>> 2014年6月




2014年6月1日(日)

「──あ!」
唐突に立ち上がったうにゅほが、うにゅ箱から伊達メガネを取り出した。
「もしかして、家計簿の話?」
「うん」
どうして伊達メガネを掛ける必要があるのだろう。
「今月、あんま自信ないなあ……」
旅行も行ったし、布団乾燥機も買ったし、出費の多い月だったように思う。
「でも、せんげつとおなじくらいだよ」
「そうなん?」
「ほら」
iPhoneの画面に円グラフが表示される。
「これ、しがつ」
「うん」
「こっち、ごがつ」
「あ、本当だ」
数百円ほどしか変わらない。
「くれじっとかーどがね、ぜんぜんだった」
「先月がおかしかったんだよな」
月間支出の三分の一って、いったいなにを買ったんだか。
「りょこうが、にまんえんちょっと」
「へえー、思ったほど使わなかったんだな」
「ふとんかんそうきとかも、にまんえんちょっと」
「ほうほう」
「これぬかしたら、すごいくろじ」
「おー」
「えらい、えらい」
頭を撫でられてしまった。
なんだ、その、かなり気恥ずかしい。
「ついでのコンビニも、はんぶんになったよ」※1
「うまい棒のおかげだな」
レシート片手に額面を打ち込むうにゅほの姿が気になって、ビーフジャーキーも買わなくなったし。
「けつろんとして、よいつきでした」
「はい」
「こんげつも、よいつきにしましょう」
「はい」
伊達メガネを奪う。
「あー」
「はい、そのキャラおしまい」
「うん」
残念そうに頷く。
なんか、そういう女教師的なものに憧れでもあるのだろうか。
そのままでいい、そのままで。

※1 2014年5月1日(木)参照



2014年6月2日(月)

「うぶ──……」
ふかふかの巨大クッションをギュウギュウに締め上げながら、うにゅほがソファに転がっていた。
「暑くないの?」
夏日である。
「あついー……」
「ジャンプと一緒にアイスも買ってきたけど」
「!」
うにゅほが、起き上がり小法師のごとく上体を起こした。
買ってきて正解だったようだ。
「歩いてきたから、ちょっととけてるかも」
「アイス、なに?」
「雪見だいふく」
「ちょうどいい、ちょうどいいよー」
計算通りである。
うにゅほの隣に腰を下ろし、緑色のフォークを差し出した。
「いいの?」
「いいよ」
帰り際に飲んでいたピーチティーがまだ残ってるし。
「いただきます」
はむ。
ほんのわずかに溶け出したバニラアイスを舐め取りながら、うにゅほが雪見だいふくをたいらげる。
「おいしいねえ……」
そうして目蓋を下ろし、満足そうに息を吐いた。
「はい、◯◯」
「おう」
容器を受け取り、ふたくちで完食する。
「おいしい?」
「ああ」
ビニールの蓋でフォークをくるみ、容器を捨てた。
「久し振りに食べたと思うけど、久し振りって感じしないなあ」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「あれ、あれににてる」
「うん?」
「あの、ひゃくえんの、きいろい、やらかいひゃくえんの、だいふく」
「あ、セコマのか」
「そう」
セイコーマートでしか売っていない、ふわふわ大福のことだろう。
「あれ、凍らせる前の雪見だいふくみたいな味するもんな」
「おいしい」
「食べたくなってきた……」
「ジャンプよも」
「そだな」
いつものように、ふたり並んで今週のジャンプを読んだのだった。



2014年6月3日(火)

「あ!」
食器を洗っていたうにゅほが、唐突に声を上げた。
「あー」
洗剤の泡を洗い流し、シンクの底にぐりぐりと指を突き立てている。
「なにやってんの?」
「ありいた」
「──……また?」
去年の今頃もアリに悩まされていたような。※1
外壁を伝わずに二階の台所へ至る経路が存在するらしいのだが、その特定はいまだできていない。
「あり」
「いい、いい、見せなくて」
手を洗うよう促し、おぼろげな記憶を辿る。
去年は──そう、アリの巣コロリっぽいものを台所に設置しまくったはずだ。
「……でも、効果が出るのが遅かったんだよなあ」
「そだっけ」
「アリがさっぱり容器に入らないから、中身を直接バラ撒いただろ」
「あ、そだそだ」
「そっちはそっちで続けるとして、なんか別のアプローチも試したい」
「どんなあぷろーち?」
「そうさなあ……」

一時間後──
「アリの巣殲滅作戦をここに開始する!」
「おー!」
麦わら帽子をかぶったうにゅほが勢いよく右手を上げた。
今回購入したのは、フマキラーのカダンアリ全滅シャワー液(2リットル)である。
アリの巣や行列にかけるだけで巣ごと殲滅できるらしい。
「わたしやる」
「2リットルだから、ちょっと重いぞ」
「だいじょぶ」
力こぶなら出てないけど。
「……う」
よたよたとフタを開き、恐る恐る容器を傾ける。
角度と勢いが足りなかったのだろうか、
「うぁー!」
シャワー液がだらだらと流れ出し、うにゅほの両手をしとどに濡らした。
「へんなにおいするう……」
「嗅いでないで洗う!」
「はい」
かぶれなければいいんだけど。
アリの巣らしき穴、アリがいそうな場所に、ところ構わずぶっかけまくり、とりあえず容器を空にした。
「これでだいじょぶ」
うにゅほが満足げに頷く。
俺もそう思いたい。
もしこれで駄目だったなら、ほんとどうすりゃいいものか。

※1 2013年6月1日(土)参照



2014年6月4日(水)

六月である。
真夏日である。
どうかしている。
あまりの暑気で億劫になったらしい祖母に家庭菜園の水やりを頼まれた。
「──よし、と」
よじれないようにホースを伸ばし、散水ノズルを持ったうにゅほに声を掛ける。
「水出すぞー!」
「はーい!」
蛇口を捻る。
「わー!」
うにゅほが、ノズルを天高く突き上げた。
人工の霧が白く煙る。
いきなりかよ。
「すずしー……」
「おい、俺も混ぜろ俺も!」
しばし夏の風物詩を楽しんだあと、真面目に水を撒くことにした。
「これトマト」
「……実、なってる?」
「まだだよ」
「この、ビニールで囲ってあるやつは?」
「なすび」
「なんで囲ってんの?」
「しらない」
ふるふると首を振る。
詳しいことは詳しいが、知らないこともあるらしい。
「あそこにある、小学生に根こそぎ折られたみたいな茎だけの物体は……」
「アスパラ」
「だったもの?」
「おかあさん、たまにしゅうかくしてる」
「そうなのか……」
ぜんぜん知らなかった。
我が家の男性陣は家庭菜園にノータッチである。
「あ、にじ!」
散水ノズルを掲げながら、うにゅほが声を弾ませた。
「どれどれ」
「ほら!」
西日に背を向け、うにゅほの肩に両手を置く。
「おー、まるいな」
「うん!」
虹を作り出す──というより、隠れていた虹を見つけ出しているような感覚だった。
「きれいだねえ……」
「ああ」
こんな暑い日には、水やりも悪くない。



