>> 2014年2月




2014年2月1日(土)

「んぐー……、ぬ、ぬ、ぬ」
両腕を天に掲げ、思いきり伸びをした。
筋肉が凝り固まっている。
すこし体を動かしたいところだが、そこまで復調はしていないのだった。
「ねてなくてだいじょぶ?」
うにゅほが心配げに言う。
「ずっと寝ててもよくないんだよ」
「そなの?」
「病人のつもりで寝てると、いつまで経っても治らないもんだ」
無理をしろ、と言っているわけではない。
だが、ひとつの真理ではあると思っている。
「でも、◯◯、ぐあいわるそう……」
「そうか?」
ぺたぺたと自分の顔を撫でる。
熱は下がっているはずだ。
背筋も伸びているし、声は細くなっているかもしれないが、それほどの違いはないと思う。
「──……?」
瞭然と顔色が悪いのだろうか。
「そんなに具合悪く見えるかな」
「うん」
そういえば、自分で気づくより先に、熱があることをうにゅほに看破されたことがあった。
観察眼が鋭いのかもしれない。
「参考までに聞くけど」
「?」
「どうして、そう思うんだ?」
「どうして?」
「元気なときと、どっか違うから、具合悪そうだって思ったんだろ」
「うん」
「どこが違うんだ? 寝癖?」
髪の毛は普段より爆発している気がする。
「め」
「目?」
「うん、めーちゃんとあいてない」
「目……」
姿見の前に立つ。
「──…………」
眼鏡を外し、顔を近づけてみる。
「……そんなに違うかなあ」
「ん」
うにゅほが首を振る。
「いま、あいてるよ」
「……?」
「◯◯、かがみみるとき、めーあいてる」
「え、そうなの?」
「うん」
「はー……」
それが本当なら、なるほど自分では気がつかないはずだ。
目蓋の上から眼球をマッサージし、ぱっと目を開く。
「これでどうだ」
「うん、ぐあいふつうそう」
そう言って、うにゅほが微笑む。
いいことを聞いた。
うにゅほに心配を掛けたくないときは、ちゃんと目蓋を開くことにしよう。



2014年2月2日(日)

「ね」
「ん?」
寝床で読書をしていると、うにゅほが隣に膝をついた。
「パソコンやっていい?」
「あー」
うにゅほだってパソコンを使うことくらいある。
キーボードが打てないからマウス操作しかできないし、ダブルクリックも覚束ないが、シンプルなゲームくらいならできる。
母親の影響か、Yahoo!ゲームで海外製のよくわからないパズルゲームを遊ぶのがマイブームらしい。
「右上の×マークは押したら駄目だぞ」
「うん」
「変な画面になったら呼ぶように」
「はい」
怪しいタブを出していないことを確認し、ソファに腰を下ろした。
新書を拾い上げ、しおりを抜く。
さっさと読みきってしまわなければ、いつまでも図書館に行けないのだ。
「──……?」
十分ほど経っただろうか。
うにゅほが困っている気配がして、顔を上げた。
「あれー」
「変な画面になった?」
「うん──」
カチッ。
「あ、はだかだ」
「!?」
慌てて立ち上がり、ディスプレイを確認する。
「ああ……」
セクシーランジェリーに身を包んだ数人の女性が悩ましいポーズを取っていた。
画面中央に「あなたは18歳以上ですか?」の文字が躍っている。
「──…………」
そっとタブを閉じる。
「変なとこクリックしちゃ──」
と言いかけて、ふと気がついた。
Yahoo!から数手順でいかがわしいページに飛べるものだろうか。
いや、飛べるのかもしれないけど。
うにゅほに詳しく尋ねてみたところ、
「なんか、いきなり、ほそいページになった」
「細い?」
「うん」
ブログのことだろうか。
確認すると、出しっぱなしにしていたまとめブログのタブが消えていることに気がついた。
そこから飛んだのかもしれない。
「はー……」
ともあれ、ヌード程度で済んでよかった。
「おっぱいおっきかったね」
「……そっすね」
マウスを渡し、ソファに腰を沈める。
一瞬で疲れた。
気をつけよう。



2014年2月3日(月)

ばん!
音を立てて扉が開いた。
視線を向けると、
「まくよ!」
落花生が山盛りの枡を抱えたうにゅほが仁王立ちしていた。
「あー、節分か」
「うん!」
ふんす、と鼻息荒く頷く。
張り切っている。
「……変なとこ投げないようにな」
「はい!」
がっ!
と落花生を掴み、
「おにはー、そと!」
ばっ!
と撒く。
「──…………」
一投目から配分を間違えている気がする。
まあ、楽しそうだから、いいや。
夕食は恵方巻きだった。
「今年こそは無言で食べきるぞ」
「うん」
神妙に頷く。
なにしろ、二年連続で失敗しているのだ。※1 ※2
今年成功しなければ本当の馬鹿みたいなので、細心の注意を払って恵方巻きを食べることにした。
「途中で話しかけられても?」
「こたえない」
「恵方巻きが美味しくても?」
「おいしいっていわない」
「よし!」
親指を立てる。
母親に今年の恵方を尋ねると、東北東との答えが返ってきた。
「とうほくとうって、どっち?」
「えー、東が向こうで、北がこっちだから──」
東、北、北東と、半分ずつ刻んでいく。
「こっちが東北東──……だ、な」
伸ばした指の先に、トイレがあった。
「──…………」
「──…………」
うにゅほと顔を見合わせる。
「……まあ、いいか」
「うん」
トイレを向いて正座しながら、ふたり並んで恵方巻きを食べたのだった。

※1 2012年2月3日(金)参照
※2 2013年2月3日(日)参照



2014年2月4日(火)

