>> 2014年5月




2014年5月1日(木)

「──おはなしがあります」
伊達メガネを装着したうにゅほが、こころなしかキリッとした表情で口を開いた。
「なんでしょう……」
「みてください」
iPhoneの画面を覗き込むと、家計簿アプリが表示されていた。
「これが、しゅうにゅう」
「ああ」
「ししゅつ」
「……──Oh」
支出合計が収入に肉薄していた。
「わかりましたか?」
「──…………」
「あー!」
無言で伊達メガネを奪った。
「わかったから、そのキャラやめて」
「うん」
こほん、と咳払いをして、うにゅほがタッチパネルを操作する。
「いちばんすごいのは、くれじっとかーど」
「それは思ってた」
利用明細が届いたときは、思わず我が目を疑ったものだ。
「でも、今月は臨時支出がたまたま重なっただけで、普段はその四分の一くらいだよ」
「そうなんだ」
うにゅほがほっと息を吐く。
「おさけだい──は、おもったほどじゃなかった」
「安ワインをちびちび飲んでるだけだもの」
「そだね」
「……それより、さ」
オレンジ色の扇型を指で示す。
「この、飲食費って──」
「これがもんだい」
「やっぱり……」
自覚はあったのだ。
「◯◯、でかけるときコンビニでジュースかうでしょ」
「うん……」
「そのとき、おかしとかもいっしょにかう」
「はい……」
「それが、これ」
「──…………」
目眩がしそうだった。
ビーフジャーキーが高いのが悪いのだ。
「これ、へらしたほうがいいとおもう」
「おっしゃりとおりです」
「はんぶんにできる?」
「できると思います……」
「そうしましょう」
うんうんと頷く。
ああ、こってりと絞られてしまった。
「あと──」
「まだあるのか!」
節制しよう。
そう心に誓うメーデーなのだった。



2014年5月2日(金)

「──…………」
眠い。
眠かった。
窓の隙間から流れ込む春じみた陽気が、暴力的なまでに眠気を誘発する。
「──……!」
ぱさ。
取り落とした本を、慌てて拾う。
「ねむい?」
隣で漫画を読んでいたうにゅほが、俺の顔を覗き込んだ。
「春だから眠い……」
「かんけいあるの?」
「わからんけど、春はいつも眠い気がする……」
あふ、とあくびを噛み殺す。
「ふとんでねたら?」
「それはそれで、ぐーたら一直線のような気がして」
「かぜひかないかな……」
「あー……」
引くかもしれない。
「──ぃよし!」
ぱん!
と、両手で頬を叩いた。
「読書は眠くなる。なんかしよう!」
「でかける?」
「出掛ける──のは、ちょっと億劫だから、家のなかで」
「そうじ」
「掃除──は、こないだ中掃除したばっかだし」
「でぃーぶいでぃー」
「あ、パラレル西遊記まだ見てなかったな」
「うん」
決まりである。
リビングのテレビが空いていたので、さっそくDVDをセットした。
小学館の文字が画面を彩り、見慣れた東宝のロゴが光を放ち──
そこから記憶がない。
「……──◯◯、◯◯」
「んが」
目を開けると、エンディングが流れていた。
「おきた?」
「……寝てた?」
「ねてた」
うたた寝と言うか、もはや睡眠である。
さすがに目が覚めて、それ以降は眠気を催さなかった。



2014年5月3日(土)

母方の実家に帰省した。
「わあー……」
おくるみのなかの赤ちゃんを見て、うにゅほが目を丸くする。
「いつ生まれたんだっけ」
「先月の17日だよ」
「改めて、おめでとうございます」
「いえいえー、こちらこそ」
従姉と頭を下げ合った。
「さわっていい、ですか?」
「いいよー」
うにゅほが赤ちゃんの手のひらに触れる。
「ちいさいねえ……」
「爪、おもちゃみたいだな」
「そうだねえ……」
うっとりしている。
うにゅほは子供好きなのだ。
特に赤ちゃんは、可愛くて仕方がないらしい。
「あかちゃんうむとき、いたかったですか?」
「そりゃー痛いよー」
「──…………」
女同士の会話を始めてしまったふたりを置いて、和室を後にした。
リビングでテレビを眺めていると、夕食の時間になった。
「あれ、××は?」
「まだ赤ちゃん見てるみたいだよ」
母親が視線で和室を示す。
言い方は悪いが、よく飽きないものだ。
「××、ごは──」
障子を開けて、閉めた。
従姉が赤ちゃんにおっぱいをあげていたのである。
なるほど、赤ちゃんも夕食ということか。
午後八時ごろ母親の実家を辞し、父親の運転で帰路についた。
「……でね、あしのうらが、いちばんやわらかいんだよ」
「触っとけばよかったな」
「でも、さわったらだめなんだよ」
「どうして?」
「くすぐったいからだって」
うにゅほがくすくすと笑う。
帰りの車中、小声でずっと赤ちゃんの話をしていた。
よほど可愛かったんだなあ。
心中複雑であるが。



2014年5月4日(日)

「──…………」
眠い。
眠すぎた。
布団から上半身だけ這い出した状態で、苦しみもがきながら眠り続けていた。
「……──◯◯、◯◯」
俺を呼ぶ声に、薄く目蓋を開いた。
うにゅほだった。
「だいじょぶ……?」
「……大丈夫、じゃない」
「ぐあいわるいの?」
「わるくないけど、眠い……」
「なんで?」
「いや、知らんけども……」
時折、こういう時期がある。
体調や気分とは無関係に、十二時間くらい睡眠をとらなければまともに活動できないのだ。
原因はよくわからないが、春先に多いような気がする。
花粉となんらかの関係がありそうな気もする。
「TSUTAYAに行かねば……」
上体を起こそうとして、
「──……ぐう」
あきらめた。
動けないほど眠い。
「ねる?」
「寝る……」
「ちゃんとふとん──いと──……」
うにゅほの言葉が、途中で途切れた。
途切れたのは意識であると理解する前に、なにも考えられなくなった。

「──……う」
次に目を覚ましたのは、太陽が薄く色づいたころだった。
上体を起こす。
顔の下に枕が差し込まれていた。
そして、肩まで毛布が掛けられていた。
「──…………」
いじらしい。
そして、自分自身のなんと情けないことか。
背中の痛みをこらえながら、リビングへ通じる扉を開く。
「あ、おはよ」
「……おはよう」
うにゅほの頭に手のひらを乗せ、指通りのいい髪を撫でる。
「なにー?」
「なんでもない」
不思議そうなうにゅほをよそに、飽きるまで頭を撫でていた。



2014年5月5日(月)

