>> 2013年5月




2013年5月1日(水)

うにゅほのものらしき長い長い髪の毛が、フローリングの床に落ちていた。
捨てようと片膝をついたとき、
──びりっ
という、かすかな音がした。
「あっ」
たまたまこちらを向いていたうにゅほが、驚きの声を上げる。
「──…………」
なにが起こったか、さすがにわかっていた。
ジーンズの膝が破れたのである。
また、破れたのである。※1
和柄のバンダナを当て布にした部分ではなく、その上が見事に裂けていた。
「二ヶ月……まあ、持ったほうか」
最初に破れた時点で、既に生地全体が薄くなっていたのだから、こうなることは時間の問題だったと言える。
「あな、またふさぐの?」
「いや、これ以上はきりがないよ」
「そなの?」
「穴が空くたび塞いでいって、最終的にジーンズの生地がなくなって、代わりにパッチワークのズボンが出来上がったら、いささか面白いが」
「いいね」
「いいか?」
「じゃあ、どうするの?」
「捨てるしかないでしょう」
「えー……」
うにゅほがぶーたれた。
「もったいない」
「もったいないの精神こそがゴミ屋敷を作り出すのだと、俺は思う」
「でも」
「もう穿かないんだし、置いといてもしょうがないよ」
「じゃ、わたしはく」
「えー……」
予想外の言葉だった。
「また、すごいこと言い出すね」
「うん」
「足の長さも違うし、腰回りなんてゆるゆるなんてもんじゃないぞ」
「はく」
「捨てる捨てないはもうどうでもよくて、なんか楽しそうだから穿いてみたくなってる?」
「うん」
「素直だなあ」
頭を撫でる。
というわけで、うにゅほに俺のジーンズを穿かせてみた。
「そのベルトはフリーサイズだから、ギュウギュウに絞っておけよ」
「はい」
うにゅほが素直にベルトを調節する。
「──…………」
それにしても、あれだ。
「なんか、不思議な薬で子供にされた人みたい」
「コナン?」
「あそこまで小さくはないけど」
ずりずりとすそを引きずりながら、うにゅほがポーズを取った。
「にあう?」
「似合うか似合わないかで言えば、似合わない」
「えー……」
上着のすそを軽く持ち上げ、視線を下ろす。
すとん。
その拍子に、ズボンも落ちた。
「……ベルトはギュウギュウに絞れって言ったのに」
「したのに……」
目の保養になった。

※1 2013年3月9日(土)参照



2013年5月2日(木)

「──……ッ!」
反射的にブレーキペダルを踏み込んだ。
飼い主がリードを取り落とし、車線上に仔犬が飛び出したのである。
「いぬ!」
うにゅほの悲鳴が響く。
前方へ浮遊感に、シートベルトが強く食い込んだ。
「──…………」
間に合った。
寸前で、止まることができた。
ほっと胸を撫で下ろそうとして、仔犬の歩みが止まっていないことに気がついた。
反対車線へ向けて、無防備に駆けていく。
「見るな……」
左手でうにゅほの視界を遮る。
動悸が止まらない。
しかし、目を逸らすことができない。
あの仔犬が無残にも撥ねられるところを見れば、俺は動けなくなるだろう。
半年前に死んだ愛犬を思い出すことだろう。
「──…………」
長い、数秒が経った。
フロントガラス越しに、飼い主がぺこぺこと頭を下げながら車道を横断していくのが見えた。
仔犬は無事だった。
「──……はー」
今度こそ、一息ついた。
「どうなったの……?」
「大丈夫、無事だよ」
「よかったー……」
もし仔犬が死んでいたとしても、同じことを言っただろうけど。
「!」
背後から、クラクションが鳴り響いた。
慌ててアクセルを踏む。
「♪」
カーステレオから、ヴァネッサ・カールトンのサウザンド・マイルズが流れていた。
なんだか気分がよかった。
「ごきげん?」
「なんだろう、よくわからないけど」
「ふうん」
うにゅほもなんだか楽しそうに見えた。
「なんか、腹減ったな」
「うん」
時刻は午後一時過ぎである。
「寿司食うか」
「えっ」
「回転寿司」
「いいの?」
「いくら食べたってふたりで二千円くらいだろ?
 普通の店と大差ないよ」
「いいのかなー……」
「いいのいいの」
ダイエットのことも考えず、はま寿司へとハンドルを切った。
ふたりで1600円くらいだったので、昼食としては比較的リーズナブルと言える。



2013年5月3日(金)

従姉が本州から帰省するため、母方の実家に泊まりがけで行く予定だった。
予定だった、というのは言うまでもない。
俺は留守番である。
朝から体調が悪かったことが、その理由だ。
夕方になり、ぼんやり目を覚ますと、視線の先にうにゅほがいた。
「……おはよう」
「おはよ」
「××は行かなかったの?」
「おかあさん、◯◯の看病しなさいって」
「──…………」
母親の言葉としては、いささか不自然に思える。
「来ないなら、◯◯の看病でもしておいて──とか言ってなかった?」
「うん」
やはり、そちらのほうがしっくりくる。
「よっ──と」
起き上がろうとして、うにゅほに止められた。
「ねてないとだめ」
「トイレ行きたいんだけど……」
「あー」
しびんとか持ち出されても困るので、さっさと済ませてしまうことにした。
「ふう」
トイレから出ると、うにゅほが背中を押した。
「ねてないと」
「寝疲れして、体が痛いんだけど……」
「うーん」
「柔軟するから、背中押してくれないか」
「うん」
ひとしきり柔軟して、立ち上がる。
「なんかテレビ見たいな」
「ねてないと……」
「あ、そろそろドラえもんやるんじゃないか?」
「ほんとだ」
「リビングのソファで横になるなら、いいだろ?」
「ふとんもってくる」
五月としては異例の寒さにふたりで布団にくるまりながら、ドラえもんを見終わった。
「なんか、腹減ったな」
「なにたべたい?」
「炊飯器にごはん残ってたから、チャーハン食べたいかな」
「じゃ、つくる」
うにゅほが立ち上がり、台所へと向かう。
「──……ふう」
なんとかやり過ごした。
うにゅほの気持ちはありがたいが、病人扱いは苦手だ。
下手に看病なんてされると、ますます気落ちしてしまう。
「とりあえず、一緒にいてくれればいいんだよ」
聞こえないように、そっと呟いた。



2013年5月4日(土)

「これが──噂に聞く、寿司の折り詰め……」
「すしづめ?」
「それはまた別のものだ」
両親が、小樽で回らない寿司を食べてきたらしい。
ゴールデン・ウィークだけあって一時間以上待たされた、という土産話とセットである。
「寿司の折り詰めだぞ?
 ジャパニーズ・トラディショナル・オミヤゲだぞ?」
「?」
小首をかしげる。
「千鳥足で、こう、結わえた紐の先に指を引っ掛けてだな」
「うん」
「玄関で正座しながら待ってた奥さんにこっぴどく怒られるわけだ」
「ふうん」
「よくわからないか」
「うん」
ジェネレーション・ギャップである。
そもそもどの世代に当てはまるのかよくわからないけど。
「ともあれ、いただきましょう」
「いただきます」
折り詰めのフタを開ける。
色とりどりの寿司が、十貫ほど詰められていた。
「ホタテがある」
「おいしそう」
「ホタテあげるから、サーモンくれ」
「えー……」
「じゃあ、どれならいい?」
「かい」
「貝、俺も好きじゃないなあ」
「まぐろ?」
「それで手を打とう」
いくつかトレードしたあと、マグロの赤身を口に入れた。
「──…………」
咀嚼し、飲み込む。
「わりと普通かな」
「うん」
「美味しいけど、普通」
「うん……」
あと、敷いてある紙にシャリがべったりとくっついているのも減点対象である。
「店では美味しかったんだけどねー」
母親が、言い訳をするように言った。
焼きたてや作りたてが美味しいように、握りたてもその例に漏れないらしい。
俺は、うにゅほの耳元に口を寄せた。
「……一昨日行った、はま寿司のほうが美味しかったな」
「そだね」
ふたりでこっそりと笑いあった。



2013年5月5日(日)