行きつけのマックハウスが改装セールをやっていたので、特に欲しいものはなかったが、覗いてみることにした。
「最大80パーセントOFFって言うけど──」
適当なジャケットの値札を確認する。
レジにて20パーセントOFF。
「こんなもんだよな」
「はちじゅっぱーせんとのやつ、ないの?」
「たぶん、自動ドアの近くの微妙なシャツはそうだと思う」
売れ残りだから安い。
そして、売れ残るにはそれなりの理由があるものだ。
「××の上着でも見てみるか」
「うん」
レディースコーナーをぐるりと回る。
「お、このシャツいいな」
「そかな」
目立たない程度に意匠を凝らしたシックな黒地のシャツだ。
うにゅほは黒をあまり持っていないし、半額だったので、迷わずお買い上げである。
「◯◯はかわないの?」
「俺はべつに」
コートもジャケットも新調したばかりだし、下着も靴下も買ったし、シャツもボトムスも困っていない。
「まあ、なんかいいのがあれば──」
「あ、これ」
うにゅほが指さしたのは、ワインレッドのショートダッフルだった。
「──……んー?」
うにゅほを見る。
薄いベージュのダッフルコートである。
確実にお揃いを狙ってきていた。
「でも、ワインレッドか……」
羽織ってみる。
「悪──くは、ない」
「いい」
うにゅほがうんうんと頷く。
薄手だから、春物として重宝するだろう。
「値段は──……」
値札を確認する。
レジにて40パーセントOFF。
「うー……、ん、ん、ん」
「かわない?」
「いや、まあ、買ってもいいんだけど──」
そこで思い出した。
ポイントカードが溜まってはいなかったか。
財布を開き、確認すると、スタンプが全部押されていた。
2500円の割引である。
「買おう」
「!」
即決だった。
いや、トータルで見れば即決ではないが、まあ、即決みたいなものだ。
財布の痛まない、いい買い物をした。



2014年2月5日(水)

「くく……」
思わず笑みがこぼれる。
「あー……、さっぱりした!」
散髪したての前髪を掻き上げ、清々しい気持ちでそう口にした。
「さっぱりしたねえ」
俺につられてか、うにゅほが微笑む。
「ほんとだよ、もう」
なにしろ、円形脱毛症が完治して初めての散髪なのだ。
生半可な開放感ではない。
ハゲを気にして髪をいじる生活よ、さらばである。
「やっぱ、短いほうがいいなあ」
「うん」
「××もそう思う?」
「おもう」
「長髪は駄目か」
「ながいのもいい」
「いいのか」
「でも、かみのびるから」
短髪は切ったときにしか見られないから、ということだろう。
「なんかこう、せっかくだし、いつもと違うことがしたいな」
「ちがうこと?」
「どっか行くとか、なんか食べるとか」
「いいねー」
「思いつくことある?」
「うーと……」
ぼんやりと車外を見上げ、
「でも、かえったらばんごはんだよ」
うにゅほがそう答えた。
「あー、そうか、そうだな……」
街は夕暮れに沈んでいる。
遠出をする時間はないだろう。
「えー……せめて、なんかないかなあ」
「うーん」
しばらく家路を辿っていると、ファミリーマートの看板を見つけた。
「そうだ」
「?」
「ファミマのでかいプリンを食べよう」
「おー」
「ダイエットうんぬんで避けてきたからな……」
「たべれるかな」
「ふたりいるんだから大丈夫だろ」
俺ひとりでも大丈夫だけど。
455gという大容量の「俺のプリン」とミルクティーを購入し、ミラジーノに戻る。
「──実は、似たようなプリンが昔ローソンでも売っててさ」
「うん」
「それがすごい好きだったんだ」
「へえー」
うにゅほの瞳が期待に染まる。
「それじゃ、お先にいただきます」
ぱく。
「──…………」
無言でうにゅほにスプーンを渡す。
「いただきます」
ぱく。
「──…………」
互いに顔を見合わせる。
「……なんか、後味苦いな」
「うん……」
がっかりである。
それでも不味くはないので、ふたり仲良く食べきった。
量はそれほど気にならなかった。



2014年2月6日(木)

「はー、寒い寒い」
ずしりと重い灯油タンクをファンヒーターにセットし、数秒待ってから電源を入れる。
「──…………」
給油ランプが消えないので、電源を落とした。
すこし時間が掛かるのだ。
「さむい?」
「ああ」
うにゅほが俺の手を取り、すんすんと匂いを嗅いだ。
「ふー……」
ご満悦である。
相変わらず灯油の匂いの好きな娘だ。
しばし堪能したのち、
「て、つめたい」
ようやっと気づいたらしい。
「今日は寒いからなあ」
「──…………」
すりすり。
俺の左手を両手で包み、やさしくこする。
暖めてくれているらしい。
「あったかい?」
「あー、うん」
ぎゅっと握ってくれたほうが暖かいような気もするが、それは野暮というものだろう。
「みぎても」
「はいはい」
「──…………」
しゅりしゅりしゅりしゅりしゅりしゅりしゅりしゅり──
「あったかいー?」
はやい。
「はー……」
うにゅほの吐息が乱れ始めた。
疲れるまでやらなくてもいいのに。
「もういいぞ、ありがとうな」
「ふー」
うにゅほが、一仕事終えたという顔をする。
その様子が面白くて、ほっぺたを両手で挟み、こねてやった。
「にゅあー」
「あったかいかー」
「はったかういー」
何語だろう。
うにゅほのほっぺたは、実にもちもちしている。



2014年2月7日(金)

「はー」
助手席のうにゅほがおなかをさすっている。
「満腹か」
「まんぷく」
「イカスミ好きだよな」
「◯◯、カルボナーラばっかし」
いつものパスタ専門店で空腹を満たし、さてどこへ行こうかという話になった。
「行きたいとこあるか?」
「うー……」
しばし思案し、
「ない」
と答えた。
まあ、予想通りである。
「じゃ、ちょっとケーズデンキでも行くか」
「やまだでんきじゃないほう?」
これほど不本意な呼ばれ方もないだろう。
「ちょっとプリンタ見たいんだよ。ヤマダ電機はこないだ行ったから」
「そか」
一応の了解を得て、追分通りへとハンドルを切った。
「うーむ……」
目当てのプリンタの価格を確かめる。
「ね」
「む?」
「これ、エイさん?」※1
「エイ──」
ああ、CMのやつか。
「そう、エイさん」
「おー」
うにゅほがプリンタを撫でる。
「ちいさめは?」※2
「たぶん、隣のがそうじゃないか」
「ほー」
溜め息をつく。
「エイさん、かうの?」
「さあ、どうなるかな」
「かったら、おとうさんよろこぶね」
「……あー」
いい年こいてあのCMが好きなのだ、うちの父親は。
「A3プリンタなら、もっと安いのあるんだけどな……」
いずれにせよ、金を出すのは俺ではない。
報告するに留めよう。
「お、マッサージ器だ」
例のマッサージ器から視線を逸らし、肩用の湾曲したものを手に取った。
「へんなかたち」
「曲がった先を肩に当てるんだよ。
 こうやって──」
試用機のスイッチを入れる。
──がががががががががががッ!
「おわ!」
とんでもない振動が肩を襲い、マッサージ器を取り落としかけた。
「掘削機か!」
振動数が最強に設定されていたらしい。
「だいじょぶ?」
「大丈夫だけど……」
しばしマッサージ器を見つめ、うにゅほに差し出した。
「使う?」
「──…………」
ふるふると首を横に振る。
そりゃそうだ。
ケーズデンキの店内を一巡りしたあと、本屋に寄って帰宅した。
代わり映えのしないコースだが、楽しかった。

