと、きになる」
「気持ちはわかるけど、いまは行けないぞ」
「えー」
「会計待ちだもの。いつ呼ばれるかわからない」
「あー……」
しばし思案し、
「……じゃ、ひとりでいってきていい?」
あら、珍しい。
「いいけど、二階には病室があるみたいだから、上がっちゃ駄目だぞ」
「はい」
深々と頷き、薄暗がりの廊下の向こうへとうにゅほの背中が消えていく。
大丈夫かな。
ちょっと心配である。
「──…………」
会計を済ませ、薬を受け取っても、案の定うにゅほが帰ってこない。
トラブルにでも巻き込まれたかと談話室の向こうに足を向けると、更に奥のほうからにぎやかな声が漏れ聞こえた。
小学校の体育館のような鉄扉を開くと、

『──なーたーとおー、こえーたあーいー……』

調子はずれの歌声が耳を打った。
カラオケだ。
大勢の老人と数名の職員が楽しげに過ごしている。
デイケアだろうか。
広間を見渡すと、
「あ」
「!」
三人の老婆に囲まれていたうにゅほと目が合った。
なるほど、捕まっていたのか。
ぺこぺこと頭を下げながら、小走りでこちらへ駆けてくる。
「おかえり」
「ごめんなさい……」
まあ、こればかりは仕方がない。
やたら老人にモテるからなあ、うにゅほ。
「飴をくれたら許してあげよう」
「あめ?」
「もらったんだろ」
どうせ。
「なんこ?」
そんなに。
「……一個でいい」
「はい」
うにゅほが手のひらに乗せてくれたのま、大玉の黒飴だった。



2015年2月18日(水)

「──……う、ぶ」
胃を中心として、銅鑼の音のような不快感があった。
気持ち悪い。
吐き気がする。
原因は、わかりすぎるくらい明白だ。
「チョコ、いっきにたべるから」
「そうなんだけど……」
バレンタインデーに知人から貰った業務用チョコレート(1kg)のせいである。
「……半端に中身が残ってるのが、どうにも落ち着かなくて」
「わからなくないけど、ぜんぶは」
「うん……」
正確には、二袋のうち一袋だから、うにゅほが食べた数粒を引いて500g弱であろうか。
それでも板チョコ十枚ぶんだけど。
しかも海外製のガシガシしたチョコだものだから、途中からもう飽きて飽きて最後には牛乳で無理矢理流し込んでいた。
「もうひとふくろは」
「……うん、わかってる」
無理はしない。
しめやかに消費しよう。
「それにしても、チョコを1kg食べたら1kg以上太りそうな気がするのはどうしてだろうな」
物理的にはありえないはずなのに。
「ぎゅうにゅうのむからじゃ?」
「……あー」
解決してしまった。
頭の回転が鈍っている気がする。
「いぐすりとってくるね」
「頼むう……」
うにゅほが持ってきてくれた胃薬を烏龍茶で流し込み、ソファに横たわるのだった。



2015年2月19日(木)

「◯◯、◯◯」
「?」
「ストローみつけた」
うにゅほの手に、曲がるタイプの真っ黒なストローがあった。
「つかう?」
「いや──」
烏龍茶の入ったペットボトルを視線で示し、告げる。
「俺、直飲みだからなあ」
「……つかわない?」
「うっ」
残念そうな顔をされると、弱い。
「その、グラスに氷を入れて飲むときは」
「つかう?」
「……かもしれない」
「まってて!」
二分後、氷を入れたグラスを両手に携えて、意気揚々とうにゅほが戻ってきた。
「おちゃいれてー」
「はいはい」
ひとつのグラスに二本のストロー、なんてことにならなくて安心した。
グラスのふちギリギリまで烏龍茶を注ぎ、ストローで掻き混ぜる。
しばらく俺の真似をしていたうにゅほが、ストローの先を、ちゅう、と吸った。
「つめたい!」
「そっか」
「ストローでのむと、おいしい」
うにゅほが、ほにゃっと笑う。
つられてひとくち。
「うん、冷たい」
「ね」
テーブル代わりに使っている冷蔵庫の上に、うにゅほがグラスを置く。
すると、
「わ!」
ぴょん、とストローが飛び出した。
グラスが深すぎて、浮力に耐え切れなくなったらしい。
「……これ、半分くらいまで一気に飲まないと駄目そうだな」
「うう……」
喫茶店のストローは、もっと細い。
ファーストフードのドリンクに蓋がついているのは、摩擦係数を上げるためなのだろうか。
「──けぷ」
「無理して飲むと、おしっこ近くなるぞ」
「だいじょぶ」
グラスの中身を減らすと、ストローは飛び出してこなくなった。
注ぎ過ぎたな、うん。

