>> 2013年2月




2013年2月1日(金)

税務署で還付額の多寡に一喜一憂したあと、床屋を営む伯父を訪ねた。
散髪を終えるころには、夜の帳が下りていた。
「ぷにぷに」
「──…………」
「もにー」
「──…………」
「もちもち」
「……あのさあ」
「?」
「運転してるときは、ほっぺたいじるのやめてくれないかな」
「ごめんなさい」
素直である。
「そんなに面白いか?」
「うん」
「……なにが?」
「もちもちしてる」
「そうかな」
自分の頬をつまんでみる。
「──…………」
もちもち?
まあ、そう表現できなくはない。
「ひげそったあとは、ちがう」
「週に一度は剃ってるだろ」
「ちがう」
「どう違うんだ?」
「いつもは、しゃらしゃらしてる」
「しゃらしゃら?」
耳慣れない擬音である。
「それって、どんなかんじ?」
「どんな?」
「いや、しゃらしゃらって初めて聞くから」
「んーと……」
しばし考え込んだあと、
「ゆびが、しゃらってする」
「そう……」
あきらめた。
「えー……いつもはヒゲの剃り残しがあるってこと?」
「そう」
うにゅほが頷いた。
プロの仕事は一味違うということだろうか。
単に俺がヒゲ剃り下手という可能性も否定はできない。
「そんなにもちもちしたいなら──」
左手を持ち上げ、
「自分のほっぺたでもつまんでたらいいんじゃないか?」
うにゅほの頬を、軽く引っ張った。
「ひふんのは、はのひふない」
「え、なに?」
「ひふんのは──」
「あ、悪い」
手を離す。
「◯◯のほっぺた、もちもちしたい」
「別のこと言ってなかったか?」
帰宅してから自由にさせると、五分ほどで飽きた。
エンターテイメント性を備えるつもりもないが、それはそれで寂しいものがある。



2013年2月2日(土)

「──いて、いて、いててて」
歩くたび、右足の付け根に鈍痛が走る。
雪道で滑ったのだ。
正確には、滑って転ばず変に踏ん張ったおかげで筋を痛めたのである。
素直に尻餅をつけばいいものを、道民のリカバー能力が悩ましい。
「あー……」
チェアに腰を下ろし、ようやく人心地つく。
「まだいたいの?」
「たぶん、しばらくはこのままだろうな……」
「びょういんは?」
「要は、ひどい筋肉痛だからな。湿布をもらいに行くようなものだよ」
「ふうん」
うにゅほが立ち上がり、傍に寄ってきた。
「どこいたいの?」
「えー、右の内ももから──」
「ここ?」
うにゅほの右手が俺の股間に伸びる。
「わああ!」
慌ててうにゅほの手を掴む。
「?」
「きわどいところを触ろうとするな!」
「あしだよ?」
「まあ、付け根とはいえ足は足だけど……」
軽く思案する。
さすがに過剰反応だったろうか。
「あー……そうだな、このあたりだよ」
患部をさすってみせる。
「ここ?」
「そうそう」
「いたい?」
「押すな、一応怪我なんだから」
「ごめんなさい」
「あ、撫でなくていい撫でなくていい」
きわどいから。
「ほんとにだいじょぶなの?」
俺の内ももから手を離し、うにゅほが気遣わしげに言った。
「さっきも言ったけど、筋肉痛と同じなんだよ」
「そうなの?」
「激しい運動をすると、筋肉の繊維が切れて、筋肉痛になる。
 対して俺は、内ももが一気に伸ばされて筋繊維がブチブチいったわけだ」
「おなじかな」
「厳密には違うけど、コーヒー牛乳とカフェオレくらいの差だと思うよ」
「……それ、どうちがうの?」
「さあ……」
濃度だろうか。
「ようじあったら、いってね。わたしやるから」
「ああ、ありがとな」
代わりにトイレ行ってくれ、という定番のボケは、やめておいた。
今しがた済ませてきたところである。



2013年2月3日(日)

節分である。
我が家では、豆もまくし恵方巻きも食べる。
間違えて南南東に恵方巻きを投げてしまいそうなものだが、漫画ではないので、しない。
豆まきを適当にやっつけて、夕食の席についた。
「なんなんとうって、どっち?」
「えー、西がむこうだから……──」
ふらふらと指先をさまよわせ、
「たぶん、あっちかな」
テレビの横のあたりを指した。
「むごんでたべるんだっけ」
「そうそう──あっ」
大切なことを思い出した。
「父さん」
「ん?」
「今年こそは、恵方巻き食べてる最中になにげなく話しかけるのやめてくれよ」
毎年やるのだ、この父親は。
「あーはいはい」
大丈夫かな。
「××も、気をつけろよ」
「だいじょぶだよ」
うにゅほが気楽に頷いた。
去年引っ掛かっているだけに不安である。※1
恵方を向こうが納豆をまこうが福がどうのと言うつもりもないが、やるからにはきちんと済ませたい。
「たくさんあるねー」
「ほんとだよな」
食卓テーブルの上には、十本以上もの太巻きが海苔を連ねている。
買いすぎたらしい。
毎年買いすぎていると思うのだが、どうか。
「俺はこのカニマヨサラダっぽいやつにしよう」
「あ、おいしそう」
「たしか、もう一本あるよ」
「うん……」
うにゅほはしばし思案したあと、
「ねぎとろにしましょう」
一本の太巻きを手に取った。
「──じゃあ、食べ終わるまで無言だぞ」
「うん」
「油断するなよ」
「うん」
ふたり並んで恵方を向き、
「せーの!」
で太巻きにかぶりついた。
口のなかで広がる、芳醇でコクのあるカニマヨサラダのうまみ。
「うわ、すげえうまいこれ」
「ほんと?」
「あっ」
「あっ」
やってしまったという表情を浮かべ、うにゅほが俺を見上げている。
恐らく俺もそうだろう。
「お前たち、なにやってんの……?」
父親の呆れたような声が、背後から届いた。
「……カニマヨサラダ、ひとくち食べるか?」
「うん……──あ、おいしい」
カニマヨサラダが美味しいから悪い。

※1 2012年2月3日(金)参照




2013年2月4日(月)

「──けほっ」
咳が出た。
風邪ではない。
それ以外の明快な理由があるからだ。
「上から背中を掻こうとすると、どうして咳が出るんだろう……」
「えっ」
適当な小説をぱらぱらとめくっていたうにゅほが、驚いたように声を上げた。
「どうしてだと思う?」
「えー……」
しばし視線をさまよわせ、
「……でないよ?」
言いにくそうに答えた。
「大丈夫、人によるのは知ってる」
「そう……」
「俺だけかもしれないと、軽く不安に思ってる」
「そんなことない……と、おもうよ」
「いや、昔は咳なんて出なかったんだぞ?」
「そうなの?」
「背中で手も組めたし」
「?」
「こうやって、両腕を上下から──げほッ!」
「わああ!」
しばし咳き込んだ。
「──失礼。体やわらかいし、××はできそう……というか、できたっけ」
「できるよ」
うにゅほが立ち上がり、両腕を背中に伸ばす。
「ほら」
くるりと反転すると、うにゅほの両手はしっかりと結ばれていた。
「おー」
ぱちぱちと拍手を送る。
「咳は出ないんだな」
「でないよ……」
「右手と左手、逆でもできるか?」
「できるよ」
できた。
「俺の筋肉、こわばってんのかなあ」
「そうなの?」
「どれ、もう一度挑戦してみるか」
「わああ!」
止められた。
「柔軟とかしたほうがいいと思う?」
「やめたほうがいいとおもう」
「それくらいで咳なんか出ないって」
「でてたけど」
「耳かきすると咳が出るけど、なにか関連性があるのだろうか」
「えっ」
「竹製の耳かき使うと咳が止まらなくなるんだよな、俺」
「めんぼうにしよう!」
「まあ綿棒にしてるんだけど、たまに取りきれなかった耳垢をだな」
「わああ!」
面白い。
「あ、思い出した」
「なに……」
「そういえば、背中が痒かったんだった」
「あー」
「悪いけど、掻いてくれるか?」
「うん」
孫の手いらず、などと言ったら、うにゅほは怒るだろうか。
喜びそうな気もする。



2013年2月5日(火)

