>> 2014年9月




2014年9月1日(月)

「──……は、ふぁ……」
「あ、おはよー」
大あくびしながら自室を出ると、うにゅほがつげの櫛で髪を梳かしていた。
掛け時計に視線を向ける。
午前九時。
今日は、映画「STAND BY ME ドラえもん」を観に行く予定だった。
正午過ぎに出ても開演時間に間に合うから、まだしばらく余裕がある。
「──……ふう」
寝起きであることを差し引いても、異常なほど眠かった。
いま思えば、なにか病的な眠気だったかもしれない。
「ごめん、もうすこし寝る……」
「はーい」
携帯のアラームを午前十一時にセットし、うにゅほの寝床へと潜り込んだ。

けたたましいアラーム音に飛び起きた。
誤報だと思った。
設定する時間を間違えたのだ、と。
しかし、時計は非情だった。
まばたきひとつで、二時間が経過していたのである。
かちゃ。
リビングへ通じる扉が薄く開き、お出かけ準備万全のうにゅほが顔を覗かせた。
「おきた?」
「起きた、けど──」
頭が痛い。
爪先が痺れている。
意識が不明瞭で、くらくらと視界が歪む。
顔を洗えば目が覚める──そう思ったが、思い通りにはならなかった。
「……悪い、このままだと運転できそうにない」
「だいじょぶ……?」
「わからないけど、疲れてるのかもしれない。
 もうすこし寝れば──」
「えいがおわっちゃうね」
「大丈夫」
3D版でなければ、14:50からの上映がある。
事前に確認しておいて正解だった。
あと二時間も睡眠をとれば、さすがに大丈夫だろう。
問題ない、はずだ。
「うん、わかった」
「ごめんな……」
ふるふると首を振り、うにゅほが俺の胸に手を触れた。
「おやすみ、ね」
携帯のアラームを午後一時半にセットし、目蓋を下ろした。

次に起きたのは、午後五時だった。
そろそろと上体を起こす。
「おきた」
うにゅほはもう、お気に入りのポシェットを片付けていた。
「ごめん……」
「しかたない、しかたない」
うにゅほが俺の頭を撫でる。
そして、
「だいじょぶ?」
と、心配そうに言った。
「ごめんな……」
「うん」
許してくれるとわかっていて謝るのは、なんだか卑怯な気がした。
代わりになにができるわけでもないけれど。
たぶん、風邪かなにかだったのだ。
映画は明日にしよう。
きっと、明日は、大丈夫だと思うから。



2014年9月2日(火)

「──よし、行くか!」
「おー!」
不自然な眠気もなく、無事に出発することができた。
昨日はケチがついてしまったが、今日挽回すればそれで構わないはずだ。
シネコンの売店でポップコーンを購入し、上映時間を待つ。
「すりーでぃーめがね、もってきてよかったね」
「毎回買ってらんないもんな」
クリップオン型の3Dメガネを自前の眼鏡に取り付け、掛ける。
「似合う?」
「へん!」
昼日中の上映で観客がほとんどいないため、伸び伸びと会話ができる。
「あ、暗くなってきたな」
「しー……」
うにゅほが、人差し指を唇に当ててみせた。

映画「STAND BY ME ドラえもん」の上映が始まった。

結論から言おう。
泣いた。
ポケットティッシュをふたりで使い切るほど泣いた。
懸念していたキャラクターデザインはすぐに慣れたし、
各エピソードは映画の尺に合わせてブラッシュアップされていたし、
散見された設定上の強引さを除けば、十分に良作と言えるだろう。
しかし──
「最後の、ウソ800でドラえもんが帰ってくるくだりは要らなかったな……」
「えー!」
帰途の車中で、うにゅほと意見が分かれた。
「ドラえもん、かえってきたほういいよ」
「たしかに、Stand by Me(私の傍にいて)ってタイトルに沿うエンディングだとは思うけどさあ」
「でしょ」
「……途中、大人になったのび太が出てきたろ」
「うん」
「あのとき、ドラえもんはいなかった。
 それどころか、ドラえもんは子供のころの友達だ──なんて言って、顔も合わせなかったよな」
「うん……」
「もし、ウソ800の効果が永続的なものだとしたら、
 ドラえもんと再会したのび太は、しずかちゃんと結婚する[大人ののび太]へは繋がらないんじゃないか?」
これは、映画以前にも感じていたことだけど。
「……うーん?」
「永続的でなかったとしても、
 いつか、どこかのタイミングで、のび太とドラえもんは別れることになる。
 それはきっと、成長する少年と、成長しないロボットの、ちいさなずれから始まって──」
別れは、ゆるやかに訪れる。
当然のように。
陽炎の見せた幻のように。
目的地が違うと互いに気づきながら、背中合わせに歩いていく。
別れるために、歩いていく。
たぶん、俺は、そんなふたりを見たくないのだと思う。
「……でも、いっしょがいいよ」
うにゅほが呟くように言った。
「そうなんだけどさあ」
小腹が空いたので、COCO'Sに寄ってから帰った。
ドラえもん繋がりである。



2014年9月3日(水)

「ぶー……──」
頭が重い。
猫でも乗せているかのようだ。
「やっぱし、かぜ?」
「だろうなあ」
そうでなければ、一昨日の異常な眠気に説明がつかない。
「××、マスクするから取って……」
「はい」
うにゅほに風邪を伝染すわけにはいかない。
多少の寝苦しさは我慢である。
「……じゃあ、俺、寝る」
「びょういんは?」
「起きてから考える。今は、熱があって、眠いだけだから……」
「ごはんときおこす?」
「起きたとき、腹が減ってたら、適当に食べる」
「そか……」
うにゅほが、俺の首筋に手を当てて、
「あつい」
と呟いた。
「おやすみなさい……」
「ああ、おやすみ」
目蓋を閉じると、視野いっぱいに、おかしな模様が浮かび上がってきた。
そして、いつしか眠りに落ちていた。

「──全、快!」
「ほんと?」
午後四時。
目を覚ますと、ひどく気分がよかった。
「いや、たぶん全快ではないんだろうけど、とりあえず元気元気」
「よかったー……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろす。
一時的なものかもしれないが、とにかく体調が好転してよかった。
仕事を溜めるわけにはいかないのだ。
「牛乳寒天切れてたから、ちょっと買いに行こうか」
「あ、だめだよ」
「ちょっとコンビニ行くくらい大丈夫だって」
「ちがくて」
「……?」
うにゅほに手を引かれ、階段を下りる。
玄関へ赴くと、
「──……あれ?」
「ね」
「うちの三和土って、コンクリート製だったよな」
「うん」
「タイル貼りになってるんだけど……」
「◯◯ねてるとき、しょくにんのひとがやってった」
「はー……」
「かわいてないから、ベランダからだって」
また、俺だけ情報が遅れるという謎現象が起こったらしい。
べつにいいけど。
一階のベランダから外に出て、セブンイレブンで牛乳寒天と白玉ぜんざいを購入した。
白玉ぜんざいは、ホイップクリームと栗があしらわれており、たいへん美味だった。
ちょっと高かったが、その価値はある。
あ、いま気づいたけど、うにゅほと同じスプーンで食べてたっけ……。
うにゅほに風邪が伝染りませんように。