※1 エイさん
※2 ちいサメ ── カラリオのCMキャラクター



2014年2月8日(土)

「ぶー……」
ビッグねむネコぬいぐるみをぎゅうぎゅうに絞り上げながら、うにゅほが溜め息をついた。
「コーンスープ淹れるけど、飲むか?」
「うん……」
「なんか足す?」
「チーズのやつがいい……」
ケトルに水を入れ、火にかける。
大変だと思うが、こればかりはどうしようもない。
「ほら」
「ありがと」
うにゅほがマグカップをふーふーするのを横目に、ほうれん草のポタージュをスプーンで掻き混ぜた。
特に飲みたかったわけでもない。
冷めるまで待とう、と思った。
「──…………」
「美味しい?」
「おいしい」
「そっか」
なら、よかった。
スープを飲み終えてしばらくすると、トイレに行きたくなった。
「ちょ、トイレ」
「うん」
言わなくてもいいのだが、いちいち報告してしまう。
トイレを出ると、うにゅほがキッチンでマグカップを洗っていた。
「べつによかったのに……」
「ちょっとだったから」
タオルで拭う手を取ると、恐ろしく冷えきっていた。
ボイラーのせいか、気温のせいか、水道からお湯が出るまでに時間がかかる。
食器が少ないと、逆につらいのだ。
「あー、もう」
うにゅほの右手を両手で包み、すりすりとこする。
一昨日のお返しだ。※1
「あったかいか?」
「うん」
「左手も、ほら」
俺の手が暖かければ、握るだけで事足りたのだろうけど。
しばらく手をこすっていると、うにゅほが口を開いた。
「あの」
「うん?」
「おなかもなでてほしいな……」
「……そっか」
ソファに戻って撫でてあげると、すこしは楽になったようだった。

※1 2014年2月6日(木)参照



2014年2月9日(日)

外出してはみたものの特に行く場所も思いつかなかったので、パソコン用品のディスカウントショップへと足を運んだ。
いろいろな雑貨も置いてあるので、見ていて飽きないのだ。
「これなに?」
うにゅほがヒトデのような物体を指さした。
「えー……、と」
手に取って確認すると、突起の先にイヤホンジャックがあった。
「イヤホンのハブ、かな」
「はぶ?」
そのイントネーションだと、蛇のほうのハブだ。
脳裏にヒュドラをよぎらせながら、答える。
「これがあれば、同時に何人もイヤホンが使えるんだよ」
「すぴーかー?」
「スピーカーではないんだけど」
苦笑する。
説明を終える前に、うにゅほの興味はうつろってしまうだろう。
「あっ」
なにかを見つけたのか、とてとて駆けていく。
「なんだこれ」
「どれ?」
「これ、たま」
それは、黒光りする球形のネオジム磁石だった。
「おー、これか」
ネオジム磁石をひとつ掴み、持ち上げる。
「お」
ひとつ、
「おお」
ふたつ、
「おー!」
蛇のように連なっていく。
「じしゃくだ」
「そう、磁石だ」
「まるいのにねえ……」
気持ちはわからないでもない。
「これ、特になんの役にも立たないけど、けっこう面白いんだよな」
12個の磁石を使い、直方体を作ってみせる。
「おー」
それをほどくと、ネックレスのような形になったので、うにゅほの首に掛けてみた。
「てじなみたい……」
うっとりしている。
「せっかくだし──」
いくつか買って帰ろうか、と言いかけて、口をつぐむ。
脳内で何者かが警鐘を鳴らしていた。
「──…………」
ポケットの上からiPhoneを触る。
ネオジム磁石は強力だ。
近づけたら、それだけで壊れるんじゃないか?
よくよく考えてみると、なんでパソコン用品店でこんなもの売ってるんだよ!
「……せっかくだし、ホコリを落とすブラシを買おう」
「うん」
しばらく遊んでから、ブラシを買って帰宅した。



2014年2月10日(月)

「いて、いでっ、あでででで──」
歩き出そうとして、壁にもたれかかってしまった。
「◯◯、だいじょぶ!?」
うにゅほが飛んできて、おろおろと尋ねる。
「だいじょぶ……?」
「いや、まあ、そんなに大したことはない──と、思う」
「こしいたいの?」
「腰も痛いけど、そうじゃなくて……」
しばし言葉を探す。
「俺、ゆうべ出かけただろ」
「ともだちんち?」
「そう。そのとき、雪道で滑ってさ」
「ころんだの?」
「転びそうになって、慌てて耐えたら、股間がビキッ!てなって」
今に至る、というわけだ。
「びょういん」
「……うん、これは病院級の痛みだ」
素直に整骨院へ行くことにした。
施術を終え、待合室に戻ると、うにゅほが隣に寄り添った。
「いたくない?」
「すこしマシになったかな」
マッサージと低周波治療のみだが、効くものだ。
「せんせい、なんて?」
「えーと、右股関節の捻挫、だったかな」
「ねんざ?」
うにゅほが爪先をぐにぐにと回す。
「そう、その捻挫」
「はー」
よくわからない、という顔をしている。
俺もよくわからない。
「とにかく、しばらく通わないと」
「そっか」
会計を済ませ、靴を履き替えるとき、
「つかまっていいよ」
うにゅほが肩を貸してくれた。
いや、履き替えるときはそんなに苦労しないんだけど。
そう思っていたら、運転席まで付き添ってくれた。
また滑らないように、ということらしい。
「ありがとうな」
「うん」
しばらくは迷惑をかけてしまいそうである。



2014年2月11日(火)

