>> 2014年8月




2014年8月1日(金)

「××、なんかおやつあるー?」
「うーと……」
食器を洗い終えたうにゅほが、台所の戸棚を漁る。
「おかきあった」
「おかき……」
できれば甘いものが欲しかったが、おかきも嫌いではない。
「××も牛乳いる?」
「いるー」
と、いうわけで、午前のおやつと相成った、
「醤油系のおかきか」
「かりかりしておいしいよ」
おかきを口に放り込む。
ボリ、
ボリボリ。
「これ堅いなあ」
「おいしくない?」
「いや、美味いけど……」
狭いリビングに、おかきを噛み砕く音ばかりが響く。
「──…………」
だんだん飽きてきた。
それはうにゅほも同じようで、食べるスピードが明らかに落ちている。
盛りつけたときに袋を捨ててしまったことを軽く後悔した。
急いで始末しようとして、
「──ッ! ゲふ! けふっ!」
喉に鋭い痛みが走った。
口内のおかきを牛乳で流し込み、それでも止まらない咳に口元を押さえる。
「◯◯、だいじょぶ? だいじょぶ?」
狼狽しなからも、俺の背中をさすってくれるうにゅほに、
「……大丈夫、大丈夫だから」
そう告げた。
そして、牛乳とおかきに塗れた右手を拭おうと──
「うお!」
手のひらが鮮血に染まっていた。
「──……ふ」
うにゅほが、俺の背中にへなへなと寄り掛かった。
「××、大丈夫、病気とかじゃない」
わかるのだ。
何故なら、喉がすげえ痛いから。
「だいじょぶ、なの?」
「ああ、おかきで喉を引っ掻いただけ」

最寄りの耳鼻咽喉科で事情を説明したところ、
「堅いものは、急がず、ちゃんと噛んで食べてくださいね」と苦笑混じりに言われてしまった。
恥ずかしい。



2014年8月2日(土)

夏服のローテーションが定まってしまったので、新しいシャツを買うことにした。
近所のイオンを適当にぶらついていると、
「◯◯、キティちゃんのある」
うにゅほが指さしたところに、キティの顔のパーツのみが全面に配置されたシャツがあった。
だからどうしろと言うのだろう。
隙あらば俺に可愛いものを着せよう着せようとしてくるので、うにゅほのセンスを当てにしてはいけない。
Mサイズのシャツを三枚ほど購入し、31アイスクリームで休憩をとった。
「クレープおいしい」
「美味しいな」
「このあと、どうするの?」
「決まってるだろ」
「……?」
「××の服を買うんだよ」
実を言うと、ぶらついているあいだに何着か当たりをつけておいたのだ。
婦人服のブースに足を踏み入れ、
「ほら、これ」
涼しげな半袖のカットソーをうにゅほに手渡した。
「セーラーふく?」
「セーラーはセーラーだけど、元の海軍制服に近いデザインだな」
わかりやすく言うと、コスプレ感が薄い。
「きてみる」
「ああ」
試着室から響く衣擦れの音になんとなく聞き入りながら、うにゅほの着替えを待つ。
しばらくして、うにゅほが試着室のカーテンを開いた。
「──……!」
無言で親指を立てる。
「にあう?」
「……いい」
ホットパンツとの相性が素晴らしい。
セーラー服と合わやすいように黒地のミニスカートも購入し、ほくほく顔で帰宅した。
着せ替える喜びは、なんとも言えず心をざわめかせる。
うにゅほはうにゅほで楽しそうに着せ替えられているので、Win-Winということにしておこう。



2014年8月3日(日)

暑さと湿度が相まって、不快指数うなぎのぼりの一日だった。
「××、ドア開けてー」
「はい」
両手を塞ぐ買い物袋には氷系のアイスが大量に詰め込まれている。
直射日光から逃げるように屋内へ入った瞬間、
「うあ」
「はちー……」
むわっと立ち上る湿っぽい熱気に襲われた。
直射日光と多湿、悪い意味で甲乙つけがたい。
「さっさと二階上がって、扇風機の前でガリガリ君食べよう」
「うん、うん……」
力なく頷いたうにゅほが、カップアイスの詰まったレジ袋を手に階段を駆け上り──
「……あかん」
俺は硬直した。
今日、うにゅほは、昨日購入したばかりの黒地のミニスカートを穿いている。
これ以上の説明は野暮というものだろう。
「……××さん、ちょっと」
「?」
冷凍庫にアイスを仕舞っているうにゅほに、ちょいちょいと手招きをした。
「なにー?」
「あんまり穿く機会がなかったことはわかるけど」
「……?」
「ミニスカートで階段を上がるときは──」
「!」
うにゅほがスカートを押さえる。
もう遅い。
「うー……」
「とにかく、外では気をつけるように」
「そとではかない」
「せっかく買ったのに」
「はく」
「階段上がるとき、おしりのあたりを手で押さえてればいいだけだろう」
「◯◯おさえて……」
「……俺もね、やっぱ国家権力は怖いんだ」
「?」
うにゅほが小首をかしげた。
「わかった。××が忘れてそうなとき、ちゃんと教えるから」
「はい」
ミニスカートは、ハラハラしていけない。
やはり、夏と言えばホットパンツである。
これはあくまで実用性を考えた末の結論であって、俺の好みとは一切関係ありません。



2014年8月4日(月)

「──◯◯、ガム、ガム」
「ガムがどうした」
「ガムない?」
詳しく聞いたところ、風船ガムを膨らませるシーンを漫画で読んで、真似してみたくなったらしい。
「俺は持ってないけど……」
「そかー……」
「買いに行こうか」
「──…………」
ふるふると首を振り、
「こんどで──、あっ」
言葉の途中で、なにか思いついたらしい。
「くるまにガムある」
「あー、ボトルのキシリトールガムな。でもあれ──」
「もってくるー!」
俺の制止も聞かず、駆け出して行ってしまった。
元気だなあ。
俺はと言えば、今日はもう扇風機の前から動かないと決めて早数時間だというのに。
しばしして、
「とってきたー」
とん。
デスクの上にガムのボトルが置かれた。
「そのガム、ミント味だけど大丈夫か?」
「だいじょぶ」
「あと──」
俺の話も聞かず、うにゅほが数粒のガムを口に放り込んだ。
数回噛んで、
「──……ッ!」
ガムの辛さに顔をしかめる。
なにがうにゅほをここまで駆り立てるのだろうか。
「さっきからずっと言おう言おうとしてたんだけど──」
必死の形相でガムを噛み続けるうにゅほに、遠慮がちに告げる。
「……そのガム、風船作るのに向かないぞ」
「!」
咀嚼が止まる。
「……◯◯も、れきはいの?」
「できない」
「──…………」
ぺ。
ティッシュの上にガムを吐き、俺の隣に座った。
「すずしい」
「今度出掛けたとき、風船の作れるガム買おうな」
「うん……」
すごくがっかりしていたので、頭をわしわしと撫でてやった。



2014年8月5日(火)

