>> 2012年11月




2012年11月1日(木)

「いぎ、いぎぎぎぎ」
痛い。
歯が、痛い。
これが虫歯であれば自業自得だが、そうではない。
銀歯の下が痛いのだ。
「いひぃ……」
常に痛むわけではないが、時折思い出したかのようにぐわんぐわんと響く。
すんませんほんとマジかんべんしてください。
「……だいじょぶ?」
「大丈夫じゃない」
「はいしゃ、いかないの?」
「──…………」
普段であれば、迷うことなく行くだろう。
歯医者が特段に苦手というわけでもないからだ。
しかしである。
「……今、保険証がないんだよなあ」
「ほけんしょ?」
「××だって持ってただろ。
 それがあると医療費が安く──というか、ないと高くなるカードのことだよ」
「ふうん……」
「それが、ない」
家庭の事情である。
ちなみに、保険証を返却したのは、つい昨日のことである。
相変わらず冴え渡っている。
「じゃあ、行けないの?」
「いや、行けないってわけじゃないんだけど……」
医療費の自己負担は三割だから、適用外となると三倍強に膨れ上がってしまう。
償還払いなどもあるにはあるのだが、一時的にでも現金が必要なことに変わりはない。
「──それが、なんかやだ」
うにゅほに現状を軽く説明し、そう締めくくった。
すう──……と息を吸い、
「いきなさいっ!」
うにゅほが吠えた。
思わず背筋が伸びる。
「おかね、かしてあげるから、いってきなさい!」
「お、おう……」
うにゅほが財布から千円札を十枚取り出し、俺の手に握らせた。
「いや、やっぱ──」
きっ!
「行ってきます」
ああ、一回りも年下の女の子から金を借りてしまった。
いつかこんな日が来るかもしれないと思っていたけれど、本当に来てしまうとは思わなかった。
遠い空を眺めながら、無心で自転車を漕いだ。
「レントゲンを見る限り、悪いところは特に見当たりませんね……」
「は?」
銀歯を引っぺがして神経を引っこ抜くくらいのことを覚悟していたのに、肩を透かされた。
「とりあえず、様子を見てください」
請求額は830円だった。
しかも、保険が効いた。
新しい保険証が届いたあと、月末までに持って行けばいいそうである。
大山鳴動して鼠一匹、よかったんだか悪かったんだか、二重の意味でなんだかなあ。
問題は、歯の痛みがまったく解決していないことである。
歯髄炎ではないそうだが、うーん。



2012年11月2日(金)

──とっとっと
ぱかっ
とっとっと──
「××、なに探してんの」
うにゅほが通りすがりに冷蔵庫をいちいち開けるのが気になって、声を掛けた。
「なんでだろう……」
「お菓子とかあったら、食べるの?」
「たべないとおもう」
「じゃあ、なんで開けるの?」
「なんでだろう……」
無意識下での行動なのだろうか。
「おこってる?」
「べつに怒ってないけど、なんか気になって」
食べたいものも飲みたいものもなく、さして変化もない冷蔵庫を定期的に覗く理由とはなんだろうか。
そう尋ねると、
「よくわかんない」
という答えが返ってきた。
「あのさー」
リビングのソファに寝転がりながらiPhoneをいじっていた弟が、遠慮がちに口を開いた。
「兄ちゃんの真似、してるだけじゃないの?」
「はあ?」
なんだそのアクロバティックな意見は。
「あー」
「えっ」
うにゅほが納得する。
「俺、そんなに冷蔵庫開けてる?」
「……無意識?」
弟が呆れたように嘆息する。
いや待て、話が妙な方向に舵を取り始めたぞ。
「××、俺ってそんな冷蔵庫開けてる?」
「あけてる」
斬り捨て御免である。
「つーか、ホントに覚えてないの?」
「覚えて──いや、ちょっと待て。すこし待て」
台所へ行く際の行動をシミュレートする。
自室の扉を開き、ソファの横をかすめ、食卓テーブルを横目に、冷蔵庫を開けて、台所へ──
「……開けてる」
「あけてるよ?」
「うん、開けてた」
なるほど、理解した。
「××は、俺が開けてるから開けてたんだな」
「たぶん?」
うにゅほが語尾を上げる。
意図的に真似ているわけではないらしい。
「兄ちゃん、ひとつ問題がある」
弟が上体を起こし、言った。
「兄ちゃんは、なんで冷蔵庫開けてんの?」
「なんでだろう……」
いくら考えても、答えは見つからなかった。



2012年11月3日(土)

