>> 2013年6月




2013年6月1日(土)

「あれ」
トーストにはちみつをかけようと思ったのだが、白く固まってしまっていた。
「××、オリゴ糖とってー」
「はーい」
台所にいたうにゅほが、オリゴ糖のボトル(1kg)を両手で運んできてくれた。
「はい」
「さんきゅー」
オリゴ糖のキャップを外す。
数匹のアリがいた。
「──…………」
思考が停止する。
唐突な事態に悲鳴すら出ない。
「ありだ!」
驚いたうにゅほが、反射的に指先を繰り出した。
ぷち。
二匹のアリが二次元の住人と化す。
正気を取り戻した俺がティッシュをドローするころには、駆除は既に終わっていた。
さすがうにゅほ、小さな虫には強い。
「おりごとう、だいじょぶ?」
「なかには入ってないみたいだけど……」
トーストに塗る気にはなれない。
「でも、なんでアリがこんなところに」
ここは二階である。
「きょねんもでた」
「あれは一階だろう?」
一年前の今日、規模こそ違えど同じような珍事が一階の台所で発生した。※1
縁の下にできた巣から、無数のアリが屋内へと侵入したのである。
なんだ、一年周期でアリが出るのかうちは。
「まえの、いきてたのかなあ」
「それはない」
「そなの?」
「ああ」
確信を持って頷く。
「今回、やつらは別のルートを辿っている」
「なんで?」
「同じルートだったら、一階の台所で止まるだろう。
 食べものが潤沢にあるのは同じなんだし」
「あー」
「それに、一階の台所の真上に二階の台所があるわけじゃないから」
「そだっけ」
「そうだよ!」
うにゅほの頭のなかには、我が家の図面がないらしい。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「……まあ、結局はアリの巣コロリみたいのを買ってくるしかないんだけど」
「そっかー」
去年はなんとかなったのだから、今年もなんとかなるだろう。
アリの巣コロリ(の類似品)、なんと素晴らしい商品であることか。
商品名は今ちょっと思い出せないんだけども。

※1 2012年6月1日(金)参照



2013年6月2日(日)

結婚式に出席するために帰省した友人から、恒例のおみやげを手渡された。
友人の恋人は、うにゅほのことがだいぶお気に入りらしい。
「あけていい?」
「いいよ」
わくわくした様子で、うにゅほが紙袋を開く。
さて、今回はなんだろう。
毎度妙なものを送りつけてくるので、いささかの不安はあるが。
「あ、めがねだ!」
うにゅほの手に、大きな黒縁の眼鏡があった。
「なんだこれ、老眼鏡……?」
「いたちめがね」
「イタチ?」
「いたちめがねってかいてる」
「どれ」
伊達メガネだった。
「どうですか」
伊達メガネを装着したうにゅほが、きりっとした笑みを浮かべる。
「ああ、うん……部屋でならいいんじゃないかな……」
素直に答えると確実にぶーたれるので、ギリギリまで言葉を濁した。
「♪」
機嫌よく紙袋を漁り、次の品を取り出す。
「おっぱい」
「は?」
「おっぱいだ」
ちょっとなにを言ってるのかわからない。
「貸して」
「はい」
エロトランプだった。
「──……あのアマぁ!」
「!」
いまどきどこに売ってんだこんなもん!
弾けるように立ち上がり、即座に自室を後にする。
自由落下に迫る速度で階段を駆け下りたあと、弟の部屋のふすまを開けてエロトランプを放り込んだ。
「ふう……」
これでよし。
自室に戻ると、うにゅほが不思議そうな顔で待っていた。
「おっぱいのやつは?」
「弟にあげた」
「ふうん?」
残りのひとつは、三六〇度開閉する丸扇子だった。
完全に開くと諸葛孔明の羽毛扇みたいな形になって面白い。
「これは夏場にいいかもな」
「うん」
似合わない伊達メガネをかけたうにゅほが、こっくりと頷いた。
夕食後、弟に話しかけられた。
「俺の部屋、なんかへんなもんが落ちてたんだけど」
「それは、おみやげだ」
「なんの?」
突き返されてしまったので、引き出しの奥に仕舞うことにした。
とんだ爆弾である。



2013年6月3日(月)

うちには軽トラがある。
父親が仕事のために購入したものなので、所有しているわりに馴染みは薄い。
「運転するの、久しぶりだなあ」
「そなの?」
右側に設置されているサイドブレーキを下ろし、シフトレバーを左右に弾く。
「あ、ミニカちゃんのやつだ」
「マニュアルだからなー」
ミニカちゃんとは、一年前に売却したかつての愛車のことである。※1
現在乗っているミラジーノは「ミラさん」なので、若干の距離を感じる。
「クラッチ深いから、ちょっと揺れるかも」
「うん」
アクセルを吹かしながら、軽トラはなんとか発進した。
「わー……」
ぐるぐると窓を開き、うにゅほが感嘆の声を上げる。
「たかいねえ」
「高い──……ああ、なるほど」
視界のことだろう。
俺もそうだが、うにゅほは軽自動車ばかり乗っているので、新鮮なのかもしれない。
「あ、やねのうえみえるよ」
「見えるなあ」
子供のようにはしゃぐうにゅほを横目で眺めながら、これならもっと早くに乗せてあげればよかったと思った。
まあ、でも、軽トラと軽自動車があれば、軽自動車に乗りますわな。
「なんなら、荷台にも乗ってみるか?」
「よつば?」
「よつば……?」
「いいの?」
「基本的にはよくないけど、積み荷があるときは監視ってことで乗ってもいいことになってる」
「つみに?」
「ほら、脚立を載せてるだろ。だから大丈夫だと思うよ」
「あー……」
うにゅほが逡巡し、答えた。
「いい」
「乗らなくていいのか?」
「うん、いい」
「怖いの?」
「ううん」
首を振る。
「◯◯ものったら、すすまない」
「えー……」
そりゃそうだろうけど。
「ひとりで乗るって発想はないのか?」
「ひとりだと、こわい」
「なるほど」
怖いんじゃないか。
そのままコンビニに寄って、ジャンプを買って帰宅した。
チョコ大福は売っていなかった。

※1 2012年6月22日(金)参照



2013年6月4日(火)

暇だったので、うにゅほの髪をいじって遊んでいた。
「弥生時代の人ー」
「やよい?」
「ほら、鏡見てみな」
「あはははは!」
わりと楽しい。
「次は、ペガサスなんとかなんとか盛りを再現してみよう」
「なんとか?」
「なんとか」
名称からして再現できていないが。
ひとしきり遊んだあと、ふと思い出したことがあった。
「××、昔はもっと髪の毛長かったよな」
「うん」
「いちばん長いときって、どのくらいあったっけ」
「えーと……」
おもむろに立ち上がり、おしりとふともものあいだくらいを指で示した。
「このくらい」
「腰より下ってすごいな……」
今は、背中と腰のあいだくらいである。
それだけのロングヘアだ、想像できないような苦労もあったことだろう。
「想像できないような苦労──……」
想像してみた。
「あ」
ひとつ思いついた。
「トイレのときとか、どうしてたんだ?」
「といれ?」
「ほら、髪の毛が便器のなかに……」
「あー」
尋ね終わってから、相手がうにゅほじゃなければセクハラ級の質問であることに気がついた。
相手がうにゅほでよかった。
「髪の毛をまとめて、前のほうで押さえたり?」
「ううん」
うにゅほが首を振る。
「それ、かたてつかえなくなる」
「確かに……」
じゃあ、どうしていたのだろう。
「これつかってた」
うにゅほがジーンズのポケットから取り出したのは、一本の髪ゴムだった。
これを使って髪をアップにしていたのだろうか。
いやしかし、たかだか髪ゴムひとつで尋常じゃない長さの髪の毛をまとめ上げることができるものか?
「こうしてたの」
髪の毛を左右の房に分けたあと、それぞれを肩越しに胸の前へと持ってきて、まとめる。
それをくるっと折り畳み、髪ゴムで留めた。
「ね?」
頭いいでしょう、と言わんばかりの笑みを浮かべ、うにゅほが隣に腰を下ろす。
「鍵山雛だ……」
あるいは、護廷十三隊四番隊隊長だ。
「かぎや?」
「いや、なんでもない」
なるほど、しかし、ロングヘアにとって機能的な髪型ではある。
「ちょんまげみたいに、頭の上で結ってもよかったんじゃないか?」
俺の素朴な質問に、
「かみ、ふたにつくから……」
経験者はそう語った。
どれほど身近な相手でも、すべての苦労を共に背負うことはできない。
出発点のわりに深い結論に至ってしまった。
「よし、髪ゴム十本使ってイカ娘やろうぜー」
「わー」
それはそれとして、有意義に遊んだ午後だった。



