>> 2014年3月




2014年3月1日(土)

「ね、かいものいかないの?」
「あー、ちょっと待って。寝癖直しちゃうから」
──という会話を交わしてから五分、
「……まだー?」
いまだに寝癖が直らない。
「悪い、もうちょっと……」
枕との接触部分と思しき後頭部のへこみが、どうしても元に戻らない。
「ここ最近、また帽子で誤魔化してたからなあ」
「ぼうし、だめなの?」
「帽子の癖以上に、寝癖を直さないこと自体が問題なんだと思う」
「なんで?」
「そうだな……」
ドライヤーを持つ手を下ろし、言葉を探す。
「寝癖が立つ場所って、だいたい決まってるだろ」
「……?」
うにゅほが俺の頭部に視線を向ける。
「あ、そだね」
自分の経験より俺の髪のほうがわかりやすかったらしい。
「寝癖が立った状態で寝たら、どうなると思う?」
「うーん……?」
「たぶん、寝癖がどんどん強化されていくんじゃないかなーと」
「なるほど」
「というわけで、駄目でした」
お手上げのポーズを取り、うにゅほにドライヤーを渡す。
「◯◯のかみ、かたいもんね」
「美容師をして、鋼のようと言わしめた髪の毛だからな……」
「あ、しゃがんで」
「はい」
「……すわって」
「はい」
ぺいぺいと俺の髪を濡らし、うにゅほがドライヤーをオンにした。
しばしして、
「なおらない……」
今日の寝癖はとんでもない難敵であるらしい。
「あんたたち、まだやってるの」
見かねた母親が、あるものをうにゅほに差し出した。
「えーと、ねぐせなおし?」
「それ使いなさい」
「うん」
うにゅほが霧吹きを構える。
「いや、ちょ、ちょっと待って」
「なにー?」
「それ、何年前の?」
十年くらい前から家にあったような気がするんだけど。
「……腐ってないだろうか」
俺の心配をよそに、
「ぷしゅー」
寝癖はなんとか直ったのだった。
なんかべたつくけど。



2014年3月2日(日)

従兄の奥さんが無事に出産したので、お祝いがてら赤ちゃんの顔を見に行くことになった。
数日前に会った妊娠中の従姉とは別人である。※1
うちの家系は今、ちょっとしたベビーラッシュなのだ。
「ゎー……」
従兄の奥さんに抱かれた赤ちゃんの姿を見て、うにゅほが囁くような歓声を上げる。
「ちいさいねえ、ちいさいねえ」
俺のジャケットを興奮気味に引きながら、
「かわいいねえ……」
とろんとした表情で赤ちゃんに見入っていた。
「赤ちゃんって言うだけあって、本当に赤いんですね」
「産まれたばっかりですからねー」
そんな雑談を交わしながら、順繰りに抱かせてもらう。
「おばあちゃん、ひまごだね」
「何人目だっけねえ」
おい婆さん。
「はい、××ちゃんも抱きます?」
「だ、だだ」
「──…………」
うにゅほの背中を撫でる。
「だ、だいていいですか!」
「はい、どうぞ」
起こさないよう、ゆっくりと赤ちゃんを手渡していく。
「首、気をつけてな」
「うん……」
赤ちゃんが、うにゅほの腕にすっぽりと収まった。
「──…………」
かちんこちんである。
「どうだ?」
「あつい……」
「でも、てのひらは冷たいんだよな」
赤ちゃんのてのひらをうにゅほの肩越しにくすぐると、指先をきゅっと掴まれた。
「かるいねえ……」
「うちにある4kgの鉄アレイと同じくらいなんだけどなー」
「そなの?」
「そうだよ」
「へえー……」
そんな会話をしていると、
「なんか、夫婦みたい」
従兄の奥さんに笑われてしまった。
「──…………」
うにゅほと顔を見合わせる。
「──…………」
洒落にならん。
しばらくすると赤ちゃんがぐずりだしたので、挨拶をして帰宅した。

※1 2014年2月26日(水)参照



2014年3月3日(月)

不二家でひなまつり用のケーキを買って帰宅すると、母親とうにゅほがちらし寿司を作っているところだった。
「おかえり!」
「ただいま。なんか気合い入ってるね」
「二人分だからねー」
「あんたもかい」
母親に裏拳でツッコむと、
「ちがうよー」
苦笑交じりにうにゅほが訂正した。
「おばあちゃんもだから、さんにんだよ」
「そう来たか……」
なんとも反応に困る。
「雛人形がないんだから、これくらいはね」
「おかあさん……」
「──…………」
あれ、去年も一昨年もなにもしていなかったような。
俺の半眼に気づいたか、
「そろそろ出来上がるから、(弟)呼んできて」
そう言って、母親がしゃもじを振った。
ちらし寿司はたいへん美味だった。
美味だったが、母親がワサビと柚子胡椒を間違えてたいへんなことになっていた。
ひとくち食べさせてもらうと、
「──…………」
「──……わー」
「……食べられないことはないけど」
「たべたことないあじ」
すくなくとも、ちらし寿司には合わない。
食後に苺ミルクのケーキをたいらげ、ふたりで自室に戻った。
「──お?」
テレビの傍に、一対のくまの雛人形が飾ってあった。
「これ、出したんだ」
「うん」
「一年ぶりだなー」
たしか、一昨年のひなまつりに百円ショップで購入したものだ。
「──…………」
こういうところ、女の子らしいなあ。
うんうんと頷いていると、
「?」
うにゅほが不思議そうな顔で俺を見上げた。
「なんでもないよ」
そう言って、ぽんぽんと頭を撫でた。

※1 2012年3月3日(土)参照



2014年3月4日(火)

「──……あ゙ー」
頭が痛い。
肩が凝る。
原因はおおよそわかっている。
目が疲れているのだ。
そんなことを口に出すと、母親から
「パソコンばっかやってるから」
と言われることが目に見えているので、出さない。
パソコンばっかやっているのは年中変わらないのだから、別の変数があると考えるのが妥当である。
「──…………」
目蓋を閉じ、眼球を軽くマッサージする。
「……ん?」
すこし気になることがあった。
「××ー」
「はい」
手招きすると、うにゅほがぱたぱたと駆け寄ってきた。
犬っぽい。
「なにー?」
「目ー閉じて」
「?」
素直に目蓋を下ろす。
「開けないように」
「うん」
うにゅほの目蓋に親指を添え、そっと押す。
「──……?」
頭上に巨大なはてなが浮かび上がっていることが、雰囲気でわかった。
「なるほど」
「なるほど?」
「やっぱ、眼圧がちょっと高くなってるみたいだな」
目蓋から指を離すと、うにゅほがしぱしぱとまばたきをした。
「がんあつって?」
「眼球のなかの──いや、そうだな、ちょっと俺の目蓋押してみ」
眼球の構造を解説しようとして、やめた。
「さわるよ?」
「ああ」
細い指が俺の眼球を圧迫する。
「今度は、自分の目蓋を押す」
「うん」
「どうだ?」
「……ぐにぐにしてる?」
「それはちょっとわからないけど、俺のほうが硬くなかったか?」
「かたかった」
「硬いと、眼圧が高い」
「ふうん」
「眼圧が高いと、目の病気になりやすい」
「!」
「まあ、単なる眼精疲労だと思うけど」
緑内障という年齢でもないし。
「びょういん」
「あんまり続くようならな」
目の病気は怖いので、早め早めの受診を心がけたい。



