>> 2013年3月




2013年3月1日(金)

「◯◯!」
声高に俺の名を呼びながら、うにゅほが自室に駆け込んできた。
「へんなジュースもらった!」
「誰から?」
「となりのおばさん」
なるほど、いかにもである。
「変な──って、どんなふうに変なんだ」
「はい」
200ml缶を手渡される。
勇ましい青森ねぶたの写真が、スチール缶の表面にでかでかとプリントされていた。
「……変なジュースだ」
「でしょ」
得意げである。
「というか、なんのジュースなんだよ……」
スチール缶を眼前に掲げ、記された文字をあらためる。
「──シャイニーアップル? ああ、だから青森なのか」
ねぶた以外に主張すべきものがあると思うが。
「これ、一本しかないの?」
「うん」
「あー……」
まあ、いいか。
ぱきゅ!
という音を立てて、飲みくちが開く。
「お先にどうぞ」
スチール缶を手渡す。
毒見ではない、レディファーストである。
恐る恐る缶を傾けたうにゅほが、
「あ、おいしい」
と呟いた。
「美味しいのか」
意外である。
「はい、ひとくちどうぞ」
缶を受け取り、中身を啜る。
美味い。
すこし、懐かしい味がする。
なんの味だったろう。
「──……風邪の味だ」
「かぜ?」
「ああ、いや、すりおろしリンゴの味がするなあって」
子供のころ、風邪を引いたときに、よく母親が作ってくれたものだ。
そんな昔語りをつれづれなるままにしていると、
「──…………」
うにゅほが、静かに笑みを浮かべていることに気がついた。
ショーウィンドウを眺める少年のような瞳だった。
「……××が風邪を引いたら、いくらでも作ってあげよう」
うにゅほにそんな顔をさせたくなかった。
「ほんとう?」
「一個がいいか、十個がいいか」
「いっこがいいな」
「一個でいいか」
スチール缶を、うにゅほに返す。
「でも、わざと風邪を引くのは駄目だからな」
「しないよー」
缶を両手で包み込みながら、うにゅほは苦笑してみせた。
回し飲みしながら談笑をするうちに、ジュースはいつの間にかなくなっていた。



2013年3月2日(土)

用事があって、すこし離れたショッピングモールを訪れた。
土曜日ということもあり、そこそこの人出があった。
うにゅほは人混みが苦手である。
しかし、この一年半で、多少なりとも耐性がついてきているようだった。
「あ、ほうせきだ」
はぐれないように手を繋いで歩いていると、うにゅほがある店舗を指さした。
「宝石……──」
ジュエリーショップというより、もうすこしラフな店に見えた。
天然石、パワーストーンといった単語が、店内のPOPに垣間見える。
「ちょっと見ていくか?」
「うん」
店内に足を踏み入れる。
「わあ……」
うにゅほが感嘆の声を上げた。
「きれいだねえ」
「石だけ売ってるのかと思ったら、加工してアクセサリーにもしてるんだな」
宝石として名を知られている鉱物が、意外な安値で販売されている。
たぶん、純度とかの問題なのだろう。
「あ──……」
うにゅほが立ち止まる。
視線の先には、「誕生石」の文字があった。
「──……ね、◯◯」
「うん?」
「たんじょうびプレゼント、ここでかっていい?」
「……誰の?」
「◯◯の」
しばし思案し、
「──……あっ」
うにゅほからの誕生日プレゼントを、チケットという形で保留していたことを思い出した。※1
「わすれてた?」
「思い出した」
「わすれてたね……」
ジト目で俺を見上げる。
たいへん申し訳ない。
「ここでかっていい?」
「××が選んでくれるなら、それでいいよ」
失念していた以上、拒否権もないし。
「じゃあ、そとでまってて!」
うにゅほに背中を押されるまま、店舗の外に足を向ける。
「──ああ、そうだ!」
慌てて振り返り、うにゅほに告げる。
「ピンクのハートみたいのは、頼むからやめてくれよ」
「あ、うん……」
どうして残念そうなんだ。
事前に気がついてよかったとか、そういうことなのか。
店舗近くの円柱に背中を預けていると、十分ほどでうにゅほが戻ってきた。
「♪」
ホクホク顔である。
「◯◯、誕生日おめでとう!」
差し出された紙袋を、しっかりと受け取る。
「ありがとう」
「あけてみて!」
「ここで……いいのか?」
通路際だけど。
「うん」
「じゃあ、せっかくだから」
紙袋を開く。
俺は1月生まれだから、ガーネットのなにかだろうか。
いやでもガーネットはいささか高くないか。
益体もないことを思い浮かべながら、中身を取り出した。
「えーと、水晶……の、ペンダントヘッド?」
原石そのままというかんじの無骨な水晶が、虹色に薄くきらめいている。
「普通の水晶じゃない?」
「オーロラオーラっていうんだって」
「へえー」
「えと、よくないエネルギーをなくして……きれいなエネルギーに、いれかえてくれるんだっけ?」
「聞かれても」
そういうパワーストーン的なことは興味ないし。
「とにかく、なんか綺麗だし、気に入りました。本当にありがとうな」
うにゅほの頭を撫でる。
「これ、くれたから、おなじのがいいなって……」
うにゅほの胸元を飾る琥珀に、指先がそっと触れる。
俺が、誕生日にプレゼントしたものだ。
帰宅したあと、さっそく着けてみた。
うにゅほが拍手をしてくれたので、すこし照れながら一礼した。

※1 2013年1月13日(日)参照



2013年3月3日(日)

のべつまくなしにパソコンチェアを動かすものだから、デスクの下のフローリングが剥がれてしまった。
どうしようかなーと数ヶ月ばかりのほほんと考えていたところ、クッションフロアを敷くことを思いついた。
フローリングはもう、ボロボロである。
手遅れ感は否めないが、やらないわけにもいかない。
切り売りのクッションフロアをホームセンターで買ってきて、早速でもないが敷くことにした。
「まず、引き出しを外そう」
「ひきだし?」
パソコンデスクとして使っている机は、小学校のときから愛用している勉強机である。
むろん、引き出しがいくつもある。
「これを外しておかないと、重いからな……」
「とれるの?」
「ああ、ちょっと上向きに引っ張ってやれば──」
ふと思った。
見られてまずいものはないか?
「──……あの、ちょっと向こう見ててくれるか」
「?」
「えー……察してくれ」
「うん?」
ピンと来ていない表情で、うにゅほが回れ右をする。
「──…………」
引き出しを開き、中身をあらためる。
よし、大丈夫。
表面上は大丈夫。
「ああ、もういいよ。それじゃ引き出しを抜いてしまおう」
「はーい」
粛々と準備を推し進め、最後にチェアを運び出した。
デスクを動かすには動線が狭すぎるので、俺と父親が持ち上げているあいだにうにゅほが敷くこととなった。
そこまでは、なんの問題もなかった。
「──…………」
「うわー」
作業の大半が終わったあと、残されたものがあった。
邪魔だからと抜かれて隅に寄せられた、パソコン及び周辺機器のケーブル類である。
機械系ラスボスに繋がる得体の知れないコードくらいこんがらがっている。
くらりと意識が遠のいた。
数日前にも書いたとおり、俺は知恵の輪が苦手である。
ぐちゃぐちゃに絡まったものをちまちまと解いていく作業は、拷問に限りなく近いとさえ思う。
「あの」
そんな辟易とした雰囲気を感じ取ったのか、おずおずとうにゅほが言った。
「わたし、やる」
「えー……──、と」
正直なところ、かなりありがたい。
うにゅほはこういうことが得意だし、適材適所と言えば言える。
だが、いいのか?
情けないとは思わないのか?
「……悪いけど、頼むよ」
情けないけど、べつにいい。
「うん!」
うにゅほが、意気揚々と作業に取り掛かる。
いくらうにゅほでも、数分で解けるということはあるまい。
それくらい複雑怪奇に絡まり合っている
しかし、ただ待っているのも芸がない。
手伝おうかとも思ったが、こういうものは手が増えるごとに作業時間が倍になると相場が決まっている。
「──……あ、そうだ」
「どうしたの?」
「ああ、いや、ちょっとコンビニ行ってくるよ」
ふと思い出した。
今日はひな祭りである。
コンビニで、ぎゅうひで包んだひな祭り用のケーキを買ってきて、一仕事終えたうにゅほと一緒に食べた。
そこそこ美味しかった。



2013年3月4日(月)