2013年6月5日(水)

前髪がぺったり下りるくせがついてしまったので、部屋ではコームタイプのカチューシャを着けている。
「──……あれ?」
シャワーを浴びて自室へ戻ると、カチューシャが見当たらなかった。
「──…………」
そして、うにゅほがおでこになっていた。
「おでこぺしぺし!」
「あうあう」
ひとしきりじゃれあったあと、うにゅほのカチューシャを外した。
「これは返してもらいます」
「はい」
俺が部屋に戻るまで、ずっとツッコミ待機をしていたのだろうか。
いじらしいのか、芸人根性なのか。
「カチューシャ、つけてあげる」
「はいはい」
うにゅほにカチューシャを渡し、隣に腰を下ろす。
「めがね」
「はいはい」
眼鏡も外す。
カチューシャが髪を梳いていく心地良い感触と共に、
「──あっ!」
うにゅほの声が耳元で轟いた。
「どうかした?」
「はげ!」
「えっ!」
ハゲない家系なのに!
「どこ!」
「ここ!」
いや、指先で頭皮を突かれても!
「こーこ!」
うにゅほが俺の人差し指を取り、導いた。
「──……あー」
つるつるとした感触が指先から伝わってくる。
「円形脱毛症だ……」
「えんけい?」
「俗に言う、十円ハゲだな」
「じゅうえんよりでっかいよ?」
「まじで?」
「ごひゃくえんくらい」
「まじか……」
散髪しようと思っていたのに、これでは床屋へ行けないではないか。
「というか、こないだもハゲてなかったか?」※1
「はげてた」
「まだ治ってなかったとか」
「べつのばしょだよ」
「そうかー……」
わりとよくないかんじがおぼろげにする。
「ストレス?」
「いや、こないだ調べたんだけど、原因はストレスに限らないらしい」
「じゃあ、なに?」
「アレルギーとかなんとか……」
いちおう調べてはみたが、あまりよくわかっていない。
「まあ、ほっとけば治る」
「そなの?」
「前のも治ったじゃないか」
「そだね」
でも、群発だけは勘弁な。

※1 2013年4月10日(水)参照



2013年6月6日(木)

「んぬー……」
歯ぐきの裏側へ舌先を滑らせる。
歯垢がざらついている。
普段なら大して気に留めないのだが、今日はなんだか気になった。
「◯◯、はみがきするの?」
「ああ」
歯磨きは寝る前と決めているので、半端な時刻にするのは珍しいと言えば珍しい。
ピンク色の歯磨き粉をつけ、歯ブラシをくわえる。
そして、普通に歯を磨いた。
「──……◯◯?」
「う?」
「なんで、そんなちからいっぱいなの?」
心配と呆れとが入り混じったような表情で、うにゅほが言った。
洗面台に歯磨き粉を吐き捨て、尋ねる。
「力いっぱいって?」
「なんか、ぐわあーって」
うにゅほが、左右に大きく首を振る。
「えー……と?」
言わんとしていることが、よくわからない。
「はみがきしてみて」
「ああ」
歯ブラシをくわえ、歯を磨く。
「それ!」
びしっと音がしそうなくらい、綺麗に指を突きつけられた。
「すごいくびふってる!」
「あー」
ようやく理解できた。
俺が歯を磨く際、首を左右に振っていることが気になるらしい。
「はげしい」
「激しいか」
「は、けずれちゃう」
「そうでもないんだけどなあ……」
後頭部を掻きながら答える。
「××は、歯を磨くとき、手を動かすだろ?」
「うん」
「俺は、代わりに首を動かすんだよ。
 手はあんまり動いてないから、そんな全力で歯を磨いてるわけではない」
「わけではないの?」
「わけではない」
「なんで、くびうごかすの?」
「わからない」
「えー」
「いやだってなんか癖なんだもん」
傍から見るとかなり奇矯な癖かもしれないが、そうそう人前で磨く機会があるわけでなし。
「てをつかいましょうよ」
「まあ、うん、そのほうがいいな……」
残り半分は首を振らないよう磨いてみたが、どうにも落ち着かない。
この癖ばかりは直らない予感がする。



2013年6月7日(金)

「──…………」
鼓動を高鳴らせながら、自室の扉を後ろ手に閉める。
やってしまった。
買ってしまった。
「おかえりー」
「ただいま。
 パスタ美味しかった?」
「おいしかった!」
「そっか」
「◯◯は、なにかってきたの?」
ぎく。
なんでもない、と言い訳するには、それはあまりに大きすぎた。
「──…………」
紙袋から、板状の段ボール箱を取り出す。
「なに?」
「……キーボード」
「きーぼーど?」
「パソコンに文字を打つやつ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「あるのに?」
「あるけど」
「こわれたの?」
「壊れてないけど」
「なんで?」
「欲しかったから……」
「ふうん」
うにゅほが段ボール箱に触れる。
「あけていい?」
「いいよ」
段ボール箱の開け口から、シンプルで重厚なキーボードが顔を覗かせる。
「ふつうだ」
「まあ、見た目はそうかもしれない」
「まえのやつのが、かっこいいきーする」
これまで使っていたキーボードは、マイクロソフト製のComfort Curve Keyboard 3000である。
人間工学に基づいた設計がなされており、流線型のデザインが特徴だ。
「でも、新しいキーボードは、すごいんだよ」
「すごいの?」
「静電容量無接点方式なんだ」
「せいでんほ──え?」
「静電容量無接点方式」
「せ?」
減っとる。
「おぼえられない」
「俺も、昨日調べたから覚えてるだけで、三日後には忘れてると思うけど……」
「すごいの?」
「それはもう、すごい」
「どんなの?」
「打ちやすくて、疲れにくくて、寿命も長い」
「おー」
「……らしい」
「えー」
「だって、まだ使ってないもの」
「いくらだったの?」
「──…………」
視線を逸らす。
「たかかったの?」
「まあ、うん」
「にせんえんくらい?」
「──……まあ……うん……」
東プレ製 Realforce108UBK
16,780円
ああ、言えない。
これは言えない。
というわけで、本日の日記は静電容量無接点方式キーボードで打っている。
打ちやすいというより、打っていて心地良いというのは、初めての感覚だ。
高価なものには、それなりの理由があるということだろう。



2013年6月8日(土)

着替えて自室を出ると、うにゅほが夏モードになっていた。
「おー、今日は半袖か」
「◯◯もはんそでだ、おそろいだ」
「暑いもんな……」
「そだねー」
六月ってこんなに暑かったっけ。
夏服なんて、七月に出しても遅くないような気がしていたのだけれど。
「ふむ」
一歩下がり、あごを撫でる。
襟口の広いシャツの下にオレンジ色のキャミソールを着込み、七分丈のレギンスは黒と灰色のボーダー柄だ。
「──……うん」
「?」
こざっぱりと可愛らしいので、暑くてもよしとしよう。
ちょいちょいと小刻みに外出しているうちに、いつの間にか太陽が沈んでいた。
「だいぶ涼しくなったなー」
「うん」
「窓閉めるか。そっちのほう頼む」
「はい」
ベランダ側のサッシに手を掛けたとき、
「──わっ」
眼前を、ごく小さな蛾のような虫が通り過ぎた。
「あー、虫だー……」
「むし?」
「ほら、そのへん」
「わ」
慌てふためくほど大きくはないが、見失ってしまうほど小さいことが問題である。
ハエ叩きによる物理攻撃が効きづらいし、キンチョールで毒殺しようにも噴射の勢いで飛ばされてしまいかねない。
それに、もしPCケースのなかに入られでもしたら──
「……最悪だよ」
キンチョールを引っ掴み、宣言する。
「これより殲滅行動を開始する!
 俺はキンチョールを噴霧するから、××は、まあ、なんか見失わないようなかんじで!」
「おー!」
じりじりと索敵し、すかさず噴射ノズルを向ける。
噴霧するが、当たらない。
当たらないというか、そもそもキンチョールでの即死は見込めない。
膠着状態に入りかけたとき、
「ほあ!」
気の抜けた叫び声と共に、うにゅほがこぶしを突き上げた。
腕を下ろし、手を開く。
「あ」
「え?」
「とれた」
「まじで」
「ほらほら」
「……まじか」
「すごい?」
「すごい……」
リトルモスキラーうにゅほと呼ぼう。
リトルはうにゅほではなくモスのほうに掛かるので、大きな蛾には対応しておりません。
対応予定もありません。