2014年9月4日(木)

「かぜ、だいじょぶ?」
「ねむい……」
具合はどうかと問われれば、悪いとしか答えようがないのだが、風邪の諸症状は特に出ていない。
つらいかと問われれば、つらくはない。
ただ、眠気だけがある。
「……××、寒くないの?」
うにゅほは、今日も元気にホットパンツ姿である。
「さむくないよ」
「夜は?」
「よるはパジャマきる」
そりゃそうだ。
「八月も終わったし、そろそろ体を冷やす格好はやめたほうがいいと思う……」
ホットパンツ好きの俺としては、いたく残念だけれども。
「そかー……」
うにゅほが、自分のふとももを暖めるように幾度か撫でた。
「──…………」
ひとつ、やり残したことを思い出した。
「××、ちょいと適当に座ってくれるか」
「どこ?」
「んじゃ、ソファの端のほうで……」
ちょこなんと腰を下ろしたうにゅほのふとももに、そっと頭を乗せた。
生膝枕である。
「あー……」
「きもちい?」
「風邪治りそう」
「そんなに」
「……冷たくて気持ちいいけど、やっぱ足冷えてるな」
「そっか」
「今は、俺の熱で暖まるがいい……」
「うん、あったかい」
五分くらいで満足し、再び寝床へと戻った。
生膝枕は、また来年である。



2014年9月5日(金)

「──…………」
首を回す。
肩の具合を確かめる。
両手を組み、真上に伸ばす。
いつもギリギリで天井に届かない。
「──……っ、はあ」
風邪が治った。
関節の動きも悪くない。
風呂上がりにストレッチでもすれば、ほぼ復調するだろう。
「治った──けど、今日は大人しくしてよう」
「うん」
うにゅほが、うへー、と笑う。
快復して喜んでくれる人がいることは、とても幸福だと思う。
「よし、家のなかでなら、××の言うことをなんでも聞いてあげよう」
「なんでも?」
「なんでも」
「なんでもかー……」
うにゅほの首が傾いでいく。
なんでも、と言われると、困ってしまうのがうにゅほである。
基本的に無欲なのだろう。
「昨日のお返しに、膝枕でもしようか」
「あ、ひざまくら!」
それだ、という顔をする。
それでいいなら、いいけれど。
「♪~」
ラグの上に座り、足を伸ばした。
「しつれいします」
左の太腿に、ささやかな重み。
「どうですかー」
「いいですー」
「俺、足太いけど、高くないですかー」
「ふといけど、いいですー」
「そうですかー」
右足を立て、テレビをつけた。
「なんか、見たいのある?」
「まんがよむ」
「俺は珍百景見よっかな」
「うん」
こうして、ふわふわとした午後は、なんとなく過ぎていったのでした。



2014年9月6日(土)

「××、返却期限今日だからTSUTAYA行こう」
「うん」
靴下を履き、薄手のジャケットを羽織る。
姿見の前でファスナーの位置を調整しているあいだに、うにゅほは身支度を終えていた。
待たせて申し訳ないが、俺が遅いのではなく、うにゅほが早いのである。
いつも手抜かりなく身なりを整えているから、ポシェットを提げるだけで済む。
あやかりたいものだ。
「でぃーぶいでぃー、いれわすれてない?」
「確認してくれるか」
うにゅほにレンタルバッグを渡し、ミラジーノに乗り込んだ。
「さんぼん?」
「三本」
「ありました」
「そうか」
「◯◯、このえいが、みた?」
「──…………」
うにゅほの取り出したケースを見て、言葉に詰まった。
「えー、あー……、うん」
「?」
「見てない……」
そのDVDは、「2001年宇宙の旅」だった。
「なんかいめだっけ」
「三回目……」
見ても見なくても百円だから痛くも痒くもないのだが、こう続くと自分が嫌になってくる。
「たぶん、義務感で借りてるから、見ないうちに期限が来るんだろうな……」
「ぎむかん?」
「こう、SFとして押さえておきたい作品ではあるんだよ」
「うん」
「でも、睡眠導入剤って揶揄されるくらい面白くないらしい」
「おもしくないなら」
「とは言え、一度くらいは見ておきたいと思いつつ──」
今回も見ないまま返却するのであった。
「次は見る、次は」
「きょうは?」
「今日は、SPECの続きを借りようと思って」
「おー」
うちに来たころは、古畑任三郎の殺人シーンですら嫌がっていたのだが、さすがに成長したものである。
本格的なサイコホラーなんかは絶対に見せられないし、見せないけど。
ハンニバルとか。



2014年9月7日(日)

「──……暑い」
「ねー……」
夏は終わったと思って油断したらこれである。
肘の内側が痒くてたまらない。
「あせもできちゃった……」
「あー」
「甚平じゃなくて作務衣着て寝ただけで、これだもんなあ」
「めんたむもってくる」
「ありがとな」
しばしして、
「しんぴんしかなかった……」
「新品があったんだから、いいだろ」
「いいのかな」
「使うために買ってあるんだから」
そう告げて、メンソレータムの箱を開けた。
うにゅほは、新品の消耗品を開封することに消極的である。
なんとなくわかるけど。
肘の内側にメンソレータムを塗りつけながら、呟いた。
「……軟膏、あんまり好きじゃないんだよなあ」
「ぬる?」
「いや、もうほとんど塗り終わったから」
「そか」
「軟膏って、塗ったあとも指に残るだろう」
「うん」
「それが、ちょっとな」
「わかる」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「てーあらっても、ぬるぬるする」
「メンタムは特に残るよな」
ワセリンが含まれているからだろう。
「でも、ウナコーワみたいな液体のやつは、対症療法でしかないイメージがあるし……」
「たいしょりょうほう?」
「痒みは止めてくれるけど、治してはくれない──みたいな」
「あー」
事実はどうか知らないが。
「──あ、めんたむかして」
「どっか痒いのか?」
「くびのうしろ」
「髪長いから、蒸れたのかもしれないな」
「ううん、◯◯の、くびのうしろ」
「……?」
「◯◯、さっきからかいてるから」
「──……あ」
無意識だった。
肘の内側に気を取られていたが、言われてみれば確かに痒い。
うにゅほに軟膏を塗ってもらったあと、ふたり仲良く洗面所へ行った。



2014年9月8日(月)