自由に動けない、というのは、けっこうなストレスである。
車の運転はできても、降りて歩きまわることは難しい。
それ以前に、階段の上り下りですら、進んではしたくないくらいだ。
「──…………」
ごろりと寝返りを打つ。
不貞寝である。
「ねむい?」
「眠くない……」
「さむい?」
「寒くない……」
「そか」
「はー……」
溜め息をつく。
雪まつりを見に行こうと思っていただなんて、言えない。
滑って転ばなかったからとか、怪我の理由としてあんまり間抜けではないか。
「──……はぁ」
再び、溜め息。
あのとき素直に信号を待ってさえいれば。
軽い自己嫌悪に陥っていると、
「えい」
うにゅほに布団を剥ぎ取られた。
「こしもむよ」
両手をわきわきさせている。
炎症を起こしているから、下手にマッサージするのはよくない。
よくないが、
「じゃ、頼むー……」
「うん」
心配してのことだろうから、無下に断りたくはなかった。
「あ、ふみふみする?」
「いや、指で頼む」
「はい」
俺の膝の裏にうにゅほが腰を下ろす。
「いくよー」
「ああ」
ぐいぐい。
「ふん、ふん」
ぐりぐり。
「ふん、ふん」
うにゅほの鼻息が聞こえてくる。
本気でマッサージしてくれているんだなあ、と思うと、ほんわかした気分になった。
相変わらず効かないけど。
「おしりもむよ」
「はいはい」
うにゅほ式マッサージでは、おしりがいちばん重要な部分らしい。
単に揉みたいだけかもしれない。
しばらくのあいだ、まどろみながらマッサージを受けていた。



2014年2月12日(水)

「うへへ……」
ワインボトルを前にして、こぼれる笑みを止めることができなかった。
いつもよりちょっとだけ高価なワインを買ってしまったのだ。
「いいやつなの?」
「いいワインか──と言われると、難しいな」
「むずかしいの」
千円台の安ワインに、価格差による上下などあってないようなものである。
「難しいけど、このワインはフルボディなんだよ」
「ふるぼ?」
「えー……と、なんて言ったらいいかな」
しばし思案し、答える。
「濃厚というか、コクがあるというか、とにかくそんなかんじ」
「──……?」
「ふつうのオレンジジュースと、ポンジュースみたいな」
「はー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「ポンジュース、にがいもんねえ」
それは俺もそう思うけど。
「とにかく飲んでみようかな」
ワインオープナーで必死にコルクを抜き、透明度の高い血液のような液体をグラスに注ぐ。
「香りは──ちょっとアルコール臭さが強いかな」
「かぎたい」
「ほら」
グラスを手渡す。
「──…………」
すんすん。
「……?」
よくわからない顔をする。
「せっかくだから、乾杯しようか」
「おさけのめないよ」
「ワインじゃなくたっていいだろ。
 ワイングラスになにか注いで、一緒に飲もう」
「おー」
うにゅほが立ち上がり、リビングへと姿を消す。
ペプシネックスあたりを注いでくるのだろうと思っていた。
「ただいま」
まさか、ワイングラスに牛乳を注いで帰ってくるとは、想像だにしていなかった。
「かんぱい、かんぱい」
「お、おう」
「かんぱーい」
「乾杯」
かちん。
グラスの縁をそっと触れ合わせる。
乾杯の際はグラスをぶつけないのが作法だが、宅飲みでは関係あるまい。
「ワインおいしい?」
「悪くないかな」
渋味は強いが、たしかにコクがある。
「牛乳は美味しい?」
「おいしい!」
「そっか」
なんとなく、うにゅほと酒を酌み交わしている気分だった。
本当に飲むのは何年後になるのかな。



2014年2月13日(木)

父親がマスクをして帰ってきた。
理由を尋ねると、インフルエンザに罹った人が職場にいたのだそうだ。
「その人も、頑張って来なくていいのに」
「そいつはさっさと帰らせたけど、いちおう今日はマスクしとこうと思ってな」
「ほー」
うにゅほがうんうんと頷いた。
「ちゃめもマスクしないとインフルになるぞー」※1
「!」
相変わらず適当なことをぬかす親父である。
「◯◯、マスク、マスク」
「家のなかで?」
そう思ったが、マスクマスクとうるさいので、本棚の奥から使い捨てマスクを取り出した。
数年前、新型インフルエンザが流行した際に買ったものである。
「……結局、ほとんど使わなかったなあ」
「?」
「いや、なんでもない」
うにゅほに使い捨てマスクを手渡す。
「付け方わかるか」
「わかるよ」
ゴムひもを耳に掛け、口元を押さえる。
「はい」
鼻が出ている。
「それじゃインフルだな」
「えー」
「正しい付け方があるんだよ」
そう言って、新しいマスクをケースから抜き出した。
「まず、このひだを上下に広げる」
「お」
「こうしないと、鼻と口を覆えないだろ」
「そか」
「次に、ゴムひもを耳に掛ける」
「できた」
「まだです」
鼻梁に指を添える。
「ここ、針金みたいなのが通ってるだろ」
「ほんとだ」
「これを鼻の形に曲げて、隙間ができないようにする」
「おー」
「あとは、全体を整えて終わり」
「おわり」
「やってみな」
うにゅほが、四苦八苦しながらマスクを装着する。
「できた」
「よし」
完璧と言っていいだろう。
「かがみ、かがみ」
姿見の前に並んで立つと、あることに気がついた。
うにゅほのマスクが、やたらに大きい。
「──…………」
違う。
うにゅほの顔が小さいのだ。
加えて言うと、俺の顔が大きいのだ。
「インフルなんない?」
「……大丈夫じゃないかな」
なんとなく肩を落としながら、そう答えた。

※1 父親は、うにゅほのことを「ちゃめ」と呼ぶことがある。



2014年2月14日(金)