2013年6月9日(日)

お寿司の夢を見て、昼寝から覚めた。
うっすらと汗ばんでいたので、シャワーを浴びて自室へ戻ると、時計の針は午後五時に差し掛かるところだった。
「──……へぷし!」
肌寒い。
夏日と言えど、まだ六月の上旬である。
気温が下がるのも早いのだろう。
「××、そっちの窓閉めて」
「はーい」
空がうっすらと赤らんでいる。
日が落ちるのも、まだ早いようだ。
あれ、夏至っていつだったっけ。
「なんか、小腹が空いたな。コンビニでお菓子でも買ってくるか」
「もうごはんだよ?」
「まだ早いだろ」
「ふつうだよ?」
「え、だって五時だろ?」
「え?」
掛け時計を見上げる。
午後4時55分。
「あれー……」
うにゅほが首をかしげる。
「だって、ごはん、ごはん……」
混乱しているようだ。
「──……あ」
掛け時計を注視していて、気がついた。
「秒針が動いてない」
「え」
「止まってるよ、時計」
ソファの肘掛けの上にあったiPhoneを手に取り、時刻を確認する。
「18時11分」
「ごはんは?」
「もうすぐかな」
「そっか……」
ぽす。
見るからにほっとした表情で、背もたれに体重を預けた。
「電池あったかな……」
引き出しを漁ると、すぐに未開封の単三電池が見つかった。
大掃除のたまものである。
掛け時計を外すと、大量のホコリが舞った。
「ぎゃあ! ××、ダスキン持ってきて!」
「はーい」
ホコリを拭い取り、電池を交換する。
「うごいた」
「故障じゃなくてよかったよ」
半端な安物なので、修理すべきか買い換えるべきか対処に困るところだった。
「でんちって、どのくらいあるの?」
「ある?」
「もつの?」
「ああ……ちょっと待って」
購入日を記した紙が、掛け時計の裏に貼り付けてあった。
「平成21年7月2日──だから、四年くらいかな」
「よねん!」
うにゅほが目を丸くして、開封したばかりの乾電池のパッケージを手に取った。
「これがあれば、にじゅうねん……」
「まあ、そうだけど」
「れきしが……」
そう呟き、感慨深く頷いた。
歴史がなんなのかはよくわからなかったが、満足そうだったので尋ねないでおくことにした。



2013年6月10日(月)

「……歯医者に行ってきます」
「え、また?」
行きたくて行くのではない。
痛いから行くのだ。
「たぶん、歯ぐきのブラッシングを強くやり過ぎたからだと思う……」※1
「もっとやさしく……」
返す言葉もない。
「わたしもいく」
「待つだけだから、暇だ思うけど」
「いく」
まあ、いいか。
待合室には雑誌もあるし。
かかりつけの歯医者は空いていて、すぐに順番が回ってきた。
「──…………」
治療が終わり、ふらふらと待合室へ戻る。
「……だいじょぶ?」
「なにが……」
「へんなこえ、きこえた」
「どんな」
「ぎゃぼごぼご……みたいな」
「ああ、うん」
それはね。
以前に根の治療をした前歯がすこし膿んでいたらしく、
「たぶん麻酔なくても大丈夫だと思うんだけど」
という曖昧な言葉と共にギザギザした針のようなものを根管に挿し込まれ、
ノコギリもかくやという勢いで前後に掻き回された際に、
歯の神経を直接えぐられるという人生でもトップクラスの痛みに苛まれた俺の、
喉の奥に溜まっていた唾液が悲鳴と共に湧き立った音なんだよ。
「──……ちょっと痛くてさ」
「だいじょぶ?」
「ちょっとだけな」
「そう……」
うにゅほは几帳面な娘なので、歯磨きも五分ほどかけてしっかりと済ませる。
しかし、磨き残しがないとは限らないし、決して虫歯にはならないと言い切ることもできない。
そのときのために、歯医者に対して無用な恐怖心を植え付けるわけにはいかないのだ。
「う──……」
前歯の奥に、残響のような痛みが残っている。
くそ、歯医者め。
小学校からのかかりつけという信頼と実績がなければ、転院も辞さないというのに。
「……××も、歯磨きはちゃんとしような」
「うん」
「俺もしてるんだけどな……歯ブラシの届かないところだったからな……」
会計を済ませ、ふらふらと帰途についた。
途中のコンビニで、今週のジャンプとうまい棒を買った。
俺もうにゅほもたこ焼き味が好きである。

※1 2013年3月18日(月)参照



2013年6月11日(火)

「あー……」
自室のカーペットに、髪の毛が絡みついていた。
拾い上げると、ずるうりと長い。
不織布状のパンチカーペットなので、毛髪が絡みやすいのである。
「××の髪の毛だから、見てわかるけど──……」
このカーペットは、かつてこの部屋が弟のものだったころから敷いてある、言わば十年ものだ。
どこのどんな毛がどれほどの量カーペットと一体化しているかわかったものではない。
「──よし!」
「?」
意を決して、カーペットを交換することにした。
「××、ホーマック行くけど行く?」
「いく」
理由も聞かず立ち上がる。
コンベックスでカーペットの寸法を測り、ホーマックへと赴いた。
「××は、どんなのがいい?」
「うーと……」
しばし思案し、
「ふかふかのがいいな」
「ふかふかねえ……」
高級そうなイメージが拭えない。
それに、
「これからもっと暑くなるけど……」
「あー」
駄目ではないが、すこし嫌だ。
しばし店内を回った結果、タイルカーペットがいいのではないかという結論になった。
「せっかくだから、市松模様にしよう」
「いちまつ?」
「チェス盤みたいなやつ」
「おー」
「50cm×50cmだから、8枚かな」
「よんまいずつ?」
「いや、8枚ずつで計16枚」
茶色と灰色のタイルカーペットを重ね、一気に持ち上げる。
「──……おもっ」
超重い。
持てないほどではないが、米袋どころの騒ぎではない。
裏地がゴム製の上にやたら分厚いので、そのためだろう。
「わたしもつ」
「無理全部は無理だから絶対」
受け取ろうとするうにゅほを制し、16枚のカーペットを床に下ろす。
「……××、何枚持てる?」
「ぜんぶ」
「全部は無理だから」
試した結果、5枚持てた。
「じゃあ、4枚頼むな」
「ごまい……」
5枚でぷるぷるしていたので、落としどころとしては妥当だろう。
帰宅後に計測してみると、1枚につき1.5kgもあった。
重いはずである。
「──……できたーっ!」
「わー!」
一時間の作業を経て、自室がすこしオシャレなかんじになった。
「いぇー」
「いぇー」
こつんとこぶしを合わせ、ふたりでキンキンに冷えたペプシネックスを飲んだ。



2013年6月12日(水)