冷蔵庫にパックの野菜ジュースがあったので、ちゅーちゅー飲んでいた。
「あ、やさいジュース」
「うん」
「おいしい?」
「そうでもない」
「そっかー」
うにゅほが冷蔵庫を開き、大きめの紙箱を取り出した。
「なにそれ」
「プリンもらったんだって」
「誰から?」
「さあー」
ふるふると首を振り、
「◯◯もたべる?」
と、高級そうな焼きプリンをテーブルに置いた。
「食べる食べる」
ずぞぞぞぞ。
野菜ジュースを飲みきり、紙パックからストローを抜き取ると、
「あっ」
うにゅほが声を上げた。
「ストロー!」
「え、うん」
ストローだけど。
「プリン!」
プリンだけど。
「ストローでプリン……」
「──あー、あーあーあーなるほどなるほど」
思い出した。
「ストローでプリンな」
「うん」
このあいだ、そんな会話をしたのだった。※1
「でも、この細いストローで焼きプリンか……」
「むりかな」
「できないことはない、と思う」
キッチンでストローを洗い、手渡す。
「いきます」
うにゅほが、焼きプリンにストローをさし、鼻息荒く吸いついた。
「──…………」
吸う。
「──……!」
吸う。
「……ぱーっ!」
真っ赤な顔で口を離した。
吸えなかったらしい。
「むり……」
「肺活量が足りないんじゃないか?」
うにゅほからプリンを受け取り、ストローに口をつける。
「──……ッ!」
思いきり吸うと、
ごふ、
ごふ、
ごふ、という低い音と共に、プリンの味が舌の上に広がった。
「……吸えるけど、効率悪いぞこれ」
「うーん」
「あと、美味しいのかわからない」
「そっかー……」
素直にプッチンプリンを買ってくることにしよう。

※1 2014年4月27日(日)参照



2014年5月6日(火)

「──…………」
ず。
湿った音と共に、プリンの表面に小さな穴が空く。
「──……!」
ずず。
プリンの穴が増える。
ストローから口を離し、うにゅほが顔を上げた。
「すえるけどすえない……」
「……ストローが細すぎるのかな」
紙パックの野菜ジュースに付属していたものである。
細すぎるためか、掃除機のようにプリンを吸い続けることができないらしかった。
「おもってたかんじじゃない」
だろうなあ。
「いちおう聞くけど、どんな感じだと思ってたの?」
「うーと……」
おぼつかなげに口を開く。
「ストローさして、」
「ああ」
「すう──、すうと、」
「うん」
「プリンがくちのなかに……」
「──…………」
「ぜんぶ……」
「全部?」
「うん」
「ちゅるん、って?」
「ちゅるんって」
想像が膨らみすぎてしまったようだ。
「今言うのもなんだけど、そこまで気持ちよくは吸えないぞ」
「そなの?」
「ちゅるんっ! じゃなくて、
 ずずずずずずー……、って感じ」
「えー」
うにゅほが落胆する。
「まあ、子供の考えることだから……」
「うーん」
「音を立てて吸うのが楽しかったんだろうな」
「そっかー……」
うにゅほにティースプーンを渡し、自分のプリンの蓋を開けた。
プリンは普通に食べるに限る。



2014年5月7日(水)

「ぶー……」
たいそう具合が悪かった。
だるいし眠いし寒いし眠いし、とにかく背筋が痛かった。
「ねつは──」
冷たい手のひらが額に触れる。
「ちょっとある、かも」
「あるでしょうねえ……」
ないほうが怖い。
「たいおんけいは」
「いらない……」
「やっぱり」
熱なんて、病院に行くか行かないかの指標になれば十分だ。
具体的な数値は医者の領分である。
「びょういんは?」
「うーん……」
行ったほうがいいのはわかるが、行き過ぎている気がしないでもない。
医療費だって馬鹿にならないのだ。
「明日行く……」
正確に言えば、明日になっても良くなっていなかったら、行く。
「そっか」
うにゅほが頷き、額から手を離した。
ちょっと名残惜しい。
「してほしいこと、ある?」
「──…………」
特に思いつかなかった。
子供のころから病弱で、ひとりで寝込むのが当たり前だったから、誰かに甘えることに慣れていない。
けれど、なにもないと答えれば、うにゅほは自分を無力だと感じるかもしれない。
「風邪なのかなんなのか、よくわからないけど──」
「うん」
「……マスクでもして、そのへんにいてくれると嬉しい」
「わかった」
マスクを取りに立ったうにゅほの後ろ姿を見て、ぼんやりと思った。
ああ、そうか。
人恋しかったんだな、俺は。
目蓋を閉じると、すぐに眠気が訪れた。
うにゅほは、ずっと、そのへんにいてくれたようだった。



2014年5月8日(木)

「シラカバでしょうね」
「シラカバ、ですか」
「一週間くらい前から花粉が飛散してるので、恐らくそうでしょう」
「去年は鼻水も出たと思うんですけど……」
「今くらいの時期ですか?」
「六月くらいだったような気が」
「それはポプラですね」
「そうですか……」
アレルギー検査のために採血をして、耳鼻科を後にした。
「ただいまー」
「──お、か、え、り!」
帰宅すると、階段を駆け下りながらうにゅほが慌てて出迎えてくれた。
「どうだった?」
「やっぱり花粉症だってさ」
「そっか」
うにゅほが安堵の息を漏らす。
「へんなびょうきじゃなくて、よかったねえ」
「そうだな」
うにゅほの頬に手を添える。
もう既に数えきれないほどの変な病気に罹患しているような気もするが、まあいい。
「かふんしょう、どうするの?」
「薬もらったから、それ飲む」
「……だいじょぶ?」
それで大丈夫か、という意味だろう。
「そうは言っても、あとは花粉が治まるのを待つくらいしか……」
「あ、そだ。マスクしよう」
「マスクかあ」
「だめ?」
「出掛けるときはしたほうがいいと思うけど、家ではどうなんだろ」
「したほういいよ」
「寝るときは?」
「ねるときも」
「アイマスクして、耳栓して、マスクして寝るのか……」
「う」
うにゅほの動きが止まる。
想像したらしい。
「……でも、したほういいよ?」
「そうか……」
空気清浄機があればなあ──と、夢想しながらマスクを着けたのだった。



2014年5月9日(金)

昨夜のことである。
「ね」
自分の枕を抱きかかえながら、うにゅほが口を開いた。
「わたし、ソファでねる」
「いきなりだな……」
自室のソファは俺の寝床である。
ここしばらく眠りの浅い俺の体を慮ってのことだろう。
「それはありがたいんだけど、さ」
「うん」
「俺、まだしばらく寝ないよ?」
タスクトレイの時計で時刻を確認する。
午後十一時過ぎ。
あと三時間は寝るつもりはないし、寝ようとしても眠れない。
「いいよ」
「いいよ──って、眩しいだろ」
俺たちの部屋は、生活スペースと寝室スペースとに区切られている。
テレビやPC、ソファといった生活雑貨は前者、うにゅほの寝床は後者に属している。
俺がソファで眠っているのは、実を言えば、うにゅほとの生活サイクルのズレによるところが大きいのだ。
「まぶしくてもだいじょぶだよ」
ぴ。
うにゅほが得意げに掲げたものは、俺が愛用しているアイマスクだった。
「なるほど……」
意外に考えている。
「じゃ、おやー……ふ、みなさい」
挨拶の途中にあくびを挟みながら、うにゅほがソファに横たわる。
「……ありがとな」
「うん」
淡く微笑み、アイマスクを下ろした。
「──…………」
やがて、寝息が聞こえ始めた。
ちょいといたずらしたい衝動に襲われたが、なんとか自分を押さえ込んだ。
もし起こしたら、もうほんとさすがに悪い。
午前二時を回ったころ、うにゅほの寝床で眠りについた。

