>> 2014年11月




2014年11月1日(土)

ダイソンのDC61ハンディクリーナーを購入した。
レイコップのふとん専用ダニクリーナーと迷ったが、問答無用の吸引力には勝てなかった。
「──兄ちゃん、××、すげーぞ!」
最初に布団を掃除した弟が、興奮気味に階段を駆け上がってきた。
「ほら、これ!」
「どれどれ」
「?」
クリアビンの底に、灰色の綿埃と、白茶色の粉末が溜まっている。
「なんだこれ」
ポリカーボネート越しに、うにゅほがそれをつつく。
「それたぶん、ダニの死骸と弟の皮脂と布団の繊維が混ざったものだよ」
「わ」
うにゅほが慌てて指を引っ込めた。
「ちょっと傷つくんだけど……」
「当然の反応だろう」
それにしても、恐ろしいまでの吸引力である。
「ね、◯◯……」
「んー?」
「わたしのふとん、こんなのでるのかなあ」
「こんなのって……」
無邪気な言葉が弟を刺している。
「たぶん、ここまでは出ないと思うぞ」
「そなの?」
「俺のダニアレルギーが発覚してから、わりと頻繁に掃除機かけてるだろ」※1
「あ、そだね」
「弟の万年床と比べたらいかんよ」
「うるせー」
ちいさくぼやき、弟がソファに寝転がった。
「──じゃ、俺たちも掃除してみるか」
「うん!」
「無理だよ」
「うん?」
弟がハンディクリーナーを指さした。
「充電切れてるから、無理」
「充電しながら──」
「なんか、できないらしいよ。熱を持つと危ないからって」
「仕方ない、充電終わってからにするか」
「うん」
「充電、三時間半かかるけどね」
「──…………」
「──…………」
うにゅほと顔を見合わせる。
「……バッテリーはどのくらい持つんだ?」
「二十分」
何故か競走馬を思い出した。
四時間後に布団の掃除をしたところ、やはりそれほど汚れてはいなかった。
弟の布団ほどは、だけど。

※1 2014年5月13日(火)参照



2014年11月2日(日)

俺の手を取ったうにゅほが、指のあいだをやわやわと揉んだ。
「つぼ」
「なんのツボだっけ」
「わかんない」
「わからんけど、気持ちいいな」
もみもみ。
「かぜっぽいねえ」
「誰が?」
「◯◯」
「いきなりだな……」
言われてみれば、鼻の奥がツンとしている。
風邪のひきはじめだろうか。
「前から思ってたんだけど──」
「?」
「××って、どういう基準で俺の体調を見極めてるんだ?」
「きじゅんって?」
「俺が風邪ひいてるって思った理由、だな」
「うーと……」
軽く思案し、
「なんとなく……?」
うにゅほなら、そう答えると思っていた。
しかし、風邪をひいているときにしか尋ねられないことである。
もうすこしだけ追求してみよう。
「なら、いつもの俺と違う部分は?」
「ちがうぶぶん……」
じ、と真剣な瞳で俺を見つめる。
「──…………」
しばしして、口を開いた。
「こえ」
「声?」
「こえ、かすれてる」
「あー……」
なるほど。
思っていたより、わかりやすい指標だ。
「あと、なんか、うなってしてる」
「……うな?」
「うなー……って、してる」
「うな……」
蒲焼きが脳裏をよぎる。
「……うなーって、どういう状態なんだ?」
「うなーって、ゆっくりしてる」
「──…………」
なんとなくニュアンスは伝わるが、ニュアンス以外の部分が一向に伝わってこない。
それでも、ある程度は満足して、靴下を履き、半纏を羽織った。
悪化はしないだろうと思う。



2014年11月3日(月)

「──…………」
ふんふん。
「──…………」
すんすん。
右側頭部に、うにゅほの鼻先が押し当てられている。
「……そんなに臭うか?」
「ほうでもない」
うにゅほの呼気が頭皮をくすぐる。
昨夜シャワーを浴びなかったくらいで、何故こんなことに。
「恥ずかしいんですけど……」
「いいにおいなのに」
「嗅ぐなとは言わないけど、風呂上がりとかにしてくれよ」
「おふろあがり、シャンプーのにおいしかしない」
「いいじゃんシャンプーの匂い」
「じぶんでかげる」
「あー……」
それだけ長ければ、嗅ぎ飽きていることだろう。
「ああ、もう、好きにしてくれ……」
「♪」
すー、
はー、
すんすん、
くんくん、
ふんすふんす、
右から左から上から後ろから、余すところなく嗅がれまくる。
髪の毛が湿気るんじゃないかと思い始めたころ、うにゅほがようやく顔を上げた。
「ふー……」
やり遂げた顔しやがって。
「満足したか?」
「うん」
「ならいいけど……」
シャワーはなるべく毎日浴びよう。
「──…………」
ふと、疑問が湧いた。
「××、手についた灯油の匂い好きだよな」
「すき」
「俺の頭皮の匂いと、どっちがいい?」
「えと……」
しばし真剣に考え込んだあと、
「……とう、ゆ?」
「──…………」
あ、そうなんだ。
何故だろう、どうでもいいことのはずなのに、負けた気がする。
「あ、でも、ちょっとのさ、ちょっとのさ」
「慰めなくてもいいけど……」
そう言いつつも、なんだかもぞもぞするのだった。



2014年11月4日(火)

「さむさむさむ……」
両手を擦り合わせながら、うにゅほがストーブの電源を入れた。
「今日は寒いなあ」
「うん」
「なんか、冬って感じだ」
「てーつないでいい?」
「俺も冷たいぞ」
「こする」
うにゅほが俺の右手を取り、塩でも揉み込むかのように擦り合わせる。
「うひ」
あったかくすぐったい。
「今日、久しぶりに寒くて起きたよ」
「そなの?」
「掛け布団がソファからずり落ちててさ……」
「あー」
ソファを寝台にしていると、布団を掛け直すのが手間である。
落ちにくくするには、掛け布団の三分の一ほどを体の下に巻き込めばいいのだが、そんなことをしている間に目が冴えてしまうのだ。
「そろそろ毛布を足したほうがいいかな」
「うーん……」
うにゅほが眉根を寄せる。
「嫌か?」
「もうふにまい、おもい」
「たしかになあ」
掛け布団、毛布、毛布、丹前──その重圧は、なかなかのものである。
「でも、その重さに慣れとかないと、本当に寒くなったとき眠れなくなるぞ」
「そだね……」
北海道の冬は、十一月に始まり、三月に終わる。
厳寒期に向けて備えなければならない。
「……雪かき、嫌だなあ」
「うんどうになるよ」
「同じ運動なら、春か秋にしたいもんだ」
「なにかくの?」
「さあ……」
結局のところ、必要に迫られなければ動かないのが人間である。
健康的かもしれないが、当然のことながらウィンタースポーツを楽しむ余裕などない。
今年の冬も、熊のように引きこもり、時折外に出ては雪をかくだけの生活が待っているのだろう。