2014年3月5日(水)

「~♪」
キャッシュバックに釣られ、ほいほいとauに乗り換えた。
「あいふぉん」
「ああ」
「あいふぉん、なに?」
「iPhone5sだよ」
「ごーえす、ふぁいぶよりいいの?」
「いいんじゃないかな、たぶん。あんまよく知らんけど」
「しらんの」
「だって、5sにしたのは、性能とかが理由じゃないもの」
「?」
「あれ、教えてなかったっけ……」
「……?」
これまで使っていたiPhone5の電源を入れ、カメラを起動する。
「ほら、見てみ」
レンズを壁に向け、うにゅほを手招いた。
「あ」
「な?」
「これ、しみ?」
画面の中央に、円形の影が映り込んでいた。
「シミじゃなくて、レンズのなかにホコリが入ってるらしいんだよ」
「ほー」
「で、直すには二万かかるって言われてさ。保証切れてるから」
「にまん!」
うにゅほが目を丸くする。
「だったら、現金もらって新しいのに変えたほうがいいだろう」
「あー」
うんうんと頷く。
「──あ、なめこ!」
「なめこがどうした」
「なめこ、さいしょから?」
なめこ栽培キットDeluxeは、うにゅほお気に入りのアプリである。
データが消えたとなれば、さぞかし落ち込むことだろう。
「や、大丈夫」
なめこを起動し、iPhone5sを手渡した。
「あれ、かわってない」
「すべてのデータをPCにバックアップしてあるから」
「え、じゃあ、なにがかわったの?」
「えー……と、」
しばし思案し、
「カメラがちゃんと使えるようになった」
「うん」
「ストレージが64GBに増えた」
「うん?」
「あと、指紋認証機能が使えるらしい」
「ふうん……」
「……他は、特にないかな」
「あんまりかわんない?」
「変わらないな……」
有料のオプションだけは、忘れずに外しておかなくては。



2014年3月6日(木)

目の痛みが取れないので眼科を受診したところ、単なる眼精疲労と診断された。
深刻な病気でなかったことは喜ぶべきだが、単純であるが故に根が深いとも言える。
「めぐすりもらったねえ」
「買ったんだけどな」
車内で紙袋を開き、目薬を取り出す。
「ビタミンB12がどうこう言ってたっけ」
「──……あれ?」
眼鏡に手を掛けたとき、うにゅほが怪訝そうな声を上げた。
「めぐすり、ピンク……」
「ピンク?」
目薬を透かして色を確認する。
「あ、ほんとだ」
容器が赤いのかと思っていたのだが、どうやら内容液自体が赤いようだ。
「そういえば、ビタミンB12は赤いとか赤くないとか聞いたことがあったようなないような」
おぼろげである。
「あの」
「うん?」
「め、だいじょぶ? あかくなんない?」
「あー……」
なるほど、気持ちはわからないでもない。
「眼科で処方されたんだから、目に悪いってことはないと思うよ」
「あかくなんない?」
「まあ、さしてみようじゃないか」
掛けていた眼鏡をうにゅほに手渡し、紅色澄明の液体を点眼する。
「──…………」
まばたきを、二度、三度。
「ほら、目ー赤いか?」
「う」
うにゅほの頭がふらふらと揺れていた。
「……なんで俺の眼鏡を掛けてるんだよ」
「もらったから……」
「あげてないって」
眼鏡を取り上げ、掛け直す。
「……目、赤いか?」
「あ、あかくない」
点眼するたびに眼球が赤く染まる目薬なんて、すぐ発売停止になるだろう。
「これさして、しばらくは様子見だな」
「うん」
「肩凝りも、よくなればいいんだけど」
「かたもむよ?」
「帰ったら頼むな」
「うん」
うにゅほの握力には期待していないが、心地よければなんだっていいのである。



2014年3月7日(金)

「はー……」
中掃除※1を済ませ、ソファで天井を仰いでいると、
「♪~」
うにゅほが機嫌よく、俺の膝に腰を下ろした。
「きれいになったねえ」
「けっこう髪の毛とか絡まってたな」
「たいへんだった」
「お前の抜け毛だ、お前の」
「にゅあー」
ほっぺたを揉みしだくと、うにゅほが妙な声を上げた。
嫌がってるんだかそうでないんだか。
「それにしても──」
そのまま髪の毛に手を触れる。
「最近、ずっとふたつにくくってるな」
「うん」
左右に分けた髪の毛を適当にくくり、前に垂らすのが、定番の髪型になりつつある。
「へん?」
「いや、変じゃないけど」
似合ってはいる。
「これね、いいんだよ」
「いいのか」
「うん」
言葉足らずなので、なにがいいのかよくわからない。
「……どういいんだ?」
いちおう尋ねてみる。
「どう?」
「いや、その髪型が」
「かみがた?」
察しが悪い。
「その髪型だと、なんかいいことあるのかって」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「あったかいんだよ」
その返答に合点がいった。
「なるほど、マフラー代わりになるのか」
「うん」
たしかに、うにゅほの首筋は暖かそうに見える。
「まいてあげる」
うにゅほが立ち上がり、俺の背後に回った。
ふさ。
左右から髪の毛が垂れ落ちる。
「あったかい?」
「くすぐったい」
「えー」
気温22℃の室内で、保温性もないものだ。
「──…………」
でも、なんとなくいい匂いがしたので、悪い気分ではなかったのだった。

※1 普段より大掛かりだが、大掃除と呼ぶまでもない掃除のこと。



2014年3月8日(土)

唐突にビーフジャーキーが食べたくなったので、コンビニへと足を運んだ。
「あれ、辛口しかない」
「からくちぃー?」
うにゅほが眉根を寄せる。
「コンビニで売ってるものなんて、言うほど辛くないって」
「ほんとー……?」
たぶん。
辛いもの対策としてピーチティーと豆大福を一緒に購入し、車内へ戻った。
「ビーフジャーキー出して」
「いまたべるの?」
「ひとくちだけな」
「じゃーわたしもたべる」
「はいはい」
うにゅほがビーフジャーキーの袋を開き、端切れをひとつ口に入れた。
「──…………」
もむもむと咀嚼する。
「ん……?」
ふと小首をかしげ、
「──あ、からい!」
未開封のペットボトルに慌てて口をつけた。
「ひたい!」
フタに歯が当たったらしい。
「そんなに辛いのか」
「からいー」
「どれどれ……」
「だいふくー」
もちょもちょと豆大福にかぶりつくうにゅほを横目に、ビーフジャーキーを齧る。
「──…………」
「あまい……」
「……お、辛い。けっこう辛いなー」
「からいよう」
どうしてそんなに辛いのか、すぐにわかった。
「うわー、裏側にべったり唐辛子が塗ったくってある……」
ビーフジャーキー自体が赤褐色なので、気がつかなかった。
「からいよ」
「わかったって」
「◯◯、からくないの?」
「××ほどはな」
ちょび、とピーチティーを啜る。
「……でも、豆大福ひとくちおくれ」
程度の差はあれ、辛いものはやっぱり辛いのだった。



