>> 2013年11月




2013年11月1日(金)

昨夜の夕飯はしゃぶしゃぶだった。
出汁が残っていたので、小さな土鍋に移し、雑炊にして食べた。
「美味しかったか?」
「うん」
うにゅほが満足げに頷いた。
雑炊を作るのは、楽しい。
余程のことを仕出かさなければ不味くなることはないから、感性の赴くままチャレンジブルな味付けに挑むことができる。
今回は、しゃぶしゃぶの出汁を活かし、ポン酢と卵でさっぱりと仕上げてみた。
美味しいと言われると、次もまた作りたくなる。
自分ひとりなら、きっとインスタントで済ませてしまうだろう。
「さて、食器洗うかー」
「わたしやる」
「いいよ、ついでだから」
立ち上がろうとするうにゅほを制し、シンクをぬるま湯で湿らせた。
スポンジを泡立て、土鍋の内側に押しつける。
ぱき。
「えっ」
土鍋が割れた。
「え、なんで」
持ち上げると、底が抜けた。
板チョコを割るような感触と共に、土鍋が細かくなっていく。
「どしたの?」
うにゅほがシンクを覗き込む。
「あ、なべわれてる」
「とうとう俺に異能の能力(ちから)が」
「ひび、はいってたからねえ」
「ヒビ入ってたのか」
「うん」
経年劣化だった。
「破片まとめとくから、なんか袋持ってきてくれ」
「はーい」
ビニール袋を二重にして、燃やせないゴミ箱にダンクした。
事を済ませてくつろいでいると、
「!」
うにゅほが唐突に絶句した。
「どうした?」
「ち!」
「血?」
「ほっぺた!」
「──……おお」
頬杖を突いていた左手を見ると、べったりと血糊が付着していた。
よく見ると、中指の中程が切れていた。
「××、ほっぺたじゃなくて指だ。土鍋で切ったんだな」
「どっちでもいいからてあて!」
怪我は大したことなかったが、うにゅほに心配をかけてしまった。
気をつけよう。



2013年11月2日(土)

夕食後、リビングで家族揃ってテレビを見ていると、うにゅほがシャワーから戻ってきた。
「ふー」
なにやら見慣れない格好をしている。
「それ、新しいパジャマ?」
「うん」
「さっき買ってきたのよ」
母親がそう答えた。
「ネグリジェ──で、いいのか、それ」
袋に穴を開けて袖をつけたような、すっぽりとしたワンピースの寝間着である。
毛羽立った生地で作られており、見るからに暖かそうだ。
「あ、あれに似てる」
弟が口を開く。
「小学生のとき、女子が着替えるときに使ってたバスタオルの」
「あー」
似ている。
胸の下や腰のあたりにくびれが作られていないので、なおのことだ。
「でも、それにしては長いぞ」
油断すると裾を踏んでしまいそうなほどだ。
サイズを見誤ったのだろうか。
「にあう?」
「似合う似合う」
海外の絵本に出てくる夜更かしの女の子みたいで。
「でもお前、さすがに裾長すぎるぞ」
父親がウイスキーをあおりながら言った。
「足元オバQみたいなってんじゃねーか」
「ふばふう!」
隣を見ると、弟が吹き出していた。
「おば、きゅ、くっくっくっく……」
ツボに入ったらしい。
そうなると、面白くないのはうにゅほである。
「──…………」
ああ、完全にぶーたれている。
馬鹿にされたと思っても仕方のないやり取りだ。
「いや、××。オバケのQ太郎って漫画があってな」
「おばきゅう?」
「ドラえもん描いたのと同じ作者なんだが」
「しってる」
「知ってるのか」
「ドンジャラやった」
ああ、今年の正月か。※1
「あれの足元が××のパジャマみたいってだけの話なんだけど……」
「うん」
うにゅほが頷く。
そして、弟をびっと指さし、
「わらいすぎ」
「ひー……」
まだ笑っていた。
子供のころから思っているのだが、弟のツボがわからない。
「──…………」
うにゅほが不機嫌そうにカーペットの上に座る。
どう考えても弟の自業自得なので、これ以上のフォローは打ち切ることにする。

※1 2013年1月14日(月)参照



2013年11月3日(日)

ジャンプが早売りしていたので、午後ティーと一緒に購入した。
帰宅すると部屋が冷えていた。
「さむいねえ」
と言いながら、うにゅほが上着を脱ぐ。
「じゃあ、着てなさい」
と返しながら、俺も脱ぐ。
屋内では薄着でいたい性質である。
ストーブをつけると室温が表示された。
18度。
大して寒くもない。
「ジャンプ読むかー」
「うん」
ソファに並んで腰を下ろし、隣り合った足に被せるようにジャンプを開く。
「よみきりある」
「ああ、本当だ。なんか見たことある絵だな」
「そう?」
「えー……あ、遊戯王の人か」
久しぶりに見た気がする。
「アニメのやつ?」
「ジャンプでむかーし連載してたんだよ」
アニメはもう別物のような気がしないでもないが。
「これから読んでみるか」
「うん」
パラパラとセンターカラーを開く。
「──…………」
「──…………」
うにゅほが速攻で飽きている気配がする。
気持ちはわかる。
トランプゲームのルールを説明する漫画、以上のものではなかったからだ。
まあ、読み切りでカードゲームをやるとなれば、トランプを使用する以外にないという気はするけど。
「──…………」
ぽす。
左腕に重みを感じた。
何事かと思っていると、
「──……ぷすー」
「あつ!」
シャツ越しに呼気を送られた。
部屋が冷えていたためか、本当に熱い。
「あったかい?」
「そんな一部だけ暖められても」
「ふすー」
「熱いって」
あんまりやると、呼気の水分で服が湿気るし。
暇そうなので、ささっと流し読みしてハイキュー!!のページを開いた。
スポーツ漫画はわりと好きらしい。



2013年11月4日(月)

「──……わふ」
大あくびをかましたうにゅほが、手の甲で目元をくしくしとこする。
「昼間にあくびなんて珍しいな」
「うん……」
膝の上で開いているストレンジ・プラスにも意識が向いていないようだった。
「眠い?」
「うん」
「眠れなかったのか?」
「さむくて……」
「ああ……」
昨夜は冷え込んだからなあ。
ストーブをつけたまま就寝するのは気分的によろしくないので、どうしたって朝方には冷気が部屋を侵し始める。
「十一月は冬だもんな」
「うん」
「なんとか十二月までは雪が根付かないでほしいけど」
「うん……」
「眠い?」
「うん」
目がとろんとしている。
「昼寝するなら、毛布もう一枚出そうか」
「もうふ?」
「去年も、一昨年も、毛布は二枚掛けだったろ」
「あー」
上から順に、掛け布団、毛布、毛布、丹前が真冬の布陣である。
丹前とは、掻巻とも言い、寝具のひとつである。
時代劇などで病気のおとっつぁんが掛け布団代わりにしているあれを想像していただければ、恐らく間違いはないだろう。
押し入れから毛布を二枚出し、一枚をうにゅほの寝床に置いた。
「ベッドメイクして、それから寝な」
「はい」
ふわふわとした様子で寝床を整え、もぞもぞと布団に潜り込む。
「あったかい?」
「おもい」
「重いか」
毛布が二枚もあれば、それは重いだろう。
しかし、真冬の安眠には欠かせないものである。
去年も一昨年も慣れたのだから、今年も慣れるだろう。
「ともあれ、おやすみ」
「おやすみ……」
しばらく様子を見ていると、うにゅほの意識が、すう、と落ちるのがなんとなくわかった。
眠かったとは言え、のび太並みの速度である。
快食快眠の称号は伊達ではない。
羨ましく思いながら、おもむろに腰を上げた。
しばしして、
「──……う」
うにゅほがのそりと起き上がった。
「眠気は取れたか?」
「あつい……」
「今度は暑いのか」
朝方ほど冷えてはいないからなあ。
「あつくて、おもくて、くるしい……」
「……そうか」
毛布を足すのは早かったかもしれない。
今夜も暑くて重くて苦しかったら、毛布は片付けることにしよう。



