2013年1月1日(火)
元日なので、なにもかも投げ捨てて全力でだらだらしていた。 こたつがあれば危うく永住するところである。 雑煮はうまいし、寿司もうまいし、うまいものだらけでたいへんよろしい。 体重計は部屋の隅に寄せておいた。 「◯◯ー」 ソファの上でうだうだしていると、うにゅほが自室に戻ってきた。 「おとしだま」 思わず背筋が伸びる。 「……誰の入れ知恵だ」 「となりのおばさんが、◯◯にちゃんとおとしだまもらいなさいって」 余計なことを。 「おお、おばさんに年始の挨拶をしないとな」 「かえったよ」 「──…………」 持ち上げかけた腰を下ろす。 「そうかー……」 俺はもう、お年玉をあげる立場なのか。 血縁の年下と言えばまだ乳飲み子ばかりなので、すっかり忘れていた。 ふと、十数年前の出来事を思い出す。 初めてお年玉をねだったときの従姉は、今の俺と同じ顔をしていたのだろうか。 「うー……」 財布を開き、唸る。 我が家のお年玉レートでは、小学生以上高校生未満は一律三千円である。 そこに収入補正をかけて、二千円が妥当なところだろう。 「──…………」 しかし、財布のなかには、千円札と一万円札がそれぞれ一枚ずつしかない。 千円は少ない。 せめて五千円札があれば一考の余地もあったろうが、一万円ではさすがに多すぎる。 さて、どうしよう。 家族に両替を頼んでもいいが、お年玉でそれをするのはいささか間抜けな気がしないでもない。 「おかね、ないの?」 財布を睨みつけて動かない俺を見かねて、うにゅほが言った。 「くれなくてもいいよ……?」 「いや、ちゃんとやる! 同情は結構だ!」 金がないわけではないのだし、年上としてその着地点だけは避けたい。 「ああ、そうだ! コンビニに行って万札を崩し、て──」 言葉に詰まった。 「……おとそ飲んじゃった」 飲酒運転ダメ、ゼッタイ。 コンビニはそう遠くないが、元日から歩いて行きたい距離でもない。 「あー……」 なにかないか、なにかないか、なにかないか。 二千円相当のものを──お年玉を物納もないだろう。 二千円相当のサービスを──なにをすればいいんだ、なにを。 二千円相当の金券は──そもそも持ってない。 「どちらかを選ばなければならないのか……」 千円か、一万円か。 実利か、名誉か。 「なんでこまってるの?」 「ああ……」 まあ、言っても構うまい。 「千円と一万円しかなくて、千円だと少ないし、一万円だと多すぎると思って」 「?」 うにゅほが小首をかしげる。 「いや、だから」 「せんえん、たくさんあるよ?」 うにゅほがポケットからいくつものぽち袋を取り出した。 「うーん……」 悩みの材料が、さらに増えた。 「どうしたの?」 「お年玉を、あげる当人に両替してもらうのは……」 それは、あまりに金勘定が過ぎはしないだろうか。 お年玉というものは、もっとこう厳粛で、行事的なものだと思うのである。 「──…………」 うにゅほがすこし頭を巡らせて、 「じゃあ、こうは?」 「どう?」 「おとしだま、いちまんえんちょうだい」 「──…………」 なにか考えがあるようだったので、素直に渡す。 「ありがとうございます」 ぺこり。 うにゅほがぽち袋を開き、数枚の千円札を取り出した。 「はい、おとしだま。ななせんえんあげます」 「あ、おお……」 そんな解決法が。 「ありがとうは?」 「ありがとうございます」 ぺこり。 「これでよし」 お正月らしく、うにゅほがしめやかに笑った。 ああ、よかった。 さりげなく三千円取られたけど、俺は気にしていない。
2013年1月2日(水)
数年振りに家族で花札をすることになった。 オイチョカブのルールを解説したが、うにゅほはいまいちピンとこないようだったので、まずは賭けずに数戦やってみることにした。 「これは、なんがつ?」 「──…………」 手書きの対応表をそっと手渡す。 「……これ、なんのはな?」 「──…………」 「なんのはな?」 「いや、言ったら親に聞こえるから……」 対応表を受け取り、「あやめ・五月」と書かれた部分を指さした。 「これ、あやめ?」 「おい言うな」 ノーゲームである。 「トランプじゃだめなの……?」 「──…………」 気持ちはわからなくもない。 そんなことを繰り返し、うにゅほはなんとかルールを覚えたようだった。 俺、うにゅほ、母親、弟、祖母の五名が、それぞれ二十本のマッチ棒を握り締め、本格的にゲームが始まった。 最初の親は弟である。 開かれた四枚の札のうち、二月の梅にマッチ棒を二本賭ける。 まずは様子見だ。 「おなじとこ、かけていいの?」 「ああ、好きなところでいい──……よ」 梅の札の上に、音を立ててマッチ棒が雪崩れた。 二十本全賭けである。 「ちょ、払いきれないから!」 弟が笑いながら悲鳴を上げた。 「だめ?」 うにゅほが俺を見上げて尋ねるので、 「いや、駄目じゃないけど……せめて半分くらいにしよう」 無難にそう答えた。 とんだギャンブラーである。 「おいちょ、おいちょ」 「その響き、気に入ったのか……」 それにしても、うにゅほの賭け方は面白い。 最初のように常識はずれの一点賭けをすることもあれば、四本三本二本一本とすべての札に階段状に賭けることもある。 やりたい放題とも言える。 全体的に賭け金が多いので、マッチ棒の増減が非常に激しい。 俺や家族もつられてしまい、持ち金の半分を賭けるのが当たり前という風潮が場に立ち込めていた。 「マッチ、なくなっちゃった」 「銀行から借金するか?」 「うん」 銀行と呼び名をつけた徳用マッチ箱から十本ほど取り出し、うにゅほに手渡す。 このノーリスクの借金が、賭け金のインフレに拍車をかけたことは否めない。 「いくらぶんどっても終わらないんだけど……」 「うるさい豪運」 結果、弟の一人勝ちだった。 驚異的なカブ率もさることながら、親番でのアベレージの高さが勝因と言える。 場に出たマッチ棒の九割を手中に収め、弟はマッチ棒長者となった。 まあ換金はできないんだけど。 「面白かったか?」 「うん」 「そりゃよかった」 「あしたやる?」 「……みんながやるって言ったらな」 気に入ったようで何よりだが、ギャンブルにハマらないか心配でもある。
2013年1月3日(木) 2013年1月4日(金)
年始の挨拶のため、母方の実家へと帰省していた。 既に幾度か足を運んでいるというのに、うにゅほは相変わらずかちんこちんだった。 カニ鍋をつつきながらいくらか酒も入ったころ、従姉が「カラオケ行こう」と言い出した。 「行くのは構わないけど……」 隣席のうにゅほに、ちらりと視線を向ける。 うにゅほって、持ち歌あったっけ。 以前ふたりでカラオケへ行った際、一曲たりとも歌い切ることができなかったような。 「……?」 うにゅほが俺の視線に気づき、 「!」 ガッツポーズを取った。 それは、俺の懸念をすべて理解した上でのガッツポーズなのか? 不安である。 「──となりのとっとろ、とっとーろー」 俺とうにゅほの歌声が、広い室内に響き渡る。 懸念は杞憂に終わった。 ひとりでは無理でも、デュエットならなんとか歌えることがわかったのである。 好きなだけ好きなように歌う、という行為がうにゅほにとっては新鮮だったらしく、頬を紅潮させながら楽しげに歌う姿が印象的だった。 入室してから一時間ほど経過したころ、 「ちょっとトイレ!」 俺の耳元にそう言い残し、うにゅほが廊下へと姿を消した。 「──…………」 しかし、十分経っても帰ってこない。 探しに行こうかと思ったが、大きいほうかもしれないし、そもそも俺は女子トイレに入れない。 従姉に頼んで過保護と笑われるのも嫌だったので、小用を済ませるついでに軽く見て回ることにした。 スリッパを履いて扉を開くと、 「あ」 いた。 「あ──……」 壁に背中を預けていたうにゅほが、不安げな横顔を喜色で満たした。 「◯◯!」 そして、ぎゅうと抱きついてきた。 「どうした?」 「──……へやのばんごう、わすれた」 「ああ……」 カラオケあるあるである。 なんとなくこのあたりかな、という範囲までは絞れたのだが、それ以上どうしようもなくなって立ち尽くしていたらしい。 「扉の窓は──……ああ、角度が悪いな」 「うん……」 「こういうことあるから、××も携帯持ち歩いたほうがいいよ」 「あいふぉん」 「俺のiPhoneじゃ、俺に電話は掛けられないだろ」 「うん……」 「帰ったら充電しとこうな」 「うん」 二時間ほど熱唱してから祖父母の家へ戻り、客間に布団を敷いた。 四人分しか敷けなかったので、あぶれた弟は祖父母のベッドのあいだにやむなく挟まることとなった。 うにゅほに合わせて早めに就寝したが、父親のいびきでなかなか眠れない。 「……さむい」 既に眠っていたはずのうにゅほが、震えた声でそう呟いた。 寒くて起きてしまったようだ。 「しばらくしたら、あったかくなるよ」 「ねれない……」 気持ちはすごくわかる。 「そっち、いっていい?」 「……だめ」 「さむいー」 「これで我慢しな」 うにゅほにすこしだけ近づいて、右腕を差し出した。 「……あったかい」 うにゅほが俺の腕を抱きしめる。 やわらかい。 あったかい。 「──…………」 そのまま眠りに落ちて、朝方に目を覚ますと、案の定うにゅほが俺の領土に八割ほど侵入していた。 「……寝てる?」 「うー」 うにゅほのほっぺたをぶにっとつつく。 熟睡していることを確認し、そっと布団を抜け出した。 早起きしてよかった。 一緒に寝ているところを見られでもしたら、なにを言われるかわかったものではない。
