>> 2013年8月




2013年8月1日(木)

市民プールでひと泳ぎしたあと、その足でヤマダ電機へ向かった。
仕事で使うICレコーダーを買ってきてくれ、と、父親に頼まれたのである。
「たくさんあるね」
「でも、ほとんどオリンパスだな」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「オリンパスは、メーカーの名前だよ」
気持ちはわかるが。
「おおきいのがいいのかな」
「どうだろう」
内蔵マイクが大きいほど、音質がよくなりそうな気はするけど。
「ね、◯◯、これは?」
「んー?」
プラスチック製の、安っぽいコンパクトラジオのようなレコーダーを手渡された。
印字された文字を読み上げる。
「FM/AM……」
ラジオだった。
「やっぱ、小さいほうが便利そうでいいかな」
「そっか」
セール中で手頃な価格だったソニー製のICレコーダーを購入し、帰途についた。
「これ、こえをろくおんする?」
充電中のICレコーダーを弄びながら、独り言のようにうにゅほが問い掛ける。
「そうだよ」
「ろくおんして、どうするの?」
「今回は、込み入った会話をあとで確認するために使うみたい」
「ほー」
「他にも、いろんな用途があるぞ」
「どんなの?」
「学校の授業を録音したり、ちょっとしたメモ代わりにもできるし、俳優や落語家なんかが自分の台詞を確認するのに使ったりもするらしい」
「たきのうだ」
「機能はシンプルだけどな」
苦笑し、ICレコーダーを受け取る。
「なんか、試しに吹き込んでみるか?」
「いいの?」
「合図したら、なんか適当に喋ってみな」
「うん」
録音ボタンを押し、うにゅほの目を見ながら頷いた。
「え、え、あの、◯◯、◯◯──……あー、あー、あー」
録音を停止する。
「──…………」
なんだか落ち込んでいる。
「お試しなんだから、なんだっていいじゃんか」
「そうだけど」
「じゃ、再生するぞ」
再生ボタンを押す。
『え、え、あの、◯◯、◯◯──……あー、あー、あー』
ICレコーダーからうにゅほの声が響く。
「?」
うにゅほが首をかしげる。
「これ、わたし?」
「そうだよ」
「こんなこえ……?」
「自分で思ってる自分の声と、人に聞こえてる声は、けっこう違うんだってさ。
 最初は俺もびっくりした」
「へえー」
うんうん、と頷く。
「自分の声、どう思った?」
「なんか、たかかった」
うにゅほの声は、高くて細い。
うにゅほ自身にどう聞こえているのか、すこし興味が湧いた。
こればかりは実現できないと思うけど。



2013年8月2日(金)

弟が入院することになった。
単なる検査入院ではあるが、検査入院であるがゆえに、どちらに転ぶか不安でもある。
「送ってくれてさんきゅー」
「これで、最短でも二週間のお別れだな」
「見舞いに来い」
大学病院の受付で弟と別れ、帰途についた。
「──…………」
「心配か?」
助手席で呆けているうにゅほに、それとなく声をかけた。
「(弟)、ひまじゃないかなあ……」
そこかよ。
「ノートパソコンがあればよかったんだけど、随分前に売っちゃったからな」
「パソコンばっかしてるもんね」
「──…………」
人のことは言えない。
「まあ、ありったけのDVDは貸したし、携帯だって使えるから、なんとかなるだろ」
「おみまい、いく?」
「天気のいいときにな」
「あめ、だめなの?」
「せっかくだから、バイクで行こうと思って。
 適当にぶらつくより、目的地があったほうが楽しいと思うし」
行き先は病院だが、それはそれ。
「おみまい、なにかもってったげたいね」
「うーん」
「だめ?」
「検査入院って、食事制限とか大丈夫なのかなーと」
「あー」
どんな検査をするのか、いまいちよくわかっていないのだけど。
「かと言って、必要なものは自分で用意しただろうし」
「むずかしい」
「難しいな──っと」
ズボンのポケットで、iPhoneが震えた。
赤信号であることを確認し、うにゅほに差し出す。
「?」
「メール読んで」
「うん」
たどたどしい手つきでiPhoneを操作する。
「あ、(弟)だ」
「なんて?」
「えと、さんでぃーえすと、ぎゃくてんさいばんご、わすれたからもってきて、だって」
「あいつ、よりによって、いちばん暇つぶしになるものを忘れたのか……」
うっかりの家系である。
「ま、見舞いのときに持っていけばいいか」
「そだね」
さすがに二往復はしたくない。
衣料品店などを適当に巡りつつ、正午には帰宅した。



2013年8月3日(土)

所用でホーマックへ立ち寄ったところ、麦わら帽子を見つけた。
「お、いいな、買ってあげよう」
「え、いいの?」
唐突な展開に、うにゅほが目を白黒とさせる。
「××、婆ちゃんの手伝いで、けっこう庭仕事するだろ?
 前から買ってあげなきゃと思ってたんだ」
「わあ……」
うにゅほが目を輝かせる。
「どれにしよう」
「どれに──って、ああ……」
細い通路を覗き込むと、いろんな種類の麦わら帽子がひしめいていた。
すごいなホーマック。
「どれがいいかな」
「実用性を考えるなら、つば広のがいいのかなあ」
適当な麦わら帽子をうにゅほの頭に乗せる。
「にあう?」
「似合うけど、せっかくだから他のも試してみよう。なんかこれ湾曲してるし」
「うん」
十種類くらい試着して、清楚な小ぶりの麦わら帽子を購入することにした。
「これで白のワンピースを着れば、なんというか、定番だな」
「もってないよ」
「持ってないなあ」
「ほか、どんなふくがいいの?」
「そうだな──……」
思案を巡らせ、おもむろに口を開いた。
「ホットパンツにTシャツ──なんか、合うんじゃないか」
「あ、それはもってる」
「××が普段から着てる服で考えてみた」
「こんどそうしよう」
「麦わら帽子の下にタオルを仕込むと、農家っぽくていいぞ」
「そうなんだ」
素直である。
「じゃ、つぎは◯◯のね」
「え、俺も買うの?」
「かうの」
「あー……ま、こんだけあれば、俺の頭が入るのもあるか」
「あたまおおきいもんね」
「頭大きいんだよ」
入るものを適当に選び、レジへ向かった。
「むぎわらぼうし、いいねえ」
「いいけど、気になるから車のなかではかぶらないように」
「はい」
麦わら帽子を抱きながら、うにゅほは機嫌よさそうにしていた。



2013年8月4日(日)

「──どっかな!」
麦わら帽子をかぶったホットパンツ姿のうにゅほが、その場でくるりと回ってみせた。
暑いのにテンション高いなあ。
「あー、似合う似合う」
「ほんと?」
「健康的だし、俺は好きだな」
「ふへへ」
照れているようだ。
このまま家庭菜園にホースで水を撒けば、「夏の少女」という一枚絵が完成するだろう。
しかし、本日の主な作業は、それではないのである。
水は撒くけど。
以前除草剤を散布した場所から新しい芽が伸び始めたので、今のうちに軽く抜いておくのだ。※1
雑草ってすごい。
「ひい、ふう……」
強烈な直射日光に晒されながら、雑草の芽をむしり取っていく。
足腰に鞭を打つような作業だ。
「あついー!」
うにゅほが弱音を漏らす。
「終わったらシャビィ食べよう、オレンジのやつ……」
「うん……」
数秒ほどして、
「あ、ちがくて、くびがあつくていたい」
「首?」
うにゅほのうなじに手を当てると、すこし熱くなっていた。
麦わら帽子でもカバーできない部分である。
「軽い日焼けかな。
 あとは俺がやるから、休んでていいよ」
「ううん、やる」
「やるのか」
「やる」
そう言われては断れない。
「じゃあ、ちょっと待ってな」
屋内へ駆け戻り、リビングの引き出しから白地のタオルを取り出した。
「じっとしてな」
「はい」
帽子のつばの後ろ側を巻き込むように、うにゅほの首にタオルを巻く。
「これで大丈夫だと思う」
「あ、あつくない」
「激しく動くと外れるからな」
「うん、ありがと」
「──…………」
夏の少女が遠ざかり、農家の少女が現れた。
これはこれで可愛いけど。
草むしりが終わったあとは、ふたりなかよく腰痛に苛まれ、交流磁気治療器のお世話になることになった。※2
うにゅほまで腰痛持ちになったらどうしよう。

※1 2013年5月30日(木)参照
※2 2013年3月16日(土)参照



2013年8月5日(月)