今朝のことである。
「──…………」
「──…………」
「こしいたい……」
うにゅほが臀部をさすっていた。
ソファの継ぎ目におしりがはまってしまったのだろう。
「◯◯、はやおき?」
「また寝る」
「うん」
「眠りは深かった気がするんだけど、すぐ起きちゃうんだよな……」
ソファに適応してしまったのかもしれない。
二度寝はいつもうにゅほの寝床でしているのだから、慣れていないわけではないのだけど。
昼食後、リビングでうとうとしているうにゅほの姿を見て、思った。
今夜はちゃんとソファで寝よう。



2014年5月10日(土)

「ふん、ぬぁー……」
天高く伸ばした両腕を、ゆっくりと下ろしていく。
「眠い!」
「かふんしょう、なおんないね」
「花粉が舞ってるあいだは、もうどうしようもないんじゃないかな」
シラカバのあとにはポプラが控えているのだけど。
「でも、ちょっとは良くなってる」
「そかな」
「午後二時なのに、まだ眠いだけで済んでるからな……」
先週あたりは日暮れまで問答無用で昏睡だった気がする。
去年までより明らかにひどいが、来年以降も同じ症状に悩まされるのだろうか。
「──…………」
小さくかぶりを振った。
やめよう。
考えてはいけない。
「……眠気を飛ばしたいから、すこし出かけようか」
「いいねー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「散歩でいい?」
「いいよ」
「じゃあ──」
「まって」
部屋を出ようとして、シャツの裾を掴まれた。
「マスクしないとだめだよ」
「あ、そうだな」
「わたしもするよ」
「べつに──いや、したほうがいいのか」
花粉症の発症には、これまで吸ってきた花粉の量が深く関係するらしい。
今後のことを考えるなら、マスクを着けたほうがいいのだろう。
微妙な絵面になるが、贅沢は言っていられない。
「あったかいねー」
「もう五月だからな」
外は、初夏と言っても不自然でないほどの陽気だった。
冬の記憶が色濃いだけに、世界が明るく見えた。
これで花粉がなければなあ。
「あ、さくらさいてる」
「満開に近いのかな」
外に出てよかった。
なんだかんだで性根が日本人なのか、桜を見ると心が躍る。
「なんかちっちゃいのある」
うにゅほが公園を指さす。
「ほんとだ」
接ぎ木されたものか、高さ1メートルほどの小木が花をつけていた。
「しゃしんとっていい?」
「いいよ」
公園に下り、うにゅほにiPhoneを手渡した。
うららかな空を見上げ、思う。
ああ、春はいいなあ。
花粉がなければ、もっといいのになあ。



2014年5月11日(日)

母の日である。
ゴルフへ出掛けた両親を見送り、うにゅほにそっと耳打ちした。
「……プレゼント、どうしよう」
忘れていたわけではないが、特に思いつかなかった。
「(弟)、はしだっけ」
「そう、夫婦箸」
貝細工の綺麗な箸を、昨夜のうちに贈っていた。
気の利いたプレゼントだと感心したものだ。
「おなじかんじ、とか」
「夫婦茶碗とか、そういうこと?」
「めおとぢゃわん?」
「夫婦でお揃いの茶碗だな」
「うち、かぞくぢゃわんだよ」
「たしかに、みんな同じ茶碗だけど……」
ちょっと返答に困る。
「あ、夫婦茶碗は、奥さんのほうがちょっと小さいんだよ」
「そなの?」
「ああ」
「なんで?」
「ダイエットのためじゃないか?」
「あー」
うんうんと頷く。
納得してくれたのなら、まあいい。
「そうだな、夫婦箸との兼ね合いもあるし、夫婦茶碗にしようか」
「うん、しよう」
「いぇー」
「いぇー」
こつんと拳を合わせた。
「夫婦茶碗だから、父の日兼用ってことにできるな」
「えー……」
「だって、父の日は来月だし、再来週は母さんの誕生日なんだぞ。
 そんなプレゼントばっかしてられません」
あげるのは構わないのだが、さすがにネタがない。
「おさけは?」
「まあ、ビールくらいなら……」
「そうしよう」
「いいけど」
ソファから腰を上げ、軽く伸びをした。
「……さて、夫婦茶碗ってどこに売ってんのかな!」
「いとーよーかどうは?」
「あるにはあるだろうけど、せっかくだから専門の──」
ネットで調べ、陶芸作品の専門店で渋い夫婦茶碗を購入した。
両親は、けっこう喜んでくれたようだった。
ちなみに、ひとつ2500円もした。
プレゼントの値段を告げるのは無粋なので、ここでぶちまけておく。



2014年5月12日(月)

「虫コナーズが欲しい」
「うしこなーず?」
「虫コナーズ買おう」
「むしこなーずって?」
うにゅほが小首をかしげる。
「虫が、こう、虫を寄せ付けない……」
聞き返されると思っていなかったので、微妙に返答がおぼつかない。
「あみどにしゅってやるやつ?」
「そう、それの、貼るタイプのやつだ」
「あー」
「……弟の部屋に、ゲジが出たらしくてな」
「──…………」
うにゅほが息を呑む。
「むしこなーず、かおう」
「ああ」
近所のホームセンターへと赴き、ダン箱入りのペプシネックスと虫コナーズを携えてレジの最後尾についた。
「部屋の網戸と、リビングの網戸と、玄関用と」
「けっこうたかいね」
「背に腹は代えられない──あ、やべ!」
「?」
財布を取り出し、中身を確認する。
「万札入れてくるの忘れてた……」
「え!」
千円札が一枚だけでは、どれかひとつしか買うことができない。
「ど、どうするの?」
「あー、それは大丈夫。ここATMあるから」
「そっかー……」
緊張に引きつっていたうにゅほの頬が緩む。
床に下ろしていたダンボール箱をレジの脇にずらし、告げた。
「悪いけど、ここでちょっと待っててくれるか」
「はい」
うにゅほがキリッと背筋を伸ばす。
「すぐ戻ってくるから!」
小さく手を振り、併設されているスーパーマーケットへと足を向けた。
五分ほどして帰ってくると、
「おかえひなさい」
「──…………」
うにゅほが飴を舐めていた。
ああ、なんだろう、この、久々の、もやもやする感じ。
「……誰がくれたの?」
「てんいんさん」
うにゅほの視線を追うと、サービスカウンターにいた女性店員が笑顔で頭を下げた。
愛想笑いと共にこちらも会釈を返す。
あー、まだ飴もらうかー。
そうかー。
複雑な気分である。