虫コナーズ スプレータイプを網戸に噴霧して、十日ほど経った。※1
「蛾、あんまり見なくなったな」
「そだね」
レースカーテンで室内光を遮っていることも理由のひとつかもしれない。
だとしても、効果を実証しにくい虫除けという分野において、ある程度の実感を齎していることは確かである。
「××、今年蚊に刺された?」
「──…………」
うにゅほがふるふると首を振り、
「さされてない」
と答えた。
「よかったな」
「うん」
うにゅほは、蚊に刺されるとけっこう腫れる体質なのだ。
「でも、あせも……」
呟きながら、赤くなった手の甲をさすっている。
「ウナコーワ塗った?」
「ぬった」
「ここ数日、シャレにならんほど暑いからな……」
自室には扇風機が一台しかないため、ふたりで風を浴びるためには、ある程度密着する必要がある。
しかし、考えるまでもなく、密着するとより暑い。
妥協案として、扇風機の首を振らせている次第である。
「はー……」
すこしでも夜風が入ればと、レースカーテンを開いた。
「──…………」
「──…………」
爪の先ほどの小さな蛾が網戸に張り付いていた。
「……こいつ、どういう気分でとまってるんだろうな」
「きぶん?」
「だって、殺虫剤にもなるようなスプレーを噴射したところで、わざわざ休んでるんだぜ」
「うん」
「ちょっと横にずれただけで、もう苦しくないのに」
「むし、ばかだね」
「そもそも脳みそがないからな」
ピシ!
指先で網戸を弾くと、頭の悪い蛾はどこか遠くへ飛んでいき、もう戻ってこなかった。

※1 2014年7月25日(金)参照



2014年8月6日(水)

「──ホあッ!」
銅鑼の音のような痛みが全身に響き渡る。
左足の小指をしたたかに打ちつけたと気づいたのは、一瞬後のことだった。
「◯◯、◯◯! だいじょぶ?」
「あー、うん。このあいだより強くは──」※1
小指に手を触れた瞬間、血の気が引いた。
「……爪が浮いてる」
「うぃ?」
「たぶん、あと一撃で剥がれる」
「!」
うにゅほが俺の手を引いた。
「びょういん」
「まだ剥がれてないって」
「でも」
頬に手を添えると、すこし安心したようだった。
「ありがとうな。だけど、簡単な対処法があるんだよ」
「……なに?」
「足の爪を切る」
爪の先が浮いているから危険なのであって、その部分を切ってしまえば剥がれることはない。
「◯◯、あしのつめきんないもんね」
「手はともかくとして、足の爪は、頻繁に切らないほうがいいらしいぞ」
「そなの?」
「巻き爪になりやすいんだって」
「へえー」
そうは言っても、俺の爪は明らかに伸ばしすぎである。
あまり気にならないからなあ。
「ついでだし、他の指の爪も切ってしまおう」
引き出しから爪切りを取り出した瞬間、
「ん」
うにゅほに奪われてしまった。
「◯◯のこゆびのつめ、わたしきる」
「いや、自分で──」
「ちゃんと、みてきらないと、あぶない」
「──…………」
爪を切るために体勢を整えた瞬間なにかの弾みで小指を打ち爪が剥がれる映像が、脳裏をよぎった。
「……お願いします」
「はい」
ついでだからと、親指以外の他の爪も切ってもらった。
自分で適当に切るよりずっと綺麗に仕上がった。
なんだか楽しそうだったので、今度は俺がうにゅほの爪を切ってあげようと思う。

※1 2014年7月20日(日)参照



2014年8月7日(木)

うにゅほが風船ガムを膨らませてみたいと言っていたので、バブリシャスのラムネ味をひとつ購入した。
「──…………」
むっち、むっち、もっち、むっち。
美味しそうにガムを噛む音が部屋に響く。
手持ち無沙汰だったので、俺も一粒いただいた。
「味がなくなるまで噛んだほうが膨らませやすい──と、思う」
「──…………」
うにゅほが、こくりと頷いた。
しばらくして、
「あひ、なくなっは」
「膨らませ方はわかるか?」
ふるふると首を振る。
一度だけ膨らませてみせてから、詳しい解説を始めた。
「舌先を使って、ガムを唇から外に押し出して──」
うにゅほが、無造作にべえっと舌を出した。
「あー!」
ガムが口から発射され、カーペットに着地した。
口内で薄く伸ばさず、まるごと押し出してしまったらしい。
「もっかいやる?」
「うん」
鼻息荒く、うにゅほがバブリシャスを口に放り込んだ。
もっち、むっち、むっち、もっち。
「今度は、いちから説明するぞ」
「ふぁい」
「まず、口のなかでガムを平たくするんだ」
「ほうやって?」
「口のなかの上のほうって、硬いだろ。そこを使って、舌で押し潰す」
「──…………」
しばらく試行錯誤し、
「れきた」
「できたら、平たくなったガムの真ん中あたりを、舌を使って押し出して──」
うにゅほが、再び無造作に舌を出す。
「あー!」
ガムがカーペットに着地する。
口を大きく開きすぎていたようだった。
「むずかしい……」
そうかなあ。
習得するのにあまり苦労した記憶はないのだが、できない人はできないものなのだろう。
カーペットについたガムを剥がし、うにゅほが上目遣いで俺を見た。
「……もっかいやっていい?」
「いいよ」
ガムがなくなるまで練習したが、一度も膨らませることができなかった。
教え方が悪いのだろうか。



2014年8月8日(金)

午後、リビングのテレビで録画した番組を観ていたときのことだった。
「すーずしーぃねー……」
俺の膝の上でうつ伏せに寝転びながら、うにゅほが歌っぽいものを口ずさむ。
相当に機嫌がいいらしい。
艷やかな髪を指に巻き付けて遊んでいると、パタパタと両足が動き始めた。
手を離すと、止まった。
髪の毛を掻き分けて背中を撫でると、再びパタパタと両足が動いた。
手を離すと、止まった。
「──…………」
これは、意識的なものなのだろうか。
頭を撫でる。
パタパタ。
ふとももに触れる。
パタパタ。
背中を撫でながら、
パタパタ、
と、楽しげに動く右足を掴んで止めてみた。
「……?」
イカ娘に集中していたうにゅほが、不思議そうにこちらを振り返る。
「なにー?」
「いや、なんでもないよ」
「ふうん……」
うにゅほが読書に戻るのを見計らい、右足を掴んだまま頭を撫でてみた。
「♪~」
機嫌を示す鼻歌と共に、右足にゆるく力が篭められる。
しかし、動かせない。
掴まれた右足につられてか、左足も動きを止めた。
「──……ふむ」
無意識にストレスが溜まっても可哀想だからと、手を離そうとしたとき──
「……~♪」
ふりふりとおしりが揺れ出した。
「こうなるのか……」
「?」
うにゅほが振り返り、
「なにがー?」
と尋ねた。
「いや、なんでもない」
やはり無意識だったようだ。
本当の本当に面白くて飽きない娘だと、三年近く経った今でも思う。



2014年8月9日(土)