「◯◯、もらった!」
駆け込んできたうにゅほが両手で掲げていたのは、古びたコルクボードだった。
「おかあさんが、もういらないって」
「それは──」
もらったのではなく、押し付けられたのではないか。
言い掛かけたが、すんでに止めた。
「それで、どこに掛けるんだ?」
「そこ」
うにゅほが俺を指さす。
正確には、俺の左に面した壁である。
「いろいろはったるから」
「あー」
たしかに、いろいろ貼ってある。
「でも、カレンダーを貼るのはサイズ的に無理があるんじゃないか?」
「うーん……」
小首をかしげて思案し、
「あ、はんぶんにおる」
「半分に折ると、犬のカレンダーである意味が……」
「あ、そっか」
「ああ、でも、折るとちょうどいいかんじに収まるな」
コーギーにさよならを告げた。
「あと、ごみのひかいたかみでしょ」
「これはカレンダーの下かな」
「あと、なんか、ごじゅん?」
「本多勝一の語順四原則な」
「かいたかみ」
「これは、カレンダーの右のほうに貼っておこう」
だんだんにぎやかになってきた。
「かみ、もうないね」
「なんか半端に空いてるな」
「あ、コロのしゃしんは?」
「あー……写真立て、置き場なくて本棚の上だもんな」
「みえない」
「じゃあ、こっちに移そう」
愛犬の写真を貼った。
「おー」
「これは、なかなか、コルクボードってかんじじゃないか?」
「──…………」
うにゅほが何度も頷いた。
「せっかくだから、××もなんか貼ったらいいよ」
「え?」
「ほら、右下のこのへん空いてるし」
「えー……」
あからさまに困っている。
面白い。
「ほら、適当になんか書いて」
メモ帳とペンを渡す。
「なにかいたらいいの?」
「備忘録的な──そうだな、忘れたくないこととか」
「わすれたくないこと……」
首をかしげながら、うにゅほがペンを走らせた。





「がんばる……」
自信のなさを表すように、「る」がやたら小さい。
「なにを?」
「こう、ぜんたいてきに……」
うにゅほのうすぼんやりとした「がんばる。」は、コルクボードの右下を飾ることになった。
外す理由も特にないから、ずっとあるんだろうな、これ。



2013年5月6日(月)

ゴールデン・ウィークも最終日ということで、家族でスーパー銭湯へ行くことになった。
「──……正直、舐めてた」
「うん……」
まず、広い。
ちょっとしたホテルくらいはあるだろうか。
次に、なんでもある。
岩盤浴にレストラン、漫画喫茶まで備えている。
なにより、人出がすごい。
さすがにゴールデン・ウィークである。
「車で十分なのに、ものすごい遠出した気分だ」
「うん……」
「大丈夫か?」
「うん」
うにゅほは人混みが苦手である。
「母さんから離れるんじゃないぞ」
「うん」
「母さんも、××から目を離さないように」
「子供か」
「携帯は××に渡しとくけど、迷子になっても泣くんじゃないぞ」
「なかないよ……」
視線を逸らしながら、うにゅほが答えた。
レストランで昼食をとったあと、男湯と女湯にそれぞれ分かれた。
浴場内でさらに分かれ、それぞれに温泉を楽しむ。
桜色の湯が気に入って三十分ほど浸かっていると、父親と弟の姿が見えなくなっていた。
この人出だ、合流は難しいだろう。
風呂から上がり、観光気分で適当にうろついたあと、休憩室の寝床に空きを見つけた。
横になっていると、うとうとしてきた。
長時間の入浴に、体が疲れているのかもしれない。
心地良い喧騒のなか、睡眠と覚醒の波打ち際を散歩する。
「──…………」
ふと、すぐ隣に寄り添う気配がした。
たしかな息遣いと、僅かな体温が、空気に揺らいでいる。
うにゅほだろうか。
そっと目蓋を開いた。
「──…………」
弟だった。
「おはよう」
「──せいっ!」
蹴りを入れた。
体を起こすと、家族が揃っていた。
帰る時間らしい。
「どうだった?」
「すごかったねえ」
「なにやってたんだ?」
「ハワイみたいないすで、まんがよんでた」
よくわからないが、楽しかったなら結構である。
ゴールデン・ウィークを過ぎて、すこしは暖かくなってくれればいいのだが。



2013年5月7日(火)

「はー……」
「これは、また……」
壁という壁を一万冊の蔵書で埋め尽くした狭小住宅が、テレビで紹介されていた。
「屋根までぜんぶ本棚なんだ」
「すごいねえ……」
図書館を構成する最小限の要素が、わずか八坪に詰まっている。
「羨ましいような、そうでもないような……」
苦笑しながら見ていると、
「ね」
うにゅほが袖を引っ張った。
「うち、なんさつくらいあるの?」
「あー、どのくらいだろ。千冊くらいはあったと思うけど」
ずっと以前に数えたことがあったような、なかったような、途中で諦めたような。
「じゃあ、数えてみるか?」
「うん」
停止ボタンを押し、立ち上がった。
「数えるのは、俺たちの部屋だけでいいだろう」
「うん」
家にある書物の九分九厘は自室にある。
両親は読書をしないし、弟の部屋には本棚がない。
祖母は小説を好むが、読み終わると売り払ってしまうので、あまり数はないはずである。
「せっかくだから、漫画とそれ以外に分けて数えていこう」
「うん」
「俺が数えるから、××は足してってくれな」
「はーい」
「じゃあ、丸椅子持ってきて」
「うん」
一時間以上に渡る、俺とうにゅほの苦闘が始まった。
「──……終わったー」
「おわった?」
「ああ、終わった」
「やったー……」
ふたり並んでソファに腰を下ろす。
「えーと、漫画は何冊だっけ」
「せんよんひゃく、ななじゅうごさつ」
約千五百冊である。
「なんか、思ったよりあったな」
「うん……」
漫画だけで千冊を超えるとは思わなかった。
「小説その他は?」
「ろっぴゃくきゅうじゅうごさつ、だね」
約七百冊である。
「こっちは思ったほどなかったなあ」
「そかな」
「だって俺、漫画と小説だいたい同じくらいの割合で──……あっ」
言いかけて、気がついた。
「どしたの?」
「当たり前だよな、ここにある漫画の半分って弟のだもん」
「あー」
計算もぴったりである。
「ああ、でも、一万冊かあ……」
天井を見上げながら、言った。
「すごいけど、大したことないな」
「そだね」
顔を見合わせて、にやりと笑った。



2013年5月8日(水)

強硬な寝癖に対する最終手段として、ヘアアイロンを購入した。
説明書を適当に読み流し、プラグをコンセントに挿入する。
「あつい?」
「まだ熱くないけど、触らないほうがいいよ」
アイロン面から熱気が漏れていることを確認したあと、おもむろに頭上まで持ち上げた。
「──…………」
かすっ、かすっ。
「どしたの?」
「……熱そうで怖いし、鏡でもよく見えない」
「わたしやる?」
「お願いします」
うにゅほにヘアアイロンを手渡して、中腰になった。
「はさむよ」
「はい」
ぱた。
髪の毛が熱されている──気がする。
「?」
鏡の向こうで、うにゅほが小首をかしげている。
「どうかした?」
「◯◯、かみみじかいから……」
「うん」
「はさむ、いがいのことが、できない」
「──…………」
それは、対寝癖用兵器として致命的ではないか?
「あ、でもぬらしたら」
「だよな!」
三人の野口英世が脳内でタンゴを踊る。
水道水で髪の毛を湿らせて、再び腰を沈めた。
「はさむよ」
「はい」
じゅっ!
「!」
水滴が蒸発する音に、うにゅほがびっくりする。
しばらくして、
「……どう?」
恐る恐る尋ねた。
「いきてる」
「寝癖が?」
「うん」
「駄目か……」
立ち上がり、うにゅほからヘアアイロンを受け取る。
「××」
「?」
「悪いけど、前髪ちょっと貸してくれる?」
「えー」
「ちょっとだけ」
「いいよ」
うにゅほの前髪をわずかに濡らし、ヘアアイロンで巻いてみた。
ふたりで鏡を覗き込む。
「……カールしたな」
「カールしたね」
「これで、結論が出た」
プラグを抜きながら、静かに呟く。
「ヘアアイロンで寝癖を直すには、俺の髪の毛は短く、かつ決定的に硬い」
「そだね……」
箱に仕舞って、箪笥に押し込んだ。