「うー……──む」
ディスプレイを睨みつけながらマウス片手に唸っていると、うにゅほが傍に寄ってきた。
「どうしたの?」
うにゅほがディスプレイを覗き込む。
「……バッジ?」
「ああ、ピンズ──ピンバッジだな」
画面には、楽天ショップの検索結果がずらりと並んでいる。
「なににつけるの?」
「こないだ、バッグ買ったろ?」
「うん」
「あれ、本革で質はいいけど、黒一色で味気ないと思ってさ」
「あー」
「だから、ピンバッジでも付けようかなって」
「いいねー」
うにゅほが柔和な笑みを浮かべる。
本革に穴を開けるのはいささかもったいないが、背に腹は変えられない。
「それで、まあ、どれにしようかなーと」
「どれがいいの?」
「それを迷ってるんだけど……まあ、パッと見てカッコいいのは軍隊の紋章だよな」
アメリカ海軍海兵隊の紋章を象ったピンバッジを表示する。
「おー、かっこいいねえ」
「でも、すこしありきたりかと思って、他にも探してみた」
ブラウザのタブを移動する。
「くろい、さいころ?」
「俺、サイコロ好きだからね。作りは安っぽいけど……」
「かわいいね」
「可愛いかどうか知らないけど、他にこんなのもあったよ」
タブを更に移動する。
「あ!」
「な?」
「ニャンコせんせいだ!」
真鍮製のシックなデザインで、かつチャーミングである。
「これにしよう!」
「それにしようと思ったんだけど……」
「おたかいの?」
「300円」
「おやすい!」
「お安いんだけど、送料がさあ」
「おいくら?」
「1200円」
「──…………」
うにゅほのテンションが目に見えて下がる。
「どうしてそんなことに……」
「15000円未満は、一律で1200円なんだってさ」
北海道と沖縄以外は800円だけど。
「10000円くらいのものを買って1200円ならまあいいかって感じだけど、さすがに抵抗がある」
「そだね……」
「だから、どうしようかなって」
「うーん……」
うにゅほが、腕を組み、天井を仰ぐ。
「あれ、さいころのやつは?」
「サイコロのやつ?
「そうりょう」
「あれは、メール便っていう安いやつで、200円くらいで送れるんだってさ」
「おやすい……」
しばらくふたりで頭を悩ませた結果、サイコロのピンバッジを注文することにした。
注文確定後もなんとなく検索を続けていると、さきほどのニャンコ先生のピンバッジが、カプセルトイの景品であることが判明した。
「──…………」
そして、全9種一揃い送料無料で1780円なる商品を見つけてしまった。
これは、また、これは。
「よし!」
見なかったことにして、タブを閉じた。



2013年3月5日(火)

「忘れ物はな──……い、か、な」
カバンの中身を点検する。
友人と食事をするため、すすきのまで外出する予定なのだ。
「おみやげはプリンでいいか?」
「うん」
うにゅほは家でおるすばんである。
「さて、と」
忘れ物チェックを終え、あとは身支度を残すばかりとなった。
寝癖を撫で付け、ペンダントを装着し、ヒゲの程度をたしかめる。
「ああ、そうだ。コンタクトしていこう」
「コンタクト?」
「いつだったか、一緒に買いに行ったろう」
ほとんど着けていないので、覚えていなくとも不思議ではない。
「こんな機会でもないと、絶対に使わないからな……」
一日で使い捨てるタイプにして、本当によかった。
右目用のコンタクトレンズを装着するため、洗面台に身を乗り出していると、
「──…………」
鏡越しに、うにゅほが顔を逸らしていることに気がついた。
「あ」
うにゅほに気を取られ、コンタクトレンズを排水口に落としてしまった。
「あー……」
もったいない。
ああ、そうだ、思い出した。
うにゅほは、コンタクトレンズを着けるところを見るのが大の苦手なのだ。
左手でまぶたをこじ開け、右手の指先で眼球を突こうとしているさまが、とてもじゃないけど見ていられないらしい。
わざわざ傍にいなくてもいいじゃないかとは思うけれど、それはそれ。
「××、悪いけど右目用のコンタクトレンズ取ってくれないか?」
「みぎ?」
「箱に、マジックで右って書いてあるやつ」
「わかったー」
うにゅほが回れ右をして、ソファの上に無造作に置かれていたコンタクトレンズの箱を手に取った。
「?」
ふたつの箱を見比べている。
「……どっちがみぎ?」
「ロゴのところに書いてない?」
すこし字が小さかったかもしれない。
「あけていい?」
答えを待たず、うにゅほがコンタクトレンズの箱を開いた。
「あれ?」
埒が明かないので、眼鏡を掛け直してソファに歩み寄る。
「どうかしたか?」
「これ、かずがちがうよ」
差し出されたふたつの箱を見比べる。
「……本当だ、こっちだけ微妙に少ない」
「でしょ」
「あ、でも、今さっき右側のコンタクトレンズを落としたから──」
箱の表面をたしかめる。
「──……少ない方が、右だな」
「みぎ、またへったね」
「もしかして俺は右のコンタクトレンズを入れるのが下手なのか?」
「そうなのかなあ」
なんだそのピンポイントな不得手。
右目用のコンタクトレンズを着け直し、左目に取り掛かった。
一発で入った。



2013年3月6日(水)

テレビを視界に収めながらぼんやり食事をしていると、急にくしゃみが込み上げてきた。
しかし、その衝動を解き放つわけにはいかなかった。
俺の口内で、咀嚼されたごはんが、今や遅しと嚥下されるのを待っていたからだ。
毒霧を噴く瞬間など、隣席のうにゅほに見せたくはない。
あと、掃除したくない。
「フー……」
瞳孔が揺れる。
然して、その瞬間は訪れた。
「──……ふぼふ!」
「!」
成功した。
打ち勝った。
唾液によって糖に分解されつつあるごはんつぶの一粒たりとも、外に漏らすことはなかった。
「せき?」
うにゅほが心配そうに問い掛ける。
くしゃみって、極限まで抑え込むとなんか咳っぽくなるよな。
しかし、返答する余裕はない。
次弾が装填されないうちに、口の内容物を飲み込んでしまわなくては。
咄嗟にそう思い至り、事を急いたのが悪かった。
「──ッ!」
ごはんつぶが気管に入ったのである。
「ごふ! ほふッ! ぶふお!」
両手で口元を押さえ、必死に外界と遮断する。
「だいじょぶ? だいじょぶ!?」
上げた両手を持て余しながらハラハラと取り乱すうにゅほの姿が視界の端をよぎる。
心配いらないと片手を上げたまま、一分ばかり咳き込み続けた。
「はー……──」
ほうじ茶をすすり、人心地ついた。
「……だいじょぶ?」
そわそわした様子でうにゅほが尋ねた。
「ああ、大丈夫。ごはんつぶが気管に入っただけだから」
「きかん?」
「食べたものは胃に入るけど、吸った空気は肺に行くだろ。その、肺に通じるほうの道だよ」
「ふうん……」
これは、ピンと来ていない顔だ。
「今の俺みたいに、ごはん食べてていきなり咳き込んだことってないか?」
「うー……ん?」
「ないのか」
「わかんない」
「そのままの君でいられたらいいな」
あきらめた。
「みず、たくさんのんで、むせたことあるけど……」
「それだ!」
「え、これ?」
「水が気管に入ったってことだから、同じ同じ」
たぶん。
「そっかー……」
うにゅほが遠い目をする。
そりゃ苦しいはずだ、と言わんばかりの顔である。
「人間の体って、あんまりうまいことできてないみたいだ」
「うん……」
ふたり並んで物憂げな昼下がりだった。



2013年3月7日(木)

昨日の深夜に発熱し、下痢と嘔吐を繰り返した。
開院時刻を待ってかかりつけの内科へ行くと、胃腸炎とのことだった。
俺ではない、母親の話である。
「おかあさん、だいじょぶ……?」
帰宅すると、玄関でうにゅほが待っていた。
「大丈夫……」
母親が、息も絶え絶えに答える。
見るからにつらそうだが、さほど重度というわけでもないらしい。
病気慣れしていないからかもしれない。
「食べられるなら、おかゆ作るけど」
「今はいい……」
「はきけ、だいじょぶ?」
「大丈夫……」
「おなか、いたくない?」
「大丈夫……」
うにゅほの心配攻めに遭いながらも、母親はなんとか寝室へと戻っていった。
「……おかゆ、作っておくか」
無駄にはなるまい。
台所で玉子粥を作っていると、うにゅほが両親の寝室ヘ行くのが見えた。
数分ほどで出てきたうにゅほに問い掛ける。
「どうかした?」
「はらまき、もってった」
「もうしてるんじゃないか?」
「もうしてた」
腹が痛いのだから、それくらい自分でするだろう。
「でも、ふたつのほうがいいよね」
「それは……」
締め付けられて、苦しいのではないか。
「ね、◯◯」
「ん?」
「だいどころ、つかっていい?」
「いいけど……」
もの問いたげな俺の様子を察したか、うにゅほが口を開く。
「おゆ、わかすの」
「どうして?」
「ゆたんぽにいれる」
「あー……」
とにかく温めていく方針か。
出来上がった玉子粥の味見をして、うにゅほと入れ替わるように台所を後にした。
寝室の扉を叩き、半身を滑り込ませる。
「おかゆ、一応作っておいたから」
「ありがとう……」
「余ったら俺が食べるし」
「◯◯……」
母親が、俺の名を呼ぶ。
「寝たい……」
切実な願いである。
そういえば、俺が風邪で寝込んだときも、同じことを思っていた気がする。
「わかった、こっちはなんとかする」
「ありがとう……」
「おやすみ」
「おやすみ……」
大きな音を立てないよう、静かに扉を閉じた。
その足で、台所へ向かう。
「××」
「うん?」
「母さん、熱いから湯たんぽいらないってさ」
「そう?」
「熱があるから、あったかくし過ぎるのも体に悪いんだよ」
「そう……」
「あと、ようやく眠くなってきたから、すこし寝るって」
「わかった……」
うにゅほが肩を落とす。
してあげられることがないと、落ち着かないのだろう。
「──…………」
ぽん、と。
万感を込めて、うにゅほの頭に手のひらを置いた。



2013年3月8日(金)