2013年11月5日(火)

「──……あふぁ」
ハンドルを握りながら大あくびをする。
「ねむいの?」
「眠いねえ……」
病院の待ち時間だけは、どうにも慣れない。
うにゅほと雑談しようにも、盛り上がるのは憚られるし、そもそも話題が続かない。
会話が途切れたくらいでいちいち息が詰まっていては、始終一緒にいることなどできやしないというものだ。
「眠気覚ましにコンビニ寄ってくか」
「うん」
支障が出るほどの眠気でも距離でもないが、小腹が空いていた。
帰途にあるローソンに立ち寄ると、黄金チキンが売り切れていた。
「へえ、売れてるのかな」
「おいしかったね」
「まあ、そこそこな」
ファミチキのほうが美味しいと思うけど。
「いや、待てよ。これはローソンの戦略かもしれない」
「せんりゃく?」
「あえて流通を絞ることで、手に入らないことから来る心理的リアクタンスと希少性の誇張により、消費者の購買欲を高めているのかもしれない」
「……?」
「かもしれない」
「そう」
買いもしない十六茶をうにゅほが両手で弄ぶ。
またはじまった、と思われている。
「からあげクンのてりやきマヨネーズ味があったから、それ買おう」
「おいしそう」
だが、特にめげない。
「お、栗きんとんと芋ようかんのセットがあるぞ」
「あ、おいしいやつ」
「去年こればっか食べてたよな」
「かおう」
お買い上げである。
車内へ戻り、エンジンだけ掛けて、軽食に舌鼓を打った。
からあげクンはふつうだった。
柚子こしょうマヨネーズ味が恋しい。



2013年11月6日(水)

霜月を迎え、冬物も出揃っている頃だろう。
そう思い、冬用のコートを求めてイオンモール札幌発寒を訪れた。
「どんなのがいいの?」
「あんまりビジョンがないんだよなあ。ショートじゃなければいいかな、くらい」
「みじかいの、だめなの?」
「ジャケットならともかく、コートで丈が短いと、まあ、あれなんだよ」
「あれ?」
「……胴が長いのが際立つんだよ」
「ふうん」
興味ないらしい。
「だから、コートにするならロングかハーフかな」
「どうちがうの?」
「ロングが膝丈、ハーフが太腿くらい。前のコートがロングコートだから、あれを目安にするといい」
「ほー」
専門店街をぐるりと一周したが、目につくものはなかった。
「いいのないなあ」
「むこうのひろいとこは?」
「あー……」
テナントではなく、イオンブランドのファッションコーナーである。
安くてふつう、というイメージがあるのだが、どうだろう。
「まあ、行ってみるか」
「うん」
ふらふらと歩きながら見るともなしに見ていると、
「あ!」
うにゅほが反応を示した。
「これいいよ」
「え、あー……こんなのあるのか」
それは、去年まで着ていたロングコートの裾を裁断し直したような、まったく印象の変わらないハーフコートだった。
「すごい」
うにゅほが鼻息を荒くする。
「いくら?」
「きゅうせんはっぴゃくえん、だって」
「うーん……」
裏地を検めると、僅かに縫製が荒かった。
コートを新調するに当たり、ほとんど同じデザインでワンランク落ちるものを選ぶのはどうだろう。
ああ、でも、無難の極み、キングオブ無難、まずもって間違いはないものがここにある。
「うー……ぬう……」
迷う。
「これだめ?」
「ひとまずー……う、保留しよう」
「ほりゅう」
「何着もあるから売り切れることはまずないし、他のモール見てからでも遅くはない、はず」
「そか」
うんうんと頷く。
「きょういくの?」
「今日はもう暗いから、さっきのデザート王国でクレープ食べて帰ろう」
「ほ!」
ぱん、とうにゅほが両手を打ち合わせた。
甘いものに目がないふたりである。



2013年11月7日(木)

俺たちは美味しいカレーに飢えている。
市販のルウでは再現できないスパイスの複雑な妙味を求めている。
それは、すこし歩けば棒のように行き当たるCoCo壱番屋では満たされたいものだ。
「──というわけで、ここが新しくできたカレー屋です」
「おー」
「さっさと入らない?」
うにゅほと弟が二者二様の反応を見せる。
「おいしいといいねえ」
「そうだなー」
虎を意匠したキャラクターで飾られたガラスドアをくぐる。
なんで虎なんだろう。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
「カツカレーひとつ」
「俺、ウインナーのやつ」
「えと……」
うにゅほがメニューを指さす。
「これ……」
「チーズカレーがおひとつですね。
 あと、カツカレーがおひとつと、ウインナーカレーがおひとつ、以上でよろしかったですか?」
「はい」
一礼し、店員がその場を辞す。
「……ここ、空いてるけど、大丈夫なんかね」
弟が声をひそめて言った。
「昼飯時を避けて来てるんだから、こんなもんだろ」
「うん」
うにゅほが追随して頷く。
しばしして、注文のカレーが運ばれてきた。
「──…………」
視線を交わし、まずはひとくち。
「あっつ!」
猫舌の弟は置いておくとして、
「あ、美味いじゃん」
「おいしい」
「うわ、カツすげえサクサクだよ」
「ひとくち」
「ほら」
「おー……ほいひい」
「な?」
そこそこ満足できる味だった。
「……でも、リトルスプーンのほうが美味いな」
弟が呟いた。
リトルスプーンとは、かつて札幌を中心に名を馳せたカレー専門店チェーンである。
「あ、おい、馬鹿」
弟を制止したが、遅かった。
「りとるすぷーん、ここよりおいしいの?」
「ああもう……」
リトルスプーンは、もう、ない。
倒産してしまったのだ。
だから、それに代わるカレー専門店を探し続けているのである。
「リトルスプーンも美味しかったけど、もっと美味しいとこはたくさんあるよ」
「うん」
チーズとカレーを混ぜ合わせながら、うにゅほが頷いた。
「──あ、そうだ!
 自動車学校の正面にあったカレー屋、あそこも美味しかったな」
弟が慌てた様子で言う。
しかし、
「お前そこも潰れただろ!」
「あ」
フォローが下手な男である。
当のうにゅほは、さほど気に留めず、チーズカレーに舌鼓を打っていた。