2014年3月9日(日)

「あれー……」
クローゼットを漁りながら呟く。
「ベルトがない」
「ベルト?」
うにゅほが据え付けのネクタイラックを指さし、
「たくさんあるよ」
と不思議そうに言った。
「あるけど……」
ネクタイラックに無理矢理ベルトを引っ掛けているのである。
「リングベルトがないんだよ」
「?」
「リングベルトっていうのは、バックルのないベルトなんだけど」
「……?」
「バックルっていうのは──」

中略。

「なるほど」
「わかった?」
「リングベルトがないんだ」
「そうそう」
「ふつうのはだめなの?」
「うーん……」
そういう気分じゃないんだよなあ。
うにゅほはベルトを一本しか持っていないから、感覚的に理解しづらいのかもしれない。
「そうだ、ベルト買いに行こうか」
「ベルトあるよ?」
「それはそれとして、俺も別のリングベルト欲しいし」
「そか」
適当な革のベルトを締め、外出した。
近所のGUで適当に済ませようかとふらふら向かったところ、
「──…………」
「──…………」
駐車場が渋滞するほど混んでいたので、無言で通り過ぎることにした。
「どこいくの?」
「こっち服屋ないし、リサイクルショップにでも行ってみるか」
ハードオフ、セカンドストリート、万代とはしごし、ようやく一本だけリングベルトを発見した。
「……どうしてリサイクルショップはベルトを一ヶ所にまとめないんだ」
「ねー」
無駄に疲れた。
「これかう?」
「買おうかな、悪くないし」
くたびれたパステルカラーで、ちょうどいい使用感だ。
「でも、ひとつしかなかったね」
「ひとつでいいだろ、フリーサイズだし」
「?」
「ベルトの穴がないから、俺でも××でも好きに使えるってこと」
「おそろい?」
「ふたりで使いまわすのは、お揃いって言わない気がするけど……」
帰宅したのち、リングベルトの締め方をうにゅほに教示した。
いろいろあったが、長くなりそうなので割愛する。



2014年3月10日(月)

中華まんでも買おうかとセブンイレブンに寄ったとき、うにゅほがへんなことを言い出した。
「コーヒーのみたい」
「コーヒー牛乳か、いいな」
「ううん」
ふるふると首を振る。
「ちがくて」
「缶コーヒー?」
「ちがう」
取りかけたジョージアから指を離す。
「ふつうのコーヒー」
「ふつうのって、セブンの挽きたてコーヒーだかってやつ?」
「うん」
「──…………」
しばし思案し、
「……どうしていきなり?」
「おいしいって」
「父さんが?」
父親はコーヒー党だ。
「おかあさんも」
「へえー」
それは珍しい。
すこしだけ食指が動いた。
「でも、コーヒーってあれだぞ。苦いぞ」
「にがくないとおもう」
「どうして?」
「おいしいっていってたもん」
うにゅほにとって、苦味と美味しさは並び立たないものらしい。
俺も人のことは言えないけど。
「苦くないコーヒーって、アメリカンとか?」
「さー」
「うーん」
挽きたて淹れたてを売りにしているのに、薄いコーヒーなんで出すだろうか。
「……ま、物は試しだな」
「やた」
レジでカップを購入し、コーヒーマシンにセットする。
「Rってほうな」
「はい」
ぽち。
うにゅほがボタンを押すと、コーヒーマシンが稼働を始めた。
「おー……」
「本格的、なのか?」
比較対象が、家にある年代物のコーヒーメーカーだから、よくわからない。
「できた!」
湯気の立つカップをうにゅほが取り、鼻の先で回した。
「コーヒーのにおいがする……」
「そりゃそうだろ」
ず。
舌やけどを警戒しながらか、おもむろにコーヒーを啜る。
「──…………」
「美味しい?」
「にがい」
「やっぱりか……」
「ん」
うにゅほからカップを受け取り、ひとくち。
「……濃いな」
「うん」
ミルクとガムシロップをみっつずつ取り、店を出た。
それでも苦かった。



2014年3月11日(火)

「……んが」
よい香りが鼻腔をくすぐる。
「あ、おきた」
目蓋を開くと、うにゅほがいた。
両手で包むように小皿を持っている。
「おかあさんとクッキーやいたよ」
「ああ、クッキーか……」
道理で甘い香りがすると思った。
「たべる?」
「食べる」
「あついよ」
「うん」
人差し指で触れ、クッキーの温度を確かめる。
焼きたてである。
チェック柄のクッキーをそっとつまみ、口に入れた。
「おいしい?」
「ふまい」
「そか」
うにゅほがふにゃりと微笑んだ。
「ああ、バターをそのまま齧ってるようなもんなのに、やたら美味い……」
「ほいしいねえ」
ナッツ入りのクッキーを食べながら、うにゅほが首肯する。
粗熱の取れたばかりのしっとりとした生地が、舌の上でほろりと崩れ、溶けていく。
「まだある?」
「たくさんあるよ」
「おー」
朝ごはんはクッキーでいいな。
「××、レシピはもう覚えたのか?」
「えーと、たぶん」
「このやたら美味いクッキーは、一子相伝だからな」
「いっしそうでん?」
「ひとりの子供にしか教えないってこと」
「ふうん」
「まあ、弟も作れるんだけど」
「◯◯は?」
「作れない」
「つくれないんだ」
「だから、××が焼いてくれな」
「うん」
うにゅほが素直に頷いた。
「──…………」
じっと天井を見る。
さて、クッキーという安易な手段を封じられてしまったわけだが、どうしよう。
というか、よりによって何故このタイミングで。
ホワイトデーの足音が聞こえる。



2014年3月12日(水)