2014年5月13日(火)

「──ダニだーッ!!」
「わ」
漫画を取り落としそうになったうにゅほが、何事かとこちらを見上げる。
「アレルギー検査の結果が出たんだよ」
耳鼻科からのFAXをうにゅほに手渡した。
「ほら、シラカバのとこはクラス0だけど──」
「こなひ、こな、だに?」
「コナヒョウヒダニ」
「だに」
「それが、クラス3になってるだろ」
「うん」
「すべてダニのしわざだ」
「そなの?」
腕を組み、首肯する。
「たぶん、暖かくなったから活動し始めたんだろうな」
「へえー」
ほんやりとうにゅほが頷いた。
「他人事じゃないぞ」
「?」
「ダニって、どこにいると思う?」
「そと?」
「そのへんにいる」
そう言って布団を指さした。
「……いないよ?」
「××、ダニってどのくらいの大きさだと思う?」
「うーと」
人差し指と親指で僅かな隙間を作り、
「このくらい?」
「もっと小さい」
「……このくらい?」
「目に見えないくらい小さい」
「そなんだ」
「つまり、俺たちの布団にも住んでいる」
「みえないね」
「見えないけど、数十万匹ほどいる」
「!?」
うにゅほの顔色が目に見えて変わった。
「だって、布団そんなに干してないしね」
「ど、どうしよう」
「なに、原因が判明してしまえば、対処法はいくらでもある」
引き出しから一万円札を数枚取り出し、財布に入れた。
「××、布団乾燥機を買いに行くぞ!」
「かんそうき?」
「熱風で布団を乾燥させる機械だよ」
「だに、しぬ?」
「熱さで死ぬ」
「おー!」
うにゅほの瞳が輝いた。
「よし、ついでに布団カバーも買ってくるぞ」
「うん!」
意気揚々と外出し、およそ二万円を投資してダニを駆逐する環境を整えたのだった。
健康が買えるのなら、安いものである。



2014年5月14日(水)

友人と一緒にコストコへ行ってきた。
「──……うぷ」
「うー……」
フードコートでプルコギベイクを注文したところ、いきなり満腹になってしまった。
でかいんだもの。
ふたりで一本にしておけばよかった、と嘆いても後の祭りである。
腹ごなしを兼ねて、店内を見て回る。
大型倉庫をそのまま店舗にしているだけあって、相変わらず広大だった。
「……絶対に離れないように」
「──…………」
神妙な表情で、うにゅほが深々と頷いた。
迷子になったら洒落では済まない。
「……ふー…………」
うにゅほの息遣いが聞こえる。
俺の背後にピタリと張り付いているのだ。
たぶん友人に遠慮しているのだと思う。
できれば視界に入っていてほしいのだけど、気配は嫌というほど感じるから、まあいいや。
コストコの商品は、安いのかどうなのかよくわからない。
量が多すぎるからである。
それゆえに、ちょっと手を出しづらい感じもある。
友人が目当てにしていたムール貝とナンだけを巨大なカートに入れて、店舗のほとんどを回ったころだ。
「お」
ふと、気になるものが視界をよぎった。
「ジェル低反発まくら、だって」
「じぇる?」
「その部分はよくわからないけど──」
サンプルに手を触れた。
ぐにい。
「んお!」
感じたことのない手触りだった。
低反発ウレタンを凝縮してこねて叩いて伸ばして丸めたような、コシのある柔らかさ。
「さわりたい」
「ほら」
異常なほど重量感のあるまくらをうにゅほの前に差し出した。
ぶに。
「!」
「な?」
「──…………」
こくこくと何度も頷く。
「これ欲しいなあ」
「でも、きのうにまんえんもつかった」
「あー……」
そうだった。
布団乾燥機を買ったのだ。
「でもなあ……」
逃すには惜しい気がする。
パッケージの翻訳すらされていない海外製品だから、ネット通販を除けばここでしか買えないだろうし。
「──……うーん」
うにゅほが、しばし思案し、言った。
「じゃ、わたしだす」
「え?」
「おかね」
「いや、悪いよ」
情けないし。
などと遠慮していると、
どさ!
ジェル低反発まくらの箱がカートに積み込まれた。
「いいの!」
「あ、はい……」
押し切られてしまった。
というわけで、新しいまくらがここにある。
安眠できますように。



2014年5月15日(木)

「……──あふぁ」
あくびを噛み殺しながら部屋を出ると、うにゅほが食器を洗っていた。
「おはよー」
「おはよ」
「ねれた?」
エプロンで手を拭きながら、そう尋ねた。
「そこそこかな。でも寝心地いいよ、あの枕。すげえもちもちしてる」
「そっか」
「ありがとなー」
「……うへー」
はにかみながら微笑むうにゅほの顔を見て、なんだか胸が暖かくなった。
「あ、そうだそうだ」
「?」
うにゅほを手招き、iPhoneを渡す。
「ちょっと、これ、読んでみてほしいんだけど」
「なに?」
「小説」
「あいふぉんでよめるの?」
「読めるよ」
「なんでもできるねえ」
そう呟いて、ソファに腰を下ろした。
「これ、どうすればいいの?」
「指を右に動かすと、ページが進む」
「ほんとだ」
「文字、小さくない?」
「だいじょぶ」
「わかんないことあったら聞いてくれな」
「はい」
「──…………」
「──…………」
うにゅほが画面に没頭し始める。
そわそわと落ち着かない気分だった。
類まれな集中力を持つうにゅほだが、読書スピードは極めて遅い。
さほど長くない小説なのだが、読み終えたのは日が暮れかけたころだった。
「おわった!」
「……どうだった?」
「おもしろかった」
ほっと胸を撫で下ろす。
「それ──」
「つづきは?」
「──…………」
言いかけた言葉を飲み込み、答えた。
「続きは、ない、んだよね……」
「そか」
気を落とした様子もなく、うにゅほが立ち上がる。
「──…………」
それ、俺が書いた小説なんだ。
いろいろあって、電子書籍として出版されることになったんだよ。※1
──と、言おうとしたのだが、タイミングを逸してしまった。
「……ま、いいか」
俺の作詞した曲がカラオケに入ったときも、いまいち理解していないようだったし。
説明不要の説得力がなければ驚いてくれない気がする。
いつか、紙媒体で出版されることがあれば、そのときネタばらししようと思った。

※1 ふぇのラテ



2014年5月16日(金)