2013年11月8日(金)

「ただいまー」
ソファでうとうとしていると、うにゅほが帰宅したようだった。
「おかえり」
階段まで出迎える。
「ただいま」
「あんまり変わってないなあ」
「後ろは切ったけど、前髪は整えただけだからね」
母親が答えた。
親族の経営する美容室へ、連れ立って行ってきたのである。
「後ろ──あ、短くなってる」
気がする。
「へんじゃない?」
「変じゃないよ」
さっきも言ったが、変わらない。
「?」
うにゅほの肩を掴み、
「おー」
くるりと反転させる。
さらさらとした髪の毛を指のあいだに通していると、ふと香るものがあった。
「髪、なんかつけた?」
「なんかって?」
「整髪料とか」
「せいはつりょう」
わからないようなので、つけていないのだろう。
「じゃあ、シャンプーなのかな」
うにゅほの髪を鼻先に近づけ、すん、と匂う。
「……?」
不思議なことに、すこし離れていたほうがよく香るようだった。
「どれー?」
うにゅほが自分の肩口のあたりを嗅ぐ。
「あ、いいによい」
によい?
「ふろーらるですね」
「フローラルって意味わかってる?」
「どんないみ?」
「知らない」
シトラスもよくわからない。
「いい匂いだなー」
「そうだねえ」
そのまましばらくうにゅほの髪を嗅いでいた。
母親はさっさとくつろいでいた。



2013年11月9日(土)

冬物のコートを求め、札幌駅ビル内にあるショッピングモールへと足を運んだ。
「ひとおおいねえ」
「土曜日だからなー」
ふと立ち止まり、視線を巡らせると、俺たちと同じように冬物を探しているらしい人たちが、よく目についた。
「……昨日、ひどかったもんな」
「あられ?」
「霰なんだか吹雪なんだか」
氷点下に至る冷え込みと、家を揺らすほどの暴風。
それがセットで門戸を叩けば、冬の支度をしようと裸足で駆け出しても仕方ない。
「さて、どれにしようかな……」
モールを巡り、既に幾つか当たりはつけていた。
「××はどれがよかった?」
「うーと……」
しばし思案し、
「もっずこーと?」
覚えたての言葉を口にした。
「あー、あれがいちばん暖かかったな」
「うん」
「でも、前のコートに似てるんだよな」
「うん」
うにゅほ的にはそれがいいのだろうけど。
「他には?」
「ほかにい……?」
また思案し、
「ボタンたくさんのやつ」
「ピーコートか」
「そんななまえ?」
「それにしよう」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
実を言うと、自分のなかでは既に決まっていて、単に背中を押してほしかっただけだったりする。
つつがなくコートを購入し、帰路についた。
「またおかねつかったね……」
心配そうな声音で言う。
「何年も使うものだから、予算は高く見積もるって話はしたろ」
「ちがくて」
うにゅほがふるふると首を振り、
「ずぼん」
と口にした。
「──…………」
思わず目を逸らす。
「ずぼんもかった」
「いや、あれ、すごい履き心地よくて気に入ったから……」
「いちまんごせんえん」
「節制します」
財布の紐がひとつ多い。



2013年11月10日(日)

「マフラーが欲しい」
そう言うと、
「もってる」
うにゅほが洋服ダンスを指さした。
「昨日買ったコートに合うマフラーが欲しいんです」
「むらさきのやつ、だめなの?」
「駄目じゃないけど、コートと色合いが近くて、いまいち地味だ」
「そかなあ」
「あのコーディネートだと、絶対に赤い小物がいるんだって!」
「おかねないでしょ」
くっくっく、と、わざとらしい笑みを浮かべてみせる。
「××、マフラーってどれくらいすると思う?」
「うーと……」
思案し、
「ごせんえんくらい?」
「高い!」
予想通りの答えである。
「昨日行ったみたいな専門店だとそれくらいするけど、本来マフラーなんて千円出せばお釣りが来るんだよ」
「そなの?」
「そうなの。俺も千円以上出す気ないよ」
「それなら……」
うにゅほがしぶしぶ頷いた。
「んじゃ、ちょっとダイエー行く用事あるから、ついでに見てこよう」
「うん」
ダイエーのファッション売り場を探すと、いいかんじのマフラーが898円で売っていた。
「な?」
「ほんとだ……」
「じゃ、お買い上げです」
ほくほく顔でレジへ向かった。
帰途の最中、
「あ、ドン・キホーテある」
「どんぺんくんだ」
「ちょっと寄っていいか?」
「なにかうの?」
「耳栓が切れそうだから、あるかなって」
「うん」
ドン・キホーテに立ち寄るが、耳栓は見つからなかった。
代わりに、
「あ、これやすいよ」
「どれ?」
うにゅほが手にしていたのは、赤錆色をした無地のマフラーだった。
生地の薄さからしてストールに近い。
「色はけっこういいな。いくら?」
「いちきゅっぱ」
「──……え、いくらって?」
「いちきゅっぱ」
「1,980円?」
「ひゃくきゅうじゅうはちえん」
値札が見当たらなかったので、ポップを確認する。
「……798円、ではなく?」
「なな、かなあ」
「1、に見えるな……」
「──…………」
「──…………」
視線を交わし、レジへと向かう。
「198円でーす」
店員が笑顔で言った。
本当に198円だった。
「思わず買っちゃったけど……」
安物の殿堂ドン・キホーテで、しかも198円のマフラーである。
嫌な予感しかしない。
「どうしようか」
「どうしようね……」
悩みどころである。



2013年11月11日(月)

「──…………」
寒さに目を覚ました。
眼鏡を掛け、時計を見上げる。
午前八時半。
普段であれば夢のなかである。
リビングへ行くと、うにゅほが朝の情報番組を見ていた。
「あ、◯◯!」
こちらに気づき、腰を上げる。
「おはよう」
「きて!」
手を取られた。
「なんだ、どうした」
両親の寝室へ導かれるなり、うにゅほの意図を理解した。
「──……うわ」
窓の外に銀世界が広がっていた。
「ね」
「積もりやがった……」
げんなりして呟いた。
タイヤ交換や灯油の補充など冬の備えは済んでいるが、いざ目の前にすると気が滅入る。
「はあ……」
思わず溜め息をつくと、
「はー……」
同じくうにゅほも息を吐いた。
「雪、嫌いだったっけ?」
「ううん」
ふるふると首を振る。
「ゆき、すきだよ」
「そのわりに嬉しそうじゃないな」
「ふゆ、ながいんだもん」
「ああ……」
雪は、冬の訪れである。
「冬は嫌い?」
「きらいじゃないけど」
「もうすこし遅く来てもいいのにな」
「うん……」
冷えきった窓ガラスに指先を添えながら、よくをいえば、とうにゅほが話し出す。
「……じゅうにがつくらい、ことしはゆきふんないなーっておもって、しばらくして、あさおきたらふゆになってたら、いい」
「欲がないなあ」
俺はもう、降るな積もるな一気に解けろ、と毎年思っているが。
「まあ、根雪にはならない」
と思う。
「それに、冬も嫌なことばっかじゃないしな」
「うん」
「つきたてのもち食いたい」
「たべたい!」
「ああ、なんか腹減ってきたな……」
「パンあるよ」
「なんか塗って食べよう」
寒さのせいか、二度寝はしなかった。