「──…………」
「──…………」
車内に無言が満ちる。
「◯◯、これ」
「ああ」
「どこいくの?」
「どこまで行くんだろうな……」
床屋へ行こうとして、誤って高速道路に迷い込んでしまった。
なにを言っているのかわからないと思うが、事実である。
「……住宅街から無理に出ようとしたのが、そもそもの間違いだった」
札幌新道を左折して、気づくとETCゲートをくぐっていた。
すべてが遅かった。
「どうするの?」
「そりゃ、次のインターで降りて──」
夕景が眼下に映える。
なんだか、どうでもよくなってきてしまった。
「……このまま行けるとこまで行って、温泉にでも入ろうか」
気まぐれな小旅行を行えるくらいの経済力は、ある。
たまにはいいのかもしれない。
「おー……」
わくわくと瞳を輝かせるうにゅほの姿を見て、ふと我に返った。
「いや、今のなし」
「えー」
「みんな心配するからな」
「あ、そか」
「行くなら行くで、ちゃんと予定を立てないと」
「そだねー」
「──…………」
旅行、か。
口のなかでそう呟いて、ハンドルを握り直した。
床屋の伯父に仔細を告げると、ハサミが震えるくらい笑われた。
鉄板ネタができたことを喜ぼう。



2014年3月13日(木)

「──…………」
鏡を覗き込みながら、無言で髪を撫でつける。
「ぴこん」
撫でつける。
「ぴこん」
「それ、寝癖が立つ音?」
「うん」
擬音にすると可愛らしいが、寝癖としては強靭だ。
「なおんないねえ」
「ただでさえ髪が硬い上に、切ったばっかだからな……」
こうなってしまうと、ドライヤーはおろかシャワーさえ無力である。
霧吹きで湿らせてヘアバンドの下に封印するより道はない。
「……ま、そこまでするほどでもないか」
前から見れば、気にならない。
「そかな」
「え、目立つ?」
「うん」
「そうか……」
後ろから見ると、激しいらしい。
「よし、今日は外出しない!」
「え、おばあちゃんのびょういん……」
「無理だった!」
頭を抱える。
「ぼうし、だめなの?」
「帽子なー……」
言葉を探しながら、訥々と答える。
「あんまり帽子に頼ってると、だんだんひどくなっていくんだ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「えーと、寝癖が立った状態で寝るのと、たぶん同じ」
「あー」
うんうんと頷く。
以前にも似たようなことを言った気がする。※1
「──あ、そうだ」
ふと、あることを思い出した。
「濡らしたタオルをレンジに入れると、蒸しタオルになるらしい」
「なんか、あぶないきーする」
「10秒ずつ様子を見ていけば、大丈夫じゃないか?」
「うーん……」
やってみた。
「あち、あちちち」
「だいじょぶ?」
「ああ、これを寝癖に当てて──」
しばし待つ。
「直った?」
「あ」
後頭部に、うにゅほの指が触れる。
「ちょっとげんきなくなってる」
寝癖の元気とはいったい。
何度か繰り返すと、いくらかましになったようだった。
この手は使えるかもしれない。

※1 2014年3月1日(土)参照



2014年3月14日(金)

「××、行くぞー」
「はーい」
ミラジーノに乗り込み、エンジンを掛ける。
最初の信号を過ぎたところで、
「どこいくの?」
と、うにゅほが尋ねた。
遅い。
「どこ行くと思う?」
「うーと」
思案し、
「……やまだでんき?」
「不正解」
「やまだでんきじゃないほう?」
「ケーズデンキな」
違うけど。
「今日は、映画を観に行こうと思って」
「えいが!」
うにゅほの背筋が伸びた。
「えいが、すごいね!」
「まだ観てないがな」
言葉足らずがゆえに、その興奮が強く伝わってくる。
「ま、ホワイトデーってことで」
「ほー……」
ぽす。
シートに身を預け、うにゅほが息を吐いた。
「なにが観たい?」
「えっ」
返答に窮するうにゅほを横目に、口角を上げた。
「──なんて、チケットはもう買ってあるんだけどな」
「なにみるの?」
「ドラえもん、新・のび太の大魔境」
「ドラえもん!」
うにゅほが再び前のめりになった。
いいリアクションである。
「銀の匙とかロボコップもいいかと思ったんだけど、××ならこれかと思って」
「──…………」
うん、うん、と深く頷いている。
すごいなドラえもん。
サッポロファクトリー内のシネコンに入館すると、やはりと言うべきか、親子連れの姿が目立った。
「すいてるねえ」
「平日だから、こんなもんだよ」
雑談するうちに館内の照明が落とされ、上映前にお決まりのCMが始まった。

──二時間後、

「──…………」
「──…………」
「……なんか、すごいよかったな」
「うん……」
改悪を覚悟していたのだが、文句なしの正統なリメイクだった。
「去年も観に行けばよかったかも」
「そだねー」
「……DVD、借りて帰る?」
「うん!」
ドラえもん漬けの日々が続きそうな予感がする。



2014年3月15日(土)

「ぶー……」
うにゅほの頭がふらふらと揺れている。
「あたまいたいー……」
「寝てなさいってば」
「でも」
「寝てなさい」
「うー」
おでこを押すと、うにゅほがころんと寝転がった。
風邪だろうか。
「でも、でかけるんでしょ」
「あー……」
作業用のテーブルを買いに行くつもりだったのだ。
「べつに、明日でも構わないし」
「んー」
天井を見つめ、うにゅほが唸る。
「いってきていいよ?」
「珍しいな」
「だって、いくよていだったんでしょ」
「予定ってほどでもないけど……」
決めたの、昨日の夜だし。
「だから、いってきていいよ」
うにゅほが力なく微笑んだ。
「……そっか」
そこまで言うなら、厚意に甘えることにしよう。
「じゃあ、一時間くらいで帰ってくるから」
「うん」
「おみやげ、なにがいい?」
「うーと……」
軽く思案し、
「ドラえもんのでぃーぶいでぃー……」
はにかみながら、そう答えた。
昨日、映画館からの帰りにTSUTAYAへ寄ったのだが、ひみつ道具博物館はすべて貸出中だったのだ。
「わかった、ゲオ覗いてみるな」
「うん」
毛布を、うにゅほの肩まで引き上げる。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい……」
後ろ髪を引かれながら、自室を後にした。
ちょうどいいテーブルは買えたが、DVDはゲオでも貸出中だった。
やはり人気があるらしい。
手ぶらで帰るのも気が引けるので、あんまんとプリンを買って帰った。
ドラ焼きにしようかと悩んだのは秘密である。



2014年3月16日(日)