「──…………」
ゆったりとした時間が流れていた。
俺はチェアで文庫本を開き、うにゅほはソファで膝を抱えながらスケッチブックを読み耽っている。
ふと、うにゅほに視線を向けた。
風呂上がりで甚平姿のうにゅほは、抱き寄せた両足の爪先をこちらに向けている。
当然、おしりが見える。
「──……?」
甚平の下衣に包まれたおしりに、白っぽいシミが浮かんでいるように見えた。
なんだろう。
チェアに腰を下ろしたまま、上半身を乗り出す。
「──…………」
わかった。
わかってしまった、と表現すべきだろうか。
片手で頭を抱えながら、躊躇いがちに口を開く。
「……××」
「なにー?」
「甚平のおしりのとこ、穴あいてる」
「えっ」
シミに見えたものは、甚平の穴から覗く下着だったのである。
「目に毒だから、足下ろして」
「はい」
うにゅほが姿勢を正す。
「おしり、おおきいのかなあ……」
「小さいだろ」
キューティーハニーくらい小さい。
「ドンキで買った980円の安物だし、××にお下がりする前に、とっくに穴が空いてたんだろうな」
「ずっとあいてたの?」
「おしりの、それも股間に近い部分だから、自分でも見ないし人にも見せないし」
「そっか」
うんうんと頷く。
「ともあれ、もう限界だな。新しく買ったほうが早い」
「あたらしいの、かうの?」
「ああ」
「──…………」
うにゅほが渋い顔をする。
うにゅほは物に対しあまり執着を見せないが、ひとたび愛着を持つと強い。
こちらとしても無理に取り上げるのは本意ではないので、猫なで声(弱)を繰り出した。
「や、捨てるつもりはないよ」
「ほんと?」
「ただ、穴が空いてるからね。着るのはみっともないだろ?」
「なおす……」
「そこまでボロボロだと、針と糸だけじゃ難しいよ」
当て布を使えば補修できるが、そこまでするような衣服ではない。
「それは大事に仕舞っておいて、着るのは新しく買った甚平にすればいい」
「──…………」
考えている。
「どうする?」
「……うん、そうする」
よし、説き伏せた。
「明日、弟の見舞いの帰りにでも、新しいの買ってこような」
「うん」
「とりあえず、今日はふつうのパジャマに着替えましょう」
「はい」
隣室へ赴くうにゅほの背中を見送り、そっと胸を撫で下ろした。



2013年8月6日(火)

俺の部屋には姿見がない。
クローゼットの扉裏に近いものはあるのだが、古く曇っている上に小さくて役に立たない。
身支度ひとつ整えるのに、姿見のある両親の寝室まで足を運ぶのが常だった。
慣れとは面白いもので、どんなに不便でも、やがてはなにも思わなくなってしまう。
十年以上、俺はこの環境になんの疑問を抱かずに過ごしてきた。
変化が生まれたのは、弟の見舞いを済ませて帰宅する最中のことだった。
「甚平、いいのがあってよかったな」
「うん」
2000円の品が半額になっていたし、柄も綺麗である。
「あ」
衣料品店の外へ出たとき、うにゅほが幹線道路の向かい側を指さした。
「あれ、なんのみせ?」
指の先には、オシャレめで大きな店構えの店舗があった。
「ああ、あれは家具屋だよ。家具の長谷川──だったな、たしか」
「かぐやさんなの?」
「そう」
「ニトリはみどりなのに……」
ニトリが基準らしい。
「ベッドがあるんだねえ」
「ベッド以外もあるけどな」
「かがみ、あるかな」
「あると思うけど、欲しいの?」
「うん」
女の子だしなあ、と深く頷いた。
「へやに、でっかいかがみがあればいいのになって」
「え、なんで?」
「べんりだから……?」
「べつに、なくても困らないしなあ」
苦笑する。
顔を見るだけなら手鏡があるし、帽子の具合を確かめたいならクローゼットの扉裏がある。
身だしなみを整えたいのなら、両親の寝室へ行けばいい。
「そっかな……」
首をかしげながら、うにゅほが納得する。
「部屋に鏡なんて掛ける場所ないし、そもそも──……」
そもそも、なんだろう。
よく考えれば、鏡を掛ける場所なんていくらでもある。
手鏡は小さいし、曇った鏡は見づらいし、いちいち両親の寝室へ行くのは手間だ。
「──……あれ、どうして今まで鏡を買うって選択肢がなかったんだ?」
「?」
目の前の霧が晴れたようだった。
「××、そこの家具屋行こうか」
「いくの?」
「ああ、大きめの鏡を買おうと思って」
「え、かうの?」
「あったほうがいいことに、たったいま気がついた」
そのまま家具の長谷川へ行き、長さ1メートルの縦長の鏡を購入した。
部屋に設置したところ、便利なことこの上ない。
うにゅほに感謝しきりである。



2013年8月7日(水)

北海道の七夕は、月遅れの8月7日である。
北海道にはロウソクもらいという行事があり、子供たちが近所の家々を歌いながら訪問し、お菓子を貰い歩くというものだ。
和風のハロウィンと言っても差し支えないだろう。

──ロウソクだーせーだーせーよー

遠くから子供たちの歌声が聞こえてくる。
「なんか、うたってるね」
「去年もあっただろ、子供がお菓子をもらいに来るんだよ」
「おかしって、これ?」
うにゅほが、階段の傍に置いてあったビニール袋に手を触れた。
「ああ、母さんが買ってきたうまい棒だな、たぶん」
毎年、子供たちに配るためのうまい棒を大量に購入するのが慣例となっている。
自明として、大量に余るのだが。
「ちがうのもあるよ」
「なに?」
「おせんべい」
「──…………」
何故せんべいをセレクトした。
「子供、がっかりしないかな……」
そう呟いていると、

──だーさーないとーかっちゃくぞー

「ああ、来た……」
うまい棒の大袋を手に取り、うにゅほに尋ねる。
「一緒に行くか?」
「──…………」
ふるふると首を横に振った。
無理強いすることもないだろう。
子供たちにうまい棒と少量のせんべいをあげて、二階へ戻った。
「××、子供好きじゃなかった?」
「すきだけど……」
しばし逡巡し、言葉を継ぐ。
「うるさいのは……」
「ああ……」
否定できない。
「どうしていいかわかんない」
「じゃあ、二、三歳のちいさい子供がいいのか?」
「りそうは」
なるほどなあ。
「でも、子供は成長するからな。
 幸いなことに、親戚にそれくらいの子供が二、三人いるんだから、慣れてけばいいだろ」
「うん」
五歳くらいになった子供に翻弄されるうにゅほの姿が目に浮かんだが、たぶん大丈夫だろう。
なんだかんだ、うにゅほも成長しているのだ。



2013年8月8日(木)

「あっ」
網戸の傍を通りかかったとき、あるものが貼りついていることに気がついた。
「?」
同じく、うにゅほが視線を上げる。
「──…………」
数秒経過。
まだわかっていない。
「──……?」
さらに数秒。
背伸びをし、あるものを観察する。
「──……っ!」
気がついた。
「が──ッ!」
その場から飛び退りながら、悲鳴かどうか判断の分かれる叫び声を上げた。
「うん、蛾だな」
体長4cmほどもある大きめの蛾が、こちらに腹を向けて網戸にとまっていたのである。
「が、が、でかい……」
「……最初は、対虫用の大型ルーキーかと思ってたんだけどなあ」
うにゅほが対処できるのは小さめのアリまでである。
大きめだと、ちょっと怪しい。
「それ、なんとかしてえ……」
「あ、そうか」
網戸越しにデコピンを食らわせると、蛾は飛び去っていった。
「──…………」
うにゅほが胸を撫で下ろす。
──と見せかけて、蛾がUターンしてきた。
「!」
「よくあるよくある」
再びデコピンをすると、今度は戻ってこなかった。
「はー……」
「ほんと、大きな虫には無力だな」
「だって、いまの、でかい」
部族か。
「たしかに、あまり見ないくらい大きかったな」
「うん……」
「何年か前に大量発生した年があって、そのときは嫌ってほど見たけど」
「たいりょうはっせい?」
「海外からの木材に卵が産み付けてあったらしくて、けっこうすごかったんだけど、聞く?」
「ちょっとききたい」
実物でなければ大丈夫らしい。
「このあたりはそうでもなかったけど、橋向こうはすごくて、道の一部が蛾だったんだ」
「──……?」
「蛾の死体が、道路を覆ってたんだよ」
「──……おお……」
うにゅほが肩を震わせる。
「巨大なポール看板の根本のペンキが剥げてるなーと思ったら、びっしり蛾だったり」
「も、もういい」
白旗が上がった。
他にも、旅先の温泉で蛾風呂に浸かった話とかあるが、披露する機会はあるまい。
今年は虫が少ないようで、よかった。