俺とうにゅほの部屋は、用途別にふたつに区切られている。
PCデスクやソファなどを詰め込んだ生活スペースと、うにゅほの寝床や洋服ダンスの設置された寝室スペースである。
片方にタイルカーペットを敷いたのだから、もう片方にも敷くのが道理というものだ。
「うあー……」
うにゅほの寝床に倒れ込む。
疲れた。
しばらく動きたくない。
「◯◯、ねる?」
「寝ないけど、動かない……」
「じゃ、わたしもうごかないー」
うにゅほがカーペットの上に寝そべった。
「いーねー……」
満足そうなうにゅほを見て、なんだか羨ましくなってしまった。
俺だけ布団というのも心苦しい。
ここは、ふたりなかよく竣工を祝おうではないか。
「××、ちょっと左に寄って」
「?」
不思議そうな表情を浮かべながら、うにゅほが体をずらす。
「──……よっ」
ごろん。
すのこの上にあるうにゅほの布団から、のそりと転がり落ちた。
「わ」
「隣、失礼します」
大の字に四肢を伸ばす。
「いいねえ……」
「いーねー……」
カーペットを貼り替えただけなのに、なんだか気分がいい。
しばし天井を見上げていると、
ぽすん。
俺の左腕に、うにゅほの小さな頭が乗っていた。
「おみせのにおいがするねー」
「そうだなあ」
脳裏に新しさを呼び起こす、木材と薬品を混ぜ合わせたような香り。
そう、それはホームセンターのにおい。
「……なんか嫌だな」
ホームセンターの店内で大の字になっているような気がしてきた。
そのままぼんやりしていると、うにゅほがうとうとしはじめた。
起こすのも悪いかと思い、三十分ほど天井を眺めていた。
左腕はしびれた。



2013年6月13日(木)

四年ほど乗っていなかったビラーゴ250をバイクショップで整備してもらい、なんとか乗れる状態にした。
試運転を兼ね、遠回りして帰宅すると、黒い人影が縁石にちょこんと腰掛けて待っていた。
「ただいま」
「おかえり……」
「暑くない?」
「あつい……」
ぶかぶかのレザージャケットを着込み、日向に座っているのだから、当然である。
準備万端に過ぎると思うが、らしいと言えばらしい。
「バイク、かっこいいねえ!」
「だろー」
気を取り直して、うにゅほがビラーゴ250を撫で回す。
「ぴかぴか」
「ワックスかけたしな」
「ふたりのり、できる?」
「できる」
「ほんとに?」
「ママチャリの荷台に座布団敷くより、ずっと乗り心地いいよ」
「おー」
「すごい速いけど」
「どれくらい?」
「そりゃまあ、普通に車くらいは」
タンデムシートにうにゅほを乗せて、スタートボタンを押す。
軽くアクセルをふかしたあと、ギアを1速に落とそうとして、
「──……◯◯」
胴回りにぎゅうとしがみつきながら、うにゅほが俺の名前を呼んだ。
「どうかした?」
「むりかもしれない」
「……え、このタイミングで?」
走り出したあとで恐慌をきたすより、ずっといいけれど。
「怖くなっちゃったか」
「たかい」
「自転車よりはなあ」
タンデムシートは、すこし高い位置にあるし。
「じゃあ、降りる?」
「──…………」
ぶんぶんと首を横に振る気配がする。
らしいと言えば、らしい。
「じゃあ、こうしよう」
「?」
「怖くなったら目を閉じて、俺の背中に顔を押し付ける」
「うん」
「それでも駄目だったら、言ってくれれば止まる。
 風が気持ちいいなーってすこしでも思ったら、すぐに慣れると思うよ」
「そかな……」
結果として、すぐに慣れた。
そのあたりをぐるりと回り、一時間ほどで帰宅した。
「きもちいねー!」
「そうだな……」
しかし、俺の背中にぐいぐいと顔を押し付ける癖がついてしまうとは、いささか想定外だった。
シャツの後ろが湿っているのは、暑さゆえだと信じたい。



2013年6月14日(金)

読み終えたワールドエンブリオを携え、弟が部屋を訪れた。
「お、メガネ」
伊達メガネを掛けたうにゅほを見て、そう口にする。
「うん、めがね」
指摘されたことが嬉しいのか、うにゅほが得意げに指を添え、答えた。
友人の恋人にプレゼントされて以来、時折掛けているのだ。
気に入ってしまったらしい。
しばらく弟と雑談していると、
「といれー」
不要な宣言をして、うにゅほが部屋を辞した。
「──……なあ、弟」
「なにさ」
無意識に声をひそめる。
「××のメガネ、どう思う?」
「どうって、なに」
「察しの悪い……」
「サイズが合ってないとか、そういうこと?」
それはまあ、たしかにそうなんだけど。
「つまり、その……似合ってると思うか?」
核心を突いた。
うにゅほに眼鏡は似合わない説を提唱し続けている俺だが、第三者の意見を仰いだことはない。
しばし思案し、弟が答えた。
「いいんじゃないの、文学少女みたいで。読んでんのみつどもえだけど」
「……そうか?」
「なんでそんなこと聞くの」
「俺は似合わないと思うんだけど……」
「あーいう眼鏡掛けてる人いるし、そのへん歩いてても違和感ないでしょ」
「まじで?」
予想していたよりも意見の食い違いが大きかった。
「なに、そんな似合わないと思ってんの?」
「まあ……」
「俺はふつうだと思うけど」
「そうかあ?」
「似合う似合わないじゃなくて、単に兄ちゃんの好みに合わないだけじゃないの?」
「──……!」
はっとした。
「兄ちゃん、メガネっ子あんま好きじゃないじゃん」
「たしかに……」
深々と頷く。
すべてが繋がった気がした。
「んじゃ、俺部屋に戻る」
そう言い残し、弟が退室する。
入れ替わりに、うにゅほがトイレから戻ってきた。
「××、ちょっと眼鏡外してみて」
「?」
素直に外す。
眼鏡のない素顔のうにゅほを、穴が空くほど見つめた。
「──……うん」
「……?」
やはり、うにゅほは眼鏡を掛けないほうがいい。
似合っているかは別として。



2013年6月15日(土)

バイクのキーに付けていたキーホルダーがあまりに汚れていたので、百円ショップで適当に見繕うことにした。
しかし、
「──……ない」
「ないね……」
探してみると、案外見つからない。
「ストラップばっかだなあ」
「うん」
「あっても微妙なのばっかだし」
キーホルダーって、そういうものかもしれないが。
「あ、これは?」
うにゅほが手に取ったのは、高さが5cmほどもある巨大な「K」だった。
「誰だよ……」
夏目漱石のこゝろに登場する主人公の友人のことだとすれば、一考の余地はあるが。
Kを元の場所へ戻し、帰宅することにした。
「かわないの?」
「物置のどっかに微妙な土産物を入れとくための箱があったと思うから、そこを探してみよう」
「おー」
うにゅほが目を輝かせる。
観光地が自らのアイデンティティを保つためなかば義務感で出したような、しょうもないものばかりだと思うけど。
「──…………」
「──…………」
観光地が自らのアイデンティティを保つためなかば義務感で出したような、しょうもないものばかりが出てきた。
「なにこの、なに……」
MSゴシックみたいなフォントで「HOKKAIDO」とだけ書かれたプレートに鈴が四個並べて付けられたキーホルダーを、片手で揺らす。
「キーホルダー……」
「まあ、キーホルダーだけど……」
うにゅほの手には、胸にZという文字が刻まれた偽ばいきんまんの人形があった。
「……キーホルダーがどこに売ってるか、わかった」
「どこ?」
「土産物屋」
真理だと思う。
「あ、ましなのもあるじゃないか。
 札幌市青少年科学館来館記念──だって」
銀河を意匠したようなシンプルなメダルである。
「ぶなん」
「まあ、無難だけど……」
一言で斬り捨てられてしまった。
「じゃあ、××はどれがいいんだ?」
「この、ねこのやつ」
「無難オブ無難じゃないか」
侃々諤々というほどでもない議論の果てに、バイクのキーホルダーは青少年科学館のメダルに決定した。
途中、「幸福を呼ぶ四つ葉のクローバー」と記された東尋坊のキーホルダーにまとまりかけたが、なんとか踏みとどまった。
それにしても、縁起がいいんだか悪いんだかよくわからない代物である。



2013年6月16日(日)