2013年5月9日(木)

「──…………」
ノンアルコールビールが、2本ある。
「のむの……?」
「ああ、飲まなければいけないんだ」
経緯を説明しよう。
俺は、アルコールに強くも弱くもない。
飲めば酔うし、飲み過ぎれば吐くこともある。
酒量に比例して具合が悪くなるとは限らず、体調への依存が強いのだろうと思っていた。
しかし、最近になってようやく気がついた。
ビールや発泡酒を飲んだ場合、アルコールの摂取量を問わず高確率で嘔吐するのだ。
それも、決まって飲み会が終わってから。
俺は考えた。
焼酎や日本酒、ワインは問題ない。
つまり、アルコールが原因ではないと考えられる。
アルコール以外で、ビールに含まれている成分とはなにか。
「そう、ホップだ」
「どう?」
「俺は、ホップアレルギーかもしれないってこと」
アレルギーのなかには、即時ではなく、数時間経過してから症状が出るものもある。
「本当はホップをまんま囓れればいいんだけど、ノンアルコールビールでも負荷試験としては十分だろ」
「だいじょぶなの……?」
「お酒じゃないから大丈夫だよ」
「うん……」
適当なことを言いながら、プルタブを引いた。
ひとくち飲む。
「……まっずい」
読者諸兄のなかにはビールを愛してやまない方もおられると思うが、俺は駄目である。
「まずいの?」
「飲んでみるか?」
「……いいの?」
「お酒じゃない、というか、ビール味のジュースだからな」
「ふうん」
うにゅほが、ノンアルコールビールをひとくちすする。
「──…………」
なにやら難しい顔をしている。
「美味しい?」
首を横に振る。
「まずい?」
首を縦に降る。
「どんな味がした?」
「……すっぱにがい」
「だよなあ」
苦味を誤魔化すため、2本とも一気に飲み干す。
うにゅほは渋い顔をしていた。
見ているだけで口のなかが苦くなってきたらしい。
それから、およそ八時間が経過した。
「──……頭いたい」
「だいじょぶ……?」
「大丈夫かそうでないかと言われたら、まあ大丈夫なんだが……」
すこし熱っぽいかんじがする。
「ビールのせい?」
「わからん……」
この程度の体調不良なら、たまたま起きたとしても不思議ではない。
「今度は、倍くらい飲んでみようかな……」
「やめなさい」
うにゅほが、真剣な瞳で俺をたしなめた。
「いやでもここで確定しておいたほうが後々のため──」
「だめです!」
ぺし。
叩かれた。
「どうして、きもちわるくなることするの……」
「えー……と」
まあ、そうだよな。
うにゅほならずとも、家族の誰かが「具合悪くなるけど今からこれ飲みます!」なんて言ったらさすがに止める。
判断材料としては十分だ。
今後の人生において、俺はビールや発泡酒を自ら口にすることはないだろう。



2013年5月10日(金)

「──あっ」
不意に立ち止まる。
「?」
数歩遅れて、うにゅほが振り返った。
「懐かしいなあ」
「なに?」
「ほら、これ」
その商品を掲げて見せた。
「ちっちゃいプリンだ」
うにゅほが目を輝かせる。
「そう、これまだ売ってたんだなあ」
小さな容器に、ひとくちサイズのプリンが詰まっている。
それが、6個入りで128円。
「子供のころ、よくバラで売ってたんだよ」
「おいしそうだね」
「駄菓子のなかでも別格の高級感だったけど、今はどうだろ」
「かわないの?」
「うーん」
「たべてみたいな」
「じゃあ、買って帰るか」
安売りしていたペプシネックス3本と一緒に購入し、帰宅した。
自室に戻り、うにゅほがビニール袋からプリンのパッケージを取り出す。
「ぷちぷりん」
「商品名、初めて聞いた気がするな」
「──……んー」
連結した容器を切り離そうとして、うにゅほが苦戦する。
「かたい」
「貸してみな」
「はい」
たしかに固いが、切り離せないほどではない。
「あれ、なんか記憶と形が違う……」
「?」
「もっと深くて、底が四角かった気がする」
「かわったのかな」
「そうかもなあ──はい」
首肯して、プチプリンをひとつ手渡した。
「じゃあ、食べてみましょう」
「うん」
ビニール製のフタをめくったところで、うにゅほが戸惑いながら言った。
「どやってたべるの?」
「あー」
なるほど、お上品である。
「俺の真似してみな」
「うん」
天井を見上げ、プチプリンの容器を逆さに持ち、潰すように押し出した。
口のなかに広がる安っぽい甘み。
たしかにプリンである。
「──…………」
口をもごもごさせていたうにゅほが、こくんと喉を鳴らした。
「おいしい!」
「美味しいとは思うけど……」
そんなに大喜びするほどの味だろうか。
常温だし。
「なんか、女の子ってひとくちサイズに弱い気がする」
「そかな」
「そんなに美味しかったなら、残りは××にあげるよ」
「えー……」
うにゅほが渋い顔をする。
「ちょうどろっこだから、みんなにあげなきゃ」
ああ、なるほど。
「じゃあ、いらないって言われたら素直にもらっときな」
「うん」
「あと、冷蔵庫で冷やしたほうが絶対いいと思う」
「そだね」
最終的に、うにゅほの手には2個のプチプリンが残された。
一日1個ずつ食べるそうである。



2013年5月11日(土)

「これあけてー」
駆け寄ってきたうにゅほの手に、プラスチック製の容器があった。
フェレロロシェというチョコレートの30粒入りパッケージである。
「開かないの?」
「ぜんぜんあかない」
うにゅほの左手に、キッチンバサミが握られていた。
「それ使っても開かないのか……」
相当な難敵らしい。
「貸してみて」
「はい」
「ハサミも」
「はい」
容器を両手で持ち、観察する。
同型で深さの違うふたつの容器が、互いにフタをするように噛み合わされ、透明なテープでぐるりと補強されているようだ。
ざっと見たかんじ、開け口はない。
「テープを切ろうと思ったのか?」
「うん……」
たしかに、容器の一部がわずかに開くようになっている。
「これ、ハサミでぴーって一周させればいいんじゃ」
「なんか、できなかった」
試してみる。
「……なんか、うまく切れないな」
「うん」
密閉度が高く、テープが薄いため、容器とフタの境界線をうまくハサミで辿れないのである。
「──…………」
トライアンドエラーを繰り返し、徐々にテープを裂いていく。
やがて、
「あーもー!」
イライラが頂点に達した。
「どうして海外製品はこう──……こうなんだ!」
「!」
「もういい、力技だ……」
濡らした布巾で指先を包み、わずかな隙間に押し込んだ。
「せーのっ!」
べぎッ!
「!」
盛大に音を立てて、プラスチック製の容器が開いた。
フェレロロシェが数個、リビングに散らばる。
「すごい……」
軽く引きながら呟くうにゅほを見て、ふと我に返った。
これは、絶対に正規の開け方ではない。
九分九厘の購入者が迷いなく利用する、あらかじめ想定された開け方があったに違いない。
というか、単純に見落としていただけで、開け口は存在したのだろう。
今となっては確認のしようがないけれど。
「……まあ、開いたからいーや」
へらへらとフェレロロシェを拾い上げる。
「◯◯、ありがとう」
「俺も食べるし、いいよ」
ふたりでなかよく、3粒ずつ食べた。
それから数時間ほどして、指先の痛みに気がついた。
見ると、わずかに切れている。
うっすらと腫れているようにも見える。
嫌な予感がしたので、傷口に向けて指先を圧迫してみた。
「──……うわっ」
傷口から、小さなプラスチック片がぬるりと顔を出した。
「どしたの?」
「いや、なんでもない」
プラスチック片を、そっとゴミ箱に捨てた。
すぐ腕力に頼るのは、よくないと思いました。



2013年5月12日(日)