2013年11月12日(火)

「──…………」
ぴく。
ソファに並んで読書していると、うにゅほがふと顔を上げた。
「?」
天井の隅から隅へ、ゆっくりと視線を彷徨わせる。
「どうかした?」
「なんかきこえる」
「なんか……?」
耳をそばだてる。
モスキート音のような高音と、ザザ、というノイズが聞き取れた。
しばしして、
『──……もー……』
かすかに男性の声が耳に届く。
「いしやきいもだ!」
「あー」
言われて気がついた。
「久しぶりに聞いたな」
「はじめてきいた」
「去年とか来なかったっけ?」
「こなかった」
「初、石焼き芋か」
「はつやきいも」
「焼き芋は初じゃないだろ」
「うん」
すこし考え、
「じゃあ、近くに来たら買ってみるか」
「いいの?」
「駄目なことないだろ」
「やた!」
うにゅほは勢いよく立ち上がると、
「みちみてるー」
と言い残し、道路に面した両親の寝室へと小走りに駆けていった。
移動販売の石焼き芋は当たり外れが激しく、高いわりに大して美味しくもない。
しかし、浪漫がある。
一度くらい、道端で焼き芋を買う経験をしてもいいだろう。
たとえそれが一本五百円だったとしても。
数分ほどして、冷えきった両親の寝室を訪ねた。
「石焼き芋、まだ見えない?」
「うん……」
「いま、どのあたりにいるんだろうな」
「わかんない。でも」
ふるふると首を振り、言葉を継ぐ。
「とおざかっていく……」
「──…………」
耳を澄ます。
さっきより声が小さくなっている気がした。
「……まあ、また来ると思うよ」
「うん……」
がっかりしているうにゅほの頭に、そっと手のひらを乗せた。



2013年11月13日(水)

父親に書類を届けた帰り道、クレープと書かれた看板が目に留まった。
クレープとソフトクリームを売りにした喫茶店のようだった。
「××、クレープ食べたい?」
「たべたい」
「俺も食べたい」
意見の一致をみた。
店内は落ち着いた雰囲気で、時間帯のせいか客の姿はなかった。
「なにあるかな」
壁に掲げられた手書きのメニュー表を見上げる。
「……はんばーぐ?」
きょとん、とうにゅほが呟いた。
「あー、そういうクレープもあるんだよ」
「そーいう?」
「しょっぱいクレープ」
「あまいのがいいな……」
「俺も」
意見の一致をみた。
「うーと」
しばし思案し、
「わたし、なまチョコバナナにする」
「美味しそうだな」
「◯◯は?」
「えー……ちょっと待って」
メニューの九割にバナナが含まれている。
バナナは嫌いじゃないけど、クレープに入れてほしくはない。
「なまチョコバナナは?」
「××に貰う」
「うん」
バナナを抜いてもらうこともできたろうが、せっかくならメニューとしてまとまっているものを頼みたい。
「あー……、うん、チーズクリームにしよう」
「おいしいの?」
「わからんけど……」
とりあえず注文してみる。
二、三分ほど待ち、
「わ」
「おー」
けっこう豪華なクレープが出てきた。
車内へ戻り、かぶりつく。
「あ、おいしい」
「──…………」
「?」
「うーん……」
「チーズ、おいしくない?」
「いや、うん、チーズだ」
「うん」
「チーズなんだよ」
クリームチーズを柔らかくしたものの味がする。
「しょっぱいの?」
「すっぱしょっぱい」
「ひとくち」
あむ、とうにゅほが俺のクレープを頬張る。
「な、チーズだろ」
「おいしい」
「そうかあ?」
「チーズケーキのあじする」
チーズケーキ?
「まんなかのなまクリームといっしょにたべる」
言われるまま、ひとくち囓る。
「……美味い」
「ね?」
最初から混ぜておいてくれ、という気もするが。
「なまチョコバナナたべる?」
「おくれ」
こちらも美味しかった。
専門店を謳うだけはある、と思った。



2013年11月14日(木)

「うふ──……ぅ……」
「だいじょぶ……?」
「ちょ、トイレ……」
上体を起こし、なんとか立ち上がる。
もうなにも出ないことはわかっているのだが、行かないわけにもいくまい。
「ふう……」
下腹を撫でながらトイレを出る。
「びょういん」
ドアの前で待っていたうにゅほが、俺の財布をそっと差し出した。
「行くか……」
財布を受け取り、尻ポケットに収めた。
かかりつけの病院へ行くと、急性腸炎との診断を下された。
下痢止めと整腸剤を処方してもらい、帰宅した。
「だいじょぶ?」
「多少はマシになったかも」
錠剤を飲むと、すこしだけ痛みが和らいだ気がした。
プラセボとわかってはいるが、自分の腹に向かってわざわざ訂正することもない。
「おかゆつくる?」
「いや、いい。あんまり食べる気しない」
「そか」
ジャケットも脱がず、ソファに寝そべった。
「なでなで」
うにゅほが俺の下腹を撫でる。
「くすぐったい」
「おなかいたいときは、なでるといいんだよ」
「それ、俺が教えたんだろ」
「そうだっけ」
うにゅほの手のひらが、へそのあたりを這いまわる。
くすぐったいと言ったのは気恥ずかしかったからで、実のところは心地いい。
「きゅうせいちょうえん、まえもあったね」
「あったなー」
「いつだっけ」
「いつだっけなあ」
冬だったと思うので、一年以上は前のことだろう。
どうにも腸が弱いらしい。
胃も強くはない。
総じて病弱である。
「今日は寝てる……」
「パジャマきがえてね」
「はい」
日が沈むころには、痛みはだいぶ引いていた。
大事を取り、夕飯は食べなかった。



2013年11月15日(金)

会計を済ませ、財布を尻ポケットに押し込んだ。
大量のスープパスタをレジ袋に詰め、持ち手を取る。
「あ!」
後ろにいたうにゅほが声を上げた。
「さいふおちる!」
ぽん。
財布越しに尻を押さえられる。
「落ちる、って──」
どういうことだろう。
財布をポケットに入れ損なったとして、それに気づかないことはありえない。
腰に手を回すと、うにゅほの指に触れた。
ポケットから財布が抜き取られる感触。
「はい」
うにゅほから財布を受け取り、尋ねる。
「ポケット、どうなってんの?」
「チャックあいてる」
「えっ」
社会の窓を確認する。
「そっちじゃなくて」
「そっちもなにも」
「ポケットにチャックある」
「なんだそれ」
尻ポケットをまさぐると、
「──……ある」
ジーンズとポケットの接合部が、ファスナーで開閉できるようになっていた。
つまり、ファスナーを開けると中身が落ちる。
「気づかなかった……買ったばかりとは言え……」
というか、なんでこんな意味不明のデザインになっているのだ。
高いジーンズはよくわからない。
「これ、あぶないねえ」
「ほんとだよ」
「ガムテープはる?」
「嫌だよ……」
なにもかもが台無しである。
「もっといい方法がある」
「なに?」
「アロンアルファで接着しちゃえばいいんだよ」
「……いいの?」
「百害あって一利なしだろ、こんなファスナー……」
ぶつくさ言いながら帰宅した。
以前購入したアロンアルファが金属に使えるかをよく確認し、さっさとファスナーを塞いでしまった。
右手の親指と中指が接着されたのは御愛嬌である。
アロンアルファ専用リムーバーはがし隊があって本当によかった。