「──ね、◯◯」
「んー?」
「ぶりっじできる?」
「ブリッジ?」
小説から顔を上げ、うにゅほと視線を交わす。
「ブリッジって、背中反るやつ?」
「うん」
「やってできないことはない、と思うけど……」
正直、自信はない。
「試せばいいのか?」
「うん」
テレビの影響か、漫画の影響か、いずれにせよなにかで見たのだろう。
まあいい。
タイルカーペットの上で横になり、
「──よッ、と」
逆手にした手のひらを支点に、全身を思いきり持ち上げた。
「おー」
「あ、もう駄目」
どさ。
持続時間、たったの数秒である。
「あー……」
うにゅほが残念そうな声を上げた。
「これが限界です」
「たったままは?」
「立ったまま?」
「たったまま、うしろに──」
「できるか!」
見たのはヨガか新体操か。
「あーゆーのは、テレビの世界の話です。××も真似しちゃ駄目だからな」
「うーと……」
「返事は?」
「はい」
腕を組み、うにゅほの顔をじっと観察する。
「?」
小首をかしげた。
この顔は──
「……自分はできるって思ってるだろ」
「うん」
やはりそうか。
何事にも控えめなうにゅほだが、ごくたまに、根拠のない自信に満ち溢れていることがある。
「……じゃあ、まずは普通のブリッジからな」
「はい!」
うにゅほが、ぺたんこ座りをしたまま仰向けに寝転がった。
「おお……」
この時点では、すごい。
どうして前屈ができないのか理解できないほど柔らかい。
「──……!」
そして、逆手にした手のひらでカーペットを押し上げ、全身を──
「んっ!」
「──…………」
「んー! んーッ!」
全身は、まったく浮き上がらなかった。
「諦めなさい」
「……おかしいなー」
脳内では完璧にシミュレートできていたらしい。
現実とはままならないものである。



2014年9月9日(火)

現在、午後九時三十七分。
「あー……」
書くことがない。
今日は、本当になにも起こらなかった。
ルーティンをこなしただけの、何気ない一日。
だからと言って、のび太の日記のように「特になし」で済ませるのも味気ない。
解決策は単純である。
いまからなにかをすればいいのだ。
差し当たり、うにゅほにちょっかいを出してみよう。
「──…………」
ちょんちょん。
チェアを移動させ、爪先でうにゅほの膝を突っついてみた。
「?」
「──…………」
何気ない顔をして、ディスプレイに向き直る。
「なにー?」
「なにが?」
「──……?」
うにゅほが再びイカ娘14巻に視線を落とす。
しばしして、
「──…………」
ちょんちょん。
「?」
さっと足を戻す。
「──…………」
「──…………」
怒ったかな。
怒ってはいないか。

現在、午後九時五十一分。
うにゅほによる爪先つんつんの襲撃を受けた。
「──…………」
「──…………」
互いに隙を窺っていr

現在、午後十時二分。
最終的に、爪先つっつきバトルの様相を呈し、たったいま落ち着いたところである。
なんとなく右足の裏を合わせたまま、無理な体勢で日記を書いている。
随分とちいさな足だ。
そう告げると、
「◯◯のあしのが、おおきい」
と言われてしまった。
どっちもどっちじゃないかなあ。
以上で本日の日記を終える。



2014年9月10日(水)

昼食にハンバーガーでもどうかと思い、フレッシュネスバーガーへと立ち寄った。
「はんばーがー、ひさしぶりだねえ」
「そうだな」
嫌いというわけでは決してないが、食べる機会はあまりない。
「ここのは小さいから、ふたつくらい注文してちょうどいいと思うぞ」
「うと……」
店先の看板の前でしばし迷ったのち、
俺は、テリヤキバーガーとチーズドッグ、
うにゅほは、テリヤキチキンバーガーをひとつだけ注文した。
「……ひとつでよかったのか?」
「うん」
笑顔で頷く。
注文した品が届けられたとき、その表情がわずかに強張った。
「ちいさい……」
想像していたより、幾分か小さかったらしい。
「でも、ほら、味はいいぞ」
「──…………」
かぷ。
「おいしい」
「な?」
あっという間にたいらげて、フレッシュネスを後にした。
帰途の車中にて、
「──……うー」
うにゅほが、おなかを撫でながら唸っていた。
腹痛ではない。
「……物足りないよな」
「うん」
中途半端に食べてしまったことで、余計に腹が減ってしまった。
せめて、モスくらいの分量があってくれればよかったのだが。
セイコーマートでデザートを購入し、おなかを満たしてから再び帰路についた。
「フレッシュネスは、軽食向きだな」
「けいしょく?」
「おやつみたいなもん」
「うん、おやつ」
今度はマクドナルドでポテトにまみれよう。
ジャンクフードも、たまには、うん。



2014年9月11日(木)

深夜午前三時ごろ、作業を切り上げて就寝の支度をしていたときのことだった。
「……んあ?」
並んで充電してあった両親のiPhoneが、一斉にけたたましく鳴り響いた。
緊急速報だ。
なにが起こったのかと画面を確認していると、
「──……◯◯……」
目元をぐしぐしこすりながら、自室からうにゅほが顔を出した。
「起きちゃったか……」
当然である。
俺のiPhoneは、うにゅほの枕元にあるコンセントで充電しているのだから。
「◯◯……」
ぽす。
おぼつかない足取りで、うにゅほが俺に抱きついた。
「こわい」
「ああ」
役割上仕方がないとは言え、不安を煽るようなアラーム音で叩き起こされたんだものな。
「なに、ぅー……」
なにが起こったのかと尋ねようとして、途中で怖くなったのだろう。
「iPhoneの緊急速報。でも、うちには関係ないみたいだよ」
「ほんとう?」
「大雨で、土砂崩れの危険があるって」
「どしゃくずれ」
「崩れるような土砂が、うちの近くにあるか?」
「……ない」
「だから安心して──、って!」
再び、脳を揺さぶるようなアラーム音。
「──……うー……」
うにゅほが俺の胸に顔を埋めた。
「……××、ちょっと待っててくれ」
両親のものを含むすべてのiPhoneの緊急速報機能を切り、うにゅほの手を引いた。
「もう大丈夫だから、寝ような」
「だいじょぶ?」
「大丈夫」
「うぁー」
ほっぺを両手で挟み、むにむにとこねる。
「眠るまで一緒にいてやるから」
「て……」
「はいはい」
子供をあやすように、うにゅほを寝かしつけた。
今朝起きたとき、昨夜のことは、なんとなくしか覚えていないようだった。
寝ぼけていてよかったのかもしれない。
iPhoneの緊急速報機能は、いちおう元に戻しておいた。



2014年9月12日(金)

降雨はないが、遠雷があった。
「××、TSUTAYA行くけど──」
「いく」
うにゅほが即座に立ち上がり、いささか子供っぽいデザインのポシェットを肩から提げた。
そろそろ、相応のものをプレゼントすべきだろうか。
「──…………」
「?」
でも、似合ってるんだよなあ。
煩悶しながらミラジーノに乗り込んだとき、遠い閃光がちらついた。
「××、雷大丈夫か?」
「うん」
まあ、距離があるしな。
「くるまんなか、だいじょぶだもんね」
「そうだな」
「ふぁらでーのはこだもんね」
「ああ──……、あ?」
思わず語尾が上がってしまった。
ファラデーの箱──ファラデーケージとは、電気伝導体で形成された箱、またはその内部の空間のことである。
ファラデーケージに流された電流は、その表面を伝い、内部に影響を及ぼさない。
つまり、自動車に雷が落ちても、乗車している人間は比較的安全なのだ。
「……博学だなあ」
「うへー……」
うにゅほが照れる。
NHK教育で科学番組でも見たのだろうか。
そんなことを考えていると、
「まえ、◯◯、いってたもんね」
「えっ」
まったく覚えていなかった。
しかし、なるほどである。
うにゅほが雷に怯えていたとして、そのとき外出する用事があったらば、俺はファラデーケージについて解説するだろう。※1
「くるまんなかは、だいじょぶ」
「そう、大丈夫」
用語まで覚えているということは、そのとき、よほど安心したのだろう。
過去の自分にグッジョブと伝えてやりたい気分だった。
DVDを返却し、ワゴン販売のドーナツを購入して家路についた。
みっつ買ったら、ふたつもおまけしてくれた。
販売員のお兄さん、美味しかったです。