「いらっしゃーませー」
ケーズデンキの入り口で、うちわをもらった。
「はい」
「はい」
流れでうにゅほに手渡し、照明器具のコーナーへと足を向けた。
自室に設置されている二十年もののシーリングライトが、さすがにそろそろ限界なのである。
劣化したプラスチックが触れるだけでパリパリと崩れてしまうことを、読者諸兄は御存知だろうか。
「やっぱLEDのがいいのかなあ」
「えるいーでぃー?」
ぱたぱた。
「蛍光灯みたいに発熱しないし、電気代も安く済むんだってさ」
「いいねー」
ぱたぱた。
「にしても、たっかいなあ。ちょっとオシャレなやつだとすぐ二万とか三万とか……」
「ふたつもかえないね」
「ひとつだって予算オーバーだけどな」
ぱたぱた。
「××、なんでさっきから俺のこと扇いでるの?」
「わたしあつくない」
「俺も暑くないよ」
「そか」
ぱたぱた。
「──…………」
特に意味はないのだろう。
「あ、これうすーく和紙っぽい模様入ってる」
「ほんとだ」
「意味あるのかなこれ」
「うーん」
お金持ちが買うのだろう、という結論になった。
ケーズデンキを後にし、すぐ近くのホーマックへ立ち寄った。
「あ、いぬ」
うにゅほが指さした先に、ゴールデンレトリバーがいた。
「──…………」
ペット用と記された買い物カートの上で、切なげな瞳をこちらに向けていた。
「レジとおすのかな」
「どこにバーコードがあるんだ」
動物愛護団体が黙ってはいまい。
「ペットの持ち込みができるってことなんだろうけど……」
ドナドナじみたシュールな光景である。
「あ、ちいさいいぬもいる」
「ミニチュアダックスくらいだと、まあ自然な光景ではあるな」
「ねー」
ぱたぱた。
「うちわ、車に置いてこなかったの?」
「うん」
ぱたぱた。
いいけど。
ぱたぱた。



2013年6月17日(月)

「××」
「?」
「はい、これつけて」
愛用のアイマスクを手渡す。
「つけるの?」
「ちょっと面白そうな遊びを思いついたので」
「やる」
食い気味で答え、うにゅほがアイマスクを装着する。
醸し出される犯罪臭にも幾分か慣れてきた。
「なにやるの?」
わくわくした声で、うにゅほが質問する。
「俺がなにか適当なものを手渡すから、××には感触だけでそれを当てていただきます」
「おー……」
「面白そうだろ?」
「うん!」
とてもいい返事である。
「さて、と──」
第一問は既に決めてある。
あるものを手に取り、うにゅほの膝に乗せた。
「?」
「さて、なんでしょう」
「なんだこれ」
「それを当てるんだよ」
うにゅほの両手が、それを恐る恐る撫でさする。
「……?」
「あ、逆さにしないでな」
「さかさにしちゃ、だめなもの?」
「それがヒントかな」
「うー……、ん?」
うにゅほがすんすんと鼻を鳴らす。
「いいにおいする」
「お」
いいところに気がついた。
「あ、おへやのにおいのやつ!」
「正解!」
軽く拍手をして、うにゅほのアイマスクをずらす。
「答えは、お部屋の消臭元(白桃)でした」
「おー!」
「面白い?」
「いいもんだいです」
「ありがとうございます」
「つぎ、◯◯ね!」
ソファに腰を下ろし、アイマスクを装着する。
さて、なにが出てくるやら。
「それではもんだいです」
「はい」
「てをだしてください」
「はい」
ぽん、と手のひらにやわらかいものが乗せられる。
「ぬいぐるみ?」
「ぬいぐるみの、どれでしょう」
「えっ」
ぬいぐるみと言われても、けっこうあるぞ。
感触から言って、ビッグねむネコぬいぐるみをはじめとする大きなサイズのそれではない。
「毛並みがいいな……」
すべすべとなめらかである。
「しっぽがあって、ヒゲがあって──……あっ」
「わかった?」
「クリスマスに買ったトトロだ!」※1
「せーかい!」
アイマスクを外し、眼鏡を掛ける。
「これ、思ったより面白いな……」
わりとすぐわかってしまうので、物足りないと言えば物足りないが。
「つぎわたしね」
「ああ」
なんだかんだで一時間くらい潰せてしまった。
出題範囲を広げれば、もうすこし楽しめるかもしれない。

※1 2012年12月25日(火)参照



2013年6月18日(火)

病院へ行こうと身支度をしている最中、
「はー……」
うにゅほが嘆息した。
とん、と右足を下ろす。
「どうかした?」
「くつした」
「ああ」
「くつした、すごいね」
「……?」
自分の足元を見る。
なんの変哲もない、ただの黒い靴下だと思うが。
「くつした、はくのすごい」
「履く──……ああ、立ったまま靴下を履くのがってことね」
「そう」
ようやく理解できた。
「××は、立ったまま履けないのか?」
「たぶん」
「やってみたら、案外できるんじゃないか。大して難しくもないし」
「えー……」
「試すだけならタダ」
「くつしたはくのか……」
「××のその靴下嫌いはどこから来るんだ……」
とりあえず、試してみることになった。
「いきます」
うにゅほが靴下を構える。
「や!」
勢いよく左足を跳ね上げ、
「あっ」
ぽすん、とソファに座り込んだ。
「……むりだった」
「いや、どう考えてもやり方に問題があるだろ」
「そう?」
「だって、片足で立つ段階でもう倒れてるじゃん……」
「うーん?」
「ふつうのときは片足で立てるのに、靴下持つと立てなくなるのは、気負いすぎてるからだよ」
「どうすればいいの?」
「とりあえず、靴下貸して」
片足で立っている状態のうにゅほに、後から靴下を手渡すことにした。
「おっ」
ふらふらと危なげに揺れながら、爪先に靴下を引っ掛ける。
「おっ、おっ、とっ、とととっ」
「!」
ぴょんぴょんとあらぬ動きをし始めたので、うにゅほの肩を両手で支えた。
「あ、そのまま」
うにゅほが靴下を履く。
「できた!」
「おー……、お?」
これは、できたうちに入るのか?
かと言って、喜びに水を差すのも無粋だし。
「じゃ、いこ」
「あー……うん」
結局靴下を脱ぎ捨ててしまったうにゅほを連れて、玄関の扉をくぐった。
夏場はサンダルを貫くと決めているらしい。



2013年6月19日(水)

注文していたシーリングライトが届いた。
NECのLIFELED'S HLDZB0809がふたつ、合計で15,000円弱の出費である。
じくじくと財布が痛むが、仕方ない。
「まずは、古いほうのライトを取り外します」
「うん」
「ビス止めしてあるから俺が外すけど、取り付けるのは簡単だから、ひとつやってみるか?」
「いいの?」
「ちゃんと俺の指示に従うならな」
「うん!」
威勢のいい返事に口角を上げながら、古いシーリングライトに手を伸ばす。
ぱらぱら。
「?」
ライトの裏から、なにかが滑り落ちた。
「なに落ちたー?」
「んー」
うにゅほが拾い上げる。
「なんだこれ」
それは、硬くて薄い、切れ端のようなものだった。
「……まあ、いいか」
ドライバーを使用し、ライトを慎重に取り外す。
そのときだった。
ざざざざざざっ!
「おわ!」
「!」
ライトの裏側から、大量のなにかが一斉に流れ落ちた。
「なんだなんだ!」
「わかんない!」
丸椅子から飛び降り、つまみ上げる。
「プラスチック……?」
雲形定規をシンプルにしたような形状である。
「あ!」
うにゅほが頭上を指さした。
「あれだ!」
天井を振り仰ぐ。
「あー……」
ようやく理解した。
天井パネルの表面に施された装飾が、蛍光灯の発する熱に二十年ものあいだ晒され続け、剥がれ落ちたのだ。
「これだったんだね」
「なにが?」
「たまにおちてたやつ」
「ああ……たぶんそうだったんだろうな」
積年の疑問が氷解した。
自室に設置されているもうひとつのライトも、同様の惨状だった。
二十年という歳月の重さを思い知らされたような気分である。
ちなみに、
「──…………」
「無理するなって」
うにゅほは丸椅子に乗っても天井に手が届かなかったので、新しいシーリングライトは両方とも俺が取り付けることになった。
これほど悔しそうなうにゅほは久しぶりに見た。
レアである。