母の日である──ことを、今日になって思い出した。
「母の日だよ!」
「うん」
うにゅほがあっさりと頷いた。
「覚えてたの?」
「うん」
「言えよー……」
「わすれてたの?」
「なんか、父の日とか母の日って毎年忘れる」
そもそも覚えていない、とも言う。
「覚えてたなら、××はどうするんだ?」
「わたし?」
「そう」
「かーねーしょん、あげたよ」
定番である。
「え、いつ買ったんだ?」
「さっき」
「さっきって?」
「おとうさんと、おかあさんと、かいものいったとき」
「え、一緒に買ったの?」
「うん」
そういうのって、あらかじめ買っておいてから渡すものじゃ。
いいけど。
「財布持って出かけるなんて、珍しいな」
「ううん」
うにゅほが首を振る。
「わすれたの」
「忘れたの……」
「たてかえてもらった」
「──…………」
苦笑している母親の姿が目に浮かぶ。
「……そういうときは、俺と買いに行こうな」
「そうする……」
うにゅほが、恥じ入るように笑いながら呟いた。
まったく仕方のないやつだ。
「──……じゃなくて、俺だよ俺!」
「!」
思わずオレオレ詐欺のようになってしまった。
「なに買おう、ロールケーキとかでいいかな」
「あ」
うにゅほの頭上にエクスクラメーション・マークが閃いた。
「きょうは、てまきずしなんだって」
「今!?」
脈絡はどこに置いてきたんだ。
「それで、おかあさんがね、シャンパンわすれたって」
「手巻き寿司に、シャンパン?」
「うん」
いいけど。
「だから、シャンパンがいいとおもう」
「なるほど、たしかに……」
買い忘れたものだからハズレがないし、プレゼントらしい品でもある。
「じゃあ、リカーショップにでも行ってみるかな」
「うん」
チェアから腰を上げると、うにゅほも立ち上がった。
「××も行くのか?」
「いくよ?」
「そうか」
まあ、外出するときはだいたい一緒だからな。
適当なスパークリングワインを購入し帰宅すると、母親はけっこう喜んでくれた。
喜びの意味がすこし違うような気もしたが、まあいい。



2013年5月13日(月)

「ほら、おみやげだ」
父親から手渡されたのは、ボッシュ製の距離計だった。
仕事で必要なものらしい。
「説明書読んで、使い方教えてくれ」
それは、おみやげではない。
家族に限らず、よくわからないものをとりあえず押し付けられて生きてきた。
器用貧乏にもなろうというものである。
「──これで、きょりはかれるの?」
「測れるよ」
説明書に目を通しながら、片手間で答える。
「真ん中のボタンを押すと、レーザーが出る」
「あ、でた」
「もっかいボタンを押すと、そのレーザーが当たってるところまでの距離が出る」
「いってんななにーはちめーとる」
「どこまでの距離?」
「◯◯のおなか」
「レーザーを人に当てないように」
「はい」
うにゅほが素直に頷いた。
「ね、なんで?」
「なにが?」
「なんではかれるの?」
「あー、原理までは説明書には──……いやまて、ちょっとまて」
わからない、と素直に答えるのも悔しいではないか。
たとえ正解でなくとも、それらしい仮説くらいは提示したいものだ。
「──…………」
あごに指を当て、思案する。
距離を測定するとなれば、単純なのは三角法である。
ひとつの辺とふたつの角度がわかれば対象までの距離を求めることができるから、距離計には画像を取り込むためのレンズがふたつ備わっているはず。
「ちょっと貸して」
「はい」
「──……ない、な」
同型のレンズが離れて設置されていれば決まりかと思ったが、よく考えたら下三桁まで精密に測定できる方法じゃない。
「えー、どうやってるんだ……?」
「わかんない?」
「まて、実験する」
「じっけん?」
「そう、実験」
「たのしそう」
鏡に向けた場合、結果はどうなるのか。
窓ガラスを挟んだ場合、正しく測定できるのか。
いろいろ試してみた結果、ひとつ結論が出た。
「たぶん、レーザー光の反射……だと思う」
「はんしゃ?」
「レーザー光を対象物に当てて、戻ってくるまでの時間から計算してるんだ」
「ふうん?」
わかっていない顔である。
「速さ×時間=距離、というやつだな」
「なるほど……」
あ、ちょっとだけ理解したようだ。
あとから調べてみたところ、レーザー距離計の原理はおおよそ合っていた。
小さくガッツポーズをしたことは言うまでもない。



2013年5月14日(火)

ソファに寝そべって、天井を見上げた。
「ふむ……」
なにも見えない。
目蓋を閉じているわけではない。
「どう?」
「暗い!」
「いいの?」
「アイマスクの用途としては、十分だろう」
ゴムひもとマジックテープを併用したものなので、サイズの心配もない。
「最近は、なんでも百円で揃うなあ」
「やすくていいね」
「たいていはすぐ摩耗して買い換えることになるけど、買い換えるときも百円だし」
「べんり」
アイマスクをずらし、上体を起こす。
「これで、朝方に目が覚めたとき困らないな」
「あかるいと、ねれない?」
「なんかなー。
 俺が、右腕で必死に目隠ししながら寝てるとこ、見たことないか?」
「ある」
「あれ、腕痛いんだよ」
「そっかー」
うにゅほが深く頷いた。
「わたしもしてみたいな」
「アイマスク?」
「うん」
「ちょっと待ってな、サイズ調整するから」
「うん」
うにゅほが、俺の隣に腰を下ろす。
「ほら」
「かぶればいいの?」
「ああ」
恐る恐る、アイマスクを装着する。
「わ、くらいねえ」
「──…………」
腰を上げ、うにゅほの正面に移動した。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「──…………」
なんだこの犯罪臭は。
「もういいや」
うにゅほがアイマスクを外そうとするのを、
「ちょ、まっ!」
思わず止めてしまった。
「? とっちゃだめなの?」
「駄目じゃないけど、ちょっと待って」
この状態を利用して、なにか面白いことができるのではないか。
「──…………」
しまった、思いつかない!
自分が小物であることを、こんなところで思い知るとは。
「ああ、もう……」
むにい。
「へえう」
とりあえず、うにゅほのほっぺたを優しくつまんでみた。
「?」
されるがままである。
自らの限界を察し、うにゅほのアイマスクをそっと外した。
「ほっぺた、もちもちしたかったの?」
「ああ、うん……」
どうにも煮え切らない返事をして、アイマスクを片付けた。



2013年5月15日(水)

「ん?」
部屋の隅に、白い粒のようなものがいくつか落ちていた。
捨てようと、かがんで拾い上げる。
生米だった。
「……え、なんで?」
ちょっと意味がわからない。
乾いたごはんつぶならまだしも、生米である。
「××」
「んー?」
ソファでくつろいでいたうにゅほに尋ねる。
「最後に掃除機かけたのって、いつ?」
「あとでかけるよ」
「昨日はかけてない?」
「おとといかけたよ?」
なるほど、落ちたのは最近で間違いなさそうだ。
「××って、お米研いだりするっけ」
「たまにするよ」
「昨日は?」
「してないよ」
ちなみに、俺は研がない。
「……××って、生米ぼりぼり食べるのが好きだったりしない?」
「なんのはなしなの……?」
うにゅほが、没頭していた漫画版グスコーブドリの伝記からようやく顔を上げた。
「いや、生米が落ちてたんだ」
手のひらをうにゅほに差し出す。
「ほんとだ」
「それだけだけど」
「うん」
「──…………」
「──…………」
妙な沈黙がよぎる。
「こんなとこに生米が落ちてるなんて、変じゃないか」
「まあ……」
「だから、侵入経路が気になって」
「ふうん」
心の底からどうでもよさそうである。
「おこめとぐかかりは、(弟)だよ」
「ああ、そういえば」
では、弟が落としていったのだろうか。
「……昨日、弟って部屋来たっけ」
「うーん」
「よく覚えてないなあ」
「うん」
漫画を取りに来たかもしれないが、滞在はしていない。
しかし、生米を落とすのに部屋でくつろいでいく必要はない。
「じゃあ、弟の袖口にでも引っ掛かってたのかな」
「あ」
「どうかした?」
「きのう、おかあさんがせいまいしてた」
「あー……」
つまり、生米に触れる機会があったのは、母親と弟のふたりということになる。
どちらかが落としていったと考えて差し支えないだろう。
「まあ、だからどうだって話だけど……」
見事に解決したというかんじでもないし、そもそもわりとどうでもいい。
「もういい?」
「ああ、うん」
うにゅほが視線を戻す。
俺もなんか適当に読もう。
父親が帰宅するまで、ふたり並んで読書に興じていた。



2013年5月16日(木)