蒸し暑い上に出かける用事もなかったので、ふたり揃って甚平姿でだらだらと過ごしていた。
「──…………」
ぐう。
動かなくとも腹は減る。
「××、なんかあったっけ」
「おかし?」
「ごはんでもいいよ」
思い返せば、昼食を食べていないのだった。
「うー……と、おかし、なんかあったきーする」
そう呟いて立ち上がり、小走りで台所へと駆けて行く。
使い走りにしているようで心苦しいが、俺が動こうとする前にうにゅほが動いてしまうのである。
おしりが小さいから、腰が軽いのかもしれない。
「◯◯、たこやきのあったー」
「おー」
戦利品のたこ焼きスナックを掲げ、うにゅほが凱旋したときのことだった。
甚平は袖が広い。
袖が広いと、いろいろなものが引っ掛かる。
たとえば、そう、
「──うあ!」
うにゅほが、ドアノブに甚平の袖を引っ掛けた。
未開封のたこ焼きスナックが宙を舞う。
「危な──」
反射神経が、俺の全身を瞬時に躍動させた。
たこ焼きスナックを空中でキャッチし、カーペットの上に倒れ伏す。
「──…………」
「──…………」
俺も、うにゅほも、とっくに理解していた。
「……落としても大丈夫なやつだ、これ」
「うん」
反射神経が暴走してしまったらしい。
牛乳とか、ケーキとか、落とすと大惨事になるときこそ、ちゃんと働きますように。



2014年8月10日(日)

「──…………」
祭囃子が耳に心地いい。
家の前の公園で、毎年恒例の夏祭りが開催されているのだ。
「ね、◯◯!」
甚平姿のうにゅほが、俺の手を引いた。
今年は浴衣じゃないようだ。
「はいはい、行くか」
会場内を練り歩き、焼き立ての焼き鳥をありったけ購入して帰宅した。
「──よし、これで、もう行かずに済むな」
「いかないの?」
「入りたいか?」
視線で公園を示す。
有無を言わさず近所の住人を片っ端から放り込んだような人口密度である。
「──…………」
うにゅほが、苦笑と共にこちらを見上げた。
わかってくれたようだ。
「◯◯、おまつりすき?」
「祭りは好きだけど、人混みは嫌い」
「あー」
うんうんと頷く。
「家の前で祭りがあるなんて、この上ない贅沢だろ。
 家のなかから喧騒を聞いてるくらいが、俺には丁度いいんだよ」
「そか」
自室へ戻り、油っぽい焼きそばと焼き鳥を十本くらい食べたところ、どうしてか胸焼けしてしまった。
「××、ちょっと横になる……」
「うん」
「盆踊りが始まったら、起こしてくれな」
「……?」
「××、混ざりたいんだろ?」
「!」
俺は覚えている。
去年、うにゅほは、盆踊りをマスターすることができなかったのだ。
「うん、おこす」
「頼むー……」
鼻息荒く燃えているうにゅほを横目に、俺は目を閉じた。

目蓋を開く。
気づけば祭りは終わっていて、喧騒は既に過去のものとなっていた。
「……あれ、どうした?」
「あめ」
「──…………」
窓の外を見て、納得した。
「残念だな」
「ざんねん」
「また来年だな」
「らいねん」
うにゅほの頭に手を置いて、ふたり同時に溜め息をついた。



2014年8月11日(月)

「ふふふ……」
「?」
不敵な笑みと共に、うにゅほにあるものを手渡した。
「あ、ミルキーせんこう!」※1
祖父の眠る霊園の管理事務所で購入し、見事に置き忘れてきてしまったものである。
「とある筋から取り寄せましてね」
「へえー」
Amazonだけど。
「火、つけてみるか」
「うん!」
父親の百円ライターを拝借し、フリントホイールに指を──
「あ、まって、まって」
うにゅほが制止する。
「どうかした?」
「おせんこうたてる、あの、あれは?」
仏壇にある香炉のことだろうか。
「試しに火をつけるだけだから、大仰なものはいらないだろう」
「はいが……」
「灰皿がある」
線香は立てるもの、という先入観が強いらしい。
「火、つけるぞ」
ライターのホイールを回し、その火でミルキー線香の先をあぶる。
「……あ」
すん、
すんすん、
うにゅほが鼻を鳴らす。
「あまいにおいする……」
「火をつけると、本当にミルキーっぽい香りだな」
そのまま嗅ぐと気持ち悪いけど。
「──…………」
「──…………」
線香の火が消えるのを待って、口を開いた。
「さて、どうしよう」
残り数百本のミルキー線香が箱のなかでひしめいている。
「……ミルキーのにおい、かぎたいとき?」
「ミルキーの匂いを嗅ぎたいときは、ミルキーを食べたいときだと思う」
「あー……」
アロマテラピー気取りで焚くことも考えたが、香りが甘すぎし、線香っぽさが抜けているわけではない。
抹香臭い部屋になることは避けられないだろう。
「……よし、片付けるか」
「うん」
捨てるほどでもないが必要のないものゾーンにミルキー線香を押し込めて、ちいさく溜め息をついた。
アイスでも食べよう。

※1 2014年7月26日(土)参照



2014年8月12日(火)

「──…………」
真っ暗で、なにも見えない。
視界の下に僅かな光を感じるが、さほど問題はないだろう。
耳のあたりに触れる。
違和感はない。
「……よし」
「◯◯、なにしてるの?」
「ああ──」
アイマスクを外し、うにゅほの顔を見上げた。
「ほら、しばらく前にアイマスク買い換えたろう」
「うん」
「それが、ようやく馴染んできたかなって」
「……なじむ?」
「服でも下着でも、自分のものになったって感覚、ない?」
「んー……」
うにゅほの首がゆっくりと傾いでいき、
「──……ん?」
いまいちわからなかったらしい。
「じゃあ、靴は?」
「くつ?」
「最初はきつかったのに、だんだん履きやすくなったり──」
「あー!」
うにゅほが、うんうんと幾度も頷いた。
わかってくれたようだ。
「そのあいますく、◯◯のになったの?」
「間違ってはないかな」
「かしてね」
うにゅほがアイマスクを着けようと──
「……あれ?」
着けようとして、するりと首まで落ちてしまった。
「ああ──……」
現実は非情である。
俺とうにゅほとでは、頭周りの長さが半端じゃなく違うらしい。
わかってた。
だって、俺は頭が大きくて、うにゅほは頭が小さいんだもん。
「◯◯、これおっきいよ?」
ぐさ。
無邪気な言葉のナイフが俺の心臓を抉る。
「おりゃあ!」
「わ!」
夏用のニットキャップを、うにゅほの鼻まで被せてやった。
「あはは、あ、ちょっとみえる!」
意趣返しまで楽しまれてしまっては、もうどうしようもない。
ニットキャップとアイマスク、幾つかの小物を使用して、しばらくふたりで遊んだのだった。



2014年8月13日(水)

「~♪」
ランクルの後部座席へ、うにゅほが鼻歌交じりに乗り込んだ。
「◯◯、◯◯!」
「はいはい」
機嫌よく俺の手を引く。
ここまで楽しそうにしている理由が、俺にはよくわからなかった。
家族で墓参りへ行くだけなのに。
理由を尋ねると、
「みんなででかけるの、うれしい」
という、なんともいじらしい答えが返ってきた。
「──…………」
麦わら帽子を脱いだうにゅほの頭を撫でながら、口を開く。
「そうは言うけど、毎年途中で飽きて帰りたくなるじゃんか」
「うん」
わかってはいるらしい。
「でも、さいしょはたのしい」
「最初だけか」
「うん……」
うにゅほがそっと目を伏せる。
触れてはいけない部分だったらしい。

