>> 2012年12月




2012年12月1日(土)

悪夢を見て、跳ね起きた。
最低の寝覚めだった。
着替えながらカレンダーを確認して、もう12月であることを思い出した。
階下に愛犬の遺体があることが、どうにも落ち着かなかった。
午後を過ぎて、ペット霊園で愛犬を荼毘に付してもらった。
火葬炉へ入れる前に、愛犬の眉間を掻いてやった。
そうすると、目を閉じて気持ちよさそうにしていたのだ。
その仕草が本当に喜んでいたものか、正直なところ自信はないけれど。
うにゅほは、最後まで愛犬の遺体に触れることができなかった。
火葬には一時間ほどかかるらしく、待合室で時間を潰すこととなった。
トイレに立ったうにゅほが帰ってこないので探しに行くと、物陰で壁に背中を預け、ぼんやりしていた。
自販機で適当にジュースを購入し、うにゅほの隣に並んだ。
しばらくして、うにゅほが口を開いた。
「……なんで、もやすのかな」
独特の香りが鼻を突いていた。
俺はすこし考えて、
「──屍体はみな、腐爛して蛆が湧き……たまらなく臭い。
 それでいて、水晶のような液を、たらたらとたらしている」
かつて読んだことのある一文を、思い出し、思い出し、訥々と諳んじた。
「死体は、腐る。
 おおよその人間は、そんな姿を見たくない。
 汚いと、醜いと、思いたくない。
 本当は、死んだ瞬間にきらきらと美しく消えてくれればいいんだけど、そんな夢みたいなことは起こらないから」
鳥葬などを行う地域もあるが、それにしたってわざわざ見には行くまい。
「なでであげれば、よかった」
うにゅほが、自分の手のひらを見つめながら、言った。
「怖かった?」
「うん」
「なにが怖かった?」
「……うん」
「俺も、怖かったよ」
「うん」
「それだけかな」
「うん」
天井を見上げて、溜め息をついた。
適当に買ったジュースを開けようとして、側面に小さく描いてあった漫画に目を留めた。
「××」
「うん?」
350ml缶を掲げ、告げる。
「白いサイダー88」
商品名である。
「……?」
俺は、シロサイをデフォルメしたキャラクターを指さし、そのセリフを暗唱した。
「僕は、白いサイダー大好き! 白サイだー!」
心ゆくまでダジャレだった。
「しろさい……しろさ、ふふふ……」
うにゅほが笑った。
ダジャレ、大好きだからな。
「ふっ、ふふ、う──」
笑いながら、泣いた。
俺は、うにゅほが泣き止むまで、二人分のサイダーを両手で持て余していた。



2012年12月2日(日)

愛犬が死んでも、次の朝は来る。
いつまでも泣き濡れているわけにはいかない。
顔を上げて、まっすぐに生き続けなければならない。
というわけで、今日は弟の誕生日である。
「祝いづらい」
「うん……」
「祝いづらいし、騒ぎづらい」
「うん、うん」
「……人の誕生日に、随分と好き勝手言ってくれるじゃないか」
正面の席の弟が、半笑いで答えた。
弟の誕生祝いに、家族で焼肉屋へ来ているのだ。
延期しようかという話も出ていたのだが、既に予約してしまっているということで、敢行する運びとなった。
まあ、過度に自粛するよりはいいのかもしれない。
「お前の誕生日がコロの命日になるっていう最悪の事態は免れたじゃないか」
「もういっそ、そのほうがいいよ。覚えやすいし」
頬杖をつき、不貞腐れてしまった。
俺とうにゅほは視線を交わし、そっと苦笑し合った。
食道まで逆流するほど詰め込んで、帰宅した。
いささか食べ過ぎたような気がする。
空気を入れ過ぎたサッカーボールのようにパンパンに膨れ上がった腹を持て余し、ゆっくりとソファに寝そべった。
そのまま数分ほど目を閉じていると、いつの間にかうにゅほが俺の顔を覗き込んでいた。
「……ねちゃうの?」
「いや、まだ寝ないよ。さすがに早い」
壁掛け時計を横目で確認すると、午後九時だった。
「でも、焼肉がもうちょっと下のほうに行くまで、動きたくない……」
「ねないの?」
「寝てほしいの?」
「ちがうよ」
うにゅほが首を振り、答えた。
「おふろはいらないと、くさくなるよ」
「あー」
「きのう、はいってない」
「おー」
「おとといも、たぶん」
落ち込んでいたくせに、よく見ている。
うにゅほの言う通り、ここ数日はバタバタしていて、シャワーもろくに浴びていなかった。
「──…………」
シャツの襟元を持ち上げて、嗅いでみた。
よくわからない。
「臭い?」
尋ねてみた。
うにゅほは俺の襟元に鼻を近づけて、
「やきにくのにおい」
と言った。
そりゃそうだ。
数分ほど腹を撫でてから入浴し、数日分の汚れを落とした。
さっぱりである。



2012年12月3日(月)

常用している靴があまりに履きにくいので、日本全国靴屋めぐりの旅に出ることにした。
まずは沖縄である。
嘘である。
ABCマートや東京靴流通センターなどを見て回ったが、いまいちピンと来るものがない。
ならば中古の靴はどうだろうかと、万代札幌手稲店へ向けてハンドルを切った。
「おお、売ってる売ってる」
古着に軽く気を取られながら、目的の靴売り場へと辿り着いた。
「茶色いな!」
「うん、ちゃいろい」
新品の靴より、くたびれた古靴のほうが好みである。
見るからに不衛生なボロ靴は、さすがに問題外だけど。
「……うーん」
中古の靴を購入する際、ひとつの大きな壁がある。
それは、すべての商品が一点物であり、他のサイズは存在しないということだ。
気に入ったデザインの靴を見つけても、サイズが合わなくては履くこともできない。
「これとか、すごい好きなんだけど……」
「ぶかぶか」
右足を上げる。
まるでサンダルのようだ。
「じゃ、これは?」
うにゅほが手近な靴を手に取った。
「悪くないけど、すこし小さくないか?」
「そっかな」
「試してはみるけど」
靴紐をゆるめ、爪先を通した。
「ん?」
足を上げ、上下左右に動かしてみる。
「んー……?」
爪先で床をノックする。
「んんー……」
「どう?」
「いや、なんか……あつらえたみたいにビッタリなんだけど」
足がすこし大きくなったような履き心地、とでも表現すればいいのだろうか。
「おー」
うにゅほが心なしか嬉しそうに声を上げた。
「じゃ、それにする?」
「うーん……」
さすがにピッタリ過ぎはしないだろうか。
普通の靴って、もうすこし隙間が空いているような気がする。
「──そうだな、これにするか」
でも、まあ、いいや。
めぐり合わせもあるだろう。
「ところで、家から履いてきたこの靴も、古着屋で買った中古品なんだ」
「?」
「だから、それほど心配しなくても大丈夫なんだよ」
「なにもいってないよ?」
「いや、古靴を買うときは、いつも自分に言い聞かせるんだ……」
「はあ」
水虫とか怖いけど、俺は孤高のギャンブラー。



2012年12月4日(火)

雪国に住む人間は、雪道に際しふたつの能力を備えている。
第一に、靴の裏と地面とを平行に保つ独特の歩行法である。
靴の接地面を左右に動かさないことで、凍った地面での走行さえ可能となる。
第二に、スリップ時に行われるリカバー判定である。
滑ったときに土俵際で踏ん張る技術に長けている、と言い換えてもいいだろう。
どちらも数十万、数百万歩に及ぶ膨大な経験が培ったスキルである。
「──ぬおッ!」
というわけで、俺は家の前で滑り、すんでのところで体勢を立て直したのだった。
「だいじょぶ!?」
「セー……フ」
駆け寄ろうとしたうにゅほを片手で制し、ゆっくりとガニ股を閉じていく。
「危ないところだった……」
家の前にある駐車スペースは、僅かに傾斜がついており、油断するとすぐに滑る。
下ろし立ての靴で刻む第一歩で転倒しては、目も当てられない。
俺はのび太か。
「××、気をつけろよ。滑るから」
「うん」
うにゅほが足を滑らせはしないかと、軽く腰を沈めて様子を見る。
「……?」
無事に俺のそばまで辿り着いたうにゅほが、肩越しに背後を窺った。
「◯◯、どこですべったの?」
「いや、どこって」
その場で靴を前後に動かした。
「ここだって滑るよ」
「すべる──……かなあ?」
あ、なんか嫌な予感がする。
俺は片足を持ち上げて、靴の裏を恐る恐る指先で押した。
プラスチックと紛うほど硬かった。
「こりゃ滑るわ……」
間違いない、これは夏靴だ。
靴底の溝が深いため、冬靴であると勘違いしていた。
「──じゃあ、はけないの?」
「いや、たしかに滑るけど、履けないってわけじゃ」
「だめだよ! すべったら……」
うにゅほが口をつぐんだ。
「……そうじゃなくて、冬のあいだは履かないほうがいいってだけ」
雪面を削るように足を動かしてみる。
これでは、サンダルでスケートリンクを歩くようなものだ。
「気に入ってるから、雪が解けたら履くよ。滑らなければ問題ないんだし」
ただ、そうなると、ひとつの問題が浮上する。
「じゃあ、◯◯は、なにはくの?」
「そう、そこだ」
そもそも、冬靴がないから買いに行ったのだ。
「……まあ帰ったら、靴棚でも漁ってみるか。なにか見つかるかもしれないし」
「あるの?」
「わかんないけど、そんな靴ばっか買ってられないもの」
そう言って、俺は肩をすくめた。
「ま、今日のところはこの靴で」
「だいじょぶ?」
「いや、車だし、もうドア開けたし」
「んー……」
うにゅほは心配性である。
まあ、しばらくは仕方がないのかもしれないと思った。



2012年12月5日(水)

