>> 2014年10月




2014年10月1日(水)

「~♪」
去年の誕生日に贈ったつげの櫛で、うにゅほが髪の毛を梳かしていた。※1
「──…………」
そろそろかな、と思った。
うにゅほが髪の手入れを終えるのを見計らい、
「××、ちょっと貸して」
「?」
櫛を受け取り、表面を撫でる。
「……やっぱ、そろそろ手入れしないと」
「また?」
うにゅほが、ちょっとだけ憂鬱そうな顔をする。
つげの櫛の手入れとは、櫛を油漬けにすることと同義である。
気持ちはわからないでもないが、こればかりは仕方がない。
「──よし、と」
ちいさめのタッパーにオリーブオイルを流し入れ、櫛を漬ける。
本来は椿油を使用するのだが、同じく酸化しにくいオリーブオイルでも代用が可能ということだ。
「どのくらいまつ?」
「夜まで待てばいいだろう」
「あぶら、すう?」
「吸う吸う」
「すうのかー……」
「油気がないと、普通の櫛と大差ないんだぞ」
「わかってる、けど」
「けど?」
「……もつとこ、べたべたするから」
「ああ……」
使い心地までは考えが及ばなかった。
「それは、まあ、我慢してもらうしか」
「うん」

夕食後、タッパーから櫛を取り出し、ティッシュペーパーのあいだに挟み込んだ。
すこしでもうにゅほが使いやすいようにと、丁寧に油分を拭い取る。
「おわり?」
「いや、あとは櫛歯のあいだを掃除しないと」
「わたしやる」
「べたべたするぞ?」
「でも、わたしのくしだもん」
「偉いなあ」
油分を落とした櫛をうにゅほに手渡し、メモ帳を破り取って二つ折りにする。
「ほら、これ使って」
「うん」
真剣な表情で櫛歯の掃除を行ううにゅほを眺めながら、今年の誕生日プレゼントに思いを馳せた。
だいたいは決まっているのだが、具体的にはまだである。
なにを贈っても喜んでくれるだろうけど、だからこそこだわりたいものだ。

※1 2013年10月15日(火)参照



2014年10月2日(木)

台所の隅に牛乳パックが溜まっていたので、切って開いておくことにした。
以前は包丁を用いていたのだが、切れ味の良いハサミを購入したので、いまはそちらを使っている。
「──…………」
黙々と作業していると、うにゅほがちょこちょこ寄ってきた。
「てつだう?」
「いや、いいよ。すぐ終わるから」
「そか」
冷蔵庫から烏龍茶を取り出すうにゅほを横目にしながら、最後に残ったコーヒー豆乳のパックにハサミを入れた。
「うぶ」
思わず息を止める。
「……くさッ!」
臭かった。
豆乳のパックが特殊な形状をしていたため、すすぎが甘かったらしい。
「どしたの?」
「来ないほうがいいぞ、臭いから……」
「くさいの?」
「ああ、豆乳が──」
「くさ!」
ああ、だから来ないほうがいいと言ったのに。
「これ、くさいねえ……」
「ほら、向こう行ってな」
ザクザクと容器を切り開き、茶色いペースト状の物体を洗い流す。
「それがくさいの?」
「豆乳だから、納豆系の臭さだよな」
「うん」
何故か向こうへ行かないうにゅほと、臭さ談義で盛り上がる。
「なっとうのあじするのかな……」
納豆嫌いのうにゅほが、それはもう嫌そうな顔で言った。
考えなければいいのに。
「しないしない、腐敗と発酵は違う」
「ちがうの」
「こんなもん舐めたら腹壊すって」
豆乳のパックを石鹸で流し、ハサミ洗い清めると、ようやく臭いが収まった。
「くさかったねえ」
「臭いから向こう行ってろって言っただろ」
「なんかかいじゃう」
「わかるけど」
蓋をするほど臭いものは、不思議と嗅ぎたくなるものだ。



2014年10月3日(金)

「う、う、う──……」
両手を擦り合わせながら、たまりかねて叫んだ。
「──寒い!」
「すぶい……」
ふかふか巨大クッションで口元を隠しながら、うにゅほが同意した。
「今朝、どっかで氷点下だったって」
「どこ?」
「どっかは、まあ、北海道のどっかだろ」
「ふうん……」
地名を覚えていても、場所がわからない。
「……これは、ストーブ先生においでいただくしかないな」
「もう?」
「もうって、もう十月だぞ」
「あ、そか」
今年も残り三ヶ月しかないのである。
「──…………」
「?」
思わず遠い目をしてしまった。
「まあ、いいや」
よくないけど。
「ストーブ出すか……」
「てつだう?」
「その必要は、あんまりないなあ」
車庫の二階に仕舞ってある扇風機とは異なり、ストーブは部屋の隅に押しやられているだけなのだ。
緊急性の違いである。
だから、動線を確保して、引きずり出すだけで済む。
「とうゆ、ある?」
「えーと……」
灯油タンクをすこし持ち上げてみる。
「あ、すこし残ってるな」
「え、だいじょぶなの?」
「──…………」
今年の春先に使い切るのを忘れていたらしい。
「大丈夫──、だと、思う?」
「……だいじょぶ?」
ストーブの中という冷暗所で保存されていたのだから、大丈夫とは思うが。
コンセントにプラグを繋ぎ、電源を入れる。
しばしの沈黙を経て、
「あ、ついた」
「ついたな」
「あったかい……」
「あったかいな……」
熱気を擦り込むように両手を揉み合わせる。
「……でも、もうすこしあったまったら換気しような」
「うん……」
なにかあったら怖いし。
寒かったり、あったかかったり、また寒くなったり、なんとも忙しない一日だった。



2014年10月4日(土)

ロッテリアで昼食を済ませたのち、あてどなくガソリンを消費していると、
「──そういえば、このへんロイズ近かったな」
ふと、そんなことを思い出した。
「チョコやさん?」
「そうそう」
「チョコたべたいね」
「デザートにいいかもなあ」
意見が一致したので、寄っていくことにした。
天井が高く、すっきりとした店内を、ふたり仲良く見て回る。
「たかいねー」
値段が、である。
「そっちはおみやげ。小分けでも売ってるから、俺たちはこっち」
「そか」
「あー……、でも、ここまで来たんだし、おみやげも買って帰ろうか」
「いいね!」
自分用としては高価だが、おみやげと考えると普通である。
「いろいろある」
「クッキーもあるけど」
「チョコやさんだから、チョコがいい」
「なるほど」
ピュアチョコレートの箱を手に取る。
「このあたりかな」
「うん」
「俺、チョコレートは、ちょっとビターなほうが好きなんだよな」
「にがいの?」
「苦いというか、甘すぎないやつ」
「へえー」
うにゅほがうんうんと頷き、
「ホワイトチョコ、きらい?」
「大好きだけど」
「──……?」
不思議そうな顔で俺を見上げる。
「あまいチョコ、きらい?」
「好きだけど……」
「……きらいなチョコ、あるの?」
よく考えると、だいたいのチョコは好きだった。
「強いて言えば、ウイスキーボンボンかな」
「ぼんぼん?」
「なかにお酒が入ってる」
「それはだめだー……」
眉を顰める様子がおかしくて、うにゅほの頭に手を乗せた。
ちょっとビターなチョコレートの詰め合わせと、小分けのチョコとクッキーを買って、帰宅した。