「そろそろ掃除しないとなあ……」
だらしなく漫画を開きながら、話しかけるでもなく呟いた。
「してるよー?」
同じような姿勢で、うにゅほが答える。
「うん、それは本当にありがとう」
二、三日に一度、うにゅほが掃除機をかけてくれるおかげで、この部屋は清潔を保っている。
しかし、秩序は保たれていない。
「掃除というか、片付けだな……」
部屋のあちこちで、鍾乳石のように本が積み上がりはじめている。
どうも、障害物を避けて掃除機をかける癖があるらしい。
「ほんだらけだ……」
自室をぐるりと見渡して、今気づいたかのようにうにゅほが呟いた。
ゆでガエル現象である。
「最近、ちょっと買い過ぎたな」
「そだね」
新刊が溜まっていたこともあるし、欲しいシリーズを見つけてしまったこともあるし。
「すぐ終わるだろうから、ちゃっちゃと片付けるか」
「はい」
立ち上がり、伸びをする。
腰痛に悩まされることは少なくなったが、猫背のせいか背筋が張って仕方がない。
「えーと、まずジャンプを片付けて──」
作業に入った。
本が積み上がっているのは、大きく分けて二箇所である。
うにゅほの枕のそばと、ソファの背もたれの上だ。
寝て読むところと、座って読むところと、非常にわかりやすい。
「──……?」
本を片付けながら、ふと部屋の隅にひっそりと置かれたビニール袋に気がついた。
「あー……飴の備蓄か」
しばらく前に詰め替えた際、余ったものである。
「……あれ、純露がないな」
UHA味覚糖から発売されている純度の高い飴である。
一袋余っていたと思うのだが。
まあ、今はどうでもいい。
ビニール袋を元の場所へ戻し、作業を続けた。
「あー、終わった終わった」
「きれいになった」
「今度から、こまめに本棚に仕舞おうな」
「うん」
同じようなやり取りは何度もしているが、実践できたことはない。
「ついでだから、布団も綺麗にたたんでおくか」
俺は自室のソファで寝起きしている。
通常のベッドメイキングが難しいため、布団はソファの端で適当に丸めておくのが常である。
「──よっ、と」
布団を、ぐいっと掴み上げる。
「あ、なんかおちたよ」
うにゅほが拾い上げる。
「じゅんつゆ」
「純露……」
どうしてそんなところに。
そして、いつから。
疑問は尽きないが、深く考えるのはやめておいた。



2013年5月17日(金)

「──…………」
うにゅほの寝顔を確認して、リビングへ通じる扉を開けた。
食器棚からロックグラスを取り、氷をいくつか入れる。
そして、テーブルの下に腕を差し入れた。
「でっへっへ……」
父親の宝焼酎大自然(4リットル)である。
それをグラスにちょいと注ぎ、すこし炭酸を抜いたペプシネックスを流し込むと、コーラハイの完成だ。
ひとくちすする。
「うまい」
最近の楽しみである。
うにゅほには秘密だが、父親にはちゃんと了承を取っているので、あしからず。
「レモン汁買ってこようかな……」
呟きながら、テレビをつけた。
しばらく前に両親が全録レコーダーを購入したので、二週間前の番組まで遡って視聴できる。
見れるとなれば見るもので、テレビもなかなか面白い。
深夜番組を適当に再生しながら、しばらく寝酒を楽しんだ。
「──……くっ、あー」
テレビを消して伸びをすると、午前二時を過ぎていた。
すこし深酒になってしまった。
ぼんやりと天井を見上げる。
心地良いが、気だるい。
このまま眠ってしまいたかったが、さすがに歯磨きは欠かせない。
小用を済ませて自室へ戻り、うにゅほの寝顔を眺めたあと、着替えもせずに布団に入った。
「──…………」
翌朝、寝苦しさに目を覚ました。
「あー……」
熱がこもったのか、普段着が寝汗を吸ってしまっている。
どちらにせよ、着替えなければならない。
起き上がると、うにゅほと目が合った。
「おはよ」
「……あ、おはよう」
「どっかいったの?」
「どっか?」
「──…………」
うにゅほがこちらを指さした。
「パジャマじゃない」
「いや、どこも行ってないけど……」
「なんでパジャマじゃないの?」
「え、怒ってる?」
「おこってないよ」
ぶーたれている。
数秒ほど困惑したが、すぐに思い至った。
うにゅほは、俺が黙ってどこかへ出かけたと疑っているのだ。
そう言えば、深夜に外出するときは起こしてほしいと言われたことがあった気がする。※1
「いや、本当に出かけてはいないよ」
「じゃあ、なんで?」
「それは──……」
深酒が過ぎたせいだ、などと言えるはずもない。
しばし視線を彷徨わせたあと、
「筋トレしすぎて、疲れて寝ちゃったから……」
健康的すぎる言い訳しか思いつかなかった。
「そんなに?」
うにゅほが目を丸くする。
「ちょっとノっちゃって、腕立て腹筋スクワット各300回ほど」
「やりすぎだよ……」
呆れられてしまった。
そのままシャワーを浴びて、久しぶりの早起きを堪能したあと、気づいたら寝落ちしていた。
無限ループである。

※1 2013年1月21日(月)参照



2013年5月18日(土)

二重の窓を開け放つと、春めいた涼しげな風が吹き込んだ。
「なんか、春ってかんじだなー……」
「そだねー……」
五月もなかばを過ぎてなにを言っているんだという話ではあるが、冬の終わりが遅ければ春の訪れも遅いのは摂理である。
北海道はようやく桜の見頃なのだから、誰かなんと言おうと春である春なのである。
「なんかこう、どこか遠くなく近くなくのところへ出かけたいなあ……」
「どこかいくの?」
「いや、今日は行かないけど……」
「いかないの……」
「昨日父さんの手伝いで四時間近く歩いて足パンパンなんだもん」
「しかたないね」
履き慣れていない靴だったので、靴ずれ的な意味でもすこし痛い。
「××、ベランダの窓も開けてきて」
「はーい」
うにゅほの背中を見送りながら、ふとあるものが気にかかった。
ストーブである。
「ストーブどうする? もう使わないかな」
「せんしゅう、つかわなかった?」
「あー」
冷え込んだので、使った記憶がある。
「じゃあ、まだ片付けないほうがいいかな……」
ストーブがあったところで、邪魔になるということはない。
しかし、いまいち春らしくないというか、厳寒の冬が否応なしに思い出されてしまうというか。
「だいじょぶじゃないかな、とおもう」
うにゅほがふわっとしたかんじで答えた。
「はんてんあるし」
「まあ、たしかにそうだ」
意を決して、ストーブを片付けることにした。
プラグを抜き、コードを巻いて縛る。
「てつだう?」
「いや、手伝うところはないかな」
「どこにかたづけるの?」
「そこ」
部屋の隅にある、今は使わないもの置き場を指さした。
「にめーとる……」
「本格的に片付けるとなると、車庫の二階しかないんだもん」
「でも、あんましかわんない」
「寒くなったらいつでも使えて便利だろう?」
「まあ、そかな……」
丸め込まれつつあるうにゅほを尻目に、思ったより軽いストーブをバランスボールの隣に置いた。
バランスボールもこれ空気抜いちゃおうかな。
でも従兄の子供が遊びたがるし……。
こうして、今は使わないもの置き場は、着々と領土を拡大していくのであった。



2013年5月19日(日)