[2/20 追記]
ストローが飛び出したのは、烏龍茶のあとに飲んだペプシネックスのときだったかもしれません。
炭酸でなければ浮かないようです。



2015年2月20日(金)

「××、ちょっとテーブルどけて!」
「てつだ──」
「手伝ってくれるなら、テーブル!」
「は、はい!」
てんやわんやののち、
「──よし、設置完了!」
「ぴったしだ」
すのこの上に置かれた、分厚いポケットコイルマットレス。※1
いままで便宜的に「うにゅほの寝床」と呼称していたが、これからは「うにゅほのベッド」として差し支えあるまい。
「ね、すわってみていい?」
「寝てみてもいいぞ」
うにゅほがマットレスに腰を下ろし、しずしずと矮躯を横たえる。
「……わ」
「どんな感じだ?」
「──…………」
無言で俺のシャツを引く。
寝てみればわかる、ということらしい。
うにゅほの隣に寝そべると、言わんとするところがなんとなく理解できた。
「……これは、なんと言えばいいのか」
「かた──く、ない?」
「柔らかくもない」
「おもしろい」
くふ、とうにゅほが笑い声を漏らした。
仰向けに寝るだけで背筋がピンと伸びるような、不思議な寝心地である。
「◯◯、ねていいよ」
「昼寝?」
「うん」
特に眠くもないのだが。
「◯◯、さいしょにねてほしいな」
うにゅほがベッドから下り、俺の体に丹前を掛けた。
たぶん、今日もソファで寝ることになる俺を気遣ってのことだろう。
そういうことなら、ありがたく。
「……おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
大きく息を吐き、目蓋を下ろした。
横になると腰が痛むのが当然だったから、ふかふかしてどうにも落ち着かない。
三十分ほどうたた寝して、目を覚ました。
いい品物なのは間違いないが、慣れるまで時間が掛かりそうである。

※1 2015年2月4日(水)参照



2015年2月21日(土)

「さんふくろ、いれすぎとおもうなあ……」
「一袋じゃ少なすぎるって」
俺は、クノールのコーンスープをドロドロに濃く作るのが好きである。
「えんぶん」
「お茶飲むから大丈夫」
そもそも低血圧なのだから、塩分過多を気にするほうが間違いだ。
「……ひとくち」
「はいはい」
どろりとしたスープをひとさじすくい、うにゅほの口元へ運ぶ。
「──…………」
「濃すぎる?」
うにゅほが複雑そうな顔で、
「こいけど、おいしいけど、こい……」
と答えた。
和やかにスープを飲んでいたとき、不意に急ブレーキの音が耳朶を打った。
「!」
うにゅほと顔を見合わせる。
祖母の病院へ行った両親が帰ってきたのかもしれない。
「見に行こう」
「うん」
両親の寝室へ急ぎ、自宅正面の道を窓から見下ろした。
「……あれ」
「だれもいない、ね」
たぶん、通りすがりの車が、たまたまブレーキを強く踏み過ぎたのだろう。
「よかったー」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
まったく人騒がせな。
スープが冷めないうちにリビングへ戻ると、
「──……?」
うにゅほが不思議そうな表情を浮かべてあたりを見回した。
「どうかした?」
「スプーン、ない……」
「ないって──」
うにゅほの手元を見る。
持っていない。
カップの周囲にも見当たらない。
「寝室行くとき、持ってったんじゃないか?」
「そうかも」
しかし、両親の寝室を隈無く探しても、うにゅほのスプーンが見つかることはなかった。
跡形もなく消えてしまったのである。
「……わたし、スプーンつかってたよね?」
「そこから?」
うにゅほの使っていたスプーンは、こうして日記を書いている今もなお発見されていない。
思い入れのない安物のプラスチックスプーンだから問題はないが、いまごろスープが乾いてカピカピになっているんだろうなあ。
ほんと、どこやったんだ。