2013年1月5日(土)
クリスマスに、うにゅほからなめこのぬいぐるみをもらった。 トトロと並んで飾り棚に鎮座ましましているそれは、全長にしておよそ20センチほどである。 なめことしては巨大だが、ぬいぐるみとしては小さい。 「うーん……」 手にした物体を、蛍光灯に向けて掲げる。 全長にして、およそ50センチ。 巨大なめこのぬいぐるみである。 新年会の折、プライズコーナーで見かけて思わず連コインしてしまったのだ。 「でかい」 俺の部屋にあるぬいぐるみ群のなかでは比較的小柄だが、うにゅほがプレゼントしてくれたものより遥かに大きい。 うにゅほが喜ぶだろうという一心で手に入れたものだが、よく考えると、あれだ。 自分の贈ったものより大きなものをわずか二週間で返されたとして、果たしてそれは嬉しいのだろうか。 バレンタインデーにおける三倍返しなどはよく聞くが、ホワイトデーに三倍の量のチョコレートを返されても困惑するばかりだろう。 「どうしよう……」 困った。 大人げなく千円札を崩してまで取るべきではなかったのかもしれない。 帰宅したときにうにゅほが起きていれば、考えるいとまもなく問答無用で結果を見ることになっただろう。 しかし、当のうにゅほはと言えば、 「──……ぷすー」 かすれた鼻息を鳴らしながら、ソファで就寝中である。 寒いから布団で待っていろと言ったのに。 いやまあ俺の布団にくるまってはいるから、約束を反故にしたわけでもないけど。 「はあ……」 溜め息が漏れた。 いろんな意味で、どうしよう。 起こすのも可哀想だから、うにゅほはこのままソファに寝かせておくとして、なめこの件はどうしよう。 洋服ダンスの奥にでも仕舞いこんで、ほとぼりが冷めたころに取り出すとか。 いや、なにかのはずみで見つかったら言い訳のしようがない。 なんとも扱いに困るなめこである。 「──…………」 五分ほど頭を巡らせるうち、なんだか面倒になってきた。 もう深夜だし、アルコールも幾分か入っている。 だいぶ眠かった。 「いいや、ここに入れちゃえ」 布団をそっと持ち上げて、なかになめこを突っ込んだ。 「んぅ」 すこしだけ声を漏らしたが、うにゅほは目を覚まさなかった。 「~♪」 明日の朝、うにゅほはどんな顔をするだろう。 手早く寝間着に着替え、冷たいうにゅほの寝床で目を閉じた。 そして、そのまますべてを忘れ去った。 「──……はぁう」 あくび。 夕刻、眠気を覚えた俺は、すこしだけ横になることにした。 布団を引き上げようとして、違和感を覚えた。 なんかふくらんでる。 取り出してみると、巨大なめこだった。 うにゅほに気づかれることなく、布団のなかに放置されていたらしい。 なんかもういろいろとどうでもよくなって、巨大なめこをうにゅほに直接手渡した。 「わ、これどうしたの?」 「昨日、ちょっとゲームセンターでさ」 「りべんじだ」 「そう、リベンジ」 「ありがとう!」 うにゅほが、ほころんだ笑顔でそう言った。 「……どういたしまして」 俺の心配は、よく空回りする。
2013年1月6日(日)
両親の寝室には姿見がある。 着ていたシャツを脱ぎ捨て、鏡に映った半裸の男をじっと眺める。 外見は、まあ、問題ない。 脂肪が全身にうっすらと乗る体質なので、腹部だけがぽよぽよになっているということもない。 「──……◯◯?」 はッ! 背後から響いたうにゅほの声に、慌ててシャツをかぶる。 「どうしたの?」 「いや、なんでもない、なんでもない」 ああ、でも、ちょうどいいところに来てくれたかもしれない。 シャツのすそを整え、両腕を真横に伸ばした。 「……どう?」 「どう?」 「なんか、気になるところとか、ある?」 「?」 疑問符を頭頂部から浮かび上がらせながら、うにゅほが俺の全身をあらためる。 「あ」 「なにかあった?」 「めくそついてる」 「──…………」 寝起きですからね。 眼鏡の下に親指を差し入れて、目やにをこそぎ落とす。 「見た目は大丈夫……」 「みため?」 「いや、まあ、うん」 クリスマスに、1キロ太った。 正月も、確実に太った。 体重計が恐ろしくて仕方がなかった。 「ああ、そうだ。××、ダイエットするんじゃなかったっけ?」 年末に測ったとき、うにゅほの体重も1キロほど増えていたのだ。※1 「──っ!」 俺の言葉に、うにゅほがさっと青ざめた。 「やせてー……やせたー……と、おもうー……?」 両手の指先を合わせながら、あらぬ方向に視線を向ける。 よし、こいつはダメそうだ。 ふたり並んで遠慮なく飲み食いしていたのだから、うにゅほだけ痩せているはずがない。 どうせなら道連れにしてしまおう。 「……体重計、一緒に乗るか?」 半笑いで尋ねる。 「あ、うん……」 半笑いで答える。 ずうんと肩を落としながら、ふたりで自室へ戻った。 「どっちから乗る?」 「……じゃんけん?」 結果、うにゅほから乗ることになった。 「もってて」 セーターを脱ぎ捨てたうにゅほが、そろりそろりと体重計に足を乗せる。 「あ」 「どうだった?」 「2キロやせた」 「──…………」 「よかったー」 「──…………」 おい。 おい。 え、じゃあもしかして俺も痩せたとか? 「そんなわけねー!」 「!」 心からの叫びに、うにゅほがびくりとした。 「──……の、のる?」 「乗る……」 体重計に足を踏み出そうとして、 「──いや、明日! 今日一日だけ節制して、明日乗ります!」 一歩後ずさった。 「そう……」 うにゅほが慈愛の瞳で俺を見上げていた。 ちょっとイラッとした。
※1 2012年12月28日(金)参照
2013年1月7日(月)
父親に、急な来客があったらしい。 というのも、来宅したときソファでうとうとしていて気がつかなかったのだ。 「──……ん」 寒さで目を覚ますと、うにゅほがなんだかそわそわしていた。 どうしたか尋ねようとして、すぐに理解した。 壁の向こうから、聞いたことのない声が響いている。 「お客さん、いつ来たの?」 「いちじかん、くらい」 「一時間か……」 出づらい。 顔を出せない理由は特にないが、非常に出づらい。 玄関で出迎えて挨拶のひとつもかましてしまえば、あとは煮るなり焼くなり一杯いただくなり好きにできる。 しかし、不可抗力であれ最初に「挨拶をしない」というスタンスを取ってしまった以上、今から部屋を出るのは今更感が漂うというか。 「あれ、××は挨拶しなかったの?」 「──…………」 無言。 「どうかした?」 「……しらないひと、や」 正月三が日、親戚縁者総出でおもちゃにされたことがトラウマになっているらしい。 俺は、苦笑しながら溜め息をついて、 「じゃ、帰るまで籠城戦だな」 うにゅほの頭に手のひらを乗せた。 「それにしても、随分と寒いな……」 灯油ストーブの電源に手を伸ばそうとして、 「とうゆ、きれたよ」 「あ」 給油ランプが点灯していた。 どうしよう、給油のために部屋を出るべきだろうか。 ああでも籠城戦とか言っちゃったし。 自分の不用意な発言に振り回されている気がしてならない。 「ま、まあ、せいぜいあと一時間くらいで帰るだろ!」 「うん」 たぶん。 一時間後、 「──……酒、入ってきたみたいだな」 「うん……」 壁の向こうから、陽気な会話の断片が聞こえてくる。 こいつは長丁場になりそうだ。 「ああ、寒い……」 摩擦熱を発生させようと、躍起になって両手をこすり合わせる。 「××は大丈夫か?」 「さむいよ……」 いっそ給油してこようかと思うのだが、ここまで籠城してしまっては、いよいよもって出られない。 「……◯◯?」 うにゅほが腰を上げ、俺の座っているチェアの前に立った。 そして、おもむろに半回転し、 「えい」 俺の膝の上にちょこんと腰掛けた。 「すわっていい?」 「もう座ってるだろ」 まあ、このほうが温かいし、心なしか幸せなかんじだ。 着ていた袢纏でうにゅほを包み込み、互いに暖を取った。 「──……手が寒い」 それでも、末端まではどうしようもない。 うにゅほが俺の手を取り、 「ほんとだ」 と言った。 うにゅほの手も冷たい。 どうしようかと頭を巡らせたとき、 「あ、そうだ」 うにゅほがなにかを思いついた。 「こうしたらあったかいよ」 そして、俺の両手を導き、ふとももで挟み込んだ。 「──…………」 「あったかい?」 「あ、うん」 これは、あったかいけど、なにかまずいのではないか。 「ぎゅうー」 締め付けが強くなる。 ああ、もう、なんでもいいや。 五分ほど経ったころ、うにゅほが言った。 「……といれいきたい」 「行ってこい!」 さすがにどうでもよくなって、灯油タンクを手に部屋を出た。