2013年11月16日(土)

俺たちは美味しいカレーに飢えている。
美味しくないカレーはあまりないが、美味しいカレーのなかでも美味しいほうのカレーをうんぬんかんぬん。
「──というわけで、ここがこないだ見つけたカレー屋です」
「おー」
「それ言わないと駄目なの?」
うにゅほと弟が二者二様の反応を見せる。
「ブルックス──って、チェーン店なのかね」
「チェーン店なんじゃないか?」
手稲店って書いてるし。
「はいろう」
うにゅほに手を引かれ、入店する。
メニューとにらめっこの末、適当なカレーを注文し、狭い店内を見渡した。
昼飯時だというのに随分と空いている。
「──…………」
ぼんやりとした不安。
しかし、運ばれてきたカレーをひとくち食べた瞬間、それは払拭された。
「美味い……」
「おいしい!」
野菜の甘みとうまみが凝縮されたルウのなかに、とろとろになるまで煮込まれた牛肉がたっぷり入っている。
これは、と弟が呟く。
「リトルスプーンを美味しくした味がする……」
「あー、たしかに同じ系統の味だ」
「そなの?」
うにゅほが俺を見上げ、そう尋ねた。
「そうだな、美味しいと思うよ」
「そっかー……」
うんうんと頷く。
もう食べることのできないリトルスプーンのカレーに、うにゅほなりに思うところがあったのだろう。
「──……しかし、美味しいけど、多いな」
「う」
外見のわりに健啖なうにゅほが、つらそうにおなかを撫でている。
「おなかいっぱいなら、残り食べようか?」
「おねがい……」
こうして、うにゅほの代わりにカレーを平らげたのはいいのだが、
「うう──……っふ……」
俺が満腹になってしまった。
「運転したくない……」
「はいはい」
弟にキーを手渡し、後部座席で横になった。
そういえば、急性腸炎だった気がする。
大丈夫だろうか。
大丈夫だといいなあ。



2013年11月17日(日)

眠気覚ましに飴玉ををバリボリ齧っていると、うにゅほが口を開いた。
「◯◯、あめかむよね」
「え、うん、中にパウダー入ってるやつだし……」
「はいってないの、かまない?」
「噛むけど……」
せっかちであることを揶揄されたようで、ちょっと恥ずかしい。
「××だって噛むだろ」
「うん」
「ていうか、最後まで舐めきるほうが少数派だと思う」
弟は舐めきる派らしいが、にわかに信じがたい。
「◯◯、かむまではやい」
「……ずっと観察してたの?」
「うん」
「暇なの?}
「うん」
それはそうか。
「まあ、たしかに早いかも」
飴玉に限らず、口のなかのものを飲み下さないうちに、次のひとくちのことを考えている気がする。
やはり、せっかちなのだろう。
「かむちからすごい、とおもう」
「そう……」
ここまで褒められて嬉しくないこともそうはない。
「××は、どれくらいで噛むんだ?」
「うーと」
しばし思案し、
「ちっちゃくなったら」
「それはわかってる」
「……かめる!って、おもったら?」
「あー」
なんとなくわかる気がする。
「前歯で軽く挟んでみて、行けそうだったら行っちゃうよな」
「うん、そんなかんじ」
「行けそうじゃなくても行っちゃうんだけどな、俺は」
「は、じょうぶ」
「うん……」
やはり嬉しくない。
「……やっぱ、飴玉ひとつ舐めきるくらいゆとりのある人間であるべきだな」
「そう?」
うにゅほが小首をかしげる。
「そうなの!」
たぶん。
南部せんべいの丸缶から純露を取り出し、口のなかへと放り込む。
「これを舐めきります」
「おー」
うにゅほの前で宣言すれば、まさか途中で噛むこともあるまい。
そう思っていたのだが、
「──……?」
しばらく舐めたところで、口内の純露がほろりと崩れた。
「あれ?」
純露ってもっと丈夫だったような。
「どしたの?」
「なんか、柔らかくなって、崩れた」
「なんで?」
「夏場に一度、溶けたのかなあ」
白くなってたし。
「なめきれたね」
「舐めきれたけど」
微妙に達成感のない初冬の午後だった。



2013年11月18日(月)

デスクに足を上げながら、だらしなく読書をしていた。
「あ、あれ」
「あれ?」
「あれつかってる」
「これか」
手にしたレザーカバーを掲げてみせる。
「そう、それ」
「名前は覚えてないか」
「おぼえてるよ」
「なに?」
「きん、たろ……」
「Kindleな」
微妙に惜しい。
KindlePaperwhite、電子書籍リーダーである。
以前に購入したものだが、これまであまり活用できていなかった。
「こないだ半額セールやってたから、ちょいちょい買ってみたんだよ」
「でーたー?」
「そう、データ」
「なにかったの?」
うにゅほがわくわくした様子で言った。
「××が喜びそうなのは買ってないなあ」
未読だった海外SFの傑作であったり、ラヴクラフト全集であったり、そんなのばかりである。
「そっかー」
すこしがっかりしている。
「そもそも、漫画は読みにくいしな、これ」
「そなの?」
「ほら、カラーじゃないし」
「あー」
「最大4000冊って謳ってるけど、漫画だと100冊くらいしか入らないし」
「えー……」
KindlePaperwhiteのストレージは4GBである。
コミックリーダーとしての用途はあまり重要視していないのだろう。
「びみょう」
「漫画は紙で買えってことだな」
「あんましよくない?」
「いや、これはこれでいいところもあるんだよ」
「どこ?」
「いちいち辞書を引かなくても、単語の意味を調べられる」
「ほー」
うにゅほが口を丸くする。
「ほかには?」
「えー、場所を取らないし、持ち運びやすい」
「あとは、あとは?」
「……それくらい?」
「あー……」
小首をかしげ、
「びみょう」
と呟かれてしまった。
「や、カラーで漫画も読みやすいタブレット端末もあるんだぞ?」
「あるの?」
「ちょっと高いけど」
「おたかいかー」
言うほど高くもないが、Paperwhiteを持っているのに購入したくなるほどではない。
「まあ、漫画は紙ってことだ」
「そだね」
しばらくはそれでいいだろう。



2013年11月19日(火)