「えーと、鶏肉と、なんだっけ」
「なっとうと、しょうがと、なすと、なすと──……ちょっとまってね」
うにゅほが、コートのポケットをまさぐる。
「晩御飯はザンギかな」
そう尋ねると、
「うん、だって」
メモ用紙を手に、頷いた。
日曜日だけあって、スーパーは盛況のようだった。
幾重にも積まれた買い物カゴを掴み、野菜売り場に足を踏み入れる。
「あ、しめじだよ」
「しめじも?」
「うん」
うにゅほが、しめじのパックをカゴに入れた。
「えりんぎだ」
「エリンギ買うなんて、珍しいな」
「あ、ちがう。えりんぎちがうよ」
ふるふると首を振る。
「えりんぎって、しめじなんだよね」
「……えっ」
「しめじがそだつと、えりんぎなんだよね?」
「そうなの?」
初耳である。
「あんまり似てないけどなあ」
エリンギを手に取り、まじまじと眺める。
「テレビかなにかで見たの?」
「?」
うにゅほが小首をかしげた。
「◯◯、いってたよ?」
「──…………」
一瞬、思考が停止し、
「……あー」
思い出した。
いつだったか、冗談のつもりでそんなことを言った気がする。
どうしよう。
まあいいや。
「××ごめん、それ嘘」
「えー!」
「すまん、すまん」
「もー……」
うにゅほが呆れた顔をする。
「しんじてたのに」
「あれ、でも、おかしいな。いつもなら、すぐネタばらしすると思うんだけど」
「──……んー?」
「どうかした?」
首を捻り、うにゅほが呟くように言った。
「……なんか、じょうだんだよっていってたきーする」

結論:ふたりとも、もっと記憶力を磨きましょう。



2014年3月17日(月)

「いい天気だなー……」
「そだねー」
窓を開くと、かすかに春が香った。
「散歩にでも行くか」
「いいねー」
寝癖を帽子で隠し、外に出た。
「ぐるっと?」
「適当でいいから、目的地を決めよう」
「もくてきち……」
しばし黙考し、
「あ、そだ!」
うにゅほが、快活な瞳でこちらを見上げた。
「おさけやさんいきたい」
「酒?」
意想外の提案である。
「おとうさんのたんじょうび、もうすぐだから」
「あー……」
忘れていた。
危ないところだった。
「××はお酒にするのか」
「うん」
「まあ、他に喜びそうなものが思い浮かばないもんな……」
満たされている、と言い換えることもできるかもしれない。
「あ、なんとかさんのでぃーぶいでぃー、ほしいっていってたよ」
「誰の?」
「でぃー……──」
うにゅほの動作が停止する。
「……でぃー、なんとかさん」
情報がほとんど出てこなかった。
「まあ、それはいいや。また今度で」
ひらひらと手を振り、歩き出す。
「なんのお酒にするんだ?」
「うと、ビール?」
「徒歩でビールは勘弁してほしいな……」
まさか一缶というわけにもいくまい。
「ういすきー」
「妥当だな」
「じゃ、ういすきーにします」
「財布は持った?」
「だいじょぶ」
ポシェットを叩き、にかっと笑う。
「◯◯、どうするの?」
「どうしような」
酒ばかり贈っても仕方がない。
「まだ余裕あるし、すこし考えてみるよ」
「そか」
うにゅほは、リカーショップでしばし悩んだのち、ウイスキーではなくブランデーを購入した。
違いを尋ねられたが、答えられなかった。
当の父親も、よくわからずに飲んでいる気がする。



2014年3月18日(火)

ゴム製の耳かきを見かけ、物は試しと購入した。
らせん構造で耳垢をこそげ落とし、反対側のソフトブラシで仕上げを行うらしい。
「買ったはいいけど──」
「?」
相手がうにゅほとは言え、耳かきを共用するのはすこし抵抗がある。
そう告げると、
「そかな」
うにゅほがきょとんと答えた。
気にならないらしい。
「使うのはいいとしても、使われるのって嫌じゃないか?」
「えー……?」
首をかしげる。
よくわからないらしい。
「……まあ、いいや。水洗いできるみたいだし」
「うん」
「では、俺から試してみましょう」
らせん状の先端を耳の穴に挿入する。
「きもちいい?」
「ふつう」
耳かきだな、という感じである。
「とれた?」
「まあ、そこそこ」
ティッシュで先端を拭い、今度はソフトブラシ側を差し入れる。
「きもちいい?」
「うーん……」
悪くはないが、特段によくもない。
「試してみるか?」
「うん」
「綺麗にしてからな」
「はい」
洗面所で耳かきを洗い、しっかりと水を切ったあと、うにゅほに手渡した。
「いきます」
うにゅほが耳かきを構える。
ぷるぷると震える手が不安を誘うが、見守ることにする。
「あー」
「気持ちいいか?」
「ふつう」
「ふつうだよな」
「うん」
「──……あのさ」
「うん?」
「口、開いてるぞ」
「!」
うにゅほが口を真一文字に結ぶ。
「アホっぽいなー」
「◯◯もあいてたよ?」
「……まじで?」
「まじ」
まったく気がつかなかった。
今度から注意しよう。



2014年3月19日(水)

「ぐあー!」
うにゅほの布団にダイブする。
「だいじょぶ?」
「足が痛くてかなわん……」
ひらひらと爪先を動かすと、うにゅほが靴下を脱がせてくれた。
「運動不足を実感する」
「そだねえ」
「長靴で三時間も歩けば、もう運動不足とか関係ない気もするけど」
「ながぐつでいったの?」
「道路があちこち水没してるからな、仕方ない」
「あー」
路面の雪は均一に解けないので、気温の高い日は、巨大な水たまりが無数に生成されてしまうのだ。
「それだけ春が近づいてるってことだけどな」
「はる……」
うにゅほが遠い目をする。
「はる、いいねえ……」
「春がどうこうより、もう雪を見たくない」
白銀の世界は見飽きたのである。
「さんぽしたいねえ」
「今はしたくない……」
とにかく足が痛かった。
「あ、あしもむ」
「頼むー」
うつ伏せになると、ちいさな手がふくらはぎに触れた。
「ふとい」
「御挨拶だな……」
「はれてる?」
「あー、むくんでるかも」
「……むくん?」
「たぶん、足のほうに血が溜まってるんだろう」
「ほー」
もみ。
「もっと強くていいよ」
「はい」
もみもみ。
「もっと、ぎゅーっと」
「ぎゅうー」
「そうそう」
「──…………」
「──…………」
「……はー!」
十秒と保たなかった。
「うん、やっぱそこそこでいいや」
「はい」
しばらくマッサージを受けていると、血行がよくなったのか、ふくらはぎがやたらと痒くなった。
疲れは和らいだ気がする。



2014年3月20日(木)