DVDの返却期限が今日だったことを思い出し、慌てて上着を羽織った。
今思えば慌てる必要もないのだが、そもそも必要があって慌てることなんてそうはない。
「……どこかいくの?」
ポヨのぬいぐるみをギュウギュウに抱きしめながら、うにゅほが絞り出すような声音で言った。
「ああ、DVDを返してこようと思って。すぐ帰るよ」
うにゅほの体調に配慮しての言葉だったが、
「……いく」
と、強い語調で切り返されてしまった。
「や、でもおなか痛いん──」
「いく」
「雨降ってるし──」
「いく」
取り付く島もない。
「止めはしないけど、ほんとに行って帰ってくるだけだぞ?」
雨足だけでなく、風も強い。
返却期限でなければ外出を控えたい天候である。
「なんかかりないの?」
「まあ、ついでにちょっとだけ覗いていこうかとは思ってたけど」
「うん」
うにゅほが立ち上がり、ポヨを優しくソファに置いた。
アニメでも借りれば、気が紛れるかもしれない。
うにゅほにウインドブレーカーを羽織らせて、小走りで自動車に乗り込んだ。
「……これ、どうしたの?」
ゲオは改装中だった。
店舗の半分ほどが封鎖されており、商品も目に見えて少ない。
「あんま位置とか変えないでほしいんだけどな……」
探すのも面倒だし、覚えるのも面倒だ。
「……なんか、さみしいね」
「そうかな」
「なんか、おわっちゃうみたい」
なんとなく、わかる。
蛍の光が似合いそうな、いかにもな雰囲気が、そこには漂っていた。
「──…………」
体調のせいもあるのだろうか。
憂いを帯びたうにゅほの瞳が印象的だった。
がらんとしたDVDコーナーには新作しか並んでいなかったので、早々に見切りをつけて帰宅した。
DVD一枚に数百円も支払う気にはなれない。
「うー……」
当てが外れたうにゅほがポヨを絞り上げながら唸っていたので、なにかないかと頭を巡らせた。
「あ、古畑任三郎とか見てみるか?」
「ふるはた?」
「ほら、ずっと前に人が殺されるシーンで見るのやめちゃったやつ」
「あー……──やだ」
そりゃそうか。
「でも、コナンは大丈夫じゃんか」
「コナンはアニメだもん」
「随分と見慣れたから、もう大丈夫かもよ。派手に殺されるシーンとか、ほとんどないし」
「……そう?」
Disk1は以前に途中でやめたので、Disk2から始めることにした。
二十年近く前のテクノロジーに戸惑いながら、そこそこ楽しめているようだった。
成長したものである。



2012年11月4日(日)

「栗蒸し羊羹が食べたい」
「う?」
「栗蒸し羊羹が食べたくなった」
「たべたくなったの……」
食べたくなったものは仕方がない。
嵐であるとか、車検のための代車しかないことなどは、考慮の外に放り投げる。
ブレーキペダルの調整がやたらとピーキーな代車をガクガク言わせながら、近所のスーパーへと赴いた。
「お酒買っていい?」
「だーめ」
というお決まりのやり取りをこなしつつ、和菓子のコーナーへと足を運ぶ。
「ようかん、あったよ」
うにゅほが手に取った商品を見て、俺は眉を顰めた。
「違う」
「ようかんだよ?」
「それは、練り羊羹だ」
「……ねり?」
練り羊羹と蒸し羊羹の差異について語り始めようとする口を押さえ、なんとか言葉をこぼした。
「たい焼きと、今川焼きくらい、違う」
「あー」
なんか納得してくれた。
「違うスーパーへ行こう」
「えー……?」
「なんか、好きなもの買ってあげるからさ」
「うん……」
うにゅほは物欲に乏しい。
こうでも言わなければ、なにかを欲しがることはあまりない。
一挙両得と言える。
別のスーパーで無事に栗蒸し羊羹を手に入れ、菓子パン売り場を適当に見て回っていたときのことだ。
「あ、これたべたい」
うにゅほが手に取ったのは、直角三角形の白いふかしパンだった。
「それでいいの?」
たしかに美味しいけどさ。
「ちゃいろいのは、おばあちゃんとこでたべたことあるの」
茶色いということは、黒糖ふかしか。
そういえば、祖母はよく黒糖ふかしをカゴに入れていたっけ。
「いいけど、これけっこう大きいぞ」
「はんぶんこしよう」
「じゃ、羊羹もはんぶんこしようか」
「いいの?」
「この羊羹も、けっこうでかいからな……」
帰宅して、白ふかしと栗蒸し羊羹を半分ずつ食べた。
半分にも関わらず、ふたり揃って膨れた腹を抱える羽目になってしまった。
夕食をなんとか詰め込んで、ぼそりと呟いた。
「甘いものは、しばらくいいかな……」
「わたしも……」
明日にはまた「どら焼きが食べたい」などと口にするかもしれないが、少なくとも今日は口にしたくない。
塩気が欲しい、塩気が。
脳裏に塩羊羹の姿がよぎるが、さすがに食べたくはない。
ぐてっとソファに横たわるうにゅほの姿を横目に、今日の日記を締めくくることとしよう。