2014年11月5日(水)

「……なんか、寒くなってきたな」
「うん」
昼間は暖かかっただけに、落差が激しく感じられる。
「最近、寒い寒いばっか言ってる気がする」
「さむいもん」
「××も半纏着たほうがいいぞ」
「うん」
俺は既に羽織っている。
「あと、ついでにストーブつけてくれ」
「わかった」
うにゅほがぶかぶかの半纏に腕を通し、ストーブの前に屈み込んだ。
「──あ!」
電源ボタンに伸びかけていた指を、慌てて引っ込める。
「◯◯、ストーブこわれた!」
「えっ」
切迫した様子に、慌てて立ち上がる。
「ほらここ!」
うにゅほが、ストーブの表示盤を指で示し、読み上げた。
「せっていおんど、じゅうきゅうど、げんざいおんど、よんじゅうはちど!」
「え、あ、本当──……ん?」
一瞬納得しかけたが、すぐ違和感に気がついた。
「……ストーブ、電源入ってないよな」
「うん」
「電源入ってないとき、ここってデジタル時計になってるよな」
「……ん?」
小首をかしげる。
「これ、十九時四十八分って意味じゃないか?」
「あっ」
うにゅほの頬が僅かに紅潮する。
そして、
「わああ」
手近にあったふかふかクッションを引っ掴み、思いきり顔をうずめた。
「──…………」
「えーと」
「……はうかしい」
「まあ、うん、そういうこともある」
うにゅほの頭をぽんぽんと撫でながら、自然と浮かび上がってくる笑みを打ち消すのに必死だった。
なにしろ、うにゅほが本気で恥ずかしがる様子なんて、滅多にお目にかかれない。
新鮮な感動に浸りながら、しばらくうにゅほを慰めていた。



2014年11月6日(木)

「──んっ……、はっ、……よっと」
「よっ、と」
座りっぱなしで凝り固まった筋肉をほぐしていると、うにゅほが隣で真似をし始めた。
微笑ましく思いながら、両手を腰に当て、ゆっくりと上体を逸らしていく。
「──…………」
「ぐ……」
戻す。
「はっ」
「はー……」
緩急をつけるために、ぐてっと脱力していると、うにゅほが口を開いた。
「◯◯、こしだいじょうぶになった?」
「おかげさまでな」
先週まで腰を痛めていたのだが、安静にしているだけでよくなった。※1
自然治癒力とは偉大なものである。
「まっさーじ、きいた?」
「効いた効いた」
「うへー……」
うにゅほが照れたように笑う。
嘘ではない。
うにゅほのマッサージは、過度な緊張を解きほぐしてくれるのだ。
凝りは一向にほぐれないが、それはそれである。
「よし、と」
姿勢を正し、膝を曲げないように気をつけながら、揃えた指先をすこしずつ下ろしていく。
「──…………」
手のひらが床についたころ、
「……ぐふ」
という苦しげな吐息が隣から聞こえた。
うにゅほの指先が、むこうずねのあたりでピタリと止まっていた。
「相変わらず、前屈だけはできないんだな」
「うん……」
「ストレッチしてなかったっけ」
「わすれてた」
忘れてたなら仕方がない。
これからますます寒さが厳しくなってくる。
免疫力を高めるためにも、ストレッチを日課にするのもいいかもしれない。
「……ただ、俺も忘れがちなんだよなあ」
「?」
日記にしたためておけば、忘れないだろうか。
継続は力なりと言うし、頑張って続けてみようと思う。

※1 2014年10月29日(水)参照



2014年11月7日(金)

「××、ちょっとこっち来て」
「はーい」
うにゅほの爪先が、フローリングに差し掛かる。
一歩、
二歩、
すいー。
「××」
「はい?」
「なんで、いちいち滑るんだ?」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
家では靴下履かない派の俺たちだが、今年は早々に音を上げてしまった。
理由は、寒いからである。
「すべってないよ?」
「いや、滑ってただろ」
「……?」
反対側に首をかしげる。
無意識の行動なのかもしれない。
「いったん離れてから、もっかいこっち来てみ」
「うん」
うにゅほが洗面所の前まで戻り、こちらへと踵を返す。
一歩、
二歩、
すいー。
「あ、すべってる」
「だろ?」
「きづかなかった……」
気づけよと思うが、口にはしなかった。
「いくら靴下が滑るからって、いちいちすいーってするのは危ないからやめたほうがいいぞ」
「はい」
用事を済ませ、自室へ戻る。
「ミラさんのしゃけん、おわったって」
「なら、後で──」
すいー。
「──…………」
「?」
「××、また滑ってる」
「え、あ、ほんとだ」
癖になってしまっているらしい。
「そもそも、どうして滑るんだ。楽しいのか?」
「わかんない」
「ちょっとやってみよう」
一歩、
二歩、
すいー。
「──…………」
「どう?」
「……ちょっと楽しいな」
「うん」
「でも、危ないから気をつけような」
「はい」
読者諸兄も、靴下でフローリングの上を滑るときは、ご注意を。



2014年11月8日(土)

「──いくら、そろそろできたかなあ」
うにゅほが不意に呟いた。
「いくら?」
「うん」
「醤油漬けしてたの?」
「きのう、おかあさんといっしょにやったの」
「ほう……」
ウニに隠れて目立たないが、俺はいくらが好きである。
口のなかで味と香りがぷつぷつ弾ける食感は、他に類を見ないものだ。
「よし、いくら丼作ろう」
「あんましたくさんないよ」
「茶碗でやろう」
「うん」
冷蔵庫を開けると、ボウルのなかに魚卵がひしめいていた。
スプーンで中身を掻き混ぜてみる。
「──……?」
「どう?」
「すこし、粘度が──どろっとしてるような」
数粒すくい取り、口に含む。
「──…………」
「おいしい?」
「美味い、けど、なんかちょっと甘い……」
「あ、やっぱし」
訳知り顔でうにゅほが呟いた。
「砂糖でも入れたの?」
「ううん」
首を横に振る。
「すきやきのたれ、あまってたから、おかあさんいれたの」
「──…………」
母の適当料理だった。
「おいしくない?」
「ほら」
うにゅほの口元にスプーンを運ぶ。
はむ。
むぐむぐ。
「……あ、おいしいね」
「ご飯と一緒に食べてみるか」
「うん」
結論として、普通のいくらよりもご飯の進む味だった。
母の経験に裏打ちされた適当は、馬鹿にできないものらしい。
でも、普通のいくら丼も食べたい。
そのうち、うにゅほを連れて、海岸線へドライブにでも出かけようかと思う。



2014年11月9日(日)