うにゅほがソファの背もたれに反り返りながら、大口を開けて眠りこけていた。
昼寝をするのはいいが、もうすこしなんとかならなかったのか。
軽く呆れながら、うにゅほの前髪を指先で払った。
できれば上体を横たえたいのだが、安らかな眠りではあるようだし、起こすような真似はしたくない。
最近、夜中に目を覚ますことが多いようだから。
「ストーブくらいは、つけといてやるか……」
囁くように呟き、灯油ストーブの電源を押そうと手を伸ばす。
「──…………」
給油ランプが点灯していた。
最近、灯油切れの頻度が高い気がする。
寒いのか、寒がりなのか、よくわからないが。
なるべく音を立てないように灯油タンクを抜き取り、玄関へと向かった。
18リットルのポリタンクから給油し、自室へ戻る。
ストーブの電源を入れて一息ついたあと、おもむろに指を鼻先まで持ち上げた。
「……うへえ」
灯油くさい。
どうして、うにゅほはこんな匂いが好きなのだろう。※1
悪臭と呼ぶほどではないが、十分に異臭の範疇である。
のんきにソファで寝こけているうにゅほへと視線を運び、
「ふむ」
ふと、いいことを思いついた。
うにゅほを起こさないよう過剰なまでにゆっくりと近づき、右手の指先をうにゅほの鼻に近づける。
「──ほふ」
保父?
溜め息のような言葉と共に、うにゅほがもごもごと口を動かした。
「──…………」
しかし、それで終わりだった。
以降は特に何事もなく、うにゅほは意識の深層へと再び沈んだようだった。
俺は、思った。
いまいちつまらない。
無意識に鼻をすんすん鳴らすような可愛らしい反応を期待していたのに。
このままでは終われない。
なにかこう、ないか。
なにか──
「──…………」
視線を落とす。
うにゅほが大口を開けていた。
「……やるか」
やってやろう。
俺は人差し指をピンと立て、うにゅほの口内へゆっくりと下ろして行った。
「あ」
なんか、空気がしめっていて、ぬくい。
あと、呼気がくすぐったい。
「おお……」
眠っているうにゅほの口のなかに指を突っ込んでいるだけなのに、なんだかすごくいけないことをしているような気がする。
しかし、長くやる遊びではない。
ゆっくりと人指し指を引き戻し、左手で包み込んだ。
「ふー……」
スリル溢れる遊びだった。
またやろう。

※1 2012年2月11日(土)



2012年12月6日(木)

午前中から吹雪くは雷が轟くはえらいことだった。
正午を過ぎて天候が落ち着きを見せたので、今のうちにと雪かきをすることにした。
コートを着込み、玄関をくぐる。
積雪は僅かに十センチほどで、風ばかりが激しかったのだと初めて気がついた。
「はつ、ゆきかき」
うにゅほがにこやかに言った。
できれば迎えたくなかった初である。
「それより、あんまし雪かきらしい恰好じゃないと思うよ」
うにゅほが羽織っているのは、誕生日に貰ったお気に入りのコートだった。
真っ赤なミトンも両手を飾っている。
下は長靴だけど。
「去年着てた俺のジャケットのほうが良かったんじゃないか?」
「いいのー」
「汚れるかもしれないぞ」
「ゆきだもん」
雪だから汚れることはない、という腹だろう。
それはどうかな。
薄い色のコートは、思ってもみないことで簡単に汚れるぞ。
「ま、いいけど」
あまり良くはないが、軽作業くらいならさすがに問題ないだろう。
「大した量じゃないし、遊んでてもいいぞ。ほら、雪と戯れておいで」
「やる」
「やるのか」
「やるよー」
やる気十分である。
「よっしょ!」
うにゅほがジョンバを手に取り、雪の層に突き立てた。※1
「ん──……ぎぎぎ!」
持ち上がらない。
「おもい!」
「え、重いか?」
爪先で雪の層を掻き分ける。
想像していたよりも水分を含んでいるようだった。
粉雪は空気のように軽いが、解けた雪は密度を増し、重くなる。
「まだ、そんなに寒くないんだな……」
これからもっと冷え込んで行くのかと考えるだけで、めげそうになる。
毎年のことだけど。
「ほら、貸しな」
うにゅほからジョンバを受け取り、軽く雪を跳ね飛ばした。
「おー!」
うにゅほがぽふぽふと拍手を送る。
「ちからもちだ」
「鍛え方が違う──と言いたいところだけど、実はそうでもないんだな」
万年運動不足だし。
「左手で柄の根元を掴まないと、粉雪だって持ち上がらないよ」
「そうなの?」
「そうなの」
てこの原理である。
ジョンバの使い方には幾つかコツがあり、まとまりを保ったまま粉雪を数メートル先まで飛ばせるようになってようやく一人前と言える。
「今日は重いから、××は紫色のやつで雪押してくれ」
「はーい」
うにゅほがスノープッシャーを手に鼻息を荒くした。※2
いつも思うのだけど、うにゅほはどうして雪かきに対しこんなにもアグレッシブなのだろう。
楽しいのかな。
まあ、俺もふたりでやるぶんには憂鬱でもないけれど。
雪かきは十分と経たずに終わり、自室に戻ったあともしばらく体がぽかぽかしていた。

※1 ジョンバ ── 幅の広い除雪用のシャベル
※2 スノープッシャー ── 雪を跳ねるのではなく、押すタイプの除雪用具




2012年12月7日(金)

時間は午後六時でくびれている。
少なくとも、俺とうにゅほにとってはそうである。
午後六時は、犬の散歩へ行く時間だった。
うにゅほにとっては一年、俺にとっては十六年、ずっと変わることはなかった。
「──…………」
うにゅほがそわそわと時計を見上げる。
その理由は、理解している。
俺もそうだからだ。
外出するときも、昼寝をするときも、午後六時には手が空くように計算してしまう。
一週間だ。
たった一週間で、拭いきれるはずもない。
「──あの、さ」
俺は、意を決して切り出した。
「散歩、行こうか」
うにゅほがぽかんと俺に視線を向けた。
「いや──あの、なんだ。落ち着かないから、そのへんを一周してこようかと思うんだ」
泣きもせず、笑いもせず、ただぼんやりとした表情を浮かべて、
「うん」
と、うにゅほは頷いた。
コートを着込み、外へ出た。
空気は、清冽な冬の寒さに澄んでいた。
「行こうか」
うにゅほの手を取り、歩き出した。
二重の手袋を介しても、うにゅほの手のひらは温かい気がした。
「──…………」
話すことは、特になかった。
話さなければならないことも特にないし、ずっと一緒にいるのだから、あったとしても既に話している。
「ほー……」
うにゅほの呼気が形を得て、ふっと夜に広がり、消えた。
「寒いな」
「うん」
会話は、それだけだったと思う。
それでも意味はあったし、通じるものがあったと思いたい。
散歩コースをなぞり、ほんの十分ほどで家に着いた。
我が家を見上げて、思った。
十六年、歩いた。
愛犬の世界は、たったこれだけの広さしかなかったのだ。
一週間経つ。
涙はもう、流れなかった。
ただ、思考を溶かすようなノイズがあった。
「……ただいま」
うにゅほが言った。
声を見ることはできなかった。
うにゅほの左手を離し、玄関へと歩を進めた。
ところで、俺はまだ数日前に購入した夏用の靴を履いている。
「──……えっ」
その一言を残し、俺の視界はぐるりと反転した。
簡単に言えば、すっ転んだ。
「◯◯!」
腰と背中が冷たかった。
視界のほとんどを占めた曇り空に、つまらない感動を覚えていた。
「◯◯ッ!」
うにゅほの顔が、視界を覆う。
「初、ころび……」
「ばか!」
怒られた。
まあ、怒ってくれる人がいるうちが花なのかもしれないと思った。



2012年12月8日(土)

iPhoneの液晶保護フィルムが変色してしまった。
ケースに備え付けてあったものだが、どうやら安物だったらしい。
父親と弟も同じ症状に悩まされていたので、ヤマダ電機で三人分の保護フィルムを購入した。
──のが、半月前の話だ。
さして困るようなことでもなかったのが、ひとつ。
保護フィルムを綺麗に貼る自信がなかったのが、もうひとつ。
「こんなことじゃ、いけない」
拳を握りしめ、俺は立ち上がった。
「俺たちは、液晶保護フィルムと向き合わなければならないんだ!」
「おー」
うにゅほがぺちぺちと下手な拍手を送る。
「やるの?」
「やってやるともさ!」
俺は雄々しく頷くと、保護フィルムの包装を破いた。
十分後、
「──やってしまった」
俺は嘆いていた。
いくら爪の先で潰しても、気泡が消えてくれない。
ホコリが挟まっているのだ。
そして、貼っては剥がしを幾度となく繰り返したために、フィルムの端が反り返ってしまっている。
「……あの、きにしないよ?」
俺が気にするのだ。
「──…………」
打つ手は、ある。
あるのだが、その選択をして後悔しないという確信が持てない。
しかし、しかしだ。
液晶保護フィルムの、惨憺たる有様を見よ!
これが俺の望んでいた結末なのか!
「──……××」
「なに?」
「それを、取ってくれ」
「それ?」
「弟のぶんの保護フィルムを取ってくれ!」
液晶保護フィルム、一枚680円。
禁じられた二枚目を受け取り、封を開けた。
「かってにつかっていいの?」
「後で買いに行く!」
「おー!」
「嬉しそうだな」
うにゅほはヤマダ電機が好きである。
「俺も、ただやられたわけじゃない……」
一枚目の犠牲は、俺のなかに経験という種を撒いた。
花を咲かせるかどうかは、俺自身の手に掛かっている。
十分後、
「──やってやった!」
「どれ?」
ぼんやりテレビを眺めていたうにゅほが、俺の手元を覗き込んだ。
「きれい!」
「そうだろう、そうだろう」
気泡もホコリもない、完璧な仕上がりである。
「さわっていい?」
「そのための保護フィルムだ」
うにゅほがiPhoneを手に取り、画面に触れた。
「──……?」
ホーム画面で幾度かフリックする。
「なんか、ざらざらしてるね」
「ああ……たぶん、アンチグレアだからじゃないかな」
うにゅほからiPhoneを受け取り、なめこ栽培キットDeluxeを起動する。
「──…………」
あれ、なんか見づらい。
ほんのすこしだけ砂嵐の混じったアナログテレビのような画質になっている。
「ああ──……」
溜め息をつき、呟いた。
「アンチグレアは、駄目だ……」
心が折れた。
ヤマダ電機でグレアの液晶保護フィルムを再度購入し、貼り直さないまま今に至る。