今日は父親の誕生日だった。
「ううふ……」
誕生祝いに焼肉をたらふく食べて帰宅し、ソファに寝そべって腹をさすっていると、
「──…………」
うにゅほが俺の顔を覗き込んだ。
「ね」
「んー?」
「おとうさんに、プレゼントあげないの?」
「あ」
上体を起こす。
「忘れてた」
「えー」
うにゅほが半眼でこちらを睨む。
「いや、違う、そういう忘れてたじゃない」
「ちがう?」
「ネットで注文してあったんだけど、そのことを忘れてたんだ」
既に発送されているはずなのだが、思いのほか届くのが遅い。
「なんにしたの?」
「届いてから見せようと思ってたんだけど──ま、いいか。
 タンブラーだよ」
「たんぶらー?」
「細長いコップと考えて間違いない」
「へえー」
うんうんと頷く。
「でも、ただのタンブラーじゃなくて、真空断熱タンブラーなんだ」
「──……?」
小首をかしげる。
その反応は予想していた。
「ざっくり説明すると、あったかいものは冷めにくく、冷たいものはぬるくなりにくい、という」
「なんで?」
「……それを、本当に知りたいのか?」
「──…………」
しばし黙考したのち、
「ううん」
ふるふると首を横に振った。
賢明である。
「父さんはビールだのコーヒーだの好きだから、ちょうどいいかと思ってさ」
「うーん……」
うにゅほが唸る。
「ふしぎだねえ……」
「原理を説明してほしいのか?」
「ううん」
首を振る。
頑なである。
「届いたら、実験してみたいな」
「プレゼントなのに」
「大丈夫、そう思ってふたつ注文してあるから」
届くのが楽しみだ。



2014年3月21日(金)

我が家に犬がやってきた。
飼い始めたわけではなく、両親の友人の飼い犬を数日間預かることになったのだ。
「どんないぬかな」
「ポメラニアンとなんかのミックスだっていうから、たぶんキャンキャンうるさいぞ」
「そかー」
わくわくしながら帰宅すると、
ワン! ワンワン! ワンワン! ヒャァン! ヒャンヒャン! ヒャン!
盛大に出迎えられた。
「わああ」
俺の後ろにうにゅほが隠れる。
「こわい!」
「まあ、あれだ。まだ慣れてないだけだよ」
「そかな……」
「知らない家にいきなり連れて来られたんだから、不安なんだろうな」
「……うん、うん、そだね」
そうは問屋が卸さなかった。
部屋から出ると、
キャンキャンヒャンヒャァン! ワン! ワン!
ソファに座ると、
ヒャン! キャンキャンキャンキャン!
おやつを食べると、
──…………(オスワリ)
そんな具合で、とにかく吠えまくる。
怯えているのかと言えばそうでもなく、相手をせずに放っておけば擦り寄ってくる人懐こさもある。
ただ、こちらが動くと身構え、俊敏な動きで翻弄したのち、烈火のごとく吠え立てるのだ。
「生き急いでるなあ……」
自室に戻ると、うにゅほがもじもじしていた。
「怖いか……」
「うん……」
「噛まないぞ、甘噛みはするけど」
「ほえるもん」
「──……ああ」
一昨年死んだ飼い犬は、まったく吠えない犬だった。
だから、吠え立てられると、激怒されているような気がするのかもしれない。
「もうすこし、慣れてくれるといいんだけどな」
「うん……」
隣に腰を下ろし、うにゅほの頭を撫でた。
「──……あの、◯◯」
「どうした?」
「あのね」
「ああ」
「……といれいきたい」
うにゅほを背中にかばいながらトイレまで付き添う羽目になった。
双方共に、もうすこし慣れてもらいたいところだ。



2014年3月22日(土)

父親の誕生日プレゼントにと注文した真空断熱タンブラーが二日遅れで届いた。
「さて、実験だ」
「おとうさん、かえってきてないのに、いいの?」
「気にしない気にしない」
体裁を気にする父親でもない。
化粧箱を開き、タンブラーを取り出す。
「あ、ぶあついね」
「そのあいだが真空になってるんだろうな」
タンブラーを水洗いし、ペプシネックスを八分目ほど注ぐ。
ガラス製のビアジョッキにも同様に注ぎ、氷をみっつずつ投入した。
「あとは待つだけ」
「ほんとにぬるくならないのかな」
うにゅほがタンブラーを両手で包み、
「……?」
おもむろに首をかしげた。
「つめたくない」
「あー」
なるほど。
「ぬるくなったのかな」
「ひとくち飲んでみたらいいんじゃないか」
「うん」
頷き、タンブラーに口をつける。
「……つめたい!」
「だろうな」
「なんで?」
「外側が冷たくないってことは、冷気を閉じ込めてるってことだろ」
「あ、そか」
「だから、ジョッキのほうは冷たいし、結露もしてる」
「びしょびしょだ」
「拭いとこう」
日が暮れるまで放置した結果、タンブラーの氷は半分ほどが解け残っていた。
ビアジョッキのほうは言わずもがなである。
「うん、これはいいものだ!」
「すごいねえ」
「結露しないから、夏場とか重宝しそうだな」
「……うん」
うにゅほがしみじみと頷き、言った。
「かがくのしんぽとは、かくもすごいものなんだねえ……」
「なにキャラだよ」
「うへー」
照れ笑いを浮かべながら、うにゅほがタンブラーを傾けた。



2014年3月23日(日)

リビングに通じる扉を開くと、
ワン! ヒャンヒャン! ヒャン!
預かっている仔犬が機敏に回転しながら吠えた。
「ほら、すこし大人しくなってる」
「そかなー……」
犬が来てからというもの、うにゅほは部屋に閉じこもりがちになってしまった。
「しばらくほっとけば静かになるし、あとは可愛いもんだよ」
「うん……」
「ごはんのときは大丈夫じゃん」
「ごはんときは、おすわりしてるもん」
「そうだけど」
目にも留まらぬ身のこなしと、脳髄に響く甲高い鳴き声とが、うにゅほに苦手意識を植え付けてしまっているらしい。
「でも、見た目は可愛いだろ」
「みためは……」
薄く開いた扉越しにそんな会話をしていると、父親が口を挟んだ。
「おう、ちゃめ、まだ怖いのか!」
「こわい」
「俺なんてぜんぜん怖くねーけどなあ」
そう言って、ウイスキーをロックで傾ける。
自慢にならない。
「出てきたときにしか吠えねーんだから、こいつにしたら挨拶みたいなもんだろ」
「……あいさつ?」
「挨拶!」
「あいさつ……」
しばし考え込み、
「こ、こんに、こんばんわー……」
うにゅほが僅かに扉を開く。
ヒャン!
「ひ!」
ばたん。
「弱い……」
父親と顔を見合わせ、溜め息をついた。
しかし、この「挨拶」という認識が功を奏したのか、
「……こんばんわー」
キャン! ヒャンキャン!
「──…………」
逃げ腰の姿勢は変わらないものの、ほんのすこしだけ犬に近づくことができるようになった。
「ふー……」
「あとは、触れればいいんだけどな」
「むり、むり」
「手を向けたら舐めてくるよ」
「……ほんと?」
うにゅほが、立ったまま右手を犬の鼻先に差し出した。
キャン!
かぷ。
「わー!」
うにゅほが飛び上がる。
「かまれた! かまれた!」
「甘噛み、甘噛みだって!」
仔犬を預かるのは明日までだ。
それまでに仲良くなるのは、どうにも難しそうである。



2014年3月24日(月)