三時間ほどランクルに揺られ、菩提寺へと辿り着くころには、俺もうにゅほもついでに弟も車内でぐでーっとなっていた。
「あのさあ……」
「んー?」
「お盆って、ご先祖さまが家に帰ってくるって言うじゃん」
「いう」
「じゃあ、今は家に戻ってて、お墓にはいないんじゃないの?」
「──あっ」
「むしろ家でお迎えしたほうがいいのでは」
「なるほど……」
「お盆に墓参り意味ない説、浮上」
本気で言っているわけではないが、どんどんやる気がなくなっていく。

墓参りのあと、両親の友人が経営しているメロン農家へと立ち寄った。
そこに、ジジという名前の人懐こい黒猫がいた。
「まじょのたっきゅうびんだ」
「だな」
近づいても逃げない。
「わー……」
撫でても怒らない。
「おお……」
毛がふかふかしていて、なんだか甘い匂いがする。
「まえの、まえのときのねこかな」
「一昨年メロン食べてた猫は、たしか茶トラだったはず」※1
「かわいいねえ……」
聞いていない。
猫一匹で疲れが取れて、帰りの車中はずっと眠りこけていた。

※1 2012年8月12日(日)参照



2014年8月14日(木)

仕事上、どうしてもA3対応のプリンタが必要になったので、やむなく購入を決意した。
「エイさんかうの?」※1
助手席のうにゅほがわくわくしている。
「いや、A3対応のプリンタで、もっといいのがあれば──」
「エイさんたいおう?」
「いや、エイさんじゃなくて、エーサン」
「えーさん」
「A3」
「エイさん?」
「──…………」
結局、エイさんことEPSONのEP-976A3を買うことにした。
こだわりはないし、わりとコンパクトだし、うにゅほが喜ぶのであれば選ぶ価値はある。
「わー……」
うにゅほが、きらきらした瞳でEP-976A3の箱を撫でている。
エイさんがどうこうではなくて、テレビで見たものを買うという行為が嬉しいのだろう。
「××、まだ買うものあるぞ」
「なにー?」
「純正インクと、A3コピー用紙」
「エイ」
「エイさんじゃなくて、エーサンコピー用紙」
「えーさんコピーようし」
「紙がないと、印刷できないからな」
「あー……」
なるほどー、とでも言いたげに、うにゅほが頷いた。
売り場へ行き、A3コピー用紙の束を取ろうとしたとき、
「わたしやる」
うにゅほが胸を張ってみせた。
「ちょっと重いぞ」
「だいじょぶ」
腰を落とし、
「ぬ、ぬぬぬ、ぬ……!」
可愛らしい気合いと共に、うにゅほが500枚入りA3コピー用紙の束を持ち上げた。
「──やた!」
「おー、やったな」
ひょい。
コピー用紙の束をふたつ重ねてカートに乗せる。
「──…………」
なんとも言えない表情で、うにゅほが俺の顔を見上げた。
うにゅほが過剰に力持ちアピールをしたがるのは、どうしてなのだろう。
「設置するとき、掃除頼むよ」
「はい」
腕力があるより、掃除ができるほうが、ずっとありがたいんだけどなあ。

※1 エイさん ── カラリオのCMキャラクター



2014年8月15日(金)

「ゔー……」
うにゅほの枕に突っ伏しながら、うめき声を上げていた。
「……◯◯、どしたの?」
「だる眠い……」
「ぐあいわるいの?」
「いや、具合は悪くない」
上体を起こし、枕を抱えた。
「ゆうべ缶チューハイ飲んだろ。あのせいだと思う」
「そんなのんでないね?」
「三ヶ月くらい前から、急に弱くなったんだよなあ……」
醉いが回るのが早くなるわけでも、深くなるわけでもないが、翌日に残りやすくなってしまった。
しばらくワインを飲んでいないのは、そのせいである。
「ねむいなら、ねたほういいよ」
「よし、枕になれー」
「はい」
素直に立ち上がろうとするうにゅほを制止する。
「いや、そのままでいいよ」
「?」
うにゅほがうつ伏せの体勢に戻る。
「膝枕じゃなくて、背中枕を試してみよう」
「……?」
「××は、そのまま漫画読んでていいよ」
「はい」
よくわかっていないうにゅほの傍に腰を下ろし、その背中に頭を預けた。
「あー……」
「どう?」
「高さがいい、ちょうどいい」
膝枕のほうが柔らかいが、思ったほどゴリゴリしていない。
硬めの枕、といった具合である。
「なかなかいい枕だなー」
「そか」
うへー、と笑う。
「あ、おなかまくらする?」
「──…………」
うにゅほが素晴らしい提案をした。
オチが見えている気がするが、その誘惑に抗えるはずもない。
「ああ、頼む」
「うん」
うにゅほがくるりと反転し、仰向けになる。
「はい、どうぞ」
ぽん、と自分のおなかを叩く。
導かれるままおなかに頭を預けると──
「あー……、これはいい」
ぷにぷにしていて柔らかく、腹筋が薄いためだろうか、肋骨と骨盤のあいだに沈み込んでいく感覚がたまらない。
「──……ぐ、う、くるし」
うにゅほが苦しげに喘ぐのを聞き、慌てて頭を浮かせた。
「……せなかまくらでいい?」
「いいよ」
背中枕でうとうとしていると、いつの間にか三十分ほど経っていた。
人肌の枕は落ち着くものだ。



2014年8月16日(土)

「◯◯、おまんじゅうあるよ。たべる?」
祖母に貰ったものか、黒糖まんじゅうを携えて、うにゅほが自室へと戻ってきた。
「いや、今はいいよ」
「え!」
驚愕するほどのことだろうか。
「ちょっと、体重を絞ろうかと思ってさ」
「ばせどうでやせたのに……?」※1
「理想体重からもうすこしだけ減らしておくと、管理が楽なんだよ」
「はー……」
もぐ。
うにゅほが黒糖まんじゅうを頬張った。
「わたし、ふたつたべるから、たべたくなったらたべてね」
「ああ、ありがとう」
みっつの黒糖まんじゅうは、ラップにくるんでおこう。

しばらくして、
「◯◯、アイスあるよ」
「今はいい」
「ガリガリくんだよ?」
「──…………」
かき氷に等しいガリガリ君なら、と思ったが、一度許すと際限がなくなってしまうものだ。
「……うん、やっぱりいいや」
「そか……」
うにゅほが肩を落とし、自分のぶんのガリガリ君まで冷凍庫に仕舞う。
なんだか悪いことをしている気分だった。