2012年12月9日(日)

ソフトバンクショップで液晶保護フィルムを貼ってもらい、帰宅した。
セロテープを自在に使った見事な匠の技だった。
あれ、研修とかで習うんだろうか。
「おー……」
うにゅほが瞳を輝かせながら、iPhoneのホーム画面を意味なく左右にフリックしまくっていた。
気持ちはちょっとわからなくもない。
つやつやと光沢の美しいフィルムは、指通りもなめらかで、心地いい。
アンチグレアとはなんだったのだろうか。
愛用者もいるのだから、そう悪しざまに言うつもりもないけれど。
「♪っ」
それにしてもこのうにゅほ、感触だけで楽しみすぎである。
「──…………」
その姿をぼんやり眺めていたとき、俺の心に封印されし男子小学生がゆっくりと目を覚ました。
イタズラしたい。
イタズラすべきである。
イタズラしなければならない。
しかし、いきなり襲い掛かって横っ腹をくすぐるのは芸がないし、そもそも美学に反する。
「──……くふ」
手はある。
iPhoneに仕掛けを施すのだ。
そのためには、うにゅほがiPhoneから離れるのを待つ必要がある。
「トイレ」
「いってらっしゃい」
三十分ほど様子を窺い、ようやく機会が訪れた。
「──…………」
ソファに放置されたiPhoneに手を伸ばし、ロック画面を呼び出す。
そして、ホームボタンを押したまま、スリープボタンにあてがった指先に力を込めた。
カシャッ!
という音と共に画面が明転する。
スクリーンショットが撮影されたのだ。
「──……よし!」
勘の良い読者諸兄にはもうおわかりだろう。
PC初心者に対する古典的なイタズラ、故障かな?と思ったらスクリーンショットでした! for iPhone である。
しょぼくない!
仕込みを終え、元の位置にiPhoneを戻す。
あとは待つだけである。
「ただいまー」
「おかえり」
うにゅほが、服のすそで両手を拭きながら自室へと戻ってきた。
いつも思うが、タオルで拭け。
今この時に限っては注意しないけれど。
「よっしょ」
ソファに腰を下ろし、iPhoneを手に取った。
ホームボタンを軽く押し、画面下部を左から右にフリックする。
「あれ?」
俺は胸中でほくそ笑んだ。
これが漫画であれば、うにゅほの頭上に巨大なはてなマークが浮かんでいることだろう。
うにゅほが再び画面をフリックし、
「……プリン?」
と呟いた。
「プリン?」
予想外の言葉に、思わず身を乗り出した。
「なんか、プリンでた。ほら」
うにゅほがこちらに画面を向けた。
そこには、しばらく前に作った牛乳プリンの写真が表示されていた。
「あっ」
理解した。
スクリーンショットも写真だから、右にフリックすると前に撮影した画像に移動するのだ。
「──…………」
なんか、思ってたのと違うかんじ。
「こわれた?」
「……いや、壊れてないよ」
大したリアクションも引き出せなかったのにネタばらしをするのも妙な気がして、俺は無言でスクリーンショットを削除した。
俺の心に住む男子小学生は、再び眠りについた。
しかし、いつの日か第二第三の男子小学生が、あ、もういいですか、はい。



2012年12月10日(月)

昼間に購入したSERVANT×SERVICE2巻を手に、うにゅほの布団の上で横になっていた。
そのうちうにゅほが部屋に戻ってきて、俺の背中に腰を下ろした。
まあ、ここまではよくあることである。
「……あのさあ」
もみもみ。
「なんで尻を揉むの?」
「──…………」
もみもみ。
無回答。
夢中になるほど楽しいのか、それが。
仕方がないので、
「──破ッ!」
気合と共に大臀筋に力を入れた。
「かたい!」
うにゅほが驚いて手を離す。
「かたくなった! かたくなった!」
「誤解を招きそうだから連呼はやめてくれ」
「?」
うにゅほが小首をかしげているような気配がした。
「それで、何故俺の尻を揉む」
「やわらかいから」
そりゃたいていの一般人の尻はやわらかいだろうさ。
「……じゃあ、なんでやわらかいと思ったの?」
「テレビ」
なんの番組だよ。
「──…………」
もみもみ。
「まだ揉むのか」
いやべつにいいっちゃいいけど。
そのうち飽きるだろうし。
と思いきや、
「──…………」
もみもみ。
そのまま五分ほど揉まれ続けた。
集中できない。
「いい加減にしないと、××の──」
と言い掛けたところで、さすがにセクハラだと気がついた。
男女同権を叫びたい。
まあ、わざわざ揉まずとも背中の上に乗っているわけだけど。
「──いや、弟の尻は、もっとやわらかいぞ」
「え?」
うにゅほの手が止まる。
「ほんと?」
「本当」
本当である。
何故弟の尻を揉むに至ったのか経緯はさっぱり思い出せないが、とにかくやわらかかった記憶がある。
「ちょっと揉んできたら?」
「うん」
うにゅほの体重と体温が背中から消える。
「──……うーん」
そのことになんとなくもの寂しさを感じながら、手元に視線を戻した。
「おわあッ!」
数秒後、リビングから弟の叫びが轟いたが、聞こえなかったことにした。



2012年12月11日(火)

帰宅し、自室の扉を開いた。
「──…………」
激しい尿意が膀胱の扉を叩く。
大人として、こちらは開けない。
部屋の隅にあったバランスボールの上にコートを脱ぎ捨てると、小股で急ぎ部屋を出た。
「ふぃー……」
背中で水洗音を感じながら、すっきりとトイレを後にする。
「あれ、暗いな」
まだ日没前だというのに、リビングは薄闇に没していた。
電灯を点けて、自室へと戻る。
「──……ッ!」
そこに、それが、いた。
ほの暗い部屋の隅でうずくまる、何者かの姿が──
「…………」
と思いきや、コートに包まれたバランスボールだった。
「俺は馬鹿なのか……」
眉間に親指を当てて、軽く自嘲する。
尿意に背中を押されていたとは言え、自分で置いたコートに自分で驚いていてはさすがに情けない。
「──いや、馬鹿じゃない!」
拳を固く握り締める。
このコートは、うずくまった不審者だ!
誰が見てもそうなのだ!
それを証明する手段はそう多くない。
──とっとっと
階段を軽やかに駆け上がる音がした。
「──…………」
片側の口角をにやりと吊り上げる。
証明手段がやってきた。
急いで本棚の陰へと身を隠し、口元を手で隠す。
俺と同条件下において、バランスボールの上に掛けられたコートにうにゅほがびっくりすれば、それが不審者に見えても不思議ではないと証明される。
同時に、俺が馬鹿ではないことも立証できるのだ。
コートを掛けたのが俺自身であるという事実は些末な問題であるため、無視してもよい。
「◯◯ー、ゆきのやどー」
うにゅほが何かをカサカサと揺らしながら、室内へと足を踏み入れた。
さあ、どうだ!
「なにやってるの?」
「はっ!」
見つかった。
コートはあっさり無視された。
「──…………」
ゆっくりと立ち上がり、前髪を掻き上げる。
「××、俺は馬鹿だな」
「ふうん……ゆきのやど、たべる?」
あっさり流された。
「食べる」
うにゅほが手にした大袋からせんべいを取り出した。
「表面の白いとこ歯で削って食べるの、やめてくれよ」
「えー……」
「どうしてもやりたいなら、ゴミ箱の上で頼む。あれ、粉が落ちるから」
「はーい」
雪の宿は、美味しかった。



2012年12月12日(水)

天気予報を見ると、八体の雪だるまがバケツの下から不気味な笑みを覗かせていた。
今日は雪だった。
一日中降っていた。
うにゅほはほのかに落ち着かないようだったが、俺は気が重かった。
たまの雪かきくらいなら軽い運動と割り切ってもいいが、今日だけで何度ジョンバを握る羽目になることか。
「ゆき、すごいね」
「凄くなくっていいのに……」
がっくりとうなだれる。
窓の外から視線を背けても、積もった雪は厳然とそこにある。
俺は立ち上がり、呟くように言った。
「雪かき、するかー……」
「うん──んっ」
腰を上げようとするうにゅほの頭頂部を右手で押しとどめる。
「いいよ、俺だけで。午前中にもやったし、疲れたろ」
「やる!」
右手を離した。
まあ、そう言うとは思っていた。
「どうしてそう、雪かきなんかが好きかねえ……」
「たのしいよ?」
「楽しいか?」
雪かきが好きなのか、雪が好きなのか。
たぶん、一緒に作業できることが嬉しいんだろうけど。
玄関をくぐると、そこは雪国だった。
「あーあ……」
午前中に捨てたはずの雪が、すねのあたりまで積もっている。
積み上げた石を牛頭馬頭に崩されたような気分だった。
「……じゃ、俺集めるから、××はダンプな」
「はーい」
雪かきをするに当たって最も重要なものは、腕力でも、除雪用具でもない。
雪捨場である。
敷地内に融雪槽を設置することのできる小金持ちは別として、雪国の一軒家にとって雪捨場の確保は必須事項と言える。
我が家は目の前に公園があるため比較的恵まれているが、ピラミッドを建設するように付近住民が雪を捨てていくため、空き地に高さ数メートルの雪山ができあがることも珍しくはない。
「──……ふうっ」
ジョンバで雪を一箇所に集め、小山を作った。
あとは、スノーダンプで公園に雪を捨てるだけである。
交代しようとうにゅほに声を掛けようとして、
「──…………」
無言で雪の山にジョンバを突き刺した。
うにゅほの下半身が、雪捨場に埋まっていた。
「やったか……」
雪は基本的に増える一方であるため、捨てた場所が通路となり、更に奥へと伸びていく。
ちゃんと踏み固められていないところを歩こうとすると、こうなる。
うにゅほが上半身をひねり、こちらを見た。
「──…………」
そして、無言で両手を伸ばした。
なんか言えよ。
「よっ──、と!」
うにゅほに手を貸し、助け出す。
「大丈夫か?」
「──…………」
なんか言えよ。
「もしかして、恥ずかしがってる?」
下を向いたまま、慌てたような速度で首を振った。
恥ずかしがってるな、これは。
「まあ、よくある。俺が埋まったときは、助けてくれよ」
頭をぽんと叩き、スノーダンプを回収して家の前へ戻った。
うにゅほの顔を覗き込もうかとも思ったが、さすがに趣味が悪いのでやめた。