弟と連れ立ち、三人で焼き鳥屋へ行った。
「今日くらいは飲んでもいいよね」
「うーん、いいよ」
許可が出た。
運転手の弟は飲めないので、俺ばかりがかぱかぱとチューハイを空けていた。
なんでもないことばかりを大仰に話した。
うにゅほは、俺の隣で、ずっとにこにこしていた気がする。
「?」
ふと、うにゅほがテーブルの隅に手を伸ばした。
「なんだこれ」
「えー、開運みくじ、一回百円……」
と、書いてあった。
「ファミレスの青い星占いみたいやつ?」
「あー、そんなんあったな。やったことないけど」
「──…………」
じっと見つめている。
「……××、やりたいのか?」
「うん」
やりたいらしい。
「やっていい?」
「いいよ」
財布を取り出そうとすると、
「あ、おかねある」
そう言って、肩から提げたポシェットを開いた。
許可は必要だったのだろうか。
うにゅほが百円玉を投入すると、おみくじ機からカードが出てきた。
「思ったよりしっかりしたカードだな」
「うん、もっとペラい紙が出てくるのかと思った」
「あ、すくらっち」
うにゅほがスクラッチ部分を削る。
「だいきち!」
「おー、よかったじゃないの」
梅酒ソーダをあおる。
「具体的に、なんて書いてるんだ?」
「うーと……」
うにゅほが目を凝らす。
「……がん、ごと?
 しんちょうにしてると、いがいにはやくじょうじゅ」
「なんか願い事あるの?」
「とくに」
ふるふると首を振る。
「まちびと、れんらくがあるでしょう」
「誰か待ってるの?」
「だれ?」
でしょうね。
しばらく読み上げ、
「けつえきがた、えーと、びーは、あう」
「俺、A型」
「俺もA型」
「わたし、なにがた?」
「知らないけど……」
全体的に、大して役に立たなかった。
うにゅほは、ハロウミというチーズを串で焼いたやつがお気に入りだったようだ。
美味しかったので、また行きたい。



2013年11月20日(水)

ストーブをつけるようになってから、うにゅほがうたた寝する姿をよく見かけるようになった。
換気はしているので、酸欠から来る眠気ではないだろう。
単純に暖かいのだと思う。
「──…………」
ふすー、
ひすー、
と、寝息の音が耳をくすぐる。
しどけない格好で寝落ちしているうにゅほを見るともなしに見ていると、ある衝動に駆られた。
「──…………」
ふすー、
ぴすー。
半開きの口元から目が離せない。
「──…………」
ごくり。
喉を鳴らす。
指、入れてみようかな。
その行為は、初めてではない。
しかし、久しぶりだった。
どうしてか二度とやるまいと誓った記憶だけがある。
まあ、いい。
音を立てずに腰を上げ、ソファの傍で膝を折った。
「──…………」
ふすー。
人差し指を立て、
すー。
口内へと下ろしていく。
「……お」
しめりけを帯びた空気が、指先をそっと撫でていく。
ふすー。
涼しい。
ぴすー。
あったかい。
そう、この感覚だ。
なんだかむしょうに懐かしく、かつ異様なまでにスリリングである。
どこまで奥へ行けるかというチキンレースを思いついたが、うにゅほがおえっとなっても可哀想なのでやめた。
やはり、うにゅほの安眠を妨げるようなことはすべきでない。
胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと指を抜いていく。
そのとき、
「──……んー」
「!」
うにゅほが身じろぎをした。
ぴと。
指先が、熱く、やわらかいものに触れ、
がり!
直後、激痛が走った。
「がッ!」
反射的に指を上げる。
爪の生え際に、思いきり歯型がついていた。
「いででで……」
華奢であろうと少女であろうと顎の力は恐ろしいものだ。
血は出ていないが、すこぶる痛い。
「──…………」
ふすー。
わずかに体勢をずらし、うにゅほの安眠は継続していた。
口元がもにょもにょと動いている。
起きなくてよかったけど、痛い。
完全に天罰です。
「はー……」
洗面所で指先を冷やしながら、思う。
二度とやるまいと誓った過去の自分は、実に賢明だった。
現在の自分については考えたくない。



2013年11月21日(木)

「◯◯、つたやいかないの?」
青いレンタルバッグを掲げながら、うにゅほが尋ねた。
「見たいのあるのか?」
「ちがくて」
ふるふると首を振る。
「でぃーぶいでぃー、かえさないの?」
「あれ、もう一週間経ったっけ」
よく思い出せない。
見ていないDVDがあると返却期限に対してナーバスになるが、すべて見てしまった場合その限りではない。
さっさと返せばいいんだけど。
「今日が期限なら、日が暮れる前に行っとかないとなー」
後頭部を掻きむしりながら、ぼんやりと呟いた。
「あの」
「?」
「ちがくて」
「なにが?」
「きげん、きのう……」
「えっ」
バッグを受け取り、レシートを確認する。
返却期限 2013年11月20日(水)
「……やっちゃったぜ」
「どうなるの?」
うにゅほの表情が不安に翳る。
「や、そんなひどいことにはならないよ。
 追加料金を取られるだけで」
「どんくらい?」
「延滞したの初めてだからなあ……」
「ひゃくえんくらい?」
「もうすこし高いんじゃないか」
そんなことを話しながらTSUTAYAへ赴くと、
「──……1枚につき、315円」
「ごまいだから……」
「1,575円、だな」
思ったより高かった。
「いっしゅうかん、ひゃくえんなのに、いちにちさんびゃくえん……」
納得の行かない顔をしている。
「そうしないと、なかなか返さない人が出てくるから」
「──……うー……」
「?」
うにゅほがなにやら呟くように唇を動かしている。
「……いっかげつえんたいすると、きゅうせんえん?」
「そうなるな」
「でぃーぶいでぃー、かえる?」
「買えるな」
「もったいないね……」
「ほんとだよ」
一年延滞すると、十万円以上請求されるのだろうか。
そうなる前に督促の電話が来そうなものだけど。
「ちゃんとかえさないとね」
「今日は借りてないけどな」
「かりてないけど、ちゃんとかえさないとね」
「そうだな」
一階の書籍コーナーで、ねこむすめ道草日記の10巻を購入し、帰宅した。



2013年11月22日(金)

だから言ったのだ。
俺は止めたのだ。
うにゅほは泣き疲れて眠り、涙と鼻水とよだれの入り混じった大きな染みが俺のシャツに残された。
賢明な読者諸兄には、この一言で御理解いただけるだろう。

──火垂るの墓を見た。

うにゅほはジブリ映画が好きである。
俺は失念していたのだが、先週のルパン三世放映後に「秋もジブリ!」のキャッチフレーズで大々的に予告されていたらしい。
余計な真似を。
今日の午後九時を一週間ものあいだ心待ちにしていたうにゅほを、
「絶対泣くから!」
の一言で止められるはずもない。
スタッフロールが終わったあとも、俺のシャツに顔を押しつけたまま微動だにしないという有り様である。
火垂るの墓を見て泣かなかったのは、もしかすると初めてかもしれない。
泣く暇がなかった、とも言える。
「──…………」
たっぷり二十分も俺の腰にしがみついたあと、うにゅほがむくりと起き上がった。
「大丈夫か……?」
「……ねる」
そう呟き、ふらふらと立ち上がる。
「来週のおもひでぽろぽろはどうする?」
「──…………」
ぴたりと動きを止め、
「……みる」
と答えた。
見るんかい。
「まあ、泣くやつじゃないから大丈夫」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ……」
うにゅほが布団に吸い寄せられていくのを眺めながら、思った。
明日に持ち越さなければいいんだけど。