飴をよく舐める。
甘くて美味しいし、口臭予防にもなるからだ。
南部せんべいの丸缶が溢れるほど詰め込むためには、十袋ばかり必要となる。
費用も馬鹿にならないので、理由がなければ百円ショップを利用することにしている。
「──れもんこりっとだ」
「?」
黒糖ミルク飴の袋を手にしたうにゅほが、こちらへ向き直った。
「サクマの、れもんこりっとだ」
「それ?」
うにゅほが俺の手元を覗き込む。
「おいしいの?」
「俺は好きだ」
「みたことない」
「ここ一年くらい、ずっと見つからなかったから……」
製造はされていたのだろうが、近隣一帯の百円ショップから姿を消して久しかった。
一番好きな飴を尋ねられたら、俺は返答に困るだろう。
しかし、二番目に好きな飴ならば、淀みなく答えるに違いない。
それくらい、サクマのれもんこりっとが好きである。
「じゃあ、たのしみだね」
「……そうだな」
れもんこりっとの袋をいくつか手に取る。
会計を済ませ、生協の階段を下りていると、踊り場にカプセルトイがずらりと並んでいた。
「あ、ニャンコせんせい」
カプセルトイのひとつを指さし、うにゅほが俺を見上げた。
「やってみたら?」
「うん!」
好きなものが出るとは限らないが、たぶん九割くらいニャンコ先生だから問題ないだろう。
「あっ」
駆け寄りかけて、うにゅほが立ち止まる。
「ポシェットわすれた……」
「あー」
うにゅほの財布は、外出用のポシェットに入れっぱなしである。
「じゃ、貸そうか」
「いいの?」
「駄目な理由がないと思うけど──ほら」
財布から百円玉を取り出し、うにゅほに手渡した。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
「あ──……これ、にひゃくえんだ」
「本当だ、ちょっと待って」
再び財布を開く。
「……百円玉、それしかないな」
「そっか……」
うにゅほが、がっかりした様子で立ち上がった。
「五百円玉、適当に崩してこよう」
「?」
「お菓子のひとつも買えば、百円玉くらい──」
「だめだよ」
俺の言葉を遮り、うにゅほが言った。
「それは、だめ」
しっかりしている。
これだから、甘やかしたくなるのだ。
「──……そっか。
 じゃあ、また今度にしような」
「うん」
「俺が、れもんこりっとを十袋も買っていなければ……」
「しばらくだいじょぶだね」
「案外すぐなくなるんだよ、これが」
わいわい話しながら帰宅の途についた。



2013年2月6日(水)

「──……むう」
好んで着用している白地のシャツを眼前に掲げ、唸り声を上げる。
「どしたの?」
「いや、そろそろ捨てどきかと思って……」
「すてるの?」
くるりとシャツを裏返し、うにゅほへと向き直る。
「襟が広いほうが好きだから、首元がだるだるになったのはいいんだけど──ほら、ここ見てくれ」
袖口を軽く持ち上げる。
「シミとか目立つだろ?」
「うん」
「袖が伸びたおかげで、汚れやすくなってさ」
「あー」
「全体的に小汚く見えるから、潮時かなと」
「──……んー」
シャツを受け取ったうにゅほが、悩ましげに首をかしげる。
「もったいないよ」
「着れないわけではないしなあ」
「どうにかできないかな」
「どうにかって?」
「……そで、きっちゃうとか」
「そこまでワイルドな服は着たくないかな」
「そめちゃうとか……」
「どうやって?」
「……コーラで?」
「コーラはちょっとなあ」
うにゅほと談笑を続けるうち、ふと思った。
染めること自体は、それほど難しくないのではなかろうか。
「──……あった」
検索すると、すぐに見つかった。
「××、ちょっと出かけようか」
「? どこに?」
「お近くの手芸店」
近所に手芸店は多くないが、幸いにして一軒目で購入することができた。
家庭用の染料である。
「はいいろー……」
プラスチック製のたらいに水を張りながら、うにゅほが溜め息を漏らす。
「いいじゃん灰色」
「……ぶなん」
「冒険できない年なんです」
「ピンクがよかった」
「ピンク色のトップスなんて絶対着ないからね、俺」
説明書のとおりにシャツをつけ置きし、数時間ほどして洗濯機に放り込んだ。
「──……むう」
半乾きのシャツを眼前に掲げ、唸り声を上げる。
「悪くないけど、びみょー……にムラがあるな」
「いいとおもうけど……」
「どうせなら、思いっきりムラだらけにしてやればよかったな」
「えー?」
うにゅほが楽しげに不服の声を上げる。
「インクのシミだって、何百とあれば模様に見えるものなのだよ」
「じゃあ、もっかいそめよう」
冗談交じりの提案に、
「──……それ、いいな」
「え?」
俺は深く首肯した。
染料はまだ残っている。
さっそく染めることにしよう。



2013年2月7日(木)

弟が、入院することになった。
病名はイボ痔である。
血の繋がりというものを、これほど深く感じたことはない。
「明日、手術だって」
自室へ戻り、不安そうに両手を抱いていたうにゅほに、事実をそのまま告げた。
「しゅずつ……?」
「手術って言っても、大したことないけどね。
 一週間で退院だから」
痔というのは、報われない病気である。
その痛苦に比して、世間からの評価はあまりに残酷だ。
かと言って同情されたいかと問われればそうでもなく、いつか笑い話にできるまで、ただただ放っておいてほしいものである。
弟も例外ではなく、お願いだからうにゅほにだけは病名を教えないでくれと哀願されてしまった。
「ほんとに、だいじょぶ?」
「ああ、賭けてもいい」
「しっぱいしない?」
「ヤブ医者が酔いどれながら手術しても、まず死ぬことはない場所だよ」
「でも、おしりでしょ?」
「肛門って聞くと怖いかもしれないけど、できものをちょきっと切るだけだしな」
「◯◯のときは、どうだったの?」
「そりゃあ──……」
あれー、おかしいなあ。
「……××、弟がなんの手術するか、知ってる?」
「ぢのしゅずつ」
「参考までに尋ねるけど……なんで知ってるの?」
「きこえたよ?」
壁の向こう側にあるリビングを指さし、うにゅほが答えた。
「あー……」
髪を掻き上げながら、天井を振り仰ぐ。
まあいいや、俺のせいじゃないし。
「××隊員」
「はい」
「弟が痔だってこと、知らないふりしなさい」
「なんで?」
「恥ずかしいところの病気だから、弟も恥ずかしいんだってさ」
「そっか」
「わかった?」
「わかった」
「いぇー」
「いぇー」
こつんとこぶしを合わせる。
これでまあ、ひとまずは大丈夫。
きっと駄目だと思うけど、やれることはやりました。
「おみまい、いこうね」
「ああ──……お見舞い?」
入院先は肛門科なんだから、お見舞いなんて行ったら一発でばれるじゃないか。
そもそも無理のある計画だったのだ。
だが、安心しろ弟よ。
俺は教えてない。



2013年2月8日(金)

「♪っ」
リビングへ通じる扉から、うにゅほが上機嫌で顔を覗かせた。
「ね、◯◯!」
「なに……」
思わず警戒する。
「てーだして!」
「あ、はい」
手渡せるものなら、まず危険はないはずだ。
今しがたまで怪談を読んでいたものだから、思考がそちらに寄っている。
最悪、うにとかだろう。
「はいこれ」
ぽん。
「──……?」
手のひらに載せられたものは、手ざわりの良い薄紫色の布だった。
「えっと、ハンカチ?」
無造作に開く。
下着だった。
「──…………」
思考が停止する。
なんだこれ。
怪談なんかより余程恐ろしいものが、手のなかにあった。
デザインの幼さから言って、うにゅほの下着であることは間違いない。
間違いないが、なんだこれ。
「なに、これ……」
「パンツ」
知ってる。
「むらさきいろになった!」
見ればわかる。
「──……なった?」
「うん」
「なった──って、どういうこと?」
「これ、あおかったんだよ」
「あ──……」
不意にすべてを理解した。
「◯◯、きのうあかいのでシャツそめたでしょ?」
「──…………」
一昨日染めたシャツの仕上がりに納得が行かず、赤い染料で重ね染めしたのである。
恐らく、染料が落ちきらないうちに洗濯機に入れてしまったのだろう。
「やってしまった……」
背筋にぞっと怖気が走る。
青い下着が紫色になったということは、白い肌着などは薄いピンクに染まっていることだろう。
怪談より恐ろしい現実が、隙を生じぬ二段構えである。
両手をぐっと握り締め、俺は立ち上がった。
そして、惨状を確認しようと自室の扉を開く。
「──…………」
「──…………」
ピンク色の肌着を着た父親と目が合った。
「……似合うよ」
「馬鹿野郎」
怒られた。
でも、それほど怒ってはいなかった。
いい年こいて正座で説教なんて想像もしたくない。
「──で、なに持ってんだ?」
右手へと視線を下ろす。
パンツである。
「いや、なんでもない」
軽く左手を上げ、リビングを辞する。
「……返す」
「うん」
うにゅほにパンツを手渡し、深く深く溜め息をついた。