バレンタインデーである。
うにゅほから貰えることはわかっているのだが、なんとなくそわそわしてしまう。
「バレンタインおめでとう」
どこか勘違いした言葉と共に、うにゅほがラッピング用の巾着袋を手渡した。
「お、さんきゅー」
「──…………」
弟に。
「……××、俺にはないの?」
「ないわけないでしょ」
弟がツッコむ。
「うん、あるよ!」
「どこに?」
「どこかにあるよ」
なるほど、宝探しというわけか。
そういえば、去年は机の引き出しにそっと忍ばせてあったんだっけ。※1
俺が二日間も気づかなかったものだから、うにゅほが焦れて、遠回しなヒントを出していた記憶がある。
あれはさすがに申し訳なかった。
「よし、探すかー!」
「──…………」
にこにこと楽しげな笑みを浮かべるうにゅほを見て、なんだかやる気が湧いてきた。
「じゃーヒントください」
「えー、いきなり?」
「外野うるさい!」
余計な口を挟む弟を一喝し、うにゅほにヒントを乞う。
「いま、にかいにあります」
「二階か……」
これでだいぶ絞られた。
「俺たちの部屋は──俺がいるから、隠しづらかったと思うんだよな」
言いながら、ソファのクッションをどける。
「型くずれしそうなとこは、さすがにないか」
「どうでしょー」
余裕綽々である。
「台所は?」
ない。
「父さん母さんの寝室は?」
ない。
「冷蔵庫!」
ない。
「冷凍庫!」
ない。
「やっぱ、部屋にあるのかな……」
「さー」
「……今、近くにある?」
「あるよー」
なるほど、やはり部屋か。
「引き出し」
ない。
「箪笥は……」
ない。
「ソファの裏とか」
ない。
「布団のなか?」
ない。
「……本当に、部屋にあるの?」
「うん、いまへやにあるよ」
「──…………」
今?
うにゅほを観察する。
パーカーを着ている。
そして、さっきから背中を見せないよう振る舞っている気がする。
「──ここだッ!」
「ひゃー」
パーカーの帽子に手を突っ込む。
かさ。
なにかが手に当たった。
取り出してみると、それは、デコレーションされた紙袋だった。
「してやられた……」
「バレンタインおめでと!」
「ああ、ありがとう」
うにゅほの頭を撫でる。
「ふへー」
「今年も手作り?」
「うん、なまチョコもあるよ」
「生チョコって個人で作れるの?」
「つくれるよ」
うにゅほがくれたチョコは、どれもいい出来栄えだった。
もったいないからちょっとずつ食べよう。

※1 2013年2月16日(土)参照



2014年2月15日(土)

うにゅほの寝床で読書をしていると、不意に香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「──……?」
うにゅほの匂いとは別の、なんだか良い香りだ。
ふんふん。
鼻を鳴らしていると、
「?」
座椅子に座っていたうにゅほがこちらを振り向いた。
「なんか、いい匂いがする」
「……うへー」
うにゅほが照れる。
そっちじゃない。
「ちょっと、このへん嗅いでみて」
「んー?」
すんすん。
「あ、いいにおいする」
「なんだろ」
ひどく馴染みのある香り、のような気がする。
「枕になんかこぼしたとか」
「ん」
ふるふると首を振る。
「匂いがする以上、発生源があるはずなんだけど……」
枕を持ち上げる。
「ない」
「ないか」
敷布団をめくると、
「「あっ」」
ふたりの声が重なった。
「あー……」
なるほど。
そこにあったのは、殻の割れた落花生だった。
「節分のときのだな、間違いなく」
「──…………」
「変なとこ投げないように、って言ったのに……」
「ごめんなさい」
「いいけど」
落花生を拾い上げ、中身を取り出す。
「食べる?」
「たべる」
「じゃあ、いっこずつな」
「うん」
「食べたら掃除機な」
「はい」
ついでに、部屋の掃除も済ませたのだった。



2014年2月16日(日)

「ごはんだよー」
エプロン姿のうにゅほが、自室の扉を開けて俺を呼んだ。
「おーう」
返事をして立ち上がる。
「晩御飯、なに?」
「なべだよ」
「なに鍋?」
「トマトなべ」
「──…………」
トマト鍋。
なんだその嫌な予感しかしない鍋は。
「俺、トマト嫌い」
「うん」
「嫌いでも大丈夫?」
「おいしいよ」
そりゃうにゅほはトマト好きだから美味しいかもしれないけど。
家族で食卓につき、鍋のフタを開くと、
「わあ……」
血の池地獄がそこにあった。
「──…………」
弟と顔を見合わせる。
同じ感想を抱いたらしい。
「はい」
うにゅほが、小皿いっぱいに具材をよそってくれた。
ああ、まずは味見をしたかった!
かすかに漂うスパゲティナポリタンの香りに不安を煽られながら、エノキを口に放り込む。
「──…………」
甘い。
青臭さはなく、熱を通したトマトの風味だけがある。
「うーん……」
鶏肉をひとくち。
「おいしい?」
「不味くはないけど……」
「不味くないけど、美味くもねーなあ」
父親が言葉を継いだ。
ああ、そんなにはっきりと。
「そっかなー」
赤い汁をすすり、うにゅほが呟く。
「おいしいのにねえ」
「私も美味しいと思うけど……」
「ねー」
うにゅほと母親が頷き合った。
女性陣には好評らしい。
「もちうめえ」
「あ、もち入ってるのか」
弟の言葉に、箸で鍋をつつく。
「よそってあるよ」
「おー」
トマト鍋ともちの相性は、案外悪くなかった。
でも、今度はごま豆乳鍋を食べたい。



2014年2月17日(月)

久し振りにヨドバシカメラまで足を伸ばしてみた。
本当は、おしゃれな雑貨屋とかに連れて行けたらいいのだけど、あいにくと認識すらおぼろげである。
雑貨とはいったい。
「ね、ね、かしつきあるよ」
「持ってるだろ」
それでも喜んでくれるのだから、ありがたいものだ。
「なにかうの?」
「あー、ちょっとイヤホンを見たかったんだけど──」
さらっと眺めただけで、目当ての商品がないことが確認できてしまった。
「いやほん?」
うにゅほが、両耳のあたりでぽわぽわと指を動かした。
「こないだかったやつ」
「うん、こないだ買った無線のイヤホンな」
正確には、Bluetooth対応のネックバンド式ステレオヘッドセットである。
「だめ?」
「駄目というか、まあ駄目だったんだけど、なんて言ったらいいかな」
しばし言葉を探す。
「……それ」
「?」
うにゅほ愛用のくまさんポシェットを指さした。
「可愛くて、小さいのにたくさん物が入って、すごく丈夫なポシェットがあったとするだろ」
「うん」
「欲しい?」
「んー」
首を横に振る。
「これあるからいい」
「えー……と、そういうことじゃなくて」
難しい。
「そういうポシェットを、買ったとするだろ」
「うん」
「見た目も機能もすべて満足なんだけど、実際に使ってみると、重くて仕方ない」
「うん」
「そしたら──そしたら、あーもう!」
あきらめた。
「見た目も機能も満足だったんだけど、実際に使ってみたら重くて重くて首と肩が異常に凝って仕方ないんだよ」
「ポシェット?」
「イヤホンが」
「はー」
「ほら、肩にモーラステープ貼ってもらっただろ」
「しっぷ」
「だから、軽くていいのを探しに来たんだよ」
「なるほど」
「……まあ、なかったんだけど」
「──…………」
「──…………」
ふたりのあいだに沈黙の帳が下りる。
「……ペットショップ行って仔猫でも見るか」
「みる」
そのまま軽くデートして帰途についた。



2014年2月18日(火)