※1 2012年11月27日(火)参照



2014年9月13日(土)

「──……すぅ」
うにゅほがソファで寝落ちしていたので、そっと毛布を掛けてあげた。
風邪を引かないように、という配慮だったのだが──
「……う」
うにゅほが身じろぎをし、なかばほど目蓋を開いた。
「××、起きたか?」
「おきは……」
じゅる、とよだれをすする。
「へんなゆめみた……」
「どんな夢?」
「うにが──」
「ウニが」
「じゅうでんして……」
「……うん、それは、間違いなく変な夢だ」
「あじゅい……」
うにゅほが上体を起こすと、毛布がずるりと落ちた。
「あせ……」
呟きながら、首筋を撫でている。
「汗──うわ、びっちょびちょじゃんか」
よく見ると、額から幾筋もの汗が垂れていた。
ハンドタオルを取り、うにゅほの顔を拭う。
「ぶ」
今日の気温では、毛布はいささか暑すぎたらしい。
タオルケットにしておけばよかった。
「服のなかは?」
「うー?」
うにゅほが、襟元を大きく開いた。
見えるっての。
「びしょびしょ……」
「気持ち悪くないか?」
「きもちわるい」
「まだ昼過ぎだし、シャワー浴びてきたらいい」
「うん……」
ふらふらと立ち上がり、覚束ない足取りで自室を──
「××、下着! 着替え! バスタオル!」
なにもかもを忘れていく気か。
「ん……」
まだ、半分ほど寝ぼけているらしい。
入浴の準備が整うのを見届けて、うにゅほを浴室まで送り届けた。
ひとりで階段を使わせるのが不安だったのである。
しばらくして、
「ただいまー」
足取りも軽やかに、うにゅほが帰ってきた。
「目、覚めたか?」
「うん」
こくりと頷き、
「おひるのおふろ、きもちいねえ……」
しみじみと呟いた。
今年の夏は、そんな必要なかったものな。
暑い夏は暑い夏で、風情があるというものだ。
来年は、もうすこし暑くてもいいかもしれない。



2014年9月14日(日)

『それはそーと、神社の縁日行かない?』

友人とLINEで会話していたとき、そんな話題になった。
「縁日かあ……」
年に一度だけ、近所の神社に屋台が並ぶ。
小学生のころは毎年楽しみにしていたものだが、ここ十年ほどは意識にのぼることすらなかった。
「××、縁日行くけど──」
そこまで口にして、自分のデリカシーの無さに呆れてしまった。
「──……う」
案の定、うにゅほが顔を青くする。
さっぽろオータムフェスト2014
──大通公園を舞台に、北海道の美味いものを集めて秋を祝う食の祭典。
本日の午後、うにゅほは、両親に連れられてこのイベントに足を運び、あまりの混雑に人酔いして帰ってきたのだった。
なんてタイミングの悪い。
「……ああ、ごめん。今は行きたくないよな」
「ごめんなさい……」
もともと人混みの苦手な娘だから、よほど大変な思いをしたのだろう。
「……◯◯、いってきて」
「いいのか?」
にへらっと笑い、うにゅほが言った。
「……おみやげ」
「ああ、わかった」
うにゅほの頭を撫で、外出した。

まっすぐ歩けないくらいには、縁日は賑わっていた。
うにゅほを連れて来なくて正解だったろう。
屋台で買い食いをしながら友人と昔を懐かしみ、きちんと参拝を済ませて帰宅した。

「ただいまー」
「おかえりなさい」
出迎えてくれたうにゅほに、ぱんぱんの袋を渡す。
「ふなっしー」
「わたあめだよ」
「わたあめ!」
「食べたことなかったっけ」
「うん!」
慌てた手つきで、ふなっしーの袋を外す。
「はー……」
ふわふわのわたあめを前にして、うにゅほが瞳を輝かせた。
「くもみたい……」
「あ、手で千切って食べたほうがいいぞ」
そのまま食べると惨劇が起きる。
うにゅほが、わたあめをひとつまみ取り、口に入れた。
「んー!」
「甘いだろ」
「あまい!」
甘すぎて飽きるんだよな、これ。
「俺も食べていいか?」
「うん」
わたあめひとつ、400円。
原価が気になるところだが、それは野暮というものだろう。



2014年9月15日(月)

「──◯◯、◯◯!」
ソファに寝転んで漫画を読んでいた俺の腕を、うにゅほが両手で抱き込んだ。
「どしたー?」
「きて!」
急かされるまま上体を起こす。
なにかあっただろうか。
うにゅほが楽しそうにしているので、悪いことではないと思うが。
手を引かれながらついていくと、
「ここ」
「──…………」
うにゅほがトイレのドアを開いた。
え、なんなんですか?
戸惑いながらトイレに足を踏み入れたとき、
「これ!」
うにゅほが足元を指さした。
「あー……」
納得する。
左上にまっくろくろすけ、右に小トトロ、そして中央に大トトロ。
それは、となりのトトロのトイレマットだった。
「かわいい?」
「かわいいけど、いきなりトイレに連れて来られたから、なにごとかと思った」
「?」
小首をかしげる。
いまいちよくわかっていないらしい。
まあ、いいや。
うにゅほが喜んでいるのだから、それ以上のことはない。
「母さんが買ってきたのかな」
「うん、いっしょに」
なるほど。
「トトロのトイレマット、かあ」
トトロに見上げられながら用を足さなければならないのか。
落ち着かないと思うほど、繊細ではないけれど。
とりあえず、
「よかったなー」
「うん!」
うにゅほの頭を撫でておいた。



2014年9月16日(火)

「──……うふぁ」
PCに向かって作業をこなしながら、
「……あふ」
繰り返し繰り返しあくびを噛み殺していた。
「◯◯、ねむい?」
「眠い」
「ぐあいわるいの?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「そか……」
理由は明白である。
「最近、寝るのが遅くってさあ」
「よふかし?」
「……夜更かしというか、朝更かしというか」
「なんじくらい?」
「昨夜は──朝の五時半くらい、だったかな……」
「──…………」
あ、うにゅほが、あまり見たことのない顔をしている。
呆れているらしい。
うにゅほの起床時間がおおむね午前六時ごろなので、ほとんど入れ替わりに就寝したことになる。
「ちゃんとねないとだめだよ」
「待て、理由があるんだ」
「なにー?」
「最近、寝るくらいの時間になると、すごく具合が悪くなるんだ」
「……だいじょぶ?」
一転、心配そうな表情を浮かべる。
「大丈夫、それでどうこうってことはない。二、三十分で落ち着くことはわかってるし」
「ねれないの?」
「いや、寝ようと思えば眠れる。ただ──」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「最近、具合が悪くなってきたら逆に燃えてきて、乗り越えてやる!──みたいな熱血な気分になって」
「──…………」
「気を紛らわせるために作業に集中してたら、五時くらいになってて」
「──…………」
「……寝る、みたいな」
うにゅほが、また、あまり見たことのない顔をする。
呆れられているようだ。
「ちゃんとねないとだめだよ」
「はい……」
うにゅほの言うとおり、今夜はちゃんと寝ることにします。