しばらくして、
「◯◯、こんにゃくゼリーあったよ!」
「あー……」
こんにゃくゼリーは、1個あたり約8kcal。
その数字を気にするほど完璧主義者ではないつもりだ。
「じゃあ、すこしもらおうかな」
「わかった!」
うにゅほがパタパタと小走りで駆け出ていく。
「──…………」
ふと思った。
今のようなやり取りは、さほど珍しいものではない。
お菓子をもらったら分けてくれるし、おやつを見つけたら教えてくれる。
「……俺、餌付けされてないか?」
それ以上考えてはいけない気がして、作業に戻った。
こんにゃくゼリーは美味しかった。

※1 2014年6月27日(金)参照



2014年8月17日(日)

録画していたバラエティ番組を、ぼんやり眺めていたときのことだった。
「──くくっ」
俺が笑った数秒後に、
「ふふ……」
と、うにゅほが笑い声を漏らす。
「……あれ?」
ラグの上でぺたんこ座りをしていたうにゅほが、こちらへと振り返った。
「◯◯、わらうのはやいね」
「……いまさら?」
俺は、ずっと以前から気がついていたけれど。
「おもしろいのいうまえにわらってる」
「ああ──」
しばし言葉を探し、
「……耳で聞くんじゃなくて、目で字幕を読んで笑ってるんだよ」
「なんで?」
「いや、なんでって言われても困るが」
再生を停止し、うにゅほへと向き直る。
「えーと、そうだな。
 自分でもハッキリとはわからないけど、文字で情報を取り入れるほうが、楽で、ずっと早いんだと思う」
「もじで?」
「たぶんだけど、よく読書する人は、俺と同じタイミングで笑うんじゃないかな」
「はー」
うにゅほが、目を白黒させて、
「へんだねえ……」
「──…………」
すごいと言ってほしかった。
「でも、そのおかげで、映画の字幕を追うのに苦労しないんだぞ」
「あ、いいな」
「映画は吹き替えのほうが好きだけどな」
「わたしも」
うんうん、と互いに頷き合う。
「ほんたくさんよんだら、◯◯みたいになる?」
「どうかな……」
うにゅほの読書速度は亀より遅い。
しかし、そのぶん、一冊一冊をより深く読んでいるのかもしれない。
「……わからないけど、なるかもしれないな」
「そか」
リモコンを操作し、一時停止を解除する。
タイミングがずれていても、同じところで笑っていることに変わりはない。
そのほうが、ずっと意味のあることだと思うのだ。



2014年8月18日(月)

「──…………」
ドアストッパー代わりにされている手回しシュレッダーを前にして、俺は決意した。
「××、いい加減ハンドル探そう」
「はんどる?」
うにゅほが、ぼんやりとオウム返しに答えた。
赤城しぐれを食べながら、すっかりくつろいだ様子である。
「シュレッダーのハンドル、失くしたままだろう」※1
「あー……」
いまいち用途を理解していないためか、あまりやる気が見られない。
「ほら、アイス食べ食べ」
「はい」
スプーンを洗って片付けたあと、俺とうにゅほはハンドルの捜索を本格的に開始した。
「……たぶん、この部屋にあると思うんだよ」
「そなの?」
「シュレッダーを外に持ちだしたことはなかったし、なにより──」
苦笑し、言葉を継ぐ。
「家のどこかってことになると、もう絶望的だ」
「……そだね」
うにゅほが神妙な顔で頷く。
「さて、あるとすれば、どれか適当なカゴのなかだと思うんだけど……」
「まえさがしたとき、なかった」
「とりあえず、もう一度探してみよう」
掃除機を仕舞ってあるカゴ、
洗濯物用のカゴ、
「ないねえ」
ストーブの裏、
洋服ダンスの引き出し、
「違うか……」
敷布団の裏、
すのこのあいだ、
本棚、
本棚の裏側、
ソファの裏側──
「……ないな」
「うん」
漠然と、このあたりにはあるだろうと思っていた場所が、すべて空振りに終わってしまった。
「あついねえ……」
「今日、風はあるんだけどな」
自室の扉を開け放せば風は通るのだが、いかんせん、ストッパーがなければ音を立てて閉じてしまう。
「──…………」
俺は、元シュレッダーを扉の前に置いた。
「夏場は、ドアストッパーということで……」
「うん」
これはもう、たぶん、間違って捨ててしまったのだろうと思う。
なにか再利用の方法があればいいのだけど。

※1 2014年7月19日(土)参照



2014年8月19日(火)

「ふくらませるよ!」
コンビニで購入したバブリシャスを掲げ、うにゅほが宣言した。※1
バブリシャスはフーセンガムを標榜しているので、Fit'sなどよりは膨らませやすいだろう。
「ちょい待ち」
「……?」
「あれからすこし考えたんだが──」
引き出しからメモ帳を取り出す。
「××、もしかして、最初から大きい風船を作ろうと思ってないか?」
「う」
図星のようだった。
「急がば回れ。まず、ちいさくても確実に膨らませること」
「はい……」
シャーペンを取り出し、芯を確認する。
「──それでは、図解します」
「ずかい?」
「絵を描いて教えます」
メモ帳に人間の横顔を描き、ざっと口内を示した。
「こないだも言ったと思うけど、まず、上顎と舌を使ってガムをひらべったくする」
「なんで?」
「ひらべったくしないと、口から飛び出しちゃうだろ」
「──…………」
前回の失敗を思い出したらしい。
「そして──」
ガムを図示し、中央に点線で円を描いた。
「ここを、舌で薄くする」
「うすくするの?」
「薄くすることで、空気の逃げ場所を作ってやるんだ」
「へえー」
「そうしないと、ガム全体に息の圧力がかかって、結果飛び出してしまう」
「──…………」
前回の失態を反省しているらしい。
「穴があかない程度にガムを薄く伸ばして、そこに空気を送り込んでやると──」
「ふくらむ!」
「そう、膨らむ」
うにゅほが、既に開封していたバブリシャスを二粒、口のなかに放り込んだ。
「──…………」
むっち、むっち、むっち、もっち。
前回と同様に、味がなくなるまでガムを噛み続ける。
数分後、
「んー! んー!」
親指の先ほどのちいさな風船が、うにゅほの口元で膨らんでいた。
ヘタクソな図まで描いた甲斐があったというものだ。
後から見たら、なんか落書きされてたけど。

※1 2014年8月7日(木)参照



2014年8月20日(水)

コンテのダッシュボードの上に、花を模したオーナメントがふたつ並べてある。
両親の趣味であるらしい。
端的に言えば、太陽光を浴びて葉を揺らすだけの置物だ。
フリップフラップの偽物と言えば、わかる人にはわかると思う。
「あー」
左折した際に、青いほうの置物が倒れた。
常に安全運転を意識し、ダッシュボードに滑り止めシートを敷いてなお、倒れるときには倒れてしまう。
葉と葉のあいだで自己主張をしている小憎らしい笑顔を浮かべた花のおかげで、重心が高くなっているのだろう。
「──……んしょ」
うにゅほが、置物を拾い上げ、元の場所に並べた。
「いちいち戻さなくてもいいんじゃないか?」
何度も拾わせるのは忍びない。
「でも──」
ぱた。
今度は、赤いほうが倒れた。
「あー……」
それを元に戻しながら、うにゅほが呟いた。
「でも、ふたつでひとつだから……」
「──…………」
言葉を失う。
気の利かない俺は、こういうとき何を言えばいいかわからない。
そもそも、単なる思い過ごし、あるいは自意識過剰に過ぎないかもしれないし。
「──…………」
でも、うにゅほの胸中が無意識に表れたのだとすれば、嬉しい。
「どしたの?」
「あ、いや──……」
しばし黙考し、
「うん、ジョイフルに、手回しシュレッダーのハンドル売ってたらいいなって」
「うってるよー」
安心しなさいとでも言いたげに、うにゅほが得意げな笑顔を浮かべた。
何故だろう。
うにゅほは、ジョイフルエーケーに対し、過剰な信頼を抱いている気がする。
気持ちはわからないでもないけど。
結果として、シュレッダーのハンドル、或いはそれに類するものを手に入れることはできなかった。
いよいよもって我が家のシュレッダーが単なる小箱に成り果ててしまいそうなのだが、どうしよう、これ。