ページをめくる手を早め、眼球を慌ただしく上下させる。
それでも内容が理解できるのは、この分野の専門書を何冊も読んでいるからだ。
「──ぃよし、終わった!」
「はやかったねえ……」
うにゅほが目をぱちくりさせる。
「ほんかえすひ、きょうだっけ?」
「違うけど、ちょっと読みたい本ができたからさ」
「としょかんいく?」
「ああ、今から行こう」
「うん」
厚さも大きさもてんでばらばらな三冊の本を携えて、市民図書館へと車を走らせた。
手早く返却を済ませ、検索機の画面をタッチする。
「──…………」
「あった?」
「えー……と、ちょっと待って。著者名のほうで──」
再び検索する。
「──…………」
「あった?」
「ない……」
貸出中ではなく、そもそも蔵書にないようだ。
「本屋になかったから、こっちに賭けてたんだけどなあ……」
がっくりと肩を落とす。
「どんなほん?」
「……本当に聞きたい?」
「み、みじかく……」
うにゅほのこころが一歩下がるのを感じた。
「えーと、そうだな……」
口のなかで呟いたあと、声に出す。
「人工知能がこのまま進歩して行ったらどうなるか──、みたいな本」
「ふうん……」
肩透かしを食らったような顔で、うにゅほが尋ねた。
「それ、おもしろいの?」
「すげえ面白そう」
「そかー」
俺とうにゅほは、興味の方向性がかなり異なっている。
一緒の部屋で暮らしているのに、不思議なものだ。
「ネットで買うしかないかな……」
ちら、とうにゅほの反応を窺う。
書籍用の予算は別立てなので問題はないのだが、出費がかさんでいるからなあ。
「ねっと、べんりだねえ……」
うにゅほが、感心したように息を吐いた。
よし、大丈夫そうだ。
嫌でも貯金が増えていきそうな今日このごろである。



2014年5月17日(土)

「──……はー」
擦り合わせた両手を吐息であたためる。
手のひら、
手の甲、
手のひら、
手の甲、
いつになっても終わらない。
「寒い!」
「さーむーいー……」
隣で同じ行動を取っていたうにゅほが、歯の根を揺らしながら呟いた。
iPhoneの天気アプリを起動し、現在の気温を確認する。
「……6℃」
「さむいー!」
「見ないほうがよかった」
室内はもうすこし暖かいはずだが、一桁のインパクトはなかなか強い。
「……桜、散ったろうな」
「そだね……」
「ほとんど散ってたけどさ」
「うん」
「葉桜には毛虫が大量発生するんだよな……」
「うぎぃ」
うにゅほが妙な声を上げる。
昨夜、玄関にゲジが出たことは、言わないほうがいいだろうな。
「これは、もう、ストーブ出すしか……」
出すもなにも部屋の隅にあるのだが、物置になっているのでちょっと面倒なのだ。
「とうゆ、ある?」
「──……あー、そうか。その問題もあるのか」
使いきってから片付けた記憶が、あるような、ないような。
灯油タンクを確認してみると、案の定軽かった。
「うーん……」
どうしよう。
「もう寝る?」
「まだおひるだけど……」
「いいじゃん昼寝」
「いいけど……」
うにゅほの視線が室内をさまよう。
「あ、あれ」
そして、寝床のあたりを指さした。
「布団乾燥機?」
「うん」
このあいだ買った、マットもホースも不要の布団乾燥機である。※1
ノズルの角度を変えることで部屋干し衣類にも使えるらしい。
「これを、ストーブ代わりに?」
「うん」
「大丈夫かな……」
試してみた。
「──…………」
「──…………」
「ないよりマシ、かな」
「うん……」
結論:半纏を羽織ってくっついてるほうが暖かい。

※1 2014年5月13日(火)参照



2014年5月18日(日)

「──……寒い」
左手を右の、右手を左の袖に入れ、自分の二の腕を撫でさする。
「昨日より寒いんじゃないか……?」
「うん、うん……」
隣で同じ行動を取っていたうにゅほが、竦めた首をわずかに動かした。
「今の気温は──」
「いい、いい……」
うにゅほが力なく首を振る。
知らなくてもいいことは、ままあるものだ。
「俺、風邪引いたときさ」
「うん」
「体温計いらないって言うじゃん」
「……うん」
「つまり、こういうこと」
「わかった……」
知ったところで気が滅入るだけ、なのである。
「昨日みたいに、布団乾燥機で凌ぐか……」
そう言って立ち上がったとき、ふといいことを思いついた。
「──布団乾燥機はストーブじゃなくて、布団を乾燥させるためのもの」
「?」
「つまり、暖めた布団にくるまればいいんじゃないか?」
「!」
うにゅほがハッと息を呑む。
「なるほどー……」
「暖まるまでは我慢しなきゃいけないけど」
「しかたない、しかたない」
布団乾燥機の電源を入れ、震えながら寄り添うこと三十分。
ぴー!
という間の抜けた電子音が室内に響いた。
「あったまったかな」
「多分……」
乾燥機のノズルを抜き取り、布団のなかに手を入れる。
「お」
暖かい。
むしろ、熱いくらいだ。
「これはいいな!」
「いいね、いいね!」
ソファまで毛布を運び、ふたりでくるまった。
「はー……」
「これ、冬場も使えるな……」
「うん……」
買ってよかった布団乾燥機。
しかし、毛布の暖かさは、十分くらいしか保たないのだった。



2014年5月19日(月)

Tカードの有効期限が迫っていたので、更新のためTSUTAYAへ赴いた。
書籍売り場でコミック新刊を確認したところ、
「──…………」
生徒会役員共10巻が平積みされていたので、思わずスルーしてしまった。
ちら。
うにゅほの様子を横目で窺う。
「?」
小首をかしげている。
あの下ネタ漫画、どうしたものだろう。
本棚の奥のほうにあるとは言え、うにゅほがその存在に気づいていないはずはない。
読んでるところは見たことないけど、いきなり処分するのもなあ。
「……ま、いいか」
「うん」
反射的に頷くうにゅほを連れて、レンタルコーナーのある二階へと足を向けた。
つつがなく更新を終え、映画でも借りようかと踵を返したとき、
「──◯◯!」
うにゅほが背後から俺を呼び止めた。
「さいふ、さいふ!」
慌てて振り返ると、
「うお!」
更新したばかりのTカードを半分ほど覗かせた革製の長財布が、床の上に落ちていた。
「あ、あぶねー……」
ほっと胸を撫で下ろしていると、うにゅほが財布を拾ってくれた。
「はい」
「ああ、ありがと。悪いな」
「びっくりした」
「尻ポケットに入れ損なったんだな……」
「うん」
うにゅほがいなければ、どうなっていたことだろう。
中身はどうとでもなるが、この財布はうにゅほからの誕生日プレゼントなのである。※1
本当に危ないところだった。
「──……つーか、俺、これまで生きてきて初めて財布落としたかも」
「そなの?」
「取り落としたことはあるかもしれないけど」
「そっか」
うにゅほが微笑む。
「わたしがひろって、よかったね」
「ほんとだな」
これまで以上に気をつけよう。
そう思った。