2013年6月20日(木)

「──……ん?」
デスクとPCケースの隙間に、親指ほどの大きさのなにかが落ちていた。
拾い上げると、ずしりと重い。
色合いからして、真鍮製だろうか。
「なにそれ」
興味しんしんといった様子で、うにゅほが腰を浮かす。
「キーホルダー……ってことは間違いないから、バイクのキーホルダー選んだときに落として、そのままだったんだろう」※1
「なんのキーホルダー?」
「なんだろう……」
ドラえもんのような二等身のキャラクターに見えなくはないが、経年によって溝が潰れて元がわからない。
「かして」
「はい」
キーホルダーを手渡す。
「なんか、ちゃりちゃりおとするよ」
「音?」
「ほら」
俺の耳元で、うにゅほがキーホルダーを軽く振る。
「本当だ……」
内部が空洞で、なにか入っているのか?
「あ」
「今度はなに?」
「あたまんとこ、あなあいてる」
「あ──……」
長方形の小さな穴を見て、ようやく思い出した。
「これ、おみくじキーホルダーだ」
「おみくじ?」
「頭を下にして振ると、細い板が出てきて、そこに運勢が書いてあるってやつ」
「ほんと?」
しゃかしゃかしゃか。
「でた!」
「なに吉?」
「えーと」
うにゅほがおみくじを凝視する。
「えー、と……」
目を細め、眉根にしわを寄せる。
「なにきち?」
「読めないのか?」
「うん……」
目を凝らして見ると、文字が完全に潰れていた。
「いつのキーホルダーだ、これ……」
俺の世代ですらない。
すべてのおみくじが同様の状態なのだろうか。
幾度か振って試していると、
「あ!」
「読めるのあった?」
「うん」
「なに吉?」
「ぴょんきち……?」
「──…………」
やはり、俺の世代のものではない。
その日のうちに、キーホルダーはしょうもない土産物箱へと帰っていった。
次に日の目を見るのは何十年後のことだろう。

※1 2013年6月15日(土)参照



2013年6月21日(金)

「──ぃよっし!」
気合と共に立ち上がり、足元のレジ袋を手に取った。
「なに?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、そろそろ染めようかと思って」
「そめよう?」
あれ、通じてない。
「ほら、これ……」
レジ袋を開き、中身を見せる。
「あ、きのうかったシャツ」
二束三文で購入した、三着の白いTシャツである。
「……わかった!」
うにゅほが高々と右手を上げる。
「これ、そめるんだ」
「そうだよ」
同じく購入した数種類の染め粉を使い、オリジナルのTシャツを作るのだ。
以前も思ったが、どうもこういうことが好きな性質らしい。※1
「──…………」
「得意げなところ悪いけど、ちゃんと買うときに説明してたからね」
「そだっけ」
「俺の言葉、けっこう聞き流してるよな……」
「してないよ?」
しれっと答える。
うにゅほは嘘がつけないので、意識的なものではないのだろう。
それはそれで傷つくが。
「──……。
 ともあれ、すこし手伝ってくれよ」
「うん」
漫画を閉じ、うにゅほが腰を上げる。
「なにすればいいの?」
「そうだな……むら染めにするから、すずらんテープでTシャツをギュウギュウに縛ってほしい」
「しばる?」
「ほら、ハムみたいに」
「あー」
一着につき五ヶ所ほど縛るので、それだけでもなかなかの重労働だ。
「なにいろにするの?」
「まず、二着はピンクかな」
「いいねー」
「××の思ってるとおりにはならないと思うけど」
「?」
三十分ほどつけ置きすると、二着のTシャツは綺麗に染め上がった。
「おー」
「いいかんじだな」
すずらんテープの作り出した模様が、なんとも言えず趣深い。
「××、次は何色がいい?」
「つぎ?」
「これを、別の染め粉で重ね染めするんだよ」
「え、またそめるの?」
「つい六色も買っちゃったから、いろんなパターンを試さないと」
「えー……」
五、六時間の作業を経て、三着のTシャツが見事に染め上がった。
「これいいね!」
「これは上手くいったな」
「こっちはふつう」
「まあ、すべて会心の出来とはいかないか」
それなりの結果だった。
納得のいかない仕上がりのものは、また重ね染めするかもしれない。

※1 2013年2月6日(水)参照



2013年6月22日(土)

昨夜のことである。
風呂上がりにペンダントを着けようとしたとき、
──コトッ
眼下で物音がした。
視線を落とすと、ペンダントヘッドの水晶石が落ちていた。
胸元に手を伸ばす。
水晶石を支えていたシルバーワイヤーの感触があった。
シルバーワイヤーの感触、だけがあった。
「──…………」
さっと背筋が冷えた。
この水晶石のペンダントヘッドは、うにゅほからの誕生日プレゼントである。※1
それを壊したとあっては、うにゅほに顔向けができない。
「待て、待て、えー……」
水晶石を拾い上げる。
幸いなことに、水晶自体が欠けたわけではなかった。
シルバーワイヤーと水晶石との接触面積がもともと少なかったため、接着剤の劣化と共に剥がれて落ちたということらしい。
これなら、アロンアルファでなんとかなるかもしれない。
「焦るな、焦るな……」
それでは根本的な解決にならない。
今回は、脱衣所だったからよかった。
いつか同じ事態に直面したとき、それが屋外ではないと誰が言える?
後顧の憂いは断つべきである。
「──…………」
うにゅほの寝顔を確認し、音を立てないように外へ出た。
行き先は、24時間営業のドン・キホーテである。
「さて、と──」
帰宅し、デスクの上にレジ袋の中身を広げた。
青写真はこうだ。
シルバーワイヤーで形作られた輪をエポキシパテで埋め、水晶との接触面積を広げる。
そこにアロンアルファを流し込むことで、より強固に接着する。
これで再発を防げるはずである。
「……くさっ!」
エポキシパテを練ると、独特の臭気が自室に充満した。
慌てて窓を開ける。
こんなことで起こしてしまっては、これまでのコストが浮かばれない。
「──…………」
パテが硬化するころには、時刻は既に午前三時を回っていた。
水晶石との接着には成功したものの、パテを盛り過ぎたせいで裏面が膨れてしまっている。
「こんなこともあろうかと……」
一緒に紙やすりを買っておいたのだ。
自分の先見が怖い。
見抜いているのは自分の失敗だけだが。
しかし、思っていたよりも目が細かく、一向にパテが磨り減らない。
なんとか想定通りの形状に整えたころには、夜が白々と明けていた。
「はー……」
溜め息をついても、まだ終わらない。
灰色のパテが目立たないよう、薄い塗装を施し、ニスを重ねて仕上げなければならない。
「──…………」
「あれ、◯◯、おはよう……?」
仕上げ塗りをしたニスが乾いたころ、うにゅほが起き出してきた。
「おはよう」
「はやおき?」
「徹夜」
ペンダントを着け、うにゅほの前に立つ。
「なにか変なところ、ある?」
「へんなとこ?」
しばし観察し、
「ない」
と、答えた。
「そうか……」
よかった。
よかったのだが、異様に疲れた。
マイナスをゼロにする努力の、なんと達成感のないことか。
「……寝る」
「おやすみ……?」
うにゅほの寝床に入れ替わりで、そのまま不貞寝を決め込んだ。

※1 2013年3月2日(土)参照



2013年6月23日(日)