2014年9月17日(水)

「やすみ──、かなあ」
「……午後休診、って書いてるな」
診察券を確認しなかった自分が悪いのだが、どうにも出鼻をくじかれた気分である。
「くすりだいじょぶ?」
「ああ」
こんなこともあろうかと、一日分は残してある。
「このまま帰るのも出掛け損な気がするし、適当にぶらつこうか」
「いいねー」
うにゅほが、ほにゃっとした笑みを浮かべた。
最近、外出と言えば、TSUTAYAと家を往復してばかりだったからなあ。
「どこいく?」
「まず、ヤマダ電機に行こうかな」
「おー」
「耳掛け型のイヤホンが見たい」
「こわれたの?」
「壊れたってほどじゃないけど、たまに片耳からしか聞こえなくなるんだ」
「こわれた」
「まだ壊れてない」
プラグが変形するかなにかして、接触不良を起こしているのだと思う。
「こわれかけ?」
「そう、壊れかけ」
「こわれたて」
「まだ壊れてないってば」
くすくすと言葉でじゃれ合いながら、ヤマダ電機へとハンドルを向けた。

「◯◯、かわった!」
「本当だ……」
エスカレーターで二階へ上がると、売り場の配置が大きく変更されていた。
俺は、ちょくちょく配置換えを行う店舗が嫌いである。
手間をかけた上に、客に対して売り場の覚え直しを強いるのだから、誰の得にもなっていないと思うのだ。
「いやほんどこかなー」
「携帯関連グッズのところにあるんじゃないか」
「なんで?」
「でも、PC関連の売り場にもあるかもしれない」
「どっちかな」
「たぶん、両方かな……」
「?」
案の定、両方にあった。
確実にわかりにくくなっている。
俺たちも困るが、店員さんたちはもっと大変だろうと思った。



2014年9月18日(木)

「Bluetoothオーディオレシーバー、そういうのもあるのか……」
「ぶるー……、うん?」
「覚えなくていい、覚えなくて」
耳掛け型のイヤホンを探すため、ヨドバシカメラまで足を運んでいた。
平日ゆえか、さほど混み合っていなくて助かった。
うにゅほは、さっぽろオータムフェスト2014でトラウマを負ってきたばかりである。※1
「……どれも似たり寄ったりだな」
そもそも、ヘッドホン売り場の広さに比して、耳掛け型イヤホンの売り場が狭すぎる。
オーディオにこだわりを持つ人は、音漏れのしやすい耳掛け型なんて使わないのだろう。
「へっどほんは?」
「ヘッドホンはなあ……」
俺の髪の毛はヒゲより太い。
ヒゲが薄いのもあるが、髪の毛がそれ以上に硬いのだ。
ヘッドホンを常用すれば、逆モヒカン(横ver)になるのは目に見えている。
「××みたいに、髪の毛が柔らかければ考えるんだけど」
うにゅほの髪の毛に指を通す。
絹糸のように、さらさらと指のあいだを滑り落ちた。
「どうするの?」
「完全に壊れてから、適当なの買えばいいや」
「そか」
「それより、わざわざヨドバシまで来たんだから、いろいろ見て回ろうぜ」
「うん!」
「なにか見たいのあるか?」
「うと……、あれみたい。あの、すごいテレビ」
「4Kテレビか」
「それ」
普及するのかな、あれ。

「◯◯、◯◯、コーヒーだって」
「コーヒーメーカーならうちにもあるだろ」
「ばりすた」
「……ああ、五種類くらい淹れられるやつか」
「えぷ、えすぷれっそ、ブラック、まぐさいず、かぷちーの、カフェラテ、だって」
「俺も××も、コーヒー好きじゃないだろ」
「カフェラテすきだよ」
「エスプレッソにもブラックにもミルクと砂糖入れるなら、種類とか意味ないな」
「いみない」

「××、この時計見てみ」
「これ?」
「値札、値札見てみ」
「いち、じゅう、……じゅうまんえん?」
「百万円」
「ひゃくまんえん」
あ、理解が追いついてない。
「こういう商品がさらっと置いてあるから、侮れないよな」
「……え、ひゃくまんえん?」
「遅い」

ウィンドウショッピングに終始して何も購入しなかったが、楽しかった。
やはり、大きな家電量販店はいいものだ。

※1 2014年9月14日(日)参照



2014年9月19日(金)

「──……ん」
目蓋を開くと、うにゅほが枕元に座っていた。
珍しいこともあるものだ、と思った。
うにゅほは、睡眠障害の気がある俺の眠りを邪魔しないよう、いつも配慮してくれるからだ。
「……あ、おきた」
「おはよう」
「おはよ……」
うにゅほの表情が暗い。
「どうかした?」
「うと、いぬが……」

キャン!

リビングから甲高い鳴き声が響いた。
「あー、そうか。今日だったっけ」
「うん……」
二泊三日、両親の友人の飼い犬を預かることになっていたのだった。
以前にも預かったことがあるのだが、烈火のごとく吠えまくり、うにゅほに深い苦手意識を植え付けて去っていった。※1
嵐のような小型犬である。
「……まあ、俺の後ろにでも隠れたらいいよ」
「はい……」
顔でも洗おうかとリビングへ通じる扉を開けたところ、
キャンキャンヒャン! ワン!
「ひ!」
くだんの仔犬が、俺とうにゅほの周囲をぐるりと回った。
「なんだ、前より吠えなくなったな」
「そかな……」
吠えはするが、吠え続けはしない。
恐らく、我が家の環境に慣れたのだと思う。
「××、今回は克服できるといいな」
「しなきゃだめ?」
「いや、しなくてもいいけど……」
前回預かったとき、よほど怖い思いをしたらしい。
「……まあ、なんだ。言ってくれたら傍にいてあげるから」
「といれのときも、いい?」
「いいよ」
律儀にトイレのドアの前で待っている必要もないし。
ヒャン!
仔犬が吠える。
慣れたら可愛いのになあ。
すこしだけ、もったいない気がした。

※1 2014年3月21日(金)参照



2014年9月20日(土)