2012年12月13日(木)

体調が悪く、一日中布団にくるまっていた。
午後三時くらいに起き出すと、部屋のなかが猛烈に寒かった。
「さささささ──」
「?」
歯の根が合わなかった。
「──寒い!」
「そう?」
「ストーブもつけないで、よく平気だな」
「◯◯がパジャマだからじゃ……」
そうかもしれない。
とりあえず袢纏を羽織り、ストーブの電源を入れた。
「……やっぱ、そんなレベルじゃないくらい寒い気がする」
「そうかなあ」
ソファに腰を下ろし、うにゅほの手を取った。
「ほら、手だって冷たい。あんまり体を冷やさないほうがいいと思うけど」
「──…………」
右手が、うにゅほの両手に包まれた。
「◯◯、あついよ?」
「熱い?」
「おでこかして」
手のひらが俺の額に触れる。
ひんやりとして気持ちがいい。
「あつい……」
「マジで」
「かぜ、よくひくねえ」
「丈夫なほうではないからな……」
たびたび寝込むのは風邪だけが理由ではないのだが、詳しく説明する気にはなれない。
「ふとん、はいってたほうがいいよ」
「そうだな」
うにゅほに言われるがまま腰を上げ──
「──…………」
すぐに下ろした。
「どうしたの?」
「……いや、ちょっと思いついたことがあって」
うにゅほの肩を掴み、こちらを向かせた。
「熱を測るとき、おでこをこつんと合わせるの、やってみたい」
「やってみたいの……」
こんな機会でもなければ、死ぬまで経験できそうにない。
「はい」
うにゅほが自分の前髪を掻き上げ、額を露出させた。
「では、失礼して──」
こつん。
額を合わせる音が、波紋のように響いた気がした。
「……熱あるか、わかる?」
ほんの数センチ先にいるうにゅほに吐息が触れてしまいそうで、囁くように尋ねた。
「うん。ちょっと、あつい」
「ちゃんとわかるもんなのか……」
男女がいちゃつくための大義名分かと思っていた。
「──…………」
「──…………」
無言。
なんだこれ、照れる。
でも、視線を外したら負けのような気がして、ずっとうにゅほの瞳を睨みつけていた。
そのまま体感時間で数分ほどが過ぎて、
「──……ぷふっ」
不意に笑いが込み上げてきた。
「?」
「ぶはっ、ふふ、ははははははっ!」
疑問符を浮かべたうにゅほから離れ、腹を抱えて笑い転げる。
俺は確信した。
これは、確実に高熱がある。
ひとしきり笑ったあと、
「……寝る」
「うん、おやすみ」
布団にくるまって、夜まで眠った。
起きると熱は下がっていた。

※このとき、うにゅほと初めてのキスを交わしている。



2012年12月14日(金)

ソファに背を預けたうにゅほが、虚空を見上げながらぼーっとしていた。
うにゅほはぼんやりするのが好きらしい。
放っておくと、一時間でも二時間でもこうしている。
「おーい」
うにゅほの眼前で、右手をひらひらと動かした。
ぼーっとしているうにゅほを見かけると、よくこうして声を掛ける。
ぜんまいの切れた人形を見るようで、なんとなく不安になるのだと思う。
「んー?」
「起きてる?」
「おきてるよー」
うにゅほの隣に腰を下ろし、同じように視線を上げた。
「なに見てたんだ?」
「とけい」
「……面白いか?」
「ずーっとうごいてるのに、たまにとまったり、ワープしたりする」
「するのか……」
する、と言われても、それ以外に返答のしようがない。
「俺は苦手だな、ぼーっとするの。五分くらいで、もう我慢できなくなる」
「へんなの」
そう言って、うにゅほは笑みを浮かべた。
俺からすれば、変なのはそちらのほうなのだが。
「俺は、時間を節約してるんだよ」
「せつやく?」
「そう。やることがあればササッとやって、用事があればパパッと済ませて──」
そこで言葉を詰まらせた。
「すませて?」
「ヒマな時間を作って……」
「つくって?」
「……ぼーっとする?」
メキシコの漁師に起業を持ちかけるアメリカ人の小話みたいになってしまった。
「じゃ、なかまだ」
ぽす。
うにゅほが俺の膝の上に、うつ伏せで寝転がった。
「動けないんだけど」
「いっしょにぼーっとする」
「……まあ、いいけど」
時計の秒針を見つめながら、ぼんやりと意識レベルを落としていく。
ふとももが、うにゅほのおなかであったかい。
「──…………」
心地はいいが、つまらない。
「××」
「──…………」
返事がない。
「××?」
「──……すー」
速攻で寝やがった。
なにが「いっしょにぼーっとする」だ。
俺の怒りのゴールドフィンガーが、うにゅほの脇腹めがけて唸りを上げた。
悲鳴じみた笑い声が、室内に響いた。



2012年12月15日(土)

俺は、一日一ようかんを自らに課している。
ようかんをひとつ食べなくてはならないのではなく、ようかんをひとつしか食べてはいけないのである。
飢えたスイーツモンスターたる俺は、あればあるだけ食べてしまう。
ゆえに買いだめはせず、食べたいときにスーパーへと走ることにしている。
「──…………」
しかし、数日前にいくつか買い込んでしまったのである。
だって特売日で安かったんだもの。
「──……うーん、食べたい」
今日はもう、午前中にひとつ食べてしまった。
とにかく糖分を摂取したいが、甘味と言えば飴玉しかない。
飴は美味しいが、満足感はない。
クロノ・トリガーのエナ・ボックスみたいなものである。
「というわけで、なんとかなりませんか」
「なりません」
ようかんの在り処は、うにゅほにしかわからない。
と言うのも、数日前にようかんを買い込んだ際、未来の自分を信じることができず、うにゅほ管理にしてしまったのである。
「どうせ明日にはもう一個食べたいもう一個食べたい言ってるんだから、××が隠しといてくれよ」
何故、数日前の自分はそんなことを言ってしまったのだろう。
完璧な予測だが、それゆえに腹立たしい。
「うう、甘いものが食べたい……」
「あめあるよ?」
「飴じゃ満たせないものがあるんだよ……」
とまあ、誇張して書いてはみたが、俺とて立派な成人男子である。
自己管理はある程度できるし、駄目だというものを無理に押し通そうとする反骨精神もあまりない。
まして数日前の自分が頼んだことなのだ。
「……本当にだめ?」
もう一度だけ尋ねてみた。
「だめです」
にべもない。
しかし、同じ屋根の下に栗蒸しようかんが存在するという状況は、精神的にあまりよろしくない。
俺は古いアパートの若く美しい管理人に懸想する貧乏学生かなにかか。
「──……ああ、そうか」
胸のなかで、なにかがカチリと音を立てた。
あるから、つらいのだ。
最初から存在しなければ、こんな気持ちになることもなかったのだ。
「……××」
「なに?」
「最後のいっこ、食べていいよ」
そう、これが唯一にして無二の答えだ。
「いいの?」
「がぶっとやっちゃってくれい! 俺の見てないところで!」
目の前で食べられるのは、さすがにちょっと嫌だ。
「いいなら、いいけど……」
不思議そうな表情を浮かべたまま、うにゅほが部屋を後にした。
しばらくして、
「あけてー」
うにゅほの声が扉越しに響いた。
慌ててチェアから腰を上げ、扉を開く。
「どうか──」
したか、と尋ねようとして、言葉を止めた。
うにゅほの手にしたお盆の上に、切り分けられた栗蒸しようかんと、ふたりぶんの牛乳が載っていた。
「え、どうした?」
改めて問い直す。
「このようかんおおきくて、ぜんぶたべられないもん」
「ああ……」
一個160円、納得のサイズである。
そのままふたりでおやつタイムと洒落込み、俺の舌はすっかり満足したのだった。



2012年12月16日(日)

最寄りの投票所は、俺の母校である。
ほんの目と鼻の先にあるので、散歩がてら歩いて行くことにした。
「楽しくはないと思うよ」
鼻歌まじりに靴の先で地面を叩くうにゅほに、そう声を掛けた。
「るすばん、やだよ」
それもそうか、と納得した。
ぼんやりと道中を歩きながら、ふと空を見上げた。
大きな雪片が、ひらひらと舞っていた。
「牡丹雪だ」
「ぼたゆき?」
「牡丹みたいで──いや、牡丹はわからんか」
「はな」
そりゃ、それくらいは知っているだろうけど。
「まあ、そうだな。くっついて、牡丹の花みたいに大きくなった雪を、牡丹雪って呼ぶんだよ」
「ふうん……かわいいね」
「見るぶんには、そうかもしれないけど」
水分が多いから、積もるとやたら重くなるんだよな。
「あー」
うにゅほが、空に向けて口を開いた。
「なにやってんの」
「ぼはゆき、つめはいかなって」
「うーん……」
それくらいなら腹を壊したりはしないと思うけど、軽く脅かしておこう。
「すこし行ったところに、大きな雪捨場があっただろ」
「うん」
「あれ、春になったらどうなったか、覚えてる?」
「うん?」
「きたなーい泥の山になってたろ」
「うーん」
「あれは、雪の山が解けたあと、あそこに新しくできたわけじゃないんだよ」
「ふん?」
「雪は解けるけど、チリは解けない。だから、あの雪の山には、あれだけの量のチリが含まれていたってことなんだ」
「──…………」
うにゅほが口を閉じた。
「……ちょっとたべちゃった」
「雪のひとひらくらいなら問題ない。でも、積もったのを食べたりすると──」
ぽんぽん、と自分の腹部を叩いた。
「な?」
「たべません……」
うにゅほが唇を噛んでみせた。
「漫画とかで、雪にカキ氷シロップをかけて食べるシーンあるけど、正気じゃないと思うなあ」
「──…………」
「まあ、子供のころはちょっとやってみたかったけど」
うにゅほが強く頷いた。
「……××、やってみたかったの?」
「ちょっとだけ」
「雪、美味しそうだもんなあ」
「ゆき、きれいなのにね」
「綺麗だって思ったまま、なにも知らずにいたほうが幸せなのかもしれないな」
「そういうもの?」
「たぶん」
それでも、一面の銀世界を美しいと思う感性は残っている。
「……よく、わからないけど」
「じゃあ、わたしもよくわかんない」
おそろいだ、とうにゅほが笑った。