※1 2014年1月15日(水)参照



2014年5月20日(火)

「──……えっ」
うにゅほの両手が膝の上に落ちた。
「どこ、どこいくの」
「釧路……」
「くしろって、どこ?」
「北海道の、東のほう」
「とおい?」
「それなりに……」
「なんで?」
「……北海道はでっかいから?」
予想通りの反応だからと言って、対処に困らないわけじゃない。
「──とにかく、23日に、一泊二日で旅行に行ってくるから」
「わたしは……」
「男だけの旅行に連れて行けない」
「う」
これだけは譲れない。
「じゃ、つぎ、つぎいきたい」
「次の旅行?」
「くしろいきたい」
「釧路──……」
道外の人には実感し難いかもしれないが、北海道は広い。
本当に、広い。
札幌から、道東の釧路まで、直線距離で300km以上。
日本地図に指を這わせてみればすぐにわかると思うが、これは、東京─名古屋間とほぼ同じ距離である。
「釧路は、ちょっと」
「なんで……」
ぶーたれを通り越して落ち込んでいるうにゅほの姿に、ピシピシと罪悪感を覚える。
「釧路は遠いから、日帰りじゃ無理なんだ」
「とまる?」
「家族旅行ならいいけど、ふたりきりで外泊するのはいささか問題が……」
同じ部屋で暮らしているのだから今更かもしれないが、体裁というものがある。
家族確認を求められたりしたら、いったいどうすりゃいいんだか。
「だから、日帰り! 日帰りでどっか行こう!」
「えー……」
「バイクもあるんだし」
「さむくない?」
「夏であれば」
「うん、わかった……」
なんとか納得してくれたようだが、目に見えて元気がない。
「……◯◯、いないんだ」
「一晩だけだぞ」
「うん……」
二泊にしなくて本当によかった。
ホテルに着いたら電話しよう。



2014年5月21日(水)

「♪~」
コンテに乗車し、コンビニのレジ袋を開く。
「はい、コンポタとチーズ味」
「◯◯、たこやき?」
「たこ焼き味がいちばん美味い」
今日のおやつはうまい棒である。
コンビニでの出費の多さをうにゅほに指摘されて以来、なるべく安いもので済ますことにしているのだ。※1
寄らなければいいのはわかっているが、どうにも喉の渇きやすい体質である。
「ほら、コーヒー豆乳も」
「うん」
麦芽コーヒー味の豆乳を渡す。
うにゅほが、紙パックにストローをさし、吸った。
「美味しいか?」
「おいしい」
「前は苦手だったのになー」
「おいしいよ」
ちゅう、とひとくち。
俺が見ていなければ飲めないほど苦手だったのに、いつの間にか克服してしまったらしい。※2
苦手意識さえ取り払うことができれば、案外そんなものかもしれない。
「じゃ、こっちは?」
緑色の紙パックをうにゅほに差し出した。
「ちょうせいとうにゅう?」
「そう、ただの調整豆乳」
「……まめのやつ?」
「××が飲んでるほうも大豆だって」
「うーん……」
しばし逡巡し、
「ひ、ひとくち」
うにゅほが紙パックを受け取る。
ストローの先を恐る恐るくわえ、くちびるを湿らせるように動かしたあと、
──ちゅ、
と、中身を吸い上げた。
「……うぶ」
「おあ!」
手のひらの隙間から白い液体が垂れ落ちる。
慌ててティッシュで拭い取り、感想を聞いてみた。
「まめです……」
「豆でしたか」
「きもちぁるい……」
ろれつが回らないほどか。
口直しにコーヒー豆乳をちゅーちゅー吸っているうにゅほに告げる。
「そっちの豆乳だって、これにコーヒー味を足してるだけだと思うんだけどなあ」
「ぜんぜんちがうよ」
「そうか……」
うにゅほが、プレーンの調整豆乳と相容れる日は、果たして訪れるのだろうか。

※1 2014年5月1日(木)参照
※2 2013年10月3日(木)参照



2014年5月22日(木)

「──…………」
「──…………」
距離が近い。
近いどころか触れ合っている。
そこまでは普段どおりとしても、寄り掛かってくるのは珍しい。
「××、暑くない?」
「ちょっとあつい」
「窓、開けよう」
「あける」
うにゅほが立ち上がり、ベランダに通じる窓を開く。
そして、
──ぴと、
再び俺に密着し、漫画を開いた。
「♪~」
明日、俺は、一泊二日の旅行に出かける。
寂しいのかなと思いきや、機嫌は悪くなさそうだ。
「──…………」
尿意を催し、立ち上がった。
「あっ」
「トイレ行ってくる」
「うん……」
小用を済ませ、トイレから出ると、
「でた?」
扉の前でうにゅほが待っていた。
「そりゃ出ましたけど……」
幼稚園を卒園してから初めて聞かれたぞそんなこと。
部屋に戻ると、うにゅほがついてきた。
ソファに座ると、寄り添ってくる。
そんなうにゅほの様子を、なんとなく、懐かしいと思った。
「──…………」
ああ、そうか。
うにゅほと初めて出会い、俺にだけ懐くようになって、そのくらいの時期の行動を思い出させるんだ。
離れると不安になるのか、カルガモの雛みたいに俺の後をついてまわってたっけ。
なんだ、結局寂しいんじゃないか。
「──××」
「!」
うにゅほの肩を引き倒し、俺の膝に導いた。
「膝枕をしてあげよう」
「うん」
トイレは行ったばかりだから、しばらく大丈夫。
そのままふたりで読書に耽っていた。

※ 旅行のため、明日の更新が滞る可能性があります



2014年5月23日(金)

旅先でこの日記を書いている。
Bluetoothのキーボードは慣れないが、仕方がない。
午前九時、戦地へと赴くかのような見送りに後ろ髪を引かれながら、友人の車に乗り込んだ。
目的地は釧路である。
一泊二日で帰れる距離となると、道外はさすがに無理だ。
いずれ東京などに行く用事ができるかもしれないが、そのときはそのときで考えよう。
最初の電話があったのは、出発してから一時間後のことだった。
「──……もしもし、○○?」
「……さすがに早くない?」
「どこ?」
「どこもなにも、まだ札幌だけど……」
二言三言会話して、通話を終えた。
それからも、思い出したように電話が掛かってきた。
ほんのすこしでも会話をすると、気持ちが落ち着くようだった。
いろんな意味で旅行している気分にならない。
電話の持ち主である母親は、聞こえよがしに苦笑していたけれど。
ともあれ、明日には帰るのだ。
おみやげはなんにしようかな。



2014年5月24日(土)