2014年6月5日(木)

「──◯◯、なんかとどいた」
「お!」
うにゅほの矮躯では一抱えほどもあるダンボール箱を受け取り、送り主を確認する。
「よしよし」
待望のものであるようだ。
「なにー?」
「ヒント、食べものです」
「なんだろ……」
「開けたい?」
「あけたい」
引き出しからハサミを取り出し、うにゅほに渡す。
おぼつかない手つきでダンボール箱を開くと、味も素っ気もないビニールパックがよっつ出てきた。
「……びーふじゃーきー?」
「そう、ビーフジャーキーだ」
「びーふじゃーきー、たかいよ」
うにゅほが半眼でこちらを見上げた。
「ノン、高いからこそネットで買ったのだよ」
「やすいの?」
「800gで3000円」
「……やすいの?」
「コンビニとかスーパーで売ってるやつの、だいたい半値くらいだな」
「やすい」
「安いだろ」
「そんなにたべたかったんだ……」
ビニールパックを抱え上げ、うにゅほがそう呟いた。
「食べたかったのは間違いないけど、それだとすこし語弊がある」
「?」
「ビーフジャーキーは、極めて優秀なおやつなんだよ」
パックを破り、ジャーキーをひときれ取り出す。
「まず、低脂質で高タンパクである」
「ていししつ」
「食べても太らないってことだな」
「あまくないけど……」
「それじゃ、俺が甘いものしか食べない人みたいじゃん」
「──…………」
何か言いたげなうにゅほを無視し、続ける。
「次に、少量で長持ちする」
「かみきれないから?」
「そうだな」
自然と水分を補充するようにもなるし。
「最後に──」
「むぶ」
うにゅほの口にビーフジャーキーを押し込み、言葉を継いだ。
「アゴが疲れるから、絶対に食べ過ぎない」
「──…………」
むぐむぐと咀嚼しながら、うにゅほが幾度か頷いた。
「美味しい?」
「……んぐ、ふつう」
「普通かー」
まあいいや。
これだけあれば、半月はもつだろう。



2014年6月6日(金)

母方の祖父が危篤に陥った。
「──◯◯、喪服はある?」
「ああ」
「いつでも行けるように、用意だけはしておいて」
「わかった」
「××は、私の予備でいいとして──……」
甲斐甲斐しく動く母親の姿が、痛々しく見えた。
「それじゃ、私、行ってくるから」
「行ってらっしゃい」
「──…………」
うにゅほとふたり、母親を見送った。
「ね」
くい、と。
人差し指を引かれた。
「わたしたち、いかないの?」
「行かない」
「なんで?」
「……なんでだろうな」
いつ死んでもおかしくない。
いつまで生きているか、わからない。
なら、祖父が死ぬまで病床に張り付いているべきなのか?
「──…………」
指を掴む手が、離れた。
「本当に危なくなったら、母さんから連絡が来るよ」
「──…………」
「そしたら、行こうな」
「……うん」
正直に言おう。
俺は、うにゅほを、祖父の死に目に立ち会わせたくない。
十指に満たない程度しか会ったことのない「おかあさんのおとうさん」。
遠いようで近い他人。
近いようで遠い親類。
その関係を保ったまま、永遠に離れ離れになってほしい。
死がある。
すぐそこに。
だから、俺は、うにゅほの目を塞がなくてはならない。
そう決めていたんだ。
「意識はあるらしいから、母さんが行ったら元気になるよ」
「……そかな」
「ああ」
嘘をつくのに躊躇いはない。
本当だとしても、時間の問題だ。
せめて、願う。
速やかに、穏やかに、まどろみのうちに終えることを、願う。



2014年6月7日(土)

チェアにだらしなく座りながら新書を読んでいると、デフォルトの着信音がiPhoneから鳴り響いた。
階下の弟からだった。
「あん?」
『兄ちゃん、××、兄ちゃんのこと呼んでるよ』
「──……?」
たしか、シャワーを浴びに行ったはずだけど。
『なんか泣きそうだから、急いで行ってやって』
「え、風呂場?」
『そう』
通話を切り、駆け足で階段を下りると、
「──……ぃー……」
弱々しく情けない声が耳朶に触れた。
こんこん。
脱衣所の扉をノックし、うにゅほに声を掛ける。
「どうした、呼んだかー?」
「◯◯ぃー……、あかなくなったー……」
「風呂場のドア?」
「うん……」
「ちょっと入るぞ」
脱衣所に足を踏み入れると、
「うあ」
中折ドアの磨りガラス越しにうにゅほのシルエットが見て取れた。
「××、下がって下がって」
「……?」
うにゅほが一歩、後ろに下がる。
ほっと胸を撫で下ろした。
「開かないって、建て付けでも悪くなったかな」
ドアの取っ手を掴み、強く前後に動かしてみた。
「──…………」
違う、気がする。
建て付けのような偶然ではなく、あからさまな用途を感じる手応えだった。
「××」
「うん」
「ドアの上か、下か──とにかく、鍵みたいなのってないか?」
「かぎ──……、あ!」
あったらしい。
恐らく、なにかの拍子にロックが掛かってしまったのだろう。
慌てて脱衣所から退避すると、がらがらとドアの開く音が背後で響いた。
「あいた!」
「よかったな」
「◯◯、ありがと!」
「はいはい」
自室へ戻る前に、弟の部屋を訪ねた。
「お前、これくらいなあ……」
「……妹が風呂入ってるとこに突入する勇気が」
「俺はいいのか」
「べつにいいでしょ」
「あー……」
同じ部屋で暮らしているわけだし、今更ではある。
解決はしたわけだし、よしとしよう。



2014年6月8日(日)