2013年8月9日(金)

弟が外泊するというので、大学病院まで迎えに行った。
「お早い帰宅で」
「長期入院になりそうだから、これくらいさせてもらわんと……」
実を言うと、弟の病気は大したものではない。
有効な薬剤はいくつもあるのだが、効果の有無に個人差が大きく、その特定に時間がかかるのである。
「毎週土日は帰ってくるわけか」
「うん」
入院の法則が乱れる。
「××、俺がいなくて寂しかった?」
弟が、後部座席のうにゅほに声をかける。
「うん、さみしかった」
寂しかったらしい。
「よかったな」
「……なんっか違うんだよなあ」
弟が、ぽりぽりと後頭部を掻く。
「なにと違うんだよ」
「大腸の検査で兄ちゃんが入院したときと、反応がさ」
「そんなに違うか」
「だって、おろおろしながらずっと部屋の掃除してたよ、俺が見た限りだと」
「そうだったの?」
後部座席のうにゅほに問い掛ける。
「おぼえてない……」
苦笑しながら答えた。
「一泊二日の入院でそれだぜ?
 俺なんてもう、何日かかるかすらわからないのに」
「ま、まあまあ……」
うにゅほが弟の肩を揉む。
その様子を横目で見ながら、口を開いた。
「こればっかりは仕方ないだろ」
「……好感度的な話?」
「ちゃうわ。だってお前、暇なときずっと部屋にいるじゃん」
「引きこもりじゃないぞ」
「で、その部屋が一階で遠いから、いるかいないかあんまよくわかんないんだよな」
「存在感がない?」
「会う機会がない」
「まあ、そうかも……」
弟が静かに首肯する。
「俺は、二、三日家を空けるだけで××の生活が一変するんだから、動揺するのも当たり前だと思うけど」
「なるほど」
にやりと笑い、俺は言った。
「なんだ、妬いてたのか」
「そこまでじゃないけどさあ」
「──××!」
背後のうにゅほに呼びかける。
「?」
「弟のこと、好きか?」
「すき」
「──だって、よかったな」
弟の肩に、ぽんと手を乗せる。
俺の手を払いのけて、
「兄ちゃんに誘導された感じはあるけど、まあ、嬉しいことは嬉しいかな」
満足そうに呟いた。
家族仲は、そう悪くない。



2013年8月10日(土)

昨夜、蚊を見かけた。
仕留め損ねた。
起床し、寝癖を整えていると、うにゅほが頭を掻いていることに気がついた。
「××、頭かゆいの?」
「うん……」
ぽりぽり。
「お風呂入った?」
「なんか、そういうんじゃないの」
まさか、仕留め損ねた蚊の仕業だろうか。
いやしかし、うにゅほの髪による防壁を易々と突破できるとは考えにくい。
うにゅほより毛髪密度の低い俺ですら、頭を刺されたことなんてほとんどないのに。
「ちょっと見せてみな」
「はい」
うにゅほが頭頂部を差し出した。
「どのあたり?」
「このへん……」
「ここ?」
「こっち」
「──……あー」
ぽっちりと、赤い虫刺されの跡があった。
「頭皮を刺されることなんて、あるんだなあ……」
「え、さされ?」
「たぶん、蚊に刺されたんだと思うよ」
「えー……」
納得いかないらしい。
「ウナコーワクールを塗布してあげよう」
「かみ……」
「ゼリー状のだと、髪に貼りついて取れないかもしれないぞ」
「ウナコーワでいいです」
うにゅほの頭皮にもろこしヘッドを擦りつけていると、
「あ、たれてる、たれてる……」
「悪い、塗りすぎた」
ウナコーワクールのフタを閉じて、うにゅほの隣に腰を下ろした。
「かゆみは治まったか?」
「すーすーする」
しきりに頭皮を気にしている。
「それにしても、蚊ってそんなところまで入り込んでくるんだな……」
「うん……」
「蚊にとっては、ミノタウロスの迷宮に挑むようなものなんだけどなあ」
「みのたうろす?」
「すごい迷宮ってことだよ──……っく、あー!」
思いきり伸びをして、ふと気がついた。
「……血を吸った蚊って、ちゃんと外に出られたのかな」
「えっ」
「──…………」
「──…………」
うにゅほの髪を捜索したが、血液をたっぷり吸った蚊の死体は見つからなかった。
きっとアリアドネの糸でも持っていたのだろう。



2013年8月11日(日)

今日は、町内会の夏祭りがあった。
開催場所は家の前の公園だった。
午前中からやかましいことこの上ないが、この空気は嫌いではない。
「◯◯、いこ!」
浴衣姿のうにゅほが俺の手を引いた。
「おー……」
寝間着代わりの甚平姿で外へ出ようとすると、
「え、きがえないの?」
「着替えるったって……なんに?」
「……じんべ?」
「甚平を脱いで甚平を着るってのもなあ……」
言いたいこともわかるけど。
公園内をぐるりと一周し、的屋に群がる子供達を眺めたあと、祖母のためにおでんとうどんを購入して帰宅した。
「おまつりだね」
「祭りは好きだけど、遠くから見てるくらいがちょうどいいかな……」
「そっか」
夏祭りの空気を堪能していると、いつのまにが日差しが傾いていた。
やがて、和太鼓が奏でる破裂音と共に、子供盆おどり唄が大音量で鳴り響きはじめる。
「あ、ぼんおどりだ!」
「盆踊りだな」
「ぼんおどりだ」
「盆踊りだな」
「おどりたい」
「あれ、子供盆おどりだろ?」
「おとなもいるよ」
「親だろ」
高校生もいるけど。
「……いきたい」
うにゅほの顔つきを見て、はあと溜め息をついた。
俺の負けである。
「一周でいいか?」
「いっしゅう?」
「恥ずかしいから一周! 決定事項!」
「わ」
うにゅほの手を引いて、盆おどりの輪に加わった。
振り付けなんて覚えていなかったが、試してみればなんとかなるもので、誰でも飛び入りで踊れるように作られているのだろうと思った。
きっかり一周だけ踊りきって、さっさと抜け出すと、
「ぜんぜんおどれなかった……」
こうして要領が悪いのもいる。
二、三周もすれば、うにゅほでも踊れるようになったと思うが、今年はもうガス欠です。
祭りが終わって着替えるとき、
「あれやってみたかったんだよな、ほら、浴衣の帯をくるくるーって引っ張るやつ」
冗談めかして言ったところ、
「いいよ」
あっさり許可されてしまった。
「──……いや、その」
あんまりわかってなさそうだったので、丁重に断った。



2013年8月12日(月)

市民プールの休憩室でぼんやり待っていると、
「──…………」
疲れたような足取りで、女子更衣室のほうからうにゅほが歩いてきた。
「なんか疲れてる?」
それほど長く泳がなかったはずだけど。
「ううん……」
力なく、首を左右に振る。
「きょう、プールこんでたから……」
「混んでたから」
「こういしつ、こんでて……」
「混んでて」
「……はずかしかった」
「恥ずかしかったのか……」
なんとはなしに意外である。
「××って、そういうの気にしないかと思ってた」
「するよ」
軽く睨まれる。
「や、一般的な羞恥心はそりゃあるだろうけど、相手は女性だろ?」
それも、おばさんとおばあさんのあいだを結ぶ直線上にある任意の点Pみたいな年齢の方々ばかりである。
「あ、そうだ、銭湯も入れてたじゃん」
「うん……」
脳内でなにかを組み立てるような手つきをしながら、うにゅほが口を開いた。
「きがえるのが、はずかしい……?」
「あー……」
わかるような、わからないような。
でも、全裸をジロジロ見られるのと、着替えをジロジロ見られるのだと、後者のほうが嫌な気はする。
「俺が女子更衣室に乗り込んで、××の前で仁王立ちするわけにもいかないし」
ちなみに、市民プールは交番から約10メートルの距離にある。
「すみっこで着替えるとか」
「うん、いちお」
「ぱぱっと着替えてしまうとか」
「いそぐと、こけそうになる……」
全体的にもたもたした娘である。
「あとは、そうだな──……」
解決にはならないが、ふと思い出したことがあった。
「小学生のとき、下半身を見せずに水着に着替えるテクニックが流行ったな……」
「そんなのあるの?」
「パンツの上から水着を履いて、うまいことパンツだけを脱ぎ去るという神業的テクニック。
 誰が呼んだかマジックパンツ」
「そ、それをみにつければ」
「やめたほうがいい」
「どうして?」
「子供の遊びを真面目に活用してたら、全裸より恥ずかしいから。
 というか、アレな人だと思われるから」
「うう……」
「ま、慣れるしかないって。ほら、DAKARA」
汗をかいたペットボトルをうにゅほに手渡し、ぐっと背筋を伸ばした。