つー、と。
視界の端を、なにかがよぎる。
ホコリが落ちたにしては直線的だと思っていた。
目の前まで来て、ようやく気がついた。
「──うお!」
蜘蛛だ。
「どしたの?」
うにゅほが気遣わしげに立ち上がる。
「あ、いや、うん」
よくよく見てみれば、ちいさく、細く、半透明な、足の長い蜘蛛である。
恐らく幼体だろう。
声を上げてしまったことを恥ずかしく思いながら、ティッシュペーパーを抜き取った。
「あ、くもだ」
「なんか、天井から下り──」
「えい」
ぱん!
まっくろくろすけを捕まえたときのメイのように、うにゅほの両手が見事に蜘蛛を潰していた。
「あー……」
「見せるな見せるな、手ー洗ってきなさい」
「はい」
うにゅほが洗面所へと駆けていく。
相変わらず、ちいさな虫には遠慮も容赦もない娘である。
「もうふゆなのに、くもいるんだね」
「もう冬だから家のなかにいるんじゃないか?」
「なるほど」
ふたりで天井を見上げる。
「あのくも、あかちゃんのくもだったね」
「たぶんな」
あれで成虫という可能性もあるが。
「……じゃあ、おやぐもいるのかな」
「──…………」
クイーンエイリアンみたいなものを想像してしまった。
「天井裏のことは、考えないようにしよう」
「うん……」
以前、天井裏から、天日干しにしたような空のハチの巣が出てきたことがあった。
そのときですら実害はなかったのだから、屋根裏の散歩者については考えるだけ無駄である。
「くも、またでるかなあ」
「出たら頼むよ」
「わかった」
ふんす、と鼻息を荒くするうにゅほの隣で、冬くらいは勘弁してほしいと溜め息をついた。



2014年11月10日(月)

定規に付着したインクを拭うためにティッシュを抜き取ると、それが最後の一枚だった。
「××、予備のティッシュあるー?」
「あるよー」
うにゅほが、プリンタの裏側から箱ティッシュを取り出す。
「はい」
「あんがと」
「からのやつ、かして」
「ああ」
ゴミ箱に捨ててくれるのだと思い、空箱を手渡した。
「うと……」
空箱を手に、しばし物思いに耽ったあと、
「──ねいっ!」
ばり!
「ええ!?」
うにゅほが、取り出し口に両手の指をねじ込んで、思いきり引き裂いた。
「え、あの、××さん」
ストレスでも溜まっていたのだろうか。
「?」
「首をかしげられても困るんだが……」
「……!」
頭上のハテナがビックリマークに変わる。
「あのね、おとうさんがね、はこ、かさばるからって」
「あー……」
そういえばそうだった。
折り畳んで捨てても限界があるため、紙箱は千切って捨てることになったのだ。
「だからって、そんなバイオレンスに破らなくても」
「やりかたわかんないんだもん……」
ちょっと恥ずかしそうだ。
自然と上がる口角を右手で隠しながら、告げる。
「ちょっとした厚紙程度なら、シュレッダーを使えばいいんだ」
「いいの?」
「前にも試したけど、大丈夫だったよ」
「へえー」
「あ、取り出し口のフィルムは剥がしてな」
「はい」
適当なサイズに破り、空き箱だった厚紙をシュレッダーにかける。
ずごごごごごごご──
「おー!」
「な?」
「すごいね!」
ようやく感動を共有することができた。※1
さすがお高めのシュレッダー。
機密書類の裁断だけではなく、かさばる紙ゴミの処分もお手の物である。

※1 2014年8月27日(水)参照



2014年11月11日(火)

「◯◯!」
母親と共に帰宅したうにゅほが、両手を腰の後ろに隠して言った。
「きょう、なんのひだー?」
いひひ、と笑みを浮かべている。
なるほど。
「──…………」
軽やかにキーボードを叩き、11月11日で検索する。
「今日は、カート・ヴォネガット・ジュニアの誕生日らしいぞ」
「だれ?」
「猫のゆりかごとか、そのへんにあるぞ」
「ちがくて」
「わかってるわかってる、きりたんぽの日だって言いたいんだろ」
「ちがう」
ぶーたれてきたので、からかうのはやめにしよう。
「あー、そっか、ポッキーの日か」
「せーかい!」
うにゅほが差し出した両手には、それぞれポッキーとプリッツの箱が握られていた。
「ポッキーは普通のだけど、プリッツは──それ、何味?」
見たことあるようなないようなゆるキャラが全面にプリントされている。
「わかんない」
「わかんないのか」
「かわいかったから……」
「ちょっと貸して」
プリッツの箱──いや、箱ではない、袋だ。
下のほうにちいさく、
「……みかん味」
と、書かれている。
「みかんあじ……」
「プリッツでみかん味か」
「おいしいのかな」
「まあ、食べてみよう」
袋を開き、匂いを嗅いでみる。
「……ちょっと柑橘っぽい?」
「わたしも」
すんすん。
「あまい」
「甘い系のプリッツなんだな」
よかった。
酸っぱさを前面に押し出されていたら、食べきれるかどうか自信がない。
「──…………」
「?」
「××、あーん」
プリッツを一本抜き取り、うにゅほの口元に差し出した。
「あー」
サクッ
サクサクサクサク……
「──…………」
指先に伝わる振動が心地よい。
「おいしい」
「みかんの味は?」
「……あとあじ?」
「どれ」
「あ、だめだよ」
食べようとして、止められた。
うにゅほがプリッツを一本取り、俺の口元に近づけた。
「あーん」
「──…………」
されるほうは、ちょっと恥ずかしい。
みかん味のプリッツは、みかんの風味を無視すれば、まあまあ無難な味だった。



2014年11月12日(水)

友人が、いくら丼の美味しい店を知っていると言うので、片道二時間半かけて増毛町まで足を運んだ。
「はー……」
後部座席から降りたうにゅほが、軽くふらつく。
「大丈夫か?」
「うん、だいじょぶ」
ノンストップで100kmも走ったのだから、疲れるのも当然だろう。
友人おすすめの寿司屋へ入り、さっそくお目当てのいくら丼を注文する。
生うに丼の文字がちらつくが、ここは断固としていくら丼である。
「うーと……」
「××、迷ってるのか」
「うん」
「どれとどれ?」
「おすし……」
メニューをなぞる指先に視線を落とすと、どうやら寿司のグレードで悩んでいるようだった。
「べつに特上でもいいぞ」
小旅行先で贅沢もできないほど財布は軽くない。
「や、や、そんな」
うにゅほが、両手のひらを前に出し、ふるふると首を振った。
遠慮しすぎである。
「なら、上にしときな」
「じょう……」
「余ったら俺が食べるから」
「うん、わかった」
しばらくして運ばれてきたいくら丼は、たいへんに美味だった。
上生寿司にはアワビまで入っていた。
さすが港町である。
うにゅほは、最初に食べたマグロのわさびに悶絶していたが、あとはおおむね満足だったようだ。
ガリはすべて友人がたいらげた。
寿司屋を出たあとは、漁協へ行き、家族へのおみやげを購入した。
友人とたこわさびの試食などをしていると、
「──◯◯! かに!」
ひとりで奥へ行っていたうにゅほが、小走りで戻ってきた。
「走ると危ないぞ」
「かに、でっかいかにいる!」
漁協なんだからカニくらいいるだろう。
そう思いながらうにゅほに手を引かれて行くと、
「うわ……」
全長1メートルほどのタラバガニが、生け簀のなかで無数に蠢いていた。
「これは、クリーチャーだな……」
「うん……」
ふたり並んで軽く引く。
最後に、日本最北の造り酒屋を観光し、ニシンのぬいぐるみを買って帰宅した。
「死んだ魚の目をしている」
「かわいい」
意見が割れた。
とりあえず、ビッグねむネコぬいぐるみの前に置いて様子を見ることにする。