2014年10月5日(日)

「◯◯、はなのした……」
「ん?」
俺の鼻の下に、うにゅほの指先がちょんと触れた。
「いて」
「しろいの、ぷちってできてる」
「あー……」
卓上ミラーで確認すると、なんとも情けない位置に吹き出物ができていた。
「これは、さすがに潰しておかないと」
「つぶすの?」
「××は真似しないようにな」
「どうして?」
「潰すと跡が残るから」
「◯◯はいいの?」
「今更だなあ」
ニキビ跡が残ったところでどうにかなるような顔ではない。
「──よし!」
潰した部分に軟膏を塗り、ティッシュで指先を拭う。
「よし、かなあ」
「よしだよ」
うにゅほのほっぺたをつまみ、むにーと伸ばす。
「××、ニキビとかあんまりできないよな。体質かな」
「へきるお?」
「……?」
なにを言っているかわからなかったので、ほっぺたから手を離した。
「にきびできるよ」
「見たことないけど……」
「かおは、できない」
「体のほう?」
「からだもできない」
「じゃあ、どこ?」
「うーとね」
うにゅほが髪の毛をまとめ上げ、うなじのあたりを指さした。
「このへん、たまにできる」
「あー、蒸れるのかな」
首筋を指でなぞる。
「うひ」
「でも、跡はできてないみたいだ」
「つぶさないもん」
「じゃあ、どうしてるんだ?」
「オロナインぬる」
「……オロナインって、効くの?」
「きくよ?」
思春期のニキビと吹き出物とでは原因も対処法も違うと聞いたことがあるが、今度試してみよう。



2014年10月6日(月)

「はー……」
思わず嘆息する。
「随分と便利になったもんだなあ」
「なにー?」
興味を抱いたらしきうにゅほが、ディスプレイを覗き込んだ。
「……としょかん?」
「そう、図書館のサイト」
市立図書館の公式サイトがリニューアルし、小綺麗になっていた。
「わざわざ図書館まで行かなくても、どの本があるか、ここから検索できるらしいんだ」
「ほー……」
うにゅほが目をまるくする。
「すごいねえ」
「すごい便利だよな」
「いかなくていいね」
「いや、行かなきゃ借りられないって」
「あ、そか」
以前からそうだったか記憶は定かでないけれど、素晴らしいサービスであることは確かである。
「××、久し振りに図書館行こうか」
「ほんあったの?」
「あった」
「どんなほん?」
「──……うーん」
答えてもいいのだが、
「エイヴラム・デイヴィッドスンってSF作家の──」
「えすえふ」
あ、聞き流しモードに入った。
遠い目をしてオウム返しを始めたら、それは、うにゅほが興味を失ったことの表れである。
「……まあ、その本」
「そか」
あ、帰ってきた。
「一緒に行く?」
「いくー」
よし、と気合いを入れて立ち上がったとき、
「──……あ」
うにゅほが、はっとしたように言った。
「としょかん、あいてる?」
「あ、そうか」
サイトから休館日を調べる。
「そうだそうだ、月曜日休みだったな」
「あぶなかった」
「××、よく覚えてたなあ」
くしゃくしゃと頭を撫でると、
「うへー」
と、照れたように笑った。
図書館は明日行くとして、今日は自室でゆっくりしよう。



2014年10月7日(火)

「ほん、あってよかったね」
「××、なにも借りなくてよかったのか?」
「いまはいい」
「そっか」
市立図書館から帰宅し、さっそく文庫本を開く。
「もう読むの?」
「いや、目次だけ確認しようと思って」
「そか」
ソファに浅く座り、ぱらぱらとページを繰る。
「──……うーん」
やっぱり思うよなあ。
「××」
「はい」
「あるいは牡蠣でいっぱいの海」
「?」
「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」
「……?」
「どっちがいいと思う?」
うにゅほが首をかしげる。
「いや、これ海外小説の邦題なんだけど、しばらく前に改題されたんだよ」
「かいだい?」
「タイトルが変わったってこと」
「うと、あるいは、なに?」
「あるいは牡蠣で──、いや、ちょい待ち」
メモ帳に、
〈あるいはカキでいっぱいの海〉
〈さもなくば海はカキでいっぱいに〉
と走り書きをし、うにゅほに手渡した。
「上と下、どっちがいいと思う?」
「うーと……」
口のなかで幾度か呟いたあと、うにゅほが恐る恐る答えた。
「……うえ?」
「だよなあ」
筒井康隆のショートショート「あるいは酒でいっぱいの海」の影響もあってか、後者の違和感がものすごい。
「──…………」
ほっとした様子のうにゅほを見て、なんだか悪いことを聞いたような気分になった。
正解のある問いではないのに。
「いやまあ、どっちでもいいんだけどさ」
「そなの?」
「内容は変わらないし」
翻訳者が同じかは知らないが。
うにゅほの頭を軽く撫でて、いつか読んだ記憶のある短編小説をデスクの上に置いた。



2014年10月8日(水)

「◯◯、かいきげっしょく、だって!」
「あー」
そういえば、今日だったっけ。
「何時からって言ってた?」
「うと……」
うにゅほが小首をかしげる。
もう夜だ。
いつ欠け始めてもおかしくはない。
「外に出て確認するか」
「うん!」
アウターを羽織って自室を出ると、母親が言った。
「月、階段の窓から見えるよ!」
「ほんと?」
階段の途中にある窓を開け、軽く身を乗り出す。
「わあー……」
「おー、欠けてる欠けてる」
月が、既に半分ほどなくなっていた。
「すごいね!」
「そうだな」
「げっしょく、なんでなるの?」
「ああ、太陽と地球と月が一直線上に並んで──」
ジェスチャーを交えて解説しているうちに寒くなってきたので、部屋に取って返した。
「もうすこししたら、ぜんぶかくれる?」
「ああ、皆既月食だからな」
「ふうん」
「というか、階段の窓から見えるなら……」
自室の電灯を消し、カーテンを開いた。
「あ!」
「……部屋から見えたな」
「うん」
灯台もと暗しである。
午後七時半を過ぎると、皆既食が始まった。
「あかいね」
「上のほう、ちょっと明るいな」
「うん」
「窓開けるか」
「へや、さむくならない?」
「そこはほら、人間は考える葦であるからして」
「……?」
半纏を羽織り、うにゅほを後ろから抱きすくめる。
「わ」
「あったかいか?」
「うん」
「このままカーテンの内側に入って──」
二重窓を開くと、澄んだ空気が顔の産毛をくすぐった。
「すこしなら、これで大丈夫」
「おー」
冷気の流入はカーテンが防いでくれるはずだ。
「ほら、俺の半纏にお入りなさい」
「……おじゃまします」
小柄なうにゅほが、半纏のなかにすっぽりと収まった。
「やっぱり、直接見たほうが綺麗だな」
「うん」
五分ほど眺めていたらさすがに寒くなってきたので、窓を閉めてストーブをつけた。
せっかくの天体ショーだ。
見逃さずに済んで、よかった。