2013年1月8日(火)
夕方、リビングでぼんやりテレビを眺めていた。 時間が時間なので、興味をそそられるような番組は放送していない。 「──……くぁ」 あくびを噛み殺していると、街角スイーツ特集みたいなコーナーが始まった。 「あ、ぱへ」 うにゅほが画面を指さし、舌足らずに言った。 「ぱへ、たべたいねー」 「──…………」 自分は痩せたからって、いい気なものである。 かちんと来たので、今までずっと触れてこなかったことに触れてしまうことにした。 「××、フェって言えてないよな」 「?」 「パフェ。はい」 「ぱへ」 「ほら言えてない」 「いえてるよ」 「パフェ」 「ぱへ」 「言えてないからね」 「──…………」 うにゅほの機嫌が悪化しつつあることを敏感に感じ取り、すこし矛先をずらすことにした。 「じゃあ、フェって言えるか?」 「いえるよ」 「フェ。はい」 「ふぇ」 「あ、それは言えるのか」 じゃあ、なにが駄目なんだ? 「パーフェクト」 「ぱーふぇくと」 「フェルマータ」 「ふぇるまーた」 「趣向を変えて、フィーリング」 「ふぃーりんぐ」 「メフィストフェレス」 「めひ……なに?」 「メフィスト、フェレス」 「めひすとへれす?」 「──…………」 ダブルパンチである。 「フェレット」 「ふぇれっと」 「あー……ディフェンディングチャンピオン」 「でふぇんでぃんぐ……?」 ネタが尽きてきた。 「フエラムネ」 「ふえらむね」 これは違う。 「フルーチェ」 「ふるーちぇ」 これも違う。 「カフェ」 「かふぇ」 「パフェ」 「ぱへ」 「……なんでカフェが言えてパフェが言えないんだ?」 「いえるよ」 「パッフェー」 「ぱっふぇー」 「パフェ」 「ぱへ」 「何故なんだ……」 いくら考えてもわからなかった。
2013年1月9日(水)
今年の冬は、例年にない冷え込みである。 毎朝のように寒さで目が覚めるし、シャワーの湯は足元に届くまでに冷たくなってしまう。 なかでも面倒なのは、ストーブの設定温度の調節である。 部屋が暖まらないのが問題なのではなく、暑くなりすぎることが問題なのだ。 かと言って、設定温度を下げたり、ストーブ自体の電源を切ってしまったりすると、十分もしないうちに冬が部屋を侵食しはじめる。 この調節を怠り、ストーブをつけっぱなしにしていると、 「──……ふすー」 「……午前中から、もうお昼寝ですか」 こうなる。 祖母を病院へ送り届けたあと、市役所で手続きを済ませて帰宅すると、うにゅほが布団の上で爆睡していた。 右手のあたりには、読みかけと思しき王様はロバ1巻が落ちている。 まあ、気持ちはわからないでもない。 爬虫類は寒いと眠くなるが、人間は暖かいと眠くなる。 あまりに寒いと人間も眠くなるが、それはたぶん二度と目覚めないたぐいのそれである。 俺は、コートを脱ぎ、ストーブの電源を切った。 さすがに暑すぎる。 「……あられもない姿で、まあ」 へそが出てるぞ、へそが。 その場で膝をつき、うにゅほのセーターのすそを軽く整える。 「──……ぴすー」 鼻でも詰まってるのか。 「花も恥じらう乙女が、大口開けて──」 ふと、いいことを思い出した。 あれをやろう。 眠っているうにゅほの口のなかに指を突っ込むだけの、あのスリリングな遊びを。※1 「……起きてる?」 小声でそっと尋ねてみる。 「……寝てる?」 反応らしい反応はない。 「それでは、失礼して──」 ゆっくり、ゆっくり、人差し指をうにゅほの口内へと下ろしていく。 「──……ぅ」 「!」 「──……ぷすー」 セーフ。 「──…………」 ちょうどいい深さで指を止める。 呼吸がじかに当たって、じわりと温かい。 「おお……」 相変わらず、妙な感動がある。 なんだかとてもいけないことをしているような── 「ん」 「!」 指先が、ぬるりとした熱いものに触れた。 というか、うにゅほに指を吸われていた。 「──…………」 「──…………」 「──……おはよう」 目が合って、最初の一言がそれだった。 「……んー」 「おお、お、おおお……」 なんか、やわらかくて熱いものが指先を這い回っている。 というか、舐められている。 「だー!」 ちゅぽん! という音がしたかはともかくとして、うにゅほの口内から人差し指を抜き取った。 「……おあよう」 寝ぼけまなこで、うにゅほが挨拶をした。 「あの、これはですね……」 「──……ふすー」 また寝ていた。 「……起きてる?」 小声でそっと尋ねてみる。 「……寝てる?」 うにゅほの眼前で手のひらを振ってみる。 「寝てる……」 完膚なきまでに二度寝している。 俺はおもむろに立ち上がると、自室を後にした。 この遊びは、もう二度とやるまい。 あまりにスリリングすぎる。
※1 2012年12月5日(水)参照
2013年1月10日(木)
「いて」 包丁を洗っていて、右手の親指を切ってしまった。 思わず指をくわえかけ、しばし逡巡したあと、流水で冷やすことにした。 「××! 絆創膏、戸棚にあるから持ってきてくれ!」 「──ほぃ!」 リビングのソファで船を漕いでいたうにゅほが、慌てて飛び起きた。 最近、昼寝している姿をよく見かける。 「ばんそうこ、もってきたよ」 「悪い、ありがとな」 「……ゆび、どうかしたの?」 「ああ、ちょっと切っちゃってさ」 冷やしていた指先を軽く持ち上げて、うにゅほに見せた。 「わああ」 うにゅほが慌てて天井を見上げる。 「みたくないみたくない」 ああ、うにゅほは血とかそういうの駄目だったっけ。 傷口の様子を軽くあらためてから、再び流水に指先を浸した。 「……もう、いい?」 「ああ、いいよ。見えない見えない」 うにゅほが、恐る恐るといった様子で視線を下ろしていく。 「くびいたい」 「全力すぎるだろ……」 意味もなく傷つくぞ。 「まあ、苦手なのは知ってるけどさ……××だって何度か切ってるだろ」 うにゅほは、母親の手伝いでよく台所に立っている。 しかし、包丁の使用を解禁されたのがごく最近であるためか、手つきが恐ろしく危なっかしい。 「じぶんのは、ちょっとだいじょうぶ」 「人のは?」 「だめ」 わからないでもない。 そろそろいいかと水を止め、ティッシュペーパーで親指を拭う。 絆創膏をケースから取り出したとき、左手だけで貼るのは至難の業だと気がついた。 「──……××」 「?」 「悪いけど、絆創膏貼ってくれるか」 「え……」 「傷口が見えないよう、下向けとくからさ」 「は、はる! はるよ……」 うにゅほが震える手で剥離紙を剥がし、絆創膏の両端をつまみ上げた。 「あ、それ──」 全部剥がさないほうが、とは今更言えない。 「は、はるよ……」 「──…………」 「はるよ……」 はやく貼ってくれ。 「──……てっ」 絆創膏のパッドが傷口に触れる。 「やっ!」 その瞬間、うにゅほが絆創膏を一気呵成に巻き上げた。 「いてえ!」 「ごめんなさい!」 「あ、いや──」 親指を見る。 ぐちゃぐちゃで粘着面もかなり露出しているが、傷口だけはしっかりと包んでいた。 「ありがとう、助かった」 「……だいじょぶ? いたくない?」 「そりゃ痛いことは痛いけど」 「ごめんなさい!」 「だから、ありがとうってば」 怪我をしていない左手で、うにゅほの頭をぐりぐりと撫でた。 絆創膏は、三十分くらいで剥がれた。
2013年1月11日(金)
今日は1月11日である。 わんわんわんで犬の日とばかり思っていたが、それは11月1日らしい。 「どうして差がついたのか……」 「?」 鏡開きのおしるこをすすりながら、物思いにふけっていた。 「──……××、今日ってなんの日か知ってる?」 「なんのひ?」 カレンダーを求め、うにゅほの視線がさまよう。 「……きんようび?」 「それはまあ、金曜日だけど」 「──…………」 「いや、そんな得意げにされてもさ」 俺の求めている答えではない。 「ヒント、1がみっつ並んでいます」 とにかくうにゅほにわんわんと言わせたかった。 「んー……?」 うにゅほが小首をかしげる。 「いち、みっつ……」 しばし悩んだあと、 「!」 うにゅほの表情が理解にほころんだ。 「かわのひ!」 111 = 川 なるほど、とんちが利いている。 「ぶっぶー、違います」 「えー?」 「川の日なんて、たぶんありません」 あとから調べたところ、川の日は7月7日だった。 七夕伝説の天の川が由来だそうである。 「ほかには?」 とにかくうにゅほにわんわんと言わせたくて仕方がなかった。 「えーっと……」 うにゅほが俺の顔を窺いながら、 「お、おうのひ?」 「おう?」 「おうさまのひ……」 一十一 = 王 「おお……」 つい感心してしまった。 「でも、王の日でもありません」 「うー」 「1は英語で?」 「わん?」 「1がみっつで?」 「わんさん」 「誰?」 「わんわんわん?」 「そう!」 「わんわん──……あ、いぬのひ!」 「違う! 犬の日は11月1日!」 「え……じゃ、なんのひ?」 「なんか、塩の日とからしい」 敵に塩を送る、という言葉の語源となった、上杉謙信と武田信玄の故事に由来する。 「わんわんは?」 「特に関係ないかな」 「──……?」 しばし頭を巡らせたあと、 「!」 うにゅほは、ようやくからかわれたことに気がついた。 「もお!」 「ごめんごめん」 お詫びの意味を込めて、うにゅほのお椀にもちを一切れ入れた。 「……ありがと」 ちょろい。