2012年11月5日(月)

「兄ちゃん、ちょっと助けて……」
自室の扉を開き、弟が俺を手招いた。
弟のPCがiPhoneを認識しなくなったらしい。
原因はよくわからないが、解決だけならばそう難しくはない。
次に同じことが起きた場合の対処法を懇切丁寧に教示し、弟の部屋を辞そうと立ち上がった。
「あんがと。兄ちゃん、教えるのうまいよな」
「そりゃまあ、そうだろ」
「そりゃまあ、そうなの?」
弟の部屋を物珍しげに見回していたうにゅほが、メタルキングの文鎮を手に乗せながらそう言った。
「ああ、兄ちゃんずっと家庭教師とかやってたから」
在学中から、通して六年ほど教鞭を執っていた。
他にもいろいろと手を出しているので、「先生」と呼ばれていた期間はそれ以上に長い。
「◯◯は、べんきょうとくい?」
「得意ではないなあ」
「えいごよめるよね」
「あれは、ネットの定型句を覚えてるだけだよ。AgreeとAcceptとか」
どんなサイトを巡っているか、お里が知れるというものである。
「テレビみてるときとか、みんな◯◯にしつもんするし……」
「とりあえず兄ちゃんに聞いとけば、たいていなんか答えてくれるからなー」
「なんでも質問箱じゃないぞ、俺は」
弟の言葉に、呆れて呟いた。
「べんきょう、おしえてたんだ……」
うにゅほの瞳が期待に輝く。
嫌な予感がした。
「さ、部屋に戻ろう」
うにゅほに右手を取られた。
「なんかおしえて!」
こんなことになると思ってたよ。
「なんかって、なに……」
「なんでも!」
漠然と教えを請われてしまった。
母親になにを食べたいか問われ、なんでもいいと答えた過去がフラッシュバックする。
「なんでもって言われてもな」
なんでもいいは、一番困る。
教科書があれば適当に教えられるのだが、さすがに残ってはいない。
「そもそも、××はなにが知りたいんだよ」
「んー……」
長考に入った。
要するに、なにか特定のことを知りたいわけではなく、「教えてもらう」という体験をしたいだけなのだ。
「じゃあ、親指が取れるマジックでも」
「兄ちゃん、それはない」
「そうか……」
とりあえず、空はどうして青いのかを適当に解説してみた。
真剣に聞き入ってくれるあたり、理想的な生徒ではあるかもしれない。
調子に乗って親指を切り離すマジックを見せたところ、ノーリアクションだった。
忠告には従うべきである。



2012年11月6日(火)

「◯◯、これ使う?」
母親から手渡されたものは、新品の五本指ソックスだった。
なぜ五本指ソックス。
「貰ったから」
新品の五本指ソックスを貰う過程がまったく想像できない。
面倒だから尋ねないけど。
しかし、渡されたところで対処に困る。
五本指ソックスを愛用していた時期はたしかにあるが、ことあるごとに小指が抜けるので面倒になってしまったのだ。
しかも、黒地に星柄という極悪なセンスである。
「はあ……」
貰ってしまったものは仕方がない。
一度くらいは足を通しておこうかと包装を解き、気がついた。
「小さっ!」
こんなもん入るか!
意地になって爪先を無理にねじり込みかけたが、どう考えても碌な結末が見えないのでやめた。
そもそも紳士用じゃないだろ、これ。
ふと顔を上げる。
なめこを収穫しながらこちらを窺っていたうにゅほと目が合った。
「履く?」
「はく!」
履くそうである。
「よっ、しょ!」
うにゅほがソファの上で、爪先をピンと伸ばす。
「あしのさき、もしょもしょしてる」
「指まで入ってないんだろ」
初めてだから仕方ないかと、片足だけ指を通してやる。
うにゅほはくすぐったがっていたが、俺は決して面白がってなどはいなかった。
ところで、人間とは他人の足の裏に触れると指先が過剰に動く生物である。
経過は飛ばして、履き終わった。
「履き心地はどう?」
「はっ、はー……うん、なんか、みょうなかんじ」
「妙か」
「みょう」
わりと、なんとも言えない履き心地だとは思う。
「なんか、みぎだけちょっとゆるい」
「そうか」
俺が繰り出したトゥーキックは、五本指ソックスの縫製に僅かなダメージを与えていたらしい。
「ま、これから寒くなるんだし、家のなかでも靴下履いたほうがいいよ」
「そう?」
頭寒足熱とはよく言ったものである。
「──…………」
それにしても、よく似合っている。
極悪なセンスだとこき下ろした黒地の星柄も、うにゅほが履くとそれなりに見えるから不思議なものだ。
まあ俺がスカート穿いてたらアレだし、当たり前か。
俺は腰を上げると、箪笥の引き出しから自分の五本指ソックスを取り出した。
「くつした、はきかえるの?」
「だって、お揃いのほうがいいだろ?」
先読みしてみた。
うにゅほは、弾かれたように何度も頷いていた。