2014年10月9日(木)

母親とうにゅほが服を買いにイオンモールへ行くと言うので、ついて行くことにした。
「あんたたち、冬になると同じ服ばっか着てるでしょ」
「そんなこと──」
しばし黙考し、
「まあ、あるけど」
「あんたは好きにすればいいけど、××はもうすこしお洒落してもね」
ぽん。
母親が、うにゅほの両肩に手を乗せた。
せっかく娘ができたのだから、うんと着せ替えしたいのだろう。
「家のなかだからって、ずっと半纏着てるのはダメよ」
「あったかいよ」
「だから、屋内用の上着を買いましょう」
「あったかいよ?」
うにゅほは、あくまで半纏を支持したいらしい。
「ストーブつけて、部屋があったまったらどうするの?」
「うと……、ぬぐ?」
「脱いだら寒いでしょ。あいだがないと」
「なるほど」
「なるほどー……」
一理ある。
「可愛いセーターとかフリースがあればいいんだけど」

十五分後──、
「だから、母さんのセンスはいまいち古いんだって」
「古くないよねえ」
「ふるくない」
あ、意識がどっか行ってる。

三十分後──、
「うーん、デザインはいいと思ったんだけどなあ」
「実際に着てみると……」
「だめ?」
「体型と合ってないのか、型紙がおかしいのか」
「両方かもね」

四十五分後──、
「赤は派手じゃない?」
「灰色は地味だろ」
「あおは?」
「ないない」
「青はない」
「うー……」

一時間後──、
「よし、この二着にしましょう!」
「きまった?」
「決まったよ」
「つかれた……」
うにゅほが肩を落とす。
俺も疲れた。
「なに言ってんの、まだ終わりじゃないでしょ」
「え」
「下着も買わないと」
「──…………」
視線の先に、女性下着売り場が広がっていた。
「……俺、自分の服見てくるわ」
「そうしときなさい」
母親が頷く。
「××、またあとでな」
「うん」
ちいさく手を振り、早足でその場を後にした。
ベルトを一本買いました。



2014年10月10日(金)

「──…………」
胃のあたりをさする。
昼食をとるのが早かったためか、妙に空腹だった。
「……××、なんか食べるものないか」
「おなかすいたの?」
「すいたの」
「あったかなあ」
うにゅほと共に台所へ向かい、冷蔵庫や戸棚を物色する。
「あ、チョコボールあった」
「チョコボールか……」
「だめ?」
駄目ではないが、いささか物足りない。
「カップめん」
「いや、そこまでは」
「うーん……」
文句ひとつ言わず俺のわがままに付き合ってくれるうにゅほを見て、ふと罪悪感が湧いた。
「あ、とりあえずチョコボール食べよう」
「いいの?」
「食べたら満足するかもしれないし」
「そか」
うにゅほからチョコボールを受け取り、フィルムを剥がす。
なにも聞かずにピーナッツを渡してくれるあたり、よくわかっている。
「わたし、キャラメル」
「そうかそうか」
銀歯がないと、いいなあ。
バリボリと流し込むようにチョコボールを貪っていると、
「あ」
うにゅほが声を上げた。
「当たった?」
「チョコボール、あたりあるの?」
「ああ」
くちばしの側面を見せてもらうと、銀のエンゼルが刻印されていた。
「よかったな」
「もうひとつもらえる?」
それはガリガリ君だ。
「銀のエンゼルは、五枚集めると、おもちゃのカンヅメがもらえるんだ」
「おもちゃのかんづめ……」
ピンと来ていないようだったので、iPhoneで検索して画像を見せた。
「ほら、2014年はこれだって」
「あ、かわいい」
なかなか豪華な缶である。
キョロちゃん、まるっこくなったなあ。
「なかみは?」
「中身は──」
「──…………」
「──…………」
「……うん」
「まあ、中身はいいじゃん」
「そだね」
くちばしを破り取り、うにゅほに手渡した。
「とりあえず、とっときな」
「ごまいかあ……」
「あ、金のエンゼルだと一枚だぞ」
「おー」
これまで生きてきて、ただの一度もお目にかかったことがないけれど。
正直、おもちゃのカンヅメなんかより、ずっと価値があるような気がする。
二箱目のチョコボールに手を伸ばしながら、エンゼルの確率について思いを馳せるのだった。



2014年10月11日(土)

「──……あー」
額を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
午後三時。
起床には遅すぎる時刻だ。
幾度も目を覚ましているので、睡眠時間の計算がうまくできないのだけれど。
「……ぐあいわるい?」
「あたま痛い……」
枕もとに膝をついたうにゅほが、俺の額に手を当てた。
冷たくて気持ちがいい。
「あつくは──ない」
「風邪じゃないと思う」
「なんだろう」
「……たぶん、気圧の問題じゃないかな」
「きあつ?」
「ほら、台風19号が来る来ないってニュースで言ってるだろ」
「うん」
「急激に気圧が下がると、こう、響くんだよなあ……」
雨が降ると古傷が痛む人がいるように、俺は体調が悪くなる。
「きあつ」
「ああ」
「きあつって、なに?」
「あー……」
「へくとぱすかる?」
「それは気圧の単位だな」
「ふうん」
ああ、解説したい。
噛み砕いて説明したいのだが、いかんせん頭が痛い。
「──……××」
「はい」
「膝枕して」
「わかった」
癒やされたかった。
「地球には大気があって、その圧力のことを──」
「ふんふん」
膝枕をしてもらいながら気圧の解説をするというわけのわからない絵面になったが、気は紛れた。
しばらく低調な日々が続きそうである。



2014年10月12日(日)

「──……むぐ」
息苦しさに顔を上げた。
うつ伏せに寝転びながら小説を読み進めるうち、いつしか寝落ちして枕に顔を突っ込んでいたらしい。
眼鏡を外した記憶がかすかに残っている。
「いかん、いかん……」
じゅる、とよだれを拭う。
「……なんか、今日は、いくらでも寝れてしまうなあ」
「ぐあいわるい?」
すぐ隣でiPhoneをいじっていたうにゅほが、心配そうに尋ねた。
「いや、言うほど悪くもないんだけど──」
上体を起こし、敷布団の上に座り直す。
「俺、どのくらい寝てた?」
「うーと、たぶん、じっぷんくらい」
思っていたより短かった。
邯鄲の夢である。
「……あのさ」
「?」
「今日は、チョコボール食べてないよな」
「もうないよ?」
うにゅほが小首をかしげる。
当然の反応だ。
「いや、銀のエンゼルがもうひとつ当たった夢を見たから……」
「ふふ」
成人男性が見る夢としてはトップクラスにしょうもない。
うにゅほが微笑むのを見て、なんだかとても恥ずかしくなってしまった。
「──…………」
再度文庫本を開くが、またすぐに眠気が襲いかかってきた。
「小説は諦めようかな……」
ただでさえ翻訳物は読みにくいのに、この体調と体勢ではいささか無理があるようだ。
「テレビ見よう、テレビ。録画して見てないのがあったろ」
「なんだっけ」
「ほら、変な家を紹介する番組」
「あ、みたい」
リビングでぼんやりテレビを眺めながら、午後の時間を過ごした。
寝落ちはしなかった。