2013年1月12日(土)
誕生日である。 いよいよもって嬉しくないが、来てしまったものは仕方がない。 眉毛を八の字にしつつも、喜び浮かれ欣喜雀躍とする努力だけは、まあしてみてもいいだろう。 「わ、わあい……」 無理だった。 「なにかいった?」 エプロン姿のうにゅほが、不意に足を止める。 「いや、なにも」 「?」 小首をかしげると、うにゅほは準備に戻っていった。 「……俺、本当に手伝わなくて大丈夫?」 キッチンに立つうにゅほと母親が、 「だいじょぶ!」 「大丈夫だってば」 と、異口同音に答えた。 祝われる当人がケーキを焼くのはどうだろうかと、母親が代わりにうにゅほの手伝いをしてくれることになったのだ。 こうなると、俺の出る幕ではない。 肩の荷が下りると同時に、一抹の寂しさがよぎる。 「はー……」 ソファに背中で座りながら、軽く溜め息をついた。 「……TSUTAYAにでも行ってくるか」 レンタルCDの返却期限が一両日中に迫っていたはずだ。 自室に取って返し、外出の支度を整えた。 「ちょっと出かけてくるから──」 そう告げて階段の手摺りに手を掛けた瞬間、 「だめ!」 うにゅほが制止の声を上げながら駆け寄ってきた。 「まってて!」 「え、焼き上がるまでずっと……?」 さすがにそれは。 「ううん、もちょっとだけまってて」 それだけを言い残し、うにゅほはきびすを返した。 なんじゃらほい。 「──…………」 TSUTAYAのロゴが打たれた青い袋を片手に、ソファに腰掛けて天井を眺める。 やることがない。 「◯◯!」 五分ほどして、呼び声が上がった。 おもむろにキッチンへ向かうと、うにゅほが金属製のボウルを前に、牛乳を手にして待っていた。 「みてて!」 泡立てる前の生クリームに、震える手で牛乳パックを近づけていく。 ──ちょろっ 注ぎ口から、白い液体が僅かに垂れ落ちた。 「やたっ!」 ああ、思い出した。 生クリームにほんのすこしだけ牛乳を入れると、ふんわりと仕上がる。 うにゅほは、一昨年のクリスマスイブの雪辱を果たしたのだ。※1 「──…………」 うにゅほの瞳が、俺を射抜く。 ほめてほめてと輝いている。 「……よくやった!」 ぐっと親指を立て、うにゅほを賞賛する。 「っ!」 力強いサムズアップが返ってきた。 「……大さじ使えばよかったのにねえ」 母親が不思議そうに呟いていたが、そういう問題ではないのだ。 たっぷりと生クリームをナッペしたシフォンケーキは、適度な甘さでたいへん美味だった。 なんだかんだとぼやきながら、いい誕生日になったのではないかと思う。
※1 2011年12月24日(土)参照
2013年1月13日(日)
「誕生日プレゼントチケット……」 天井に掲げた紙切れには、あまり綺麗とは言えない字で、そう書かれていた。 三色ボールペンで施された装飾が、得も言われぬ焼け石に水感を演出している。 しかし、このチケットの価値は、なかなか馬鹿にできない。 なにしろ、俺が欲しいものを思いつき次第なんでも買ってくれるという、うにゅほの手作りチケットなのだ。 「誕生日……」 うにゅほを馬鹿にしてはいけない。 誕生日の三文字は、ちゃんとすべて漢字で書かれている。 しかし、「誕」の字だけが異常に大きい。 うにゅほの限界である。 「どうしようかな」 欲しいものと言えば新しいPCくらいのものだが、それはあまりに高価すぎる。 漫画の新刊あたりだと、今度はうにゅほが納得しない。 二、三千円くらいのものが妥当なのだろうが、生憎とまったく浮かばなかった。 「××、なんかない?」 「──…………」 うにゅほが無言で首を振る。 考えるまでもなく、そうだろう。 あげたいものを考えつかなかったうにゅほと、欲しいものが思い浮かばなかった俺の、ふたりが導き出した結論なのだから。 だったらべつにプレゼントとかなくていいんじゃないかとも思ったが、それは駄目らしい。 うにゅほの誕生日にあげたプレゼントへのお返し、という意味もあるのだろう。 「あ」 うにゅほの表情が明るくなる。 「◯◯、ゲームほしい?」 「え、今は特に……」 欲しいゲームはいくつかあるが、まだ発売されていないものばかりである。 「えー……」 「不満そうにされてもさ」 「◯◯、ゲームすきなのに」 「……俺、そんなゲームばっかやってるイメージあるかな」 寝る前にすこしプレイするくらいだと思うけど。 「──……ま、そんなに急がなくてもいいんじゃないか」 チェアから腰を上げ、うにゅほの頭に手を置いた。 「せっかくチケットまで貰ったんだし、すこしくらい眺めてたっていいだろ?」 「……いいけど」 「それに──……こうして××がここにいてくれるってことが、俺にとって何よりのプレゼントなんだからさ」 決まった。 これで白い歯をキラリと光らせれば完璧だったが、そこまで高望みはするまい。 感涙にむせんでいるはずのうにゅほの顔を覗き込むと、 「──…………」 はいはい、と言わんばかりの生暖かい苦笑が返ってきた。 あれ、予定と違う。 「なんでもいいから、えんりょしないでね」 「あ、うん」 「なんでもいいからね?」 念を押すように、うにゅほが告げた。 好感度は着実に上がっているが、信用度は下がっているような気がしてならない。
2013年1月14日(月)
母親がやりたいと言うので、ドンジャラに付き合った。 成人の日になにをしているのだろうという疑問はよぎるが、まあ家族でわいわい遊ぶのも悪くない。 「ドラえもんのだ!」 車庫の二階から引っ張り出してきたドンジャラのパッケージを見て、うにゅほが興奮気味に言った。 ドンジャラ自体は母方の実家で経験済みだが、向こうはオバQだったのだ。 見知らぬキャラクターと見知ったドラえもんとでは、同じ絵合わせゲームでもまったく印象が違うだろう。 「はこ、ぼろぼろだね」 「そりゃあ、俺が小学生──下手すりゃ幼稚園のときのだもの」 「なんねんまえ?」 「十数年……二十年? まあ、それくらいかな」 「……?」 あまりピンと来なかったのか、うにゅほが小首をかしげる。 「××が生まれる前ってことだよ」 「ほぁー……」 うにゅほがパッケージのドラえもんを撫でる。 「……すごいねえ」 独り言のようだったので、返事はしなかった。 オバQのドンジャラとはルールが異なっていたため、点数の絡まない模擬戦を数局行ったあと本番を開始した。 「──…………」 うにゅほはしきりに役一覧表を睨みつけていたが、俺は知っていた。 我が家のドラえもんドンジャラにおいて、点数の高い役を狙うのは愚策でしかない。 その難易度に比べ、点数が割に合っていないのである。 一覧表の上半分は、飾りと言っても過言ではない。 手を選ばず、いかに早く上がるかが勝敗の鍵を握る。 「あ、それドン」 「ぎゃー!」 でも、教えない。 勝負の世界は非情である。 一時間後、 「勝った……」 俺の圧勝だった。 うにゅほと弟が結託して高い手を狙っていたようだが、一度として実ることはなく、ただコインを吐き出すのみだった。 「まけた……」 「ああ、コインが溢れてしまったー」 コインの容器をうにゅほに見せつけてみる。 「──…………」 あ、ぶーたれた。 「兄ちゃん、大人げねー……」 弟が呆れたように言う。 「安手の早上がりが一番いいってお前もわかってるだろ」 「いや、ぷよぷよで言ったら大連鎖組んでるときに二連鎖連発してくるやつくらいウザかったよ」 「──…………」 それはうざい。 「……まあ、リベンジマッチならいつでも受け付けるよ」 うにゅほが顔を上げた。 「ほんと?」 「本当」 「じゃ、いま」 「いいだろう。俺は今、機嫌がいい」 「あんだけ勝てば気分もいいだろうよ……」 弟の嘆息を合図に、そのまま二戦目へとなだれ込んだ。 「──…………」 俺の圧勝だった。 うにゅほの機嫌がしばらく悪かった。
2013年1月15日(火)