「──…………」
薄く開いた扉の隙間から、うにゅほの右目が覗いていた。
キャン!
「う」
仔犬の鳴き声にうにゅほが怯む。
「怖がるから、余計に吠えられるんだと思うけどなあ」
「うー……」
仔犬を抱き上げ、俺の膝に乗せる。
「ほら、いいよ」
「──…………」
おずおずと扉を開き、うにゅほが自室から出てきた。
「……はなさないでね?」
「はいはい」
苦笑する。
「今から、飼い主が迎えに来るってさ」
「そか」
「結局慣れなかったなあ」
「ごめんなさい……」
「謝る必要ないからな、ほんとに」
誰にでも苦手なものはあるし、誰に迷惑をかけたわけでもない。
「でも、最後にちょっとだけ撫でてみない?」
「むりです」
きっぱりと断られてしまった。
うーん、仔犬を預かると聞いたときは、もっと感動的な展開を想像していたんだけど。
「──ま、現実はこんなもんか」
「そうです」
「犬、嫌いになった?」
「いぬすきだよ」
「こいつは?」
「……にがて」
ヒャン!
仔犬が不服そうに吠えた。

しばらくして、仔犬は無事に飼い主の元へと帰っていった。
「はー……」
うにゅほがくったりとソファに倒れ込む。
「おつかれさん」
「うん」
「うちでは小型犬は飼えないなー」
「……いぬ、かうの?」
神妙な顔で、うにゅほが尋ねた。
「飼うつもりないけど、飼いたいか?」
「──…………」
首を横に振る。
「コロいるもん」
「……そっか」
一昨年死んだ飼い犬が、写真立てから俺たちを見上げていた。



2014年3月25日(火)

「──……う」
グラスから口を離し、思わず眉根を寄せた。
「このワイン、すっげー甘い……」
「きのうかったやつ?」
「そう」
「おたるのやつ?」
「そう」
国産ワインはどうかと試しに買ってみたのだが、これはない。
「あまいのに、だめなの?」
「甘けりゃなんでもいいってわけじゃないでしょ」
「そかなー」
ピンと来ないようだ。
「えーっと、ちょっと待ってな」
腕組みをし、天井を見上げながら、適当な言葉を探す。
「……××、ホタテの刺し身好きだろ」
「うん」
「あれ、甘いよな」
「うん、あまい」
「砂糖まぶしても美味しいと思う?」
「──……う」
想像したのか、うにゅほが口元を押さえた。
あまり上等な喩えではないが、なんとなくは伝わったようだ。
「そんなかんじで、なんか不自然に甘いんだよ」
「ふうん……」
「舐めてみるか?」
「いいの?」
「舐めるだけな」
うにゅほにワイングラスを渡す。
「──…………」
ぺろ。
「あ、あまい」
「だろ」
「おいしいよ?」
ぺろ。
「はい、そこまで」
そのまま舐め続けそうだったので、グラスを取り上げた。
「俺が飲みたいのは、ぶどうジュースじゃなくて、ワインなんだよ」
「はー」
「ジュースが飲みたいなら、ファンタを買う」
「おたるワイン、どうするの?」
捨てちゃ駄目という視線が俺を射抜く。
「大丈夫、こういう甘いお酒が好きなやつがいるから」
「だれ?」
「弟」
というわけで、おたるワインは弟に進呈された。
感謝するがよかろう。



2014年3月26日(水)

読書に飽きてソファでうとうとしていると、右手に触れるものがあった。
「──…………」
見ると、うにゅほが俺の手を取っていた。
もみもみ。
親指と人差し指のあいだのツボを刺激されている。
「──…………」
五指を折り畳まれる。
「──…………」
人差し指と中指を開かれる。
「──…………」
ぐー、ちょき、と来たので、軽く抵抗してみた。
「ぬ」
「──…………」
「ぬぬ」
「──…………」
「あかない」
諦めたところで、ぱっと手を開く。
「あー↑」
閉じる。
「あー↓」
面白い。
「暇なの?」
「テレビ、おもしくない」
夕方の情報番組が面白くないのは仕方ない。
「録画してるの見ればいいのに」
「うーん……」
気が引けるらしい。
「あ、ゆびげだ」
「引っ張るな引っ張るな」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいけど──」
ふと、思った。
うにゅほの手を取り、顔を近づける。
「?」
「……生えてないな」
「はえてないよ」
うにゅほはそもそも体毛が薄いので、そんなものかもしれない。
「足はどうだろう」
「あしのゆび?」
靴下を脱ごうと、うにゅほが前かがみになる。
「あ、ストップ」
「……?」
「やっぱいいです」
生えてたら生えてたで、見たいかと言えばそうでもない。
「もしあったら処理しといて……」
「はい」
のちほど、生えてなかったとの報告を受けた。
律儀である。



2014年3月27日(木)

ウォシュレットを買い換えた。
「──◯◯!」
「あいよー」
父親に呼ばれてトイレへ向かうと、取り付け工事は既に終わっていた。
「おー、新品だ」
「それはいいんだけどよ、ほらこれ」
「?」
反射的に受け取ると、それは壁掛け型の操作パネルだった。
「あ、リモコンになったんだ」
交換前のモデルでは、本体と直接繋がっていたのである。
「これ、どこに付けたらいいと思う?」
「あー……」
なるほど、そういう問題があるのか。
「俺は左がいいと思うんだけどな」
「左手で操作すんの?」
「いや、右手でこう、伸ばして──」
侃侃諤諤の議論を交わしていると、母親とうにゅほが買い物から帰ってきた。
「ただいまー」
「××、ちょっとこっち」
「なにー?」
うにゅほがとてとてやってくる。
「あ、といれあたらしくなった」
「それはいいんだけど、これ」
操作パネルを手渡す。
「これ、どこに掛けたらいいと思う?」
「リモコン?」
「そう」
「──……うーと」
トイレをぐるりと見渡し、
「すわっていい?」
「ああ」
うにゅほが、スカートのまま便座に腰を下ろす。
「……このへんかなあ」
「ほら、やっぱ右側のほうがいいって」
「そうかー……?」
父親が不服そうな顔をする。
「右は決まりとして、そこだとちょっと遠くないか?」
「そかな」
「止ボタンが押しにくいような」
「でも、ちかいと、びでおしにくい」
「──…………」
「──…………」
父親と横目で視線を交わす。
なんだか変な空気になってしまった。
結局、操作パネルは、うにゅほの希望の位置に取り付けられたのだった。



2014年3月28日(金)