2014年11月13日(木)

「おー……」
ぶるりと身震いし、両手を擦り合わせた。
寒い。
半纏を羽織って自室を出ると、うにゅほが階段の窓から外を眺めていた。
「××、おはよう」
「──…………」
「?」
声がちいさかっただろうか。
「××──」
再度挨拶をしようと階段へ足を向けたとき、うにゅほが見入っていたものに気づいてしまった。
「雪、降ってる……」
降っているどころか、既に積もり始めている。
道理で寒いわけだ。
「──あ、◯◯」
うにゅほがこちらを振り返る。
「ゆき」
「ああ、わかってる」
冬が来たのだ。
「出かけたの、昨日でよかったな」
「うん……」
雪道の感覚を思い出すには、しばしの時間が必要である。
長距離運転なんて、まだ恐ろしくてできやしない。
「根雪にはならないとは思うけど……」
雪かきの記憶に、腕がずしりと重くなる。
「あのき、きれい」
うにゅほが公園のほうを指さした。
「あー……」
水気を含む牡丹雪が、木の枝を綺麗にくるんでいた。
まるで樹氷のようだ。
「──…………」
しばし思案し、
「××、散歩でも行こうか」
「さんぽ?」
「ああ」
冬は必ず訪れる。
だから、ネガティブな感情ばかりを抱いていても仕方がないように思われた。
「綺麗なうちに見ておこう」
「うん」
うにゅほが笑顔で頷いた。
外は死ぬほど寒かったが、まあ、得たものはあったかもしれない。
気のせいでも構わない。
たぶん、そういうものが積み重なって、いろんなものができているのだろうから。



2014年11月14日(金)

「あー……」
卓上ミラーに向かって口を開くと、間抜け面の男がこちらを見つめていた。
唇の端をそっと撫でる。
「口角炎が治らんなあ……」
「こうかくえん?」
「ほら」
痛々しく罅割れた口角を指で示す。
「いたそう」
「ちょっと痛い」
「◯◯、たまにそれなるね」
「うちの家系、胃が荒れるとすぐになるんだ」
暴飲暴食が過ぎたかもしれない。
「オロナインぬる?」
「口元って、塗っていいのかな……」
よくわからない。
「キャベジンのむ?」
「もう飲んでる。でも、どうにも効かない」
「びょういん……」
悪いところがあれば、すぐに病院へ行く。
正しい態度だが、既に幾度も完治している口角炎に対しては、いささか大仰に思える。
「グロンサンがあればなあ……」
「ぐろんさん?」
「なんかそういう名前の薬がうちにあって、それ飲むと三日でよくなったんだ」
記憶がおぼろげである。
「いぐすり?」
「胃薬じゃなかったと思う」
「かってこればいいね」
「でも、ドラッグストアで見かけなくなってさ……」
薬剤師に尋ねても、内服液のほうしか出てこない。
「うーん……」
うにゅほとふたり、頭を悩ませる。
「……ぐろんさんって、なに?」
「なんだったんだろう」
検索をかけてみる。
「あー、ビタミン剤だったんだ」
「ビタミンでなおるの?」
更に検索する。
「口角炎の原因は、ビタミンBの欠乏──だって」
「あ、ぐろんさん」
「だから治ったのか……」
子供のころからの謎が、ひとつ解けた。
「つまり、ビタミンBを摂取すればいいわけだな」
「ツルハいく?」
「ああ、似たようなビタミン剤を探してみよう」
近所のツルハドラッグへと車を走らせ、ニッドビタミンEX錠HIGHなるビタミン剤を購入した。
これで治ればいいのだが。



2014年11月15日(土)

私見だが、一年のうちで最も寒いのは、今くらいの時期だと思う。
気温で言えば大寒のあたりになるのだろうが、そのころには既に氷点下の世界に慣れきっているからだ。
「ふー……」
ソファに腰掛けたうにゅほが、自分のふとももを撫でさする。
「足、寒いのか?」
「うん」
風呂上がりだもんなあ。
冬場の俺たちの部屋は、暑いか寒いかの二択である。
灯油ストーブは設定温度に関わらず室温を上げ続けるし、電源を切ると物の数分で冷気が侵食し始める。
中間がないのだ。
「丹前でも掛けようか」
チェアから腰を上げ、ソファの隅に畳まれている俺の布団を手渡した。
「ありがと」
「湯冷めしたらいけないからな」
ストーブの電源を入れ、バスタオルを手に取る。
「俺もシャワー浴びてくる」
「うん」

──二十分後、
「うー……」
寝落ちしたらしきうにゅほが、苦しそうな顔で唸っていた。
ソファとストーブの位置が近すぎたらしい。
「おーい」
丹前を剥ぎ、うにゅほの肩をゆする。
「う」
起きた。
「あつい……」
「丹前掛けるなら、ストーブは余計だったか」
「ふとん、ねちゃう」
「わかる」
目元をくしくしとこすりながら、うにゅほが生あくびをした。
「変な時間に寝たら、夜眠れなくなるしな……」
「うん」
なにか良い方法はないだろうか。
とりあえず、半纏に代わるものでも探してみようかと思う。



2014年11月16日(日)

「──さて、と」
ゲオのレンタルバッグを開き、二枚のDVDを取り出した。
「えいがみるの?」
「映画観るけど、××は観ないほうがいいよ」
「えー……」
うにゅほが不満げに声を上げる。
「ざっとあらすじ調べたんだけど、たぶんエグいしグロいシーンもあるから」
「う」
深夜にひとりで観るために借りたのだが、返却期限が明日に迫っているのだった。
いま観なければ、間に合わない。
「わたし、いないほういい?」
「そんなことないけど」
デュアルディスプレイのPCで観る時点で、没入感はお察しである。
「いていい?」
「いいよ」
「みていい?」
「……不安の種」※1
「う」
うにゅほの顔が、さっと青ざめた。
「ホラーじゃないから、あそこまでではないと思うけど……」
あらすじからしてゴア表現は多彩であろう。
「……たまにみていい?」
「たまに?」
「ちらって」
「いいけど……」
その行為は面白いのだろうか。
「じゃあ、駄目なシーンのときは駄目って言うから」
「うん」
パンズ・ラビリンスをセットし、ディスクトレイを閉じた。
再生が始まる。
「──…………」
「──…………」
最初からガン見じゃないか。
いいけど。