「──…………」 きゅっ 「──…………」 きゅっ マウスホイールを操作するたび、綺麗に汚れの落ちた食器みたいな音がする。 分解してグリスを塗れば良いとのことなので、まずグリスを購入するところから始めることにした。 「……グリスって、どこに売ってるんだろう」 「?」 見切り発車で出発したせいか、いまいちわからない。 マウスに関することではあるし、そう遠くもないだろうと、とりあえずPCショップを訪ねた。 「なんか、パソコン関連でグリスって聞いた覚えがあるんだよ」 「そうなの?」 うにゅほが知るはずもない。 狭い店内を適当に見回っていると、 「ね、グリスってこれ?」 うにゅほが、親指ほどの小さな包装物を手のひらに乗せていた。 商品名に目を凝らす。 「えー、グリス──……」 「ね?」 「CPU放熱用シリコングリス」 あ、これは駄目だ。 「……聞き覚えって、これのことだったか」 「これ、だめなの?」 「駄目じゃないかもしれないけど、用途が違うっていうか……」 PCに関してまったく知識のないうにゅほに噛み砕いて説明するのは、至難の業である。 「えー……ジャムにするためのりんごと、お店で売るためのりんご、みたいな」 「あ、そうか!」 「え、いいの?」 かなり的の外れた喩えだったと思うけど。 「だめなの?」 「いや、いいならいいんだ」 「?」 うにゅほの頭上に疑問符が飛んだ。 その後も書店などに寄ってみたりしたが、当然ながらグリスを見つけることはできなかった。 帰宅して気がついた。 「あ、ホームセンター!」 「ホームセンター?」 「あそこはなんでもあるから、グリスくらい置いてるだろ。帰りに寄ってみればよかったなあ」 後の祭りである。 「──…………」 しばし黙考したあと、うにゅほが言った。 「おとうさん、もってないの?」 「父さんが?」 「なんか、なんでももってそう」 「あー……」 ありうる。 父親は仕事柄、幾つもの工具箱にあらゆるものを備えている。 帰宅した父親に事情を話してみると、 「そんなんKURE 5-56でも使えばいいだろ」 と、赤い缶を手渡された。 たしか、錆びついた自転車のチェーンなどに使用する潤滑剤だ。 「……大丈夫なのか?」 「大丈夫だろ」 大丈夫だった。 マウスホイールの軋みは、嘘のように解消された。 「おお……KURE 5-56すごいな」 「よかったね」 「ああ、よかった。プレゼントチケットでマウスを買ってもらうことにならなくて、本当によかった」 「!」 豆鉄砲を食らった鳩のような顔で、うにゅほが固まっていた。 ちなみに、KURE 5-56は石油系溶剤を含んでいるため、プラスチックを傷める恐れがあるそうだ。 マウスの寿命は確実に縮まったが、まあいいや。 読者諸兄は決して真似をしないように。
2013年1月16日(水)
昨夜のことである。 寝支度を整えていると、うにゅほがのそのそと起き出してきた。 「……どうした?」 うにゅほが途中で目を覚ますことなど、あまりない。 戸惑いながら尋ねると、 「さむい……」 自分の両腕を抱きながら、とろんとした瞳でそう言った。 「寒くて眠れないのか?」 「うん……」 「靴下は──ああ、履いてたか」 「いまはいた」 「ああ、そう……」 うにゅほは靴下があまり好きではない。 「じゃあ、ストーブつけよう。とりあえず袢纏着ておきな」 「うん」 ストーブの電源を入れて、うにゅほの隣に腰を下ろした。 無言でうにゅほの手を取る。 体温が低いというイメージは、あまりないのだけど。 「手、冷たいな……」 冷え性なのかもしれない。 「て、あったかい……」 擦り付けるように右手を包まれた。 空いた左手で、うにゅほの額に触れる。 「熱はない、かな」 風邪というわけでもなさそうだ。 今年の冬は、嫌がらせかというほど寒いので、単にそのせいかもしれない。 「……もしかして、最近ずっと?」 「ずっと……?」 「夜、ずっと眠れなかったのかなって」 「うん」 あっけらかんと答えた。 「──……はあ」 片手で頭を抱え、深い溜め息をつく。 「そういうことは、ちゃんと言いなさい」 「でも」 「デモも体験版もない。寒いときは寒いなりに然るべき方法があるんだから」 「いっしょにねるの?」 「……湯たんぽとか、婆ちゃんに言えば出してくれるはずだよ」 「ゆたんぽ……」 うにゅほが小首をかしげる。 「お湯を注いでフタをして、布団のなかに入れるんだ。ヤケドするくらい──」 かくん! うにゅほの上半身が俺に寄りかかり、 「ぷすー」 胸のあたりに寝息の熱がともった。 寝落ちしたらしい。 というか、小首をかしげたように見えたのって、船を漕いでたのか。 「それで、俺はどうすればいいんだ……」 仕方がないので、部屋が暖まるまで湯たんぽ代わりになっていた。
2013年1月17日(木)
形あるものはいつか壊れる。 人間はいずれ死ぬし、文明も永遠ではない。 極端に長い半減期を持つ放射性同位体ビスマスとて、4000京年もすれば崩壊してしまう。 宇宙の年齢は137億年だが、それはそれ。 「いてっ」 便座から腰を上げたとき、太腿に刺すような痛みが走った。 水を流してから確認してみると、便座の一部にヒビが入っていた。 ヒビから、毛が一本だけ生えている。 俺の腿毛であろう。 「──とまあ、そういうことがあった」 自室へ戻り、うにゅほに事の顛末を話した。 「あのウォシュレットも、けっこう長いからなあ……」 四、五年といったところだろうか。 「まえからわれてたよ?」 「あれ、そうなのか」 便座なんていちいち見ないから気がつかなかった。 「こないだ、わたしもはさまったもん」 「はは、痛かった──」 痛かっただろうな。 そう続けようとして、ふと違和感を覚えた。 顎に指を当てる。 俺はいったい、なにに引っ掛かっているのだろう。 わたしもはさまったもん。 わたしも、はさまった── 「え、毛が!?」 「!」 思わず大声を出してしまった。 「いや、ちょっと待ってくれ……」 うにゅほの太腿に、そんなごっついムダ毛が生えていただろうか。 「──…………」 記憶を探る。 「……生えてない!」 そりゃそうである。 一瞬なにを信じていいのかわからなくなったが、なんとか持ち直した。 「え、じゃあ、なにが挟まったの?」 「なにが?」 「便座のヒビに、なにが挟まったのかなーと」 「ひふ」 「あー……」 なるほど。 皮膚も挟まりうるのか。 「……? ◯◯は、なにがはさまったの?」 「なにが?」 「ひふじゃないの?」 「──…………」 記憶を探る。 そういえば、うにゅほには「便座のヒビ割れに挟まって痛かった」という話しかしていない。 「……皮膚が」 腿毛が、というのがちょっと恥ずかしくなって、思わず誤魔化してしまった。 ムダ毛なんて、出し入れ自由になればいいのに。
2013年1月18日(金)
雪かきの最中、人差し指を痛めた。 腫れはあるが熱はなく、じわりとした痛みがかすかにある。 騒ぐほどのことでもないので、気にしないよう努めているうち、いつしか本当に忘れていた。 「◯◯、ゆび、どうしたの?」 チェアに腰掛けて読書をしていると、うにゅほがそんなことを言った。 「……え、なにが?」 心当たることが、本当になかった。 「ゆび、なんかこすってる」 指摘されて、指を止めた。 人差し指の腹と、親指の先とを、無意識のうちにこすり合わせていた。 言い換えると、親指で人差し指の腹を撫でていたのだ。 「あ──……」 人差し指を痛めていたことを、そのとき思い出した。 「……ああ、雪かきしたときに、ちょっと」 改めて人差し指を見ると、僅かに色が変わっていた。 内出血を起こしているらしい。 「それにしても、よく気づいたな……」 心の底から感心する。 「?」 うにゅほが小首をかしげ、言った。 「なにが?」 「え、いや……俺が指を痛めてるって、よく気がついたな」 「なんで?」 「なんで、って……」 すごい観察眼だな、ということを言いたかっただけなんだけど。 「ゆび、いつもはこすってなかったよ」 「それは、まあ」 認識している限りでは、俺にそんな癖はない。 「こすってたから、いたいのかなって」 「あー……」 なるほどそうか、と納得できるはずもない。 「いや、普通はそんな細かいところまで見ないって」 長く一緒に過ごしている俺ですら、うにゅほの癖を尋ねられても即答はできない。 「えー?」 不満そうである。 「みるよ」 「見ないよ」 「みるよ?」 「俺は見てないよ」 「えー……」 不満そうである。 「いいじゃない、××が特別すごいってことで」 「すごいの?」 「すごいと思うよ」 「──…………」 うにゅほの癖を、ひとつ思い出した。 照れているときは、両手でほっぺたを包む。
2013年1月19日(土)