祖父が亡くなった。
そう告げると、うにゅほは、きょとんとした表情で口を開いた。
「おじいちゃん、しんだ?」
「ああ」
「──…………」
とす。
うにゅほが、ソファに腰を預け、天井を見上げた。
呼吸が深い。
なにを思っているのだろう。
実感はない。
俺にだって、ない。
祖父の死という事実だけで涙を流すほど、近くはなかったはずだ。
なにも感じないほど、遠くはなかったはずだ。
だから、俺は、知りたいと思った。
「──……××」
「?」
さらさらとした髪の毛を指のあいだに通しながら、問う。
「悲しい?」
「──…………」
しばし思案し、ふるふると首を振った。
「悲しくない?」
「わかんない」
「そっか」
そうだろうな。
「◯◯は、かなしい?」
「──…………」
問い返されるとは予想していなかった。
「悲しい──と、思う」
「そか」
「──…………」
肉親の死に対する悲しみには、いくつかの成分があると思う。
二度と会えないこと。
死、それに伴う苦痛を、憐れむこと。
故人の占めていた場所が、がらんと空いてしまうこと。
「悲しいかどうか、ほんとはわからないけど──」
うにゅほの頭に手を置いた。
「……嫌だな。誰か、死ぬのは」
「うん」
胃の奥から迫り上がる冷たいものを押し込めて、言った。
「お通夜、明日だってさ」
「うん」
「泊まりになるってさ」
「うん」
「さよなら、言おうな」
「……うん」
死ぬのも金がかかる。
知人の誰かが言っていた台詞を、なんとなく思い出していた。

※ 明日の日記は更新できない可能性が高いです



2014年6月9日(月)
2014年6月10日(火)

日記として綴れることは、実を言うとあまり多くない。
享年95歳の大往生であったためか、祖父の葬儀は終始和やかに、つつがなく行われた。
母親は気丈だった。
うにゅほは、ずっと、母親の傍に寄り添っていた。
ひどく珍しいことに、寝泊まりした場所も俺とは別々だった。
両親とうにゅほは斎場に宿泊し、俺と弟を含む従兄弟連中は祖父母の家で飲み明かした。
誰の隣にいるべきか、ちゃんとわかっていたのだと思う。
翌日の告別式では、ひどく気分が悪かった。
二日酔いと睡眠不足が祟ったのは疑いようもないが、それにしても全身が熱く火照っていた。
風邪かな、と思った。
荼毘に付された祖父の遺骨を前にしたとき、さらに目眩がひどくなった。
父方の祖父のときも、愛犬のときも、あるいは別の親族のときも、幾度か目にしたはずの光景だ。
体調の悪化を不思議に思いながら、遺骨を骨壺に収めている親族たちに背を向けて、ひとり待合室で横になった。
「──…………」
深呼吸をする。
喉が渇いていた。
「……◯◯」
うにゅほの声に、薄目を開けた。
「ぐあいわるい?」
「悪い」
「そか」
俺の傍に腰を下ろし、ぽんぽんとふとももを叩く。
「ん」
「──…………」
ちょっと恥ずかしかったが、厚意に甘えることにした。
「あさから、ぐあいわるそうだった」
「わかるか」
「わかるよー」
「……飲み過ぎたかな」
「おさけのんだの?」
「すこしな」
すこしじゃないけど。
うにゅほが、俺の前髪を掻き分け、そっと額に触れた。
「あつい」
「なんか、熱っぽいんだ。風邪かな」
「んー……」
しばし思案し、うにゅほが口を開いた。
「◯◯、ないてないから」
「──……?」
よくわからなかった。
「◯◯、かなしいとき、ぐあいわるくなるから……」
「あー……」
そうかもしれないな、と思った。
体質か病気かはわからないが、精神状態が体調に直結してしまうことが多々あったからだ。
「じゃあ、俺は、ちゃんと悲しかったんだな」
「うん」
頬に冷たい手が触れる。
「◯◯は、ちゃんと、かなしかったんだよ」
なんとなく安心し、目蓋を下ろした。
そのまま具合が戻らなかったので、俺と弟とうにゅほだけすこし早めに帰宅した。
明日からは日常である。
疲れたので、今日はさっさと寝ることにしよう。



2014年6月11日(水)

「ほら、お前の」
「どあ!」
父親が指で弾いた硬貨を、慌てて両手でキャッチした。
「──……?」
それは、焼け焦げた十円玉だった。
「爺ちゃん焼いたとき、棺桶に入れたやつな」
「あー」
葬儀社の職員に促されるまま、慌てて小銭を取り出した記憶がある。
「お守りになるから財布に入れとけ」
「──…………」
罰当たりではあるが、十円玉が一枚足りないときなどに、つい使ってしまいそうな気がする。
「おとうさん、つかったらだめ?」
うにゅほが尋ねた。
「知らん」
いっそ男らしい返答を残し、父親は階下へと去って行った。
太陽に透かすように、十円玉を掲げる。
「べつに、肌身離さず持ち歩く必要もないよなあ」
「そなの?」
「俺も知らん」
「そか」
デスクの引き出しにでも仕舞っておけばいいや。
そう思い、十円玉をポケットに滑り込ませた。
「じゅうえんだま、つかわない?」
「使わない、使わない」
「──…………」
うにゅほがiPhoneを取り出し、家計簿アプリを起動した。
「ざっぴ、じゅうえん」
「細か!」
「?」
小首をかしげる。
「いや、なんでもない、なんでもない」
責任感が強いと言うか、完璧主義と言おうか、女性は現実的とでも言うべきか。
「──…………」
でも、自分で家計簿をつけていても、同じことをした気がする。
「……ちょっと似てきたのかなあ」
同じ部屋で暮らしているのだから、当然と言えば当然かもしれない。
嬉しいような、そうでもないような。



2014年6月12日(木)

「そーいえば、俺、息止めるのって苦手なんだよな」
「そなの?」
うにゅほと談笑していたとき、そんな話題になった。
「小学生のころ、風呂にもぐって試したとき、十七までしか数えられなかった覚えがある」
「みじかいねえ」
くすくすと笑う。
「さすがに今は、もうすこし耐えられると思うけどな」
「はいかつりょう?」
「関係──……ありそうだけど、どうなんだろう。俺、肺活量多いほうだし」
「◯◯、おおそう」
「胸板で判断してない?」
息を止めると苦しくなるのは、酸素の欠乏ではなく、血中二酸化炭素濃度の上昇に起因するらしい。
なので、命に関わるほどの時間でなければ、肺活量はあまり関係なさそうな気がする。
「……吐いてから止めればいいのか?」
いや、まさか。
そういうことじゃないだろう、たぶん。
「××、ちょっと競争してみるか」
「する」
「じゃあ──」
顔を上げ、壁掛け時計を視線で示す。
「秒針が12を過ぎたらスタートな」
「うん」
うにゅほが、鼻息荒く頷いた。
「──…………」
「──……はー……」
思いきり息を吐き、
「!」
止めた。
スイープ秒針が、時計盤の縁を滑らかになぞっていく。
五秒、
十秒、
十五秒、
二十──
「ぶはあ!」
うにゅほが息を吐き出した。
「短っ!」
思わず突っ込んでしまった。
「はー、はー……」
「大丈夫か?」
「はいはつりょ、ない、から……」
知ってた。
小学生のころの俺といい勝負である。