2015年2月22日(日)

母方の実家で家系図を見せてもらった。
といっても、巻物などではない。
家族史を編纂している親類がいて、そのひとにプリントアウトしてもらったものらしい。
「へえー」
「いち、に──」
うにゅほが、下から順に指先で名前を遡っていく。
「さん、よん、ご!」
「五代前って、すごいな……」
俺たちの世代は記載されていないので、祖父の祖父の祖父くらいまで遡及できるということだ。
「兄ちゃん兄ちゃん」
「うん?」
弟が、家系図のある一点を指さした。
「もへ」
「……もへ?」
「あ、もへ」
もへ。
三代前の遠い親戚の名前が「もへ」さんだった。
昔の女性の名前って、サイコロで適当に決めたようなものばかりだと思う。
「もへ……」
うにゅほが忍び笑いを漏らした。
ひとつ面白い名前を見つけると、もっと面白い名前を探してしまうのは人間の性である。
「もせ」
「もせ!」
「てへだって、てへ」
「てへぺろ?」
「ぺろいないか、ぺろは」
「いや、ぺろはさすがに犬でしょ」
家系図に記された百名前後の親類のうち、もっとも印象的だったのは、
「……きゃう?」
だった。
「きゃう──って、ぺろよりすごいんじゃない?」
「きゃう!」
「たぶん、キョウって発音するんだろうな」
「きょう?」
「歴史的仮名遣いってやつだ」
「はー……」
うにゅほが溜め息をつき、呟くように言った。
「むかしのひとのなまえ、おもしろいねえ」
「そうだな」
キラキラネームの相当だと思うが、こちらのほうが味がある。
歴史を感じた一日だった。



2015年2月23日(月)

「──……う」
うにゅほのベッドで目を覚まし、ぼやけた天井をしばらく見上げていた。
マットレスの寝心地は、よくわからない。
ただ、眠りは深くなった気がする。
うにゅほはどう感じているのだろう。
後で聞いてみようと思いながら、枕元に手を伸ばした。
「……あれ?」
眼鏡がない。
目を細めて必死に探すも、見当たらない。
おかしいな。
ソファからベッドへ移るとき、いったん必ず眼鏡を掛けるのに。
考えられる場所すべてを手探りで捜索するも、視力0.03の俺には限界がある。
予備の眼鏡は?
あるはずだが、置き場所がわからない。
眼鏡を探すために眼鏡を探す、というのは、あまりに馬鹿らしい。
仕方ない、うにゅほに頼もう。
リビングへ通じる扉を開くと、うにゅほらしき人影がソファに腰を下ろしていた。
「××、おは──」
「わ」
よく見えないが、慌てたような気配。
「おはよう」
「おは、ようございます」
こと。
テーブルの上に、なにか置いた?
「──……?」
近づいてみる。
わからない。
もっと近づき、触れてみる。
手に馴染んだ感触。
「……××」
「はい」
「眼鏡が気になるなら、言ってくれればいいのに」
「ちが!」
眼鏡を掛けると、うにゅほがあたふたしながら首を横に振っていた。
「俺の眼鏡、××が持ち出したんじゃないの?」
「ちがう」
「違うのか」
「めがね、ここにあったの」
「ここ、って──」
うにゅほが、テーブルの一角を指さした。
「……なんで?」
「わかんない」
そりゃそうか。
嘘をついている様子はない。
というか、うにゅほはこんなことで嘘をつかない。
思い出せないが、たぶん、ベッドへと移動する際にトイレにでも立ち寄って、そこでなにかがあったのだろう。
「でも、さっき眼鏡掛けてたよな」
たぶん。
「う」
うにゅほが絶句する。
「ごめんなさい……」
「あ、いや、責めるつもりじゃなかったんだけど……」
「あそんでました……」
「遊んでたのか」
「はい」
「そうか……」
どうしよう、この空気。
「……パン焼いてくれる?」
「はい」
「二枚な」
「うん」
ブランチを終えるころには、すっかりいつものふたりに戻っていた。