2014年8月21日(木)

暇だったので、ヘアブリーチで髪を脱色することにした。
特に理由はない。
メリットはないが、デメリットもないので、気分を変えたいときに色を抜くことが多い。
「──というわけで、やっちゃってくれい」
「うん!」
シャツを脱ぎ、眼鏡を外し、背後のうにゅほにすべてを任せることにした。
付属の手袋を着けたうにゅほが、楽しげに呟く。
「あわあわだー」
べちょ。
頭頂部に、泡らしき重み。
「……遊んでもいいけど、なるべく全体に行き渡るように頼むな」
「~♪」
頭上から鼻歌が聞こえてくる。
大丈夫かなあ。
多少ムラがあったとしても、大した問題ではないけれど。
たとえば、右半分だけを茶髪にでもされない限り──
「──…………」
大丈夫、だよな。
うにゅほはこれでいて真面目なので、言われたことはちゃんとやる。
不器用なのが玉に瑕だけど。
「◯◯のかみ、あらってるみたい」
「あー、たしかに」
「ごしごし」
「刺激物を頭皮にすりこまないでくれ……」
まあ、いいか。
ヘアブリーチを放置する段になって、目を細めながら必死に読書をしていると、
「……わたしも、かみ、そめてみたいな」
うにゅほがそう呟いた。
「駄目」
即答する。
「えー」
「脱色すると、髪の毛ってメチャクチャ傷むんだぞ」
「◯◯は?」
「俺なんて、ハゲなきゃいいんだよ、ハゲなきゃ」
「そこまで……」
「とにかく! 俺は××の髪が大切だから、許可できません」
「──…………」
見えないが、どんな表情を浮かべているかくらいわかる。
うにゅほの髪の毛を手櫛で梳いた。
しっとりと濡れたような、それでいてさらさらとした感触だった。
これが失われるなんて、考えたくもない。
ふと気がつくと、ヘアブリーチを放置し過ぎていて、やたらと薄い髪色になってしまった。
気分転換になったから、なんだっていいのだ。



2014年8月22日(金)

「お」
今日のうにゅほはポニーテールだった。
夏場は髪の毛を高い位置でくくることの多いうにゅほだが、ここ数日はずっと下ろしていた。
涼しいもんなあ。
ソファの背後にまわり、うにゅほのポニーテールを掴む。
「……?」
相変わらず、指通りのよい滑らかな髪だ。
「なにー?」
「こしょこしょ」
毛先で首元をくすぐってみた。
「やー」
うにゅほが笑いながら身をよじる。
楽しい。
「よし、今日はずっとポニテに触ってる日にしよう」
「ずっと?」
「ずっと」
「できるかなあ」
挑戦的な言葉である。
「──よし! じゃあ、立ってくれ」
「たつの?」
「立って、台所へ行きます」
台所へ向かううにゅほの背後で、ポニテをいじる男がひとり。
屋内でなければ不審者である。
「ごはんたべる?」
「そうそう」
「なにがいい?」
「ちっちゃい塩むすびが何個かあれば」
「はーい」
おむすびを握る様子を肩越しに眺めながら、自分が何をやっているのか、だんだんわからなくなってきた。
寝起きの思いつきをそのまま実行するものじゃない。
「できた」
「お、ありがとうな」
「たべさしたほういい?」
「いや、片手は空くから大丈夫だよ」
「そか」
しかし、うにゅほが微妙に楽しそうなので、今更やめることもできない。
おむすびを食べて、
録画していた番組を見て、
自室へ戻り、
ふたりで読書をして、
およそ一時間後、うにゅほがトイレに立つまでこの遊びは続けられたのだった。
まあ、うん、ちょっとだけ面白かったけれど。



2014年8月23日(土)

「──……1000回」
「?」
俺の呟きに、うにゅほが顔を上げた。
「今日、日記を書くと、ちょうど1000回になるんだ」
「へえー」
うにゅほが小さく頷き、
「すごいね!」
と言った。
ああ、これは、あんまりわかってないときの「すごいね」だ。
ちょいちょいと手招きする。
「……?」
俺の両肩に手のひらを乗せながら、うにゅほがディスプレイを覗き込んだ。
「1000回分の日記があるってことは、
 その日なにをしてたのか、1000日前まで遡って確認できるってことだよ」
「おー」
「試しに、適当な日付け言ってみな」
「うと……」
しばし思案し、
「きのう」
「昨日はポニテで遊んだことくらいしか書くことなかっただろ」
「じゃ、いちねんまえ」
「了解」

2013年8月23日(金)
どうやら、検査入院をしていた弟が退院した日の出来事のようだ。

「おもしろいね!」
「そうだろう、そうだろう」
すこしだけ鼻が高かった。
「じゃ、じゃ、にねんまえは?」

2012年8月23日(木)
試しに買ってみたものの、半端じゃなく不味い塩レモン味の飴の対処に困っていたらしい。

「あ、おぼえてる」
「残りの飴ってどうしたんだっけ」
「すててないよ」
「捨ててないよな……」
今もどこかに仕舞われているのだろうか。
「さんねんまえは?」
「××、三年前はまだいなかったろう」
「あ、そか」
ずっと一緒にいたような気がするのだが、まだ三年しか経っていないのだ。
「じゃあ──、さいしょのひ!」
「はいはい」

2011年11月25日(金)
うにゅほが、シフォンケーキを作ってみたいと言い出したときのことが書かれていた。

「──…………」
「うー、あんましおぼえてない」
「……俺は、覚えてる。思い出した」
「?」
「これ、××が家に来て、まだ一ヶ月くらいのころだよ」
「うん」
目蓋を閉じる。
脳裏に、あのときのうにゅほの姿が映し出された。
「まだ、ぜんぜん慣れてなくて、喋るときも単語だけだったり、オウム返しだったり──」
「そだっけ……」
うにゅほが苦笑する。
すこしは覚えているのだろう。
「だから、さ。
 したいこと、やってみたいことを初めて言ってくれたから、俺、すごい嬉しかったんだよ」
「──…………」
「んで、なんとなくそれをメモったら、いつの間にか日記になってました」
なんだか照れ臭くなって、痒くもない頭を掻いた。
「……◯◯、にっき、よんでみていい?」
「最初から?」
「うん」
全部は無理だと思うけど。
なにしろ、毎日毎日増えていくものである。
チェアを譲り、うにゅほの頭を撫でた。
「──…………」
PCが使えなくなってしまった。
読書する気分でもなかったので、リビングのソファで眠くもないのに昼寝をしていると、うにゅほがふらふらと現れた。
「……いっかげつぶん、よんだ」
「おつかれさん」
残り三十二ヶ月ぶんである。
「全部読まなくていいんだからな」
「うん……」
たまに、今日みたいな遊びをすることができれば、それだけで十分に価値がある。
これからも可能な限り書き続けていこう。