2013年2月9日(土)

弟にお見舞いの品をお見舞いした帰り、コンビニで早売りのジャンプを見つけた。
うにゅほと出会ってから、一年以上もの時が経つ。
変わったことは無数にある。
しかし、変わらないことも同じくらいある。
ジャンプを一緒に読む──という習慣も、そのひとつだ。
最初は、気を引くためだったと思う。
天井を見上げたまま身じろぎひとつしないうにゅほを見かねて、することはないかと部屋を見回した記憶がある。
それが、なんというかその、あれだ。
「──……こんなことになるとは」
「?」
背後から、うにゅほが小首をかしげる気配がした。
順を追って説明しよう。
ジャンプを一緒に読む──そう一言で表しても、その体勢は様々だ。
最も単純なものが、密着して座り、互いの膝のあいだにジャンプを開いて置くという形だろう。
しかし、うにゅほのフロンティア・スピリットは停滞を許さなかった。
膝枕された状態で読む膝枕型や、俺を膝枕しながら読む逆膝枕型は言うに及ばず、テーブル型※1や親亀子亀型※2といった、いくつもの姿勢を生み出したのである。
そして、ここ一ヶ月ほど流行しているのが、このおんぶ型だ。
おんぶ型とは、俺の背中とソファとのあいだに体を滑り込ませ、覆いかぶさるという親亀子亀型の亜種である。
うにゅほの体重により前傾姿勢を強いられるため、俺の背中に対する負担が大きい。
「あ、おもい?」
「いや、大丈夫」
でもまあ、あれがあれなのでなんかもういいやというかんじである。
役得と言い換えてもいい。
「つぎいいよ」
「──…………」
ページをめくる。
うにゅほの読書スピードは亀のように遅いが、読む作品は限られている。
基本的にギャグ漫画を好み、スポーツ漫画は避ける。
ストーリー漫画は、明快かつ画面の込み入っていないものに限り、読む。
つまり、BLEACHは読むがONE PIECEは読まない。
でもチョッパーは好きらしい。
チョッパーの人気が絶大であることがわかる。
ふたりの読書は、おおよそ一時間ほどで終わる。
「おわった!」
その言葉と共に、背中が急激に寒くなった。
うにゅほが離れたのだ。
おもむろに立ち上がり、うにゅほの体温で汗ばんだ背筋を伸ばす。
「んあー……」
「あー」
隣を見ると、うにゅほが俺の真似をしていた。
「おりゃ」
「んぅ」
冷えた手先をうにゅほの頬で温めて、再びソファに腰を下ろした。
今度は、俺ひとりで読むのである。
好きなように読めるのはありがたいが、すこし寂しい気もする。
まあ、そんなものだろう。

※1 テーブル型 ── ソファをテーブルに見立て、床に正座して読書する姿勢
※2 親亀子亀型 ── 伏臥した俺の上にうにゅほが覆いかぶさる姿勢



2013年2月10日(日)

右腕が上がらない。
正確に言えば、肩より上に持ち上げようとすると、突っ張るような痛みが走る。
原因はおおよそわかっている。
雪かきだ。
俺はジョンバ※1を好むが、この除雪用具は利き腕に多大な負担をかける。
左手は支点と補助の役割しか果たさないため、バランスが非常に悪い。
しかし、「跳ね飛ばす」という用途において、比類するものはない。
ピーキーな除雪用具と言えよう。
逆に、うにゅほはスノープッシャー※2を好む。
スノープッシャーは、手軽なスノーダンプに近く、掃除機のように押して除雪するものだ。
軽い積雪や仕上げに向いている反面、豪雪には無力である。
「ああ、雪だ……」
窓の外が白く染まっている。
このあとの雪かきを思い、俺は静かに溜め息をついた。
運動不足の解消になると自分を奮い立たせていたのは過去のこと、今はもうただただ憂鬱である。
せめて、あまり積もらないことを祈るばかりだ。
「はぁ──……」
ぽん。
俺の背中に、小さな手が添えられた。
振り返ると、うにゅほだった。
うにゅほは親指で自分の胸を指すと、
「まかせなさい」
と、笑顔で言った。
雪は、三十分ほどで止んだ。
路面はうっすらと化粧をした程度で、雪かきをするほどではない。
「──でも、やるのか」
「やる」
コートを着込んだうにゅほが、ぶかぶかの長靴に片足を突っ込んだ。
「ひとりで、やるのか……」
「やる」
すげえ心配なんだけど。
「手伝わないから、一緒に出ちゃ駄目か?」
「だめ」
頑固である。
「わかった、もう止めまい」
「うん」
「車に気をつけろよ」
「うん」
「ざっとでいいからな」
「うん」
「車道に出るときは、ちゃんと左右を確認するんだぞ」
「うん」
「あと──」
「いってきます!」
うにゅほの姿が扉の向こうに消える。
「──…………」
内扉を乱暴に閉め、俺は二階へと駆け上がった。
寝室の窓からは家の前が見える。
「何故ジョンバを……」
うにゅほが手にしたのは、黄色が鮮やかなジョンバだった。
この程度の積雪なら、スノープッシャーで数往復するだけで終わるだろうに。
「ああ、無理して跳ねようとするから……」
転倒こそしないものの、足元がつるつると危なっかしい。
「──…………」
うにゅほが無事に雪かきを終えるまで、悪い意味で目が離せなかった。
「ただいま!」
十分ほどで意気揚々と帰宅したうにゅほに、
「お疲れさま」
とねぎらいの言葉をかけた。
俺のほうが気疲れしたような気もするが、それはまあ些細なことである。

※1 ジョンバ ── 幅の広い除雪用のシャベル
※2 スノープッシャー ── 雪を跳ねるのではなく、押すタイプの除雪用具



2013年2月11日(月)

「あ、ニャンコせんせい」
コンビニの出入り口で、うにゅほが足を止めた。
「ほんとだ」
普段は気にも留めないが、カプセルトイはコンビニにも設置されているものらしい。
「今日は、財布持ってるか?」
「うん!」
うにゅほがポシェットを掲げてみせた。
このあいだは百円玉が足りなかったからな。
カプセルトイに二百円を投入し、うにゅほが恐る恐るレバーを回す。
「?」
「もうすこし回してみ」
ことん。
「あ、でた」
オレンジ色のカプセルを片手に、得意げな顔で振り返る。
「じゃあ、車のなかで開けよう」
「うん」
車内に戻り、カプセルを手に取って見ると、俺の知るものとは大きさも形も違う。
進化しようのないものだと思っていたが、そうでもないようだ。
「──…………」
神妙な顔をして、うにゅほがカプセルを開く。
「ニャンコせんせいのストラップだ……」
「おー、よかったなあ」
「うん!」
同封の説明書を見ると、全7種+シークレットのすべてがニャンコ先生だった。
特に当たりというわけでもないらしい。
「ね、つけていい?」
「何に?」
「あいふぉん」
「……自分の携帯は?」
「だって、イルカあるもん」
以前に買ってあげたイルカのストラップのことだろう。
「付け替えるのは?」
「……かえたくないもん」
俺のストラップはいいのか。
わがままだなあとは思いつつも、うにゅほがわがままを言うのは珍しい。
「まあ、いいよ」
「!」
うにゅほが、ぱあっと表情を変えた。
「ありがとう!」
「──……や、ほら、ストラップ」
やや照れくさかったので、さっさと付け替えてしまうことにした。
しかし、である。
「これは……」
ストラップを交換する俺の手が、止まった。
「?」
「これは、構造上絶対に不可能なのでは……」
うにゅほが引いたストラップは、ニャンコ先生が食べかけのイカリングの上に寝転がっているもので、五百円玉より大きい上にかなりの厚みがある。
これが、どうしても松葉紐をくぐらないのだ。
まるで知恵の輪である。
「やっていい?」
うにゅほに無言でiPhoneを手渡す。
数分後、
「──……むり……」
あきらめた。
質の良い昨今の市販品でも、こんなことがあるのか。
それとも、俺たちの手先が単に不器用なだけなのだろうか。
ニャンコ先生のストラップは、うにゅ箱のなかで大切に保管されることとなった。
どっとはらい。