2013年11月23日(土)

「──……うぅ……」
午後三時を回ったころ、ようやく起床した。
ぐうたらしていたわけではなく、熱があったのである。
原因はわかっている。
火垂るの墓だ。
どうにも精神的ダメージが肉体にフィードバックする性質らしく、同じようなことを幾度も繰り返している。
翌日まで持ち越したのは俺のほうだったということだ。
「おはよう」
「あ、おはよ」
うにゅほはすっかり落ち着いた様子で、KindlePaperwhiteをいじりまわしていた。
「あとで出かけるけど──」
「いく」
即答である。
確認する必要をあまり感じないのだが、ごくまれに優先度の高い用事があったりするからなあ。
「どこいくの?」
「ホームセンターでステンレスワイヤーを買いたいのと、」
「ふんふん」
「モニタ用のクリーナーを買いたいのと、」
「ふむふむ」
「あと、コンテにガソリン入れたいかな」
「ガソリンやっていい?」
「いいよ」
「わー」
たったそれだけのことで上機嫌になってくれるのだから、無闇に微笑ましい。
買い物を手早く終えたあと、行きつけのガソリンスタンドに立ち寄った。
「はい、カード」
「うん」
レバーで給油口を開き、車を降りようとすると、
「ひとりでできるよ」
「そうか?」
「うん」
まあ、大丈夫だろう。
そう思い、運転席で待つことにした。
「──…………」
ウィンドウ越しにうにゅほの様子を見る。
静電気除去シート撫で回し過ぎだって。
ああ、ほら、キャップ開く前に給油ノズル持つから。
「ふー……」
なんだか気疲れしてしまう。
天井を見上げながらうにゅほを待っていると、
「──……?」
様子がおかしいことに気がついた。
コンテを降り、うつむいているうにゅほの傍へ近づいていく。
ぽたり。
うにゅほの足元にしずくが落ちる。
「──……ぶぇえ」
号泣していた。
「今!?」
なにをきっかけにして!?
「××、どうしたんだ……?」
「ぶー……」
うにゅほが俺に抱きつく。
視線が痛い。
「──よし、とりあえず車に乗ろう。戻ろう。な!」
あとから聞いたところによると、なんの前触れもなく火垂るの墓のラストシーンを思い出してしまったらしい。
理由は自分でもよくわからないのだとか。
翌日まで持ち越したのは、うにゅほも同じだったということである。



2013年11月24日(日)

「あー……」
ソファの背もたれに沿って天井を見上げながら、ぼんやりと呟く。
「どっか出かけるかー」
「どこいくの?」
「それは決めてないんだけども……」
部屋のなかでくさくさしていても、精神衛生的によろしくないことはたしかである。
「行きたいとこ、ある?」
「えー」
小首をかしげながら、
「すぐおもいつかないよ」
「思いつかないか」
いきなり言われたところで、そりゃそうかである。
「じゃあ、やりたいこととか」
「うー?」
「欲しいものとか」
「んー……」
しばし思案し、
「あ、あまいのたべたい」
「ほう」
食指が動く。
甘いものはいつだって美味いものだ。
「じゃあ、またクレープ食べに行こう」
「あそこのとこ?」
「たぶんそこで合ってる」
以前見つけたクレープ専門店だが、なんだかんだで行きつけになりつつある。※1
バナナを抜くと50円引きになるところが素晴らしい。
「目的地も決まったし、出かけるかー」
「おー」
クレープを食べて、ホームセンターへ寄り、適当に遠回りしながら帰宅した。
「──……ふへ」
ソファに寝そべりながら、うにゅほがにへらーとした笑みを浮かべる。
「そんなに気に入ったのか……」
「ふかふか」
立ち寄ったホームセンターでふかふかもちもちのクッションを発見し、一も二もなくうにゅほが自腹で購入したのである。
「ちょっと貸して」
「いいよお」
──ふかっ。
「……いいな、これ」
「うん」
でも、こういうクッションって、だんだんふかふかしなくなってくるんだよな。
「うへへ……」
嬉しそうだから言わないけど。

※1 2013年11月13日(水)参照



2013年11月25日(月)

師走も近づき、道路工事を見かけることが多くなった。
工事をするぶんには一向に構わないが、道幅が狭くなるのは困りものである。
「あー……」
前方に連なる小渋滞を見つめ、唸る。
「ここ橋だから迂回できないんだよなあ」
「れつながいねえ」
「信号の五、六回分は覚悟しないと駄目そうだ」
「うん」
左腕を肘掛けに置き、前方車両のナンバープレートでぼんやり暗算などしていると、
「♪」
うにゅほに手を取られた。
「なに?」
「うん」
もみもみ。
手のひらをマッサージされている。
「よいどめのつぼ」
酔ってないが。
「ぐりぐり」
ちょっと痛い。
されるがままにしているのもつまらないので、ちょっとからかうことにした。
「──…………」
「!」
すべての指を折り畳み、握り拳をつくる。
「──…………」
「──…………」
しばしの膠着状態ののち、
「──…………」
「!」
素早く人差し指を立てた。
「──…………」
うにゅほが、俺の人差し指を恐る恐る掴もうとする。
「──…………」
「!!」
すんでのところで人差し指を折り、同時に小指を立ててみせた。
「おー……」
道具を使わない簡易的なモグラたたきゲームである。
「お」
「ほい」
「やっ」
「よいしょ」
「お、ほ、あはは!」
けっこう楽しそうだ。
これって、本来は幼児向けの手遊びなんだよな。
いいんだけど。
右手を交えてしばし遊んでいると、やがて車が動き出した。
暇は潰せたな、うん。



2013年11月26日(火)

「♪~」
うにゅほがリビングでごろごろしている。
い草のカーペットから冬用のラグに敷き替えたためだろう。
「にしても、随分ふかふかしたラグだな」
「ねー」
どうやら低反発素材が使用されているようで、毛足が長いわけでもないのに足あとがくっきりと残る。
「これから寒くなるんだし、いいのかな……」
「うん」
手にしたマグカップをテーブルの上に置き、ソファに腰掛ける。
そして、片手でテーブルを引き寄せようと──
「……あれ」
動かない。
テーブルの下を覗き込む。
「あー……」
テーブルの脚がラグにめり込んでいた。
「これは動かない……」
「どしたの?」
「あんまりふかふかしてるせいで、テーブルが片手で動かなくなった」
「えー」
うにゅほが上体を起こし、テーブルの端を掴む。
「ぬうー……!」
動かない。
ちなみにマグカップは退避済みである。
「これはちょっと持ち上げないと無理かもしれない」
「もちあげる、の?」
「ああ」
「これ?」
「ああ」
畳一畳ほどはあろうかという木製のテーブルである。
ソファに寝そべったまま気軽にスープが飲めなくなってしまった。
「──…………」
「!」
俺の内心を察したか、
「でもこれいいよ。あったかいよ」
うにゅほがラグを擁護し始めた。
「ふかふかしてるし」
ふかふかしてるせいでこんなことになったわけだけれども。
「まあ、そうだな。もう冬だもんな」
いまさら返品するわけにも行かないだろうし。
テーブルを動かすのが面倒になって、ラグの上にあぐらをかいた。
「──…………」
座り心地は悪くないな、と思った。