2014年8月24日(日)

友人の恋人から、うにゅほ宛ての荷物が届いた。
うにゅほのことを気に入ってくれているらしい彼女は、いろいろなものを送りつけてくれやがる。
「わあー……」
「待て」
開封されかけたレターパックを取り上げる。
「?」
「検閲するから、すこしだけリビングで待っててくれな」
「わかった」
小首をかしげながら、うにゅほが自室を後にする。
「──……よし」
うにゅほは、友人の恋人のことを「へんなものをくれるひと」と認識しているようだが、事実は違う。
正確には「対処に困るものを送りつけてくる人」である。
悲劇のエロトランプ事件以降、俺は、彼女のことを信用していないのだ。※1
「──…………」
検閲の結果、
・白人女性の服が透けるボールペン
・卑猥なキーホルダー
の、ふたつが発見された。
こんなもんどこに売ってんだよ、ほんと。
反応に困るし、隠し場所にも困るし、うにゅほには見せられないし、もう勘弁してください。
「××、いいぞー……」
「はーい」
ぐったりしながら、検閲済みの包みをうにゅほに手渡した。
がさごそ。
「あはは、なんだこれー」
うにゅほが手にしたのは、「2014」の「0」と「1」の部分がレンズになったメガネだった。
「あー……」
懐かしいような、そうでもないような。
「……昔さ、こういうメガネが流行ったことがあったんだ」
「ふん」
「たしか、ミレニアムメガネだかなんだかって名前だった気がするんだけど……」
「みれにあむ?」
「1999年から2000年に繰り上がったとき、
 真ん中のゼロふたつがレンズになったメガネを掛けてはしゃぐ人たちを、テレビで見かけた記憶がある」
「へんだね」
「変だな」
「へん!」
うへー、と笑う。
「それで、なにが言いたかったのかってーと……」
「?」
「──1の部分をレンズにできるなら、もうなんだっていいじゃん!」
ビシ!
2014メガネのブリッジに向けて、壊れない程度に手刀を入れた。
「◯◯、これかける?」
「掛けません」
「……んー、わたしもいいや」
検閲済みの品々でしばらく遊んでいたうにゅほだったが、そのうちに飽きて片付け始めてしまった。
一発ネタのあとに残るのは、捨てられない物品と虚しさのみである。

※1 2013年6月2日(日)参照



2014年8月25日(月)

とん、とん、とん──
階段を数段上がったところで、ふと気がついた。
「……体が軽くなってる」
「ほんと?」
うにゅほの顔が、ぱあっと明るくなる。
「くすり、まいにちのんでるからね!」
「××、飲み忘れたら怒るんだもんなあ……」
俺は、バセドウ氏病という甲状腺疾患を患っている。※1
死ぬほど疲れやすくなる病気──と認識していただければ、まず間違いはないだろう。
薬を欠かさず飲むことで、その症状が緩和されてきたようだった。
階段を下り、軽く飛び跳ねてみる。
「──うん、体重絞ったぶん、むしろ前より軽いかもしれない」
「なおった?」
「治ってはいないさ。でも、薬の飲み忘れさえなければ、普通の人とそう変わらない」
「そか……」
ほんのすこしがっかりした様子のうにゅほを見かね、言った。
「今なら、××おんぶして階段上れるぞ」
「えー」
うにゅほが眉をひそめる。
「むりしたらだめだよ」
「無理じゃないって」
背中を向けて膝を折ると、うにゅほが素直に体重を預けてきた。
すこし重くて、あたたかい。
うにゅほの両足をがっちりと固定して、
「よし、行くぞー!」
「おー!」
なんだかんだで楽しそうである。
そして、眼前に伸びる階段を──

──タタタタタタタタタタッ!

無呼吸で一気に駆け上った。
「すごい、すごい!」
うにゅほが、ぱちぱちと両手を打ち鳴らした。
「──……ふ……」
無言でうにゅほを下ろし、弾みそうになる呼吸を押さえつける。
「だいじょぶ?」
「……瞬発力、は、問題ない……、問題は、持久力……──」
そして、持久力はもともとないのであった。

※1 2014年6月27日(金)参照



2014年8月26日(火)

「──さばばばぶぶぶ、ぶ、ぶ」
「さば?」
「さぶい!」
久し振りに会った友人と家の前の公園で語らっていたところ、全身が冷えきってしまったのだ。
日没後の半袖は、もうつらい。
夏も終わりである。
「てーだして」
「はい」
うにゅほが俺の右手を握る。
「つめた!」
「だろ」
「あったかくしないとだめだよ」
そう言って、押し入れから取り出した半纏を羽織らせてくれた。
「あったかい?」
「多少……」
「おゆわかしてくる」
「春雨スープ?」
「うん」
至れり尽くせりである。
「はー……」
吐息で手のひらを暖めながら、つくづく俺は幸せものだなあ、と思った。
こんな些細なことですら、心配してくれる人がいるのだから。
ほっこりしていると、うにゅほが戻ってきた。
「てーだして」
「はい」
先程と同じように右手を差し出すと、うにゅほが、両手をすりすりと擦り合わせてくれた。
「おゆわくまで、これでがまん」
「──…………」
やはり、俺は幸せものである。



2014年8月27日(水)

「とうとう買ってしまった……」
「かっちゃったねえ」
自室の真ん中にでんと置かれたダンボール箱を撫でながら、互いに苦笑しあう。
手回しシュレッダーのハンドル紛失事件から一ヶ月以上が経過し、不要な書類が溜まっていた。※1
そこで、とうとう電動シュレッダーの購入に踏み切ったのである。
「××、すごいぞ」
「?」
「このシュレッダー、同時に五枚まで細断できる!」
「おー」
「手回しなんて、一枚一枚差し込んで、一枚一枚ぐるぐるぐるぐる……」
「あれつかれるもんねえ」
「よし、要らない書類を一気に五枚行ってみよう」
「うん」
ずごごごごごごご──
「ヴぉー、すげえ!」
「すごい」
「しかも速い!」
「はやい」
「そして、こんなに細かく!」
「ほんとだ」
いま思い出してみると、俺とうにゅほの温度差が半端ではない。
うにゅほにはシュレッダーを使う用事がまずないのだから、あまり興味がないのは当然と言えば当然だろう。
「やー、ケチらないで最初から電動のを買ってればよかったなあ」
「まえのしゅれっだー、いくら?」
「あれで二千円だったかな」
「これいちまんえん」
「そう」
値段は五倍だが、性能にはそれ以上の差がある。
「まえの、すてる?」
「ハンドルが無ければ、ただフタの重い小箱だからな……」
「……ハンドル、どこいったんだろねえ」
「そうだなー……」
数年後くらいに、絶対に考えられないような場所からひょいと姿を現しそうだ。
「どこから出てくるか、ちょっと楽しみだな」
「うん」
探す必要がなくなったので、のんきなものである。
個人的には、リビングのPC付近が怪しいと睨んでいるのだが。