晴れていたので、布団を干した。
自室がベランダに面していると、手間が掛からなくてよい。
「……ふー、できた」
うにゅほが汗を拭う仕草をする。
「天気がいいから、ふかふかになるよ」
「いいねー」
「敷き布団、ちょっと潰れてるからな」
「ひさしぶりだもんね」
布団を干す手間と布団を干す頻度は相関関係にない。
「ちょっと出かけるか」
「うん」
「どこ行くと思う?」
「うーん……」
バイクを適当に乗り回し、遅い昼食を食べたあと、二時間ほどで帰宅した。
「ふとん、ほされてるかな」
「干され……」
なにか違う。
「干されてるじゃなくて、干し、干せ……」
「ほせ?」
「干せてる?」
「ほせてる?」
正しい言葉遣いがよくわからない。
「わー」
うにゅほが敷き布団をぽすぽす叩く。
「ふかふか?」
「ふかふか……では、ない」
元が元だから仕方ない。
「ほら、掛け布団は新しいからふっかふかだぞー」
「ふかふか!」
掛け布団がぼふぼふと音を立てる。
「こっちしきぶとんにしたい」
「敷き布団を掛けるのか?」
「たんぜんある」
「柔らかすぎて、すのこが痛いと思うぞ」
「そっかー」
あきらめてくれた。
「でもせっかくだから、掛け布団をふたつ敷いて、ちょっと横になってみるか」
「いいねー」
自室内寝室スペースにある2m×2m程度の持て余し気味の空間に、掛け布団を並べる。
「ふかふかー!」
ごろん。
掛け布団の上に、うにゅほが勢いよく転がった。
「いたい!」
「それはそうだろうな……」
筋斗雲のような感触を想像していたらしい。
「あ、でも、ふかふか」
「どれ」
うにゅほの隣で横になる。
「あー、いいな……」
「いいねー」
いい香りがする。
ダニの死骸の匂いではないらしい。
「あー……」
眠りに落ちることはなかったが、しばらくふたりで天井を眺めていた。



2013年6月24日(月)

「ふすー……」
歯医者から帰宅すると、うにゅほがビッグねむネコぬいぐるみに顔をうずめていた。
案の定、ねむネコはギュウギュウに絞め上げられている。
おもちなら千切れているところだ。
「ただいま」
「ぷすー」
うにゅほの頭に手を乗せ、撫でる。
「帰りにジャンプ買ってきたけど」
「よむ」
顔を上げてくれたので、すこし安心した。
うにゅほの隣に腰を下ろし、分厚い雑誌を開く。
「なにから読む?」
「ワールドトリガー」
最近のお気に入りらしい。
絵柄がすっきりとして読みやすいからだろうか。
ちなみに俺は、最近の新連載だと、吹奏楽の指揮者のやつが好きである。
「──……?」
しばらく読み進めていると、うにゅほの視線が誌上から逸れた。
「ね、◯◯」
「どした?」
「うで、へんだよ」
「腕?」
左腕に視線を落とす。
皮膚が、楕円形に変色していた。
「なんだこれ」
指先で触れてみる。
「!」
皮膚が動き、ずるりと破れた。
「わー!」
うにゅほが驚く。
「だいじょぶ、だいじょぶ?」
「大丈夫だよ」
慌てふためくうにゅほをなだめる。
「水ぶくれが破れただけだから、大丈夫」
「みずぶくれ?」
「ぜんぜん忘れてたけど、そう言えば昨日ヤケドしてたんだよ」
乗り終えたバイクにカバーを掛けている最中、ひもを縛ろうとしてマフラーに触れてしまったのだ。
「わすれてたの……」
うにゅほが呆れたように呟く。
「や、とりあえず冷やしたら痛みもなくなったから……」
「ちゃんとしないとだめ」
「はい」
「どうすればいいの?」
「大したヤケドじゃないから、メンタム塗っとけばいいかと……」
「もってくる」
「いや、自分で──」
言い切る前に、駆け出してしまった。
残されたビッグねむネコぬいぐるみを膝に乗せて待っていると、
「◯◯ー!」
リビングから、俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
「どしたー?」
「めんたーむと、めんそれーたむ、どっちー?」
メンターム?
メンソレータム?
同じメンタムじゃないのか?
いや、会社が違うとか聞いたことがあるような気がする。
成分が異なるのは構わないが、効能が違うのは問題だ。
しばし逡巡し、
「……オロナイン持ってきて!」
「はーい!」
あきらめた。
あ、両方持ってきてもらえばよかったじゃないか。
いやオロナインでもいいんだけど。
「◯◯、はい」
「ありがとうな」
うにゅほからオロナイン軟膏を受け取る。
「あ、めんたむ、りょうほうもってくればよかった」
同じことを考えていた。
いやオロナインでもいいんだけど。



2013年6月25日(火)

運動不足解消のため、寝る前に軽い筋トレをしている。
「──……ふん!」
腹筋に力を入れ、指先で押す。
固い。
なんであれ、成果を確認できることは嬉しいものだ。
「××、ほら」
「?」
「ちょっと触ってみて」
「おなか?」
うにゅほの指が、腹部に触れる。
「お」
ぐい。
「おー」
ぐいぐい。
「かたい」
「だろ」
「ほね?」
「骨なわけあるかい」
「あはは」
ふたりで笑いあう。
冗談なんて言うようになったんだな。
なかなかに感慨深いものがある。
「──…………」
本当に冗談だったのか?
いや、よそう。
冗談だったに違いない。
「××は、ぜんぜん腹筋ないもんな」
「ない」
二十回もできていなかった気がする。
「ほら、ないよ」
「──…………」
シャツをまくり上げる必要はないと思うが、まあいい。
うにゅほのおなかに触れる。
「うひ」
おなかが出ているわけではないが、ぷにぷにしている。
「ふっきんしたほうがいい?」
「……いや、××はそのままでいいんじゃないかな」
「そかな」
「そうそう」
脂肪もあまりないから、すぐに腹筋が割れそうで怖い。
腹筋が六つに割れたうにゅほは、ちょっと嫌だ。
「でも、軽い運動くらいはしてもいいかもな」
「どんなの?」
「ジョギングとか」
「えー……」
太陽が燦々と照りつける窓の外を見ながら、うにゅほが口角を下げる。
「大丈夫、俺もしたくない」
「うん」
「お風呂上がりにストレッチでもするか」
「それがいい」
うにゅほは前屈限定で体が固いので、それをなんとかしたいと思う。



2013年6月26日(水)

「あ」
「ん?」
「ぎゅうにゅうかんてん、だって」
「牛乳寒天?」
TSUTAYAからの帰途に寄ったセブンイレブンで、牛乳寒天なる商品を見かけた。
「牛乳寒天ねえ……」
「おいしいかな」
「××、寒天ってどんなのか知ってる?」
「ゼリーみたいやつ」
「そう。
 ただし、こんにゃくゼリーみたいなやつじゃなくて、固いゼリーな」
「かたいの?」
「固い──というか、変形しないんだ」
「?」
「つまり、水ようかんみたいなかんじ」
「うーん」
ピンとこないようだ。
「けっこう前、ゼラチン使って牛乳プリン作ったよな」
「あんなかんじ?」
「あんなかんじ、ではない」
「ではないの……」
「あれは、ぷるぷるで口当たりよかったろ」
「ぷるぷるしてた」
「寒天もぷるぷるするんだけど、弾力がないんだよ」
「……?」
「濃度にもよるけど、固いやつは歯型が残るくらい」
「え」
「固いやつは、だけど」
「りんごみたい?」
「りんごみたい、ではない」
「ではないの……」
「──…………」
言葉で説明することに限界を感じたので、牛乳寒天を購入した。
3パック入り158円なので、お買い得感はある。
「いただきます」
牛乳寒天に手を合わせ、うにゅほがいただきますを言う。
行儀がいいように思えるが、おやつにまでいつも言っているわけではなく、気まぐれである。
「……あー!」
ひとくち食べて、声を上げる。
「美味しい?」
「かんてん、こういうかんじ」
理解してくれたらしい。
味に関する感想は得られなかったので、自分のスプーンを口へ運ぶ。
「──……!」
衝撃が走った。
「あ、おいしいね」
食感を抜けて、ようやく味に到達したらしい。
「なあ、××」
「?」
「これ食べたらセブンイレブン行くけど、一緒に行く?」
「また?」
「牛乳寒天、あるだけ買い占めなきゃならないから」
これからしばらく、おやつはセブンイレブンの牛乳寒天に決定した。



2013年6月27日(木)