PC内部の掃除用にエアダスターを購入した。
「きんちょーる……では?」
「では、ない」
「むし、しなない?」
「吹っ飛ぶとは思うけど、死なない」
「じゃあ……?」
うにゅほの頭上に無数のハテナが浮かぶ。
車内で説明したはずなのだが、いまいち理解できていないらしい。
「ほら、貸して」
「はい」
エアダスターを受け取り、包装を解く。
「見たとおり、使い方はスプレーと同じだけど──」
上部のボタンに指を掛ける。
ぷしゅー!
「わ」
「出るのは空気だけ」
空気ではなく高圧のガスだと思うが、吸わなければ大差あるまい。
「むしは?」
「死なない」
「じゃあ……?」
「だから、清掃器具だってば」
実際に見せたほうが早いようだ。
「えーと──ほら、ディスプレイの上のとこ見てみな」
「あ、ほこり」
「これに、エアダスターを噴射します」
ぷしゅー!
「わ」
「ほら、ホコリが吹っ飛んだ」
「ほんとだ」
「やってみる?」
「はい」
ぷしゅー!
「おー」
「とまあ、こうやって掃除できるわけです」
「もうダスキンいらない?」
「いや、いるいる」
「なんで?」
「だって、これはホコリを別の場所に飛ばしてるだけであって、除去してるわけじゃないもの」
「えー……」
うにゅほが渋い顔をする。
「じゃあ、なんにつかうの?」
「だから、PCに使うんだってば」
車内での説明がなにひとつ残っていない。
「PCみたいな精密機器は、あんまし中身を触っちゃ駄目なんだよ」
「あっ」
「わかった?」
「さわんないで、そうじする?」
「正解」
うにゅほの頭をぐりぐり撫でる。
「他にも、目の細かいところの掃除もできる」
そう言いながら、エアダスターの噴射口をキーボードに向けた。
ぷしゅー!
「ほんとだ、すごいね!」
「だろう?」
「でも、くさいね」
「そうだな……」
工業用アルコールみたいな臭いがする。
遊びには使えないな、と思った。



2013年5月20日(月)

「あのひと、なんでつえにほんもってるの?」
前方に意識を向けながら、助手席のうにゅほの視線を辿る。
そこに、スキーのストックを両手で突きながら歩道を歩く老人の姿があった。
「あー……」
たまに見かけるような気がする。
「なんだっけ、ノルディックウォーキングだかなんだか」
「のるりっくうぉーきんぐ?」
「たしか」
「それなに?」
「両手でストックを持って歩くこと……?」
「──…………」
お中元にもらった品をお歳暮で送り返す、みたいなことをしてしまった。
「えー、そうだな……」
軽く思案を巡らせる。
「やっぱり、杖が一本のときより安定するんじゃないか?」
「そなの?」
「普通に考えてそうだろう」
「──…………」
うにゅほの両手が空中でなにやら不思議な動きをしている。
なんらかのシミュレーションが行われているらしい。
「! ……かもしれない」
結論が出たようだ。
「感覚としては、四つん這いに近いのかもな」
「よつんばい?」
「ほら、ストックで両腕を継ぎ足してるわけだから──」
「──…………」
ぼんやりと口を開けて、うにゅほが車の天井を見上げる。
イマジネーションを働かせているらしい。
「よつんばい……では、ない」
「ではなかったか……」
俺も、もしかしたら違うんじゃないかと思ってた。
「きりん」
「え、なに?」
「きりんみたいなかんじ」
「キリンって、首が長いほうの?」
「ほう?」
「首が長い動物の?」
「そう」
「キリン……キリン、か……」
言ってる意味がちょっとわからない。
「きりんは、あしもながい」
「そうだな」
「うん」
「結論として、ノルディックウォーキングは、なんかキリンみたいなかんじと」
「うん」
「そうか……」
よくわからなかったが、よくわからないままにしておくことにした。



2013年5月21日(火)

二年ほど前に痔の手術をした際、内視鏡検査で発見された大腸ポリープをついでに切除した。
どうもポリープのできやすい体質らしく、二年経ったらまた来てくださいと医者に言われていた。
「というわけで、27日に大腸内視鏡検査を受けてきます」
「はい」
「二日くらい前から、いろいろ準備があるみたい」
「どんなの?」
「えーと……」
病院で渡された書類に目を通す。
「とりあえず、食事制限がある」
「せいげん?」
「ごはんとか、魚とか、消化にいいものしか食べちゃ駄目なんだってさ」
「なんでだろうねえ」
「そりゃあ、便が残ってたら検査に支障が出るからだろう。汚い話だけど」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
あ、これわかってない。
「……大腸の検査なんだから、尻からカメラを入れるんだよ」
「!」
はっ、と表情を変える。
「だいじょぶなの……?」
「大丈夫は大丈夫だけど、でも嫌なものは嫌だけど、背に腹は代えられないし……」
複雑なのである。
「けんさ、だよね?」
「検査だよ」
「すぐおわるよね?」
「すぐ終わるよ」
「そっか……」
うにゅほが胸を撫で下ろす。
「あ、でも、ポリープが見つかったら入院って書いてるな」
「えっ!」
うにゅほが思いのほか驚いた。
「けんさなのに?」
「検査でポリープが見つかったら、内視鏡についてるハサミみたいのでそのまま切除するんだよ」
「せつじょ……」
「入院って言っても、次の日には帰れるんだから心配ないさ」
うにゅほの頭に右手を乗せて、朗らかに言った。
「──…………」
うにゅほの顔は曇ったままである。
「入院なら、弟だってしてたじゃないか」
「うん……」
「なんだ、さみしいのか」
「ちがくて……」
違うのかよ。
「よる、◯◯がずっといないの、ないから……」
「俺がいないこと?」
「うん」
「──…………」
深夜に帰ってくることはあっても、外泊したことはなかったかもしれない。
結局さみしいんじゃないか。
「あー……ポリープ、ないといいな」
「うん……」
ぽすん、とソファに腰を下ろす。
うにゅほは、不安げな様子でしばらく髪をいじっていた。



2013年5月22日(水)

「──てっ!」
熱いものに触れたときのように、思わず指を離す。
「また、せいでんき?」
「ああ……」
恐る恐るフロントドアに触れ、改めて閉める。
「静電気って、時期ものだと思ってたんだけど……」
「なんか、おおいね」
「××は?」
「──…………」
無言で首を振る。
静電気が頻発しているのは、どうやら俺だけであるらしい。
「なんとかしたいなあ」
「ねー」
「靴底が伝導体でできた靴とかないかな……」
靴底をアースとして、静電気を逃がす仕組みである。
いかにもありそうだ。
「……くつ?」
うにゅほが小首をかしげている。
「せいでんきじょきょしーとにおさわりください……」
「ガソリンスタンド?」
「せいでんきなくすのは、あのくろいやつじゃないの?」
「あれでも除去できるんだろうけど、靴底が絶縁体じゃなければそもそも必要ない」
「?」
「裸足になれば、基本的に静電気は起こらない──というか、溜まらないよ」
「──……?」
うん、わからないと思ってた。
「えー……なんと説明すればいいか」
静電気は、物体同士の電位差が原因である。
水が高きより低きに流れるように、接続された物体は電位を等しくしようとする。
その際に起こる放電が、一般的に「静電気」と呼ばれているものだ。
靴底から電気伝導を行うことができれば、地球と同じ電位となり、多くの場合静電気を防止することができる。
それでも、他の人間や、ゴムタイヤで絶縁されている自動車に触れるときは、放電が起こる可能性を消すことはできないが。
「──…………」
そこまで考えて、ふと気がついた。
電気というものを感覚的に理解していない相手に対し、言葉のみを使って短時間で説明することは、不可能ではないまでも難しいのではないか。
これは、学力や知能の問題ではなく、体感や経験の問題である。
うにゅほに限らず、理系に明るくない方であれば、言葉では理解できても実感までは得られていないだろうと思う。
「……雨降りそうだから、さっさと入るか」
「うん」
ふとしたところで言葉の限界を悟ってしまった。
もやもやとしたものを抱きつつ、図書館の玄関口へと足を向けた。



2013年5月23日(木)