2012年11月7日(水)

「おばあちゃん、かきむくって!」
うにゅほが階段を駆け上がり、弾んだ声でそう言った。
祖母は柿が好きである。
特売のたびにダースで購入し、ちまちまと食べている。
「いや、俺はいいよ」
ソファの上で反り返りながら、スケッチブック5巻に視線を戻す。
「なんで?」
「なんでって言われて──もおッ!」
乗るな、折れる。
「かき、おいしいよ?」
「カキと名のつくものは、軒並み食べられないんだよ」
牡蠣もあまり好きじゃない。
というか、アサリとシジミ以外の貝類は苦手である。
「なんで?」
「なんでって言われても」
なんでだっけ。
自問していると、不意に思い出した。
「たしか、幼稚園くらいのころは好きだったんだよ」
「うん」
「でも、婆ちゃんが調子に乗って食べさせるもんだから、吐いたんだよ」
「……うん」
「それ以来、食べられない」
三つ子の魂百まで、である。
「むかしでしょ?」
「昔だからこそ、ってこともあると思うけど」
「いまはたべられるかもだよ!」
「そうかなあ……」
「いこ!」
「背中から下りてくれたらな」
うにゅほに手を引かれ、階下へと赴いた。
「おばあちゃん、◯◯かきたべるって!」
「珍しいねえ」
うにゅほが祖母と笑い合う。
なんだろう、あまり嬉しそうにされると妙な罪悪感が。
いいや、パッと食ってサッと戻ろう。
さすがにこの年で吐くこともあるまい。
爪楊枝の刺さった1/nの柿を、口のなかへと放り込んだ。
「どう?」
うにゅほが俺の顔を覗き込む。
柿の実を舌で転がしながら、俺は大切なことを思い出していた。
なんとか飲み下し、うにゅほに告げる。
「柿がどうこうじゃなくて、そもそも俺、果物が嫌いだった」
ここ数年は口にすらしていなかったためか、柿のエピソードにつられて完全に忘れていた。
というか、柿ってあんま果物って感じしないし。
「えっ……」
うにゅほが、見たことのない生きものを見るような視線を俺に向けた。
というか、引いている。
一年間一緒に暮らしていても、互いに知らないことなんていくらでもあるものだなあ。
ヤケになって柿の実をもうひとつ口に放り込みながら、そんなことを思った。



2012年11月8日(木)

祖母が漬物用の白菜を買いに行きたいというので、露天の八百屋へと車を走らせた。
農家から直接卸しているらしく、新鮮で大きな野菜が多い。
八百屋のおじさんから、今年の白菜は育ちが悪いだのなんだのと話を聞かされながら、30kgの白菜を後部座席に積み込んだ。
祖母がおじさんと雑談を始めてしまったので、そのあたりを見て回ることにした。
「……キャベツ? でっかいね」
軽く一抱えはある。
値札代わりのダンボールには、大球と書いてあった。
なるほど巨大である。
値段はよく覚えていない。
「××、これ持てるか?」
「もてるよ」
「試してみな」
持てなかった。
小屋を覗くと、棚にへんなものがあった。
「なにこれ」
「なんだろう……冬瓜?」
「とうがん?」
「瓜の──まあ、スイカとか、カボチャとかの仲間」
「スイカとカボチャって、なかまなの?」
「そこに食いつくか……」
実のところ、冬瓜は名前しか知らない。
見たこともないし、食べたこともたぶんない。
「冬瓜、かなあ」
表面にそっと触れてみる。
尻だけが見えているが、楕円形であるらしい。
イボ状の突起のないジャックフルーツにも、まあ見えなくはない。
「あの──これ、なんですか?」
小屋から顔を出し、十中八九冬瓜であろうと高をくくりながら、雑談の切れ目に質問を差し挟んだ。
「おう? どれどれ」
八百屋のおじさんが、瓜状の物体をずるりと引きずり出した。
ずるり?
「「ながっ!」」
声を合わせて驚いた。
なんだこれ、なんだこれ、1メートルくらいあるぞ……。
「これは、ユウガオだな」
「夕顔……?」
夕顔って、夕方に咲く?
「あさがおじゃなくて?」
「朝顔じゃないねえ。これは、中身を細く切って、かんぴょうにするんだ」
「ほおー」
軽く頷きながら、感嘆する。
夕顔ってこんなでかい実がなって、しかもかんぴょうになるのか。
朝顔とまったく違う種類であることは、金田一かなにかで読んだ記憶があるけれど。
「ユウガオも買ってくかい?」
「「いいです」」
またしても声が重なった。
かんぴょうなんて作れないし、それ以外の利用方法なんて、小さめの抱き枕くらいしか思いつかない。
驚きに満ちた秋の午後だった。