ぺらっ。
うにゅほが俺の髪の毛をめくる。
「どうかなー」
「──…………」
なにその「おやっさん今日やってる?」みたいなかんじ。
円形脱毛症になって以来、うにゅほは時折俺の頭皮を確認してくるようになった。※1
新たなハゲが発生していないか調べているらしい。
「お?」
つんつん。
「ハゲをつつくな、ハゲを」
「ちがくて」
首を横に振る気配がする。
「うぶげはえてる」
「え、まじ?」
指先でハゲに触れる。
しょりしょりとした産毛の感触がそこにあった。
「──……っ、はー」
深く、長く、息を吐く。
「よかったー……」
「よかったね」
なでなで。
「ハゲを撫でるな、ハゲを」
「はい」
うにゅほがソファに座り直す。
「やー、ほんとよかったよ」
「うん」
「なかなか生えてこないからさあ」
「◯◯、ほっとけばなおるって」
「わかってても怖いものは怖いし、不安は不安なの」
「そなの?」
「そうじゃないと、お化け屋敷もジェットコースターも成り立たないでしょう」
「うーん?」
よくわからないらしい。
「これで、父さんの育毛剤はもう必要ないかな」
気休めに試していたのだ。
「いくもうざい?」
「髪の毛を生やすための──あれ、それは発毛剤だっけ」
よく知らない。
「おとうさん、はげてないのにねえ」
「ハゲてないけど、薄くはなってるらしいよ」
「そなの?」
「いや、見てもわからないけど、自覚症状があるならそうなんじゃない?」
「ふうん……」
伯父も薄毛に悩んでいるようなので、ハゲはせずとも薄くなる家系なのだろう。
「◯◯も、うすくなるの?」
「二、三十年後にはなるんじゃないか」
「いくもうざい、ぬってあげるね」
「──……ありがとう」
複雑である。

※1 2013年6月5日(水)参照



2013年6月28日(金)

父親の仕事の手伝いで、五時間ほど歩かされた。
「あー……」
頬が熱い。
日焼けしたらしい。
「ただいまー」
自室の扉を開き、うにゅほに帰宅を告げる。
「……あれ?」
あると思っていた姿が、見えない。
「××?」
きびすを返し、リビングに戻る。
いない。
両親の寝室を覗く。
いない。
トイレの扉を叩く。
いない。
「二階にはいないか……」
珍しいこともあるものだ。
一階で、祖母と話し込んででもいるのだろうか。
当初はうにゅほに対し冷たく接していた祖母だが、わだかまりはもうないらしい。
むしろ、可愛がっているとさえ言える。
「ま、いいか」
車通りの少ない住宅地のことだ。
外出していたとしても、そうそう危険があるはずもない。
チェアに腰を下ろし、PCを立ち上げた。
うにゅほがいるときには開きづらいサイトなどを読み流していると、
ガラッ!
「おふ!」
ベランダに通じるサッシが、前触れなく開いた。
慌ててブラウザを落とす。
「──あれ、おかえり?」
うにゅほだった。
「え、なに、ベランダ? いたの?」
視線が泳ぐのを自覚する。
「うん、いた」
「なんで?」
「そと、きもちいかなって」
「なるほど……」
日差しが強く、風もあった。
ひなたぼっこも悪くない日和ではあるだろう。
「気持ちよかったか?」
「うん、ねてた」
「え、寝てた?」
「てすりで、うとうとって」
「──…………」
うにゅほの頬に手を当てる。
「熱い」
「?」
「日焼けしてるみたいだ」
「そなの?」
「どれだけベランダにいたんだよ……」
うにゅほの腕を取る。
案の定、冷たい。
「体も冷えてるから、半纏着てなさい」
「はい」
「コーンスープ作るから、一緒に飲もう」
「のむ」
夕食の時刻まで、ふたりならんで暖まっていた。



2013年6月29日(土)

うにゅほの体はやわらかい。
股割りとまでは行かずとも足はよく開くし、こちらが心配になるくらい上体を反らすこともできる。
「エビ反りって言うけど、エビって反ってないよな」
「そ、だね……!」
「むしろ猫背だと思う」
「そだね……」
「指、それ以上行かない?」
「うん」
うにゅほが立位体前屈の体勢を崩す。
「えー、弁慶の泣き所のすこし下くらいか」
「うん……」
基本的にやわらかいうにゅほの体が、前屈限定で固いのは何故だろう。
うにゅほ七不思議のひとつとして登録したいくらいだ。
「◯◯やらかいよね」
「やわらかいってこともないけど、手のひらはつくよ」
「すごい」
「でも、あんまり反れない」
猫背だからだろうか。
「というわけで、ストレッチをしましょう」
「はい」
「ちょうど風呂上がりだし」
「◯◯は?」
「俺が上がるころには、××もう寝てるだろ」
「そっか」
「じゃあ、床に座って」
「はい」
「足を、開くところまで開いて」
「はい」
「……すごい開くな」
「そう?」
時計で言うと、4時58分くらいである。
ほとんど股割りじゃないか。
「じゃあ、背中押すよ」
「はい」
ぐい。
ずり。
「××」
「はい」
「前に倒れるんじゃなくて、前に進んだんだけど」
「はい……」
「突っ張ってない?」
「つっぱってない」
「じゃあ、もっかい押すよ」
「はい」
ぐい。
ずり。
埒が明かなかった。
「動かないように、壁に足をつけましょう」
「はい」
カタカナの「ヒ」のような体勢をとる。
「じゃあ、ゆっくり押すから」
「うん」
「せーの」
「いたいいたいいたい」
すこしゆるめる。
「ちょっといたい」
「これくらいの強度で、三十秒間キープ」
「ところさん?」
「所さん」
所さんの目がテン!で、効果的なストレッチの方法が紹介されていたのだ。
休憩を挟みつつ、これを4セット行った。
「ふー……」
うにゅほがやり遂げた顔をしている。
「やらかくなった?」
「すこしはなったんじゃないか」
「おー」
「続けることが大事だぞ」
「はい」
継続は力である。
せめて地面に指先くらいはつけるよう頑張りましょう。



2013年6月30日(日)

「えだまめ、やさいなんだって!」
「はあ……」
起き抜けにそんなことを言われても、なにがなにやらわからない。
「あと、だいずなんだって」
「それは知ってる」
大阪が言ってた。
「ところさん、きょうはえだまめだったんだよ」
「あー」
そういえば、今日は日曜日だっけ。
うにゅほは所さんの番組が好きである。
目がテンも、そこんトコロも、欠かさずではないがよく見ている。
そして、いちいち内容を教えてくれるのだ。
「えだまめのね、ボタンがね」
「──…………」
枝豆のボタンってなんだ。
つたない説明が、逆に興味をそそる。
こんなとき、以前は歯がゆい思いをしていたが、今は全録レコーダーがある。
「面白そうだから、あとで見ようかな」
「うん、えだまめのとうふはみどりなんだよ」
ネタバレが止まらない。
楽しそうだし、気にならないからいいけど。
目がテンを視聴したあと、ふと気になったことがあった。
「××、好きな芸能人は?」
「すきな?」
「そう」
「うーん……?」
しばし思案する。
「……ぬー」
結論が出ないようなので、こちらで指定することにした。
「じゃあ、所さんは?」
「すき」
「向井理は?」
「だれ?」
これは母親の好きな俳優である。
「剛力彩芽」
「……?」
わからないらしい。
さすがに顔は覚えているだろうが、説明が面倒なのでやめた。
「じゃあ、マツコ・デラックス」
「ふふっ」
「名前だけで笑うなよ……」※1
「だって」
「マツコ・デラックスは、好き?」
「うーと……」
しばし首を傾け、
「……ふつう?」
「見ただけで笑うのに……」
「うるさいんだもん」
うるさい芸能人は駄目らしい。
「ビートたけしは?」
「?」
ピンと来ないらしい。
「タモリは?」
「ぐらさん?」
「グラサンて」
どういう経緯でそんな呼び方に。
「明石家さんま」
「あー」
「──…………」
「──…………」
特に思うところはなさそうだ。
「じゃあ、××の好きな芸能人は、所さんだけか」
「たぶん」
「所さんのフルネームは?」
「ところ──……」
数秒置いて、
「……じょーじ?」
「そう」
危ないところだった。

※1 2013年4月4日(木)参照


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