2014年10月13日(月)

目を覚ますと早朝だった。
午前四時。
体内時計が狂っていることを自覚する。
くうくうと安らかに眠るうにゅほの寝顔を横目に、自室を後にした。
ただ、腹が減っていた。
白米は、
──まだ炊けていない。
カップめんは、
──切らしている。
冷凍食品は、
──ろくなものがない。
「──…………」
ぐう、と腹が鳴った。
お菓子もない。
飴も補充していない。
調理せずに食べられるものが、ひとつもない。
空腹を持て余し、そっと溜め息をついた。
ないとわかると余計に耐え難くなってくる。
「……吉野家でも行くか」
音を立てないように着替えを済まし、財布をポケットに仕舞った。
「──…………」
問題がある。
深夜に無断で出掛けると、うにゅほが怒るということだ。
起こしてもいいから一声かけてほしい、と言う。
どうすべきだろうか。
膝をついて寝顔を覗き込みながら、しばし黙考する。
午前四時二十分。
うにゅほが起床するのは午前六時くらいである。
いまの時刻なら、早起きで済むだろうか。
「──…………」
つん、
うにゅほのほっぺたをつつく。
むに、
ほっぺたをつまむ。
ぱ、
手を離す。
「う」
あ、起きた。
「──……んー?」
「おはよう」
「……あよう、ご、まぅ」
なにを言っているかわからないが、なにを言いたいかはわかる。
「早起きし過ぎて食べるものないから、吉野家に行こうと思ってるんだけど──」
「!」
うにゅほの目蓋が、ぱっと見開かれた。
「いく」
「朝っぱらから大丈夫か?」
「だいじょぶ」
「目、覚めてる?」
がば、と上体を起こす。
「おはようございます」
「……あ、うん、おはよう」
「よしのやいく」
「ああ、そうだな。行こうか」
「うん!」
これが若さか。
うにゅほが着替えるのを待って吉野家へ行ったのだが、店員に妙な目で見られてしまった。
そりゃ怪しいよなあ。



2014年10月14日(火)

「××、シャワー空いたよ」
「うん」
バスタオルで頭を拭きながら、冷蔵庫を開く。
「あ」
ペプシネックスが切れていた。
キンキンに冷えたペプシを風呂上がりに一気飲みするのが楽しみだというのに。
烏龍茶はあったが、なにか味のするものが飲みたかった。
野菜庫の奥を漁っていると、
「お」
ごく薄いオレンジ色をした飲料が半端に残ったペットボトルを見つけた。
作り置きしておいたプロテインドリンクである。
独自に味を調整しているため、プロテインでありながらそこそこ美味しい。
コップに氷とプロテインを注いでちびちび飲んでいると、お風呂の用意を整えたうにゅほがこちらを覗き込んだ。
「なにのんでるの?」
「プロテインだよ。最近飲んでなかったから──」
「──…………」
うにゅほが眉をひそめた。
「ぷろていん、いつのやつ?」
「いつ、って……」
いつ作ったやつだっけ。
思い出せない。
「◯◯、ぎゅうにゅうまぜてた」
「あっ」
まずい。
牛乳はまずい。
「だいじょぶ? すっぱくない?」
「甘酸っぱいのは元からだし、変な味はしないけど……」
捨てたほうが無難だろう。
ペットボトルとコップを持って台所へ向かうと、うにゅほが後をついてきた。
「ね」
「ん?」
「……どんなあじ?」
興味津々といった様子で、俺の両手に視線を向けている。
「──…………」
無言でシンクに中身を空けた。
「あー」
「明日誕生日なのに、おなか壊したらどうする」
「そか……」
残念そうである。
気持ちはわかるけど、悪くなっているかもしれないものを飲ませるわけにはいかない。
臭いものを嗅ぐのとは訳が違うのだ。※1
まあ、そんなになるまで放置しておいた俺が悪いんだけど。
今後は、作ったらさっさと飲み切ることにしよう。

※1 2014年10月2日(木)参照



2014年10月15日(水)

「××、誕生日おめでとう」
「うへー……」
うにゅほが照れ笑いを浮かべる。
「今日は好きなだけ甘やかしてやろう」
「……?」
ピンと来なかったのか、うにゅほが小首をかしげる。
「××の言うこと、なんでも聞いてあげるってことだ」
「なんでも?」
「なんでも」
「うと、えと──」
「急がなくていいよ。今日は、だから」
「すごい……」
うにゅほが目を輝かせる。
そもそも、うにゅほのお願いごとを聞き入れなかったことはあまりないのだが、気分の問題である。
たまにはわがままを言ってほしかった。

数分後──、
「いたくない?」
「痛くない」
俺は、うにゅほに膝枕をされながら、顎の下にまばらに生えた無精ヒゲを引っこ抜かれていた。
「……楽しい?」
「うん」
身長差から見上げる形になるため、ずっと気になっていたのだそうだ。
「──…………」
「♪~」
ぷち。
これ、俺が甘やかされているような。

うにゅほの希望で三時間ほど札幌市内をドライブし、不二家でバースデーケーキを買って帰宅した。
豪盛に、夕飯は寿司だった。
家族が口々に祝いの言葉を述べ、ロウソクの炎を吹き消したうにゅほに拍手を送る。
弟のプレゼントは、暖かそうな冬用の手袋だった。
祖母からは剥き身の五千円札、両親は──
「あっ」
「あ」
俺とうにゅほの声が重なった。
「どうしたの?」
「あー、いや、なんでもないんだ」
「なんでもない、なんでもない」
母親の疑問をやり過ごし、うにゅほと目配せを交わす。
ピーターラビットの描かれた5000円分の図書カード。
去年は3000円分だった。
まだ、一度も使っていない。
「……わすれてた」
「忘れてたな」
本が好きなうにゅほへの無難なプレゼントなのだろうが、図書カードは使いどころが難しいと思う。
使っても、使わなくても、もったいない。
気を取り直して、
「最後に、俺からのプレゼント」
座布団の下に隠していた細長い包みを手渡した。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
「あけていい?」
「いいよ」
包装を解き、中身を取り出す。
「あ、とけいだ!」
ピンクゴールドの、シンプルな腕時計。
「◯◯のとけいよりちいさいね」
「男性用のゴツい自動巻きと比べたらいかんよ」
「つけていい?」
「ちょっと待って、たぶんサイズ大きいと思うから──」
ブレスレットの一部を取り外し、調整する。
そして、恭しくうにゅほの手を取り、腕時計を着けてあげた。
「わー……」
うにゅほが、文字盤を指先で撫でる。
「きれい」
「気に入った?」
「うん!」
なら、よかった。
ケーキを食べ終えて自室へ戻ったあと、うにゅほが言った。
「おねがい、いい?」
「いいぞー」
「かたもみたい」
「肩を、揉むほうがいいの?」
「おれいしたい」
「いいけど……」
うにゅほに背中を向けると、両肩にちいさな手が触れた。
もみ、もみ。
「きもちいい?」
「ああ、気持ちいいよ」
やはり、俺のほうが甘やかされている気がする。
そんな穏やかな一日だった。