2012年11月9日(金)

愛犬が、ひとりではまともに歩けなくなってしまった。
腰砕けになり、すぐへたり込んでしまう。
冬の到来を待たずして、家のなかに入れることとなった。
しかし、そのままでは、いくらなんでも犬臭い。
近所のドッグサロンでトリミングをしてもらうことにした。
「大丈夫か? 重くないか?」
「だいじょうぶ」
バスタオルを巻いた犬を抱え、うにゅほが気丈に答えた。
痩せ衰えた愛犬は、とうとう大球のキャベツよりも軽くなってしまったらしい。
ほんの数百メートルだけ車を走らせて、ドッグサロンに犬を預けた。
「──…………」
帰りの車内で、うにゅほはなにも言わなかった。
うつむくことなく、前を向いていた。
なにを考えているんだろう。
去年は逃れた死の腕が、再び愛犬を連れ去ろうとしている。
俺は、もう、諦めた。
うにゅほはどうなんだろう。
泣けば、避け得ない未来を肯定することになる。
うっすらと、そう感じているのかもしれないと思った。
日没を過ぎて、愛犬を迎えに行った。
「ふわふわ」
「そうだな、ふわふわだな」
愛犬の胴に鼻を埋めても、フローラルな香りしかしなかった。
やはり、プロの仕事は違う。
たった二時間で3500円も取るだけはある。
素人では、こうは行かない。
たった二時間で3500円も取るだけはある。
浴室に押し込んで犬用シャンプーをぶっかけても、どこか犬臭さが残るものである。
たった二時間で3500円も、もういいや。
うにゅほに押さえてもらい、愛犬にオムツを穿かせた。
「おじいさんには、見えないのにな」
「そうだね」
トリミングをして、若返ったようにさえ見える。
しかし、老齢であることに変わりはない。
伏せながら食べられる位置にエサ皿を置いて、俺は自室へ戻った。
うにゅほは、それからしばらくのあいだ、愛犬を撫でていたようだった。



2012年11月10日(土)

食卓テーブルの上に食パンがあった。
食パンという一枚のテリトリーにおいて、俺とうにゅほは完全な住み分けを行なっている。
俺は中央の白い部分が好きで、うにゅほは耳が好きなのだ。
ふたりで食パンを食べるとき、耳と中央部とを分け合うのが暗黙の了解になっている。
ちなみに、食パンにはジャムやバターなどのスプレッドはつけないし、トーストにもあまりしない。
もそもそと食パンだけを牛乳で流し込むのが通例である。
まあ、スプレッド類を常備していないからなんだけど。
個人的には、うにゅほにピーナツバターの得も言われぬ美味さを教えてあげたいのだが、食パン自体そんなに食べないし。
ありあわせでピザトーストにしてもいいのだが、
「このままがいい」
と言われるし、俺も素の食パンは嫌いではないどころか、かなり好きであるし。
食卓テーブルにふたり並んで食パンを分け合うという貧乏臭い光景も、当然の帰結と言えるだろう。
閑話休題。
食卓テーブルの上にあった食パンの袋には、「やわらか」と表記されていた。
「?」
うにゅほが食パンを取り出す。
耳が、白かった。
「やわらかい」
うにゅほが差し出した食パンに、そっと触れる。
「耳じゃないみたいだ……」
看板に偽りなし。
喩えるなら、耳にまでしっかりと経文を書いた耳なし芳一である。
「これは……どうすればいいの?」
うにゅほが混乱している。
そうだ、これでは耳と中央部とに分け合う意味がなくなってしまう!
「──…………」
俺は軽く考え込んだあと、
「とりあえず、こうしよう」
やわらか食パンを、縦に裂いた。
うにゅほに大きいほうを手渡し、残ったパンをそっと口にする。
「……うまい」
やわらかくて、もちもちしていて、うまい。
「おいしい」
「耳じゃないけど、いいのか?」
「たまにはいい」
「そうか」
あっという間に一枚目をたいらげ、二枚目の食パンを半分に裂いた。
「あのさー……」
ぼんやりと様子を窺っていた弟が、溜め息混じりに呟いた。
「もう一枚食べるなら、なんで分けたの?」
「──…………あっ」
そうだ、分けなくていいじゃん。
食パンは分けて食べるもの、という先入観から、無意識にはんぶんこしてしまった。
ともあれ、このやわらか食パンはうまい。
いつかピーナツバターを山ほど挟んで食べたい。