ソファの上に、一本の髪の毛が落ちていた。 元の寝床をうにゅほに譲り、ソファを寝所としている身としては、さほど珍しい光景でもない。 しかし、見つけてしまったからには放っておくのも不自然である。 指先でつまみ上げようとして、 「おあっ!?」 思わず悲鳴が漏れた。 ソファの隙間に隠れていた残りの九割が、ずるうりと姿を現したのだ。 紛うことなきうにゅほの抜け毛である。 同じ空間で生活しているのだから、抜け落ちたうにゅほの毛髪を目にすることは少なくない。 というか、絨毯に落ちると繊維と絡み合って掃除機の無力さを思い知らされることになるので、探せばそこらじゅうにある。 でも、慣れない。 うにゅほの髪の毛は、女性としてもかなり長い部類に入る。 1メートルを軽く超える毛髪がずるりと現れた日には、悲鳴のひとつも出ようってものである。 「どしたの?」 俺の悲鳴に、うにゅほが顔を上げた。 「いや、こいつが出てきてさ……」 「け?」 「そう、××の髪の毛。 改めて見ると、すごい長さだよな」 両手でつまみ、伸ばしてみる。 輪を作れば、あやとりだってできそうだ。 「◯◯は、みじかいよね」 「俺がこんなに長かったら、気持ち悪かろうよ」 「そかな」 「××みたいにバレッタで留めるのか?」 「にあうよ?」 「そんなわけあるか」 適当な会話を交わしながら、うにゅほの髪に手を差し入れた。 さらさらと砂のように指のあいだを通り抜けていく。 相変わらず、手入れが行き届いている。 「綺麗な髪だよなあ」 「ほんと?」 「今は、素直に褒めてるよ」 「──…………」 照れた。 「……でも、それはいいのか?」 うにゅほの腰のあたりを指で示す。 「おしり?」 「いやまあ尻は尻だけど、そうじゃなくてさ。 髪の毛、思いっきり下敷きにして座ってるけど」 「え、あれ?」 軽く振り返りながら、うにゅほが腰の下に手を入れる。 「ふんでた……」 渋い表情で、そう呟いた。 「ちゃんと、きをつけてすわったのに……」 「座り直したりしてるうちに、だんだん巻き込んで行くんじゃないか?」 「そうなの?」 「いや、知らないけど」 「えー」 不満げにされたところで、生まれてこの方ロングヘアだったことがないし。 冒頭の髪の毛も、そうやって引っ張られて抜け落ちたのだろうなあ、と思った。
2013年1月20日(日)
「……うー」 うにゅほが小さく唸る。 「ん?」 顔を向けると、 「なんでもないよ?」 背筋を伸ばし、そう答えた。 「そっか」 まあ、本人が言うのだからそうなのだろう。 視線をディスプレイへと戻し、マウスを弄んでいると、 「……うー」 うにゅほが、また小さく唸った。 「──…………」 そっと横目を使う。 もどかしい手つきで、うにゅほが左足の甲のあたりを撫でていた。 あまり見ないしぐさだ。 一昨日はああ言ったが、案外わかるものである。※1 「足、どうかしたのか?」 「!」 ぴく。 うにゅほが全身を硬直させる。 「……なんで?」 「いや、ずっとさすってるから」 足先に添えられたうにゅほの手が、さっと戻された。 「なんでもない、なんでもない……」 「──…………」 非常にわかりやすくあからさまに怪しい。 「よっ、と」 うにゅほの不意をついて、左足に触れた。 「!」 「おー……」 まあ、触ったくらいでわかるなら、見ただけでわかりそうなものだ。 うにゅほが抵抗しないのをいいことに、軽く撫でてみる。 「うーん」 しっとりしている。 「──……いつからこうだった?」 うにゅほの瞳をまっすぐに見据え、問うた。 うにゅほは観念した様子で、 「……おきたら」 と答えた。 「原因はわかるか?」 「ゆたんぽつかったのに、くつしたはかなかったから……」 「あー……」 なるほど、ようやく理解した。 湯たんぽが原因で低温やけどを負い、それが気になって足の甲をさすっていたのだろう。 言われてみれば、患部が熱を持っている──ような気がする。 「……ちゃんと履けって言ったろ?」 鎌をかけたことにうにゅほが気づかないので、そのまま続行する。 「だいじょぶかなって……」 「忠告には、それなりの理由があるんだよ。 まあ、もう痛い目に合ったんだから、あんまりうるさくは言わないけど」 「はい……」 「じゃあ、湿布貼っとこうな。 包帯は──まあ、靴下履いておけばいいか」 「えー」 「どうして靴下は嫌がるんだよ……」 室内に限るとは言え、真冬でも素足だし。 「……すべるから」 「滑るか?」 「すべる」 そうかなあ。 他に理由があるのかもしれないが、追求はしないことにした。 ささっと処置を終わらせて、うにゅほに靴下を履かせよう。
※1 2013年1月18日(金)参照
2013年1月21日(月)
昨夜のことである。 午前一時を回ったころ、ふと小腹が空いたので、近所のコンビニまで足を運ぶことにした。 ノンカロリーのゼリーと今週のジャンプを購入し、帰宅すると、うにゅほが玄関の前に立っていた。 車のドアが閉じる音を背に、うにゅほの傍へ駆け寄る。 「どうした? 寒いだろ、こんな恰好で……」 「──…………」 うつむいたまま動かないうにゅほの頬に、そっと手を伸ばした。 「ほら、冷たい。家んなか入ってな、車仕舞ってくるから」 そう言ってきびすを返すと、 「──……!」 ぽす。 背後から抱き留められた。 「なに──」 「よかった……」 振り返ろうとしたとき、うにゅほのくぐもった声が背中に響いた。 「おきたら、いないから」 「あー……」 そういうことか。 「どっか、いっちゃったって」 「悪い、コンビニに行っちゃってたんだ」 「──…………」 ぷすー。 不意に、背中に熱がともった。 コート越しに吐息を送られたらしい。 「……悪かったってば」 随分と可愛らしい怒り方だと、苦笑しながら言った。 「ほら、寒いから先に入ってな」 「──…………」 「どこにも行かないから」 「──…………」 「ジャンプ買ってきたから、一緒に読もうか」 「──…………」 「ナタデココのゼリーもあるぞ」 「!」 背中に貼り付いたうにゅほが、ようやく離れた。 食い気が勝ったらしい。 「しばらく起きてるなら、袢纏着とけよ」 「うん」 「寒いから、ストーブつけといてくれると嬉しい」 「うん!」 うにゅほが玄関に入るのを確認したあと、駐車し直してから自室へ戻った。 普段より心なしか密着されながらジャンプを読んでいると、不意にうにゅほが言った。 「……コンビニいくとき、いってね?」 「寝てても?」 「おこして」 「あー……」 実質、深夜の外出を禁止されたようなものだ。 答えあぐねていると、うにゅほが呟いた。 「おとうさんとおかあさん、おこそうかとおもった……」 危ねえ。 「ああ、まあ……なるべくそうするよ」 さよなら深夜外出。 まあコンビニ行くくらいだったから、べつにいいけど。
2013年1月22日(火)
起床して身支度を整えていると、階段を上る小気味良い音がした。 「あ、おはよ」 背中越しに、温和な声が聞こえた。 「おはよう──」 髪の毛を冷水で撫で付けながら振り返り、思わず絶句する。 視線の先に、うにゅほがいた。 「?」 ただ、髪型が普段と異なっていた。 「おさげだ」 「うん、おさげだよ」 右の三つ編みを持ち上げながら、うにゅほが答えた。 魔法陣グルグルのククリを彷彿とさせる。 「久しぶりに見た気がするなあ」 以前はころころと髪型を変えていたが、最近は後頭部にリボンバレッタを留めるだけのシンプルなものに落ち着いていた。 「なんかあった?」 うにゅほが首を横に振る。 「なんとなくか」 うにゅほが首を縦に振る。 「──……にあう?」 きびすを返し、肩越しに振り返りながらうにゅほが尋ねた。 「似合う似合う」 そう答えながら両のおさげを手に取ると、ずしりとした重みが伝わってきた。 さすがに長いだけはある。 「こしょこしょこしょ」 おさげの先で首筋をくすぐると、うにゅほは楽しげな悲鳴を上げて身をよじった。 「それ、いつもやるね」 「なんだろう、おさげを持つと反射的にやってしまう」 あらがえぬ誘惑である。 「これだけ長いと、なにかできそうだよな」 「なにかって?」 「高速で回転させると、飛べそうな気がする」 「とべるかな」 「問題は動力だ」 「ほかには?」 「筆っぽいから、墨汁をつけて字を書けそうな気がする」 「やめてね」 「二本あるから二人プレイが可能」 「やめてよ?」 「あと、針金を仕込むことで様々なヘアーランゲージを──」 適当な会話を交わしていると、いつの間にか正午を回っていた。 それからも、事あるごとにおさげで遊んでしまった。 おさげには、内なる小学生を揺り起こすなにがしかの魔力がある気がしてならない。 うにゅほは苦笑していたが、内心では迷惑がっていたかもしれない。 なんらかの巻き返しを図っていきたい。
2013年1月23日(水)
今日は、すこぶる天気がよかった。 雪がなければ外出するところだが、嫌というほどあるのでやめた。 俺の部屋は、日当たりがいい。 あたたかな陽射しを受けながら、ソファで読書をすることにした。 「~♪」 自室へと戻ってきたうにゅほが、機嫌よく隣に座った。 「なによんでるの?」 「このあいだ図書館で借りたやつだよ。もうすぐ期限だから、さっさと読んでおかないと」 「ふうん……」 大して興味もなかったらしく、背後にある本棚を物色しはじめた。 「漫画はもう、ほとんど読んだんじゃないか?」 「んー、だいたい」 俺の部屋には、漫画だけで千冊ほどもある。 それをだいたい読んだというのだから、なかなかすごいことだ。 「読んでないのって?」 「えっと、はじめのいっぽ、とか」 「あれ、読んでないのか。セリフ少なくて読みやすいと思うけど」 「いたそう……」 「あー」 たしかに、うにゅほ好みではなさそうだ。 「でも、そんなこと言ったら屍鬼とか駄目なんじゃないか?」 「しき?」 「ほら──」 本棚から抜き出し、表紙を見せた。 「よんでない……」 まあ、内容が内容だからな。 「じゃあ、蟲師は?」 「よんでない」 「あれ、苦手な要素ってあったっけ」 「なんか、よくわからなかった」 「あー」 あれこれと尋ねていくうち、続き物はほとんど読んでいないことがわかった。 「だいたい?」 「だいたいじゃなかった」 「うん、素直さは美徳だな」 言われてみれば、四コマやギャグ漫画を読んでいる姿しか思い出せない。 「逆に、どのストーリー漫画なら読んでるんだ?」 「んーと……ガッシュ、とか」 「あー」 「ナルトとか」 「随分と長いの読んだな」 「じゅっかんくらいまでよんだ」 「あー……」 「あと、ローゼンメイデンとかよんだよ」 「それは、なんかわかるな」 「あとは──」 そんなかんじで、漫画談義に花が咲いた。 漫画の話題でうにゅほと盛り上がるのは、もしかすると初めてだったかもしれない。 読書は進まなかったが、些細なことである。