2013年2月12日(火)

免許の更新に行ってきた。
二ヶ月も猶予があると油断するもので、期限ギリギリになってしまった。
久方ぶりの座学にへろへろになって帰宅すると、時刻は既に午後三時を回っていた。
「ただいまー……」
「おかえり、めんきょとれた?」
うにゅほは、免許の更新を試験かなにかと勘違いしている。
「ああ、もらってきた──」
財布から新しい免許証を取り出そうとして、あることを思いついた。
コートのポケットから古い免許証を取り出し、新しい免許証と並べてうにゅほの眼前に差し出す。
「さて、どっちが新しいでしょう!」
「えっ」
「制限時間は5秒! 3、2、1──」
「よんは!?」
免許証をさっと隠す。
「さあ、右と左どっちでしょう」
「あ、あなのあいてないほう」
「正解!」
両方の免許証を手渡す。
「免許写真があまりに間違い探しだから、ちょっと遊んでみたくなってさ」
「しゃしん?」
うにゅほが免許証を見比べる。
「ほんとだ、そっくりだ」
「いや、そっくりもなにも当人だから」
ただ、コートから眼鏡から髪の長さまでまったく同じなので、微妙に面白い。
すこしは老けているのかもしれないが、免許写真の解像度では判別できない程度である。
「あ、シャツのいろちがうよ」
「あー……」
いっそのこと合わせて行けばよかった。
「めんきょのこうしんって、なにするの?」
「ん? そうだなあ……」
座ったままなにもしないというのが本当のところではあるが、それではつまらない。
「教官ぽい人の話をじっと聞いてー」
「きいてー?」
「交通事故の再現ドラマを見てー」
「みてー?」
「居眠りを厳しく取り締まるなら暖房切ればいいのにとか思いつつ」
「つつ?」
「免許を受け取って帰る」
「おもしろそう」
「どこをどう聞くとそうなるんだ……」
再現ドラマの内容が前回と同じだったことを除けば、まったく面白くない。
「おもしろくないの?」
「面白かったらスキップで帰ってきてるよ」
「うそだー」
「嘘だけど」
まあ、うにゅほもいずれ通る道であろう。
今だけは楽しい夢を見るといい。



2013年2月13日(水)

肛門が切れた。
大したことはないと思うが、二度も手術はしたくない。
同じく痔で入院している弟を見舞うふりをして、肛門科を受診することにした。
問題は、うにゅほである。
痔持ちの過去は既に露見しているが、現在進行形のものは可能な限り知られたくない。
というか、そもそも肛門を話題にしたくない。
さて、うにゅほをどうかわすべきか。
「ちょっと友達と会ってくるよ!」
「そうなんだ?」
うにゅほが俺を見上げる。
「……あ、ついでだから弟のお見舞いもしてこようかなー」
「そっかー」
「──…………」
「?」
うにゅほに嘘をつくと、妙に罪悪感が募る。
しかし、これは尊厳を守るための闘いなのである。
「いってきます!」
迷いを振り払うように、力強く挨拶を告げた。
「──……?」
うにゅほは、最後まで不思議そうな顔をしていた。
診断は、軽い裂傷だった。
ここしばらく便秘がちだったためだろう。
弟を見舞うと、えらく歓迎された。
僅か一週間とは言え、入院は入院である。
暇で仕方がないらしい。
二時間ほど話し込んで病室を辞した。
「ただい、まー……」
「──……ぷすー」
帰宅すると、布団も掛けず、うにゅほが昼寝をしていた。
コートを脱ぐと、いささか肌寒い。
「風邪引くぞー……」
うにゅほが掛け布団を下敷きにしてしまっていたので、そっとコートを掛けた。
「足は我慢してくれよ」
靴下を履かないのが悪い。
「──……ひっひっひっ」
さて、こうなるとむくむく湧いてくるのが悪戯心である。
なにをしてくれよう。
口のなかに指を入れるのは二度とやるまいと決めた記憶がある。
「それにしても──」
うにゅほの傍に膝をつく。
「無防備な寝顔して、まあ……」
やわらかな頬にそっと手を添える。
「んぅ」
「!」
「──……ぴすー」
うにゅほの鼻が鳴る。
鼻炎なのだろうか。
「──…………」
寝乱れた前髪を整えながら、ふと思いついた。
額に口づけなど、どうか。
「やめよう」
即断だった。
そういうのはちょっとなあ。
まあ、思いつかないなら無理にイタズラをすることもない。
いささか欲求不満ではあるが、今日のところはこれくらいにしておいてやろう。



2013年2月14日(木)

図書館から帰宅し、ハンガーにコートを掛ける。
「ボロボロになったなあ……」
ハンガーを掲げ、そう呟いた。
六年もののコートである。
そこそこの値段で購入したものだが、袖口がほころび、あちこちにシミが浮いている。
「春になったら買い換えよう」
冬物処分の時期を狙えば、そこそこの値段で手に入るはずだ。
「それ、すてちゃうの?」
うにゅほが、落ち着きのない様子でそう尋ねた。
「捨てはしないと思うけど……たぶん、衣装箪笥の肥やしになるだろうな」
「そうなの?」
「この保管状態じゃ、どのみち買い取ってもくれないだろうし」
自嘲気味に笑う。
「これ、きていい?」
そう言いながら、うにゅほがコートを抱き寄せた。
「いいけど……」
「!」
いそいそと自分のコートを脱ぎ、俺のコートに袖を通す。
「おもい」
「生地はいいからな」
ぶかぶかのコートを着るさまは、小動物的なかわいらしさがあるなあ。
「あったかいよ?」
「そうじゃなければ六年も着ないよ」
「でも、あたらしいのかうの?」
「そろそろ、みっともないの域に達しつつあるからな……」
うにゅほのおなかのあたりを指さし、言った。
「ここ、留め具が折れてるだろ」
「どこ?」
「ほら、これこれ」
「あ、ほんとだ」
まあこれは購入して一年で折れたんだけど。
「あと、クリーニングに出しても落ちない油ジミがここにあるだろ」
「あぶら?」
「たぶん、コンビニの唐揚げかなにかを落としたんだと思う」
「──…………」
うにゅほが呆れたような視線を向ける。
仕方ないじゃないか。
「あと、袖のあたり見てみな」
うにゅほが右手を上げる。
「みえない」
腕の長さが足りないので、袖口がだらんと垂れている。
「ほら」
「あ、ぼろぼろだ……」
傍から見てもわからないが、着ることでようやくわかることもある。
「あとは、そうだな──」
うにゅほの首に手を回し、フードをかぶせた。
「わ」
「ファーも、ごわごわなんだ」
恐る恐るといった様子で、うにゅほの指先がファーを撫でる。
「ほんとだ」
「な、そろそろ寿命だろ」
「うん……」
フードを上げながら、うにゅほが言った。
「でも、たまにきてほしい」
俺は、うにゅほのお願いに弱い。
「そりゃー……まあ、いいけど」
うにゅほなりに気に入っているのだろう。
ちなみにバレンタインは、弟の退院祝いと一括で不二家のチョコレートケーキだった。
去年はたけのこの里だったし、こんなものだろう。
最初から期待はしていなかった。
ほんとはすこしだけしてた。
でもまあなにもないよりはマシと前向きに考えることにする。



2013年2月15日(金)