2012年11月11日(日)

一階で寝たきりになっている愛犬の鼻に、黄緑色の粘液が付着していた。
鼻水である。
くしゃみでもしたのだろう。
ティッシュで拭き取っていると、うにゅほが呟いた。
「ねんきんみたい」
……ねんきん?
「国民年金?」
「みなかたくまぐすの、ねんきん」
ああ、粘菌か。
知識、偏ってない?
本棚のどこかしらにある、なにかしらの書籍を読んだのだと思うけれど。
改装の終わったゲオで、スタンド・バイ・ミーとブルース・オールマイティを借りた。
帰り際にスーパーマーケットへ寄り、甘味を補給する。
「お酒、買っていい?」
「だーめ」
「……今日だけだから」
なんとなく、飲みたい気分だった。
「きょうだけ……?」
なにか感じるところがあったのか、うにゅほは渋々ながら了承してくれた。
友人宅で毎週のように飲んでいることは秘密である。
夜も更けたあと、ブルース・オールマイティをトレイにセットしながら、チューハイのプルタブを引いた。
再生して、すぐに後悔した。
どうして海外のコメディはすぐにベッドシーンを入れたがるのだ!
釣りバカ日誌だってぼかすのに!
「──…………」
うにゅほになにか尋ねられるのではないかと戦々恐々としていたが、反応らしい反応はなかった。
二缶目を開けたとき、うにゅほが言った。
「ひとくち、のんでみたい」
「成人したらね」
「どんなあじ?」
「ジュースと変わらないよ。チューハイなんて、アルコールの混ざったジュースだから」
「じゃあ、なんですきなの?」
「……べつに、酒なんて大して好きじゃないよ。酔うのが好きなんだ」
ビールは苦いし、日本酒は辛い。
なにが美味しいのかさっぱりわからない。
「ようって、どんなかんじ?」
「そうだな……ふわふわして、くらくらして、ひとりでいてもちょっと楽しくなる」
「ひとくち」
「だーめ」
「えー!」
うにゅほがあんまりねだるので、映画に集中できなくなってしまった。
「……じゃあ、舐めるだけだぞ」
やむなく折れた。
「なめるだけ?」
「それ以上は、ほんとに駄目」
うにゅほがもし下戸だったら、一口でも危ないかもしれない。
飲み口に人差し指を入れて、缶を傾ける。
そして、まあ、すこし酔っていたのだろう。
うにゅほの口に指を突っ込んだ。
「……ぁまい」
「もっと飲んでみたいなら、今度ノンアルコールのカクテルでも買ってみようか」
「うん」
「成人したら、一緒に飲もう」
「うん」
ブルース・オールマイティは、けっこう良い映画だった。



2012年11月12日(月)