「──あっ」
かしゃ!
鋭角の音が響いた。
「大丈夫か?」
小走りでキッチンへ向かうと、うにゅほがこの世の終わりみたいな顔をしていた。
「あの、あの、ごめ……」
「いいから」
ぽんと頭を撫で、被害を確認する。
グラスがひとつ。
洗おうとして、手が滑ってしまったらしい。
「怪我はない?」
「ない……」
「そっか」
ならいい。
「いま──」
「触るな!」
「!」
割れたグラスに伸ばされた手を、慌てて掴んだ。
ぬるりとした感触。
「ガラスを片付けるときは、洗剤を流してから」
「はい……」
「細かい破片がいちばん危ないからな」
「──…………」
うにゅほがしゅんとしてしまった。
言葉がきつかっただろうか。
「……まあ、形あるものはいつか壊れるんだし」
「はい」
「あんまり気にしちゃ駄目だぞ」
「はい……」
「──…………」
「──…………」
「このグラス、お気に入りだったとか?」
「──…………」
うにゅほが首を横に振る。
「……のこり、いつつになっちゃった」
ああ、そうか。
うちは六人家族だから。
「まあ、縁起が悪いっちゃ悪いな」
「うん……」
「でも大丈夫」
「?」
「だって、全員同時に同じグラス使うことないし」
「あるときあるかも……」
「そのときは、××のトトロのコップ借りるから大丈夫」
「……そか」
なんとか納得してくれたようだった。
「じゃ、まずは泡を流して──」
幸い、大きな破片ばかりだったので、片付けには苦労しなかった。



2014年2月19日(水)

「──よっ」
ペットボトルとグラスで両手が塞がっていたので、足で扉を開いた。
「おぎょうぎわるい」
「すまんすまん」
「わたしあけるのに……」
ぶちぶちと文句を言いながら、うにゅほが後ろ手に扉を閉じた。
「◯◯、あしきようだよね」
「そうか?」
「おやゆびと、なかゆび、くっつくし」
「まあ、そうか」
器用か不器用かで言えば、器用だろう。
グラスにペプシネックスを注ぎ、軽くあおる。
「たぶんだけど、字くらいは書けるかもしれないなあ」
そう言うと、
「え!」
うにゅほが予想以上に驚いた。
「じーかける?」
「いや、試したことないけど、たぶん……」
「ほおー……」
感嘆と尊敬とできらきらと輝く瞳が、俺を見つめていた。
「やったことはないんだぞ」
「うん」
「……やってみる?」
「うん!」
やってみることになってしまった。
グラスをうにゅほに手渡し、デスクにメモ帳を用意する。
チェアの上で膝を抱え込みながら、親指と人差し指のあいだにマジックペンを挟んだ。
これで準備完了である。
「行くぞ……」
「うん」
ふるふると震える爪先が、メモ用紙の上で弧を描く。
一文字、二文字と、幾重もの線がひらがなを形作っていく。
「……書けちゃった」
メモ用紙の上でのたくった黒いミミズは、それでもうにゅほの名前であると容易に判別できた。
「すごい!」
「すごい、のか……?」
両腕を失わない限りは役に立たないと思うが。
「やってみたいな」
「ああ、ほら」
腰を上げ、チェアを譲る。
「よーし!」
うにゅほがチェアの上で膝を抱え、はだしの指先にマジックペンを挟んだ。
すとん。
マジックペンが落ちた。
「──…………」
拾い上げ、手渡すと、うにゅほが再びマジックペンを指先に挟んだ。
すとん。
落ちる。
「もてない……」
字を書く以前の問題だった。
またどうでもいい特技が増えた。



2014年2月20日(木)

「──……ぁ、ふ」
あくびを噛み殺しながら部屋を出ると、うにゅほがテーブルにハガキを並べていた。
「なにしてんの?」
「あたり、しらべてる」
「……今?」
お年玉くじの抽選って、とっくに終わってなかったっけ。
「おばあちゃんが、とうせんばんごうくれたの」
「へえー」
うにゅほの手元に、番号の書かれたメモ用紙が置かれていた。
合ってるのかな、これ。
「切手シート当たってた?」
「ないねえ……」
「ないのか」
量からして、二、三枚は当たっていてもおかしくないのだけど。
「◯◯、ねんがじょうない?」
「あるぞー」
自室へ取って返し、うにゅほに年賀状を手渡す。
「……いちまい?」
「一枚」
「すくない」
「××より多いだろ」
「はい」
「最近はメールで済ませちゃうからなー」
「あ、はずれだ」
「だろうね」
ごろんとソファに寝転がる。
「当たってたら教えてくれ」
「うん」
しばしして、
「ぜんぶはずれだった……」
「マジか」
3等の当選番号は72と74だ。
つまり、切手シートが当たる確率は1/50ということになる。
我が家に届いた年賀状はざっと見て百枚以上ありそうだから、これはもう相当に運が悪いということだ。
「うーん、まあ、そういうこともあるのか……」
「もっかいしらべる」
うにゅほが再び年賀状の束に向き直った。
帰宅した母親から、当選した年賀状は別に分けて保管してあると聞かされるのは、それから一時間後のことになる。



2014年2月21日(金)

雪かきのため、完全防備で外へ出た。
「わー……」
「──…………」
眼前に、ちょっとした小山が聳え立っていた。
母親が出掛けに集めていったものだ。
「……もうこれかまくらにして春まで放っとこう」
「かまくらするの?」
ちょっとわくわくした様子で問い返すうにゅほに、
「駐車スペースじゃなかったら、それでもよかったんだけどな」
と、溜め息まじりに答えた。
「とにかく、手分けしよう。
 俺がスノーダンプで雪捨てるから、××は新しく積もったのを集めてくれ」
「はい」
家の前が公園である僥倖に感謝する。
冬期間の平均気温が氷点を下回る土地では、雪は積もれど減ることがない。
ゆえに、雪捨て場の確保は冬場の最重要課題と言える。
雪捨て場の十分でない住宅地では、一軒家よりも高い螺旋状の雪山が空き地に聳えることも珍しくない。
「──つっても、大変なもんは大変なわけで」
「はー……」
縁石があった場所に腰を下ろし、休憩する。
「うんどう、うんどう」
「前向きだなあ」
苦笑する。
運動不足はよくないものな。
「さて、やるか!」
「うん」
さっさと終わらせて、コーンスープでも飲もう。
その一心で、スノーダンプを押し続けた。
「終わっ、たー!」
「わったー!」
「ばんざーい!」
「ばんざーい!」
妙なテンションで諸手を上げる。
疲れているのだ。
「よーし、帰って──」
そう言い掛けたところで、視界が暗くなった。
生理的なものではない。
本当に、暗くなったのだ。
「……?」
空を見上げた瞬間、
──ぶわっ!
そんな音が、見えた。
「──…………」
「──…………」
いきなり吹雪だった。
それも、目を開けるのが難しいほどの、猛吹雪だった。
「……ふりだしに戻る」
「?」
「戻ろう。そして、積もるまで待とう」
「……うん」
雪が降らなくて、虫もいない、そんな楽園に移住したい。