2014年10月16日(木)

数日前から右耳の様子がおかしかった。
水が入ったまま出てこないような据わりの悪さがずっと続いている。
「中耳炎、かなあ……」
「ちゅうじえん?」
「鼓膜の内側の、中耳っていう部分が──」
首を傾けたまま頭部を揺する。
なにも出てこない。
「……炎症を起こす、まあ、病気だな」
「びょうき……」
うにゅほが顔を曇らせる。
病気がちで、いつも心配ばかりかけてしまっている。
「あー、でも、どうかな。素人の浅知恵で決めつけるべきじゃないし」
「そか……」
「そうそう」
うにゅほの頭をぐりぐりと撫でる。
耳鼻科の門戸を叩くのは変わらないが、すこしでも安心させてやりたかった。

「──中耳炎、ではないですね」
耳鏡を覗き込みながら、医師がそう言った。
「違うんですか?」
「ええ、鼓膜は綺麗なもんです」
「じゃあ……」
「毛ですね」
「毛?」
「毛が入り込んでいて、それが鼓膜に触れてます」
「──…………」
はあ、と溜め息を漏らす。
毛かよ。
医師がピンセットで取り出したのは、2センチほどもある長めの産毛だった。
「ちゅうじえんじゃなくて、よかったね」
「そうだなあ」
こんなもののために病院へ行ったのかと思うといささか面映ゆいが、病気になるよりずっとましである。
「……大福でも買って帰るか」
「いいねー」
お詫びというわけではないけれど。
セイコーマートのふわふわ大福、おすすめです。



2014年10月17日(金)

はらり、と。
天井から静かに舞い落ちてきたものがあった。
「……?」
タイルカーペットの上のそれを、うにゅほが拾い上げる。
「なんだこれ」
「んー?」
うにゅほの手のひらを覗き込むと、それは、爪の先ほどの白い欠片だった。
「ああ、なるほど」
「これなに?」
指先で上方を示す。
「天井の模様が剥げ落ちたんだろう」
「もよう?」
「ほら、シーリングライトを新しくしたとき、ひどい目に遭っただろ」
「!」
うにゅほの表情が、さっと青ざめる。
天井パネルの表面に施された装飾が蛍光灯の熱で劣化し、大量になだれ落ちてきたことがあったのだ。※1
「おんぼろではないけど、この家も古びてきたからなあ」
「あれ、ぜんぶおちてくるの?」
「全部……」
どん、と床を踏み鳴らした瞬間、天井の模様が一斉に剥がれ、部屋一面が白く染まる。
「──…………」
ちょっと洒落にならない想像だった。
「そうじとか……」
「掃除もそうだけど、俺たちもひどいことになるな……」
「うー……」
「大丈夫、一気に落ちてくることはないから。
 いま落ちてきたのは、なにかの拍子にたまたま劣化したやつだろう」
「そかな」
「天井、触ってみるか?」
「いいの?」
「いいよ」
うにゅほが丸椅子に乗り、
「うー……、しょ!」
つま先立ちで懸命に細い腕を伸ばした。
「あっ」
「触れた?」
「うん」
片手ならギリギリで天井に届くらしい。
「だいじょぶそう」
このまま何事もなく時が過ぎていくとすれば、天井の装飾がすべて剥がれ落ちるには、あと数十年の歳月が必要となるだろう。
遠い未来に思いを馳せながら、しばらく天井を見上げていた。

※1 2013年6月19日(水)参照



2014年10月18日(土)

「──けほ」
空咳に喉を撫でる。
「あー、あー、んー、いー……」
「どしたの?」
「俺の声、変じゃない?」
「へんじゃないよ」
うにゅほは、俺自身より俺の体調に敏感である。
うにゅほが気づかない程度であれば、気にすることもないのだろうか。
「かぜ?」
「なんか、いがらっぽい気がしてな」
温湿度計を確認する。
33%。
乾燥していると言えば、している。
「ねつある?」
そう言って立ち上がり、うにゅほが俺の額に手を当てた。
「──…………」
「うん、ねつないね」
「ちょっと待て」
「?」
うにゅほの手を取り、両手で包む。
「つめたい」
「……違う、××が熱いんだ」
「わたし?」
額に触れる。
やはり、熱い。
「ふらふらしないか?」
「ふらふら……」
「漫画読んでるとき、ページが遠く感じたりは?」
「あ、うん」
なんでわかるの、とばかりに目をまるくする。
「××、風邪だ」
ぺし。
両手で両頬を挟む。
「かぜ……」
よく見ると、目がとろんとしている。
間違いないだろう。
「ほら、さっさと着替えて横になる!」
「そかなー……」
小首をかしげるうにゅほに体温計を握らせる。
結果は言わずもがな。
「──……すう」
安らかなうにゅほの寝顔を眺めながら、本人より先に体調不良を見抜けたことを誇らしく思った。
はやく良くなりますように。



2014年10月19日(日)

「熱は?」
「うー……、と」
腋窩に挟んでいた体温計を抜き取り、うにゅほが表示部に視線を落とす。
「さんじゅうろくど、さんぶ」
「お、下がったな」
ひきはじめに対処できたのが大きかったのだろう。
「なおった!」
起き上がろうとするうにゅほの両肩を掴み、制する。
「油断は禁物です」
「えー」
「熱が下がった=風邪が治った、ではない」
「そなの?」
「熱なんて単なる目安だ。一日くらい余分に見ておいたほうがいい」
「そっか……」
うにゅほが、口元まで丹前を引き上げる。
「眠れないなら、横になるだけでいいから。
 寂しいなら隣にいるし、話し相手にもなってやる」
「やさしい」
「いつもは優しくないか?」
「いつもやさしいよ」
「そうかそうか」
うりうりと頭を撫でる。
「……てーつないでていい?」
「ああ」
布団の下から差し出されたうにゅほの手を取ろうとして、
「あっ」
空振った。
「──…………」
「◯◯、マスクしないとだめだよ。うつるよ」
「あー」
たしかにその通りだ。
既に手遅れのような気もするが、気がついた以上は着けざるを得ない。
使い捨てマスクを装着し、うにゅほの傍に再び膝をつく。
「ほら」
「はい」
差し出された手は、すこしだけ汗ばんでいた。
「暑いなら、毛布減らそうか」
「……あせかいたほう、いいんじゃないの?」
「よく言われるけど、俺は、快適なほうがいいと思うよ」
汗をかくと体に負担がかかるし、無意識に布団を蹴り飛ばしたときなど、過度に体温を失うことになる。
また、汗で濡れた布団は雑菌の温床にもなるだろう。
寒ければ、また掛け直せばいいのだ。
「なにも心配はいらないから、ゆっくりおやすみ」
「うん……」
うにゅほの吐息が寝息に変わったのは、目を閉じてすぐのことだった。
やはり、治りきっていないのだろう。
しばらく手を取り続け、やがてその場を離れた。
昼過ぎに起き出してきたうにゅほは、すっかり元気を取り戻したようだった。