精米機なるものが台所で唸りを上げていた。
なんでも、玄米から糠を取り除いて白米にするための機械であるらしい。
よくわからないが、玄米のほうが安く買えるのだろう、たぶん。
あまり興味も湧かなかったので、ひとしきりしげしげと眺めたあと自室へ戻った。
「◯◯! ◯◯!」
しばらくして、うにゅほが自室の扉を開けた。
「どした?」
「これ!」
楽しげな笑みを浮かべ、手のひらを差し出す。
見るからにしっとりとしていそうな茶色の粉末が、そこに盛られていた。
「なにこれ」
「なんでしょう」
極限まで目を細かくしたおがくずに見えるが、たぶん違う。
あれこれ考えて、結論が出た。
「──……降参」
ささやかに両手を上げた。
「それで、なんなんだ?」
得意そうに胸を張り、うにゅほが答える。
「ぬか!」
「あー……」
精米機の存在すら忘れていた。
「これ、糠か」
もっと、どろっとした感じのものかと思っていた。
たぶん糠味噌と混同している。
「なめてみて!」
「え?」
「なめてみて!」
「舐めるの……?」
舐めて大丈夫なものなのか?
ああ、いや、大丈夫に決まっているじゃないか。
玄米だってそのまま食べられるものな。
未知の物質を前に動揺を隠せない。
「あー……と、じゃあ」
舐めようとして、固まった。
「……どうやって舐めれば?」
「ぺろっ、て」
「いいのか」
「なにが?」
いいならいいけど。
軽く舌を伸ばし、うにゅほの手のひらを舐める。
「ひゃ」
くすぐったそうな声には構わないことにして、舌先に意識を集中する。
なんだ、これ。
想像していたような臭みはない。
初めて味わうはずなのに、不思議と懐かしい。
「──……きなこ?」
食感といい、味といい、きなこにそっくりだった。
「そう!」
「糠って、きなこみたいな味がするのか」
「おいしいね!」
砂糖を混ぜたら、もっと美味しくなるだろうか。
試してみようとリビングへ連れ立つと、多量の糠はゴミ箱に捨てられた後だった。
「あー……」
うにゅほが哀しげに肩を落とす。
「まあ、ほら、いくらでも機会はあるから」
「うう」
適当に慰めながら、自室へ戻った。



2013年3月9日(土)

靴紐を結ぶため腰を落とすと、
──ビリッ!
玄関に嫌な音が響き渡った。
「◯◯、ひざ!」
見なくともわかる。
俺の穿いているジーンズの膝が、盛大に破れていた。
「やっちゃったぜ……」
膝頭が薄くなりつつあったことには気がついていたが、ここまで派手に散るとは思っていなかった。
「だ、だめーじじーんず……」
「ダメージジーンズって、意図的にダメージ加工を施したジーンズのことだと思うんだよな」
「これは?」
「穴の空いたジーンズ」
うにゅほが肩を落とす。
「……でも、捨てるのはちょっともったいないよなあ」
「このままはくの?」
「それは、ちょっとみっともないかな」
「さいふにするの?」
「さい──えっ?」
財布にするってなんだ。
「そんなさいふのひと、みた」
「あー……デニム生地の財布なら、まあ、たまに見る、かな?」
よくは知らないが、存在はするだろう。
「そうじゃなくて、前からやってみたかったことがあってさ」
「?」
「まあ、とりあえず出ようか」
うにゅほの背中を押し、玄関をくぐった。
手早く用事を済ませたあと、帰り際に百均で必要な道具を買い揃え、帰宅した。
「それでは、もう一度手順を説明します」
「はい」
「まず、生地を破るように穴を広げます」
「はい」
「次に、さっき買ってきた和柄のバンダナを、穴の形に切ります」
「はい」
「最後に、一緒に買ってきたアイロン両面接着シートを使い、ジーンズの裏から穴を塞ぎます」
「はい」
「こうすることで、ジーンズの穴を補修するのみならず、和柄が見えてちょっとシャレオツなかんじに仕上がりますか?」
自信のなさが語尾に出た。
「しつもんです」
「はい、なんでしょうか」
「これつかったら、かわいいとおもいます」
うにゅほがポケットからハンカチを取り出し、そう言った。
ハンカチの縁を、にわとりとひよこが歩いていた。
「──…………」
「おもいます」
「……これは、可愛いので切り刻むのがもったいないです」
「は!」
気づいたらしい。
「まあ、素直にバンダナを使いましょう」
「はい……」
残念そうである。
幾つものトラブルを乗り越えて完成したジーンズは、まあそこそこの出来だった。
百均で売っていた接着シートなので、接着力に少々の疑問はあるが。
最近、手芸街道を驀進している気がしてならない。



2013年3月10日(日)

図書館から帰宅し、ソファに腰を下ろした。
早々に靴下を脱いだはいいが、甚だしく爪先が冷たい。
フローリングが冷えきっていたのである。
床暖房に思いを馳せながら、ソファの上で足を伸ばすことにした。
「はー……」
寒い。
ストーブの電源は入れたが、室温が20℃を超えるのはいつになるだろう。
ハードカバーのページを繰る手を吐息で温めながら、落ち着きなく爪先をこすり合わせる。
三月もなかばだというのに、ひどい冷え込みである。
「◯◯ー」
隣家のおばさんに捕まっていたうにゅほが、俺の名を呼びながら自室の扉を開けた。
いいところに帰ってきた。
「おばさん、あめくれたよ」
はい、と差し出した手のひらに、黒飴がふたつ載っていた。
ひとつ受け取り、ポケットに入れる。
それを機嫌よく眺めていたうにゅほが、自分の指定席に目をやった。
「──…………」
そこに、俺の足があった。
うにゅほがにこやかに俺を見る。
「──…………」
俺の足へと視線を戻す。
「?」
小首をかしげる。
いつもなら素直に足をどけているところだから、戸惑うのも無理はない。
「座らないのか?」
「あし……」
「座っていいよ」
「?」
「というか、足が冷たいからそのまま座ってくれ」
「!」
理解したようだ。
「じゃ、すわります」
そう宣言し、こわごわと腰を落としていく。
軽く開いた両足のあいだに、うにゅほのおしりがすっぽりと収まった。
うにゅほの体温と体重とを爪先で感じ取る。
「おもくない?」
「重くないよ」
「あったかい?」
「いいかんじ」
人肌とは、かくも素晴らしきかな。
「そっかー」
うにゅほは満足気に頷くと、背後にある本棚から適当な漫画を抜き出した。
しばらくして、
「さむい!」
うにゅほが甲高く呟いた。
「ゆかつめたいー」
「真っ先に靴下脱ぐからじゃないか?」
「それ、◯◯も……」
ぐうの音も出ない。
「あしあっためて!」
うにゅほが両足を上げ、こちらに伸ばす。
さて、ここでふたりの体勢を確認しておこう。
俺は、ソファの上に足を伸ばして座っている。
うにゅほは、軽く開いた足先のあいだに腰を下ろしている。
この状態から、うにゅほが俺のほうへと向き直り、そのまま足を伸ばしたとしたら、どうなるだろうか。
「──……っ……」
うにゅほの爪先が、俺のふともものあいだで止まっていた。
危うく金的を食らうところだった。
今よりほんのすこしだけ、うにゅほの足が長かったとしたら──考えるだにヒュッとなる。
「あったかー……」
至福の表情を浮かべるうにゅほを視界に収めながら、そっと口を開く。
「頼むから、もうすこしゆっくり……」
「? うん」
伝わっていないと思うが、まあいい。



2013年3月11日(月)

父親は、鶏肉が苦手である。
父親の生家は、農家を営んでいた。
稲以外のあらゆる野菜を栽培し、にわとりを野放しで飼っていた。
めんどりは卵を産む。
当然だが、おんどりは産まない。
おんどりは、絞めて食べるために飼育していたわけである。
にわとりの絞め方は、単純である。
首を折るなりして殺し、逆さに吊るす。
その状態で首を切り、血抜きをする。
以上の工程を経て、ようやく捌くことができる。
父親は、その光景を見て育った。
それは、いつしか「自分ひとりでもできる」という自信へと変わっていったようだ。
父親が小学四年に進級した年のこと、その自負を現実に変える場面が訪れた。
にわとりを絞めておいてくれ、と頼まれたのである。
兄と協力して、という言葉を、幼い父親は聞き逃してしまった。
それが意図的なものか、そうでないのかは、父親の記憶の彼方である。
にわとりを絞めるには、まず殺さなくてはならない。
そのためには、にわとりの首をひねり、折るのが一般的であるらしい。
当然、ある程度の腕力と、思い切りが必要となる。
そのふたつが、幼い父親には欠けていた。
にわとりの首を切る前には、逆さ吊りにしなければならない。
そうしなければ、噴き出した血液がどこに飛ぶかわからないからだ。
この工程を、父親は忘れていた。
哀れなにわとりは、幼い父親の手によって、生きたまま首を刎ねられたのである。
生物は、首から上を失っても、すぐさま死ぬわけではない。
にわとりも、むろん例外ではない。
生物学的観点に立った場合、幼い父親が見たものは、さほど珍しい光景ではないはずだ。
しかし、幼い少年の心にトラウマを植えつけて余りある光景では、ある。
父親は、なにを見たか。
切断面から噴水のように血液を迸らせながら、それでもなお生前のように庭を駆け回る、首のないにわとりの姿であった。
「──…………」
「──…………」
と、いう昔話を、祖母がしてくれた。
爆笑しながら。
俺は聞いたことがあるけれど、うにゅほは初めてである。
顔面を蒼白にし、虚空を見つめながら、手探りで俺の手を掴み、離さなかった。
「……婆ちゃんの話って、たまにえぐいよな」
「──…………」
声も出ないようだったので、頭を優しく撫で続けた。
うにゅほが帰ってくるまで、数分かかった。