2013年8月13日(火)

定期通院の帰り、うにゅほがスーパーマーケットに寄りたいと言った。
快諾し、帰途にあるフードDに車を停めた。
「ちょうどよかった、ペプシ補充しなきゃって思ってたんだ」
忘れるところだった、というか、忘れていた。
「ダン箱であればいいけど──……ま、ないだろうな」
「あれ、なんほんはいってるの?」
「8本かな」
「そんなに」
「みんな飲んでるだろ! 俺が一番飲んでるけど……」
夏場はどうしても消費量が増える。
「──で、××はなにが欲しかったんだ?」
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげる。
「なにがいいのかな」
「神ならぬ身には与り知らぬわけですが」
「?」
うにゅほにわからないことを俺が知るはずもない。
しばし店内を徘徊し、
「これかなあ」
うにゅほがある商品を手に取った。
「なにそれ、カップ麺?」
「スープでり」
「でり?」
陳列棚にあった同じ商品に視線を向ける。
「ああ、スープパスタか」
いかにも女子の好きそうなあれである。
「食べたいの?」
「うん?」
うにゅほが首を横に振る。
「たべるの」
「食べる?」
「◯◯が、たべたらいいとおもって」
「……なんで?」
「だって、◯◯──……」
ここで、うにゅほによる説明を要約させていただこう。
睡眠障害の気のある俺は、早朝に目を覚ましては空腹に苛まれ、半覚醒状態のまま朝食をとってしまう悪癖がある。
問題は、寝ボケているので食べ過ぎてしまうということだ。
しかも空腹が満たされると自動的に眠りについてしまうので、太りやすい食生活にも当てはまる。
「──◯◯、おきて、いつもあーってなってるから」
「なってますね、はい……」
痛み入ります。
「ふとんないのかっとけば、それたべるから、いいんじゃないかとおもった」
「おお……」
いいアイディアかもしれない。
決まった朝食がないから胃を押さえたまま台所を探しまわるのであって、用意されていればそちらを優先するだろう。
「──……よっし!」
スープパスタの容器を、買い物カゴにざらざらと入れた。
「え、そんなにかうの?」
「××のアイディアを信じてみましょう」
うにゅほの頭にぽんと手を乗せる。
「ありがとな」
「まだわかんないけど……」
「まあ、たぶん効果あるだろ」
このスープパスタが舌に合えば、だけど。



2013年8月14日(水)

家族で墓参りへ行った。
とは言え、弟は入院中、祖母は足が痛いと言って留守番である。
車中が広く感じたのは、気のせいではあるまい。
ランドクルーザーで行ったので当然なのだが。
「おはか、まだ?」
車内で麦わら帽子をかぶりながら、うにゅほはやたらと元気だった。
去年さんざっぱらお見舞いされたはずなのに、不思議である。※1
喉元を過ぎて熱さを忘れたのだろうか。
「──…………」
三時間ほど経つと、静かになった。
昼食は焼肉だったが、俺とうにゅほは箸が進まず、あまり美味しくない冷麺をふたりですすっていた。
菩提寺に参ったあと、両親の友人が経営しているメロン農園へと寄り、ブドウの実と同じくらいの数のメロンを購入した。
御中元用のものであり、家では食べない。
「ねこ、いないねえ」
農業機械用の車庫のなかを、うにゅほがうろうろと歩きまわる。
「猫?」
「きょねん、ねこいた」
「あー、あのメロン食べる猫のこと?」
「そう」
そういえば、去年そんなのを撫でくりまわした記憶がある。
「あれ、野良猫じゃなかったっけ」
「のらじゃないよ」
「野良じゃないのか」
「かいねこだよ」
「じゃあ、そのへんにいるのかな」
「となりのいえの、かいねこだよ」
「隣……?」
左右を見渡す。
視界の届く限り、メロン畑が広がっていた。
「隣って、どこだろうな」
「わかんない……」
「今年は会えそうにないな」
「うん……」
とても残念そうだった。
帰宅するころには、日はとうに傾いていた。
とにかく疲れた。
うにゅほなどはさっきからソファでうとうとしているので、さっさと布団に押し込んでやろうと思う。

※1 2012年8月12日(日)参照



2013年8月15日(木)

「──…………」
「××?」
「うん……」
うにゅほがぼんやりしているので、額に手を当ててみた。
よくわからない。
考えてみれば、この方法で発熱を感知できた記憶がない。
体温計を渡すと、37.4度だった。
うにゅほの平熱は高めだったような気がするので、たぶん微熱だろう。
墓参りの疲れが出たのかもしれない。
「とりあえず寝てな」
「ねむくない」
そりゃそうである。
いつもより早く就寝し、たっぷり睡眠を取っている上に、やたら蒸し暑くて布団などかぶっていられないのだから。
「……まあ、せめて横にだけはなっとこうか。
 場所は問わないから」
「ばしょ?」
「今から昨日のナニコレ珍百景見るけど」
「みたい」
「じゃあ、パジャマに着替えて、リビングのソファで横になってなさい」
「はい」
うにゅほにタオルケットをかけて、レコーダーのリモコンを操作する。
さて、昼食はどうしようか。
こんな日に限って両親は外出している。
しかも、友人と焼肉パーティらしい。
なんできのう焼肉食べたんだ。
「××、なに食べたい?
 リクエストなければ卵がゆにコンソメでも入れるけど」
「あれたべたいな」
「あれ?」
「スープでり」
「スープ──ああ、朝ごはん用のスープパスタか」
今朝食べたが、そこそこ美味しかった。
朝食としては物足りなかったけれど、購買層は女性なのだろうし、そういうものだと思う。
昼食を簡単に済ませ、しばらく無言でテレビを眺めていた。
「きょう、あついねえ……」
「暑い」
熱がなくとも十二分に暑い。
「蒸し暑いのだけは、本当に勘弁だなあ」
「うん……」
「ペプシ飲む? 氷いっぱい入れて」
「のむ」
「飲むときは体起こしてな」
「はい」
ナニコレ珍百景の再生が終わり、レンタルしていたゲームセンターCXのDVDを再生したころ、うにゅほが寝息を立て始めた。
ずれ落ちていたタオルケットをかけ直し、再びテレビに意識を戻す。
夏風邪は、こじれればこじれるほどにしつこいものだ。
明日には熱も下がっていればいいんだけど。



2013年8月16日(金)

「あー……」
「づー……」
「うぃー……」
扇風機の前に並びながら、ふたりで苦悶の声を上げていた。
間違いなく今年いちばんの暑さである。
「せっかく熱下がったのに、こんだけ気温が上がってちゃ意味ないな……」
「うん……」
「なんか、気が紛れることでもあればいいんだけど」
「ある?」
「テレビは父さんが見てるし、借りてるDVDはもう全部見たし、漫画はいつも読んでるし……」
「ないねえ」
「ない」
市民プールにでも行けば解決なのだが、病み上がりのうにゅほを連れて行くわけにもいかない。
「なんかないかなー」
と視線を巡らせ、
「あ」
ふと、見慣れない袋に目が留まった。
「あー……これ、まだ開けてなかったっけ」
「?」
「友達の彼女がいつもくれるおみやげ」
「いつもらったの?」
「たしか、三日くらい前かな」
「うぇー」
なんだその反応は。
不満なのか。
「とにかく、開けてみましょう」
「はい」
新聞紙による厳重な包装を解いていく。
「なんだこれ」
「木製のトレイ──かな」
「ちっちゃいね」
「一人用だな」
次々と開いていく。
「耐熱ガラス製のグラスと、小さい深皿……」
「スプーン?」
「あ、そういえば、ティーセットとか言ってた気がする」
うち、煮出し烏龍茶しかないけど。
「こっちのおさらは?」
「クッキーとかスコーンでも入れるのかな」
なるほど、女子力高めの女性の部屋に揃っていそうな食器である。
「あ、もうひとつあるよ」
袋の底にあった小さな包みを、うにゅほが手に取った。
「あ、それ俺用のとか言ってたやつだ」
「なにかな」
国旗のついた爪楊枝だった。
「──…………」
「……これで、オムライスの旗には一生困らないな」
友人の恋人は、俺へのおみやげでネタに走る傾向がある。