「──…………」
薄く開いた扉の隙間から、うにゅほがじっとこちらを窺っている。
「いまは一階にいるから大丈夫だよ」
「……ほんと?」
「嘘だと思うか?」
納得したのか、おずおずと自室から歩み出てきた。
「いな、い……、ね?」
「母さんが帰ってくるまで、一階の婆ちゃんとこで面倒見るってさ」
「──……ほ」
溜め息と共に、うにゅほが胸を撫で下ろした。
あの仔犬のことが本当に苦手なのだ。
「でも、前よりずっと吠えなくなったろう」
「ほえなくなった……」
「でも、怖いか」
「こわい」
たしかに、うにゅほの気持ちも理解はできる。
フリーのホラーゲームをプレイしたことのある方々ならわかると思うのだが、驚かせるためのギミックそのものはチープであることが多い。
驚かされること自体より、「驚かされるかもしれない」と感じているあいだにこそ、恐怖は潜んでいるものだ。
「──あれっ」
うにゅほが膝をつき、テーブルの下に手を入れた。
「どうかした?」
「なんかおちてる」
「あー、犬がまたどっかから拾ってきたかな」
嵐のような仔犬は、誰かを本気で噛むことは決してないが、なかなかにイタズラ好きなのである。
以前にも、俺の耳栓をセットで隠されたことがあった。
「あっ」
「──……ぷ」
うにゅほが拾い上げたものを見て、思わず吹き出してしまった。
「ふふ、うくく……」
「あはっ、はははは! 婆ちゃんの入れ歯、入れ歯がこんなとこに!」
「うひ、ひー、いればだ!」
思わずふたりで笑い転げてしまった。
テーブルの下から入れ歯が出てきたら、もう笑うしかないではないか。
「くふ、ふふふ、入れ歯、噛み跡とかついてない?」
「だいじょぶみた、ひ、ひ」
壊れていないようで安心した。
明日、仔犬が帰るまでに、一騒動起こさないことを祈る。



2014年9月21日(日)

「──……う」
上体を起こす。
時刻を確認するまでもなく、夕方であることは明らかだった。
午前中はずっと起きていたとは言え、いくらなんでも寝過ぎである。
「おきた?」
「ああ、うん。仔犬は?」
「かえった」
うにゅほが笑みを浮かべた。
すっきりとした笑顔だった。
今回も、感動的な展開には至らなかったようだ。
「あー……、なんでだろう。まだ眠いや」
「……ぐあいわるい?」
「いや、具合は悪くない。寝過ぎで頭がふらつくけど、それくらいかな」
「なんでだろうねえ……」
うにゅほとふたり、首をかしげた。
体調の悪化に明白な理由があるとは限らない。
しかし、ふと思い出したことがあった。
「──……ワイン」
「ワイン?」
「昨日、父さんに勧められて、ワインをひとくちだけ飲んだろう」
「うと……、あ、のんでた。のんでたね、しろワイン」
「あれのせいじゃないかな」
「まえ、ワイン、まいにちのんでたのに?」
「そうそう、いきなりアルコールが駄目になったんだよ。ワインに限らず、ぜんぶ」
「たいしつ?」
「そんな唐突に変わる──」
唐突に閃くものがあった。
iPhoneを手に取り、家計簿アプリを起動する。
「……酒代が急速に減ったのが五月、なくなったのが六月」
「うん」
「そのころ薬の処方が変わって──、そう、たぶんこの薬だったはず」
淡橙色の錠剤。
薬剤名を元に検索をかけ、
「あった」
「?」
うにゅほが、文字だらけのサイトに眉をひそめた。
「効能または効果、神経症における睡眠障害その他──」
マウスホイールをぐりぐり回す。
「併用注意、アルコール。本剤の作用が増強されることがある──、これだ!」
ぱん!
両手を打ち鳴らした。
「これだって、どれだなの?」
「つまり、眠りを深くする薬が、アルコールのせいで強力になっちゃうってことだ」
体質にもよるけれど。
「おさけとくすり、いっしょにのんだからねむいの?」
「そういうことだな」
「はー……」
うにゅほが、うんうんと頷いた。
「おさけのめないね」
「いや、どうしてもってときは、この錠剤だけを──」
そこまで口にして、止めた。
あくまで素人の推測に過ぎないし、処方された薬はきっちりと服用すべきだ。
どうしても飲酒が避けられないときにだけ、この淡橙色の錠剤を外してみることにしよう。
「……まあ、お酒は体に悪いしな」
「うん」
無理をしてまで飲むことはない。
うにゅほの顔を見ていると、そんなことを思うのだった。



2014年9月22日(月)

「──◯~、◯!」
自室の扉を閉じるなり、うにゅほが機嫌よく俺の名前を呼んだ。
「どした、にこにこして」
「うへー」
うにゅほが、腰の後ろに隠していた両手を開き、
「おみやげもらった!」
と、数種類のお菓子を差し出した。
「おー!」
まず、どうしても緑色の球体に目が行く。
「懐かしいな、まりもようかんだ」
「まりもようかん?」
「針ないか?」
「はり?」
容器には付属していたのだろうが、持ってきてはいないようだった。
「まあ、刺繍針でいいや」
デスクの引き出しから刺繍針を取り出し、
「……よーく見てろよ」
「うん」
ぷつ。
ぺろん!
「──……?」
うにゅほが不思議そうな顔をしている。
「はい、剥けた」
「むけた?」
「触ってみ」
「さわ……、あ、べたべた、むけてる!」
よーく見ていても見逃す速度である。
「自分のぶんは、自分で剥いてみたらいい」
「うん!」
まりもようかんに舌鼓を打つ。
記憶にあるより、ずっとまろやかで、癖のない甘さだった。
「あ、むけた! むけた!」
「面白いだろ」
「うん!」
大興奮のうにゅほを横目に、デスクの上のおみやげに目をやった。
よくわからない個包装、おかき、青いキャラメル──
「……青いキャラメル?」
ソーダ味だろうか。
ジンギスカンキャラメルに比べればましだが、あまり美味しそうな予感はしない。
「××、これなに?」
「む」
指先をくわえていたうにゅほが、キャラメルに視線を向ける。
「あ、それ、しおばたーキャラメル」
「塩バターキャラメル?」
「うん」
「塩バターキャラメルが、なんで青いんだ?」
「わかんない」
そりゃそうである。
恐る恐る口に入れてみると、やはり、ソーダ味ではないようだった。
「塩……、バター……」
言われてみれば、そんな気もする。
「おいしい?」
「普通」
それだけは即答できる。
後から検索をかけてみたのだが、わざわざ青くした理由はよくわからなかった。



2014年9月23日(火)