2015年2月24日(火)

「そういえば──」
ベッドに寝そべりながらサナギさんの新刊を読みふけるうにゅほに声を掛けた。
「それ、どんな感じだ?」
「?」
うにゅほが顔を上げる。
「サナギさん?」
「いや、サナギさんじゃなくて、マットレスのほう」
「あー」
ぽふぽふ。
マットレスを叩きながら小首をかしげ、
「きもちい」
と答えた。
「気持ちいいか」
「うん、ふかふかしてる」
「そっか」
それならよかった。
「◯◯は?」
「俺は、その──」
正直、いまだによくわからない。
寝心地が良いのは間違いないが、それが良質の睡眠に繋がっているという実感が持てない。
俺の睡眠障害は、相当根が深いようだ。
「買ってよかった、とは思う」
「ほんとう?」
「本当」
うにゅほが喜んでくれたから、ではない。
「俺、ちゃんとしたマットレス敷いたベッドに憧れてたんだよね……」
「そなの?」
「そうなの」
ベッドで寝ていた時期はあるが、マットレスではなく、底板の上に煎餅布団を敷いただけのものだった。
「それに、ほら、部屋がすっきりしただろ」
厚みのあるマットレスによって、曖昧だった寝床と床との境界線が明確になった。
それだけで、部屋がぐっと垢抜けて見える。
「……そう、かな?」
「そうです」
「そだね」
「そうそう」
鷹揚に頷くと、うにゅほが微笑んだ。
ここらで一枚、クレジットカードの明細書が怖い。



2015年2月25日(水)

「──……うん?」
サブディスプレイをぼんやり眺めていると、twitterで心理テストが流れてきた。
暇していたし、ちょうどいい。
「××」
「?」
うにゅほが顔を上げる。
「今日は、友達の誕生日。あなたは」
「そなの?」
「いや、違う違う。心理テスト心理テスト」
「あー」
「今日は友達の誕生日。
 あなたは、本当のプレゼントの前に、びっくり箱を渡して友達を驚かせることにしました」
「しないよ?」
「……うん、俺もしないけど、たとえな」
「はい」
「んで、そのびっくり箱の、びっくり、箱の……」
待て。
この心理テスト、まさかシモ系ではあるまいな。
そんな危惧が脳裏をよぎったが、ここまで来て止めるわけにもいくまい。
シモならなんとか誤魔化そうと心に決め、続きを読み上げた。
「びっくり箱の中身はカエルのおもちゃなのですが、そのカエルは何色だったでしょうか。
 一番、緑。
 二番、赤。
 三番、黒。
 さあどれだ?」
「みどり」
うにゅほが即答する。
「かえるは、みどりいろ」
「……うん」
なにかが違う気がしないでもない。
「◯◯は、なにいろ?」
「俺は赤かな」
イチゴヤドクガエルって、赤いし。
「結果は──ええと、あなたのユーモア度だって」
「ゆーもあど?」
「緑は、60パーセント」
「あかは?」
「80パーセント」
「ゆーもあどって、なに?」
「……さあ?」
高ければ高いほどユーモアがあると言いたいのはわかるが、三択で百分率を持ち出されても困る。
「心理テストって、だいたいこんなもんだよ」
「ふうん……」
あまり盛り上がらなかった。
心理テストなんて信じてはいないが、せっかくならもっと面白いやつがいい。
試しに探してみようかな。



2015年2月26日(木)

「お」
ニュースサイトを巡回していたとき、面白い商品を見つけた。
「××、これどうよ」
「どれー?」
「えーと、ラケット型電撃──」
電撃殺虫器、蚊ットリくん。
ひどく読み上げにくい商品名だった。
「かっとりくん?」
あ、読まれた。
「……うん、ラケットのガット部分に電気が流れて、それで虫を殺すんだって」
「あぶない」
「虫にとってもな」
ネーミングセンスはさておき、悪くない発想だと思う。
あって困るものでもあるまい。
ポチろうかとマウスを手に取ったとき、
「うーん……?」
うにゅほが大きく首をかしげた。
「危ないのは確かだから、やめとこうか?」
「うと、ちがくて」
「違うのか」
「うん」
うにゅほが右手を掲げ、見えないラケットで素振りをする。
「……あたるかなあ」
「当たらないことはないと思うけど」
「だって、ハエたたきあたんないのに……」
「でも、当たったら一撃で──」
そこで言葉を止め、うにゅほの真似をして右手を幾度か振ってみた。
当たれば一発で仕留められる。
しかし、よく考えると、それはハエたたきも同じことではないか。
「よし、やめよう」
「うん」
無駄遣いはよくない。
ネット通販は手軽すぎるのが難点だ。
こうして、うにゅほと相談してからでも、注文を確定するのは遅くない。