2014年2月22日(土)

「あ゙ー……」
ふくらはぎをバリバリと掻き毟る。
痒くて仕方がなかった。
「かいちゃだめだよ」
「それはそうなんだけど……」
痒いものは痒いし、いつまでも我慢できるわけじゃない。
無意識に手が伸びてしまう。
「めんたむもってくる」
「悪いー」
軟膏の容器を手にしたうにゅほが、俺のジーンズの裾をめくる。
「おさえてて」
「はい」
言われたとおりにすると、うにゅほがちょっと過剰なくらい軟膏を指に取った。
いつものことである。
「ぬるよー」
ぺと。
両手に伸ばした軟膏を、ふくらはぎを揉むように塗り込んでいく。
ちょっと気持ちいい。
「すねげ、すねげ」
「なんかすいません……」
塗りにくそうだし。
「夏はあせもで、冬はじんましんだもん。嫌になっちゃうよな」
「なつ、かもいるよ」
「俺、蚊に刺されてもすぐ治るし」
「ずるいよね」
「××は腫れるからなあ」
見ていてちょっと痛々しいくらいだ。
「そう考えると、夏に楽してるツケが冬に回ってきているようにも思える」
「あー」
「でも、あせもにはなるんだから、トータルで言うと損してる気がする」
「そだね」
「納得いかない……」
「ぬれた」
「お、さんきゅー」
「ほかにかゆいとこない?」
「背中がちょっと痒いかな」
「じゃーせなかだして」
「はい」
背中に軟膏を塗ってもらいながら、なんだか子供に戻ったような気がしていた。



2014年2月23日(日)

冬は体調が悪くなりがちである。
布団に包まれて睡眠と半覚醒とを繰り返していると、いつしか日が落ちていた。
「あ、おきた」
「──…………」
「だいじょぶ?」
「ふぁ──……ぁ、ぁ、うん」
大あくびをかましながら、幾度か頷く。
「なんか、寝れば寝るほど眠くなる気がする……」
「つかれるのかな」
「疲れるんだろうなあ」
首筋に触れる。
「……うあ、凝ってる」
「もむ?」
「あとでお願いするかも」
「あとでいいの?」
「いま揉まれたら、絶対また寝る……」
「あー」
のそりと立ち上がり、ぐいっと背筋を伸ばす。
「なんか、目が冴えることしよう」
「めがさえること?」
「このままうつらうつらと一日を終えることだけは避けねば……」
「でかけるとか」
「出かけ──……」
壁掛け時計を見る。
午後六時。
「いま出かけても、夕飯が」
「そだね」
正直ちょっとだるいというのもあるし。
「よし、ストレッチしよう」
「おー」
上半身を軽くほぐし、立位体前屈を行う。
手のひらをぺたりと床につけると、
「……なんでとどくの?」
と、うにゅほが神妙に呟いた。
なんでと言われても返答に困るけど。
「普通に体柔らかいのに前屈だけできないほうが不思議だと思う」
「う」
うにゅほは前屈限定で体が硬いのである。
「やってみ」
「はい」
うにゅほが上半身を折り曲げる。
「く、く、くく」
中指の先が、膝の下までしか届いていない。
「ふとももの筋肉が硬いのかなあ」
「わかんない……」
「どのあたりが突っ張る?」
「えと──」
俺ではなくうにゅほのストレッチになってしまったが、目は冴えた。



2014年2月24日(月)

「ただいまー」
「おかえり!」
帰宅すると、うにゅほが階段の途中まで下りてきてくれた。
「たのしかった?」
「ああ」
海外へ行っていた友人と久闊を叙していたのだ。
「ごはんは?」
「──…………」
腹具合を撫でて確かめる。
「今日はいいかな……」
「そか」
「おひる遅かったし、ちょっと食べ過ぎた」
「なにたべたの?」
「海老チャーハンと──」
雑談しながら自室に戻り、ジャケットを脱ぐ。
「お」
そこで、ポケットの膨らみのことを思い出した。
「そうだ、おみやげがあったんだ」
「おみやげ?」
「おみやげ」
「なにー?」
「ほい」
ポケットの中身をうにゅほに手渡す。
「あ、がちゃぽんだ」
「たまたま見かけたから」
「なんだこれ」
かぽ。
ちょっと手間取りながらカプセルを開く。
「ニャンコせんせいだ!」
こちらを見上げ、うにゅほが目を輝かせた。
さすがニャンコ先生、鉄板である。
「あれ、ストラップじゃないね」
「違うのか」
「かざるのみたい」
スケート靴の上に乗ったニャンコ先生を、氷面を模した台に取り付ける。
「どこにかざる?」
「好きなところでいいよ」
「じゃあ──……」
しばし室内を見回し、
「テレビのところにしましょう」
ぽん、とテレビの傍に置いた。
「……悪くないな」
「わるくない」
俺とうにゅほの気が向けば、どんどん増えてしまいそうだった。



2014年2月25日(火)