釧路でおみやげを見繕い、帯広の神社に参拝し、夕刻までぶらぶらと観光してまわった。
道東自動車道を利用して北海道を横断し、帰宅したのは午後九時だった。
「ただいまー……」
遅くなったから、怒ってないだろうか。
こまめに連絡はとっていたし、大丈夫だとは思うけど。
「おかえりー」
玄関の白熱灯がともり、うにゅほがちょこちょこと出迎えてくれた。
「にもつもつね」
「あ、悪い」
意外と普通だった。
いっそ抱きつかれでもするんじゃないかと思っていたので、すこし拍子抜けだった。
「……ま、そうか」
旅行とは言え、たかだか一泊二日である。
いちいち感動の再会を演じていては身がもたないというものだ。
「あ、おみやげあるぞ」
「ほんと?」
「さんまんまっていう釧路の名物と──」
階段を上がりながらレジ袋を探り、
「ほら、キタキツネ」
「わ」
うにゅほの肩越しにぬいぐるみを差し出した。
「かわいかろ」
「うん!」
荷物を置き、キタキツネのぬいぐるみを両手で受け取る。
「ありがとね」
「どういたしまして」
祖母と両親にも帰宅の挨拶をし、それぞれにおみやげを手渡した。
「くっ──……、あー!」
思いきり伸びをする。
部屋でゆっくりくつろいで、旅の疲れを癒そう。
そう思い、自室の扉を開いた。
「うお!」
びっくりした。
年末の大掃除もかくやというレベルで部屋が整頓されていたのである。
「えー……と、××さん、掃除した?」
「うん」
「漫画とか、袋とか、全部片付いてるな」
「ひまだったから……」
うにゅほが苦笑する。
思い出した。
この娘、寂しいと掃除するんだっけ。※1
部屋が片付くのはいいことだけど、さすがに心が痛むので、そのうちふたりでどこかに出かけよう。
もちろん日帰りだけど。

※1 2013年5月27日(月)参照



2014年5月25日(日)

明日は母親の誕生日なので、前倒しで外食することになった。
三十分ほど車に揺られて辿り着いたのは、旧家を改装した洋食レストランで、佇まいからして高級感に溢れていた。
「……だいじょぶかな」
うにゅほが俺に耳打ちをする。
「……うち、裕福じゃないけど、貧乏でもないからね」
問題があるとすれば、外食するとだけ言われて連れ出された俺の直し損ねた寝癖のほうだろう。
いいとこ行くなら事前に教えてほしかった。
前菜は、サーモンのカルパッチョ。
じゃがいものポタージュとサラダを経て、やけに少ないパスタを食べ終えるころには、既に一時間近くが経過していた。
「コース料理って、長いもんだなあ……」
「そだねえ」
ちゅるちゅるとパスタをすすりながら、うにゅほが頷いた。
うにゅほは食べる速度が遅いから、まだいい。
俺や父親などは、出されたものを即座に食べ尽くしてしまうので、非常に暇である。
主菜のフィレステーキに舌鼓をうち、デザートの蒸し焼きショコラを堪能したのち、レストランを後にした。
「やー、美味しかったね!」
「そうか?」
満足そうな母親に、父親がぼやく。
「美味いは美味いけど、食った気がしねえな」
「待ち時間、半分くらいにしてほしい……」
弟が父親に追従する。
その横で、
「××、美味しかったよねえ」
「おいしかった」
女性陣が意気投合していた。
サッと注文してパッと食べたい男性陣との対比が面白い。
「ね、◯◯、おいしかった?」
うにゅほが俺を見上げ、そう尋ねた。
「美味しかったと思うよ」
「よね」
「蒸し焼きショコラ、もうひとつ食べたかったなあ」
「──……あー」
なにかを納得されてしまった。
なんだよ。



2014年5月26日(月)

母親の誕生日である。
家族で折半して、靴を贈ることになった。
「ただいま」
「ただいまー」
母親とうにゅほが意気揚々と帰宅し、購入したばかりのミュールを自慢げに見せてくれた。
「へえー、いいじゃん」
他に言えることもないけど。
「わたしえらんだよ」
うにゅほが得意げに言った。
「うん、派手すぎないから、合わせやすそうでいいな」
具体的な褒め言葉が自然に湧いて出た。
我ながら不思議である。
「××も、◯◯も、ありがとうね」
母親が笑顔で礼を言う。
「あー、はいはい」
改めて感謝されると対応に困る。
「あ、そだ」
うにゅほがポシェットから財布を取り出した。
「せんごひゃくえん」
「うん?」
「たてかえたから、せんごひゃくえん」
「あー……」
忘れてた。
というか、まだ金も払っていない状態でちょっと照れていたのか。
そっちのほうが恥ずかしい。
財布から千円札を二枚抜き取り、うにゅほに渡す。
「あ、おつりない」
「べつにいいよ、それくらいなら」
「だめだよ」
うにゅほがきっぱりと言う。
「こんげつ、しゅっぴおおいんだから」
「……あ、うん」
まったくそのとおりです。
「◯◯、もう尻に敷かれてんのかい」
母親が苦笑する。
どうしてこうなった。



2014年5月27日(火)

「──……あふぁ」
あくびを噛み殺す。
「ねむいの?」
「眠いけど、眠くない」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「えー……と、なんて言ったらいいかな」
思案し、言葉をひねり出した。
「あくびは出るけど、横になる気分じゃない」
「あー」
わかってるんだか、どうなんだか。
「──ぃよし!」
自分の頬をパンパンと叩き、立ち上がった。
「散歩行こう、散歩」
「いいねー」
うららかで、清々しい日和である。
暖かな太陽の光が、しどけなく俺たちを誘っていた。
「どこいくの?」
「サイクリングロードかなあ」
近所のドブ川沿いに、サイクリングロードとは名ばかりの小さな舗道がある。
レクリエーションとして楽しむには短すぎるし、抜け道としての利用価値もないので、自転車の姿を見かけることはまずない。
ただ、犬の散歩コースとしての需要は高いようだ。
「──……ん、ぁー!」
思いきり伸びをする。
「緑が多いから、気分いいな!」
「うん……」
うにゅほが暗澹たる面持ちで頷いた。
まあ、言いたいことはわかる。
「……川は、汚いよな」
「きたない」
汚いというか、ほとんど流れていない。
環境汚染とかそういったたぐいのことではなくて、もともと水量が少なく澱みがちな小川なのだ。
変な虫が大量発生していないだけ、よしとしよう。
「でも、ほら──」
反対側の野原に視線を向ける。
「たぶん、ここのどっかに、こないだ見たきつねが住んでるんだぜ」※1
「きつね!」
うにゅほの瞳が輝いた。
「なんでか知らんがこのあたり、なんもないからなー」
牧野でもなければ防風林でもない、ただ自然そのままの草原が目の前に広がっている。
市街地では珍しい光景かもしれない。
「きつね、いないねえ」
「どっかにいるよ」
「そっかー」
一時間くらいのんびり散歩して、帰宅した。

※1 2014年4月6日(日)参照



2014年5月28日(水)