2012年12月17日(月)

「んー……」
透かすように財布を掲げて、唸った。
「どしたの?」
「財布が分厚くなってる──気がする」
「だめなの?」
「駄目じゃないけど、よくもないかな。札束で分厚くなってるなら文句はないんだけど」
財布を開き、うにゅほに見せた。
「ほら。スタンプカードとか、メンバーズカードとか、そんなのばっかだろ」
「えー……」
うにゅほがきびすを返し、小走りに駆け出した。
そして、
「わたし、そんなのもってないよ……?」
うにゅ箱から財布を取り出し、中身をあらためながらそう言った。
「そもそも、あんまり買い物しないだろ」
「そうだけど……」
何故か不満そうである。
「こういうのは、いつの間にか溜まってるもんだからな。
 ちょっと整理してみようか」
「いらないの、わたしにくれる?」
「いや、いらないから整理──……まあ、欲しいならべつにいいけど」
あきらめた。
財布からカード類を抜き出し、開く。
「こうして見ると、病院の診察券が多いなあ……」
「ひつよう?」
「いや、一度行ったきりのところが多いからな。まとめて机の引き出しに入れとこう」
「これは?」
うにゅほが、原色の黄色と青に彩られたカードを指さした。
「ああ、Tポイントカードだよ。TSUTAYAのカード」
「ゲオじゃないほう?」
「その覚え方はどうかと思うけど──あ、期限切れてる」
しかも、半年前に。
「どうするの?」
「とりあえず、引き出し行き」
貧乏性である。
「あ、これ! どーなつ!」
うにゅほが一枚のカードを抜き出した。
「ああ、ミスドの──って、うわあ」
「?」
「有効期限、2009年の11月だ……」
「だめなの?」
「駄目っていうか……××、今は何年か知ってる?」
「しってるよ」
「じゃあ、いつ?」
「──……にじゅうにねん」
長考の末、そう答えた。
「平成と西暦、混ざってない?」
さほど興味もなさそうだ。
ミスドのクラブカードを指で挟み、振りながら言う。
「これは、××がうちに来る、ずっと前からあったカードだよ」
「そうなの?」
「期限も切れてるし、いらないんだけど──」
うにゅほの顔色を窺う。
「──……欲しい?」
「ほしい!」
「じゃあ、あげましょう」
「わー!」
なんだか喜ばれたので、まあいい。
他にも文教堂のポイントカードが二枚あったり、既にポイント式に切り替わったメロンブックスのスタンプカードなどが出てきたが、とりあえず引き出しに仕舞っておいた。
貧乏性である。



2012年12月18日(火)

昨日整理したカード類のなかに、うす皮たい焼き専門店のスタンプカードがあった。
たい焼きというワードにうにゅほが反応したことと、スタンプがもうすこしで溜まりそうだったこともあり、病院の帰りに寄っていくことにした。
「──…………」
「ねえ」
「──…………」
「たいやきやさんは?」
俺は無言で目の前を指さした。
「……ないよ?」
「潰れた、みたい……」
「──…………」
どうしよう。
道中、やれ豆乳クリームは絶品だの、やれ小倉は熱いから気をつけろだの、期待を煽るようなことを散々言ってしまったのだ。
「……たいやきは?」
うにゅほが、ぽつりと呟いた。
俺を見上げるその瞳は、僅かな期待にすがっているように思えた。
「──…………」
このまま帰れない。
せめて、うす皮でなくとも普通のたい焼きさえ食べることができれば──
「あっ」
そうだ。
あるじゃないか。
うにゅほの手を取り、言った。
「他のたい焼き屋さんに行こう!」
「ほかの?」
「ほら、近所のスーパーに、ワゴン販売のたい焼き屋さんが来てたろ」
「あ!」
うにゅほの表情に生気が戻る。
「ああいうところは、なんだかんだけっこう美味しいからな。普通のたい焼きだけど、いいよな?」
「うん!」
専用だった駐車場へ戻り、エンジンを掛けた。
「──…………」
「ねえ」
「──…………」
「たいやきやさんは?」
俺は無言で額を押さえた。
「……もう、終わった、みたい」
ワゴン車のあったところには、いくつかの自転車が駐輪されていた。
ことごとくたい焼きに縁がない。
「……たいやき、は?」
うにゅほが力なく俺の腕を掴む。
「いや、食べられる! 食べられる──ん、だけど」
「だけど?」
「いや、まあ……味が普通っていうか」
「ふつうでいいよー……」
まあ、食べられないよりはマシか。
そのままハンドルを切り、一口茶屋の併設された別のスーパーへと向かった。
「このちっちゃいたいやき、かわいいね」
うにゅほが五尾のミニたい焼きを前に、上機嫌でそう言った。
「それでよかったのか?」
「うん」
食べものに対して「かわいい」と言う感性が、いまだによくわからない。
食うのに。
イチゴとか、毛穴の開いた赤ら顔のオヤジの鼻にしか見えないし。
「おいしいか?」
「ふつう──」
うにゅほが、しまったという顔をして、
「ふつうに、おいしい」
と付け足した。
「だよなー。ほら、マヨ焼き食え」
うにゅほの口に、えびマヨネーズ焼きを放り込む。
「ほいひい」
「だろー」
猫舌じゃないのは羨ましいと思った。



2012年12月19日(水)

ここ数日、冷え込んでいる。
大寒に向けて、本格的な冬が到来したのだろう。
摂氏零度付近でわーきゃー言ってる南方の人々には想像すら難しい極寒地獄が訪れるのだ。
『ぺーぺぽぺーぽぺーぽぺー……──』
北国に住む人間特有のわけのわからない選民意識に囚われていると、ストーブが電子音でいなないた。
灯油が切れたらしい。
ああ、このペースで消費していくと、また灯油を買いに行かなければならないなあ。
面倒なのはまあいいとして、冬場のガソリンスタンドの異常な寒さはいかがなものか。
いずれ必ず来る未来に辟易としながら灯油タンクを取り出すと、うにゅほが立ち上がった。
「わたしも」
「いや──いや、いいか」
ふたりで行くほどのことではないが、給油中の数分は暇だし、雑談相手がいるのはありがたい。
階段を下り、玄関の扉を開いた。
「うう……」
寒い。
「……さむいねー」
「──…………」
言葉を返す気力もなく、自動灯油ポンプのスイッチを入れて扉を閉めた。
「屯田兵は偉大だが、馬鹿だ……」
何故こんなところを開拓しようと思ったのか。
いやま開拓したのは屯田兵にしろ、しようと思ったのはもっと上の人だと思うけど。
「大地はむしろ試してるほうだと思うんだよ」
「?」
「試される大地に試されているからたぶん俺たちは孫請けみたいな感じなんだよ……」
「……?」
よくわからないという顔をされた。
そろそろかと玄関を開くと、灯油ポンプが停止していた。
フタをしっかりと閉め、灯油タンクを引っ繰り返し、持ち手を──
「わたしがもつ!」
持ち手を、奪われた。
「大丈夫か?」
「だいっじょお──……っぶ」
うにゅほは何故、腕力方面へのアピールを過剰にしたがるのだろう。
本人が満足ならそれでいいけど。
「重くないか?」
階段に差し掛かったあたりで、そう尋ねた。
「おもっ、くないよ」
本当かよ。
「おもくないけど……て、いたい……」
「わああ!」
ずり落ちかけた灯油タンクを、慌てて支えた。
持ち手がやたら細いことを忘れていた。
ぷにぷにのうにゅほの手のひらでは、とても耐え切れなかったのだろう。
「ごめんなさい……」
「いや、力持ちなのはわかったからさ。今度からこう、両手で持て、両手で」
灯油タンクを掲げてみせた。
「うん……」
ああ、でも、こういう持ち方をすると、ものすごく手が灯油くさくなるんだよなあ。
部屋に戻ったら、うにゅほに嗅がれるんだろうなあ。
べつに嫌ではないけど。
「ああでも、今回は自分の手を嗅げば──」
「?」
「いや、なんでもない」
結局、嗅がれた。
自分の手を嗅ぐように勧めたが、なんか違うらしい。
それはもう、俺の手を嗅ぐのが楽しいだけじゃないのか。



2012年12月20日(木)