2013年3月12日(火)

刺繍針を一本、なくしてしまった。
深夜のことである。
デスクの周囲を懐中電灯で照らしても見つからず、あきらめて床につくことにした。
きっと、デスクと壁の隙間にでも落としてしまったのだろう。
たとえそうでなかったとしても、画鋲ならともかく、針であれば踏み抜く心配もない。
さほど気にも留めず、まぶたを下ろした。
「──……あー……」
翌朝、なんだか体調が悪かった。
PCには向かわず、ソファで読書をして過ごした。
活字を目で追っていても、内容がすんなりと理解できず、幾度も同じ文章を読み返す羽目になった。
翻訳書はよろしくない。
結局、うにゅほと一緒に今週のジャンプを再読することにした。
だらだらとしていても時間は潰れるもので、気がつくと午後六時を回っていた。
そのころには幾分か復調していたので、意気揚々と指定席に腰を下ろし、イヤホンを耳に掛けた。
ディスプレイの前にいると、それだけで落ち着く。
なにかしなければならないことがあったような気がしたが、まあ今日くらいはよかろう。
作業用のテキスト読み上げ動画を開きながら、適当にネットを巡回する。
一時間もしたころ、ペットボトルのほうじ茶が尽きた。
煮出したものを冷蔵庫で冷やしてあるので、取りに行こうと立ち上がった。
「あ、やべ」
イヤホンを装着したまま歩き出すところだった。
「?」
うにゅほが顔を上げる。
「あー……なんでもない、なんでもない」
適当に誤魔化しながら、イヤホンを外す。
──カタッ
ささやかな音が、鼓膜を叩いた。
「なんかおちたよ?」
うにゅほが視線を下ろす。
そこに、一本の刺繍針があった。
「──……ッ!」
節足動物が背筋を這いまわるような悪寒が、全身の皮膚を震わせる。
理解した。
つまり、こういうことだ。
刺繍針は、なんらかの経路を経て、イヤホンに引っ掛かっていた。
俺が装着しても、奇跡的に落ちることはなかった。
刺繍針は、今の今まで、俺の耳のすぐそばで針先を光らせていたのである。
ありのままをうにゅほに伝えると、
「わやーっ!」
珍妙な悲鳴を上げながら、耳の裏をわさわさとまさぐっていた。
おもしろい。
「……でも、なんではり?」
「──…………」
それは、秘密である。



2013年3月13日(水)

俺の一人称は、「俺」である。
しかし、時折「僕」と自称することもあり、安定はしていない。
うにゅほの一人称は、「わたし」である。
出会ったときから変わっていない。
「そうだ、プリン食べようかな。プッチンプリンがあった気がする」
「あ、ぼくも」
「ッ!?」
我が耳を疑った。
「──…………」
デスクに肘をつき、思案する。
聞き間違いだろうか。
聞き間違いかもしれない。
聞き間違いだった気がする。
聞き間違いかな?
「……そうだ、プリン食べようかな」
うにゅほの顔を横目で窺いながら、同じ文言を繰り返した。
「?」
小首をかしげている。
「プリン食べようかなー」
「……ぼくもたべる?」
「僕……」
ああ、なんという、なんというか、もう、とにかく説明しにくいが、腰の浮くような違和感を脳髄にぶち込まれたような。
決して良い意味ではない。
悪い意味とも言いがたい。
「へん?」
「変」
即答した。
「へんかー……」
うにゅほには申し訳ないが、女性の「僕」はあざとい。
あんたこんなんが好っきなんやろ、という真意がヒップラインをあらわにしている。
うにゅほがそのつもりで言ったとは考えにくいが、どうにも嫌悪感が先に立ってしまうのだ。
経験談である。
「……なんでいきなり?」
「◯◯、たまにぼくっていう」
「言うかな」
「いう」
「だから、真似してみたのか」
「うん」
実にうにゅほらしい理由である。
「おれ、は、おとこ」
「そうだな」
「わたし、は、おんな」
「うん」
「ぼく、は、おんなのこ」
「待ってみようか」
何故そうなる。
「まんがでみた」
漫画なら仕方ない。
「……でも、男のキャラだって僕って使うだろ」
「んー……」
しばし思案を巡らせて、
「そういうひとなのかなって」
「それ言っちゃったら全裸で徘徊してる人だってそういう人だけどな……」
ひとつ、溜め息をつく。
顔を上げたところで、ふと思った。
「じゃあ、俺が『僕』って言ってるの聞いて、どう思ってたんだ?」
「んー……」
しばし思案を巡らせて、
「そういうの、すきなのかなって」
変なことを思われていた。
「僕、は、男です……」
図らずもダブルミーニングになってしまったところで、プリンを食べるため腰を上げた。



2013年3月14日(木)

ホワイトデーである。
バレンタインに手作りチョコを貰ってしまったので、これは褌を締めてかからねばなるまい。
かと言って、クッキーを作るのも芸がない。
奮発して春物を買いに行くのも、なにか違う気がする。
というわけで、ハンカチにちょいとした刺繍を入れて贈ることにした。
掛けた手間が相手の喜びと等価になるとは思わないが、そのあたりは完成度を上げるよう努力すればいい。
図案は、ワンパターンだが夏目友人帳のニャンコ先生にすることにした。
うにゅほが好きなキャラクターと言えば、ニャンコ先生かドラえもんである。
しかし、うにゅほの年齢から考えて、ドラえもんのハンカチを持ち歩く行為を推奨するのはどうか。
ということで消去法である。
などと試行錯誤しながら、ここ数日ばかり深夜にちくちくやっていた。
「──と、いうわけで!」
「?」
「ハッピーホワイトデー……ぇ」
語尾が転がり落ちていった。
「あ、おかえし?」
うにゅほの声が、期待に染まる。
「……はい」
後ろ手に隠していた和柄のハンカチを、そっと差し出した。
包装すらしておらず、むき身である。
「わー!」
そんなことを疑問に思う素振りすら見せず、うにゅほがハンカチを開いた。
「あ、ニャンコせんせい!」
「ああ、うん、そうなんだけど」
「◯◯、ありがと」
「いやま、どういたしましてなんだけど……」
「?」
なにか言いたげな俺の様子に、うにゅほが疑問符を浮かべる。
「……それ、まだ完成じゃないんだ」
「かんせい?」
「ニャンコ先生の後ろに、和傘を刺繍しなくちゃならないんだ。
 頑張ったけど、間に合わなくて……」
「──…………」
「今日中になんとかするから、ちょっと待っててくれるか」
「──……?」
「うん?」
あ、言い忘れてた。
「これ、俺が刺繍したんだよ」
「ししゅう?」
「針と糸で、こう……」
「!」
うにゅほの瞳に理解がともる。
「えー!」
そう、出来はいいんだ、出来は。
「これ、◯◯がやったの?」
「ああ」
「どうやったの?」
「針と糸と根気と慣れで」
「わたしもできる?」
「××、ボタンつけはできるんだもんな」
「うん」
「なら、うんと頑張ればできる」
「やっていい?」
「ああ、いいよ」
「おしえてくれる?」
「じゃあ、一緒にやるか」
「うんっ」
うにゅほに手ほどきしながら、数時間ほどかけて和傘を完成させた。
そこそこうまくできたように思う。
うにゅほは、特訓の甲斐あって、刺繍の基本技術であるランニングステッチを習得することができた。
ランニングステッチ、別名なみ縫いである。
細かく、等間隔に刺さなければいけないので、これはこれで難しい。
うまいこと手芸にはまってくれたらいいなあ、個人的に。



2013年3月15日(金)

息苦しいような気がして、深呼吸をした。
思い返してみると、もう三ヶ月は換気をしていない。
窓の下半分が雪に埋もれていたので為す術もなかったのだが、ここ数日の陽気で幾分か解けてはいる。
「──……××!」
「?」
「さあ、コートを着るんだ!」
「どっかいくの?」
「行かない」
「──……?」
うにゅほが思案に暮れる。
「や、久しぶりに部屋の換気をしようと思ってさ」
「あー」
得心したらしく、幾度も頷いた。
「さあ、最低でも一時間は外と同じ気温になるぞー」
「はーい」
いそいそとコートを着込み、窓を開けた。
「寒い!」
「さむい……」
「しまった、手袋をするとマウスが使いづらい」
「まんがもよめない……」
「我慢するしかないのか」
「うん……」
数分ほどして、気がついた。
「……べつに、部屋にいる必要はないんじゃないか?」
「あー……」
盲点だった。
おめおめとリビングへ移動する。
「暇だなー」
「んー」
ごろごろする。
「暇だなー」
「んー?」
ばたばたする。
「暇だなー」
「そう?」
「漫画は持ってこれるけど、PCは持ってこれないもの」
完全に依存症である。
「じゃ、いっしょによむ?」
奇異太郎少年の妖怪絵日記1巻を掲げ、うにゅほがそう言った。
「あー……」
それもいいのだが、せっかくだから普段しないことをしたい。
腕を組んでうんうんと唸っていると、ひとつ思いついた。
「洗車でもしに行くか」
「くるま?」
「そう」
「こおらない?」
「洗車場行けば、温水が出てくるから大丈夫」
「へー」
そこそこ興味がありそうだ。
「でも、汚れるかもしれないから、コートは脱いでいこう」
「さむくない?」
「上下揃いの作業服があるから大丈夫」
「ほー」
ふたり揃って作業服を着込み、洗車場へと出発した。
ぶかぶかの作業服も趣深いものである。
うにゅほの放水を下半身に受けたこと以外はつつがなく洗車を終え、帰宅した。
室温は10℃だった。
春も近い。