2014年6月13日(金)

「──……うぶ」
口のなかの粉っぽい液体を無理矢理に飲み下す。
「まっず!」
「ぷろていん?」
「そう……」
体重管理のため、ふと思いついたときにプロテインを飲んでいる。
「あれ、おいしかったよ?」
俺は、味を追い求める男である。
微妙なバニラ味のプロテイン大さじすり切り2杯に対し、
きな粉小さじ1杯、
ココア少々、
牛乳200ccを注ぎダンサブルにシェイクする。
すると、家族の誰もが認めるほどのグッドテイストなドリンクが出来上がるのだ。
「……あのプロテインが、切れたんだよ」
「あたらしいのかったよね」
「コスパの良さに屈さず、同じ味のを買っておけばよかったんだ……」
「まずいの?」
「──…………」
うにゅほに無言でシェイカーを渡す。
んく。
うにゅほの喉が鳴った。
「あー……」
「な?」
「なんか、すっぱい」
「そう、なんかケミカルな酸味があるんだよ」
「でも、まずくないよ?」
「まじで?」
「まずくない」
そう言って、またひとくち。
「……美味しい?」
「おいしくは……、ない」
そうでしょうとも。
「やっぱ、作り方を根本的に変えないと駄目だな」
「そうかも」
「ほんと、いつものバニラ味にしとけばよかった……」
「これ、なにあじ?」
「サワーミルク」
「さわーみるく?」
「そう、サワーミルク……」
グリコよ、何故ミルクにサワーを混ぜた。
美味なるプロテインドリンクを追い求める旅が、いま始まる。



2014年6月14日(土)

「──これより、実験を執り行う」
「わー」
いまいち鳴りの悪い拍手が台所に響いた。
グリコからの刺客であるサワーミルク味のプロテインをなんとか美味しく飲んでやろうという意図である。
「いろいろかったねえ」
キッチンにずらりと並べられた購入物を、うにゅほがつんつんと指先でつつく。
「単純に考えて、方法は二通りあった」
「ふたとおり?」
「サワーミルクのケミカルな酸味を、隠すか、活かすかだ」
「ほー」
「まず、隠すほうから行ってみよう」
「どうするの?」
「こうする」
少量の粉末プロテインの上に、入れ過ぎかなと思うくらいココアときな粉を投入した。
最後に牛乳を流し入れ、腕が疲れるまでシェイカーを振りまくる。
「名付けて、ココアの単純火力作戦」
「あまそう」
ひとくち飲んでみた。
「……濃すぎるな」
「あまい……」
「もうすこし薄めてみよう」
牛乳を追加する。
「おいしい」
「味は悪くないけど、小さじ1杯のプロテインのためにこの量を飲み干すのはなあ……」
逆に太りそうだ。
「ぷろていんおおくしてみたら?」
「そうだな」
粉末プロテインを追加し、再びシェイクする。
「──うあ、もう酸味が主張してきた!」
「へんなあじする」
「ふむ、抹茶オレでも試してみよう」
「うん」
試行錯誤の結果、調味料の大量投下以外の方法で酸味を消すのは難しいことがわかった。
「……そんな気はしてたんだよなー」
「そなの?」
「だから、予防線を張っておいたんだろ」
どん!
1.5リットルのペットボトルを天板の上に置いた。
「カルピスだ」
「あと、こっちも」
どん!
「のむヨーグルトだ」
「これ混ぜたら行けると思う」
「のむヨーグルト、のんだことない」
「飲んでもいいよ」
「うん」
うにゅほが飲むヨーグルトに恐る恐る舌を伸ばしている間に、粉末プロテインとカルピスとの混合溶液が完成した。
「──…………」
ひとくち飲んでみる。
悪くない。
「飲むヨーグルトは置いといて、こっち飲んでみて」
「うん」
うにゅほにシェイカーを渡す。
くぴ。
「あー」
「どうだ?」
「おいしい」
「飲むヨーグルトだけと、どっちが美味しい?」
「こっちがおいしい」
「よし!」
小さくガッツポーズをする
プロテインを常飲していないうにゅほの舌はあまり関係ないのだが、それはそれで達成感がある。
「これにて実験は成功である!」
「わー」
ぺちぺちという気の抜けた拍手と共に、美味なるプロテインドリンクを追い求める旅は終わりを告げたのであった。



2014年6月15日(日)

スーパーマーケットからの帰り道でのことである。
「──ちちのひは、くつのひ。
 むりょうらっぴんぐうけたままります」
「……?」
信号待ちをしていたとき、助手席のうにゅほがなにやら呟いた。
視線を辿ると、すぐにわかった。
とある靴屋の店先に、そのキャッチコピーがでかでかと貼り出されていたのだ。
「あー、父の日だからな」
「うー……、と?」
うにゅほが小首をかしげる。
「くつ、おくるの?」
「靴屋としては、そうさせたいんだろうさ」
「どやって?」
「どうやってって、靴を選──……、ん?」
違和感に気づいた。
「サイズ知ってても、フィッティングしないとまずいよなあ」
「ふぃっていんぐ?」
「ほら、実際に履いて」
「あ、それ」
うんうんと頷く。
プレゼントの靴で靴ずれなんて、贈ったほうも笑えない。
「実際に父親を連れてきて、一緒に選ぶのが妥当なとこか」
「そだね」
信号が青になったことを確認し、アクセルを踏んだ。
「むりょうらっぴんぐ、いみないね」
「あー……」
自分へのプレゼントを目の前でラッピングしてもらう人なんて、そうそういるとは思えない。
「サンダルとかを贈ればいいんじゃないか?」
「なるほど」
「ま、うちはこれで十分だけどな」
うにゅほの膝の上にあるビール6缶パックを、指先でトントンと叩いた。
「そだねー」
母の日に高価な夫婦茶碗を贈ったのだから、父の日は安物で構わないのである。※1
ともあれ、これでプレゼントラッシュも落ち着いた。
次は、十月にあるうにゅほの誕生日かな。
今年はなにを贈ろうか。

※1 2014年5月11日(日)参照



2014年6月16日(月)