2014年10月20日(月)

掃除を終えて喉が乾いたので、烏龍茶でも飲もうかと冷蔵庫を開けた。
「お」
未開封の500mlペットボトルが、こちらに底を向けていた。
オレンジジュースかと思い手に取ると、予想外の文字列が目に飛び込んできた。
「……ふらのメロンソーダ?」
「?」
うにゅほが手元を覗き込む。
「オレンジジュース?」
「メロンソーダ」
「メロンソーダ?」
「メロンソーダ」
「オレンジいろだよ?」
「ほら、富良野のメロンは果肉がオレンジ色だから」
「オレンジいろなのにねえ……」
不思議そうに呟く。
不自然に鮮やかな緑色をしたファンタメロンの印象が強すぎて、違和感が拭えないのだろう。
俺だってそうだ。
「……飲んでみる?」
「いいのかな」
「味見くらいはいいだろう」
ぷし。
キャップをひねり、においを嗅いでみた。
「ぶっ!」
「くさい?」
「臭くはないけど……」
うにゅほの鼻にペットボトルを近づける。
「う」
「どうだ?」
「メロン……」
まるで、メロンに鼻先を突っ込んでいるかのようだった。
「味は──」
ひとくちすする。
「うはあ……」
「まずい?」
「不味くはないけど……」
ペットボトルを渡す。
うにゅほが、オレンジ色の液体を舐めるように飲んだ。
「ふひ」
「どうだ?」
「メロン……」
まるで、メロンの中身をすり潰して裏漉しして炭酸ガスを溶かし込んだかのようだった。
「……不味くはないけど、あんまりにもメロンメロンし過ぎだな」
「うん……」
「あと、いつものメロンソーダって、ひとっつもメロンの味してないんだな」
「でもわたし、あっちのがすき」
「俺も……」
忠実であることが、必ずしも良い結果に繋がるとは限らない。
なにかを悟った気がした月曜日の午後だった。



2014年10月21日(火)

「はー……」
仕事を終え、パジャマに着替えた。
「おつかれさま」
「おうよ」
寝床で漫画を読んでいたうにゅほの隣に、どっかと腰を下ろす。
びり!
股間から嫌な音が響いた。
「?」
「──…………」
「なんかおとした」
「したな……」
恐る恐る立ち上がると、うにゅほが俺の尻のあたりを覗き込んだ。
「◯◯、やぶれてる!」
「……うん」
そうだろうと思った。
「パンツみえてる」
「あんまり見ないでください……」
作務衣に着替えなおし、パジャマの破れ目を検める。
「……薄くなった生地が、縫い目の横から破れたみたいだな」
「なおせる?」
「裏から当て布をすればどうにでもなるけど、わざわざ直さんよ」
「えー……」
うにゅほが不満げに声を漏らす。
「物を大切にする精神は尊ぶべきだと思うけど、似たようなパジャマが何着もあるからね」
「すてるの?」
「捨てます」
「じゃ、わたし──」
「あげません」
「えー……」
男性用Lサイズがくたくたになったようなパジャマなのだ。
結果は目に見えている。
「もったいない」
「もったいないがゴミ屋敷を作る」
「うー」
以前も同じことを言った気がする。※1
「それに、古いものばかりを大切にして、既にある新しいものを蔑ろにするのは違うと思うぞ」
「──…………」
ぽんぽんと頭を撫でる。
大切なものは選別しなければならない。
そうでなければ、なにもかもこぼれ落ちてしまうから。
パジャマの尻が破れた話から始まって、随分と綺麗にまとめたものである。

※1 2013年5月1日(水)参照



2014年10月22日(水)

家族で焼肉を食べに行った。
「はー……」
年季の入った店舗を見上げ、うにゅほが感嘆の息を漏らす。
「××、ここ初めてだったっけ」
「はじめて」
「ボロいだろー」
「うん!」
失礼ながらも楽しげに頷く。
建物は古びているが、それがいかにも昭和めいていて物珍しいのだろう。
「おい、行くぞー」
がらりと音を立て、父親が引き戸を開ける。
店内は、薄く煙っていた。
「けむりすごい」
換気が弱いのである。
「──…………」
「いこ」
「ちょい待ち」
うにゅほの肩を掴む。
「?」
「このまま行くと、たぶん、髪がえらいことになるぞ」
「あー」
どう見ても、普通の焼肉屋より煙がひどい。
アウターとして羽織ってきたパーカーを脱ぎ、うにゅほの肩に掛ける。
「髪を仕舞って、フードかぶるといいよ」
「◯◯、さむくない?」
「店のなかは暑いだろう」
「あ、そか」
パーカーのファスナーを上げながら、うにゅほが笑顔で言う。
「ありがと」
「どういたしまして」
フードの上からぽんぽんと頭を撫でた。
「あ、壁とか手すりとか脂でべたべただから、なるべく触らないほうがいいぞ」
「すごいねえ……」
それでいて客足が絶えないのは、味がいいからだ。
満腹で帰宅したあと、うにゅほの髪に鼻先をうずめたところ、ちゃんとシャンプーの香りが残っていた。
これはいい。
今後、焼肉を食べるときは、俺のパーカーを着せることにしよう。



2014年10月23日(木)

「ん、あれ……」
枕元に積み重ねられた漫画を整理する。
見当たらない。
「どしたの?」
「いや、耳栓がないんだよ」
「ねるときのやつ?」
「そう」
俺はソファを寝台にしているのだが、うにゅほが起きたあとはそちらへ移動する。
だから、うにゅほの寝床の枕元に耳栓がないとおかしいのだ。
「普段はこのあたりに置くんだけど」
「ないねえ……」
目蓋を下ろし、記憶を探る。
両耳から耳栓を抜いた覚えはあるが、それだけだ。
「さむえのポケットは?」
「あー、なるほど」
洗濯物カゴに畳んで入れてあった作務衣を調べる。
「あった?」
「……いや、ない」
「どこだろうねえ……」
二手に分かれ、耳栓を捜索する。
デスクには、ない。
トイレには、当然ない。
冷蔵庫には、もちろんない。
「××、あった?」
「ないー……」
うにゅほが肩を落とす。
「このままだと、◯◯、ねれない」
「ああ、いや、新しい耳栓はあるんだよ」
「あるの?」
「ほら」
本棚の奥から未開封のサイレンシアを取り出した。
「……◯◯、ねれないかとおもった」
「悪い、言葉が足りなかったな」
「よかったー」
うにゅほが胸を撫で下ろし、ほにゃっとした笑みを浮かべる。
いい娘だ。
「でも、耳栓の行方は気になるな。
 起きてから耳栓を外すまで、そう動くとも思えないんだけど……」
「うーん」
頭をひねったところで見つかるものでもない。