「××、iPhone貸して」
「はーい」
うにゅほからiPhoneを受け取り、親指でロックを解除した。
「──…………」
App Storeを起動し、しばし適当に検索する。
「××」
「はい?」
「適当に数字言って」
「うと、じゅうよん?」
「一桁で」
「よん」
「ほーほー、なるほど」
「なにー?」
「家計簿──出納帳? まあ、それをつけようかと思ってさ」
「いくらいくらつかいました、とか?」
「そう」
「すうじは?」
「家計簿アプリ検索したらたくさん出てきたから、どれがいいかなって」
「てきとう」
「大差ないでしょ、こういうのは」
「ね、どんなやつ?」
うにゅほが俺の手元を覗く。
「まず予算の設定をして、あとは収支をその都度入力していけばいいみたいだ」
「よさん?」
「全財産でいいんじゃないかな」
通帳の残高と財布の中身を合計し、キーパッドを叩く。
「わたしのおかね──」
「それは自分で管理してください」
「はーい」
うにゅほがいそいそと自分の財布を仕舞う。
「かけいぼ、いきなりだね」
「前々からつけようとは思ってたんだけど──」
iPhoneを置き、うにゅほに向き直る。
「ほら、最近ちょっと金遣いが荒くなってたから」
「あー」
「稼ぐ以上に使ってるってことはないけど、いちおう記録は残しておくべきかと」
「わたしやっていい?」
「なにを?」
「かけいぼ、やる」
「支出とかの入力をってこと?」
「そう」
「……あー、うん、いいけど」
「やた」
なんか、余計に無駄遣いしにくくなった気がする。



2014年3月29日(土)

「──◯◯!」
階段を駆け上がる小気味良い音と共に、細い声が俺を呼んだ。
「タイヤこうかんおわったー」
ぶかぶかの作業服に身を包み、ロングヘアを結い上げたうにゅほが、リビングからひょいと顔を出した。
「おー、お疲れさん」
もちろん、うにゅほひとりでタイヤ交換ができるわけもない。
父親の手伝いをしていたのである。
「あのね、ナットしめたんだよ」
「えっ」
「ほしがたにしめるんだよ」
「──…………」
大丈夫なのか?
大丈夫か。
父親が締め直しているだろう、たぶん。
「おとうさん、タイヤかたづけるからきてって」
「了解」
重い腰を上げ、背筋を伸ばす。
シーズンオフのタイヤは車庫の二階で保管しているため、どうしても力仕事になるのだ。
「あ、作業服着てくから脱いで」
「きてくの?」
「タイヤ下ろしたとき、ジーンズ汚れたからさ……」
「あー」
うにゅほが作業服を脱ぎ、髪を解く。
普段着の上に着ているので目を逸らす必要はない。
「じゃ、行ってくる」
「わたしもいく」
「手伝わなくていいぞ」
「てつだわない」
「よし」
よくわかっている。
なにしろ、ランクルのタイヤは30kgを軽く超えるのだ。
手伝われると、逆に危ない。
「◯◯も、おとうさんも、ちからもちだねえ」
「腕力というか、体格の問題だと思うけど」
「せーのびたら、ちからつく?」
「つかないんじゃないかな」
「えー」
「背丈だけじゃなくて、肩幅とか骨格とか──」
そこまで言ったところで、
「──…………」
とても嫌な想像をしてしまった。
「……××はそのままでいてくれ」
苦笑を浮かべながら、うにゅほの頭をぽんぽんと撫でた。



2014年3月30日(日)

「スープ春雨食べるけど、××も食べる?」
「たべるー」
「味は?」
「ランダムがいい」
「俺もそうしようかな」
チェストの引き出しに手を入れ、中身を適当に掴む。
「……うわ、コンソメとカレーか」
「おいしいかな」
「××は?」
「シーフードと、ぱいたん」
「すげえ美味そう」
「ふへへ」
スープ春雨の備蓄が大量にあるので、こういった遊びもできる。
「××、お湯沸かして」
「はい」
マグカップにお湯を注ぎ、数分待つ。
「もういいかな」
「いいんじゃないか」
「いただきます」
「いただきます」
軽く手を合わせ、透明にふやけた春雨を箸で掻き混ぜた。
「あ、シーフードぱいたんおいしい」
「白湯はハズレないよな」
「コンソメカレーは?」
「……不味くはないけど、薄いカレーだな」
「ひとくち」
「はいはい」
和気藹々と食べ進めていると、
「──……?」
うにゅほの口数が唐突に少なくなった。
「どうかした?」
「んー」
小首をかしげ、もごもごしている。
「はうはめ、はさまっは」
春雨が歯に挟まったらしい。
「舌で取るのは諦めて、爪楊枝使った方がいいぞ」
「うん」
爪楊枝を取り、うにゅほに手渡す。
「こっちみないでね」
「はいはい」
うにゅほの女の子らしい反応を見ると、なんだかほっとしてしまう。
基本的に、羞恥心薄いからなあ。
「とれた」
「はいはい」
しばらくして、
「はさまっふぁ……」
「またか」
「おなじとこはさまった」
「──…………」
春雨と同じ幅の隙間でもあるのだろうか。
ちょっと確認してみたい気もするが、やめておいた。



2014年3月31日(月)

「ほんと、天気いいなあ」
「ねー」
「こんにちは、春!」
「はるー」
アスファルトの感触を靴の裏で確かめながら、ゆったりと歩を進めていく。
なんだかとても気分がよかった。
「どこいくの?」
「コンビニでジャンプを買う」
「あ、げつようだ」
「あと、おやつも買う」
「いいねえ」
「ワインも買う」
「えー」
「安いやつな」
「そか」
最寄りのセブンイレブンで買い物を済ませ、レシートをうにゅほに手渡した。
「ジャンプは、しょせきだい?」
「そう」
「チョコだいふくは?」
「飲食費」
「ワインは、さかだい……」
ふんふんと頷きながら、うにゅほが家計簿アプリに金額を入力していく。
なんだか楽しそうなのは、気のせいではないだろう。
「じゃ、ちょっと遠回りして帰るか」
「うん」
縁石から腰を上げ、レジ袋を手に取る。
「──…………」
ずしりと重い。
ワインが二本に雑誌が一冊となれば、そこそこの重量がある。
持つぶんには構わないのだが、コンビニの薄いレジ袋が耐えられるだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、
「──おあッ!」
予感が的中した。
「わー!」
レジ袋の持ち手が千切れ、ワインボトルがアスファルトの上を転がっていく。
「××、そっち拾って!」
「はい!」
慌てて拾い上げ、大きく息をついた。
「抱えて帰るしかないな……」
「そだね」
「それにしても、ワインボトルってけっこう丈夫なんだな」
地面に叩きつけられたにも関わらず、傷ひとつついていない。
「ドラマのが演出なのは知ってるけど、改めて理解できるというか」
「えんしゅつ?」
「ほら、ビール瓶とかで人を殴るとさ」
「──……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「しぬとおもう」
「まあ、死ぬんだけど、割れるじゃん」
「われるー……?」
「見たことない?」
「おぼえてない……」
「刑事ドラマとかで」
「けいじドラマ、みない」
なるほど。
殺人シーンとか苦手だもんな。
ジェネレーション的なギャップじみたものを感じながら、再び帰途についた。


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