2013年8月17日(土)

目を覚ますとうにゅほがいなかった。
母親と買い物にでも行ったのだろうと思った。
台所を漁ると、小さな氷の浮かぶボウルのなかで、伸びかけのそうめんが揺れていた。
まあ、ひとりぶんはあるだろう。
冷蔵庫を開くと、小口切りにされた万能ネギがあった。
薬味がネギだけというのも味気ないものだ。
「あー」
以前、うにゅほがそうめんに温泉卵を落としていたことを思い出した。※1
あれは美味しかった。
再現してみたいが、どうだろう。
「短めに茹でればいいのかな」
卵をひとつ鍋に入れ、5分ほどぐつぐつ煮てみる。
「半熟卵……」
やはり、勘では難しそうである。
クックパッドで「温泉卵」を検索し、なかでもシンプルなレシピを試してみる。
「沸騰したら火を止めて、10分放置──……」
卵を割ってみる。
「完ッ熟!」
嘘レシピかよ。
改めて調べてみると、沸騰後に水を入れて湯温を下げることが重要らしい。
よく考えたら、温泉って源泉でもあんまり沸騰してないもんな。
「これでどうかなー」
沸騰した湯に水道水を100cc入れ、卵を投入し11分待つ。
+1分は、一応である。
卵を割ると、白身と黄身がとろりと流れ落ちた。
「成功、か?」
しかし、よく確認してみると、カラの裏側に凝固した白身が貼り付いていた。
湯温が高すぎたらしい。
「まあ、成功は成功ですよね」
当初の目的をすっかり忘れ去り、薄めただし醤油で温泉卵をいただいていると、うにゅほと母親が帰宅した。
「あ、おんたまだ」
「おんたまだよ」
「◯◯も、おんたまつくれるんだね」
「まあね」
失敗作であるところの半熟卵も完熟卵も既に完全な証拠隠滅を果たされている。
「でも、ちょっと白身が固まっちゃったんだよな。
 ××はどうやって作ってるんだ?」
「うーと……」
うにゅほはしばし小首をかしげ、
「おかあさーん、おんたまたべるー?」
「食べるー」
「じゃあ、みっつつくりましょう。みててね」
「はい」
うにゅほ先生のお料理教室である。
「みっつだから、なべにみずをこれくらいいれます」
水道から鍋に直接水を入れる。
「具体的に、何ccくらい?」
「これくらい」
「──…………」
水が沸騰するのを待つ。
「みっつだから、これくらいみずたすでしょ」
水道から鍋に直接水を足す。
「……何ccくらい?」
「だいたいこれくらいですね」
「──…………」
うにゅほが鍋をシンクに置く。
「あとはまつだけ」
「ああ」
「テレビみよう」
「うん」
テレビを見ていると、
「あ、いまくらい」
うにゅほが前触れなく台所へ戻り、鍋の湯を捨てて流水で卵を冷やした。
卵をコンコンと打ち付け、
「おんたまできた」
つるん、とすべらかな温泉卵が、深皿の底で美味しそうに震えた。
「わかった?」
「わかった」
わからないことが、わかった。
完全に感覚派だこの娘!
まあ、いるときは作ってもらえばいいんだから、特に問題はないんだけど。
そうめんは夕食にした。
伸びていた。

※1 2013年7月17日(水)参照



2013年8月18日(日)

小雨がちの、とても蒸し暑い一日だった。
「あぢー……」
着替えすら放棄してフローリングの上で頬杖をついていると、
「ね、どっかいこ」
うにゅほが俺の袖を引いた。
「どこってどこ……」
「どこでもいい」
「どこでもったってなあ」
無責任ではあるまいか。
「くるまのりたい」
「車に?」
「クーラーあるから……」
「ああ……」
理解した。
「じゃ、ゲオにでも行くかあ」
のそりと立ち上がり、普段着に着替える。
ゲオのレンタル袋を確認してみると、返却日が今日になっていた。
危ないところである。
「こう、降り方も半端っていうかさ」
「うん」
「いっそ土砂降りなら気温も下がるのにさ……」
「そだね」
訥々と雑談しながらコンテカスタムを運転し、ゲオの駐車場に進入した。
「あのね」
うにゅほがぽつりと口を開いた。
「なんで、みんな、せまいとことめるの?」
うにゅほの言葉どおり、店内入口に近いほど自動車が混み合っている。
「……小雨だからじゃない?」
説明するのが面倒で、適当に答えた。
「いつもだよ」
「あー……」
無意識に自分のあごを撫でる。
「……足が悪いとか、そういう理由のない大概の人は、そのほうが近くて楽だと思ってるんだよ」
「そなの?」
「そうじゃないかなあ」
断言はできないけど。
「近いところ探してぐるぐる回るより、遠いとこにさっと停めて歩くほうが断然早いと思うけど」
「だよねえ」
「──…………」
眼前あたりに手のひらを掲げる。
「でも、今日みたいな雨の日は、近くに停めるほうがいいかな」
「こさめだよ」
「出るころには雨足が強くなってるかもしれないだろ」
「あ、そか」
バラエティのDVDをいくつか借りて外へ出ると、雨は既に上がっていた。
相変わらず、分厚い雲は墨を流したように黒かった。
涼しくなるまでドライブして、帰宅した。
入院中の弟が一時帰宅していたことを途中で思い出したが、まあいいかという結論になった。
テレビ見ながら爆睡してたし。



2013年8月19日(月)

俺は、スイカがあまり好きではない。
そもそも果物が嫌いなので、そのなかでは比較的ましな部類ではあるものの、好んでは食べない。
「◯◯、このすいか、あまいよ」
「そっか」
「ひとくちたべる?」
「食べる」
「あまいしょ」
「甘いな」
「ひときれたべる?」
「いや、もういい」
不味くはないのだが、どうにも食指が動かない。
同様の理由でメロンも食べない。
果物特有の風味が苦手かと言えばそうではなく、「◯◯味」となると好物に数えられるものも多い。
理由は、自分でもよくわからない。
「──…………」
余ったスイカにラップを掛けて冷蔵庫に仕舞うさまを見て、
「あっ」
不意に思い出したことがあった。
「スイカ、やっぱ食べるわ」
「?」
「食べる」
「たべるの?」
仕舞いかけていたスイカの皿を、うにゅほが食卓テーブルの上に戻した。
「すいか、おいしいよ」
「美味いんだろうけど、そうじゃなくて、どうでもいいことを思い出したんだよ」
「どうでもいいこと?」
「スイカに塩をかけて食べるのを、毎年やり損ねてこの年齢になりました」
「しお……?」
うにゅほが眉根にしわを寄せる。
「あまいのに、しょっぱくするの?」
「塩をかけると、甘みが引き立つ──らしい」
自信はない。
「ともかく、そういう食べ方が昔からあるんだよ」
「ふうん……」
二信八疑くらいの視線が向けられる。
実際のところ、甘くはなっても美味くはならない気はするのだが、試してみないことには始まらない。
「じゃあ、塩かけて──と」
「わたしもかける」
「かけるのか」
「かける」
振り過ぎた塩の粒を指先で塗り広げ、
「いただきます」
「いただきます」
思い切って頬張った。
「──…………」
目を丸くした。
「美味い……」
「あまい!」
「これ、思ってたよりずっと美味いな」
うにゅほに同意を求めると、
「あまいけど、おいしくない」
意見が割れた。
「そっかー……」
すくなくとも俺は、今後スイカに塩をかけ続けることだろう。
なんでも試してみるべきである。



2013年8月20日(火)