昨夜、午前一時過ぎのことである。
「ただいまー……、っと」
些細な音も立てないよう、玄関扉をゆっくりと開いていく。
「……おかえりなさい」
「ふ↑おッ!」
予想だにしていなかった出迎えに、思わず声が裏返った。
うにゅほが、上がり框に腰を下ろしていたのだった。
「おかえりなさい」
「た、ただいま……」
うにゅほの声が低い。
若干眉根が寄っているように見える。
「……怒ってる?」
「おこってないです」
完全にぶーたれていた。
たとえ行き先が近所のコンビニであっても、深夜に外出するときは、うにゅほを起こす約束をしていたのである。※1
「……いなかったから、びっくりした」
「すいませんでした……」
でも、往復で十分弱の外出のために、いちいちうにゅほの安眠を妨げるのもなあ。
「なにかったの?」
「ジャンプ、と──」
「さんぽのとき、かうとおもってたのに……」
「すいません……」
「……と?」
「それと、甘いものが食べたくなったんで、ローソンのピュアプリンを」
「はんぶん」
「大丈夫、ふたつ買ってきたから」
「はんぶん!」
「はい」
寝起きでまるひとつは多かったのだろうか。
本当は、甘えたいだけだと思うけど。
「こんど、おこしてね?」
「はい……」
「かけいぼつけた?」
「つけました」
つけておかないと、月末にバレるかと思って。
「よろしい」
うにゅほが腰を上げ、くるりと踵を返した。
「ねむくなるまでジャンプよむ」
「はいはい」
と言いつつ、プリンを食べ終わったあと、すぐにうとうとし始めてしまったうにゅほである。
そんなわけで、ジャンプは起きてから読んだのだった。

※1 2013年1月21日(月)参照



2014年6月17日(火)

「やー、蒸しますな」
「ですなー……」
朝から小雨が降り続いていた。
風向きが悪く、窓を開けることができないため、気分までじめっとしてしまう。
「このまま、いつの間にか夏になってるんだろうなあ……」
北海道の夏は、短い。
夏が終わるより前に、秋が始まってしまう。
そして、すぐに冬が来る。
長い、長い、冬が訪れるのだ。
「──……いくらなんでも気が早いな」
「?」
「なんでもない、なんでもない」
目の前の夏を楽しもう。
あとのことは、あとで考えればいいのだから。
「わたし、なつすき」
「どうして?」
「うー……、と」
小首をかしげながら、うにゅほが思案する。
「……あつくて、たのしいから?」
具体的な理由は思い浮かばなかったらしい。
俺が苦笑していると、
「あ、あと、くつしたはかないでいい」
「××、靴下嫌いだもんな」
「すべるもん」
「まあ、俺も靴下そんな好きじゃないけどさ」
「すべるから?」
「いや、靴下って、履いてもすぐにずり落ちてくるだろ」
「──……?」
うにゅほの頭上にハテナが点灯する。
「……ずり落ちて、くるよな?」
「くるよ」
「な」
「でも、すぐじゃないよ?」
「えっ」
「えっ」
しばしの沈黙。
「えーと、ほら、見ててな」
「うん」
洗濯物の山から黒い靴下を取り出し、きっちりと履いた。
「で、足踏みするだろ」
「うん」
百歩ほど足踏みをし、ズボンの裾をめくり上げる。
「ほら、半分くらい下がってる」
「んー……」
だから、俺は靴下が好きになれないのだ。
「わたし、ずりおちないけど……」
「なんでだろ」
「たぶんだけど……」
うにゅほが俺の足を撫でる。
「◯◯、あしふといからとおもう」
「──……!」
なにかがカチリと嵌まる音がした。
なるほど、足首よりふくらはぎのほうが太いから、靴下がずり落ちてしまうのか。
長年の謎が解き明かされたが、特に嬉しくはなかった。



2014年6月18日(水)

「ね」
隣に座っていたうにゅほが、シャツの裾を引っ張った。
「◯◯、ういんくできる?」
「できるよ」
うにゅほの読んでいた四コマ漫画を覗き見ると、ちょうどそういう展開だった。
なるほどわかりやすい。
「やって」
「えー……」
できることはできるが、ハリウッド女優みたいに上手いわけではない。
「みたい」
「……笑うなよ」
うにゅほのほうへと向き直り、
「──……!」
片頬を引き攣らせながら、不器用なウインクをした。
「な?」
「わー」
ぱちぱちと響かない拍手を贈られた。
嬉しくない。
「××はできるのか?」
「やったことない」
「やってみ」
「はい」
うにゅほが両目をギュッと閉じた。
「──…………」
「……できてる?」
「見えてる?」
「みえて……、ない」
目蓋を開ける。
「四コマそのまんまじゃないか」
「できるとおもってた」
「舐めてたか」
「なめてた……」
「ごめんなさいは?」
「さとうさん、ごめんなさい」
「よろしい」
くすくすと笑い合う。
「どやったら、ういんくできるの?」
「え」
そんなこと訊かれても。
しばし思案し、
「……片目だけ閉じるよう、頑張る?」
そのままだった。
数分ほど練習させたところ、あっさりウインクを習得した。
やはり、ハリウッド女優には程遠いけれど。



2014年6月19日(木)

「──……◯◯、◯◯」
「んぉ」
ず。
ごく間近で、よだれをすする音がした。
「◯◯、おきた?」
「起きた」
読みさしのハードカバーが無残な姿でソファの下に転がっている。
読書中にうとうとしてしまったらしい。
「おばあちゃん、びょういんだって」
「おう」
ソファから足を下ろし、首筋を左右に伸ばす。
「なんか、変な夢見た……」
「どんなゆめ?」
「どんな──って、えー、ちょっと待って」
既に薄れ始めている夢の断片を掴み取り、なんとか言葉に変えていく。
「──まず、バンド組んでる友達が遊びに来たんだ」
「◯◯、バンドくんでるの?」
「組んだことないけど、夢ってそういうものじゃないですか」
「ふうん」
「で、うちの階段から地下23階まで下りて、とんかつ屋さんを──……これ面白い?」
「おもしろい」
面白いなら仕方ない。
訥々と語り続け、
「──で、透視能力って意外に不便だなって思ってたら、起きた」
「ふうん……」
「?」
うにゅほから、かすかなぶーたれの気配がする。
「どしたー?」
「んー」
首を振る。
「──……!」
あ、なんとなくわかった。
完全に眠りから覚めていたら、気づかなかった気がする。
寝起き特有の第六感──といったものが、もしかするとあるのかもしれない。
「俺、家族とか仲のいい友達とか、あんまり夢に出てこないんだよな」
「……そなの?」
「ずっと会ってない知り合いとか、そもそも知らない人とか、そんなんばっか」
「ふうん」
「××は近すぎるから、あんまり夢に見ないかな」
「ざんねん」
うにゅほが苦笑する。
すこしはフォローになっただろうか。
「××の夢に、俺は出てこないの?」
「んー……」
ゆらゆらと左右に揺れながら、うにゅほがじっと思案にふける。
「でたー、ことはー……、あるうー……、よ?」
「そっか」
具体的には思い出せなかったらしい。
夢なんて、そんなもんだ。