「──××、××」
ちょいちょいとうにゅほを手招きする。
「?」
「面白いものを見せてあげよう」
そう言って、ディスプレイを指し示した。
「ちきゅう」
「そう、地球。ただし──」
マウスをドラッグする。
「自在に動かせる」
「おー!」
Google Earthをインストールしてみたのだった。
「ちきゅうぎだ」
「とんでもなく精密だけどな」
マウスホイールを操作し、画面を拡大していく。
「わ!」
「うちも見えるぞ」
「みたい、みたい」
うにゅほが無邪気にはしゃいでいる。
なんとも微笑ましい姿だ。
「えーと、だいたいこのあたりかな」
「ここ?」
「ほら、これが中学校」
「ほんとだ」
「ここが、うちの前の公園で──」
ストリートビューに切り替える。
「あ、うち! うちだ!」
「うちだな」
「すごいねえ、すごいねえ……」
感動している。
なんだ、かわいいぞ。
「ね、べつんとこもみたい」
「ああ」
ストリートビューを利用し、擬似的に近所を散策する。
「てんきわるいねえ」
曇りの日に撮影車が来たのだろう。
「あ、昨日散歩したサイクリングロードでも見てみるか」
「みる」
ストリートビューを終了し、画面をわずかに縮小する。
「このへんだな」
「ほんとだー……」
「こっちの、緑の多いとこに、きつねが住んでるんだろうな」
「この、へんなのは?」
「草野球の練習場」
何故かはよくわからないが、歩いて行ける範囲に片手で余るくらいある。
バッティングセンターも二軒ある。
強豪という話は聞かない。
「そうさしていい?」
「ああ」
うにゅほにマウスを譲り、トイレに立つ。
帰ってくると、何故か、モンゴルのドゥンドゴビ県が表示されていた。
なにをどうしたらそんなところに。



2014年5月29日(木)

バターロールを半分にちぎり、チロルチョコを挟む。
「××、チロルチョコパン」
「たべにくそう」
「板チョコだったらよかったなあ」
「でも、おいしそう」
コップに牛乳をそそぎ、チロルチョコパンを頬張った。
ごり。
「──ギッ!」
「!」
背筋が伸びるほどの痛みが走り、慌てて口元を押さえた。
大惨事を回避しようと無理矢理に飲み下したのち、大きく舌を出す。
「ひ、ひたはんだ……」
「ち!」
うにゅほがティッシュを二、三枚抜き取り、
「むぶ!」
慌てて俺の口に押し込んだ。
「ち、ち、すごいでてる!」
そんなに?
ティッシュをめくり、指先で舌に触れてみる。
「──……うあ」
舌の輪郭がほんのすこし歪んでいた。
かなり激しく噛んだらしい。
「あ!」
うにゅほが立ち上がり、戸棚を開く。
「めんたむ、めんたむ!」
「ほれは勘弁ひてくれ……」
舌を噛んだのが俺だったからいいものの、もしうにゅほだったら自分の舌にメンタムを塗っただろうか。
「──…………」
塗りかねない。
教えることは、まだまだたくさんあるようだ。
「さびお、さびお!」
絆創膏を手に狼狽しているうにゅほの頭を撫で、とりあえずうがいをした。
真っ赤だった。
あ、今はもう痛くないです。
大丈夫です。



2014年5月30日(金)

髪を切った。
姿見の前で前髪を掻き上げる。
さっぱりして気分がよかったので、思わずシャツを脱ぎ捨てた。
「──……ふン!」
両腕を上げ、ダブルバイセップスを決める。
相変わらず、なんの運動もしていない人間とは思えないほどの逆三角形である。
体脂肪が内臓に集中していそうだ。
そのままサイドチェストに移行しようとしたとき、
「──ただいまー!」
うにゅほの声が階下から響いた。
慌ててシャツをかぶり、何事もなかったように家族を出迎える。
「おかえり、面白かった?」
「おもしろかった!」
「母さんたちも?」
「うん、面白かったよ」
母親の隣で、弟も頷く。
「◯◯もくればよかったのに」
「あー……」
しばし言葉を探し、
「……ほら、床屋行かなきゃだったから」
「そっかあ」
それで誤魔化されてしまうのだから、微笑ましいような、心配のような。
「××、兄ちゃんミュージカル嫌いだって言ってたよ」
「おいこら!」
余計なことを。
「みゅーじかる、きらい?」
「嫌い──というか、食わず嫌いだな。演劇は好きなんだけど」
歌って踊る意味がわからない、というか。
「でも、すごかったよ」
「凄かったか」
「しゃんでりあがね、こっちきて、おちるの」
「ああ、シャンデリアが落ちて怪人が死ぬんだっけ」
「兄ちゃん、それたぶん金田一」
楽しそうに話すうにゅほを見て、ほんのわずかだけ後悔がよぎった。
いや、でも、どうかなあ。
同じ機会が巡ってきたとして、今度は一緒に行くだろうか。
行く気もするし、行かない気もする。
連れて行ってほしいと頼まれたのなら、絶対行くと思うけど。



2014年5月31日(土)

照りつける太陽が俺たちを呼んでいた。
「さんぽ、さんぽいこ」
うにゅほが俺の袖を引く。
「はいはい」
犬か。
もともと犬っぽいけど。
「じゃ、中学校の奥のほうの道でも探索してみるか」
「おー」
このあいだGoogle Earthを見ていて気づいたのだが、アスファルトが途切れた先にも道が続いているようなのだ。※1
「あ、ついでに通帳の記帳もしてこよう」
「うん」
「きなこ切れてたっけ」
「まだある」
適当に支度して、家を出た。
「──……あー」
影の色が濃い。
夏とまでは言えないが、初夏と呼んでも構うまい。
「ちゅうがっこう、うんどうかいだって」
「へえー」
晴れてよかったと言うべきか、この暑いのに、と言うべきか。
「××、混ざってくれば?」
「やだ」
「俺も嫌だな」
「うへー」
うにゅほが、間の抜けた声で笑った。
喧騒の横を通り過ぎ、さらに奥へと進んでいく。
「なんかある」
「ああ、除雪機だな」
野ざらしのわりに、状態は悪くない。
誰かが管理しているのだろう。
緑の生い茂るのどかな野道を歩いていくと、やがて開けた場所に出た。
「あー……、なるほど、ここに出るのか」
「ゆきすてば?」
「そう」
堆雪場。
除雪、排雪した雪をダンプカーで集め、重機によって積み上げていく場所である。
いまだ解けきることのない雪山を見上げ、口を開く。
「なんか、ティラミスみたいだな」
茶色い泥と白い雪が層をなし、おどろおどろしいスイーツのようだ。
「てぃらみすって、ケーキ?」
「ああ」
「こすとこにあったやつ?」
「ああ」
「……そっか」
ティラミスに対する好感度が不当に下がる音がした。

※1 2014年5月28日(水)参照


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