「耳栓はいいんだけど、汚れやすいのが難点だなあ」
ポリウレタン製の耳栓の先が、わずかにくすんでいる。
「みみそうじしないと……」
「してるよ!」
人聞きの悪い。
「寝てるあいだずっと着けてるんだから、いくら綺麗に掃除しても、耳あかが付着するのは仕方のないことなんです!」
「そなの?」
「そうなの」
「とったとき、ふいたりは?」
「──…………」
視線を逸らす。
「してないの……」
「だって寝起きだから」
「うん」
「あと、水で拭いたりとかは駄目らしいんだよね、たしか」
「みずすうから?」
「たぶん」
「きのこのみみせんは、みずすわなそう」
きのこの山のような形状をしたシリコンゴム製の耳栓のことである。※1
「あんなの着けたら寝てられないよ……」
長時間装着していると耳が痛くなってくる上、肝心の遮音性も低いため、引き出しの肥やしと化している。
「一応、なんとかできそうなものはあるんだけど」
「なに?」
立ち上がり、本棚に置いてあった小さなボトルに手を伸ばす。
「これ、使えるかと思って」
「しょうどくよう、えたのーる?」
「すぐに揮発するから、水よりはましかなーと」
「えたのーるって、なに?」
「簡単に言えば、高濃度のアルコールかな」
「まさか……」
疑いの眼差しを向けられる。
「こんなん不味くて父さんでも飲まないよ……」
「そっかー」
うにゅほが胸を撫で下ろした。
俺はともかくとして、父親のことをなんだと思ってるのだろう。
「消毒用だから、消毒ができる」
「うん」
「ティッシュに含ませて、拭いてみよう」
「やってみたい」
「いいよ」
エタノールを含ませたティッシュと、耳栓をひとつ、それぞれうにゅほに手渡した。
「ふくよー」
そう宣言し、糸を縒るようにぐりぐりと拭き始める。
大胆な力加減である。
「……わ!」
耳栓の表面が、すぐにぼろぼろと剥がれ落ちた。
「やっちゃった」
「駄目か」
「ごめんなさい……」
「俺がやっても同じだろうし、謝らなくていいよ」
6個入り百円だし。
「やっぱ、汚さないように使うしかないのかな」
「うん」
なにもかも都合よくは行かない、ということである。

※1 2013年4月23日(火)参照



2013年5月24日(金)

「あー……」
洗面所の鏡の前で、前髪を掻き上げながら唸る。
「ほーしたの?」
頬袋にアーモンドを詰め込んだうにゅほが、こちらを振り向いた。
「白髪が増えた気がする……」
「しろくないよ?」
「見てわかるくらいなら、もう悩まない年齢だろうよ」
膝を曲げ、前髪を上げる。
「ほら」
「?」
「よく見て」
「あ、ほんとだ」
見たかんじ、数本はある。
「くろうしてるの?」
「苦労──……してるのかな……」
難題である。
「上のほうにもあるか、見てくれるか?」
「あったら、ぬく?」
「頼む」
「けぬきもってくる」
ソファの肘掛けに手を置きながら、完全に膝をつく。
「わさわさー」
髪の毛を探られる感触が、心地良い。
「あ、あった」
「そりゃ前髪だけってことないよな……」
「ぬくよー」
「ああ」
「いたいよ?」
「いいよ」
ちくっとした痛みが走る。
「いたくない?」
「痛くない」
そうして何本か抜いてもらったところで、ふと思い出したことがあった。
「ずっと前の職場で、子供たちに白髪を抜いてもらったことがあったな……」
「そなの?」
「ちょっと頼んだら、入れ替わり立ち替わり色んな子に随分抜かれてさ」
「うん」
「真剣にやってくれるもんだから、頼んだ手前もういいよとは言いづらくて」
「あはは」
「てことは、あのころから白髪あるな……」
べつに増えてなかった。
しばらくして、
「──おわり!」
うにゅほがぽんと手を合わせた。
「全部抜けた?」
「たぶん」
「じゃあ、今度は俺が枝毛を探してあげよう」
「おねがいします」
なんとなく髪をいじりあった午後だった。



2013年5月25日(土)

部屋を綺麗に整理したことで、その弊害がデスクの引き出しから溢れ出している。
「というわけで、今日は引き出しの掃除をします」
「はい」
「急ぐこともないし、ゆるゆるやろう」
「ゆるゆる」
まず、すべての引き出しをソファに並べる。
見られては困る品はあらかじめ移動させておいたので、その点は心配いらない。
「なにすればいいの?」
「とにかく中身がぐちゃぐちゃだから、種類別に分けよう。
 文房具は文房具、診察券は診察券ってかんじで」
「うん」
十五分後、
「……一生分のシャー芯が出てきたな」
「すごいね……」
「定規が五本にハサミが四本、爪切りが何故か三本あって、ついでに新品か使い古しかわからん電池がたくさん、と」
恐らく、使う機会が訪れるたびに、探すより買ったほうが早いという判断を下し続けてきたのだろう。
百均の功罪である。
「これ、にまいあったよ」
うにゅほが、黄色と青の原色が特徴的なードを差し出した。
「Tポイントカード?」
たしか、期限が切れていたような。
「……え、二枚?」
裏返してみる。
去年の7月に有効期限が切れたカードと、2006年に切れたカードだった。
「いくらなんでも捨てろよ俺……」
めまいがしてきた。
「あと、めもちょう」
「これも一生分あるな……」
一冊二百枚として、千枚以上もなにをメモすればいいのだろう。
「あと──」
しばらく戦果の確認が続いた。
昔の手紙やプリクラなどについて一悶着あったが、冗長になるので省く。
「──やあっ……と、終わったー!」
「おつかれです」
「こちらこそお疲れ様です」
「つかれた?」
「なんか、久しぶりに腰が痛いよ……」
「だいじょぶ?」
「大丈夫」
立ち上がり、大きく伸びをする。
「××は疲れてない?」
「うん、たのしかった」
「楽しかったかあ?」
「むかしのたくさんあったから」
うにゅほが笑顔でそう言った。
しばらく休憩して、夕食を食べた。
内視鏡検査を控えた食事制限のため、俺だけ冷凍の素そばだった。
腹の虫をなだめすかしながら、今日は筆を置くこととする。



2013年5月26日(日)

今日は母親の誕生日だった。
うにゅほと折半して、そこそこする本革のハンドバッグを贈ると、けっこう喜んでくれた。
「よる、やきにくだって」
「焼肉かー」
久しぶりである。
弟の誕生日以来ではないだろうか。
「どこの焼肉屋?」
「……なんとかえん?」
わからないことがわかった。
「行ったことあるとこ?」
「たぶん、ないとこ」
「ふうん」
焼肉である。
当たりは数あれど、ハズレはむしろ珍しいだろう。
「ね、◯◯」
うにゅほが俺の袖を引いた。
「だいじょぶなの?」
「なにが?」
「あの……おしりのやつ」
そう言いながら、うにゅほが自分のおしりを押さえた。
「内視鏡? それは明日だし──……」
思考がしばし停止する。
「食事制限だ……」
「うん」
大腸内視鏡検査前々日からの食事制限を忘れていたわけではない。
今朝の食事だって卵がゆにした。
しかし、母親の誕生日と食事制限とが脳内で結びついていなかったらしい。
「……俺のぶんまで食べてきてくれ」
「わたしも」
「いいからみんなで行ってきなさい、後生だから」
ここで残られても、逆に心苦しい。
後ろ髪を引かれるようにして、うにゅほは家族と出かけていった。
俺の夕食は、冷凍の素うどんだった。
「ただいまー」
「おかえり」
「はい!」
意気揚々と帰宅したうにゅほが、ハングルの書かれた板ガムを差し出した。
「あ、懐かしいな」
焼肉屋のレジに無料で置いてある、マッハで味のなくなるガムである。
「ガムならいいよね」
「ああ、ありがとう」
気持ちだけ嬉しい。
「それより、髪の毛からぷんぷん漂う焼肉の香りを嗅がせるのだー」
「はい」
うにゅほがこちらに背中を向ける。
素直である。
うにゅほの髪の毛を思う存分嗅いだ結果、腹が減った。
豚バラの一切れでいいから食べたい。



2013年5月27日(月)
2013年5月28日(火)