「──あ!」
うにゅほが唐突に身をよじった。
「わ、はえ、はえだ!」
指をしおりにしたマジック・ツリーハウス5巻で、ちいさなハエをしっしっと追い払う。
「ハエなんて珍しいなあ」
呟くように言いながら、ぺら、とエッセイ集のページを繰る。
「……◯◯、はえ、だいじょぶなの?」
「えーと……、あれ?」
部屋に虫が現れたにも関わらず慌てていない自分に気がついた。
「あれ、ハエは驚かないな」
「なんで?」
うにゅほが小首をかしげた。
「××は、ハエ駄目か」
「だめー……」
となると、理由は俺のほうにあるらしい。
ハエがどこかに隠れてしまったので、キンチョール☆を構えつつ雑談をする。
「大丈夫な虫と、駄目な虫ってあるよな」
「あるかな……」
「トンボとか、バッタとかさ」
「きらい」
「嫌いかもしれないけど、蛾と比べたら?」
「──…………」
長考ののち、
「……まし?」
と疑問形で答えた。
「トンボとかバッタは、大きいけど部屋に入ってこないから」
「あ、そだね」
「でも、××、アリは大丈夫なんだよな」
「ちっちゃいもん」
「蚊は?」
「だめだめだめ」
「腫れるもんな……」
「うん」
うにゅほの好き嫌いは、純粋な大きさ、または害をなすかどうかを基準としているらしい。
「俺は、部屋に入ってこなくて、近づいてもこない虫は、あんまり気にならないかな」
「はえはー?」
「ハエだけは例外なんだよなあ」
決して好きではないが、見つけて慌てるほど驚きはしない。
顎に手を当てて記憶を探る。
「たぶん、子供のころ、夏になるたびに婆ちゃんちにハエが湧いて──」
常に数匹は飛んでいたように思う。
「……慣れた、みたいな」
「ふうん……」
じわっとした感じで会話が終わってしまった。
しばらく神経を集中していたが、リビングのほうへ行ってしまったのか、その後ハエが姿を現すことはなかった。



2014年9月24日(水)

「なな──……、えっ?」
「現在、7.120ポイント貯まっておられますね」
「──…………」
ヤマダ電機の店員の言葉に、思わずうにゅほと顔を見合わせた。
「あ、ちょっと、ちょっと待ってください。ちょっと相談しますので」
「はあ……」
父親に頼まれたiPhone用液晶保護フィルムを手に取り、いったんレジから距離をとった。
「××、××! 7,120ポイントだって」
「ななせんえん?」
「端的に言えばな。でも、なんでそんなに貯まってるんだ……?」
ポイントカードに印字された文章を読み上げる。
「サービス強化のため、新カード発行予定。ポイントは印字されません──」
だから、ポイントが貯まっていることに気がつかなかったのだ。
「シブチンのヤマダ電機で7,000ポイントも……」
「しぶちんなの?」
「ヨドバシだと、なに買ってもだいたい10%はポイント貰えるんだぞ」
「やまだは?」
「基本的に1%」
「……しぶちん」
「だろう」
「でも、◯◯、やまだでんきすきだよね」
「近いからな」
近所にヨドバシかビックカメラがあれば、そちらへ行くに決まっている。
「……もしかして、なにかの間違いじゃなかろうか」
「まちがい?」
「だって、最近買った高いものなんて、布団乾燥機くらいしか覚えがないぞ」
「そかな……」
うにゅほが小首をかしげる。
「──よし、この機会に、欲しかったものを買ってやれ」
「なに?」
「一万円以下の、そこそこ良いヘッドホン」
「へっどほん、かみがたへんなるって」
「ずっとつけてればな。ただ、音楽関連の作業をするときは必要だと思って」
「ほー」
「そもそも、つけっぱなしだと××と話せないだろう」
「──……!」
うにゅほが、うんうんうんと力強く頷いた。

──と、いうわけで、SONYのMDR-XB600をヤマダ電機のポイントで購入したのだった。

「◯◯?」
「ん?」
「エイさん、ポイントならなかったの?」
「……あー」
そう言えば、エイさんことA3対応プリンタを先月購入したばかりだった。※1
仕事上の買い物だったので、思い出せなかったのだろう。
「あと、ファックスかった」
「……いろいろ買ってたな、俺たち」
「ストーブも──」
そりゃ、7.000ポイントも貯まるわけである。
俺たちのように、手近で済ませようという顧客がいる限り、ヤマダ電機は業界最大手のままなのかもしれない。

※1 2014年8月14日(木)参照



2014年9月25日(木)

「──……ね……」
購入したばかりのヘッドホンで音楽を聞いていると、うにゅほが俺に話し掛けたようだった。
「ん?」
再生を止め、ヘッドホンを外す。
「おと、いい?」
「よくわからんけど、いいんじゃないかな」
「よくわからんの?」
「オーディオマニアじゃないから」
特にこだわりはない。
「でも、違いはわかるよ」
「ほー」
「密閉型だから周囲の音が気にならないし、いままで聞こえなかった音が聞こえる」
「ふうん……」
ピンと来ないらしい。
「試しに、なにか聞いてみるか?」
「うん、ききたい」
「よし」
ヘッドホンを外し、うにゅほに──
「──…………」
うにゅほに、まず、耳掛け型イヤホンを手渡した。
「?」
「聞き比べ」
「あー」
マイミュージックを開き、適当にMr.Childrenを再生する。
そのあいだに、スライダーでヘッドバンドの長さを調節することにした。
頭の大きさが違いすぎて、いっそ笑えてくる。
サビが終わるのを待ち、停止した。
「どうだ?」
「いいきょく」
それは、名もなき詩への感想だろう。
「それじゃ、次はヘッドホンな」
微調整を加えながら、うにゅほの耳にヘッドホンを装着する。
「つけ心地はどうだ?」
「ふけごち?」
「つけ心地」
「つけごこち」
どうやら大丈夫そうだ。
「再生するぞー」
「はい」
AIMPの再生ボタンを押した瞬間、
「──わ!」
うにゅほが慌ててヘッドホンを外し、声を荒らげた。
「うるさい!」
「あー、うるさいか」
音量は変わっていないはずだが、密閉型だからそう感じたのだと思う。
そもそも、うにゅほにとって音楽とは、あらゆる場面でなんとなく流れているBGM以上の存在ではないのだろう。
ジブリの曲は好きだが、それはジブリ映画ありきのものであり、好きなアーティストも特にいない。
そもそも興味が薄いのだ。
俺も、人のことは言えないけれど。
「……みみ、わるくなるよ?」
「そうだなあ」
心配されてしまった。
ヘッドホン難聴というものがあるらしいので、いちおう気をつけておこう。



2014年9月26日(金)

「──なまむぎなまごめなまままも! いえた!」
「言えてない」
「えー……」
うにゅほが不満の声を漏らす。
「はい、生麦」
「なまむぎ」
「生米」
「なまごめ」
「生卵」
「なまたまご」
「生麦、生米」
「なまむぎ、なまごめ」
「生米、生卵」
「なまごめ、なまたまご」
「はい、深呼吸!」
「すー……、はー……」
幾度か深呼吸をして、
「はい、生麦生米生卵!」
「なまぐみなっ、」
「──…………」
「──…………」
「気を取り直して、生麦生米生卵!」
「なまぐみなまごめなまたまご! いえた!」
「言えてない」
「えー……」
「今度は、なまぐみループにはまり込んだみたいだな」
「なまむぎ」
「生グミって、生キャラメルみたいなものかな」
「おいしそう」
「生麦生米生卵!」
不意をついてみた。
「まっ、なまむぎなまごめなまたまご!」
「お、言えた」
「いえた!」
一瞬危なかったが、なんとか耐えた。
「やた!」
「よしよし」
「うへー……」
うにゅほの頭をぐりぐりと撫でる。
嬉しそうだ。
「つぎ!」
「はいはい」
「◯◯いえないの、ないの?」
「あるぞ」
「どれ?」
「えーと……、これ、一度も言えたことないかな」
「うらのたてだきかけたててててた」
裏の、までしか合っていない。
「裏の、竹垣、誰、竹、立てかけた」
「はやく」
「……裏のたてだきかけたててかけちゃ!」
裏の、までしか合っていなかった。
「これいえたらすごい?」
「俺はすごいと思う」
「よーし……」
そんな具合に早口言葉で遊んでいた。
ちなみに「裏の竹垣 誰 竹 立てかけた」は、練習したところ数分で言えるようになった。
うにゅほに関しては、まあ、お察しください。