2014年6月20日(金)

「窯出し卵たっぷりプリンが食べたい」
「──……?」
プラスチックスプーンをくわえながら、うにゅほがこちらを見上げた。
「サンクスの、窯出し卵たっぷりプリンが食べたい」
「かたいやつ?」
「そう」
「いまプリンたべてるのに?」
オハヨーのなめらかカスタードプリンをスプーンで掻き込み、飲み下す。
「……むしろ、プリン食べたから食べたくなったというか」
「えー」
「面白い漫画を読んだら、同じ作者の別の漫画も読みたくなるだろ」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
自分で喩えておいて全然違うと思うけど、納得してくれたならいいや。
「だから、サンクス行こう。あと本屋も」
「いく」
うにゅほがプリンを食べ終えるのを待ち、車のキーを取ってサンダルを突っ掛けた。
サンクスに入店し、デザートコーナーへと足を向ける。
「──…………」
「──……おー」
そこに、とんでもないものがあった。
「大きな窯出し卵たっぷりプリン……」
「つうじょうのさんばい、だって」
「420円かー」

買った。

「よし、食おう食おう」
車内でプリンを開封する。
「だいじょぶかなー……」
「何が?」
「おっきいプリン、あんまし、にがかったし……」
「あー、ファミマのやつな」※1
ファミリーマートの「俺のプリン」は、後味が苦くて微妙だった記憶がある。
「こっちは単純に量が多いだけだから、大丈──……あっ」
「?」
「スプーンふたつ入ってる」
気の利く店員である。
大きな窯出し卵たっぷりプリンは、ふたりで食べても確かな満足感だった。
また買おう。

※1 2014年2月5日(水)参照



2014年6月21日(土)

「──……ん」
熱い。
布団からのそのそと抜け出ると、僅かに開いた窓から流れ込む外気に思わず溜め息が漏れた。
「あ、おきた」
うつ伏せで読書をしていたうにゅほが、背筋を反らすように上体を起こした。
「ぐあいわるい?」
「だるい……」
いつものに加え、すこし風邪っぽいかんじもする。
本格的に夏が来る前に、なんとか治してしまわなくては。
「すなっくぱいんあるよ」
「スナックパイン?」
「すなっくぱいん」
「なんだそれ」
「ぱいなっぷる」
「それはわかる」
「うーと……」
小首をかしげながら、うにゅほが思案する。
「パイナップルのお菓子?」
「ちがう」
違うのか。
「さくさくしててね、あまい」
「ドライフルーツ?」
「どらいふるーつ?」
「干し椎茸の果物版」
「ちがう」
「……じゃあ、パイナップルの品種なのか?」
「そう、ひんしゅ」
ああ、ようやく答えが見えてきた。
「メロンのあじがするんだよ」
「──…………」
遠くなった。
「……なに、メロンなの?」
「すなっくぱいん」
「パイナップルなんだよな?」
「ぱいなっぷる」
「──…………」
メロンっぽい味がするパイナップルって、パイナップルなのか?
「でね、かわのね、でこぼこしたのを、ちぎってたべるの」
「……皮を食べるのか?」
「かわはたべない」
「皮ごともぎって食べるのか」
「うん」
なんとなく正体が掴めてきた。
果肉が脆く、手で簡単に千切ることのできるパイナップルなのだろう。
「ちょっと食べてみたいかな」
「とってくるね」
小走りでリビングへ向かったうにゅほが、肩を落として帰ってきた。
「……ぜんぶたべちゃったって」
「あー……」
スナックパイン。
ちょっと気になるが、買ってまで食べたいとは思わない。



2014年6月22日(日)

「──よっ、しょ」
乾いた洗濯物を抱え、うにゅほが自室の扉を開いた。
「◯◯の、◯◯の、わたしの、◯◯の──」
作業テーブルの上に洗濯物の束を置き、慣れた手つきで選り分ける。
「──…………」
ちいさく折り畳まれたうにゅほの下着をぼんやり眺めていたとき、ふと気がついた。
「その甚平、俺んじゃないよ」
「これ?」
うにゅほが、浅葱色の和服を指さした。
「これ、◯◯のだよ」
「えっ」
そうだっけ。
いやでもここ数日のあいだに甚平を着た覚えはないぞ。
「じんべ、おじいちゃんのかたみなんだって」
「あ、そうなの?」
なるほど形見分けか。
そういえば、母親は、バンドが伸縮するタイプの腕時計を持ち帰っていたっけ。
「んじゃ、着てみようかな」
「うん」
生活スペースの奥に身を隠し、服を脱ぐ。
「……あれ」
着ている途中、気づいた。
「××、これ甚平じゃないよ」
「ちがうの?」
「作務衣だ」
「さむえ?」
寝室スペースに戻り、うにゅほの前でくるりと回る。
「……?」
きょとんとしている。
「じんべじゃないの?」
「作務衣」
「さむえって?」
「長袖長ズボンの甚平──って認識で、たぶんいいと思う」
起源を辿るといろいろ違うのだろうが、見た目の差異はそんなものだ。
「へえー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「◯◯のじんべ、わたしがきたら、さむえになるの?」
「あー……」
サイズ的にそうなるものな。
「……甚平として作られたんだから、甚平だと思う」
「そっかー」
言葉の定義は難しい。



2014年6月23日(月)

ソファに突っ伏してうとうとしていると、頭を撫でられる感覚があった。
目を開かなくとも、誰の手かわかる。
それがなんとなく心地よくて、そのまま意識の錨を下ろそうと──
「あ、ふけ」
「──…………」
すっと眠気が失せた。
「……フケ出てる?」
「でてる」
「どのくらい?」
「うーと……」
うにゅほの指先が、わきわきと髪を掻き分ける。
「金田一耕助くらい?」
「きんだいちしょうねん?」
「そのジッチャンな」
「ふうん」
あまり興味はなさそうだ。
「ふけ、おとす?」
「どうやって?」
「ばばばーっ、て」
頭上で、右手を激しく動かすような気配がした。
「飛散するからいいです」
「そだね」
「それに、汚いだろ」
「?」
「フケ」
「きたないの?」
「え、汚くないの?」
「わかんない」
「……汚いか汚くないかの二択であれば、汚いんじゃないか?」
「あ、しらが」
聞いてない。
まあ、ばっちいばっちいと嫌がられるより、ずっといいけれど。
「どこに生えてる?」
「まえのほうだよ」
指先で生え際をなぞられる。
「てっぺんにはないの?」
「てっぺんは──……、ない!」
「前だけかー」
戯れに髪の毛をいじられるのって、こんなに心地いいんだな。
よし、久し振りに、うにゅほの髪の毛で遊んでやろう。