※1 2014年7月19日(土)参照



2014年8月28日(木)

「か!」
「……?」
うにゅほの指の先を視線で辿ると、大きめの蚊がふらふら飛んでいた。
腰を上げ、網戸を確認する。
案の定すこし開いていた。
「すわれたらあぶない……」
そう呟くと、ソファの上で膝を抱き、ぎゅっと丸くなった。
うにゅほは蚊に刺されると腫れる体質なのである。
「よく知らないけど、大きいからオスかもしれないぞ」
「ふうん……」
だからなに、と言いたげだ。
「蚊は、産卵期のメスしか血を吸わないんだよ」
「そなの?」
「そうなの」
「……なんにせよ、どうにかしないと落ち着かないな」
「うん……」
キンチョール☆に目を向ける。
細身で体重の軽い蚊であれば、暴れて大惨事になる心配もないが、その代わり噴射の勢いでどこかへ飛んで行きそうだ。
どうしようかと迷っていたとき、当の蚊が眼前を通りかかった。
ぱし。
無意識に掴み、手を開く。
「おお……」
そこに、蚊の死骸があった。
「すごい!」
興奮気味のうにゅほに、容易いことだとばかりに不敵な笑みを向け、ティッシュで手のひらを拭い取った。
むろん、たまたまである。
「やってみたい」
「まず、標的がいないと──」
「か!」
うにゅほが天井を指さす。
ちいさめの蚊が、シーリングライトの周囲をぐるぐると回っていた。
二匹、入り込んでいたらしい。
「よーし……」
ソファの上に立ち、うにゅほが天井を仰ぐ。
まあ、無理だろう。
キンチョールを手に取ろうとして、
「えい!」
ぱし。
「あ、できた」
「……マジ?」
「まじ」
うにゅほの右手の上で、バラバラになった蚊の死骸が潰れていた。
「てぃっしゅ、ティッシュ」
「ああ、ほら」
もしや、俺たちの反射神経は、常人のそれを遥かに凌駕しているのでは──
などとは一瞬たりとも思わない、運動音痴の俺たちだった。



2014年8月29日(金)

「ちょっと、飲み物買ってこうか」
「うん」
ヤマダ電機へ向かう途中、ローソンへと立ち寄った。
健康を考えて野菜生活を手に取る。
うにゅほは、見覚えのないほっそりとしたペットボトルを両手で握り締めていた。
「内容量少なそうだなあ」
「しんせいひんだって」
「俺にもひとくちな」
「うん」
会計を済ませ、ミラジーノに乗り込む。
ぷし。
炭酸飲料特有の開封音がして、
「──けん! けん!」
慌てて助手席を見ると、うにゅほが思いきり咳き込んでいた。
「え、どうした!」
うにゅほの背中を撫でる。
「けん! けん! こほっ! これ、へん、……ケン!」
ペットボトルを受け取り、商品名を読み上げる。
「レモンビネガー、スパークリング……」
つまり、レモン酢を炭酸水で割ったもの、ということらしい。
すん、と飲みくちを嗅いでみる。
「──うあ、思った以上に酢だな」
「す?」
「ほら、酢飯作るときに嗅いだことないか?」
「……あ、おすだ!」
自分がどうしてむせたのか、ようやく理解できたようだった。
「なんでそんなのうるの……」
「健康にいいって、酢を飲む人もいるからなあ」
「ゔー……」
仕方ない。
「ほら、口直しに野菜生活飲め」
「ありがと」
「こっちは、まあ、俺が始末するよ。飲めないことはないし」
「だいじょぶ?」
「好きではないけどな」
苦笑し、レモンビネガースパークリングをひとくち飲んだ。
「──…………」
香りだけでなく、後味も、思った以上にビネガーだった。
好きにはなれそうにない味である。



2014年8月30日(土)

「あちいねー……」
「暑いなあ」
八月の終わりの酷暑。
それは、夏の最後の足掻きであるように思われた。
「んえー……」
扇風機の前に陣取り、うにゅほが犬のように舌を出している。
なにをしたいのか、よくわからない。
しばらくして、
「あー」
口を開いたまま、俺の傍へとやってきた。
「ひははーいは」
「──…………」
言ってることはわからないが、言いたいことはわかる。
「舌を乾かしてたのか」
こくりと頷く。
「なんで?」
「?」
小首をかしげる。
意味なんて、特にないのだろう。
「えー」
うにゅほが自分の舌を指さす。
触れと言いたいらしい。
人差し指をティッシュで拭い、うにゅほの舌に触れた。
たしかに乾いていた。
そして、やわらかめのグミのように、ぷにぷにと形を変えた。
うにゅほの舌をつまみ、
「えれー……」
離す。
「え」
舌をつまみ、
「えれー……」
離す。
「え」
面白い。
しばらく遊んでいると、口を閉じられてしまった。
「おわりー」
すこし残念である。
「つぎ、◯◯ね」
「……俺もやるの?」
「うん」
仕方がない。
扇風機に顔を近づけ、思いきり舌を出した。
「──…………」
自分は、なにをしているのだろう。
ひどく暑い日のことだった。



2014年8月31日(日)

「今日で八月も終わり──、か」
カレンダーを横目に、俺はそう呟いた。
「さんじゅういちにち?」
「そう」
「に、し、む、く、さむらい、じゃないほう」
「よく知ってるなあ」
「うへー」
照れたような笑顔を浮かべるうにゅほを前にして、罪悪感を覚える。
今年の夏は、本当にどこへも行かなかった。
涼しいからとプールへ行かなかったし、
持病が再発してバイクにも乗らなかったし、
町内会の夏祭りでは、雨で盆踊りが中止になった。
墓参りの際に寄ったメロン農家で黒猫をモフったことくらいしか、夏の思い出と呼べるようなものはない。
「……××、どっか行こうか」
「いく」
即答である。
「でも、思いつきで適当に回るのもなあ」
「たのしいよ?」
「楽しいけど、こう、夏の思い出になるようなことをしたいんだよ」
「うと……」
うにゅほの首が徐々に傾いでいき、
かくん、
と元の位置に戻った。
なにも思いつかなかったらしい。
「あ、ドラえもんの映画観に行こうか」
ナイスアイディアとばかりにうにゅほの顔を覗き込むと、
「──…………」
なんだか微妙な顔をしていた。
「うーと、あれ……」
「気乗りしない?」
「あれ、なんかへん……」
映画「STAND BY ME ドラえもん」は3DCGにより製作されており、キャラクターデザインが従来とはかなり異なる。
うにゅほは、そこに違和感を覚えているのだろう。
「……じゃあ、やめとくか」
「いく」
「え、行くの?」
「うん」
それでも、行かないよりは、行きたいらしい。
原作の泣ける部分を集めた作品だと聞いたので、いちおうポケットティッシュを持って行こうと思った。

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