母親の呼び声に自室を出ると、夕食はすき焼きだった。
実に数年ぶりである。
「ほおー!」
うにゅほが頓狂な声を上げる。
「すきやきですな」
「すき焼きですね」
「すきやきかー……」
感じ入っている。
「早く座んなさい」
母親が言った。
父親などは、既に箸を手にしている。
絨毯に腰を下ろしながら、うにゅほに尋ねた。
「すき焼き、食べたことある?」
「たぶんない」
「そっか」
取り皿に卵を落とし、掻き混ぜる。
「おもってたんだけど」
「ん?」
「なんで、たまごつけるの?」
「……美味しいから?」
「つけないと、おいしくないの?」
「いや、美味しいけど」
「つけると、もっとおいしくなるの?」
「そうでもない、かな……」
すき焼きの歴史を紐解けば、文久二年に伊勢熊という牛鍋屋が──べんべん。
などと、三味線の音を背景に講釈を垂れてみたいものだが、生憎と詳しくなければ興味もない。
「両方試してみたらいい」
「うん」
カラザを箸で取り除きながら、うにゅほが頷いた。
食事は和やかに進んでいく。
牛肉に飽きてエノキをショキショキ言わせていたとき、ふと食事前の会話を思い出した。
「溶き卵つけてみて、どうだった?」
「おいしかった」
「じゃあ、つけないで食べてみた?」
「うん、おいしかった」
まあ、そんなもんだろうな。
どっちが美味しいとかではなく、どっちの楽しみ方もできることに意味がある。
ポケットモンスター赤と緑みたいなものだ、たぶん。
「ひとつ、わかった」
うにゅほが神妙な顔つきで、俺を見上げた。
「おいしいものは、よっぽどのことじゃなかったら、なにしてもだいたいおいしい」
真理だと思った。
「でも、たまごはあじがうすくなるから、ごはんにはあわない」
同感である。



2012年11月13日(火)

食卓テーブルの上に、斜めにスライスされたバゲットの袋詰めがあった。
バゲットとは、フランスパンの一種である。
わざわざ説明するくらいなら最初からフランスパンと言え、と思うかもしれないが、商品名のところにそう書いてあったし。
バゲットはいい。
カリカリで美味しい。
食パンの耳のような、ウェットで半端な固さではない。
どっちつかずが一番よろしくない、と思う。
「××、コップ出して」
「はーい」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、持ち手の部分が黒猫になっているうにゅほ専用のマグカップに、なみなみと注ぐ。
自分のコップには、半分ほどしか注がない。
牛乳には、思わず二度見してしまうくらい脂質が含まれている。
「いただきます」
「いただきます」
食パンと同じように、バゲットにも何もつけずに食べる。
相変わらず、スプレッド類が常備されていない我が家である。
バターを塗ってオーブンで焼くと、素晴らしく美味になることは知っている。
でも、バゲットは目が粗いため、分量を間違えると余剰分のバターが下から垂れ落ちてしまうからね。
あれがちょっとだけ煩わしい。
「うまい」
「うまいねー」
結局、素バゲットをもそもそと食べることになるわけである。
カリカリして、塩気があって、牛乳と合って、うまい。
そういえば、菓子パンってあんまり食べない。
「かたい……」
袋から二切れ目を取り出したうにゅほが、ぼそりと呟いた。
なにを今更と隣を見ると、うにゅほがバゲットを指で千切っていた。
「っしょ」
正確には、外皮をぺりぺりと剥がしていた。
もしかして。
「はい」
バゲットの中心部分をぽんと手渡された。
やはり。
親指の爪の先ほどしかない中心部分を口に放り込むと、俺は言った。
「さすがに、これと皮の等価交換は成り立たないと思う」
うにゅほは、だよねーという顔をしていた。
「食べたいなら、まだあるし」
「うん」
そんな会話をしているうち、気がついたらバゲットだけで満腹になっていた。
けっこう腹持ちいいな、バゲット。



2012年11月14日(水)

夕食を済ませたあと、食卓テーブルに肘をつきながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
家族は、それぞれの定位置で適当な会話を交わしながら、それぞれに過ごしている。
それにしても、iPhoneの浸透具合は恐ろしい。
母親と弟はiPhone片手になにやらゲームをしているし、ITに疎い父親ですら音楽を聞きながらナビアプリでルート検索などをしている。
まあ、俺が教えたんだけど。
「みんな、思ったよりiPhone使いこなしてるねえ……」
なかば独り言のつもりで、隣席のうにゅほに話しかける。
「あんまり、よくない」
意外な返答に、思わず隣に視線を向けた。
「みんな、けいたい、いじりすぎだとおもう」
「いや、まあ……俺も思うけどさ」
反応に困り、とりあえず右手で額を押さえる。
「……今、君がいじってるのはなんだい?」
「けいたい──うに」
うにゅほの頬を軽くつまみながら、耳元で囁いた。
「どの口が言うんだ、えぇ?」
我が家で最も携帯電話を使っていないのは、持っていない祖母を除くと間違いなく俺である。
基本的にはどこへ行くにも一緒なのだから、どちらが携帯電話を持っていても、特に不都合はない。
メールも電話も大して来ないし。
そんなわけで、うにゅほに預けっぱなしになっているという次第である。
「だって、なめこをしゅうかくしなければならないから……」
「しなければならないのか……」
それは、義務感なのか?
楽しいのか?
俺も、深夜によく収穫してるけど。
「なめこを収穫する以外にも、なんかやればいいのに。ほら、あの、バスドラみたいな名前の」
たしか、弟がよくプレイしているアプリである。
「なんか、いそがしそう」
「まあ、そうか」
うにゅほはあまりゲーム慣れしていないので、ゆっくりじっくりプレイできるものを好むのは納得できる。
「じゃあ、母さんのやってるパズルっぽいのは? 麻雀の、上海とか」
「あれ、よくわかんない」
「まあ、そうか」
直感的に理解できないゲームは、楽しめるようになるまでのハードルが高い。
「……結局、なめこを収穫してるのが一番楽しいってことか」
「うん」
うにゅほの指先がなめらかに動き、なめこの収穫音が静かに響いた。