大腸内視鏡検査でポリープが発見された。
ポリープと言うと聞こえは悪いが、実際には検査のついでに切除してしまったくらいのものである。
サイズも小さく、医師からも良性だろうと聞かされた。
「ああ……」
そっと嘆息する。
ポリープの切除は、検査ではなく手術である。
術後の経過観察のため、一泊二日の入院が確定したということだ。
そのことを電話でうにゅほに告げると、
「そう……」
溜め息混じりというか、もはや溜め息がなんとか言葉を成しているような声が返ってきた。
「いや、明日帰るから……」
「うん……」
このままでは埒が明かないので、弟に代わってもらい、着替えや薬などを持ってくるよう頼んだ。
あてがわれた病室でごろごろしていると、弟を付き従えたうにゅほがやってきた。
「◯◯、だいじょぶ?」
「あえて言うなら大丈夫じゃないくらい暇だった」
「もうだいじょぶ?」
「ああ、大丈夫」
持ってきてもらった荷物を確認すると、歯ブラシがなかった。
「あー、じゃあコンビニで買ってくるわ」
そう言い残し、弟が病室を出て行った。
うにゅほと談笑していると、iPhoneが震えた。
弟からのメールだった。
『××面会時間の終わりまでいたいって言ってるけど、ちょっといないくらい慣れとかないとまずくない?』
たしかにそうである。
同意のメールを送ると、すぐに返信があった。
『じゃあ、一時間くらい話したら帰るわ』
返信はせず、iPhoneを仕舞う。
「だれ?」
「友達」
うにゅほは俺に依存している。
それはわかる。
しかし、兄の勘は言う。
弟は、面会時間の終わりまで病室にいるのも、一度帰ってから迎えに来るのも面倒だったに違いない。
たかが一泊の入院だ、そりゃそうである。
しばらくして、名残惜しそうなうにゅほを引き連れ、弟は帰っていった。
テレビを見たり、本を読んだり、iPhoneをいじったり、とにかくぷちぷち暇を潰すうち、やっと消灯時間になった。
病院の硬いベッドで悶々と一夜を過ごし、弟の運転で帰路についた。
うにゅほは一緒ではなかった。
「××は?」
「うとうとしてたから、置いてきた」
「眠れなかったのかな」
「さあー」
「昨夜はどんなかんじだった?」
「なんか、家中すごい掃除してた……」
落ち着かなかったのだろうか。
帰宅すると、うにゅほが自室のソファでいぎたなく眠っていたので、貼り付いた前髪を指先で払った。
「ぁふ……」
あくびを噛み殺す。
明らかに寝不足だ。
うにゅほの寝床で横になると、いつの間にか二時間ほど経っていた。
「おかえり」
枕元にうにゅほがいた。
「ただいま」
体を起こす。
「なんか、腹減ったなあ」
昨日から、クソ不味くて食べた気がしないくせに異常に腹に溜まる流動食しか口にしていないのだ。
「なにかつくる?」
「おかゆでいいよ。まだ、消化にいいものしか食べちゃいけないらしいから」
「はーい」
小走りで台所へ向かううにゅほの背中に声を掛ける。
「卵落として、ニラ入れて、塩気は多めでお願いします!」
「りょーかー」
うにゅほ謹製の卵がゆは、たいへん美味しかった。
成長したなあ。



2013年5月29日(水)

プリン専門店を見かけたので、買ってみた。
ワンカップ大関くらいの大きさのビンに、ねっとりとした濃厚なプリンが詰まっている。
「おいしい」
目を丸くしながら、うにゅほがそう呟いた。
たしかに美味しい。
高級感とかはよくわからないが、すくなくともコンビニのプリンと違うことは間違いない。
「でも、四百円か……」
かと言って、値段相応かと問われれば、閉口するほかない。
「おいしいよ?」
「ああ、美味しい。美味しいとも」
これがいただきものであれば、素直に味わうこともできただろう。
でも、これひとつで四百円なのだ。
家族全員分で、合計二千四百円なのだ。
一般的なアルバイトが三時間働いて、給料がプリン6個だったらどうだろう。
論点がずれていることは承知の上だが、スプーンを口へ運ぶたびに百円玉四枚が脳裏をかすめていくのである。
「貧乏人はプッチンプリンでも食っとけということなんだろうか……」
「プッチンプリンおいしいよ」
「そうだな、美味しいな」
「ぎゅうにゅうプリンもおいしい」
「ちっちゃいプリンは?」
「たべたいな」
「今度見かけたらまた買おうな」
「うん」
値段なんて気にせず味わうのが、最も賢い食べ方には違いない。
「××」
「?」
「あー」
うにゅほに顔を向けて、大きく口を開ける。
「あーん」
プリンをたっぷり乗せたスプーンが、口のなかに差し入れられた。
ねばりけのある独特の食感が、舌の温度でじっとりと溶けていく。
「……美味い」
さっきまでよりは、美味しく感じられた。
たまには贅沢もいいだろう。



2013年5月30日(木)

菜園に除草剤を撒くよう、祖母に頼まれた。
ホームセンターで買ってきた除草剤は顆粒状タイプで、濡れた地面に撒くとその効力を最大限に発揮するらしい。
「というわけで、プランBだ」
「はい」
プランAは存在しないが。
「ひとりが如雨露で水を撒いて、もうひとりがそこに除草剤を振りかけていくことにしよう」
「おー」
「どっちやりたい?」
「じょそうざい」
役割分担が決まったので、さっそく作業に入った。
菜園の奥は日陰になっているため、雑草のみならずコケまで生えている。
水を撒く必要性に疑問を感じながら、まんべんなく湿らせていく。
「……××」
「?」
「そんな、地面が見えなくなるくらい撒かなくてもいいんだ」
「そなの?」
「だって、庭の面積に対して除草剤が明らかに足りないだろ」
「あー」
うにゅほが、除草剤の容器を耳元で軽く振る。
「はんぶんくらいになっちゃった……」
「なっちゃったか」
なっちゃったものは仕方ない。
「ごはんに対するふりかけくらいのかんじで撒くのだ」
「けっこうおおい?」
基準が俺だと、多いかもしれない。
「じゃあ、いなり寿司のなかの胡麻くらいで……」
「わかった」
十分ほどで作業は終わった。
大して疲れたわけでもないが、とにかく日差しがきつかった。
五月上旬には雪すらちらついていたというのに、春をすっ飛ばしていきなり夏である。
日陰の縁石に腰を預け、しばし休憩することにした。
「じょそうざい、きくかなあ」
「効くんじゃない?」
「なんでみずまくの?」
「顆粒が溶けて、地面に浸透するんだと思う」
「あ、ありだ」
「なんか久しぶりに見たな」
「ざー」
「除草剤かけるなよ……」
うにゅほは、小さな虫に対し妙に厳しい一面がある。
大きい虫には弱い。
「網戸に虫こなくなるやつ、買ってこないとなー」
「きくの?」
「よくわからん」
「えー」
「でも、使わないで蜘蛛なり蛾なりが入ってきたとき、絶対に後悔すると思う」
「あー……」
後ろ向きで後ろに歩いた結果、前のほうへ進んでいる。
「キンチョールとハエ叩きを部屋の各所に設置しておかないとな……」
「そだね……」
夏は等しく訪れる。
虫にも、虫嫌いにも。



2013年5月31日(金)

「だいじょぶ……?」
「──…………」
無言で首を横に振る。
「まど、あけるね」
ガラスサッシの開く小気味良い音と共に、生ぬるい風が頬を撫でた。
「だるい……」
とにかく倦怠感がひどかった。
普段はまず感じない頭痛もする。
暑くて仕方がないくせに、布団を剥ぐと寒くなる。
「かぜ?」
「風邪、なのかなあ……」
熱はない。
寒気もしない。
吐き気も特にない。
言葉では言い表せないが、初めて感じる具合の悪さだった。
「おかゆ、つくる?」
「いい……」
食欲もない。
「──……とにかく、寝る」
「うん、おやすみ……」
後ろ髪を引かれるような素振りで、うにゅほが自室の扉を閉めた。
二時間ほどで目を覚ますと、すこしだけ復調していた。
「だいじょぶ?」
「さっきよりは……」
「ごはん、たべる?」
「いや、なんか食欲ない──」
自分の言葉に、ふと閃くものがあった。
「××、携帯貸して」
「はい」
うにゅほからiPhoneを受け取り、ブラウザを起動する。
「ゲームするの?」
「いや、ちょっと調べもの」
ある病名で検索すると、当てはまる症状がいくつも出てきた。

・全身の疲労感
・体がだるい
・無気力になる
・めまい
・食欲不振
・下痢
etc...

それだけではない。
なにより、原因に心当たりがあった。
「夏バテだ……」
「──……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なつ……?」
「いや、俺も五月に夏バテはおかしいと思うけど」
日当たりの良いベランダに設置された温度計が、32℃を示している。
明確な原因と症状があるのだから、夏バテなのだろう。
「これがそうなのか……」
思えば夏バテとは縁遠い人生だった。
「ほんとになつばて?」
「たぶん……」
経験がない以上、断言は難しい。
日没を迎え、涼しくなるにつれ、体調は戻っていった。
「××も気をつけろよ」
「どうすればいいの?」
「──…………」
即答できないのであった。


← previous
← back to top


inserted by FC2 system