2013年1月24日(木)
新しいもちの袋と、古いもちの袋がある。 新しいもちはやわらかい。 古いもちは、固い。 しかし、食べなければならない。 そうしなければ、牛丼屋の紅しょうが方式で、古いもちばかりが更に硬度を増し続けてしまう。 ダイヤモンドになってしまう。 「──というわけで、二分ほどチンしたものがこちらになります」 「わあ……」 皿の上に、はぐれメタルがいた。 六割方とろけきって皿の形に広がり、残りの四割は煎餅のような断面を呈している。 「どうしよう」 うにゅほが俺の指示を仰ぐ。 「どうしようって言われても、どうにかして食べるしか……」 「どうやって?」 「……皿から引き剥がしてみよう」 かつてもちのカドだった部分を指先で掴む。 熱いが、我慢する。 「皿が浮いた……」 「すごい」 完全に貼り付いている。 「これは、駄目だ」 テーブルの上に皿を戻す。 「ひっぱらないの?」 「駄目、熱い、無理」 「あー」 苦笑しながら、うにゅほが言う。 「じゃあ、はしは?」 「箸?」 「はしで、こやって」 うにゅほのジェスチャーはたどたどしくてよくわからなかったが、言いたいことは理解した。 「いや、やめたほうがいいな」 「なんで?」 「絶対折れる」 それだけの硬度と粘着力を有している。 「じゃ、さめるまで──」 うにゅほが、言いかけて口をつぐんだ。 途中で気がついたらしい。 「冷めたらもう、こういう形の現代アートとして床の間に飾るしかない」 「しかないの?」 「しかない」 適当に断言しながら、もちに視線を送る。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。 クッキングシートを切らしてさえいなければ、惨劇は避けられたはずだ。 「どうするの……?」 事の大きさを察したうにゅほが、おずおずと口を開いた。 「打つ手は、ひとつしかない」 「あるの?」 「あるけど、部屋に戻っててほしい」 「なんで?」 「……見苦しいから」 自室の扉が閉じるのを見届けたあと、直接皿に口をつけた。 犬食いである。 食べものを粗末にしてはいけない。 その一心で、がっついた。 クッキングシートの偉大さを、胸に刻みつけながら。
2013年1月25日(金)
「なんもないなあ……」 炊飯器のフタを閉じて、溜め息をついた。 昼食になりそうなものが見当たらない。 冷蔵庫には弁当用の冷凍食品くらいしかないし、ごはんも残っていない。 おもちはあるが、食べたくない。 「そっち、なんかある?」 台所の奥でごそごそやっているうにゅほに声を掛ける。 「カップラーメンあった」 掲げた両手にカップヌードルを掴んでいた。 「おー、でかした」 うにゅほの頭をなでくりまわす。 「──…………」 うにゅほも、まんざらではないように見える。 「カレーと、シーフードあったよ」 ことん、とシンクの上に、ふたつの容器が乗せられた。 「どっち、すき?」 「××はどっちがいい?」 「どっちでもいい」 「じゃあ、カレーがいいな」 カレーを取り、シーフードを渡す。 お湯を沸かそうとケトルを手に取ると、ずっしりと重みが伝わった。 既に水が入っているらしい。 汲み置きでも問題はなかろうと、そのままケトルを火に掛けた。 「カップヌードル、久しぶりだな」 「そだねー」 「最後に食べたの、いつだっけ」 「んー、きょねん?」 「去年かー」 適当な会話で時間を潰し、沸騰するのを待って火を止めた。 うにゅほのシーフードヌードルからお湯を注ぎ、 「あ」 思わず手を止めた。 お湯が、茶色かった。 「煮出したほうじ茶だ……」 やってしまった。 ちゃんと確認すればよかった。 「……どうする?」 既に三分の一ほど注いでしまっている。 うにゅほは、頬を引き攣らせながら、 「もう、おちゃでいい……」 と答えた。 こうなれば一蓮托生である。 カレーヌードルにも沸騰したほうじ茶を注ぎ、三分間待った。 「──…………」 「──…………」 互いに目配せをして、フタを開く。 「あれ、普通だ」 カレーヌードルだからだろうか。 「……ちょっとちゃいろい」 シーフードヌードルだからだろう。 「味は──……」 黄色い麺を口に運ぶ。 「普通だ……」 カレーの力は偉大である。 「シーフードは?」 「……おちゃっぽい」 シーフードの力は、一歩及ばなかったようである。 その後、ふたりでわいわいと食べ比べながら昼食を終えた。 なかなか味わい深かった。
2013年1月26日(土)
「あ!」 つん。 「おふ!」 小用を足そうとソファから腰を上げたとき、うにゅほが俺の右尻をつついた。 「何故尻を突く!」 「あなあいてる」 「そりゃあ──……」 尻には穴が空いてるものだ、と言いかけてやめた。 我ながら賢明である。 「──…………」 右尻をまさぐると、指先に引っ掛かるものがあった。 「穴が空いている」 「でしょ」 ジーンズの尻ポケットに、指先ほどの大きさの穴が空いていた。 長財布を仕舞ったとき、ちょうどカドのあたりが触れる位置である。 「耐久力が尽きたか……」 買い換えたジーンズは、いつもこの場所から擦り切れていく。 逃れられぬ運命と言える。 「ちょっとまってて!」 うにゅほが立ち上がり、リビングへと消えた。 「ただいま!」 一分後、金属製の平たい箱を掲げて戻ってきた。 「つくろってあげよう!」 「お断りしよう」 「えー」 うにゅほが持ってきたものは、ソーイングボックスである。 焼き海苔の缶箱を再利用した粗末なものだが、裁縫道具が入っていることに違いはないので、ソーイングボックスと言い張ることにしている。 「◯◯、さいほうできないでしょ?」 「──…………」 得意ではないが、苦手でもない。 単純な文字やイラストを刺繍できる程度である。 「……できないけど、駄目」 空気を読んだ。 「なんで?」 「べつに、××の腕前を信用してないってわけじゃないんだよ」 危なっかしい手つきながら、ボタン付けはできるようになったと聞くし。 「ただ──……ほら、触ってみな」 指先で、ポケットの生地に触れさせる。 「どうだ?」 「えっと、じょうぶ?」 「そう。デニム生地は、厚くて丈夫だから、針が通りにくいんだよ」 「ふうん……」 通らないことはないが、端切れや綿に比べて難易度がぐっと上がる。 うにゅほの指先が穴だらけになりそうで、怖い。 「だから、まあ……これは母さんに頼もう」 「うん……」 がっかりしている。 見かねて言った。 「……でも、今度パジャマのボタンが取れたときは、××に頼もうかな」 「ほんと?」 「お願いします」 「されました」 互いに頭を下げ合って、ふたりで吹き出した。
2013年1月27日(日)
部屋の片隅にふたつのカゴがある。 昼は寝間着を、夜はアウターやジーンズなどを入れておく、洋服の一時置き場だ。 一階の脱衣所まで行くのが面倒なとき、下着以外の汚れ物を放り込んでおくこともある。 「……あれ?」 昨夜脱いだ靴下がない。 正確に言うと、片方だけない。 「裏かな」 カゴを持ち上げるが、ない。 「こっちか?」 うにゅほのカゴにも、やはりない。 「××、俺の靴下見なかった?」 ソファでくつろいでいたうにゅほに問い掛ける。 「どれー?」 「これ」 灰色の靴下を、うにゅほの前で揺らしてみせた。 「え……?」 指先で靴下を示しながら、うにゅほが戸惑ったような上目遣いで俺の顔を窺う。 「?」 すこし考え、気がついた。 「……違う、片方だけないんだよ!」 「あ、そっか」 横山やすしか俺は。 「んで、見なかった?」 「いまみてる」 「冗談を言うようになったじゃないか……」 うにゅほの顔に靴下を近づけていく。 「?」 すこしは嫌がれ。 「いっしょにさがす?」 「頼もうかな」 数分後、 「あった!」 うにゅほが、靴下の片割れを誇らしげに掲げてみせた。 「おー、どこにあった?」 「わたしの、ふとんのなかにあった」 「──…………」 「あった」 「え、なんで?」 「なにが?」 「なんでそんなところに?」 「さあ」 うにゅほが小首をかしげてみせる。 推理してみよう。 「××、そういう趣味とかあるの?」 一秒で辿り着いた結論がそれだった。 「しゅみ?」 「……聞かなかったことにしてくれ。俺も、言わなかったことにしたから」 それからふたりで考えて、カゴの外に落ちた靴下が、ベッドメイキングのとき布団に紛れ込んだのではないか、という結論になった。 信憑性はともあれ、うにゅほ靴下フェチ説より幾分かましだろう。 まあ、よくわからない場所でよくわからないものを見つけることは珍しくない。 日常は神秘に満ちている。