二時間後──、
「はー……」
結局、最後まで一緒に観てしまった。
「おもしろかった」
「終盤、音しか聞いてなかったけどな」
それでも、まあ、最低限の内容は理解できたのだろう。
「成長したなあ」
うにゅほの頭をうりうりと撫でる。
「ふへへー」
得意げだ。
「じゃあ、もう一本行こうか」
「う」
うにゅほが固まる。
「……きょうは、ここまで」
「それがいい」
暴力シーンやグロテスクな表現のある映画を立て続けに観たら、本気で熱を出しかねない。
俺は平気だけど。
しかし、一週間に五本は借り過ぎだった。
次からは二、三本に留めようと思う。

※1 2014年7月7日(月)参照



2014年11月17日(月)

「──ん、しょ!」
「?」
うにゅほが、ハンガーパイプに片手を伸ばし、一所懸命に背伸びをしていた。
自室のハンガーパイプは、柱と壁を利用した備え付けのもので、俺の身長より高い位置にある。
だから、俺のジャケットやコートしか掛けていないのだが──
「どうかしたか?」
「これ……」
うにゅほが掴んだのは、去年まで俺が着ていたロングコートの裾だった。
「これ、あったかいかなって」
「あったかいよ」
そうでなければ五年も冬は越せない。
「……きていい?」
「いや、ちょっと……」
オバQとまでは言わずとも、相当に不審な風体となるのは間違いない。
「さすがに、それで外を出歩くのは……」
職務質問されてしまいそうだ。
俺が。
「あ、あ、ちがくて」
うにゅほが慌てて首を横に振る。
「へやできる」
「部屋で?」
「うん」
「あー、半纏の代わりにってこと?」
「そう」
たしかに、ロングコートであれば足も覆えるし、セーターや半纏より暖かいだろう。
「いいけど──」
コートをハンガーから外す。
「半纏と違って生地がゴワつくし、なにより重いと思うぞ」
「だいじょぶ」
うにゅほが自信満々に頷いた。
基本的に根拠はない。
後ろを向くよう指示し、うにゅほの肩にロングコートを掛けた。
「……う」
「重いだろ」
「だいじょぶ」
「重いだろ?」
「おもい」
2キロはないと思うが、部屋で着るにはゴツすぎる。
「あったかいのは確かだから、選択肢としてないことはないと思うけど……」
「ちゃんときてみる」
うにゅほが、コートの裾を手繰り、ファスナーを閉めた。
「──…………」
「──……う」
「暑くない?」
「あつい……」
氷点下の寒さに耐え得る生地だ。
室温で着るには暖かすぎるし、かと言って気軽に脱いだり着たりするには重すぎる。
「はー」
半纏を羽織り、うにゅほが安堵の息を漏らした。
「ふゆは、はんてんだねえ……」
だそうである。



2014年11月18日(火)

「あー」
洗面所の鏡に向かって大口を開き、口角を指でなぞる。
「……治った」
「ほんとに、みっかでなおった」
あれほどしつこかった口角炎が、痕も残さずさっぱり完治してしまった。
「ビタミン、すごいねえ」
こうまで顕著だと、凄いのはむしろ俺の体質のような気もする。
「××も、口の端が割れたらまずビタミンだな」
「うん」
「なったことあったっけ?」
「ない」
「口内炎はあったよな」
「こうないえん……」
小首をかしげる。
「ほら、ちょっと舌噛んじゃったときとかにさ」
「した?」
うにゅほが、べーっと舌を出した。
「──…………」
「?」
舌の中程に、ぽつりと小さな白い点があった。
つん。
指先でつついてみる。
「いひゃ」
「口内炎できてる」
「え、ほこ?」
うにゅほが鏡を覗き込み、
「ほんほら……」
恐らく「ほんとだ」と呟いた。
口内炎のなんたるかを思い出したらしい。
俺は、ビタミン剤の瓶を手に取ると、しゃらしゃらと軽く振ってみせた。
「××も、これ飲まないとな」
「えっ」
「口内炎にはビタミンB2です」
たしか。
「うー……」
うにゅほは錠剤を飲むのが苦手である。
しかし、急病のときはそうも言っていられないのだから、早めに慣れておくべきだろう。
そんなことを考えながら、薬瓶のラベルに目を落とす。
「──あ、これビタミンB2入ってないや」
「!」
「いま、喜んだ?」
「よろこんでないよ?」
犬だったら確実にしっぽを振っている。
なんともわかりやすい。
「治りが遅かったら、B2入ったやつ買ってきますからね」
「はーい……」
「いちおう、デンタルリンスでうがいしておきなさい」
「わかった」
なんだか母親になった気分だった。



2014年11月19日(水)

「フフフ……」
一抱えほどもある段ボール箱を前に、不敵な笑みをこぼす。
「おらが部屋に空気清浄機がやってきた!」
「でかい」
「うん、どこに置こう……」
予想していたより遥かに大きかった。
「これで、◯◯のアレルギー、よくなる?」
「ああ、一分の隙もないはずだ」
布団乾燥機でダニを殺し、
ダイソンのハンディクリーナーで死骸を一掃し、
加湿空気清浄機で空気中のハウスダストを除去する。
たとえクラス6のアレルギー疾患であったとしても、快適に暮らせること請け合いだ。
いささか過剰と思わないでもないが、やれることはやれるだけやるのが俺の信条である。
「背面は壁から10cm、側面は50cm以上空けなきゃいけないらしい」
「ばしょ、かぎられるね」
「やっぱ、部屋の真ん中あたりに置いたほうがいいのかな」
「ストーブのとなり?」
「隣はまずいんじゃないか、たぶん」
試行錯誤の結果、デスクの裏の間隙に、斜めに設置することにした。
「でんげんいれていい?」
うにゅほが、わくわくとこちらを見上げている。
「いいよ」
「はい」
ぽち。

ぶおおおおおお──……!

激しい稼動音が部屋に轟いた。
「すってる!」
「ああ、吸ってる吸ってる」
数秒ほどして、
「あ、しずかになった」
「ニオイとハウスダストのランプが緑だから、急いで吸う必要がないんだろう」
「きれいなんだ」
「昨日、中掃除したばっかだしな」
「そだね」
設置してしまえば、あとは特にすることもない。
肌寒かったのでストーブをつけて、ソファに深く腰を下ろした。
「なんか、じみだね」
「劇的になにかが変わる、ってたぐいのものじゃ──」

ぶおおおおおおお!