あいにくの曇天で部屋のなかが薄暗かったため、外出することにした。
元々大した用事もなかっただけに、スーパーで備蓄用のペプシNEXを購入した時点ですることがなくなった。
「どこか、行きたいとことかある?」
「んー……──」
うにゅほがしばし考えこみ、
「……ん?」
小首をかしげた。
「いや、ん?じゃなくてさ」
「んー……」
「思いつかない?」
「ん」
なんか言えよ。
「じゃあ、帰る?」
「んー」
首を振る。
「ああ、なんか、そんな感じだよなあ」
長いあいだ共に過ごしていると、意見が一致することが多くなる。
「行く場所は思いつかないけど、なんかまだ帰りたくない」
「うん、おなじ」
「いぇー」
「いぇー」
拳を合わせる。
「でも、冬道でドライブっていうのもなんだかなー」
ストレスで胃壁の防御力が低下しそうだ。
「わたしはすきだよ?」
「隣で見てるだけなら愉快かもしれないけど、こっちは修理費がちらつくんだって」
「……わたしもおかね、だす?」
「いや、いいです」
いくらうにゅほが小金持ちだからって、さすがにそこまでは持っていない。
「でもまあ、他に代案もない。五号線でも適当に走ってみるか」
「おー」
適当にコンビニなどをはしごしつつ、小一時間ほどドライブを楽しんだ頃のことだった。
「──……?」
頭上から、音がした。
「どうしたの?」
「いや、なんか──」
答えようとした瞬間、
──ガザザッ!
という異音と共に、目の前が真っ白になった。
「おうわっ!」
慌ててブレーキペダルを踏み込──まず、ギアをセカンドに入れてエンジンブレーキを掛けた。
「なに!?」
「あー、いや」
なんと説明したものか。
ワイパーで僅かに視界を確保し、路肩に停車する。
「簡単に言うと──屋根の上の雪が暖房で解けて、それが滑り落ちてきたんだよ」
「そうなの?」
「いや、他にないだろ」
「なんか、うえからふってきたんだとおもった」
「あー」
気持ちはちょっとわかる。
「ともかく、このままじゃ走れないから、雪下ろすの手伝ってくれよ」
「はーい──あっ」
「どうした?」
「てぶくろ、わすれた」
たしかに今日はしていなかったな。
「俺の手袋、右のほう貸してあげるから」
「はーい」
フロントガラスの雪をふたりでわさわさ落としていくのは、ちょっと楽しかった。



2012年12月21日(金)

「××、ちょっとこっち向いて」
「?」
がばっ!
──と、来年のカレンダーを開いてみせた。
「いぬ?」
「そう、犬のカレンダーだ」
「かわいいねー」
うにゅほが、ほにゃっとした笑顔を浮かべる。
大丈夫そうだ。
「ちょっと出かけようか」
「どこ?」
「写真立てを買おうかと思ってさ」
「なんの──」
そう言い掛けたところで、なんとなく気がついたらしい。
「……そっか」
「ああ、そうだ」
愛犬の写真を飾るのだ。
愛犬が亡くなってから、もう三週間が経つ。
「いえい?」
「いや、遺影じゃ──……似たようなもんか」
「いえいかー」
「なんでもいいよ、もう」
言いながらコートを羽織ると、うにゅほも慌てて身支度を整えた。
「ひゃっきんかー」
「最近は、なんでも百円で揃うからいいな」
「なんでも?」
「ないものは、ないときに考えればいいんだよ」
近所のダイソーを物色しながら、そんな会話を交わした。
「ほら、写真立てだ」
「なんでもあるね」
「だろ?」
俺の手柄でもないのに、なんだか誇らしい気分になった。
「たくさんある」
「どれがいいか、せーので指さしてみようか」
「いいよ」
数秒ほど考え、合図とともにブラウンに染め上げた木製のフォトフレームを選んだ。
うにゅほの指先が、俺の指をかすめた。
「同じだな」
「うん」
「いぇー」
「いぇー」
指を畳んで、拳を合わせた。
ふたりのあいだで微妙に流行っている。
「他になにか、欲しいものある?」
「んー」
「チョコあるぞ、チョコ」
「◯◯、チョコたべたいの?」
「……そんなことないぞ」
そんなことないと言った手前、フォトフレームだけを購入して帰宅した。
「──ま、こんなもんか」
あらかじめ印刷してあった愛犬の写真をフォトフレームに収め、うにゅほに手渡した。
「うん」
愛犬の写真を、うにゅほが指先でそっと撫でた。
「──…………」
俺は、なにも言えなかった。
「……どこ、かざる?」
「ああ、そうだな──」
試行錯誤の結果、フォトフレームは背の低い本棚の上に飾ることとなった。
いつでも目に入るのは、いいことなのか、どうなのか。
感傷的になり過ぎないようにしようと思った。



2012年12月22日(土)

床屋へ行く予定だったのだが、先方の都合で延期することになってしまった。
暇と穀は潰し慣れているにも関わらず、急に時間が空くと持て余してしまうのは、一日の計画をそれなりに立てているからだろう。
「あー……」
「──…………」
「暇だ」
「あそぼう」
「お、いいな。なにする?」
「これ!」
軽く握った両手を合わせ、うにゅほが声を弾ませる。
「あー、久しぶりだな」
正式名称が不明のため、とりあえず「いっせーのーで!」と呼んでいる手遊びである。※1
うにゅほが一時期激ハマりしていたが、最近はあまりやっていなかった。
「よし、やるか。いっせーのーで──」
と、勢い込んでみたはいいものの、手遊びは手遊びに過ぎない。
せいぜいもって十分である。
「あれー……?」
うにゅほが不思議そうに小首をかしげる。
昔ハマったゲームって、プレイし直してみるとこんな感じだったりするよな。
「──…………」
「──…………」
そのあとは、いつも通りぼけーっと過ごした。
「──…………」
適当なニュースサイトを巡っていると、好みのタイプについて言及しているページに目が止まった。
そういえば、そんなものもあったなあ。
頭のなかで、かつて思い描いていた理想の女性像を組み上げていく。
「あれ……」
茫洋として、うまくまとまらない。
条件ごとに分けても、いまいちしっくりこない。
「……タイプが変わったのかな」
「?」
うにゅほが俺の独り言に反応し、顔を上げた。
「──…………」
ピンと来た。
来てしまった。
俺は思わず立ち上がると、こちらをぽけらっと見上げるうにゅほの両頬をつまみ上げた。
「お前かー! お前なのかー!」
「はに? はに?」
認めたくはないが、好みのタイプが歪んだのは、間違いなくうにゅほのせいである。
「?」
ああもう!
まったく抵抗しないのも、俺への全幅の信頼を表しているようで──あれだ、その、腹立たしい。
うるさい、照れ隠しだよ。
「お前はあとで、俺と一緒に怖いテレビを見るのだ……」
「!」
「俺も怖いから一緒に見るのだ……」
「や!」
俺の両手を振り払い、うにゅほはリビングへと逃げ去った。
さすがに趣味が悪すぎたかもしれない。
小一時間ほど後、PCのディスプレイで孤独にテレビを見ながらiPhoneをいじっていると、うにゅほが恐る恐る戻ってきた。
「悪い、あれは冗談だ。見なくてもいいよ」
「みないよ」
そう言って、ソファにちょこんと腰掛けた。
「こわいっていってたから、いっしょには、いる」
「──…………」
俺は、うにゅほの頭を無言で撫でた。
いい子だよ。

※1 2012年2月26日(日)参照



2012年12月23日(日)

今日は、大学時代の友人たちとの忘年会だった。
居酒屋へ行く途中に寄ったゲームセンターで、んふんふと鳴くほうのなめこのぬいぐるみを見かけた。
しばし粘ったが、収獲することはできなかった。
「なめこ持って帰るから!」とうにゅほにメールを送ることで自分を追い込もうかとも考えたが、財布のことを考えてやめた。
そもそもうにゅほ用の携帯電話など電池が切れて久しいし、クリスマスの直前にプレゼントというのも、なんだ。
「……おかえり」
自室の扉を開くと、うにゅほが眠そうな声で出迎えてくれた。
時計を見ると、日付けの変わるすこし前だった。
「ただいま」
挨拶を返し、コートのポケットからホットココアの缶を取り出す。
「おみやげ」
うにゅほが俺のことを待っているのも、あたたかいココアを買って帰るのも、なんだか定番になってしまった。
「飲んだら、布団に入りなよ」
「うん……」
ちびちびとココアを飲むうにゅほを、そっと見守る。
なにも慈愛の視線を送っているわけではない。
うにゅほはもう見るからに限界で、いつココアの缶を取り落としてもおかしくないように思えたからだ。
「……飲むの、明日にすれば?」
「──…………」
うにゅほがしっかりと首を振る。
そこは譲れないらしい。
「……あっ」
壁掛け時計を見上げ、うにゅほが呆けたような声を出した。
頂点で重なり合っていた長針と短針が、そっと離れたところだった。
うにゅほが立ち上がり、言った。
「メリー、クリスまあす!」
「え、あ、うん」
「メリーは!」
「メリー……クリスマス……?」
「うん!」
満足げな顔で頷くと、うにゅほはココアを一気にあおり、
「おやすみー……」
ふらふらと布団に吸い込まれていった。
「──…………」
それが言いたかった……の、か?
そうなんだろうなあ。
でも、その挨拶って丸一日早いんじゃないだろうか。
あまりに唐突で言い出せなかった。
来年の天皇誕生日も、日付けが変わるときに同じことを言われそうな気がする。
どうしよう、ちゃんと教えておくべきか。
でもうにゅほ寝ちゃったし、朝になったら今更な気もするし、そもそも大したことでもないし。
まあいいか……。



2012年12月24日(月)

「うー……ケーキ……」
買い出しの最中だというのに、うにゅほがぶーたれていた。
「ジュース、なにがいい?」
「ミルクティー……」
「ようかんいる?」
「いらない……」
「あきらめろって、もうケーキあるんだから」
「うん……」
今年もクリスマスケーキを作る気満々だったらしい。
数日前、既に母親がケーキを買っていたことも知らずに。
あらかじめ母親に打診しておかなかったことは申し訳ないと思うが、ずっと玄関にあったんだから気がついてほしかった。
というか、気づいてないと思わなかった。
「……◯◯のたんじょうび、いい?」
うにゅほが上目遣いで問う。
勝てるはずもない。
「ああ、約束な」
うにゅほの頭に、ぽんと手のひらを乗せた。
俺の誕生日は半月後である。
シフォンケーキ・リベンジに向けて、まあ、やることは特にない。※1
どちらかと言えば、生クリーム・リベンジだし。
「ああ、そうだ。今年もあれ見ようか」
「あれ?」
「銀河鉄道の夜」
去年のクリスマス・イヴに、ふたりで観たアニメ映画である。
「みる!」
と、うにゅほが両の拳を握り締めながら言ったので、TSUTAYAで借りてから帰宅した。
ゲオには置いていないのだ。
「ぐふう……」
家族でのささやかなクリスマスパーティを終え、膨らんだ腹を撫でながらソファに寝転んだ。
「ぎんがてつどう、みよう」
うにゅほが俺の顔を覗き込み、そう言った。
「あと五分……」
「えー」
じっ。
もしかして、そのまま五分待つつもりか。
「……見るか」
根負けして、立ち上がった。
再生してすぐに、うにゅほがジョバンニの先生を指さして、
「……ヒデヨシ!」
と囁くように言った。
「それ、去年も言ってた」
「ほんと?」
数日ほど前、去年の日記を読み返していたので間違いない。
日記というものが、備忘録としてこれほど優秀だと、付け始める前まで想像もしていなかった。
エンドロールが終わるのを待ち、うにゅほに尋ねた。
「──どうだった?」
「どうだった……って?」
「面白かったかな、ってさ」
「おもしろいよ。なんかいもよんでるから……」
うにゅほの瞳を見つめ、俺はもうひとつ尋ねた。
「もう、不安じゃないか?」
「……ふあん?」
うにゅほが小首をかしげる。
その姿に、思わず口角を上げた。
「ああ、ごめん。いいんだ、わからないほうが」
「?」
ピンと来ないなら、そのほうがいい。
それは、うにゅほが去年より幸せだってことなんだから。