2013年3月16日(土)

「あー……──」
母方の祖父から交流磁気治療器を頂戴して以来、あまり腰痛に悩まされなくなった。
実際の効用かプラセボかは判断の分かれるところだが、痛みが取れるなら喜んで騙される所存である。
「──…………」
遠くソファからうにゅほの視線が注がれている。
「──…………」
マッサージャーとしての矜持をいつの間にか抱いていたうにゅほの前で他のマッサージ機に浮気するのはたしかに心苦しい。
心苦しいが、仕方ないじゃないか!
だって腰が痛いんだもの!
うにゅほのマッサージは心地いいが、根本的な治療にはならない。
だから、仕上げに向いていると言えば言える。
「──…………」
ああ、磁気治療が終わるのを虎視眈々と待っているうにゅほの視線がぶすぶすと刺さっている。
俺、健康になるよ。
「うあー……──」
しかし、毎度毎度マッサージを受けるだけというのも芸がない。
むくりと上体を起こし、うにゅほに告げる。
「今日は、俺がマッサージしてあげましょう」
「ぎゃくに?」
「そう、逆に」
両手をわきわきと動かそうかと思ったが、やめておいた。
セクハラっぽい言動はあまり効果がないのだ。
「おねがいしましょう」
そう言って、俺の足のあいだにうにゅほが腰を下ろす。
「それじゃ、行きましょう」
やわやわとした肩を、そっと揉む。
「凝ってませんねー」
「こってませんかー」
「驚くほど凝ってませんねー」
知ってたけど。
しかし、当のうにゅほはけっこう気持ちがいいようで、
「ぐあー……」
などと、あくびのような唸りを上げている。
「はい、肩もみ終わり」
うにゅほの両肩を、ぽんと叩く。
「もうおわり?」
「肩はね」
せっかくなので、腰も揉むことにした。
うつ伏せにしたうにゅほの足をまたぐように膝をつき、腰のあたりに親指を当てる。
「──…………」
くすぐっちゃだめだ、くすぐっちゃだめだ、くすぐっちゃだめだ。
「わひゃひゃはひゃ!」
耐え切れなかった。
うにゅほにめっ!されたあと、今度は真面目にマッサージをした。
満足してくれたようでなによりである。
「あー、えがったー……」
でも、反応がいちいちおっさんくさいのはどうだろう。



2013年3月17日(日)

今日は快晴だった。
さぞ雪解けの進むことだろう。
轍ばかりが深くなるのは困りものだが、通過儀礼と言えないこともない。
「いい天気だなー」
漫画に落としていた視線を窓の外に向けて、うにゅほが答えた。
「そうですわねー」
「──…………」
反応に困る。
「……いい加減、春が来てくれないと困るもんな」
「うん、ですわ」
「──…………」
「──…………」
視線が交わる。
あ、これツッコミ待ちの顔だ。
「なんでやねーん」
やる気のない裏拳が虚空に炸裂する。
「?」
小首をかしげられても困る。
「ああ、いや、ですわってなに?」
「おじょうさまごっこですわ」
「お嬢様……」
なにやら聞き覚えがあるような。
それも、ごく最近。
しばし思案に暮れたあと、うにゅほの手元を見てようやく思い出した。
「あー、よつばとの」
「うん」
よつばと!の最新刊で、そんなやり取りがあったのだ。
「やってみたくてですわ」
「そうかですわ」
乗ってみる。
「◯◯、にあわないですわー」
「そりゃそうだですわ」
「あははですわ」
これ、お嬢様ごっこじゃなくて、語尾にですわとつけているだけですわ。
しばらく遊んだあと、うにゅほに言った。
「××、そういうとこよつばにちょっと似てるよね」
「そかな」
「なんでも真似してみたがるところとか──」
いくつか挙げようとして、言葉に詰まった。
「……いや、そうでもないか?」
「どっち?」
「えー……」
前髪を掻き上げる。
なんかそんな気がしたんだけど、改めて思い返すとそれほどでもないような。
「あー……」
書き分けの問題で、会話を日記に起こすとき、うにゅほの台詞をひらがなで表記しているからかもしれない。
たぶんそうだ。
そうに違いない。
「というわけで、そうでもなかった」
「そう……?」
怪訝そうな表情を浮かべて、うにゅほが手元に視線を戻す。
いやだって精神年齢が五歳児と同じとか問題の有無を問う以前に問題しかないし。
「まあ、そもそもインドア派だしな」
「ん?」
「こっちの話」
うにゅほをインドア派にしている原因は俺かもしれないので、もうすこし外に出てみようかと思った。
雪が解けたら、だけど。



2013年3月18日(月)

思いがけなく歯が痛み出したので、歯医者に行ってきた。
治療を終えて帰宅すると、
「だいじょぶだった?」
と、うにゅほが駆け寄ってきた。
「あー、大丈夫大丈夫」
顔の前で手を振りながら、答える。
「早かっただろ?」
「うん」
出かけてから、まだ三十分ほどしか経っていない。
「レントゲンしか撮ってないからな」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「いや、虫歯じゃなかったんだよ」
「じゃ、なに?」
「歯肉炎」
「しにくえん?」
「歯じゃなくて、歯ぐきが痛んでたんだってさ」
「それは、だいじょぶなの?」
「ちゃんと歯磨きすれば、一週間くらいでなんとかなるって」
「──…………」
うにゅほが眉間にしわを寄せる。
「……はみがきしてなかったの?」
「誤解だ!」
「ほんとー?」
「あー、なんて言ったらいいかな……」
言葉を選びながら訥々と説明していく。
「当たり前だけど、歯は磨いてたんだよ」
「うん」
「でも、磨き方があんまり上手くなかったらしくてさ」
「うん?」
「歯の根本とか、歯ぐきのあたりに、磨き残しが多かったんだって」
「ふんふん」
「だから、ちゃんとした磨き方を教えてもらってきたというわけだ」
「ふうん」
靴を脱ぎながら、言う。
「××にも教えてあげるから、実践するといい」
「はーい」
歯ぐきのブラッシングの仕方について軽く手ほどきしたあと、忘れないうちにしっかりと磨いておくことにした。
歯科衛生士によれば、細菌の繁殖した血液を、一度歯ぐきから絞り出してしまわなければならないらしい。
なので、どうしても出血は避けられないのだとか。
「──…………」
痛みに顔をしかめながら歯ブラシを持つ手を動かしていると、
「クッキーさめたよー」
母親と一緒にクッキーを作っていたうにゅほが、自室へと戻ってきた。
美味しそうなバターの香りが鼻腔をくすぐる。
「お、はべるはべる」
唾液が垂れないように口を開くと、
「ぎゃー!」
うにゅほが悲鳴を上げ、クッキーを取り落とした。
「ち! ち!」
「血?」
手鏡を覗く。
口内が、食後の吸血鬼くらい血まみれだった。
「こんなに出るのか……」
ドン引きである。
うにゅほを落ち着かせるまでに数分かかったことを付記し、今日の日記を終える。



2013年3月19日(火)

「◯◯、おひるだよー」
壁の向こうから、俺を呼ぶうにゅほの声がした。
「おーう!」
返事をして、チェアから腰を上げる。
母親と一緒に台所でなにやらごそごそしていたことは知っている。
期待を半分だけ抱きつつ、リビングへと足を向けた。
「なに作ってたん?」
「どーなつ!」
「おー」
掲げた皿の上に、不恰好なドーナツがひしめいていた。
ホットケーキミックスを揚げるだけのお手軽かんたんドーナツである。
「久しぶりだなあ」
「でしょ?」
油と炭水化物のコラボレーションでおなかの脂肪も元気百倍なので、最近は作っていなかった。
「それだけじゃないんだよ」
「?」
「なまクリームと、チョコシロップがあります」
「おおお!」
なにそれやばい。
「もう、ちょっとした売り物じゃないか……」
「ふへへ」
食卓につくと、絞り袋を手にしたうにゅほが隣に立った。
「多めでお願いします」
「はい、おおめ」
本当に多かった。
「チョコシロップはどうしますか?」
「じゃあ、普通で」
「はい、ふつう」
サービスのいい店である。
やたらと豪勢なドーナツのホイップクリームをひとなめしたあと、本体を口へ運んだ。
「──うめえ!」
「でしょー」
「なにこれ、なんかすげえもちもちしてる」
「それね、しらたまこと、とうふがはいってるんだよ」
嗚呼、侮りがたきは豆腐なり。
「ミスドのそんな好きじゃないドーナツよりずっと美味い」
「それ、ほめことば?」
「かなり本気で褒めてるつもり」
「そっかー」
「具体的に言うと、ポンデリング以上フレンチクルーラー未満」
「フレンチクルーラーおいしいよね」
「あれはこの世で最も美味なるドーナツだから仕方ない」
「そこまで……」
「だってミスドしか知らないし」
「あー、うん」
益体もないことを話しているうちに、俺のぶんのドーナツはなくなっていた。
「わたしのたべる?」
うにゅほがそう言ってくれたが、丁重にお断りした。
油と炭水化物のコラボレーションは、やはり怖いのである。