2015年2月27日(金)

「──……っ」
左腕が暖かい。
助手席のうにゅほが、俺の腕に額を押し付けていた。
祖母が「死にたい」と漏らすたび、うにゅほが傷ついていくのがわかる。
毎日だったお見舞いも、週に一度になってしまった。
「……大丈夫だから」
根拠のない言葉で誤魔化しながら、右手でうにゅほの髪を梳く。
ほつれた髪の毛は指に従い、驚くほど素直に整った。
うにゅほの呼吸が落ち着くのを見計らって、俺は口を開いた。
「帰り、図書館寄ってこうか」
「──…………」
こく。
頷き、顔を上げる。
うにゅほの目は、すこしだけ赤くなっていた。
市立図書館は、祖母の病院と自宅とのちょうど中間にある。
最近はあまり立ち寄っていなかった。
「今日、金曜日だよな」
「……うん」
「じゃ、やってるな」
「うん」
安心して図書館へ向かうと、休館日だった。
「何故……」
自動ドアの向こうに「図書整理日」と掲げられた看板がある。
なんだかよくわからないが、とにかく運が悪いことだけは確かだった。
「えーと、××──」
うにゅほを見ると、
「──……ぶぇ」
思いきり泣きそうになっていた。
「あー、よしよし」
「ぶー……」
図書館のエントランスでうにゅほの体を抱き締めてやりながら、ぼんやりと曇り空を見上げた。
なんだか俺も泣きたいよ。



2015年2月28日(土)

「──◯◯!」
自室へ戻るなり、うにゅほが俺の腕を取った。
「どうした?」
「きて!」
ふんすふんす、と鼻息荒い。
素直に腕を引かれて行くと、そこは洗面所だった。
「これ」
「……身長計?」
うにゅほが指さしたのは、二十年以上ものあいだ壁を飾り続けている子供用の身長計だった。
「測ったの?」
「うん」
「あれ、目盛り狂ってるって話しなかったっけ」
「した」
身長計に背中を預け、
「ん」
と催促する。
「はいはい」
うにゅほの頭に手を乗せ、身長を測ってみた。
150センチまでしか計測できないから、はみ出たぶんを考慮して──
「……163センチ、くらいかな」
「ね?」
同意を求められましても。
「つまり、すこし目盛りがずれてても、数字の上ではこれだけ伸びてるんだから、ちょっとくらいは大きくなってるはず──ってこと?」
「そう」
言いたいことはわかるが、論理的には間違っている。
どう伝えようかと思案して、
「……ふむ」
ここはひとつ、うにゅほをからかって遊ぼうと考えた。
「じゃあ、××は5センチくらい成長したと」
「たぶん」
「うーん、俺は、背が伸びる前のほうが、ちいさくて可愛いと思うんだけどなあ……」
「!」
うにゅほが硬直する。
「──…………」
「?」
ずり。
頭頂部の位置が下がっていく。
「こら、膝を曲げるな」
「──…………」
あ、ちょっと悲しそう。
やり過ぎたかな。
「冗談、冗談。大きくなっても可愛い可愛い」
なでなで。
「……ほんと?」
「本当だけど、そもそも、身長伸びてないと思うぞ」
「えー……」
コンベックスで身長を測り直してみると、152.2センチだった。
誤差を考えると、たぶん151センチ前後。
まったく変わっていない。
「……うー」
うにゅほが不満げに唸る。
これだけ変化がないということは、うにゅほの成長期は、たぶんとっくに終わってるんだろうなあ。

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