2013年11月27日(水)

スピーカーで音楽を流しながら、ひとり読書に勤しんでいた。
うにゅほは台所で夕食の手伝いをしている。
そのうち戻ってくるだろう。
「お」
懐かしくも印象的なイントロがスピーカーから流れ始めた。
スガシカオの夕立ちだ。
こうして耳にするのは何年ぶりだろうか。
「♪その日 午後から──」
無意識に口ずさみながら、ゆっくりとページを繰る。
懐かしい。
本当に懐かしい。
「♪不意に──」
いよいよサビに差し掛かったとき、

がちゃ。

不意に扉が開いた。
思わず口をつぐむ。
うにゅほだった。
濡れているのか、左手をスカートで拭っている。
「──…………」
なんとタイミングの悪い。
「きょうのごはん、とりにくとネギのやつだよ」
「おー」
わりと好きなおかずだ。
「ふう……」
ソファに腰を下ろし、うにゅほが口を開いた。
「うたわないの?」
「!」
心臓が跳ねた。
それほど大きな声で歌っていたつもりはないのだが。
「……聞こえてたの?」
「うん」
壁仕事しろ。
「あー、もう、あー……」
顔から火が出そうだ。
「はずかしいの?」
うにゅほがきょとんと問う。
「恥ずかしいよ!」
「なんで?」
「××だって歌うの恥ずかしがるだろ」
「◯◯、カラオケうたうのに」
「カラオケは歌う場所だから恥ずかしくないんだよ」
「──……?」
小首をかしげる。
どちらも恥ずかしいうにゅほとしては、その差がよくわからないらしい。
「うー……まあ、いいや」
説明は諦めた。
いつか同じ目に遭わせたい。



2013年11月28日(木)

ソファに腰掛けて本を読んでいると、うにゅほが俺の膝に上半身を預けてきた。
寒かったのだろう。
「──…………」
膝をちょっと上げる。
「う」
おなかを押され、うにゅほがうめく。
「──…………」
「う、う、う」
面白い。
「もー」
「ははは」
うにゅほが不満げに上体を起こす。
そのまま読書を続けるのかと思いきや、くるりと反転して仰向けに寝そべった。
俺の膝を支点にして、全身が猫のように反り返っている。
「──…………」
大丈夫なのだろうか。
相変わらず、前屈以外はすこぶる柔らかいうにゅほである。
「ほら、おなか出てる」
「うん」
ちょいちょいと上着の裾を直しながら、思う。
腹太鼓を誘うような体勢だなあ。
やらないけど。
「──…………」
人差し指の先をおなかに突き立てて、へそ当てゲームとかしたら面白いだろうか。
やらないけど。
「──…………」
むに。
「ぶ」
うにゅほのほっぺたをつまむ。
反応なし。
うにい。
「ふー」
うにゅほのほっぺたを伸ばす。
反応なし。
ぱ。
「ぷ」
離す。
反応なし。
漫画に集中しているのか、どうでもいいのか。
ゆるゆるに気を許されているのは嬉しいが、ここまで無反応だと逆に寂しくもある。
まあ、いいや。
ちょっと重い膝掛けと思って読書を再開した。



2013年11月29日(金)

「あ、ごまどれあった」
「二本だっけ」
「うん」
胡麻ドレッシングをカゴに入れ、一息ついた。
「これで全部かな」
「うと、ごまどれかった、めぐすりかった、はぶらしかった──」
うにゅほが、カゴの中身をひとつずつ確認していく。
「うん、だいじょぶ、ぜんぶ」
うんうんと頷いた。
「××はなんか欲しいものある?」
「んー」
しばし黙考し、
「ない」
と答えた。
「◯◯は?」
「俺か、俺はなあ……」
しばし思案し、
「あ、ポッキー食べたい」
さっき見かけてからすこし気になっていたのだ。
「わたしもたべていい?」
「いいぞ、二袋入ってるし」
「わー」
そんな会話を交わしながら、会計を済ませて帰宅した。
「ポッキー、大人のミルク……」
呟きながら開封し、口に入れる。
ぱり。
なんだか妙に歯ざわりが良い。
「サクパリのパイ食感?」
と、書いてある。
「どんなあじ?」
「ほら、××のぶん」
一袋を手渡す。
「これは、あしたたべる」
「ああ」
「いっぽんちょうだい」
そう言うと思った。
ただあげるのもつまらないので、ちょいちょいとうにゅほを手招く。
「?」
うにゅほが傍に寄ってきた。
「ほら、あーん」
「あー」
かりっ。
指先に振動が伝わる。
「かたい」
「ちょっと硬いよな」
「おいしい」
かりかり。
「──…………」
なんだろう、この満足感は。
「……もう一本食べる?」
「いいの?」
「あーん」
「あー」
かりかり。
ああ、これは、そう、ウサギに餌をあげているときのような──
「まだ欲しい?」
「もういいよ?」
「そうか……」
なんとなく残念に思いながら、前歯でポッキーを噛み砕いた。



2013年11月30日(土)

「──さて、と」
ジョンバを雪山に突き刺し、ほっと一息ついた。
「こんなところかな」
「うん」
「思ったほど積もってなくて、よかった」
「そだねえ」
うにゅほが膝を折り、質素な墓石の雪を払った。
今日は愛犬の一周忌である。
「一年経ったかー」
「うん」
「なんか、そんな感じしないけどな」
「そう?」
「俺は、そうかな」
コートのポケットからビーフジャーキーの袋を取り出し、開封する。
「おそなえ?」
「犬用ジャーキーのほうがいいんだろうけど、余っても困るから」
「えんぶん、だいじょぶかな」
「死んでから健康を気にしてもなあ」
ビーフジャーキーをひとかけら、墓前に供えた。
「──…………」
ぱん、と手を合わせる。
「南無大師遍照金剛でいいのかな」
「おきょう?」
真言ってお経なんだろうか。
「まあ、いいや、なんでも」
「うん」
黙祷を捧げ、立ち上がる。
「──…………」
うにゅほの黙祷が終わるのを待ち、きびすを返した。
「もうおわり?」
「他にできることがない」
死者への祈りは、自分への祈りだ。
納得できればそれでいい。
「──…………」
うにゅほの表情が翳る。
さばさばし過ぎていただろうか。
そうかもしれない。
「……散歩」
「?」
「散歩、しようか。久しぶりに」
すこしだけ照れながら、振り返らずにそう言った。
「うん」
とてとてと寄り添い、うにゅほが俺の手を取った。
その手は、俺と同じくらい冷えきっていた。
「──…………」
「──…………」
かつての散歩コースを辿る。
会話はなかった。
すぐ傍にありながら、一年も歩いていなかった道。
なにひとつ変わらない。
なんとなく空を見上げながら、手を繋いで歩き続けた。


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