ラップをかけるのが苦手である。
400メートル走くらい苦手である。
どんなに注意を払おうと、切った瞬間に重なってしまう。
剥がそうとすればするほど混沌は深まっていく。
「だから、かけたくない」
「そう……」
昼食をとったあと、ごはんが余った。
それを深皿によそい、ラップをかけようとした。
そして、失敗した。
ラップの長さが足りなかったのだ。
「じゃあ、わたしやるね」
「仇を討ってくれ」
「うん」
しょうがないなあ、という表情を浮かべ、うにゅほがラップの容器を手に取った。
失敗した。
「これは……」
くちゃくちゃのラップが深皿を包んでいる。
包んでいるが、隙間が空いている。
「相手を舐めてかかってはいけないぞ、××隊員」
「でも、のばせば」
うにゅほが引き伸ばした瞬間、ラップが裂けた。
切り口が破れていたのだろう。
「──…………」
「難しいだろう」
「はい」
「わかってくれたなら、いい」
「でも、どうすれば……」
もう一度やれば普通にかけられるのだが、それではあまり面白くない。
「どうすればいいと思う?」
「──……すいはんきにもどす?」
「負けを認めるのか」
「だって……」
「俺たちはふたりいる……そのことを、よく考えるんだ」
「!」
うにゅほが、はっと顔を上げる。
「そうだ!」
うにゅほが考えた作戦は、以下のとおりである。
まず、充分な長さのラップを食卓テーブルの上に取る。
そして、よっつの頂点をふたりで持ち、引き伸ばしながら深皿にかける。
「完璧な作戦だ……」
「──…………」
うにゅほが照れている。
「では、早速──……」
引き出したラップが、すぐに途切れた。
使い終わったのだ。
「……炊飯器に戻すか」
「うん」
昼食に使った食器と共に深皿を洗い、片付けた。



2013年2月16日(土)

昨夜のことである。
うにゅほがちょこちょこと寄ってきて、言った。
「はさみ、ある?」
「ああ、あるよ」
二段目の引き出しを開き、ハサミの柄をうにゅほに差し出す。
「あ……ありがとう……」
とてとてとリビングに戻っていく。
「──……?」
ハサミくらい、リビングになかったっけ。
数分ほどしてから、うにゅほが再び寄ってきた。
「じょうぎ、ある?」
「あるけど……」
なにに使うのだろう。
引き出しから定規を取り出し、うにゅほに手渡す。
「今日は夜更かしさんだな」
そろそろ日付けが変わろうとしている。
「……そろそろ、ねる」
呟くように言うと、肩を落とし、うにゅほはリビングへと消えていった。
なにか様子が変である。
うにゅほはそれからすぐ布団にもぐってしまったため、話を聞くことはできなかった。
深夜一時に差し掛かったころ、メモ帳を求めて引き出しを開いた。
しかし、三段目が開かない。
なにかが引っ掛かっているようだ。
押し戻し、もう一度引き出すと、ようやく開いた。
「──……あれ」
そこに、見慣れないものがあった。
綺麗なラッピング用の巾着袋である。
それも、ふたつ。
これはもしかして。
はやる気持ちを抑えながら、片方の巾着袋をそっと開く。
チョコレートが入っていた。
「お、お、おおおおお……──」
完全にあれだ。
バレンタインデーのやつだ。
もしかして、当日からずっとここに入っていたのか?
さきほどのうにゅほは、いい加減に気づけよお前と内心で思っていたわけか!
なんというか、その、嬉しい。
期待していなかっただけに、その反動でかなり嬉しい。
「……でも、なんでふたつ?」
片方には、手作りらしき数種類のチョコレートが詰まっている。
市販っぽい小さなタルト生地にチョコを流し込んだものや、アルミ箔の容器で型を取ったようなものなどだ。
「こっちは──……」
もうひとつの巾着袋を開く。
「あ」
そこには、シュガーパウダーのまぶされた大きなハート型のチョコレートがあった。
恐らく、前者が母親からで、後者がうにゅほからのものだろう。
逆だったら嫌だ。
にやける頬を両手で撫で付けて、チョコレートを仕舞った。
大事に食べよう。
そして、うにゅほの寝顔を覗きながら、声を出さずにありがとうと言った。



2013年2月17日(日)

「おー」
「おはよう」
「おさげだ」
「おさげだよ」
「触っていい?」
「いいよ」
「わー」
このところ、髪を編んでいることが多い。
うにゅほのなかでなにかしらのトレンドがあるらしい。
「おさげは楽しくていいな」
「おさげ、すき?」
「好き」
「ずっとおさげがいい?」
「あー……──」
そう言われると、困る。
「……たまにがいいかなあ」
「そうなの?」
うにゅほが意外そうな表情を浮かべた。
「いつもだからいいものと、たまにだから好きなものは、違うというか」
「?」
小首をかしげる。
「えーと、ごはんとステーキみたいな」
「あー」
わかったような、わかってないような。
「あと、三つ編みってほどくとウェーブかかるだろ」
「うん」
「あれ好きなんだけど、次の日もちょっと波打ってるじゃないか」
「そだね」
「毎日おさげにして、ストレートヘアが見れなくなるのも嫌かなーと。
 ストレート好きだし」
要するに、なんでも好きなのである。
「そっかー」
うにゅほくらいのロングヘアだと、毎日編むのは大変そうということもあるし。
「あ、そうだそうだ」
ぽんと手を打った。
「やろうやろうと思いながら、いつも忘れてたんだよな」
引き出しを開き、なかを漁る。
ちなみにバレンタインチョコについては感謝の言葉を既に伝えてある。
「はい、これ」
オーバル型の茶色いケースを、うにゅほのふとももにそっと放る。
「わ!」
取り落としそうになりながら受け取ったそれを、うにゅほが興味深そうに掲げた。
そして、おそるおそるケースを開く。
「あ、めがね!」
「前に俺が掛けてた眼鏡だよ」
「かけていいの?」
「大丈夫だと思うけど、度が強いから気をつけてな」
うにゅほに眼鏡は似合わない。
しかし、おさげという委員長属性を備えた今ならば、もしかするともしかするかもしれない。
「!」
意気揚々と鼻息を荒らげながら、うにゅほが眼鏡を掛ける。
「──……う」
軽くくらっときたらしい。
それにもめげず、ゆっくりと上げたその顔は──
「──…………」
「どう?」
「普通かなあ……」
サイズ違いの眼鏡をずり下がらないように支えるさまは可愛らしいが、それはあくまでしぐさに過ぎない。
「えー……」
「まあ、眼鏡なんて掛けずに済むならそのほうがいいんだし」
「──…………」
あまり納得がいってない様子である。
仕方がないので、引き出しに入っていた雲形定規で惑わしてみた。
惑わされなかった。



2013年2月18日(月)

「んー……──」
口内でもごもごと舌を動かしてみる。
ふたつにたたみ、歯列をなぞり、食べかすを取ろうと首を傾ける。
「なにしてるの?」
それを奇行と捉えたか、うにゅほが不思議そうに疑問を述べた。
「なんか、舌が痛い」
「だいじょぶ?」
「大丈夫。理由からして大したことないし」
「なんでいたいの?」
「飴のなめすぎかな……」
「──…………」
浮きかけたうにゅほの腰が、ぽすんとソファに収まった。
呆れられている。
「いいか、××隊員」
「?」
「これには理由があるんだ」
「りゆう?」
「そうだ、すべてはレモンのせいなんだ」
「レモン……」
「××はレモン味の飴、好きか?」
「すき」
「俺も好きだ」
「うん」
「だから、レモン味の飴をたくさん買ってしまったんだ」
「うん」
「でも、レモンは酸性だ」
「さんせい?」
「酸は、すっぱいの酸」
「ふうん」
「酸には、ものを溶かす性質がある」
「えっ」
「もちろん、レモンも例外じゃない」
「だいじょぶなの?」
「具体的に言うと、レモン味の飴をたくさん舐めると舌がすこし荒れるくらい」
「あー……」
「だから、レモンのせいなんだ」
「──…………」
うにゅほがおもむろに立ち上がり、つかつかとこちらに歩み寄る。
そして、飴を詰めた南部せんべいの丸缶を覗き込んだ。
「あ、すごいへってる!」
具体的には、もう二割くらいしか残っていない。
「レモン味が美味しいから悪い」
「ぼっしゅうです」
「ああ!」
丸缶を持って行かれてしまった。
「人間には自由に飴を舐める権利がだな」
「はいはい」
「あ、ほんとに没収する流れ……?」
口寂しいんだけど。
「なめてもいいよ」
「あ、そう?」
「こっちにおくだけ」
「何故に?」
「ちかくにあると、たくさんなめちゃう」
一理ある。
飴代でエンゲル係数を上げたくはないので、素直に従うことにした。
舌も痛いし。