2013年3月20日(水)

父親の誕生日である。
とりあえずアルコールをプレゼントしておけば間違いはないので、楽である。
「(弟)は、ういすきーあげるんだって」
「ふうん」
うにゅほと雑談をしながら、リカーショップの店内を見て回る。
「じゃあ、そこはかぶらないようにして、なにがいいかな」
「ワインは?」
「味のわりに高いか、逆に安すぎるかってイメージがあるんだよなあ」
「そうなの?」
「五百円ワインで楽しめる舌なんだから、もったいない」
俺も含めて、である。
「じゃ、なに?」
「俺が好きなのは梅酒だけど……」
「うめしゅ、あまいもんね」
「甘けりゃなんでもいいわけじゃないんですよ?」
「えー」
「父さんは辛い酒のほうが好きだから、梅酒はパスだな」
「じゃ、ビール」
「ビールは好きだねえ、なんであんなの飲めるのかよくわからんけど」
「にがいもんね」
「コーヒーは好きだぞ」
「コーヒーぎゅうにゅうは?」
「もっと好きだけども」
「やっぱり」
「ああ、でも、高い酒より、安いビールをたくさん飲めるほうがいいのかな」
「あー……」
うにゅほが軽く頷いた。
「じゃあ、なんか適当なやつの6本パックにしよう」
「いくら?」
「千円ちょっとかな」
「やすい」
「さすがに一箱は嫌だな、重いし」
ビールを片手にレジへ向かおうとして、ふと気がついた。
「××は、なんかプレゼントしないの?」
「?」
「いや、父さんの」
「あっ」
空が落ちてきたような顔をして、うにゅほが頭を抱える。
「わすれてたー……」
「過ぎてはいないんだから、いいんじゃないの」
「そだね、そだよね」
「あー、でも、三人が三人とも酒ってのはどうなんだろう」
「うあー……」
しばし落ち込んだあと、ぽつりと言った。
「──……どうしよう」
「肩でも揉んでおけばいいんじゃないか?」
「えー?」
「とっくに諦めてた娘がぽんとできたんだから、そういうののほうが嬉しいんじゃないかな」
知らないけど。
「……じゃあ、そうしてみる」
夕食は寿司だった。
最近、うまいものばかり食べている気がする。
うにゅほからのプレゼントに対する父親の反応は、読者諸兄のご想像のとおりであるため割愛する。



2013年3月21日(木)

「◯◯、◯◯ー」
俺の名を連呼しながら、うにゅほが自室の扉を開けた。
「これ、もらったよ」
「どれ?」
「これ」
黄色みを帯びた細長い物体を手渡される。
「あー……タラかなにかの干物かな」
「すきみたら、だって」
「すきみたら?」
なんだか聞き覚えがあるような。
それも、あまり良い思い出ではないような。
「──…………」
すきみたらを細かく裂き、ほんのすこしだけ口に入れた。
「……ああ、これか」
鮮明に思い出した。
「これ、父さんがくれたのか?」
「うん」
「酒飲んでただろ」
「うん」
酒のつまみだからな。
「えーと……××が、これ食べたいって言ったのか?」
「うん」
「父さんなんか言ってた?」
「やめとけって……」
うにゅほの顔が見る間に曇っていく。
「あの、だめだった?」
「駄目じゃないけど……」
「おいしそうだったから……」
「美味しそうだよな、たしかに」
溜め息をひとつついて、うにゅほにすきみたらを差し出す。
「ひとくち食べればわかるよ」
「? うん……」
「あ、ジュースあるから持っときな」
たまたま飲んでいたウェルチのぶどうジュースを手渡す。
「いただきます」
そう言って、うにゅほがすきみたらを頬張った。
直後、その表情が一変し、
「──しょっぱ!」
と、叫んだ。
「ジュース飲めジュース」
「! ! !」
こくこくと頷きながら、ペットボトルに口をつける。
むせるぞ。
「はー、しょっぱい……」
人心地ついたらしいうにゅほが、ほっと息を吐く。
「はは、しょっぱかろう」
「これなに?」
「干物は干物なんだけど、塩漬けしたあと干したやつらしいよ」
「しょっぱすぎる……」
「塩抜きして食べるものらしいからなあ」
「おとうさん、このままたべてたよ?」
「──…………」
血圧とか大丈夫なんだろうか。
「……××から、それとなく言っといてくれ」
「うん」
すきみたらの切れ端を奥歯で噛み潰し、ぶどうジュースで流し込む。
「美味いことは美味いんだけどなあ」
「そっかなあ」
「まあ、しばらくは口にしたくないよな」
「うん」
けっこう勢いよくかじりついてたし。
「俺も、そんなかんじだった気がする」
「◯◯も?」
「何年か前、同じことやったんだよ」
塩辛い思い出である。
「あはは、なかまだ」
「はいはい、仲間仲間」
残りのすきみたらは、うにゅほが父親に返してきた。
父親曰く、
「だから言っただろ」
だそうである。



2013年3月22日(金)

昨夜はなかなか寝付くことができず、眠気が日中まで押し出されてしまった。
雑用を済ませて昼過ぎに布団に入り、途切れ途切れに仮眠をとった。
以下、夢の内容を一部記す。
毛布を一枚しか掛けなかったためか、途中で寒くなり、全身を丸めるように眠っていた。
足元の毛布を引き上げようと必死で伸ばしたのだが、一向に届かない。
なにを伸ばしたのかはわからない。
「どしたの?」
と、聞き覚えのある声がした。
恐らくうにゅほである。
返答をした記憶はあるが、内容は覚えていない。
「──…………」
「──…………」
幾度か言葉を交わし、うにゅほが毛布に潜り込んできた。
あたたかいことはあたたかいが、なんだかとてもまずいような気になり、上体を起こそうとした。
しかし、起き上がることができない。
もがいているうちになんだか暖かくなってきて、しめたとばかりに逃げ出した。
最終的に、なにかうすぼんやりとした概念のようなものに追われているところで目が覚めた。
本日の日記は、昼寝をしているとうにゅほが布団に入ってきた──という内容である。
読者諸兄は、そう考えていることだろう。
俺もそう思っていた。
「……おはよう」
「おはよ」
「なんかすごい肩凝った」
「もむ?」
「あとで頼むよ……」
チェアに腰を下ろす。
「あー、そうだ。寝てるとき、布団に入ってきたろ」
「?」
うにゅほが疑問符を浮かべる。
「え、入ってきたよな?」
「ううん」
首を振る。
「えー……?」
記憶と現実とが食い違っている。
「じゃ、じゃあ、寝てるときちょっと話はしたよね」
「うん」
ああ、そこは夢じゃないのか。
「どんな会話だっけ」
「◯◯、さむいっていってた」
「うん」
「だから、もうふかけたよ」
「あ、うん……ありがとう」
「どういたしまして」
「布団には、入ってない?」
「はいってない」
「──…………」
がしがしと髪を掻きむしり、頭を垂れる。
うにゅほは嘘をつけないし、仮についてもすぐわかる。
と、いうことは、
「願望じゃねーか!」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
なんだか異様に恥ずかしくなって、慌ててトイレに逃げ込んだ。



2013年3月23日(土)

うにゅほの髪は長い。
一ヶ月ほど前にばっさり切るまでは、もっと長かった。
乾かすのも一苦労に見えるので、気が向いたときは手伝うことにしている。
とは言え、女性の髪の手入れに差し出がましいことをするつもりもない。
ドライヤー係に徹し、髪の毛には手を触れないのが常である。
「乾いた?」
「うん、かわいた」
「じゃあ、ドライヤー終わりな」
「ありがと」
ドライヤーのコードを抜き、まとめて結ぶ。
「あとはブラッシングか」
「うん」
ちょっとやりたいけど、今は我慢する。
半端に手を出すと、かえって迷惑になる。
しっかりブラッシングしたあと、遊びで梳くならいいだろう。
「その櫛、ちょっと目が粗いよな」
「め?」
プラスチック製の櫛を手にしたうにゅほが、おもむろに手を止めた。
「あー、隙間が広いなって」
「そかな」
「××の髪、細い気がするから、もっと隙間が狭いほうがいいんじゃないか?」
「うーん」
櫛を、蛍光灯に翳す。
「そうかも」
「なんか、和風の櫛とかっていいよな」
「きのやつ?」
「そう。漆塗りとか、つげの櫛とか」
「いいかも……」
「なんか、色っぽい気もするし」
「そなの?」
「たぶん。あとでちょいと検索してみる?」
「うん」
髪を梳きながら、そっと呟く。
「……かみは、たいせつ」
「ああ、知ってる」
「──…………」
虚空を見つめ、うにゅほが頷いてみせた。
俺は、たまらなくなった。
「……俺、あんまり手入れしてないけどな」
「だめだよ」
「ブラッシングくらいしとこうかな」
「うん」
「そういえば、××って髪になんか塗ったりしないの?」
「なに?」
「なんか──……油とか?」
ざっくりとした説明になってしまった。
「べたべたするよ?」
「髪にいいって……」
「べたべたなのに?」
「べたべたにならないくらい塗るのかな……」
自信がなくなってきた。
「あ、塗るって言っても、サラダ油を頭からかぶるとかじゃないからな」
「えっ」
意外そうな顔するなよ。
そんなふうに、訥々と髪のことを話したりした。