ニオイのランプが唐突に赤くなり、轟音と共に空気を吸い上げはじめた。
「ストーブに反応している……」
「どうしよう」
「ちょっと離そう」
いちいち灯油のにおいに反応されていては、うるさくてかなわない。
もうすこし配置を考える必要がありそうだ。



2014年11月20日(木)

「××、ヨドバシ行くけ──」
「いく」
食い気味に即答された。
尋ねる意味は、あまりない。
「なにかうの?」
「プリンタのインクがな……」
「エイさん?」
「そう、エイさん」
ほとんどの用途がモノクロ印刷で事足りるため、黒インクばかりが目減りしてしまうのだ。
「絶対、プリンタと一緒に、換えのインクも買ったはずなんだけど……」
どこを探しても見当たらない。
「……買った、よなあ」
伴わない現実に、自信がすこし揺らいでいる。
「インク?」
「そう」
「おぼえてない……」
申し訳なさそうに、うにゅほが首を振った。
「あ、でも、エイさんのコピーようし、かった」
「A3のコピー用紙な」
「えーさん」
「エイさん」
「えいさん?」
「A3」
「どっち?」
「さて、どっちでしょう」
「えー……」
言葉でうにゅほを惑わしながら、ミラジーノを走らせた。
ヨドバシカメラ一階のプリンタ売り場へと赴き、家を出る前に記憶しておいた型番を探す。
「えーと、これだな」
適合機種を確認する。
間違いない。
「6色パックをふたつと、黒が──まあ、みっつくらいあればいいか」
「おいくら?」
「全部で13,000円くらい」
「たか!」
うにゅほの喫驚の声に、近くにいた店員が何事かと振り返った。
「──…………」
「──……」
ちいさく会釈する。
気まずい。
「インク、おたかいね……」
「俺もそう思う」
インクカートリッジとボールペン2本を購入したあと、二階の時計売り場を見て回った。
新しい腕時計、欲しいなあ。
買わないけど。



2014年11月21日(金)

「◯◯、なんかきたー!」
階段を駆け上がる足音と共に、うにゅほの元気な声が耳朶を打つ。
「はい!」
手渡されたものは、足の裏より大きいくらいの薄手の段ボール箱だった。
「なにこれ」
カッターの刃先を伸ばし、段ボール箱を開封する。
中身は、
「ちっちゃ」
「Amazonにはよくあること」
「ずれろっく?」
「そう」
ズレロック・ミニ──眼鏡のツルに取り付けることでズレ落ちを防止する商品である。
「ネットで見かけて、安かったからさ」
「おいくら?」
「450円」
「やすい、の?」
「送料は480円」
「たかい!」
「まあ、つけてみようか」
眼鏡を外し、耳の裏を指先でさすりながら、ズレロック・ミニを手に取った。
「──…………」
「?」
ひとつ、気づいたことがあった。
「……この眼鏡、ツルの端が太い」
「あっ」
ズレロック・ミニの装着口が、約3mm。
ツルの最も太いところが、約1cm。
しなやかに伸びる素材とは言え、いささか無理があるように思われた。
「あー……」
「待て、言い訳させてくれ」
「?」
「自分の眼鏡の形くらい覚えとけ──と、××は思ってないだろうけど」
「おもってない」
「でも、自分の眼鏡って、眼鏡を掛けて見ることが決してできないってことはわかってほしい」
「わかってるよ?」
「うん、ありがとう」
片目をつぶり、眼鏡のツルとズレロック・ミニとを至近距離で見比べる。
「……行ける、か?」
最も太い部分は約1cmだが、ツルの末端はわずかに傾いでいる。
「むりだとおもう……」
「まあ、やるだけやってみよう」

できた。

「──…………」
眼鏡を掛ける。
「どう?」
「よくわからんなあ」
ジョギングでもすれば瞭然なのだろうが、あいにくとそんな気はない。
「まあ、しばらく試せば自然とわかる」
「そだね」
送料の480円が報われることを祈ろう。



2014年11月22日(土)

「──……う」
うにゅほの指先が膝小僧を過ぎ、更に下へと伸びていく。
「ぐ、」
足首を掴み、
「ぐ、」
くるぶしをなぞり、
「ぐー……」
その中指が、タイルカーペットを引っ掻いた。
「やた!」
「おー」
ぱちぱちぱち。
「うへー……」
称賛の拍手を送ると、うにゅほが照れくさそうな笑みを浮かべた。
あれほど前屈だけできなかったうにゅほが、随分と柔らかくなったものだ。
「ストレッチ、頑張ったもんな」
「うん」
いろいろと調べてみてわかったのだが、うにゅほはふとももの裏側が硬いらしい。
理由はよくわからない。
「よし、次は手のひらだな」
「ての──」
うにゅほが固まった。
「あ、無理はしない、無理はしない」
「……うん」
継続することに意味があるのだ。
矢継ぎ早に目標ばかりを押しつけても仕方がない。
「◯◯も、すとれっちしよう?」
うにゅほが俺の手を引いた。
「あー……」
「こし、まだいたい?」
「いや、腰じゃないんだよ」
実を言うと、当初は俺も一緒にストレッチをしていたのである。※1
しかし──
「ほら、あったじゃん。大臀筋がぴきっと……」
「だいでんきん?」
「尻」
「おしり」
「左尻の筋を、ぴきっとやっちゃって……」
日常生活に支障はないが、下半身をほぐそうとすると痛みが走る。
難儀な体である。
「おしりにすじってあるの?」
「ありますよ」
「まっさーじする?」
「──…………」
あまり効果があるとは思わないが、
「お願いします」
「はーい」
うにゅほに尻を揉まれまくるという、よくわからない構図になってしまった。
痛みが取れ次第、俺もストレッチを再開しようと思う。

※1 2014年11月6日(木)参照



2014年11月23日(日)

「うーん……」
眼鏡を外し、右耳の後ろを撫でる。
「どしたの?」
「いや、なんか痛くて……」
フレームの歪んだ眼鏡を掛け続けたときのように、無視できない疼痛を感じている。
「ずれろっく、かなあ」※1
「──……うん」
わかっていた。
苦労して取り付けた手前、自分を騙しきりたかったのだが、こうまで痛むとさすがに無理だ。
「みみのうら、みして」
「うん」
うにゅほの前に頭を垂れると、細い指が右耳を倒した。
「あかくなってる」
「そっか……」
「いたそう」
「実際、痛い」
考えてみれば当然のことだ。
ズレ落ちないということは固定されているということで、どこで固定するかと言えば耳の裏しかない。
当然、耳の裏の皮膚に負荷がかかる。
「……まあ、眼鏡がズレないって商品目的は、確かに果たしてたな」
あとは体質の問題だろう。
「んー……」
うにゅほが小首をかしげる。
「◯◯、めがねずっとかけてるのに……、うと、じょうぶにならないの?」
「丈夫?」
「みみのうら」
「ああ……」
俺は、二十年以上も眼鏡を掛け続けている。
タコとまでは言わずとも、すこしは皮膚が丈夫になりそうなものだ。
「ズレロックを着けっぱなしにしておいたら、そうなるかもな」
「だめだよ」
「わかってるよ」
「じゃあ、オロナインをぬりましょう」
「お願いします」
耳の裏に軟膏を塗ってもらう感触は、どこか郷愁を誘うものだった。
された記憶もないのに、不思議だ。