2013年2月19日(火)

昨夜のことである。
「──……すー」
吐息の音が耳朶に触れる。
「──……ぷすー」
ちらりと横目で窺う。
ソファの上でうにゅほが眠っていた。
読書をしながらそのまま寝入ってしまったのだ。
時刻は午前二時を回っている。
俺は悩んでいた。
俺の寝床であるソファを占拠されてしまったのは、大した問題ではない。
うにゅほの寝床を使えばいいだけの話だ。
しかし、である。
「どうして掛け布団の上で寝てるんだ……」
普段俺が使用している布団やら毛布やらをわざわざ敷いて、その上で高いびきを決め込んでいるのである。
このままにしておくと、確実に風邪を引く。
かと言って、うにゅほの寝床から布団を持ってくると、今度は俺が風邪を引く。
ストーブをガンガンに焚いて対処してきたが、朝まで続けることはできない。
「──…………」
ちらりと横目で窺う。
これ以上ないくらい安らかな寝顔である。
「……はァ」
音がしないよう静かに立ち上がると、ソファの傍に膝をついた。
「これはまた、いぎたない……」
あられもない寝相である。
よくソファから落ちなかったものだ。
室温が高いせいか着衣も乱れており、へそどころか下着まで僅かに覗いている。
「──…………」
へそに指を突っ込みたい衝動を抑え、パジャマのすそを整えた。
さて、どうしようか。
うにゅほの鼻をつまんで起こしてしまうのは楽だが、いささか心苦しいのも事実である。
寝入りばなに寝床まで誘導しなかった俺にも責任の一端はあるからだ。
「──……ふすー」
「──…………」
ごくりと喉を鳴らす。
うにゅほの寝息が、俺の耳朶と、俺の心に潜むある衝動をくすぐった。
眠っている女の子を起こさないように、お姫様抱っこで布団まで運んでみたい!
漫画でよくあるシチュエーションが空前のスケールで今ここに蘇る。
「やるしかない……!」
俺はさっと立ち上がると、うにゅほの寝床を整えた。
掛け布団の上から掛け布団の上に運ぶというアホなことはしたくない。
「──……さあて」
両手を擦り合わせながら、うにゅほの前に立った。
うにゅほは小柄で、体格も華奢である。
さほど苦労もなく運ぶことができるだろう。
「よし」
うにゅほの背中と膝に手を回し、意気揚々と立ち上がろうと──
「──……ぐ……ぅ!」
両腕を、甚大な負荷が襲う。
よく考えたら、うにゅほがどれほど軽くとも、米袋の数倍はあるのだ。
「どっ……せい!」
なんとか体勢を立て直す。
一度持ち上げてさえしまえば、なんてことはない。
寝ていたのがソファでよかった。
床の高さなら絶対に無理だった。
「──……あっ」
今からうにゅほを下ろすのは、床と大差ない高さの寝床である。
軽く眩暈がした。
しかし、人間は考える葦である。
寝床の傍に膝をつき、正座をすることで、両腕と腰への負担を最小限に抑えたのだ。
「ふうっ」
吐息を漏らし、横たえたうにゅほに視線を下ろす。
「──……すー……」
よく寝入っているようだ。
うにゅほに布団を掛け、そっと腰を上げた。
静かな達成感がある。
翌日は昼まで泥のように眠り、うにゅほに叩き起こされた。



2013年2月20日(水)

祖母を連れ、近所のスーパーへと赴いた。
頻度が少ないぶん、一度に買う量が半端ではない。
「ぐ、ぬぬ……──」
パンパンに膨れたエコバッグの持ち手が、指の腹にずしりと食い込む。
持てないほどの重さではない。
指が死ぬほど痛いことを除けば、なにひとつ問題はない。
「だいじょぶ……?」
うにゅほが気遣わしげに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫──……だけど、ゆびがいたい……」
指の筋力を総動員し、持ち手を手のひらに巻き込んだ。
今度は手のひらが痛むけれど、幾分かましである。
「さっ……さと、帰ろうか……」
「あっ」
祖母の手を引いたうにゅほが、思いついたように口を開いた。
「てぶくろしたら?」
「──……あー」
それは思いつかなかった。
エコバッグを下ろし、常備している厚手の手袋を両手につけた。
「おおー」
痛くない。
快適である。
夏場も、軍手のひとつくらい携帯しようかしらん。
「ただいまー、と」
車内からエコバッグを引きずり出し、玄関へと足を向ける。
「あ!」
小さく声を上げて、うにゅほが小走りに俺を追い越した。
「走ったら危ないぞ」
「ごめんなさい」
謝りながら、風除室の引き戸を開く。※1
「わたし、あけるね」
「ありがとう」
両手が塞がっているため、本当にありがたい。
俺が風除室に入るのを見届けたあと、うにゅほが再び俺を追い越した。
「はい!」
玄関扉を開き、導くように片手を上げる。
「──…………」
なにも言わなければどうなるのか気になったので、無言で玄関をくぐった。
靴を脱いでいる最中、うにゅほが三度俺を追い越した。
「はい!」
そして、防寒用の内扉を開き、楽しげに俺を導いた。
「えーと……ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして!」
どうしよう、言おうかな。
「──…………」
水を差すのも悪いので、やっぱりやめておこう。
いちいち俺を追い越さずとも、最初からすべての扉を開けばよかったのに──なんて、わざわざ口にする必要はない。
二言三言うにゅほと会話を交わしていると、祖母が俺たちを追い越して、言った。
「待ってないで、ぜんぶ開ければいいしょ」
ばばあ!

※1 風除室 ── 外気の流入を緩和するため、玄関の前に設けられた小部屋のこと。玄関フードとも。



2013年2月21日(木)

「──…………」
眼鏡がずり落ちるくらい、雪が積もっていた。
ふたりぶんの足跡が、車庫へと破線を連ねている。
うにゅほが母親と外出していることを、心の底から感謝した。
どちらかと言えば穏やかな性格と自覚しているが、雪かきという行為は、善人をたやすく悪鬼へと変えてしまう。
目算で一時間半コースともなれば、尚更である。
不慣れなうにゅほに苛立つ自分など、想像すらしたくない。
「──……あー……」
一時間半の苦行を終え、玄関に腰を下ろした。
天井を見上げ、うめく。
なにもしたくない。
どれくらいのあいだ、そうしていただろうか。
「あっ……」
自動車の排気音が、鼓膜を叩いた。
母親とうにゅほが帰宅したらしい。
おもむろに立ち上がり、肩の雪を払った。
悄然としているさまを見せたくはない。
玄関の扉を開き、母親が顔を出した。
母親は、雪かきの礼を言うと、さっさと二階に上がってしまった。
ばたん。
音を立てて、扉が閉まる。
すりガラス越しに、薄いベージュのコートが覗いている。
苦笑して、玄関を開いた。
「わ」
「おかえり」
「た、だい、ま……」
フードを目深にかぶり、両手で頭を抱えている。
「なーに恥ずかしがってるんだよ」
「だって」
「フード取って、見せてくれよ」
「……わらわない?」
「笑うと思う?」
「すこし」
信頼度が下がっている。
「……じゃあ、とるね?」
そう言って、おずおずとフードを上げていく。
「おー……」
「──……どう?」
「前髪、さっぱりしたな」
母親と、美容室に行ってきたのだ。
記憶が確かならば、およそ半年ぶりになる。
「うん、似合うよ」
「ほんと?」
「というか、切る前がもさもさだったからな……」
きちんと手入れをしていても、限界はある。
「後ろ、どれくらい切ったんだ?」
「ちょっとまってね」
うにゅほがコートを脱ぎ、背を向けた。
「うわ、ばっさりだな!」
「うん……」
とは言え、背中の中央に届くほどはある。
「前はちょっと長すぎたな」
「うん」
「座るとき、おしりの下敷きになるくらいだったもんなあ」
「たまに、いたかった」
うにゅほの前髪を右手で掻き上げながら、口を開く。
「さっぱりして、いいと思うよ」
「でも、さみしい……」
そう呟きながら、自分の背中に手を回す。
髪の毛の感触を探しているようだった。
落ち着かないのだろう。
うにゅほは、自分の髪をとても大切にしているから。
「また伸びるって」
「そうかな……」
「そこは疑問に思わなくていいだろ」
談笑しながら、自室へ戻った。
雪かきの疲れは、いつの間にか感じられなくなっていた。