2013年1月28日(月)
引き出しの整理をしていると、懐かしいものが出てきた。 「iPhone4専用画面保護フィルム……」 しかも、二枚。 保険としても、自分に自信がなさすぎやしないか。 iPhone5にしたのが昨年の十月のことなので、それ以前に購入したものである。 「ほら、こんなん出てきたよ」 「?」 二枚の保護フィルムをうにゅほに手渡す。 「ほごふぃるむ?」 「そう」 「ほごふぃるむ、かえるの?」 うにゅほが残念そうに言う。 「いまの、すべすべしてすきなんだけどな……」 同感である。 ヤマダ電機で買った800円もする保護フィルムだからな。 「違う違う、よく見てみな」 「?」 「それは、iPhone4用の保護フィルム」 「うん」 「これは、iPhone5」 「ちがうの?」 「4より5のほうが新しい」 「うん」 「わかった?」 「うん?」 いまいちわかっていない。 まあ、スマートフォンに興味がなければそんなものか。 「えーと、すこしだけ形が違うんだよ」 「うん」 「だから、フィルムの形が合わなくなったんだ」 「あ、そうか」 納得したように、深く頷く。 「じゃ、いらないねー」 ぽい。 「あ」 二枚の保護フィルムを、うにゅほがあっさりとゴミ箱に捨てた。 「え?」 「あー……いや、いいんだけど」 さばさばしてるなあ。 単に俺が貧乏症なだけか? 「──…………」 単に俺が貧乏症なだけだ。 「そういえば、××ってあんまり物にこだわらないよな」 「?」 物の多いこの部屋で、うにゅほの私物は数えるほどしかない。 それも、俺がプレゼントしたものばかりだ。 うにゅほが、自分で、自分のために買ったものは、ひとつとしてない気がする。 おやつを除いて。 「だいじなもの、あるよ?」 胸元で揺れるペンダントに触れながら、うにゅほがそう言った。 「……そっか」 うにゅほの私物は少ない。 でも、大切なものはけっこう持っているのかもしれないと思った。
2013年1月29日(火)
今年も確定申告の時期が近づいてきた。 「──…………」 絨毯の上にどっかと座り、粗末な紙箱を目の前に置く。 「? それなに?」 「病院の領収証」 「ぜんぶ?」 「そう」 「ほー……」 うにゅほを除く家族は、全員がなんらかの持病を抱えている。 当然、医療費も馬鹿にならない。 しかし、還付申告を行うことで、幾許かの控除を受けることができる。 確定申告と異なり、還付申告の申請は年中可能だ。 ただ、わかりやすいので、毎年確定申告期のすこし前に申請することにしている。 「なにするの?」 電卓を掲げながら、告げる。 「領収証に書かれた領収金額を、すべて足す……」 「え……」 うにゅほが絶句する。 去年は税務署で計算したから、うにゅほは初めて見るのだろう。 数百円単位の小額が織り成す数の暴力により薄めの辞書くらいの厚みとなった領収証の束を! 「て、てつだうこと、ある?」 及び腰である。 「あー、同じ病院の領収証をまとめてくれると嬉しい」 「うん」 電卓にメモ帳という完全装備で、領収証の山に取り掛かった。 しばしの時が流れ、 「あ」 一枚の領収証に思わず手を止めた。 「?」 うにゅほが、こちらの手元を覗き込む。 「これ、××が夏バテで病院行ったときのやつだ」※1 「え、ほんと?」 「ほら、氏名のとこ見てみ」 「ほんとだ!」 「懐かしいなあ」 右手が機械的に電卓を叩く。 十割負担なので、点数と不釣り合いに請求金額が高い。 それから、三十分ほどで作業が終了した。 「あー、終わったー!」 「いくらになった?」 「えー……四十万円ちょいだな」 「……それ、どれくらい?」 金銭感覚が身についていないなあ。 「ミラジーノが二台買える」 「えー!」 大仰に驚くうにゅほの姿を見て、もっと驚かせたくなった。 「でも、今年はまだ安いほうだよ。一昨年なんて、百万超えてたし」 「……ごだい?」 「そう、五台」 「はー……」 うにゅほがへなへなと崩れ落ちる。 「どうしてそんなことに……」 「たしか、入院とか手術とか続いたんだよ。 入院一回手術一回で数十万円とかざらだしな」 「あ、ぢのしゅじゅつ?」 「──…………」 それ忘れてくんないかな。
※1 2012年7月30日(月)参照
2013年1月30日(水)
雲形定規を購入した。 抽象画のような、見たこともない形の万能雲形定規だ。 雲形定規といえば、二十五種ひと組の冷艦カマキリ号保全作業員のイメージしかなかったので、すこし驚いた。 このところ、父親の仕事の補佐で簡単な図面を引くことが多かったので、幾分か楽になるだろう。 「はー……」 合成樹脂でできたオレンジ色の雲形定規を蛍光灯に透かしながら、うにゅほが長々と息を吐いた。 「ふしぎなかたちをしている……」 なんか一連の言動が、よつばと!のよつばっぽい。 「これで、なにをするの?」 「曲線を引くんだよ……」 「はー」 帰途の車中で説明したろうに。 雲形定規のふしぎなかたちにだいぶやられているらしい。 「──…………」 うっとりしている。 その様子に嘆息しながら、俺は立ち上がった。 本棚の上からコピー用紙を抜き出し、うにゅほの眼前に突きつける。 「いつまでも眺めてるより、試しに使ってみたらいい」 「つかう?」 「いろんな線を引いてみなさい」 「はい」 素直である。 リビングへと場所を移し、ふたりでテーブルに向かった。 「まず、お手本を見せよう」 「はい」 「動かないように、定規を押さえて」 「──…………」 「定規のふちに、ペンの先を添えて」 「──…………」 「形をなぞりながら線を引く」 「おおー!」 拍手はいらない。 「まあ、ふつうの定規と同じ使い方だ。わかった?」 「やっていい?」 「ほら」 雲形定規をうにゅほに手渡す。 一分後、 「──……すごい」 うにゅほが感動の声を漏らした。 「かくめいだ」 革命だとしても、それはたぶん数百年前のことだ。 「これがあれば、なんでもかけるね!」 「……ああ、まあ、そうかな」 この子、なんでこんなに興奮してるんだろう。 「すごい! ここ! ここつかったらハートがかけるよ!」 「あ、本当だ。わりとちゃんとしたハートだな」 「おとくだね!」 「……そうだね」 今後の人生で、この大きさのハートを描く機会が訪れることを願う。
2013年1月31日(木)
ゆでたまごがあった。 「わー」 テーブルに駆け寄ったうにゅほが、ゆでたまごを指先でつつく。 「ぷにぷにしている」 「手を洗ってからにしましょう」 「はーい」 ふたりで手を洗い、行儀よくテーブルについた。 うにゅほが塩の小瓶に手を伸ばす。 俺はマヨネーズ派で、うにゅほは塩派である。 でも、マヨネーズの油脂分が不吉な未来を暗示しているようで、空恐ろしい。 「◯◯も、しおつかう?」 ゆでたまごの半分ほどを食べ進めたうにゅほが、こちらに塩を差し出した。 「うーん……」 「どうしたの?」 「いや、ずっと思ってたことがあってさ」 「なにー?」 「卵って、万能だよな」 「うん?」 「いろんな料理に合うし、栄養もあるし、お菓子にだって欠かせない」 「うん」 「マヨネーズだって、卵だ」 「そうなの?」 「卵と油と酢を混ぜてるんだよ」 「へえー……」 うにゅほが深く頷いた。 「卵がどんな味にでもなれるなら、どんな調味料だって合うはずだ」 「うん?」 「だって、塩も砂糖も酢も、生クリームにだってなじむだろ?」 「あー」 「でも、ゆでたまごには、しょっぱいのしか使わない」 「そだね」 「卵をゆでただけなんだから、どんな調味料とだってピタリと合わなきゃ嘘だ」 「うん、うん」 「ところで、チョコレートシロップとメープルシロップを見つけたんだけど」 「おー」 「どっちがいい?」 「うーん」 うにゅほはしばし考えこみ、 「メープルかな……」 と答えた。 ああ、俺の思いつきにうにゅほを巻き込んでしまった。 でもこんな馬鹿らしいこと一人でやりたくないし。 良心の呵責を覚えながら、チョコレートシロップの容器に力を込めた。 「やってしまったな……」 「でも、おいしそう」 なかばまで食べ進められたうにゅほのゆでたまごは、黄身とメープルシロップとが絡み合い、きらきらと美しい。 俺のほうは、白身のチョコレートがけ以外の何物でもないが。 「せーので食べよう」 「うん」 「せーの!」 ぱく。 しばし咀嚼。 「──……ゆでたまごにチョコレートシロップをかけたような味がする」 グルメレポーターにはなれそうもない。 「どうだ?」 隣に視線を向ける。 うにゅほが、虚空を見つめながら呟いた。 「おいしくない」 「おいしくないか」 「これは、おいしくない」 「そんなにか……」 ゆでたまごに、甘いものは合わない。
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