※1 2014年11月21日(金)参照



2014年11月24日(月)

書棚を整理していたとき、ふとあるものが目に留まった。
それは、色褪せたビデオテープだった。
「──…………」
「それなに?」
「……青春の記録、とかなんとか」
「?」
うにゅほが小首をかしげ、背面のラベルを読み上げる。
「──ねんど、こうぶんれん、えんげき、ゆうしゅうしょう……」
「高校時代、俺は演劇部でな」
「えんげきぶ」
「まあ、演劇をしていたわけだ」
ざっくりとした説明になってしまった。
「ふうん……」
しげしげとテープを眺め回しながら、うにゅほが呟く。
「びでおてーぷ、はじめてみた、かも」
「そっちかよ」
うにゅほは、学校というものに対し、不自然なくらい徹底的に興味を抱いていない。
忌避も、嫌悪も、憧れも、懐古もなく、ただただ無関心なのだ。
「──…………」
ちょっと悔しいので、好奇心をくすぐってみる。
「……このビデオには、××と同い年くらいの俺が映ってるわけだけど」
「!」
はっ、と顔を上げる。
「みたい!」
「ははは、待て待て」
鼻息荒く詰め寄るうにゅほを押し留め、ビデオテープを渡す。
「……すこし恥ずかしい気もするけど、まあ、せっかく見つけたんだしな」
「かっこいい?」
「いまと大して変わらんよ」
遠目から撮影されたものである。
顔の細かな造作など、判別できやしない。
「♪~」
うにゅほが、リビングのテレビ台を鼻歌交じりに覗き込んだ。
「びでおみるやつ、どれ?」
「えーと」
確認する。
ビデオデッキが見当たらない。
「使わないから片付けたのかも」
「えー……」
「多分、父さん達の寝室に──」
なかった。
「婆ちゃんの部屋に──」
なかった。
「弟の──」
なかった。
我が家は、VHSからDVD及びHDDへの移行が完全に済んでしまっていたらしい。
「みたいのに……」
「──…………」
煽った手前、見せられないのは心苦しい。
「……ちょっと考えてみるから、今日はおあずけってことでいいか?」
「うん……」
方法はある。
しかし、確実ではない。
申し訳ないが、すこしのあいだ待ってもらうとしよう。



2014年11月25日(火)

「──◯◯!」
帰宅すると、廊下の向こうからうにゅほが駆け寄ってきた。
「ただいま」
「おかえり、あのね──」
「あ、××! 足!」
「……あー」
水で捺したうにゅほの足跡が、廊下にくっきりと残っていた。
「ふかないと」
「風呂場でなにかやってたのか?」
「うん、ちょっとまって……」
うにゅほが廊下を拭き終わるのを待ち、ふたりで浴室を覗き込んだ。
「お」
「ね?」
浴室の鏡がピカピカに磨き上げられていた。
「綺麗になったなあ」
「これつかったの」
うにゅほが、ちいさなスポンジのようなものを眼前に掲げる。
「だいやもんどぱっど」
「ダイヤモンド──ってことは、たぶん研磨剤かな」
「おかあさんが、あまぞんでかった」
駆使している。
「くもりどめもぬった!」
「へえー、お疲れさん」
うにゅほの頭をぐりぐりと撫でる。
「うへへ」
「でも──……」
余計なことを口走りかけて、慌てて自分の口を押さえた。
「?」
「なんでもない、なんでもない」
でも、俺は極度の近眼だから、入浴中に鏡なんて見られないけど。
そんなつまらない事実で、うにゅほの笑顔と達成感を曇らせてはならない。
「お疲れ、お疲れ」
うにゅほをくるりと反転させ、優しく肩を揉む。
「おー……」
「腕は疲れてないか?」
「だいじょぶ」
「腰は痛くないか?」
「うん」
「ほっぺたは凝ってないか?」
「あぶぶぶ」
罪悪感から逃れるように、うにゅほを徹底的にねぎらったのだった。



2014年11月26日(水)

「──…………」
とん。
うにゅほが、パソコンチェアの隣に丸椅子を置いた。
「どした?」
「ここで、ほんよんでいい……?」
「いいけど……」
うにゅほの手元を覗き込む。
「……なるほど」
それでも町は廻っている。
基本的には日常コメディ漫画なのだが、たまにホラー回を挟むのだ。
それを読んで、ちょっと怖くなってしまったのだろう。
「◯◯、なにみてるの?」
「アメリカのドラマ」
「こわい?」
「……殺人事件は起こるけど、ホラーじゃないし、怖くはないかな」
たぶん、と口のなかで呟いた。
監督が「マルホランド・ドライブ」のデヴィッド・リンチなので、なにが起こるか予想がつかない。
扉の隙間から小人が入ってくるかもしれない。
「そか……」
微妙なニュアンスを嗅ぎ取ったのか、うにゅほがディスプレイに背を向けた。
ふぁさ、と、高めにくくったポニーテールが振れる。
「──…………」
誘惑に負けて、手の甲に毛先を乗せてみた。
くすぐったい。
腕を持ち上げると、両端から髪の毛がさらさらと流れ落ちていく。
白糸の滝に手を差し入れたような心持ちだった。
「なにー?」
「んー、髪で遊んでただけ」
「そか」
「あ、毛先が折れた髪の毛発見」
「きって、きって」
「はいはい」
引き出しからハサミを取り出し、折れ曲がった髪の毛を切る。
「ありがと」
「そろそろ美容室かな」
「うん」
もったいないが、切らないわけにはいかない。
さようなら、うにゅほの髪のこのあたり。
そんなことを考えながら、しばらく髪の先を指でもてあそんでいた。



2014年11月27日(木)