2013年2月22日(金)

今日は2月22日である。
にゃんにゃんにゃんで猫の日である。
「ついに来たか……」
プチエクレアをつまみながら、物思いにふけっていた。
「──……××」
「んぅ?」
頬いっぱいにあんまんを詰め込んだうにゅほが、こちらに視線を寄越す。
「今日って、なんの日か知ってるか?」
「きんようび」
「それはまあ、金曜日だけど」
俺の求めている答えではない。
「ヒント、2がみっつ並んでいます」
とにかくうにゅほににゃんにゃんと言わせたかった。
「んー……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「!」
そして、すかさず警戒態勢を取った。
「ひっかからない!」
「ちっ」
どうやら、先月の記憶を呼び起こしてしまったようだ。※1
「それはそれとして、なんの日でしょう」
「──…………」
警戒している。
「なーんのー日だっ」
「……あ、あひるのひ?」
「あひる?」
「あひるのかたち……」
「──……あー」
そんな歌があったような。
「あひるが三羽で?」
「あひるさん」
「あひるの鳴き声」
「があがあがあ」
「ふむ」
これはこれで。
「でも、違います」
「──…………」
うにゅほが、だろうねという顔をする。
「ほかには?」
とにかくうにゅほににゃんにゃんと言わせたくて仕方がなかった。
「えー……──」
深く思案し、絞り出すように答える。
「えがおのひ……?」
「笑顔?」
「ふふふ、で、えがお」
「なるほど……」
感心してしまった。
「でも、笑顔の日でもないんだよね」
「──…………」
「わかってるんだろう?」
にやりと口角を上げてみせる。
気圧されたように、うにゅほが口を開いた。
「ね、ねこのひ」
「どうして?」
「にゃん、にゃんにゃん……だから」
「──…………」
しばし焦らしたあと、
「正解!」
と、うにゅほの頭を撫でた。
「え、せいかい?」
きょとんと俺を見上げる。
「今日は猫の日だよ」
「そうなの……」
「あ、でも、おでんの日でもあるらしい」
「おでん?」
「熱々のおでんに、ふーふーふーと息を吹きかけるからだって」
「ふうん……」
うにゅほににゃんにゃんと言わせることに成功したので、今日の仕事は終わりです。

※1 2013年1月11日(金)参照



2013年2月23日(土)

「ほあー……」
玄関をくぐったうにゅほが、目の前の景色に感嘆の息を漏らす。
家の前の通りにロータリー除雪車が入り、窮屈だった道幅が綺麗さっぱり広くなったのである。
しかし、感嘆の理由はそれだけではない。
「かべだ……!」
道路の両脇に雪の壁がそびえ立っていた。
根雪まで削り取る除雪車が創り出した、雪国特有の光景だ。
さながらモーゼが割り開いた海底の道のようである。
「の、のぼっていい?」
「落ち着け」
うにゅほの頭をガッと掴む。
「だめ?」
「駄目じゃないけど、すこし待ちなさい」
腰をかがめて視線を合わせると、雪壁を指して諭すように言った。
「よく見てみなさい」
「うん」
「雪の壁に、灰色のラインがあるね」
「ある」
「なんだと思う?」
軽く思案し、うにゅほが答えた。
「きたないゆき?」
「そう、汚い雪の層だ」
雪壁は断層に似ている。
気温が高かった日の雪の層は、解けて汚れているのだ。
「それで、××が着ているものは?」
「──……コート」
「色は?」
「すごいうすいちゃいろ」
「ベージュな」
「べーじゅ」
「登ったらどうなるか、わかるな」
「うん……」
うにゅほから視線を外し、背筋を伸ばす。
雪の壁を登りたい、ねえ。
気持ちはわかるんだけど、あまり女の子らしい発想とは言えない。
「だめかー……」
残念そうに呟いたうにゅほに、悪戯心で提案する。
「いや、駄目じゃないぞ」
「?」
「要するに、コートが汚れなければいいわけだ」
「うん」
「父さんが使ってた冬用の作業着があるから、それならいくら汚したって構わない」
「!」
その手があったか、という顔をされた。
「ううん……」
首を回しながら、うにゅほが唸る。
「そこまでは……」
我に返りかけているらしい。
「おばあちゃん、まってるし」
病院まで祖母を迎えに行くところだったのだ。
「帰ってきたら?」
「……やらない」
名残惜しげなうにゅほを乗せて、自動車のエンジンを掛けた。



2013年2月24日(日)

「漬け物、掘り出したってくれ」
祖母の言葉が脳裏に反響する。
降りしきる牡丹雪のなか、俺は途方に暮れていた。
「つけもの……」
金属製のシャベルに体重を預けながら、うにゅほが呟くように問い掛ける。
「つけもの、どこ?」
「灯油タンクの横、だったと思う」
「とうゆタンク、どこ?」
「そこに埋まってる」
屋外用オイルタンクは、自宅のすぐ横に設置されている。
傍にある駐車スペースの積雪は約1メートルだが、均一な積もり方はしていない。
壁際に限って言えば2メートルを優に超えている。
高さが2メートル近くある屋外用オイルタンクが埋没するに充分な積雪量である。
「つまり──、だ」
空を仰ぎながら、言葉を漏らす。
「1メートルの高さの雪の壁を打ち壊して、1メートルの深さの穴を掘らなくちゃいけない。
 ここまではいいか?」
「うん」
「しかし、そこに漬け物樽が埋まっているとは限らない」
「……うん」
「見つかるまで、それを繰り返さなきゃならない」
「──……うん」
「宝探しみたいで楽しいな」
「むりしないで……」
「しかも、それで見つかるのが、漬け物の樽だなんて……」
大仰にうなだれて見せる。
「俺、漬け物あんま好きじゃないのに」
「わ、わたしはすきだよ」
「××は、よくポリポリ食べてるもんな」
「うん」
「漬け物、好きか」
「うん」
「雪の壁を掘り返すほど?」
「──…………」
うにゅほの顔が凍りつく。
ああ、いかんいかん。
うにゅほを困らせるつもりではなかったのだ。
「……まあ、頼まれちゃったからな」
「うん……」
「父さんも、母さんも、××も、婆ちゃんの漬け物を楽しみにしてるわけだし」
「うん」
「俺は食べないけど……」
「──…………」
どうにも愚痴っぽくなっていけない。
「よし、やるか!」
「──…………」
「おー!」
「お、おー……」
「俺がシャベルで雪を掘るから、××はとにかくダンプで運びだしてくれ」
「うん!」
屋外に出て五分、ようやく作業を開始した。
幸いなことに、二度目の掘削で漬け物樽を見つけ出すことができた。
掘り出す際にも一騒動あったが、愛用の手袋が漬け物臭くなっただけなので割愛する。
「漬け物、好きか」
「うん」
白菜の漬かり具合を味見して確かめる祖母とうにゅほの姿を見ながら、アンニュイな気分に浸る日曜の午後だった。



2013年2月25日(月)