※1 2011年12月24日(土)参照



2012年12月25日(火)

クリスマスプレゼントを買うため、ふたりで外出した。
「なにか欲しいもの、ある?」
「うん? うーん……」
さんざん悩んだ挙句、
「……よ、よもぎ大福」
と言われた。
大福好きだよね。
「それはまあ、帰りにコンビニで買おう」
「うん……」
「時間はあるんだし、適当に遊びながら見て回ろうか」
「うん!」
無料駐車場に乏しい札幌市街は避け、近郊のジャスコや小樽方面まで足を伸ばした。
日が暮れるまで遊び倒したが、クリスマスプレゼントは決まらなかった。
「欲しいものが大してないってのも問題だよなあ」
「うん……」
ならば、実用品はどうだろう。
可愛らしいステーショナリーあたりに目星をつけて、文具店へ立ち寄ったときのことだった。
「あ、トトロ」
文具店の一角にあったファンシーグッズコーナーで、うにゅほが足を止めた。
「ぬいぐるみ、いいな」
「──…………」
ファンシーショップは二軒ほど覗いたはずだが──まあいいけど。
決定回避の法則、というやつだろう。
「じゃあ、トトロのぬいぐるみにしようか」
「うん」
よし決まった。
しかし、一概にトトロのぬいぐるみと言っても、いろいろな種類がある。
値札を軽く確かめて、口を開いた。
「ここにあるくらいのサイズなら、どれでも──」
そう言いかけて、言葉を止める。
「……あれ以外なら、どれでもいいよ」
「でか!」
棚の陰に、うにゅほの身長ほどもあるトトロのぬいぐるみの姿があった。
あとで値札を見たところ、約十万円だった。
買えないし、置き場所もないし。
しばらく迷ったあと、
「──……これ!」
うにゅほが、両手に乗るくらいの大きさのトトロを掲げた。
「もっと大きいのじゃなくて、いいのか?」
「けなみがいい」
「……あ、ほんとだ」
一般的なぬいぐるみの素材ではなく、なんだかつやつやして心地がいい。
「××がお目が高いなー」
頭など撫でてみる。
それにしても、今年のクリスマスプレゼントは安くついたものだ。
去年のプレゼントは、洋服を上下一揃いで二、三万円くらいだったから、だいたい十分の一である。
「あと、これ」
うにゅほが、もうひとつぬいぐるみを手に取った。
「なめこ?」
トトロと同じくらいの大きさの、んふんふと鳴くなめこだった。
「それも、か。いいけど……」
「ちがうよ」
「?」
「これは、プレゼント」
「そりゃあ、プレゼントだろう」
「ちがうよ。わたしかって、◯◯にあげるの」
「──…………」
なんか、じーんと来た。
「……でも、なんでなめこ?」
「◯◯、とれなかったって」
「──……あー」
忘年会のときな。※1
「いや、あれも──」
あれも、うにゅほにプレゼントするつもりだったんだけど。
そう言いかけて、やめた。
うにゅほの頭に手を乗せて、そっと撫でる。
「……ありがとうな」
「どういたしまして。あと──」
うにゅほが頭を下げる。
「いつも、ありがとうございます」
「……ご丁寧に、どういたしました」
頭を下げ合って、ふたりで笑った。

※1 2012年12月23日(日)参照



2012年12月26日(水)

「──……うーん」
鏡を覗き込みながら、唸る。
「今回はまた、一段と……」
俺だけかもしれないが、髪の毛が伸びてくると毎回異なる癖がつく。
前回は外ハネ、今回はソフトモヒカンである。
いずれにせよ髪型としては半端で間が抜けているため、ここ数日は室内でも帽子をかぶることにしていた。
「××、床屋──」
外出の準備を終えて自室を出ると、うにゅほがリビングのソファでうとうとしていた。
その寝顔は安らかで、起こすのが躊躇われるほどだった。
「おーい、床屋行くぞー」
うにゅほの頬を、躊躇うことなくうにっとつまむ。
なにも言わずに外出したら、絶対怒るもの。
「……ふい」
「床屋行くぞ、床屋」
「うん……」
よろよろとコートを着込むうにゅほの姿を目の当たりにしながら、ほんの僅かに罪悪感を抱く。
でも、置いて行ったらそれはそれで収拾つかなくなるからなあ。
「みち、こんでるねー」
「昨夜はえらい降ったからな……」
大量に雪を積み込んだダンプが、延々と行く手に連なっている。
いなければ困るが、邪魔くさいことは邪魔くさい。
「さんばいだって」
「なにが?」
「ゆき」
「なんの三倍?」
「……れいねんの?」
例年のなにと比較して三倍なのかはよくわからなかったが、とにかく今年が豪雪の年であることは間違いない。
伯父の経営する床屋へと辿り着いたのは、既に日も暮れかかったころのことだった。
夏場と比較して三倍ほどの時間が掛かっている。
三倍って、これか?
「こんなもんでどうだ」
伯父がそう言いながら、俺にメガネを手渡した。
「ああ、いいね。さっぱりした」
やはり、ツンツンと天を衝くくらいの短髪がしっくりくる。
うにゅほに感想を尋ねると、
「ぼうしないの、いいね」
と答えた。
「帽子、似合わなかったか?」
うにゅほは首を振り、
「ぼうしないの、ひさしぶりだから」
と言った。
ほんの数日だったと思うけど。
主観的に記憶される年月の長さは、年少者にはより長く、年長者にはより短く評価される──ジャネーの法則
年取ったなあ。
「さわりたい」
「……ああ、いいよ」
軽く頭を下げると、うにゅほがうんと手を伸ばした。
「いや、そんなにしなくても届くだろ」
「きぶん」
気分なら仕方がない。
「みじかいの、いいね」
俺の頭を撫で回しながら、うにゅほがそう言った。
「同感だけど、そろそろいいか?」
「もうちょっと」
「車のなかで撫でればいいだろ……」
伯父の視線に耐えながら、懇願するようにそう言った。
他に客がいなくて、本当によかった。



2012年12月27日(木)

「ごうん、ごうん」
年代物の餅つき機の前に座り込んだうにゅほが、楽しげにそう口ずさんでいた。
いや口ずさむという表現が正しいかはよくわからないが、餅つき機の稼動音に合わせて口を動かしていた。
「足を閉じなさい、足を」
「ズボンはいてるよ」
「普段から習慣づけておかないと、ふとしたときに忘れるもんなんだよ」
「わすれないよー」
気づいていないかもしれないが、かなり忘れてるぞ。
「ほら、閉じる」
「はーい」
うにゅほが足を閉じ、体育座りの姿勢を取った。
「もち、まだかな」
「フタ取って、ちょっと見てみたら?」
「うん」
かぱ。
「おー……」
「どうだ、できてるか?」
新聞を下ろし、そう尋ねた。
「はんぶん、もち」
「半殺しか」
それも美味いんだよなあ。
「──…………」
うにゅほが、なに言ってんのという表情で俺を見上げた。
「いや、俺がおかしいんじゃないよ。半殺しって言うんだよ」
「なにを?」
「もち米の粒がまだ残ってる状態の、おもちのことだよ」
「ふうん……」
ぼんやりと納得した様子で、うにゅほが餅つき機に視線を戻す。
「フタ、閉めとけよ」
「うん」
「ちょっとつまみ食いする?」
「だめ」
うにゅほは生真面目である。
「なんで、もちになるんだろう」
呟くように、うにゅほが尋ねた
「ふるえてるだけなのに」
「ああ、それは──」
答えかけて、気がついた。
餅つき機の仕組みについて、俺はなにひとつ知らない。
「……餅つき機が起こす微細な振動がもち米と共振することで組織が破壊され、なんだかんだあって結果的におもちになるんだよ」
「ふうん?」
「ごめん今のウソ」
「えー」
あとで調べてみたところ、餅つき機の底にもち米を掻き混ぜるための回転ベラが取り付けられていた。
なるほどである。
「できたかなー」
しばらくして、うにゅほがフタを持ち上げた。
「あ、もち!」
「できたか。どれ──」
ソファから腰を上げ、餅つき機を覗き込むと、灰色につやめいた半球状の豆もちがそこにあった。
「美味そうだな……」
「だめだよ!」
うにゅほが立ち上がり、祖母を呼ぶため小走りに駆け出した。
餅つき機の番を頼まれていたのだ。
祖母の取り分けてくれた豆もちは、美味いがすこし塩辛かった。
婆ちゃん、塩の分量間違えたな。



2012年12月28日(金)