2013年3月24日(日)

春の甘さが鼻腔をくすぐりはじめた。
大きめの道路を覆っていた雪がようやく姿を消し、圧雪によって傷んだアスファルトを露出させている。
ボロボロになるまで着古した六年もののコートも、そろそろ役割を終えるころだ。
春物のジャケットを求め、古着屋を巡ることにした。
「これいいよ」
ほんわかと春めいた色のカーディガンを手にし、鼻息荒くうにゅほが言った。
「うーん……」
とりあえず、試着してみる。
悪くはないが、サイズが大きめで、致命的なまでに生地が薄い。
「いいんだけど、まだ寒いと思う」
「そっかー……」
服を選ぶにあたり、うにゅほのセンスは新鮮で面白い。
暗く無難な色合いを好む俺に、ぎょっとするような新しい選択肢を提示してくれる。
「これかわいいよ」
袖口や襟元をハートのラインが飾っている白地のジャケットを手にし、鼻息荒くうにゅほが言った。
「これを着ろと……」
「うん」
「またしても薄手なんだけど」
「うん」
とりあえず試着した。
油断すると、うにゅほは俺を可愛いほう可愛いほうへ寄せていこうとする。
その先に待っているものは絶望だけだというのに。
「なんか、これって感じのがないなあ」
「うーん……」
悪くないものはいくつかあったが、予算と実用とがちょうど釣り合うものは見つけられなかったのだ。
「ね、◯◯」
「ん?」
「これ、だめなの?」
「どれ?」
「これ」
うにゅほが触れていたのは、俺が着ているジャケットだった。
「あー、これなあ……」
襟元を緩めながら、答える。
「生地が硬くて、すこしきついんだよ」
「ふうん?」
「ウエストのわりに胸囲がある変な逆三角形だから、普通の型紙じゃしっくりこないときがあってさ」
「うーん……」
首をかしげながら、たどたどしくうにゅほが言う。
「ちゃっく、あけたら、きつくないんじゃ?」
「それはそうだろうけど……」
ためしに開けてみる。
「……きつくない」
「うん」
「なんか、思ってたよりしっくりくる」
「おー」
前を開けたら寒いかと思っていたのだが、よく考えたら寒いときだけ閉めればいいのだ。
幸せの青い鳥は、いつだって自分のそばにいたのである。
などと耳障りのいい言葉で締めたところで自分の間抜けさまでは誤魔化せない。
久しぶりの外出らしい外出に、うにゅほがはしゃいでいたことだけは、紛れもない収獲だと思うけれど。



2013年3月25日(月)

「ピザだ」
「ピザだな」
昼食はピザだった。
「ピザおいしいよね」
「……ああ、ピザは美味しいとも」
正確に述べるなら、スーパーの特売で198円のピザにとろけるチーズを乗せてオーブンで加熱したもの、である。
「マルゲリータがすき」
「マルゲリータは美味いよな」
「こないだの、なんだっけ」
「照り焼きチキン?」
「それ、ふつうだったね」
「とろけるチーズをたっぷり乗せればだいたい同じような味だと思うけど」
「そかな」
うにゅほは知っているのだろうか。
CMなどでよく見かける宅配ピザは、目の前にあるものより十倍以上も高価であることを。
というか普通ピザって言ったらだいたいそっちだということを。
「おいしい」
しかし、すぐ隣で幸せそうにピザを頬張るうにゅほを見ていると、とてもじゃないけどそんなことは言えない。
こちらのピザも美味しいことは間違いないのだし。
「そういえば、さ」
「?」
「新道沿いに、窯焼きピザ食べ放題の店があってさ」
「たべほうだい」
「今度行こうか?」
「おいしい?」
「焼きたてだし、かなり美味しいと思う」
「うーん……」
しばし思案を巡らせて、
「どうしようかな」
「気が乗らない?」
「だって、そんなたべられない……」
「あー」
うにゅほはさほど小食でもないが、健啖家というわけでもない。
薄い生地のピザと言えど、一枚食べきれるか怪しいところだろう。
「うーん……」
うにゅほにもっといいピザを食べさせてあげたい。
でも、宅配ピザは高すぎる。
べつに一度くらいいいのだが、どうせ同じ金額を支払うならふたりで回転寿司とか行きたいし。
「たべないの?」
「食べる食べる」
とろけるチーズをすすりながら思索にふける。
いっそ手作りしてしまおうか。
しかし、生地から作るのはさすがに手間だ。
「──そうか、このピザを豪華にすればいいのか」
「ごうか?」
「もっとサラミ乗せるなり、マッシュルーム添えるなり、オリーブオイルをかけるなり、やりようはいろいろある」
「おー」
「今度ピザ焼くときは、ちょっと準備してからにしよう」
「おいしそうだねえ」
方向性は定まった。
機を見てピザパーティみたいなことをやるのもいいかと思った。



2013年3月26日(火)

今まで使っていた垢すりタオルがくたくたになってしまったので、ダイソーで新しいものを購入した。
車内に戻ると、うにゅほが不思議そうに尋ねた。
「これ、なんにつかうの?」
「え、いや、体洗うときとかに」
「これで?」
「うん」
「かたいよ? ざらざらだよ?」
「それはまあ、わざわざ硬いのを選んだわけだし」
泡立ちもいいし。
「……けがしない?」
「しないって」
苦笑しながら答えた。
ふと、疑問が脳裏をよぎる。
「じゃあ、××はなにで体洗ってんの?」
「?」
「俺、うちはみんな垢すりタオル使ってるんだと思ってたけど」
「わたし、タオルだよ」
「普通の?」
「うん」
「なんか汚れ落ちてない気がしない?」
「そんなことないけど」
「感覚的なものかな……」
よく考えると、ハンドソープを泡立てるだけで手の汚れとかちゃんと落ちるもんな。
「これ、ぜったいいたいよ……」
垢すりタオルを揉みほぐしながら、うにゅほがそう呟いた。
「××は使わないほうがいいかもなあ」
「そう?」
「慣れてないと、絶対にヒリヒリするから」
「わあ……」
「引くなよ」
これだけ密接に暮らしていても、知らないことは案外あるものだ。
さすがに風呂なんて一緒に入ったことないからなあ。
そう考えると、なにやらむくむくと興味が湧いてきた。
これはもう間違いなく知的探究心である。
「うーん……」
しばらく考え込み、質問をひねり出す。
「風呂入ったとき、どこから洗う?」
なにその合コン相手に確実に引かれそうな質問。
「うー、と」
うにゅほはしばし思案すると、
「みぎあしかなあ」
と、答えた。
俺は、これを知ってなにがしたかったのだろう。
「◯◯は?」
「俺は頭かなあ」
「あたまかー」
なんだか知らないが深く頷かれてしまった。
「頭と体は別勘定だから、すぐ終わるほうから手早く洗っちゃいたいかんじ」
「わたしは、かみあらうの、まいにちじゃないから」
「そうなの──いや、そういえばそうか」
入浴後でも髪が濡れていないことが、たしかにあった。
あまり気にしたことはなかったけれど。
なかなか興味深い会話をしながら、家路についた。



2013年3月27日(水)

「♪」
「なんか、ごきげんだね」
「そうか?」
靴が変わると、世界が変わった気がする。
街を歩くだけで、なんだか爽やかな気持ちになれる。
「まえのかわぐつは?」
「あれ、靴ずれするんだもん」
「くつずれ?」
「なったことないか?」
「うん」
幸福なことである。
「なんて言ったらいいかな……」
言葉を選びながら、赤信号で立ち止まった。
「靴のサイズが合ってないと、すれて水ぶくれになることがあるんだよ」
「ちいさいのかな」
「いや、大きいほうがなるみたいだよ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「小さい靴なら、しばらく履いてればだんだん伸びてくるだろ」
「うん」
「でも、大きい靴は小さくならない」
「おー……」
納得していただけたようだ。
「きついと、こすれはしないしな。足は痛いけどさ」
「うん」
「靴が大きいと、歩くたびに動くから、こすれるわけだ」
「ふんふん」
片足を上げて、軽く動かしてみせた。
「あとはまあ、靴の形が合ってないとかかな」
「あ、あれみたいなくつ」
「どれ?」
「ブックオフにあった、さきっちょがとがったくつみたいの?」
「先っちょ──ああ、悪い妖精が履いてそうな靴か」
「そう」
大学時代、荷物運びのアルバイトに履いてきた阿呆がいたので、あまり印象はよろしくない。
「爪先の細い人が履くんじゃないか?」
「ほそい──……」
うにゅほの眉間にシワが寄る。
ああ、なに考えてるかわかってしまった。
「……靴の先までギュウギュウに詰まってるわけじゃないからな」
「!」
「途中まで、途中まで」
「そなの?」
「××の靴だって、爪先の向こうに隙間があるだろ」
「たしかに……」
「それが、もっと先まで伸びてるだけだと思う」
「なんか、ふつう」
「がっかりするなよ、ギュウギュウだったら怖いだろ」
「こわいけど……」
「……まあ、百人に一人くらいはそうなんだけど」
「えっ」
「お、青信号だ」
おもむろに歩き出す。
「それほんと?」
「さあ」
適当にはぐらかしながら、市街を散歩した。