2014年6月24日(火)

「ぶー……──」
仕事を終え、作業テーブルに突っ伏した。
「おつかれさまー」
「おーう」
タンブラーを受け取り、キンキンに冷えたペプシネックスをすする。
「しごと、おおかったの?」
「多かった、けど、それ以上にだるい……」
ここ数日ほど、けだるさがずっと続いていた。
風邪かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
嫌な持病が再発していそうな気配がする。
「……だぁ!」
「!」
ペプシを一気に飲み下し、立ち上がった。
「気分転換!」
「きぶんてんかん」
「散歩行こう、散歩」
「よるだよ?」
窓の外は、とっぷりと暗い。
「夜ったって、まだ九時だろ」
「くじはよるだよ」
「とにかく、いつもと違うことがしたいんです」
「うーん」
「気が乗らないなら、俺ひとりで──」
「いく」
言葉を遮られた。
ぶれない娘である。
とりあえず、最寄りのコンビニへ向かうことにした。
「──……はー……」
深く呼吸をすると、新鮮な空気に肺が歓喜した。
「──…………」
うにゅほが俺の腕を取り、もぞもぞと歩いている。
「暗いな」
「くらい……」
最寄りのコンビニへと通じる道路は、住宅街と住宅街とを繋ぐ細い田舎道だ。
橙色のナトリウムランプが両脇の木々を不気味に照らしている。
「──……う」
俺から見ればただの夜道だが、うにゅほにとっては心霊スポットとなんら変わらないらしかった。
別のコンビニにすればよかったかな。
「××、怖いときは空を見る」
「……そら?」
「空は怖くないだろ」
「うん」
「あとは、俺の腕を離さないように」
「はい」
そのまま数分も歩くと、うにゅほも暗い夜道に慣れたようだった。
ただ、ローソンの店内が眩しくて仕方なかったけれど。



2014年6月25日(水)

しばらく前から気になっていた餃子の王将へ行ってきた。
「へえー」
うにゅほが店内を見渡す。
「ぎょうざだけじゃないんだ……」
「ちょっとした中華料理チェーンってかんじだな」
案内された席に横並びで座り、メニューを開く。
「ね」
「ん?」
「きょくおうてんしんはん、だって」
「きょくおう……?」
うにゅほの指さした1枚メニューを見ると、「極王炒飯」「極王天津飯」の文字があった。
「お、美味そうだな」
「うん」
「ルビ、ごくおうって振ってあるけどな」
「ごくおう」
見るからに高級そうなメニューのわりに680円と手頃だったので、このふたつとエビチリを注文することにした。
「お待たせしましたー」
おばちゃん店員が、炒飯と天津飯を同時に運んできた。
エビチリは後から来るらしい。
「──ほっ」
スプーンを口にくわえながら、うにゅほが息を漏らした。
「ごくおうてんしんはん、おいひい」
呟きながら、またひとくち。
「ほムライスみたい」
「あー」
構成物は同じだもんな。
あーんしてもらうと、たしかに中華風オムライスといった味わいだった。
これで680円なら、安い。
「ごくおうちゃーはんは?」
「──……うーん」
口元を手で隠しながら、唸る。
「……食べてみるか?」
「うん」
大きく開けたうにゅほの口に、スプーンを差し入れる。
「──…………」
もぐもぐ。
「おいしい」
「まあ、美味しいんだけど……」
「?」
「俺にとっての炒飯の基準って、あの店だからさ」
そう言って、個人経営の中華料理店の名を出した。※1
「……あそこ、おいしかったねえ」
味を思い出そうとするかのように、うにゅほの口元がもごもごと動く。
「だから、少なくとも、あそこの炒飯よりは美味しくないってことになってしまうわけで」
「うん……」
炒飯にしなければよかった。
「またいきたい」
「ちょっと遠いからなあ……」
餃子の王将は悪くない。
あの中華料理店が美味しすぎただけである。

※1 2012年6月25日(月)参照



2014年6月26日(木)

「──手が熱い」
「?」
「指を鳴らしたら火が出るかもしれない」
「でるの?」
「出ない」
うにゅほのほっぺたを両手で包み、
「あ」
ぶにい、と押し伸ばす。
「あぷい」
「な、熱いだろ」
うんうん、と頷く。
「ねつありそう」
「あるだろうなあ」
「はからない?」
「測らない」
「うー……」
俺は、体温計不要論者である。
ただし風邪に限る。
よくわからないけど、基礎体温とかは測ったほうがいいと思います。
「××、心配しなくていいよ。病院行くから」
「いくの?」
「行く」
「よかったー……」
うにゅほが、ほっと胸を撫で下ろした。
心配性だもんなあ。
「かぜかな」
「風邪──……じゃ、ないと思う」
「?」
「嫌な予感、というか、確信があるんだ……」
「なに?」
「数日中にわかる」
かかりつけの病院で採血をし、帰宅した。
明日には結果が出る。
間違いなくあれだろう。
心配そうなうにゅほの頭をうりうりと撫でて、ソファに腰を下ろした。
薬が増えようと、もうなにも感じない。
不健康であることに慣れすぎてしまったのだろうな。



2014年6月27日(金)

「ばせどーしびょう?」
「バセドウ氏病」
「ばせどうしびょう」
「バセドー氏病でもバセドウ病でもいいんだけど、とにかくそれ」
血液検査の結果、再発が確認された。
家族として、うにゅほにも詳しい説明をしておかねばなるまい。
「……どんなびょうき?」
「えー、簡単に言うとだな──……」
視線を巡らせながら言葉を探し、
「──簡単に言うと、体が意味なく頑張っちゃう病気、かな」
「いみないの?」
「意味あって頑張ってるなら、ただの頑張り屋だろ」
「あー」
「首元にある甲状腺っていう器官から、壊れた蛇口みたいにホルモンがダダ漏れになってるわけだな」
「ホルモン?」
「食べないほうのな」
「うん」
わかってるのかなあ。
「車に喩えると、走ってないのにエンジンぶおんぶおん吹かしてる状態」
「ふうん……」
「すると、どうなると思う?」
「……ガソリンなくなる?」
「無くなるし、エンジンも焼けつくな」
「あ、だからてーあついの?」
「そうそう」
間違いではない。
「だから、なんもしてなくても疲れるし、だるい」
「そっかー……」
うにゅほの背後に回り、両肩に手を置いた。
「……××、ドラゴンボールって読んだことあるよな」
「ごくう?」
「そう。あれで、重力が何倍にもなる部屋が出てきたろ」
「でてきた」
「あれに似てる」
「にてるの?」
「俺だけ、1.5倍の重力室にいるみたい」
「──…………」
うにゅほが、青い顔で振り返った。
俺のつらさを具体的に想像してくれたのだろう。
「あの」
「大丈夫大丈夫。慣れてるし、薬もある。半月もすれば多少はよくなるよ」
「でも……」
「それに、恩恵もあるし」
「?」
「この病気って、痩せるんだよな……」
不健康この上ない痩せ方だが、メリットじみたものがあるだけましだと思おう。
「ほんとにきついときだけ、今みたいに肩貸してくれな」
「うん、うん、あげる……」
「……くれるの?」
「うん……」
何故か、うにゅほの肩をもらってしまった。
動揺しすぎである。
そのうち、この話を持ち出して、ちょっとからかってやろうと思った。