2014年9月27日(土)

「……邪魔くさいな、扇風機」
九月も終わりが近づき、暑さより肌寒さを感じるようになったこの頃、扇風機の役目は終わったように思う。
「そだねー」
「今年は冷夏だったから、あまり使った記憶がない」
「だれ?」
「誰?」
「れいか」
「冷たい夏、と書いて、冷夏」
「へえー」
うにゅほが、うんうんと頷いた。
「なんかこう、片付ける前に有効活用したいよな」
「なにする?」
「いや、まったくもってノープランだけど……」
しばしふたりで考え込む。
「……うと、ラーメンさます?」
「──…………」
壁掛け時計を見上げる。
午後二時。
お昼ごはんは、とうに済んでいる。
「あれだ、ププッピドゥごっこ」
「ぷぷっぴどう?」
「有名だけど、××は知らないかな。
 マリリン・モンローって女優が、地下鉄の通気口から吹き出る風でスカートを──」
「あっ」
「知ってる?」
「うー……、と?」
「知らないか」
「スカートおさえるやつ?」
「そうそう」
世代関係なく有名なシーンである。
うにゅほも、テレビかなにかで見たことがあったのだろう。
「でもきょうスカートじゃない」
「そうなんだよな……」
「スカートはく?」
「そこまでするネタではない気がするな」
単なる思いつきだし。
「わーれーわーれーはー、は?」
「あれは、出したときにやっただろ」
「そだね」
というわけで、特になにをするでもなく、扇風機はごく普通に片付けられたのだった。
さよなら扇風機、また来年。



2014年9月28日(日)

「……ーぷ」
「んー?」
おやつのミルクレープに舌鼓を打っていると、神妙な顔でうにゅほが呟いた。
「れーぷって、なに?」
「あー……」
苦笑する。
以前は俺も、同じ勘違いをしていたものだ。
「ミルク・レープ、じゃないんだよ」
「ちがうの?」
「ミル・クレープ」
「クレープなの?」
「クレープの一種、ということになるな」
「くれーぷ……」
ぺら。
うにゅほが、フォークの先でクレープを一枚めくった。
「それ、クレープ生地らしい」
「そうなんだ……」
へえー、と頷く。
「みる、は?」
「ミルのほうは、たぶん、ミルフィーユと同じだよなあ」
あれも、パイ生地を重ねたお菓子だし。
「たぶん、重ねるとか、重ねたとか、そういう意味なんじゃないか」
推測だが、そう遠くあるまい。
「じゃあ……」
うにゅほが立ち上がり、
ぼふ、
と、俺の背中に負ぶさった。
人肌。
ほっとするあたたかさと、どきりとするやわらかさ。
「これ、みる?」
「ちょっと待って、いま携帯で調べるから──」
iPhoneで検索をかけたところ、ミルクレープのミルとは「千枚の」という意味らしかった。
「……あと998人足りないな」
「あー」
「でも、ミルクレープだって千枚ないし、いいんじゃないか?」
「みる、なに?」
「ミル……、ヒューマン? ヒューマンは英語か」
「みる、◯◯とわたし?」
「……それでいいや」
「うへー」
うにゅほの笑い声がくすぐったかった。
「ところで、残りのミルクレープはもらっていいのか?」
「だめだめー」
穏やかな秋の陽射しを感じながら、理由もなくふたりでじゃれあっていた。



2014年9月29日(月)

近所に新しくコンビニができたので、散歩がてら行ってみることにした。
「──って、近!」
「ちかいねー」
五分ほど歩いただけで、もう着いてしまった。
近いのは知っていたのだが、思っていた以上に散歩にならない。
「あ、いりぐちふたつある!」
「本当だ」
店内が広めとは言え、出入口をふたつ設置するほどではない。
よくわからないが、あって困るものでも──
「……いや、二人組のコンビニ強盗が別々の出入口から逃げたとき、困るな」
「そだねえ」
そんな特殊な状況にまで対応しようとすれば、それこそきりがないけれど。
お菓子を何点かと今週のジャンプを購入し、
「──…………」
「──…………」
視線で示し合わせて、別々の出入口から外へ出てみた。
「……意味ないな」
「いみないいみない」
ふたりで苦笑する。
そのまま帰宅すると、やはり歩き足りない気分だった。
「近いのはいいんだけど、散歩のついでには向かないなあ」
「ぐるってまわる?」
「いや、ジャンプ買っちゃったしな。はやく読もう」
「そだね」
「あ、ワールドトリガーのアニメ、もうすぐだって」
「おー」
なんやかやと言いながらも、コンビニが近いのは悪いことではない。
ありがたく利用させてもらおう。



2014年9月30日(火)

「──◯◯!」
「んー?」
ぼんやり動画サイトを眺めていると、うにゅほがぱたんと漫画を閉じた。
「おねがいききあいっこしよ!」
「聞きあいっこ?」
「うん」
「いま漫画で読んだから?」
「うん」
照れも悪びれもしない。
「……まあいいけど、順番じゃつまらないから、じゃんけんで買ったほうが好きに命令できるようにしようか」
「いいねー」
俺とうにゅほの間柄だから、そんなハードな命令は出てこない。
暇つぶしくらいにはなるだろう。

「「じゃーん、けーん、ほっ!」」

「勝った」
「まけたー」
「んじゃま、とりあえず肩を揉んでもらいましょうか」
「はーい」
うにゅほに背中を向ける。
親指に力の込もっていない、挟むようなマッサージ。
効かないが、なんとなく心地いい。
「そろそろいいよ」
「じゃ、つぎ!」

「「じゃーん、けーん、ほいっ!」」

「あ、勝った」
「まけたー……」
「よし、今度は儂の腕を揉むがよい」
「ははー」
腱鞘炎でもなんでもないが、とりあえず揉んでもらう。
「きもちいい?」
「なんか王様にでもなった気分だ」
「いいなー」

「「じゃーんけーん、ほい!」」

「……勝った」
「まけた」
命令を思いつかないときに限って、こうして勝ってしまう。
マーフィーの法則だろうか。
「なんか悪いな」
「まけてもたのしいよ」
「そっか」
マッサージばかり、というのもつまらない。
「じゃあ、寒いから俺の膝に座って湯たんぽになりなさい」
「はい!」
チェアを引くと、うにゅほが俺の上に腰掛けた。
あたたかい。
そろそろストーブを出すべきだろうか。
「どうですかー」
「あったかいですよー」
うにゅほの肩にあごを乗せて、くつろぐ。
お願い聞きあいっこは、そのままなんとなく終わりを迎えたのだった。

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