なにをもって過ちとすべきか。
あてもなくふらふらとドライブに出かけたことが、そもそもの間違いと言えば言える。
だが、想像してほしい。
今日は天気がよく、うららかな日和だったのだ。
豪雪続きで気が滅入っていたのだ。
うかうかと外出したところで、斟酌の余地しかあるまい。
「──……ゆき、すごいね」
「ああ」
さて帰ろうかという段になって猛吹雪に見舞われたとしても、それは不可抗力というものだ。
「──……くるま、うごかないね」
「ああ」
吹雪が引き起こした渋滞に引っ掛かったとして、責められる謂れがあるものか。
「××」
「うん?」
「なんか、ごめんな……」
心のなかで言い訳を唱え続けたところで、誤魔化せないものは誤魔化せない。
「出るときに天気予報さえ見ていれば、こんなことには」
「──……う」
うにゅほが言葉に詰まる。
謝られても、返答に困るよなあ。
「携帯でいつでも見られるようになってから、天気予報って急に見なくなったなー」
徐々に話題をスライドしていく。
「そ、なの?」
「前は、テレビの天気予報とか結構チェックしてたんだけど……」
「みてないね」
「見てないな」
視線を前方に戻す。
ダンプの尻と雪の壁に彩られた窮屈な景色は、一向に変化する様子がない。
「いつでも見れると、見なくなるもんだな」
「そかな」
「借りてきたDVDはすぐに見るけど、うちにあるDVDはあんまり見ないだろ?」
「あー」
「たぶん、そんなものなんだろう」
「そんなものかー」
「そんなものだー」
「──…………」
「──…………」
会話が止まる。
オーディオから流れるジャズの音色が、沈黙を満たしていく。
「あー……」
「?」
「なんか、おなかすいたな」
「うん……」
薄明るい青色のデジタル数字が、午後七時半を示している。
夕飯時には帰れまい。
「次にセブン見かけたらさ」
「うん」
「おでん買って、車のなかで食べようぜ」
「おー……」
「名案だろ」
「──…………」
幾度も頷く気配が、助手席から伝わってくる。
「デザートも食べよう」
「うん」
「なにがいい?」
「……か、かりんとうまんじゅう」
「渋いなー」
適当に会話をしながら、セブンイレブンに寄って帰宅した。
どっと疲れる一日だった。



2013年2月26日(火)

東京から帰省した友人と久闊を叙し、馴染みの中華料理店で昼食を取った。
相変わらず、美味い。
追加の海老中華丼をふたりで分けて、満腹のまま帰宅した。
「ただいまー」
「──おかえり!」
玄関の扉を開くと、うにゅほが階段を駆け下りてきた。
「おかえり」
「ただいま」
うにゅほの前髪を左手で掻き上げ、靴を脱いだ。
「おみやげあるぞ」
右手に持った小さな紙袋を、うにゅほの眼前で軽く振る。
「おー!」
うにゅほの瞳が輝きを増した。
友人の恋人は、うにゅほにやたら贈り物をしてくれる。
あまり高価なものではないため、気軽に受け取れてありがたい。
「なかみ、なに?」
「いや、俺も知らない。部屋で開けよう」
「うん!」
家人と挨拶を交わし、自室に戻る。
カバンを下ろし、コートを掛けるあいだ、うにゅほは行儀よくソファで待っていた。
うにゅほの隣に腰を下ろし、軽く頷いてみせる。
「じゃ、あけるね」
「なんだろうな」
紙袋を開く。
「わ」
「えー……──」
なんだこれ。
「毛糸の……なんだこれ、なにかだ」
「シュシュだ」
「シュシュ? あの、髪をまとめるやつ?」
「うん」
手に取って、伸ばしてみる。
「あ、本当だ。なかにゴムが入ってる」
こういうのって、手編みで作れるものなのか。
「けっこう可愛いじゃん」
「うん!」
びよんびよんとシュシュを引っ張りながら、嬉しそうに頷いた。
「試しに、髪を──」
言いかけて、言葉を止めた。
今日はおさげである。
「♪」
「待たれよ」
三つ編みを解きはじめたうにゅほを制する。
「今は手首にでも付けておいて、試すのは寝る前にしよう」
「?」
「もったいないので」
「あー」
うにゅほが手を下ろす。
理解ある同居人でたいへん喜ばしい。
「ああ、そうだ。もうひとつおみやげがあるんだよ」
「ほんと?」
カバンを開き、コンビニ袋を取り出す。
「ミルキーのプリンを買ってきた──……ん、だ」
カバンに戻す。
上下に振れたのか、ぐちゃぐちゃになっていた。
結局、ふたりで仲良く食べた。
美味しかった。



2013年2月27日(水)

iPhoneで音楽でも聴こうかと、引き出しからカナル型イヤホンを取り出した。
コードを伸ばそうとして、不意に言葉を失った。
「からんでいる……」
失っていないじゃないか、という点は、お目こぼしいただきたい。
日記にタイトルを付ける習慣があったとするなら、間違いなく今日は「イヤホンコード、からむ」の巻だ。
それくらい、こんがらがっている。
「──…………」
無言でコードと格闘する。
ちなみに俺は、知恵の輪が苦手である。
「だー!」
あきらめた。
名誉のために述べておくならば、能力的に不可能という意味ではない。
コードを解くイライラと面倒くささが、音楽を聴くというそもそもの動機を上回ったのである。
許されるなら、引き千切りたい。
しかし、2480という謎の数字が脳裏を行ったり来たりする。
たとえ百均のイヤホンでも、そんなことはしないけど。
「ほどけないの?」
俺の手元を覗き込みながら、うにゅほがそう問い掛けた。
「解けないの。ほら、ぐちゃぐちゃだ」
イヤホンをぽんと手渡す。
「軽く巻いて仕舞っただけなのに、なんでそんなことになるんだろう」
「へんだねえ」
「今はあきらめた。あとでやる」
「やってみていい?」
「いいよお」
やりたがるだろうなあ、とは思っていた。
うにゅほのことだから、案外すぐに解いてしまうかもしれない。
「──……んぁー……」
期待半分で伸びをしていると、
「あ、できた」
「ぬぇ!?」
変な声が出た。
うにゅほの手元に視線をやると、たしかにコードが解けている。
「は、はやくない?」
「そかな」
「参考までに聞くけど、えー……どうやったの?」
「?」
小首をかしげる。
「いや、だから、どういう方法で解いたのかなと」
「──……?」
質問の意図がわからないらしい。
「ふ、ふつうに?」
「普通か……」
「くるってなってるとこ、こう、ひっぱって──」
「あー……」
ジェスチャーを交えて説明してくれているところ申し訳ないが、わからん。
結び目ができるほどではないにしろ、十数秒でどうにかなるものでもなかったと思うのだが。
それともまた、あれか。
単に俺が不器用なだけなのか。
半々あたりを落としどころにしておきたいのだが、どうか。



2013年2月28日(木)

「あ!」
帰宅して革靴の紐を解いているとき、階段の傍にいたうにゅほが声を上げた。
「ねこのえだ!」
浮ついた表情で、斜め上前方を指さしている。
「猫?」
その単語は聞き捨てならない。
こころもち慌て気味に靴を脱ぐと、うにゅほの隣に寄り添った。
視線を上げる。
「あー……」
そこに、額縁があった。
曲がり階段の突き当たりに飾られた、三匹の仔猫が遊ぶ可愛らしい絵だ。
「これが、どうかしたのか?」
「?」
「どうして小首をかしげる」
「これ、いつかったの?」
「えー……、と」
目を閉じ、眼球を上に向けながら、記憶を探る。
「この家を建てたときにはもうあったって聞いたから、たぶん三十年くらい前じゃないか?」
「──……?」
「だから、どうして首をかしげる」
「え、だって……」
うにゅほの指先が、指し示すものを求めさまよう。
「え?」
「え?」
会話が噛み合っていない。
「いつからあったの?」
「だから、三十年くらい前だと思うよ」
「ずっと?」
「俺が子供のときから、ずっとここに飾ってあるけど」
「え……?」
「──…………」
じわじわと、なんとなくわかってきた。
「もしかして、だけどさ」
「うん」
「ここに額縁があること、ずっと気づいてなかったの?」
「──……うん」
「そっかー……」
実のところ、理解できなくはない。
下から数えて僅か数段のところに階段の曲がり角があるため、視界に入る時間が極端に短い。
一段目などは自然と足元を気にしてしまうので、余計である。
なにより、
「この額縁、やけに位置が高いからなあ」
真正面の踏み板に立ったときでさえ、額縁の下端が俺の頭上にある。
視界に入りにくいことは否めない。
「──……あー……」
でも、一年半か。
それくらいあれば、生まれたばかりの赤ん坊もつかまり立ちをするのではないか。
「まあ、そういうこともある……と、思うよ」
俺の下手ななぐさめに、
「──…………」
うにゅほがずうんと肩を落とした。
「あ、そうだ、ほら、近くで見てみよう!」
階段を上がり、うにゅほを手招く。
「……?」
「この絵、よく見ると立体になってるんだよ」
「わ!」
「すごいだろ」
「うん!」
ころっと機嫌の直ったうにゅほの隣で、静かに胸を撫で下ろした。


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