それから、数時間ほど経ったころだった。
「あ!」
寝床の上でうつ伏せになって足をぱたぱたさせながら漫画を読んでいたうにゅほが、不意に声を上げた。
「みみせんあった!」
「え、どこに?」
「まくらもと」
「最初に探したはずだけど……」
うにゅほの手のひらの上に載せられた耳栓を、じっと観察する。
ふたつとも、いびつな形をしていた。
「なんで潰れて──、あっ!」
理解した。
「俺が枕元を探したときは、本に潰されて表紙にくっついてたんだ……」
道理で見つからないはずである。
「よかったね」
「ああ、ありがとな」
せっかくうにゅほが見つけてくれたのだ。
換えどきかと思っていたが、もう数日は使うことにしよう。



2014年10月24日(金)

前髪を掻き上げたまま、手を止める。
「……髪、伸びたなあ」
「そかな」
うにゅほが小首をかしげた。
「ながくないよ?」
「長いとは言ってないよ」
最後に床屋へ行ったのはいつのことだったろうか。
たぶん、二ヶ月は経っているように思う。
「とこやのおじさんとこ、いくの?」
「あー、どうしようかな……」
剃ったばかりの顎を撫でる。
「短いほうが好きだけど、これはこれでメリットがないではない」
「ないではない」
「寝癖が直せるってのは大きいよなあ」
「ないではない」
「気に入ったのか」
「うん」
俺の髪は、太く、硬い。
床屋の伯父をして「針金のようだ」と言わしめるのだから、まさに筋金入りである。
散髪直後の寝癖は、手櫛に耐え、ドライヤーに耐え、最終手段であるはずのシャワーすら物ともしない。
蒸しタオルに至っては、皮膚のほうが先に音を上げる始末だ。
「××はどう思う?」
「?」
「今の髪型」
「うん、ないではない」
「──…………」
うにゅほの両頬をつまんで、うにうにとこね上げる。
「どーうーおーもーうー!」
「うぶぶ」
ぱ、と離す。
「どう思う?」
「……ないではない?」
うにゅほの両頬を手のひらで挟み、うりうりとこねまわす。
「おりゃー!」
「あうあうえう」
そんなことをして遊んでいるうちに、髪のことはどうでもよくなってしまった。
そのうち、そのうち。



2014年10月25日(土)

「××、いま何時?」
「んー……」
くしけずる手を止め、うにゅほが視線を落とす。
「にじ、じゅう……いっぷん!」
「そうか、ありがとう」
「うへー……」
うにゅほが照れたように笑みを浮かべた。
誕生日に腕時計を贈って以来、たまに時間を尋ねることにしている。※1
理由は、喜ぶからである。
「──お、ちょうどいま、俺からの誕生日プレゼントぜんぶ揃ってるじゃん」
「ほんとだ」
いつも胸元を飾っている琥珀のペンダントは、一昨年のプレゼント。※2
右手に持った本つげ櫛は、去年のプレゼントである。※3
「むてきだ」
「無敵か」
「うん、むてき」
言葉の意味はよくわからないが、たぶんよつばと!の台詞かなにかだろう。
最近読み返しているみたいだし。
「来年のプレゼント、なににしようかなー」
「あ、だめだよ」
「大丈夫、当日まで教えないよ」
「ちがくて」
「……?」
うにゅほの言葉に首をかしげる。
「つぎ、わたしのばん」
「プレゼントするのが、ってことか?」
「そう」
「──…………」
可愛いことを言ってくれる。
「それじゃ、次の誕生日も期待させていただこうかな」
「う」
うにゅほが目を伏せる。
「そこまでは……」
「そこは自信満々に頷いてくれよ」
「だって、まだきまってない」
「あと──ええと、二ヶ月半か。楽しみにしてます」
「はい」
あまりプレッシャーを掛けないよう、適当に会話を打ち切った。
結局のところ、うにゅほが俺のために真剣に選んでくれたものなら、なんだって嬉しいのだ。
「──…………」
それが俺の感性に沿うものであれば、もっと嬉しいけど。

※1 2014年10月15日(水)参照
※2 2012年10月15日(月)参照
※3 2013年10月15日(火)参照



2014年10月26日(日)

「──……あふ」
手で隠しもせず大あくびをする。
体調が芳しくないからと、終日部屋に篭もりきりではいけない。
なにかが音を立てて磨り減っていくようだった。
「出掛けるかー……」
「うん!」
嬉しそうに頷いたあと、うにゅほが瞳を翳らせた。
「……あ、でも、だいじょぶ?」
「あんまり大丈夫じゃないけど、このままだともっと大丈夫じゃなくなる気がする」
「ふうん……」
「寝てどうなるもんでもないしな」
下手に睡眠をとると、今度は夜に眠れなくなってしまう。
それだけは避けたかった。
「××、どこか行きたい場所ある?」
「うと……」
うにゅほが小首をかしげる。
「……うー……」
かしいだ首の角度が深くなっていく。
「──……んと、うと」
はっ、と首の位置が戻り、今度は反対側に傾いていった。
面白い。
「……まあ、無難にヨドバシでも行こうか」
「あ、いいねー」
うにゅほは物事を決めるのが苦手である。
不安がないわけではないが、今すぐにどうにかできる問題でもない。

「──失敗だったかな」
人混みを避けるように歩く。
日曜のヨドバシカメラは、たいそう盛況のようだった。
「はー……」
「ふー……」
揃って溜め息をつく。
「ヤマダ電機なら空いてたな……」
「そだね」
「お、マッサージチェアがあるぞ」
「ほんとだ」
すこし休んでいくことにした。

「──はっ」
と我に返ると、五分ほど意識が飛んでいたようだった。
最近のマッサージチェア、やばい。
隣席のうにゅほを覗き込むと、
「…………すぅ……」
「──…………」
マジ寝だった。
疲れていたのかもしれない。
いちばん安いマッサージチェアをおばさん店員におすすめされながら、うにゅほが起きるまで待っていた。



2014年10月27日(月)

小腹が空いたので冷蔵庫を開いたが、おやつじみたものを見つけることはできなかった。
「しゃーない……」
四個入り98円のベビーチーズを開封し、銀紙を剥がす。
おやつというより、おつまみである。
「あ、チーズたべてる」
録画してあったモヤさまを弟と一緒に見ていたうにゅほが、目ざとく俺を指さした。
「××も食べるか?」
「たべる」
「兄ちゃん、俺にも」
「はいはい」
ふたりにベビーチーズを手渡し、自室へと戻った。
「──…………」
胃のあたりを撫でる。
やはり、チーズひとつでは満たされない。
ふわふわ大福のついでに購入してあった特濃ミルクキャンディで急場を凌ぐことにしよう。

口のなかでコロコロと飴玉を転がしていると、モヤさまを見終わったうにゅほが部屋に帰ってきた。
「♪~」
右手に、剥き身のチーズを持ったまま。
「……××、それふたつめ?」
「?」
うにゅほが首を振る。
「じゃあ、今までずっと食べてたの?」
「うん」
壁掛け時計を見上げる。
あれから三十分は経っているはずなのだけど。
「えーと、ちょっと食べてみて」
「はい」
ソファに腰を下ろし、体積を半分ほどに減らしたベビーチーズを口元へ運ぶ。
そして、その角をちょっぴりだけ前歯で削り取った。
「──…………」
なるほど、時間がかかるはずである。
「なんでそんな、ちょっとずつしか食べないんだ?」
「チーズ、しょっぱい」
「ああ……」
わからないではない。
だから酒のつまみになるんだもの。
「べつにいいけど、指がチーズくさくならないか?」
「──…………」
すんすん。
うにゅほが自分の指先を嗅ぐ。
「あー……」
くさかったらしい。
「食べ終わったら手ー洗ってきな」
「うん」
うにゅほが残り半分を食べ終えるまで、二分とかからなかった。