「はー、食った食った」
ソファに倒れ込み、天井を仰ぐ。
「たべすぎ」
「××だってケーキふたつも食べたろ」
「ふへー」
本日の昼食は回転寿司だった。
満腹になるまで食べても一人当たり千円程度なのだから、平日のはま寿司は偉大である。
「今日はもう、なにもしたくないねえ……」
「ひるね?」
「──…………」
しばし黙考し、
「……ここで寝たら、なにか取り返しのつかないものを失うような気がするから、寝ない」
「ふうん」
とっくに手遅れな気もする。
「なんかして遊ぶかー」
「うん」
「なにがいい?」
「うーと……」
うにゅほの視線が部屋をぐるりと一周し、
「あ、つるおりたい」
「折り紙?」
「うん」
「いいけど、いきなりだな」
「モヤさまでおってた」
「あー」
なるほど、わかりやすい。
デスクの引き出しから和紙の折り紙を取り出し、二枚引き抜いた。
「折り方、覚えてるか?」
「おぼえてるよ」
数分後、
「……おしえてください」
「はいはい」
やっぱりな、と苦笑する。
二羽目の鶴を解き、うにゅほに折り跡を見せて、また折り直した。
「だいたいわかった?」
「うん」
うにゅほが集中して折り始めると、なんだか手持ち無沙汰になってしまった。
青色の鶴を手のひらに乗せ、ぼんやりと眺める。
「あ」
ふと、いいことを思い出した。
折り鶴の尾を下ろし、ハサミで切れ込みを入れる。
そうしてできた二本の足をガニ股に折って、足の生えた鶴のできあがり。
「××」
「?」
「クリーチャー」
「んばふ!」
うにゅほが思いきり吹き出した。
「ぶふ、なんだこれ、うふ、あはははは!」
思った以上に爆笑である。
「それやりたい!」
「ああ、まずは鶴をちゃんと折らないと」
「て、てーふるえる、うひー」
「落ち着け」
こうして、青と黄色の夫婦鶴のようなものが完成した。
どうしよう、これ。



2014年2月26日(水)

母親が実家に帰省すると言うので、付き合うことにした。
高速道路を使えば一時間ほどの距離なので、帰省と呼ぶには大仰かもしれない。
正月に交わせなかった年始の挨拶を済ましたあと、近隣に住む従姉と蕎麦を食べに行くことになった。
「わー……」
うにゅほが従姉のおなかを凝視する。
「おっきい」
「七ヶ月だよー」
「あかちゃん、はいってるんですか?」
「そだよ」
妊娠中の従姉が、自分のおなかを愛おしげに撫でた。
「触ってみる?」
「いいの?」
「いいよ」
「はい……」
恐る恐るおなかに触れる。
「あ」
うにゅほがこちらを振り返り、
「かたい」
と呟いた。
「え、硬いんだ」
「あはは、ちょっと張ってるんだよねえ」
触らせてもらうと、見た目よりもかなり弾力があった。
「赤ちゃん、おなか蹴ったりしないの?」
「するよ」
「え、けるの?」
「蹴るよー」
「へえー……」
うにゅほが目を輝かせるのを見て、従姉が言った。
「蹴ったら教えてあげるよ」
「──……!」
うにゅほが無言で何度も頷いた。
しばらくして、注文した蕎麦を待っていたとき、
「あ、蹴った」
「!」
従姉の隣に座っていたうにゅほが、遠慮がちに手を触れた。
「……あ、一回だけだった」
「──…………」
無言で触り続けている。
「××、もう蕎麦来るし、食べてからでいいんじゃないか?」
「いいよいいよー」
おおらかな従姉である。
「あ!」
うにゅほが声を上げた。
「……おしてる」
「蹴ってるんじゃなくて?」
「足で押してるんだと思うよ」
そういうこともあるのか。
「次に来たときは、もう産まれてるかもしれないな」
「そだね……」
心ここにあらずといった表情で、ふわふわとうにゅほが頷いた。



2014年2月27日(木)

高速道路を走ったためか、コンテの車体が白く汚れてしまっていた。
「これ、どろ?」
「泥じゃなくて、塩カルだな」
「えんがる」
「遠軽じゃなくて、塩化カルシウム。
 雪を融かすために道路に撒いてあるんだよ」
「へえー」
「ほっといたら錆びるから、洗車しに行こうと思うんだけど」
「いく」
コンテに乗り込み、エンジンを掛けた。
「あれ、どうぐないよ?」
「今日は、洗車機を使います」
「せんしゃき」
「ガソリンスタンドにたまにあるんだけど、知らない?」
「……んー?」
心当たりがないらしい。
「まあ、行けばわかる」
すこし離れたガソリンスタンドに着いたとき、
「あ!」
うにゅほが、門のような形状の自動洗車機を指さした。
「これだ!」
「そう、これだ」
「これやるの?」
「やるよ」
「ほー……」
精算機に五百円玉を投入し、クリープ現象を利用してゆっくりと洗車機に乗り入れていく。
「まわってる……」
左右と上部を覆う回転ブラシを見つめ、戦々恐々とうにゅほが呟いた。
「……怖い?」
「こわくないよ」
「じゃあ、なんで袖を掴んでるの?」
「いちおう」
一応じゃ仕方ない。
最初は怯えていた様子のうにゅほだったが、
「おー!」
洗車が始まってしまうと、次第に楽しくなってきたようだった。
「すごい」
「ちょっと面白いよな」
「うん」
安上がりな娘である。
「ね、◯◯」
「ん-」
「つぎ、いつあらう?」
「雪が解けたころ……か、な?」
洗車が趣味の父親の顔を思い浮かべながら、曖昧な答えを返した。



2014年2月28日(金)

「えー……と、これは?」
「たいよういっぱいのまっかなゼリー、だって」
かぶりを振って問い返す。
「……なんのゼリーだって?」
「トマトのゼリー」
あゝ、無情。
その存在は遠く聞き及んでいたが、まさか御目に掛かる日が来てしまうとは。
「つーか、なんでこんなものが」
「おかあさんのともだちが、おみやげにくれたんだって」
「余計な真似を……」
吐き捨てるように呟いた。
「◯◯、トマトきらい?」
「生のトマトは好きじゃない」
「たべなかったらいいとおもう」
「まったくその通りなんだけど、そういうわけにもいかないんだ」
「……?」
「こんな変なもの、食べなかったら後悔する」
「ふうん」
「食べても後悔すると思うけど」
「──…………」
うにゅほが、くしゃみを我慢しているような表情で俺を見上げた。
呆れられている気がする。
「……でも、まるまる一個はきついから、ひとくちください」
「いいけど……」
ぺり。
トマトゼリーの蓋を剥がし、うにゅほがスプーンを差し入れる。
「──あ、おいしい」
「まじで」
「うん、あまくておいしい」
「──…………」
トマトが甘くて美味しいなんてことがあるのだろうか。
「はい」
ほんのちょっぴりだけすくい取られたゼリーが、俺の口元に差し出された。
「──…………」
ごくりと喉を鳴らし、躊躇いながら口にする。
「──……うん」
「おいしい?」
「甘い」
「うん」
「甘い、トマトだ」
素材を活かした美味しいデザートなのだろうが、その素材が嫌いなのだからどうしようもない。
「うん、やっぱり駄目だった。駄目でした」
「だめかー……」
「あ、でも、サラダで食べるよりはいいかな」
フォローしてみた。
「そかー」
はいはい、という顔をされた。


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