友人に誘われて、コストコへ行ってきた。
「なにかうの?」
「徳用のプロテインが切れたから、それは欲しいな」
「それだけ?」
「あとは特に考えてない」
店内を見て回るのが目的のようなものだ。
欲しいものなんて、見つけてから考えればいい。
「××も、いいのあったら教えてくれな」
「うん」
「買うつもりないけど面白そうなものでもいいぞ」
「うん!」
大きく頷き、いししと笑う。
倉庫にいるというだけで、いたずらっ子に見えるから不思議だ。
巨大なカートを一緒に押しながら歩いていると、ふとあるものが目についた。
「──……ネックマッサージャー」
「?」
「マサ子ちゃん2号!」
「!」
マサ子氏は、四つの揉み玉とヒーターを備えた高性能マッサージクッションである。※1
しかし、ここ半年ほどは、電源コードの紛失によりただのクッションに成り下がっていたのだった。
「この首周り用の2号を買えば、1号の息を吹き返すことができる……」
一石二鳥である。
「──…………」
くい、と袖を引かれた。
「……まっさーじ、わたしするよ?」
うにゅほがぶーたれている。
マッサージ師としてのプライドを傷つけてしまったらしい。
「××、適材適所という言葉がある」
「──…………」
「××のマッサージは、仕上げ用だ」
「しあげ?」
「マッサージ器は痛い。
 だから、××には、仕上げに気持ちよくしてほしい」
「……うん?」
「してほしいんだ」
「はい」
お買い上げである。
誤魔化すような形となってしまったが、本音であることに違いはない。
うにゅほのふわふわマッサージが心地いいのは事実なのだから。
「──あ、ししょく!」
フードコーナーで、うにゅほが足を止めた。
「パン?」
「まってて」
とてとてと小走りで向かい、カットされたバタークロワッサンをもらってきてくれた。
「はい」
「あー……」
ぱく。
もむもむ。
味は普通である。
美味しかったと言おうとして、
──ガリッ!
金属質の異物を思いきり噛み潰してしまった。
慌てて吐き出すと、銀歯だった。
「……パンで?」
「どしたの?」
無言で手のひらを見せる。
銀歯が取れるのは仕方がないとしても、せめてもうすこし固いもので取れてほしかった。
明日は歯医者だ。
憂鬱である。

※1 2012年1月20日(金)参照



2014年11月28日(金)

「──…………」
舌先で奥歯をつつきながら玄関を開くと、すぐさま階段を駆け下りる音がした。
「おかえり!」
「はらいま……」
「……は、いたい?」
「痛くない。麻酔もしてないよ」
奥歯の違和感に気を取られていただけである。
「むしばじゃなかったんだ」
「いや、虫歯だった」
「……?」
「えーと、要するに──」
銀歯の根本が齲蝕したせいで、その部分がもろくなり、取れてしまった。
しかし、それが根管治療を済ませた歯であったため、痛みなく治療を終えることができた。
再び銀歯を取り付けるために、あと数回は歯医者に通う必要がある。
「とまあ、そんな感じ、なんだけど……」
「──……たくない」
伏し目がちに口元を隠したうにゅほが、か細い声で呟いた。
「むしば、なりたくない」
心の叫びだった。
「◯◯、むしばなりたくない……」
「そうだな」
「どうしたらいい?」
「……それ、たったいま歯医者から帰ってきた俺が答えていいのか?」
「──…………」
「──…………」
気を取り直して、口を開く。
「心構えとしては、だ」
「はい」
「寝る前に、ちゃんと歯を磨くこと」
「はい」
「歯の一本一本を丁寧に磨くといいと思う」
「はい」
「あと、デンタルフロスを使うこと」
「いとのやつ?」
「そう」
「◯◯、かったけどつかってない」
「俺も今日から使います」
「はい」
「あと、歯磨きのあとにデンタルリンスを使うこと」
「はい」
「たぶん、これで大丈夫だと思う」
「◯◯も……」
「はい……」
これ以上、歯医者の世話にはなりたくないものである。



2014年11月29日(土)

「──……は」
ボンヤリしていて、気がつくと日没だった。
「××」
「?」
「今日、なにもしてない気がする」
気がするというか、本当になにもしていない。
「なにかしないといけない気がする……」
「なにかって、なに?」
「掃除をするとか」
「そうじきかけたよ」
「買い物するとか」
「よるだよ?」
「……テレビを見るとか」
「コナン?」
「コナンはいいや……」
ソファに寝転がり、うにゅほの膝に頭を預ける。
「なんか、どうでもよくなってきた」
駄目人間極まる台詞を吐きながら、そっと目を閉じた。
「ねる?」
「眠くもないなあ……」
意味のない焦燥が胸を掻き乱している。
なにもしないことに罪悪感を覚えている。
休むことは罪ではないのに。
「──んぶ」
鼻をつままれた。
「やーめー、ぶ」
唇もつままれた。
「ふふ」
「んぶぶぶ」
息苦しい。
口の端から舌を出して、うにゅほの指を舐めた。
「ひひゃ」
「苦しいだろ」
「ふへへ……」
口の両端に指が突っ込まれ、横に大きく開かれた。
「はにをする」
「びよー」
「いはい、いはい」
「あ、いたい?」
「……いはくはないけど」
「びよーん」
「こら」
うにゅほの指を甘噛みすると、今度は頬をつままれた。
「この」
「うへー」
そんなやり取りを繰り返すうち、いつの間にか三十分くらい経っていた。
すこし元気になった気がした。



2014年11月30日(日)

レジ袋からビーフジャーキーを取り出し、無言で開封する。
「ふつうのでよかったかな」
「犬用を買っても余らせるだけだろ」
「でも、えんぶんとか」
「……それ、去年も言ってなかったか?」
「そだっけ」
墓前にジャーキーを備え、墓石をそっと撫でる。
二年だ。
あれから二年経った。
いないのが当たり前になった。
写真を見ても平気になった。
鳴き声を、毛並みを、重さを、においを、思い出せなくなった。
それを、乗り越えたと言うのなら、俺たちはきっと乗り越えたのだと思う。
「──…………」
「──…………」
手を合わせ、黙祷を捧げる。
「……なむ、なむ」
「くくっ」
うにゅほのつたない念仏に、思わず笑い声をこぼしてしまった。
「なにー」
心外といった表情で、うにゅほが俺を見上げる。
「なんでもないです」
「──…………」
視線が痛い。
「……ごめん、馬鹿にしたわけじゃない」
「ほんと?」
「ただ、まあ、犬の耳に念仏かなーとは思った」
「でも……」
なにを祈ればいいか、わからない。
俺だってそうだ。
「……名前を呼ぶ、とか」
「なまえ?」
「だってあいつ、自分の名前と、お手と、待てと、伏せくらいしかわからないだろ」
「あー……」
うにゅほが苦笑し、
「──……コロ」
と、ちいさく呟いた。
「コロ……」
俺も、それにならった。
墓土に苔が生え、なんだか威厳が出てきた愛犬の墓は、なにも答えてはくれなかった。
ただ、眉間を掻いてやったときの気持ちよさそうな顔が、わずかに思い出されるばかりだった。
「──コロ、伏せ!」
「できないよー」
顔を見合わせて、ふたりで笑う。
そんな冗談を言い合えるくらいには、受け入れることができたのだ。

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