「──……Oh!」
体重計が指し示す数値に、思わず悲鳴を上げる。
「どしたの?」
「!」
うにゅほが物珍しげに近づいてきたので、慌てて下りる。
「いや、ちょっと」
「ふとったの?」
速攻でバレた。
だってしょうがないじゃない。
ダイエットという名の体重管理を常に行なっていると、数日ほど油断しただけなのに光速で太るんだもの。
「なんきろ?」
「──…………」
「なんきろ、ふえたの?」
「……1キロ」
端数を切り捨てて、1キロ。
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「それ、ふとったの?」
「太ったよ!」
「ふとってないよ?」
「そりゃそうだよ!」
見た目でわかるほど太ったなら、人生についてすこし考えなおす必要がある。
「たとえ1キロでも、大事なんだよ……」
「そうかなあ」
「××も、太ってみればわかるよ」
「ふとったことないもん」
「──…………」
かちん。
「……お嬢様、こちらへどうぞ」
慇懃に、体重計を手のひらで示す。
「のるの?」
「乗ってみろい」
「いいよ」
うにゅほの爪先が、体重計に触れる。
「──…………」
その顔が、さっと青ざめた。
「どうだった?」
「──……ふえてる」
「どれくらい?」
「……いちきろ」
俺は、うにゅほの肩に手を置いて、
「仲間だな」
と耳元で告げた。
「ど、どうしよう! ダイエット?」
「俺と同じ食生活にしてみる?」
「や!」
いささかショックを受ける。
「ふとったー……」
あからさまに肩を落とすうにゅほを見て、満足した。
そろそろネタばらしをしよう。
「べつに、××は太ってないよ」
「ふとったよ……」
「いや、本当に太ってないんだよ」
うにゅほのトップスのすそを軽く持ち上げて、言った。
「××が最後に体重を測ったのって、たしか夏だったろ? 夏服と冬服で、重さが違うからだよ」
体重計に乗ってみたいだとか、そんな会話を交わしたことを覚えている。
覚えていて、イタズラしてみたのだ。
「……せんげつ」
「?」
「せんげつ、のったの」
イタズラでは済まなくなった。
「えーと、あー……その」
視線をさまよわせながら、言葉を探す。
「1キロなんて、大したことないだろ」
「◯◯、おちこんでたもん」
「成長──……したんじゃないか?」
「せ、のびてないもん」
「……健康的だと思うよ?」
「ダイエットする」
正月を前にして、ダイエットすることに決めてしまったらしい。
付き合うほか道はないようだ。
いいけど。



2012年12月29日(土)

今日は大掃除をした。
昨年はジャンプのバックナンバーに気を取られてしまったが、今年の俺たちはそんなヘマはしない。
というか、古紙回収に出してしまったので、物理的にできない。
掃除に集中するほかなかったのである。
「あ!」
掃除機を掛けていたうにゅほが、唐突に声を上げた。
「どした?」
「コンセント!」
うにゅほの爪先が、クリーム色のコンセントに触れていた。
足で指すな足で。
「そのコンセントが、どうかしたか?」
「こんなとこに、コンセントあったんだ……」
「今気づいたのか」
掃除機なんて、両手両足の指に余るほど掛けているのに。
まあ、カーテンに遮られて見つけにくい位置にあることは確かだけど。
「じゃあ、ここのコンセントは知ってたか?」
デスクと壁との隙間を示す。
「そんなとこに──」
うにゅほが隙間を覗き込み、
「あった!」
と大袈裟に驚いた。
ここまでリアクションが大きいと、もっと教えてあげたくなる。
「じゃあ、小箪笥の裏は?」
「ほんとだ!」
「箪笥と本棚の隙間に詰め込んだカピバラさんを引き抜くと」
「またあった!」
「ソファの裏にも」
「それはしってる」
「──…………」
ネタが尽きてしまったので、大掃除を再開した。
小物を整理し、ホコリを落とし、掃除機を掛け、雑巾で拭くと、部屋はさっぱりと綺麗になった。
「よし! あとは、布団カバーを新品に取り替えるだけかな」
かいてもいない汗を拭い、あらかじめ購入してあった二人分の布団カバーの包装を解く。
「自分のぶんは、自分でやってみるか?」
「うん!」
はりきって頷くうにゅほに、掛け布団カバーを手渡した。
色落ちして薄くなった古いカバーを大わらわで外す様子を眺めながら、
「がんばれー」
などと適当に応援してみたりする。
「ふー……」
一段落。
汗を拭うふりをして、うにゅほが新しいカバーのシワを伸ばす。
「おー、しんぴんだ」
「やり方、わかるか?」
「うん」
「カバーのなかに紐があるから、それを布団に結びつけるんだぞ」
「うん」
悪戦苦闘しながら掛け布団を詰め込んだあと、うにゅほ自身もカバーのなかへ上半身を潜り込ませた。
「──…………」
「よっ……、しょ!」
いかん。
掛け布団カバーからおしりだけを出しているうにゅほに、イタズラしたくてたまらない。
具体的に言うと、叩いてみたい。
でもそれはあまりにもあまりにもだし、自分のときにどんな仕返しをされるかわかったものじゃない。
「──うん、次の機会にしておこう」
「? なにかいった?」
「なにもしないよ」
「……?」
命拾いしたとも知らずに。



2012年12月30日(日)

「めが、もしもしする」
「あん?」
うにゅほが左目をこすりながら、わけのわからないことを言い出した。
携帯電話のメガ得プランとかそういうのだろうか。
「……うじうじする」
「あー……」
なんとなく理解した。
「目が痛いのか」
「いたくないよ」
「痛くないけど、なんかごろごろするんだろ?」
「ごろごろする」
目の異物感を表現する言葉が思いつかなかったのだろう。
面白い言語感覚である。
「逆まつげかな。ちょっと見せてみな」
「ん」
首を持ち上げたうにゅほの左まぶたを開き、異物を確認する。
「あった?」
「いや、まつげじゃない……かな? ゴミも見当たらないけど、真っ赤になってる」
「わー……」
うにゅほがあからさまに嫌そうな顔をした。
「……真っ赤って言っても、そんなには赤くないぞ?」
「どれくらい?」
「それくらい、鏡を見なさいよ」
デスクの上にあった手鏡をうにゅほに手渡す。
「あかい!」
まじまじと手鏡を覗き見るうにゅほを横目に、俺は自室を後にした。
「──ほら、目薬」
うにゅほの手に、冷蔵庫から取り出した目薬の容器を握らせる。
「めぐすり」
「自分でさせ──」
うにゅほの顔を見る。
「る、わけないか」
「させるよ」
「やってみな」
「どうやるの?」
「できないんじゃないか……」
肩を落とす。
まあわかってた。
「こう、上を向いて──中身を、目に、うまく垂らすんだ」
実際に点眼してみせた。
「うえ、むいて……」
うにゅほが天井を見上げる。
「ぎゅっておして……」
容器を持つ指先に力を篭める。
「ほっぺた、つめたい……」
全部ほっぺたに落ちてるからな。
「むりでした」
「……まあ、こうなるよな」
呆れながら、すこしだけ嬉しいような気もしていた。
うにゅほに何かしてあげるのは、決して嫌いではない。
「まだ、ごろごろする……」
膝枕で目薬をさしたあと、うにゅほが左目を押さえながらそう言った。
「だんだん効いてくるから、こすっちゃ駄目だぞ」
「うん……」
呟くように答えながら、ふらふらと部屋のなかをさまよう。
落ち着かないらしい。
まあ、俺は俺でやることがある。
作業を来年まで持ち越さないよう、俺はディスプレイを睨みつけた。



2012年12月31日(月)

年末年始なので、飲酒が解禁された。
うにゅほの前で堂々と飲むのは久しぶりである。
俺ももういい年なんだから、自由に飲んでもいいじゃない──とは思うのだが、うにゅほには以前まずいところを見られてしまったからなあ。※1
と、注釈を入れて気がついたのだが、あの出来事からもう十ヶ月も経っているのか。
どうやら、あれからずっと外で飲むか隠れて飲むかしかしていないらしい。
慣れというのは恐ろしいものである。
閑話休題。
梅酒をロックで傾けながら、リビングでガキの使いを見ていた。
「これ、きょねんやってたね」
「毎年やってるからな」
ちびりと飲る。
「おさけ、おいしい?」
「美味しいねえ」
「どんなあじ?」
「それ、前も聞いてなかった?」
「まえは、ちがうおさけ」
「……そうだっけ」
そんな気もする。
「甘酸っぱい、梅の味だよ」
「うめぼし?」
「梅は梅でも、あそこまで酸っぱくないなあ」
「うめ……」
梅干しのイメージが抜けないらしい。
「飲んじゃ駄目だぞ」
先回りして言った。
「うん」
うにゅほは素直で生真面目だから、あらかじめ言っておけば問題はない。
「ちょっとトイレ」
べつに宣言しなくてもいいのだが、つい口にしてしまう。
最近ではうにゅほにも伝染してしまったが、まあいいだろう。
トイレから戻ると、
「──あっ!」
うにゅほがグラスを両手で持っていた。
「あー……──」
がっくりきた。
今まで俺が、なんのために、やたらとうにゅほに酒を飲ませたがる父親を諌めてきたというのか。
「飲むなって言ったのに……」
「のんでないよ」
「いや、飲んだだろ」
「のんでないよ」
「どんな味だった?」
「あまくておいしかった」
「飲んだだろ」
「のんでないよ」
コントのようなやり取りの果てに、うにゅほが言った。
「なめただけだよ」
「──えー……、と」
いいのか?
「いや、駄目だろ」
「いいっていったよ」
キッ!
と、ソファの上でうすら寝ぼけている弟を睨みつけた。
「いや、俺じゃないよ……」
「じゃあ、誰だ」
弟を詰問しようとしたとき、うにゅほが答えた。
「◯◯だよ」
「……え、俺?」
覚えがない。
「◯◯が、なめるだけならいいって」
「えー……」
酔いの回った頭で記憶を探る。
「あ」
思い出した。
「言った──けど、あれは……」
あれは、うにゅほがねだるものだから、やむなく。※2
「いったよ。ゆび、なめさせてくれたもん」
ぐああ!
「そ、そういうことは人前ではあまり──」
うにゅほをなだめながら、恐る恐る弟へと視線をずらしていく。
「──…………」
冷たい瞳と目が合った。
「いや、違う! これは違う!」
弁明しているあいだに、いつの間にか年が明けていた。
新年あけましておめでとうございます。

※1 2012年3月5日(月)参照
※2 2012年11月11日(日)参照


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