「あれ」
スタータースイッチを押しても、バイクのセルが回らない。
「きゅるきゅるしてる」
「してるな」
「してる」
最近乗っていなかったせいで、バッテリーがすっかり上がってしまったらしい。
「バイク、でんちでうごくの?」
「電池では動かないけど、電気を使ってエンジンをかけるんだよ」
「ふうん」
あまり興味もなさそうだ。
「じゃあ、のれないの?」
「バイク用のバッテリー充電器がどっかにあったと思うんだけど……」
「どっか?」
「──…………」
車庫の二階を指さす。
「──…………」
うにゅほが無言で首を横に振った。
同感である。
上がるぶんには構わないが、探しものだけはしたくない。
「可能性があるとすれば、押しがけかなあ」
「おしがけ?」
「バイクを押しながらセルを回すと、エンジンがかかることがあるらしい」
「なんで?」
「──…………」
理由はよくわからない。
「世の中には不思議なことがあるんだ」
「ふうん」
誤魔化した。
「うしろからおしたらいいの?」
「ひとりでも大丈夫だと思うけど──……まあ、やや強めに押してくれ」
「はい」
ハンドルとシートに手を置き、号令をかける。
「行くぞ!」
「はい!」
駆け出す。
「お、と、ととと!」
「にぃ──っ!」
予想以上の頑張りをうにゅほが見せたため、思っていたより速度が出てしまった。
クラッチを切り、セルを回す。
かからない。
「もういい、もういい!」
「はい!」
ゆっくり減速し、停止する。
「もうすこし弱めでもいいから」
「そか」
「じゃあ、位置について」
「はい!」
帰りも試してみたが、かからなかった。
「父さんが帰ってきたら、車から充電するしかないな……」
「どこいくんだったの?」
「ちょっと市内の電器屋を巡って──」
「うん」
「帰りに、狸小路でクレープ食べようかと思ってた」
「!」
うにゅほが愕然とする。
そんなにクレープが魅力的だったか。
予定を明日以降に延期し、自室でうだうだしていたところ、
「──……あめだ」
「雷鳴ってるな……」
「エンジン、よかったね」
「そうだな……」
怪我の功名である。



2013年8月21日(水)

「かかる?」
「かかると思うけど──」
スタータースイッチを押すと、セルモーターの僅かな回転音と共に、エンジンが始動した。
「かかった!」
「ああ、よかった……」
バッテリー充電器を五分も回して駄目だったら、それはもうバッテリー自体が劣化しているということだ。
今年はもう、バイクにお金を費やしたくない。
「じゃ、いこ」
シートにまたがるのはまだ早い。
「どこ行くか教えたっけ」
「クレープ」
「クレープは食べるけど、そのために市街まで行くほど暇じゃないな」
「じゃ、どこ?」
「パソコンまわりをいくつか買い換えようと思って」
「ふうん……」
興味なさそうである。
ないだろうなあ。
札幌ヨドバシカメラの周囲を軽く巡り、狸小路7丁目側のコインパーキングに拠点を移した。
タイトーステーション横のマリオンクレープでうにゅほの食欲を満たし、いろいろな店を冷やかして歩いた。
「──……お」
狸小路4丁目のパソコン市場で、フルHDの21インチディスプレイを発見した。
「11,800円か……」
「みっつにするの?」
「いや、みっつにはしないけど」
「もうあるのに……」
「──…………」
今あるサブディスプレイは、発色が悪く、グレアで映り込みが激しい上、1680x1050というわけのわからん解像度で使い勝手も微妙である。
中古で5,800円だったから不満はないが、そろそろ買い換えてもよかろう。
「よし、買おう」
「かうんだ」
「買う」
「どやってもってかえるの?」
「あ」
バイクである。
しかも、タンデムである。
店員に相談すると、1,300円で郵送してくれることになった。
「クレープだけだと、半端に腹減ってきたな……」
「おひるたべてないもんね」
「なんか食べたいもの、ある?」
「んー……◯◯は?」
「そうだな──……あ、帰り道にチロリン村あるから、そこにしよう」
「おー」
ゆであげスパゲティの店チロリン村に寄り、ふたり並んでメニューとにらめっこする。
「××はなににするんだ?」
「たらこマヨかなー」
「俺は、いつもどおりカルボナーラでいいか」
「ひとくち」
「はいよ」
帰宅したあと、腹を壊した。
しばらく摂生に努めていたため、カルボナーラの過剰な油脂分にやられたらしい。
美味しいけど体に悪いな、あれは。



2013年8月22日(木)

小気味良い足音が階下から響き、自室の扉が開いた。
「◯◯、テレビとどいた」
「テレビ──ああ、そうか」
昨日、狸小路で購入したものが届いたのだろう。
「あれは、テレビじゃなくて、PC用のディスプレイだよ」
「?」
小首をかしげる。
「テレビってかいてたよ?」
「えっ」
嫌な予感がした。
慌てて玄関へ向かうと、平たいダンボール箱が引き戸に立て掛けられていた。
「21.5インチワイド液晶──……テレビ」
いや、ちょっと待て。
店頭では、たしかにディスプレイと表示されていたはずだ。
くらくらしながら表記を読み進めていくと、
「……あ、PC接続も可能なのか」
ひとまず胸を撫で下ろす。
「だいじょぶだったの?」
「ああ、大丈──……」
待て。
11,800円で購入できる21.5インチのテレビが、ディスプレイとして十全の働きをするだろうか。
周囲に機材がなくて面倒だからと画質の確認を怠った昨日の自分が恨めしい。
いや、もしかしたら、この中国製のディスプレイが価格以上の高画質高発色を発揮する可能性も、
「なかった」
接続したディスプレイの画面を見つめながら、呟く。
「可能性なんてなかった」
さて、この使えないディスプレイをどうしてくれよう。
「うる?」
「さすがに、昨日まで一万円札だったものを、ワンコインに替えるのはちょっと」
「むだづかい……」
ぐうの音も出ない。
「ああ、でも、テレビとしては使えるんだったな」
「テレビにする?」
「するとして、置けそうなのは──まあ、そのあたりかな」
俺が生まれる以前から本棚でくすぶってきた、英語教材セット全二十巻を指さした。
「これ、どうするの?」
「売るか、捨てるか、どっちにしろいい機会だと思う」
いくらしたんだろうな、これ。
母親の了解を取ってスペースを作り、テレビを設置した。
「お、テレビとしては悪くないな」
「うん」
うにゅほが目を輝かせ、ローカル番組に見入る。
「……くびいたい」
「そりゃなあ」
ソファに座った状態で、ソファの後ろにあるテレビを見れば、そうなるのは自明である。
「俺のとこから見ればいいだろ」
「そか」
得心のいった様子で、うにゅほが俺の膝の上にちょこなんと腰を下ろした。
「椅子持ってきて、俺の隣で見ればって意味だったんだけど……」
「てすと」
テストなら仕方ない。
五分ほどして、
「あつい」
という呟きを残し、うにゅほは去っていった。
なんだろうこの気持ち。



2013年8月23日(金)

「よ」
「おお」
起床すると、リビングに弟がいた。
退院したのである。
「三週間で済んだか」
「まね」
「はい、よかったねえ」
うにゅほが弟に駄菓子を振る舞った。
テーブルの上にあったらしい。
「……兄ちゃん結局一回しか見舞いに来てくれんかったな」
弟がじろりとこちらを一瞥する。
「週末のたびに帰ってくるやつを、なんでわざわざ見舞わなきゃならないんだよ」※1
「そうだけどさあ」
「それに、××だって同じ一回だろ」
「!」
ポテトフライをさくさく食べていたうにゅほが、引き合いに出されて目を丸くする。
「いや、××は二回来てくれたから」
「え、そうなの?」
尋ねる。
「うん」
頷く。
「母さんと一緒に来たんだよ、一回」
「へえー」
それは知らなかった。
というか気づかなかった。
「兄ちゃんたち、いつも一緒ってわけじゃないんだな」
「そりゃな」
「いっしょだよ」
うにゅほが口を挟む。
「だいたいいっしょ」
「まあ、だいたいはそうか」
「結局そうなのか。
 羨ましいような、そうでもないような……」
「最初、××をお前の部屋に住まわせるって案もあった気がするけど」
「あったことはあったけど、あれは兄ちゃんの部屋で俺が厄介になるって話だったろ。
 そんなん嫌に決まってるじゃんか」
「そうだっけ」
「結局んとこ、二部屋続きでプライバシー守れそうな兄ちゃんの部屋しかないってことになってさ」
「あー……」
そんなこともあった気がする。
「ぷらいばしー?」
「今や着替えのときくらいしか守られていないものだよ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんだかんだで家族になるし、兄妹にもなるもんだなあ」
弟がうにゅほの頭をぐりぐりと撫でた。
「──…………」
うにゅほは、されるがままにしていた。

※1 2013年8月9日(金)参照



2013年8月24日(土)