2014年10月28日(火)

会計を済ませ、うにゅほのもとへと戻る。
「おわった?」
「ああ、終わった。
 ……病院、三ヶ所も付き合わせて悪かったな」
「ううん」
うにゅほが首を横に振る。
そう言ってくれるのは、わかっていた。
「××、いま何時?」
「うーと、よじ、さんじゅうにふん」
「一軒につき、だいたい一時間ってとこか……」
このまま帰るのは申し訳ない。
しかし、遊びに行くにはいささか遅い時刻だ。
「──…………」
うにゅほの靴を出してやりながら、なにかないかと思案する。
「あめふってる」
「今日、ずっと天気悪いもんなあ」
「うん」
行きつけのクレープ屋は自宅を挟んで正反対だし、コンビニで手軽に済ますのも芸がない。
そんなことを考えながら、自動ドアをくぐったときのことだった。
「わ!」
「いてっ!」
空からの不意打ちに、思わず玄関へ取って返す。
「ゆきだ……」
「……雪というか、霰だな」
湿った氷の粒が、雨と同じ速度で降り注いでいる。
「はつゆき?」
「初雪は初雪だけど、もっとこう、ひらひらと降ってきてほしいもんだよなあ……」
「そだねえ……」
霰はすぐに雨へと戻り、俺たちはそのあいだにミラジーノへと乗り込んだ。
秋の背中が見えた気がした。



2014年10月29日(水)

パソコンチェアを時計回りに90度回転させ、両足をぴたりと下ろす。
上体を前方に傾け、両手で掴んだ肘掛けに体重を預けながら、おもむろに立ち上がる。
そして、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「──よし!」
「◯◯、きょう、かくかくしてる」
「腰が痛くてさ……」
急な体勢の変化に耐えられないのである。
「せいこついん、いく?」
「まあ、うん、それが手っ取り早いんだけどな」
「いかないの?」
「──…………」
めんどくさいとは言いづらい。
「……ほら、昨日三ヶ所も病院行ったからさ」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
やはり、病院の待ち時間は退屈だったようだ。
「あしたいく?」
「明日の様子次第かな」
「じゃあ、たいそうする?」
「……それに関して、すこし思うところがある」
「?」
「いままで、腰が痛くなってから慌ててストレッチしてたけど、よくなった試しがないんだよな」
「そうなんだ」
むしろ、悪化した覚えしかない。
「腰痛が起きたときは、まず姿勢をよくして、安静にしてるのが賢い気がする」
「なるほど」
「だから、今回はそうしてみようかなと」
「そか」
面倒なのは確かだが、こちらも嘘ではない。
試してみる価値はあるだろう。
「じゃあ、まっさーじもしない?」
「あー……」
しばし思案し、
「マッサージは、お願いしていいか?」
「うん」
うにゅほのふんわりマッサージであれば、よくも悪くも影響はないだろう。
しかし、リラックス効果は抜群である。
ちいさな手のひらで腰を揉んでもらいながら、うとうととまどろんだ。
これはこれで贅沢な一時だと思った。



2014年10月30日(木)

「♪~」
起毛素材のネグリジェに袖を通したうにゅほが、機嫌よく髪を乾かしていた。
「その寝間着──」
「?」
ドライヤーを切り、こちらへ振り返る。
「なにー?」
「いや、このネグリジェ、もう出したんだなって」※1
うにゅほの肩を撫でる。
ふかふかと滑らかな手触りで、いかにも暖かそうだ。
「うん、もうさむいから」
「今年の冬は、気が早いよなあ」
「ねー」
うにゅほの髪の毛に触れる。
「かわいてる?」
「ああ、乾いてると思う」
すくなくとも、指通りは滑らかだ。
ブローを終えたうにゅほが、長い髪の毛をシュシュでふたつにくくり、前に垂らした。
寝癖がつかないよう、掛け布団の上に出しておくのだそうだ。
「前から思ってたんだけど──」
記憶を掘り起こす。
「髪の毛が外に出てるのって、最初だけだよな」
「……そなの?」
「起きたとき、どうなってる?」
「おきたときは──……」
しばし黙考し、首を横に振る。
「わかんない」
意識していなければ、そんなものかもしれない。
「起きたとき、シュシュ外れてない?」
「はずれてる」
「髪の毛よれてない?」
「……よれてる」
「寝返りは、まあ、どうしようもないからなあ」
「うーん……」
腕を組み、真剣に考え込んでしまった。
女の子には、俺の想像もつかない、いろいろな悩みがあるのだろう。
「──…………」
まあ、今回は俺が増やしたようなものだけど。

※1 2013年11月2日(土)参照



2014年10月31日(金)

ソファに斜めに腰掛けながら、うとうととナニコレ珍百景スペシャルを眺めていたときのことだった。
「──あっ」
俺に寄り掛かっていたうにゅほが、ちいさく声を上げた。
そして、画面を遮らない絶妙な位置に仁王立ちし、
「とり、あ、とりーと!」
「──……鳥?」
今日がハロウィンであることに思い至るまで、数秒を要した。
「仮装はしないのか?」
「……かそう?」
朝のニュースを流し見た程度の知識しかなさそうである。
俺も人のことは言えないけれど。
「まず、掛け声が違う」
「とり?」
「トリック・オア・トリート」
「とりっく、おあ、とりーと」
「お菓子くれなきゃイタズラするぞ、って意味らしい」
「へえー」
うんうんと頷く。
やはり、わかっていなかった。
「まあ、言われたからには仕方ないな」
自室へ戻り、輪ゴムで留めた食べかけの袋を手に取った。
「麦チョコだけど、いいか?」
「わあ!」
うにゅほが両手をおわんにする。
「──…………」
「──……?」
唐突な沈黙に、うにゅほの頭上からハテナが顔を出す。
いいことを思いついた。
輪ゴムを外し、あー、と大口を開く。

──ざららららららっ!

「!」
麦チョコが、ひとつぶ残らず俺の口のなかへと消えていった。
ボリボリと咀嚼し、嚥下する。
「美味い」
「むぎちょこ……」
「××、よし来い!」
「……?」
「お菓子くれなきゃ、イタズラするんだろう?」
「あー……」
ぽす。
その場で膝をついたうにゅほが、ソファの座面にくたりと突っ伏した。
思った以上に麦チョコが楽しみだったらしい。
「──…………」
トリック・オア・トリートで遊ぼうかと思ったのだが、それどころではないようだ。
「××、麦チョコもう一袋あるぞ」
「ほんと?」
「ああ、なんかどうでもよくなったから、ふたりで食べよう」
「うん!」
我が家はハロウィンとは縁遠そうである。

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