2014年6月28日(土)

「あぢぃ……」
自室の窓を全開にし、風を通しても、なお暑い。
「アイス食おう……」
ソファから腰を上げようとして、うにゅほに押しとどめられた。
「わたしもってくる。なにがいい?」
「なんでもいいよ」
残り僅かだったはずだから、選ぶ余地もない。
小走りで部屋を出て行ったうにゅほが、
「なかったー……」
肩を落として帰ってきた。
「……あー」
家族の誰かが食べたのだろう。
「しゃーない、買いに行くか……」
膝に手をつきながら、のそりと立ち上がる。
体が重い。
重力が1.5倍になったような──という表現は、我ながら正鵠を射ていると思う。
「──……あの」
くい。
シャツの裾が引かれた。
「わたしかってくる」
「……アイスを?」
「うん」
「ひとりで?」
「うん」
「──…………」
待て。
待て待て。
「え、大丈夫か……?」
「うん!」
うにゅほが自信満々に頷いた。
大丈夫、だ。
大丈夫のはずだ。
炎天下というほどではないし、コンビニまでの距離だってせいぜい1kmくらいのものだ。
買い物だって日常的にこなしている。
だのに、胸中で渦巻くこの不安はなんなのだろう。
「──……わかった、頼むよ」
「はい!」
財布を入れたポシェットを提げ、うにゅほは元気よく出掛けていった。
漠然とした不安を抱えながら、まんじりともせず待ち続ける。
「ただいまー!」
うにゅほが帰宅したのは、一時間近くも経ったころだった。
「おかえり──、って!」
「うへー」
両手に提げたレジ袋にいっぱいのアイスを詰め込んで、満足げである。
「すごい買ったな……」
「おもかった」
そりゃそうだろう。
「……えーと、ありがとな」
「うん!」
うにゅほの頬に手を添えて、親指の腹で目元を撫でた。
そして、冷凍庫に入りきらなかったアイスをふたりで食べきり、仲良く腹を壊したのだった。



2014年6月29日(日)

「ガツみかうめー……」
「うめー」
「××のはパインだろー」
「ふへー」
母親に似てか、うにゅほはパイナップルが好きらしい。
ガリ。
みかんの果肉を齧り取る。
「はー……」
それにしてもガツンとみかんは美味い。
赤城乳業、いい仕事をする。
「──そーいや、ガリガリ君あんま買ってきてなかったな」
うにゅほはガリガリ君ソーダ味が好きである。
好きと言うか、棒アイスではガリガリ君一択というイメージがある。
「あんましうってなかった……」
うにゅほが、ちょっと悔しそうに呟いた。
「そっか」
ガツンとみかんの数が相対的に増えたのなら、うにゅほには悪いが僥倖である。
ガリガリ君は好きだが、いささか食べ飽きた。
そんなことを考えながら齧り進めていると、
──カチッ。
「!」
なにか硬いものが歯に触れた。
口の中から、それを取り出す。
「……種?」
「たね?」
「ほら」
指先でつまんだ種を、うにゅほの眼前に差し出した。
「みかんのたねかな」
「ブドウの種だったらびっくりだな」
製造過程で混入したのだろう。
原材料の種なのだから、取り立てて気にすることもない。
丸い種を指で弾き、ゴミ箱に捨てた。
「あっ」
うにゅほがゴミ箱に手を突っ込も──
「ノウッ!!」
慌ててゴミ箱を確保する。
「なにをする!」
「え……、たね、うえようかなって」
「うん、品種改良した果物って種から育たないらしいよ!」
「そなの?」
「そう」
「ふうん……」
なんとか納得してもらえたようだ。
こころもちうにゅほから遠い場所にゴミ箱を置き、そっと胸を撫で下ろした。
読者諸兄、特に男性の方々にならば、俺の心情を察していただけるだろう。
わからない方は、わからないままのあなたでいてください。



2014年6月30日(月)

「──……ぅ……」
すっかりのぼせてしまった。
湯船で読書するのを控えるつもりはないが、自分の限界について考える必要はありそうだ。
バスタオルで体を拭き、甚平の下衣を身に着ける。
上衣は、まあ、涼んでからにしよう。
湯だった頭でそう思い、脱衣所を後にした。
渾身の力で手すりを掴みながら、なかば全身を引き上げるようにして階段をのぼっていく──
「──…………」
が、十段めで力尽きた。
めまいがする。
吐きそうなほど気持ちが悪い。
その場に座り込み、階段の段鼻に背中を預けた。
「──……あー」
情けない。
階段も上がれないのか。
テレビの喧騒に聞き入りながら体力の回復を待っていると、
「──◯◯?」
上方から声がした。
さらに反り返ると、逆光を背負ったうにゅほの姿が目に入った。
「どしたの……?」
「……んー」
なんと言えば心配をかけずに済むだろう。
すこし考えて、
「のぼせちゃいまして……」
素直に伝えることにした。
「のぼせたの?」
「あー」
「たてない?」
「……ちょっと、手ー貸してくれる?」
「!」
うにゅほの肩を借り、自室へと辿り着いた。
「はー……」
ごろん。
うにゅほの寝床で横になる。
「◯◯、どしたらいい……?」
「このまま寝てれば、よくなるよ」
「ほかには?」
「……えー、涼しいほうがいいかな」
「わかった」
うにゅほがリビングへ行き、うちわを手に戻ってきた。
「あおぐよー」
ありがたい。
マハラジャ気分でうとうとしていると、だんだん湯冷めしてきた。
「……寒い」
そう呟くと、
「はい!」
頭まで毛布を掛けられた。
湯船で読書は、二、三十分に留めておこう。

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