近所に、夏から秋にかけてのみ店を開く露天の八百屋がある。
農家直送なので、大きくて新鮮である。
漬物用のキュウリを仕入れるために足を運んだのだが、今年は不作らしかった。
「きゅうりないの?」
「注文すればあるけど、今はすこししかないって」
「でっかいきゅうりあるよ」
うにゅほが指さした先に、巨大なトゲのないキュウリみたいなものがあった。
「なんだこれ、冬瓜かな」
「とうがん?」
「冬の瓜って書いて──……」
冬瓜って夏野菜なのか?
冬瓜なのに?
「それぁ、ズッキーニだな」
八百屋のおじさんが、ひょいと顔を覗かせた。
「ずっきーにだって」
「冬瓜となにが違うんです?」
「味が違う」
身も蓋もないことを言われてしまった。
「とうきび茹で上がったけど、兄ちゃんたちどうだ」
「とうきび」
うにゅほが俺の顔を見上げる。
食べたいのだ。
「じゃあ、6本ください」
「あいよ」
茹でとうきびは160円だから、千円札でお釣りが来る。
「ここの茹でとうきびは絶品だからなあ」
「そなの?」
「あれ、食べたことなかったっけ」
「ない」
キュウリの注文と支払いを済ませ、帰宅した。
「とうきびたべよう」
「はいはい」
食卓テーブルにつき、茹でとうきびを2本取り出した。
「あつい、あつい」
「そうか?」
手の皮が薄いのだろうか。
なんとか持ち方に折り合いをつけて、うにゅほがとうきびに齧りついた。
「!」
目を丸くする。
「はじける」
「粒が大きいからな」
「あまくて、しょっぱくて、ぷりぷりして、うまい」
まったくその通りである。
トウモロコシ自体の新鮮さや質の良さはもちろんだが、なにより塩加減が絶妙なのだ。
瞬く間にたいらげ、俺たちの視線がビニール製に引き寄せられた。
冷めないうちに──
「……これは、家族みんなのぶんだからな」
「そうですよ?」
我慢したのだった。



2013年8月25日(日)

午前中から愚図ついた天気が続いていた。
「あ、はれた」
うにゅほが窓から空を見上げ、振り返って微笑んだ。
「晴れたかなあ……」
たしかに晴れ間は見えている。
しかし、最近の天気を鑑みるに、そう易々と事が運ぶとは思えない。
うにゅほの隣に立ち、窓の外へ視線を向けた。
「──…………」
遥か遠く、厚く黒い雲が滞留しているのが見えた。
気圧の偏差が激しいのだろうか。
激しいんだろうなあ。
「ね?」
「うん……」
嫌な予感はしていた。
しばらくして、

──ジャッ!

と、熱したフライパンに大量の水をぶちまけたような音がした。
「!」
うにゅほが、小動物のようにキョロキョロと視線を動かす。
「窓閉めて! 家中の! ぜんぶ!」
「え、え……」
「はやく!」
叫びながら、ベランダへ通じる窓を閉める。
風上だったのか、雨粒は入ってきていなかった。
「は、はい!」
家族総出で窓を閉めたが、両親の寝室は被害を免れなかった。
「ゲリラ豪雨なのか、スコールなのか、よくわからんけど──……」
水の散弾を浴びているような窓の外の惨状を見ながら、呟く。
「今日は、特にひどいな」
「そだね……」
「空の上で誰かがタライに足を引っ掛けたみたいな」
「うん……」
水に流されてしまった。
「……怖い?」
「ちょっと」
「そっか」
うにゅほの隣に腰を下ろす。
「……ことし、てんきへんだねえ」
「北海道はまだマシなほうで、本州だと都市部が洪水だって聞くからな」
「あ、テレビみた」
「怖いなあ」
「こわいねえ……」
iPhoneを取り出し、天気予報アプリを起動する。
「しばらく雨だって」
「そか……」
「でも、こないだまでよりマシだよ」
「そなの?」
「週間天気予報がすべて、初めて見るマークだったからな」
「はじめて?」
「たぶん雷のマークだと思うけど、二週間くらいずっとそうだった」
「かみなり、なってたねえ」
「鳴ってたなあ」
予報は当たっていたということだろう。
「ちゃんと晴れたら、出かけような」
「うん」
約束をして、デスクに戻った。



2013年8月26日(月)

リビングには、直角に配置された二台のソファがある。
片方は三人掛け、もうひとつは二人掛けで、それぞれ奥行きの深い革張りのソファだ。
揃いで購入したものだから、座り心地に差はない。
ないはずなのだが、何故か二人掛けのソファに人気が集中している。
その理由は、恐らく「横になりやすい」からだろう。
三人掛けのソファより占有感が少ないし、肘掛けと肘掛けのあいだにすっぽり収まって心地がいいのだと思う。
二人掛けのソファで気持ちよく昼寝するうにゅほを眺めながら、そんなことを考えていた。
「──……ぅ……」
座席を背もたれにして読書をしていると、しばらくしてうにゅほが目を覚ました。
「起きた?」
「ねてた……?」
「寝てた」
「おきた」
「随分と寝心地いいんだな、そこ」
「うん」
「俺、リビングで寝ることなんて、まずないからなあ」
自室のソファを寝台にしているのだから、昼寝くらい布団の上でしたい。
「ここ、ねやすいよ」
「それはまあ、知ってる」
父親も弟もよく爆睡してるから。
「◯◯、ねたことない?」
「××、俺がここで寝てるの見たことある?」
「ない」
「そういうこと」
「じゃ、ためしてみましょう」
うにゅほがソファから下りて、俺の腕を引いた。
「ここで寝ればいいの?」
「うん」
まあ、付き合っても構わないだろう。
「本読んでていい?」
「いいよ」
ソファに腰を下ろし、そのまま仰臥する。
「……あ、なんか居心地はいいな」
「でしょ」
うまく腰が折れ、無理のない体勢が取れる。
それに、なんだか温かいし。
そのまま読書を続けるうち、
「──…………」
気がつくと、二時間が経過していた。
記憶がない。
眠っていたらしい。
なんだこれ、自室のソファと交換してくれないかな。
うにゅほの姿を探して足を下ろすと、
「ぎゅぬ」
足元で寝ていたうにゅほの背中を踏んづけてしまった。
うにゅほは、わりとどこでも寝られるらしい。



2013年8月27日(火)

うろうろ。
ごそごそ。
「──…………」
うにゅほがなにかを探している。
なんだか深刻な様子で逆に声を掛けづらかったのだが、数分も見つからないのであれば、そうも言ってはいられまい。
「どうかしたのか?」
「!」
うにゅほがびくっとする。
「なんでもない、なんでもない……」
そう言いながら、下手な笑顔でぱたぱたと手を振ってみせる。
なんでもないことあるかい。
「──で、なにをなくしたんだ」
「!」
再び肩を震わせる。
視線をしばし右に泳がせたあと、観念したようだった。
「しおり……」
「しおり?」
「◯◯くれた、てつのしおり」
「あー」
ちょっと思い出せないくらい以前にプレゼントした、金属製のブックマーカーのことだろう。
うにゅほが愛用してくれていることは知っていた。
「見るからに失くしやすそうだもんな……」
フックのついた細長い棒のような形状をしているため、どこに滑り込んでいてもおかしくはない。
「じゃあ、一緒に探そう」
「はい……」
決まり悪そうに、うにゅほが頷いた。
「ないな……」
「ない」
布団をひっくり返してまで探したのだが、さっぱり見当たらない。
おかげで部屋が整頓されてしまった。
「××が最後に本を読んだのってどこなんだ?」
「えと──……」
本来であれば最初にすべき質問だが、ここまで見つからないとは思っていなかったのである。
「あっ」
うにゅほの頭上にエクスクラメーションマークが閃いた。
「──…………」
そして、リビングへ通じる扉をしずしずと開く。
すこし待っていると、帰ってきた。
「ごめいわくを……」
ブックマーカーを両手で掲げ、うにゅほがぺこりと一礼した。
「よかったけど、どこにあったんだ?」
「といれ……」
「あれ、××ってトイレに本とか持ってく人だっけ」
「さいきん……」
恥ずかしそうに答える。
俺の真似をしたのかもしれない。
「さっきおしっこしたとき、おとしたとおもう」
「えっ」
不思議な言葉を聞いた気がする。
「おしっこしたとき?」
「うん」
「あ、そうか、座るから……」
男性ゆえか、その発想はなかった。
「だめ?」
「いや、あんまり居座らなきゃいいと思うけど」
「そっか」
「あ、鍵の掛け忘れには気をつけて」
「はい」
忘れそうなイメージがあるので。



2013年8月28日(水)