2013年3月28日(木)

友人とコストコへ行ってきた。
「──なんじゃこりゃあ!」
超広かった。
「ひろいね、ひろいね!」
「倉庫みたいだな!」
「そうこみたいだね!」
コストコは、大型の倉庫をそのまま店舗として使用しているのだと、友人が教えてくれた。
「──…………」
「──…………」
なんだか気恥ずかしくなってしまった。
「なんでも置いてるなあ」
「うん」
「なんでもでかいな」
「ね、これなに?」
うにゅほが指し示す先に、なんだろう、なにかがあった。
「なんだこれ」
陶器製の容器である。
小さめのポリバケツくらいのサイズで、ソフトクリームのような装飾が施されていた。
「……傘立て?」
「クリームなのに?」
「説明は──……英語だ」
「なんだろう……」
よくわからなかった。
「これおいしそう」
「あー、ティラミスか」
一辺が30センチメートルくらいあるけど。
「ティラミスってなに?」
「なんか、こう、ケーキだよ」
具体的な説明を即座にあきらめた。
「……ケーキ?」
「ああ」
「これ、ケーキ?」
「うん」
「はー……」
うにゅほが深く溜め息をついた。
「だれがたべるんだろ……」
「食べたことあるけど、けっこう美味いぞ」
「え!」
「なんで驚く」
「えー……」
そこはかとなく察しがついた。
「……これ、一人用じゃないからな」
「あ」
やはり。
家族に頼まれていたものを購入し、小腹の隙間を埋めようとフードコートへ寄った。
俺はプルコギベイク、うにゅほはホットドッグを注文した。
「──…………」
「──…………」
でかい。
ホットドッグもかなりのものだが、プルコギベイクに至っては短めのフランスパンくらいある。
そして、重い。
「──…………」
食べる。
「美味い……」
アツアツのプルコギに絡むチーズがたまらない。
「こっちもおいしい」
「ひとくち」
「いいよ」
ホットドッグも美味かった。
しかし、量が量である。
「……もう、むり」
ホットドッグを三分の二ほど食べ進めたところで、うにゅほがギブアップした。
当然ながら、残りは俺が処理した。
今日はもうなにも食べたくない。
ちなみに友人は、プルコギベイク2本とホットドッグ1本をぺろりとたいらげていた。
そんなんだから太るんだよ。



2013年3月29日(金)

友人の恋人から、うにゅほ宛てに贈り物を頂いた。
友人が帰省するたびなにかしら手渡されているような気がする。
いずれなんらかのお返しをしなければなるまい。
「あけていい?」
「いいよ」
「わー」
うにゅほが、紺色のビニール袋の封を解く。
「なんだこれ」
「毛糸の──毛糸の、なんだろう」
手のひらくらいの大きさの、袋状の物体である。
「てぶくろ?」
「あー」
たしかに、子供用のミトンに見えなくもない。
「ひもがある」
うにゅほがピンク色の紐を引くと、袋の口がすっと閉じた。
「ああ、これ巾着袋だ」
「おでん?」
「おでんじゃないほうの、まあ、物を入れておくための袋だよ」
毛糸の巾着袋なんて初めて見たので、一瞬わからなかった。
「なんかはいってる」
「どれ?」
「なんだこれ、パンダ?」
小さな箱のなかで、二頭のパンダが荒ぶる鷹のポーズを取っている。
本格的に、なんだこれ。
うにゅほから箱を受け取り、上下左右から観察する。
「──……イヤホン?」
箱の表面に「HAPPY EARPHONE」と書かれていた。
「イヤホンって、みみにいれるやつ?」
「そう」
「これ、みみにはいらないよ?」
「いや、パンダの裏側に、耳に入れる部分があるみたい」
わかりやすく表現するならば、カナル型イヤホンの背中にパンダの人形がくっついているのだ。
「──…………」
あまり実用に耐えうる品ではなさそうである。
というか、どこに売ってるんだ。
「◯◯、つけて?」
「え、自分で着けないのか」
「だって、こういうのつけたことない」
俺だってないが。
「……まあ、いいけど」
箱から取り出したイヤホンを、恐る恐る装着する。
「──…………」
あからさまに邪魔そうなパンダだが、思っていたほど障りはない。
「どうだ?」
うにゅほに視線を向ける。
「──…………」
「?」
へんなかおをしていた。
「──……ばふう!」
「!」
「ふへ、あはっ、ははっははは! みみにパンダ! みみにパンダ!」
爆笑である。
それも、見たこともないくらいの大爆笑である。
「ほう」
こういうのがツボなのか。
やおらに立ち上がり、モデルを模してスタイリッシュに歩いてみた。
「──…………ぁ、っ」
過呼吸を起こすくらい笑っていた。
さすがにまずい。
慌ててイヤホンを外し、うにゅほを介抱した。
このパンダは封印しよう。



2013年3月30日(土)

白ワインをもらった。
ボトルとグラスを前に、ためらいがちに口を開く。
「……えー、本当にいいの?」
「?」
うにゅほは飲酒反対派である。
いつだったか、マッコリを飲んでリバースして以来、アルコールの摂取に対し厳しい態度をとっていた。
「ワインって、お酒だけど……」
「うん」
「いいの?」
「?」
そこで首をかしげる意味がわからない。
「ワイン、からだにいいって」
「誰が?」
「テレビで」
すべてがすっきりと繋がった気がした。
うにゅほにとって、ワインとは「体にいいお酒」に他ならないのである。
「ちがうの?」
「いや、なんか聞いたことはある」
ポリフェノールがどうとか。
「ためしに、ちょっと調べてみるか?」
ディスプレイをあごで指した。
「──……えー、つまりだ」
カチカチとマウスを鳴らしながら、表示されたテキストを要約する。
「赤ワインは動脈硬化を予防できて、白ワインは食中毒を防止するらしい」
「しょくちゅうどく?」
「なんか、おなかの調子を整えるらしい」
「からだにいいの?」
「いいらしい」
思っていたよりも、しっかりと根拠があるようで、すこし驚いた。
「でも、飲み過ぎは駄目だってさ」
「それはそうだよ」
「グラス2杯が適量だって」
「じゃ、にはいね」
ボトルを手に取り、うにゅほが言った。
「ささ、いっこんどうぞ」
日本酒?
「おっとっと、は?」
「え? あ、うん、おっとっとっと」
三分の二くらいしか注がれてないけど。
「じゃあ、いただこうかな」
「どうぞ」
グラスの縁に口をつけ、わずかに含む。
「おいしい?」
「ああ、美味しい」
安ワインだが、俺の舌には十分過ぎる。
「ひとくち」
「舐めるだけなら、いいよ」
うにゅほにグラスを手渡す。
「おっとっとっと」
タイミングそこじゃないだろ。
うにゅほがグラスを傾け、
「──……うええ」
渋い顔をした。
「すっぱい」
「ワインはすっぱいよ」
「した、びりびりする」
「白ワインって、そんなかんじだよな」
「これ、おいしい?」
「飲み慣れると、渋みも楽しめるようになる」
「ふうん……」
興味を失い、うにゅほはソファに腰を下ろした。
そういうわけで、今日の日記はほろ酔いのまま書き記している。
文章に不備があるかもしれないので、あらかじめお詫びしておこう。



2013年3月31日(日)

昼食にピザを頼もうか、という話になった。
数日前に考えていたピザパーティは、とりあえず無期延期ということにする。※1
「××ー」
うにゅほの名前を呼び、自室の扉を開く。
「うー」
テトラポッドのぬいぐるみをギュウギュウに絞め上げながら、うにゅほがうめいた。
「ピザ食う?」
「くう」
食欲はあるのだ、なぜか。
「どんなピザがいい?」
「たくさんあるの?」
「たくさんあるぞ」
「かってきたの?」
「いや、今日は宅配だ」
「たくはい?」
「ピザハット」
「きいたことある」
「ほら、香取慎吾がCMやってたやつだよ」
「あー」
三匹の黒豚が豚肉を食べろと言っているCMは、ちょっとどうかと思ったが。
「おっきいピザ」
「大きい──まあ、大きいか」
サイズによるけど。
「チーズ、のってるやつがいいな」
「だいたい乗ってるかな」
「えと、じゃあ」
「チラシ持ってこようか?」
「ううん」
うにゅほが首を振る。
「わかんないから、いい」
「じゃあ、美味しそうなの頼んどくよ」
「うん」
携帯ラジオをつけて、部屋を出た。
家族との相談の結果、クォーターピザを注文することになった。
最後に頼んだときも、同じものを食べた気がする。
三十分ほどして、ピザが届いた。
「わあー……」
テトラポッドのぬいぐるみを膝に乗せたうにゅほが、感嘆の息を漏らした。
「おいしそう」
「だろだろ」
「でも、そんなおっきくないね」
Lサイズである。
「ふつうのピザより、ちょっとおっきい」
「参考までに、どれくらいだと思ってたんだ?」
うにゅほが両腕で円を作る。
「これくらい」
でけえ。
「ほら、冷めるぞ」
父親の言葉を合図にして、昼食が始まった。
「美味いか?」
「うまい!」
満足そうである。
ラーメンとカップラーメンの関係とは異なり、ほぼ完全に上位互換だからなあ。
三百円ピザじゃ物足りなくなったりして。
「──……ありえる」
そう呟き、チーズをすすった。

※1 2013年3月25日(月)参照


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