「──……ふ……」
上体を起こし、生あくびを噛み殺す。
蓬髪を掻き乱しながらリビングへ向かうと、うにゅほがぽけらっとテレビを見ていた。
「あ、おはよ」
「おふぁ──……よう」
挨拶の途中にあくびが混じった。
「ねむそう?」
「脳は起きてるけど、体がついてこない」
「ねぶそくだ」
「雷様のおかげさまでな」
「かみなりさま?」
うにゅほが小首をかしげる。
「……すやすや寝てると思ってたけど、本当になにも気づかなかったのか?」
「なにー?」
不安そうな様子で、口を横に広げる。
「ああ、でも、寝てて正解だったかもなあ」
「──…………」
焦らしてみるが、可哀想なのでやめた。
「昨夜、雷が凄かったんだよ」
「かみなり……?」
うにゅほがそわそわと窓の外を見上げる。
雷が苦手なのだ。
「今は晴れてるから大丈夫だろ」
「うん」
「ただ、昨夜は本当に凄かった。
 今年は雷多いけど、そのなかでも断トツだよ」
「そんなに?」
きょとんとするうにゅほに、身振りを交えて説明する。
「雷って、どうして光ったあとに音が鳴るか知ってるか?」
首を横に振る。
「それは、音よりも光のほうがずっと速いからだ。
 だから、光と音に時間差があればあるほど、雷は遠くに落ちたってことになる」
「ふん」
「逆に言えば、光ってすぐに雷鳴があれば、それだけ近くに落ちたってことだ」
「ふんふん」
「近くに落ちれば、音だって凄い。
 雨でもなく、風でもなく、雷が落ちただけで家が揺れるんだ」
「──…………」
うにゅほの表情に不安の影が落ちる。
「それが、一分間に一度、およそ二時間も続いたんだから、起きなくてよかっただろ」
「おきなくてよかった……」
俺でさえ恐ろしかったのだから、うにゅほなんて布団をかぶってべそをかいていてもおかしくはない。
「……そういえば、近所に落ちたっぽいんだよな」
「え……?」
「雷、近所に落ちたって」
「どうして?」
「理由なんて──……」
質問の意図を取り違えていたことに気づく。
雷が落ちた理由ではなく、それを知ることができた理由が気になったのだろう。
「や、消防車のサイレンが聞こえたんだよ」
「しょうぼうしゃ?」
「落雷に火事はつきものだからな。
 ついでに豪雨だったから、大した被害ではないと思うけど」
「だいじょぶかな……」
「大丈夫だろ」
たぶん。
はらはらしているうにゅほの頭を撫でて、こらえきれずにくすりと笑った。



2013年8月29日(木)

人は、忘れる生き物である。
ふと脳裏をよぎった単語の羅列など、次の瞬間には意識の海に掻き消えてしまう。
しかし、まったく同じシチュエーションに遭遇したとなれば、どうだろう。
「──…………」
うにゅほとぼんやりテレビを眺めていたときのことだった。
「あふらっくって、なまえ?」
画面に映っているアフラックダックを指さし、うにゅほがそう尋ねた。
前にも同じことを訊かれた気がする。
「うーん、まあ、カッコウもカッコウって鳴くしな」
「そか」
「──……!」
思い出した。
いつだったか、やろうと思って忘れてしまっていたことを。
「××」
「?」
「こっち向いて」
「はい」
うにゅほの顔に手を伸ばす。
そして、親指と人差し指で左右の口角を挟み込んだ。
ぶに。
「はに?」
「あひるぐち」
「あひう?」
「あひるみたいなくち」
これをやろうと思ったのだ、かつての俺は。
まあ、やってみたからと言ってどうなるものでもないが。
「アフラックって言ってみて」
「はうらっく」
「素直だなあ……」
あひるぐちを解除し、うにゅほの頭を撫でた。
「?」
小首をかしげる。
「まあ、なにってわけでもないんだけど」
「うん」
「ちょっと、やってみたくなって」
「ふうん」
興味を失ったようで、うにゅほが画面に視線を戻した。
本当に鷹揚な娘である。
どこまでなら怒らないのだろう。
鼻に指を突っ込んだりしたら、さすがに怒るだろうなあ。
そんな益体もないことを考えながら、うにゅほのほっぺたをつついたりして遊んでいた。



2013年8月30日(金)

家の裏手に住む兄妹に、PCの点検を依頼された。
マウスの故障を指摘し、不要なソフトウェアを削除し、アンチウィルスソフトを入れ直すと、サクサク動くようになった。
お礼のプリンケーキとシュークリームを提げ、帰宅した。
「ただいま」
「おかえり、パソコンなおった?」
「不具合はあったけど、大した原因じゃなかった」
「すごいねえ」
謙遜ではなく、本当に凄くもないのだが。
ちなみにうにゅほは家で留守番だった。
裏手に住む家族の威勢のいい気風が、どうも肌に合わないようだ。
「もらったの?」
右手のビニール袋を指す。
「ああ、もらった。一緒に食べよう」
「なに?」
「シュークリームと、プリンが、ひとつずつ」
食卓テーブルの上に、中身をとんと置いていく。
二種類あるのは、兄妹が気を遣ってくれたためだろうか。
「××、どっち食べたい?」
「うーと、◯◯は?」
「俺はどっちでもいいかな」
どっちも好きだし。
「××が選んでいいよ」
「だめ」
うにゅほがきっぱりと言う。
「◯◯のだから、◯◯がたべたいのたべないと、だめ」
「──…………」
妙にしっかりしている。
「えー、プリンケーキとシュークリームかあ……」
どうしよう、本当にどっちでもいい。
「じゃあ、じゃんけんで勝ったほうが好きなほうを選ぶというのは」
「だめ」
頑固である。
「えー……──」
ここまで来ると、適当に選ぶのも癪だ。
「よし、わかった」
「どっち?」
「××が食べたくないほうを、食べたい」
「たべたくないほう?」
「そう。
 だから、××がはやく選んでくれないと困る」
「うーと……?」
うにゅほは混乱している。
「ほらはやく、はやくほら」
「え、じゃあ、プリン」
「じゃあ俺はシュークリームな」
「──…………」
しばし思案し、
「ちがう!」
気づいた。
「交換する?」
「しないけど……」
「どうせ、ひとくち交換するんだから、いいじゃないの」
「そだけど……」
靴の上から爪先を掻くような顔で、なんだかんだ美味しそうにプリンケーキを頬張っていた。



2013年8月31日(土)

ぴんぽーん
「お届けものですー!」
「──…………」
巨大な郵便物が届いた。
「なに?」
「なんだろうなあ」
中身は既にわかっているが。
「またかったの……?」
「またってなんだ」
通販なんてそんな利用してないだろ。
自室へ運ぼうと、段ボール箱を抱え上げ──
「うっ」
腰に来た。
「おもい?」
「ちょっと」
「てつだう」
「いや、階段だと逆に危ない」
重いからこそ、手伝わせられない。
えっちらおっちら階段を上がり、なんとか自室へと運び込んだ。
「ふー……」
腰を伸ばす。
「あけよう」
「ハサミ取ってきて」
「はい」
梱包用テープをハサミで裂き、開封する。
「あ!」
うにゅほが声を上げた。
「ほんだ!」
「本だな」
段ボール箱にハードカバーがぎっしり、取り出すのも億劫なくらい詰まっていた。
「かったの?」
「買ってないって……」
「どしたの?」
「ほら、お中元にメロン送った友達がいたろ」
「いた」
「お返しだってさ」
「おかえし……」
随分と嵩が増したものだ。
「でも、どこしまうの?」
「そこなんだよなあ……」
本を送る旨は事前に聞かされていたのだが、思っていたより冊数が多かった。
「詰め込めば入らないことはないけど、バラバラになるなあ」
「そだねえ」
「うーん……」
しばし思案する。
「……この量だと、本棚を増設したほうが早いか?」
「え!」
うにゅほがびっくりする。
「どこおくの?」
「部屋に入ってすぐ左側なら、なんとか置けると思う」
「すいっち……」
「電灯なんて実質リモコン操作じゃないか」
「そだけど」
自室の図書館化を懸念しているらしい。
「でも、空いてる場所は……」
「──あ、あそこ!」
うにゅほが、北東側本棚の最上段を指さした。
「あ、あーあー、なるほど」
そこは、二十年間ずっと意識の外側にあった、不要物置き場だった。
父親が飽きたラジコンや、PCエンジンの外箱などが、歴史を感じさせる佇まいで鎮座している。
「ここなら、掃除すれば、ハードカバーでも100冊くらいは入るかな」
二段にするとはみ出るが。
「ほんだな、かわなくていいね」
「そうだな」
「──…………」
「──…………」
「そうじ、しないの?」
「……今日はいい」
大掃除の予感がする。


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