2012年11月15日(木)

ソファに腰掛けてぼけーっとしていると、母親が扉を叩いた。
「◯◯、はい」
青いカード状の物体を手渡される。
「××も、はい」
用は済んだとばかりに、母親が退室する。
透かすように掲げたカードには、こう記されていた。
「健康保険、被保険者証──新しい保険証か」
家庭の事情で、二週間ほど前に返却していたものだ。
「ほけんしょー」
うにゅほが、ぽけらっと呟いた。
なんとなく不安に駆られたので、
「失くさないよう、ちゃんと仕舞っておけよ」
と、うにゅほに言い含めた。
「うん」
「大事なものだからな」
「しってるよ」
「ほー……じゃ、どうして大事なのか、ちゃんと知ってる?」
「しってるよー」
本当かよ。
「これがないと、びょういんでおかね、たくさんとられるんでしょ?」
本当だった。
あれ、説明したことあったっけ。
「──…………」
あった気がする。
しかも、かなり最近のことだ。
「これで、はいしゃいけるね!」
「歯医者──……あ、歯医者! 歯医者ね!」
思い出すまでに幾許かのタイムラグがあった。
そうだ。
つい二週間前、俺は歯が痛かったのだ。※1
しかも、死ぬほど。
「はいしゃ、いかないの?」
「いや、だって……痛くないしなあ」
思わずモヒカンに剃り上げてホームセンターへ火炎放射器を買いに行きたくなるくらいの激痛だったのに、今は痛くない。
悪夢から目覚めたときのように、完全に消え去っている。
「……だいじょぶなの?」
「うーん……?」
首をひねる。
「歯医者でも、様子を見てくださいって言われたしなあ」
「むしばじゃないんだよね」
「虫歯じゃない。歯髄炎──まあ、歯の根っこでバイキンが繁殖する病気でも、ないらしい」
「じゃあ、なんでいたかったの?」
「さあー……」
ふたり並んで天井を仰ぐ。
天井のタイルは、変わらず複雑な文様を描いている。
「だいじょぶなら、いいけど」
うにゅほが呟くように言った。
もしかすると、あまりに痛みすぎて痛覚が麻痺してしまったのかもしれないが、それは言わないことにしよう。

※1 2012年11月1日(木)参照



2012年11月16日(金)

布団のなかで眠気に身悶えて、気が付くとソファから半分ほどずり落ちていた。
着替えてリビングへ行くと、母親が言った。
「インフルエンザの予防接種、受けてきなさい。××連れて」
ああ、もうそんな時期か。
政府の陰謀じゃないかってくらい、毎年きっちりと流行する。
実に不思議だ。
「母さんは?」
「私たちは午前中に行ったから」
「××、連れて行かなかったの?」
「あんたひとりじゃ可哀想だからってさ」
ピザポテトをちまちまとつまんでいたうにゅほと目が合った。
「んじゃ、行くか。身支度整えてから」
「うん」
「──あ、そうだ」
母親が、思いついたように告げる。
「××、注射大丈夫?」
「えっ」
うにゅほが絶句する。
「予防接種、注射。ちょっと痛いけど」
「──…………」
うにゅほの顔が、恐怖で薄く化粧される。
言わんでいいことを……。
さっさと顔を洗い、うにゅほの手を引いて家を出た。
「……よぼうせっしゅって、ちゅうしゃなの?」
事ここに至れば、嘘をつくのは逆効果である。
「まあ、注射だな。
 でも俺が採血するの、何回か見てるだろ?
 そんな怖がることもないって」
うにゅほが首を振る。
「あれは、ちをぬく。こっちは、なんか、いれる……」
母親のいらんこと教育が実を結んでいる。
なるほど、痛みではなく、そっちの方向で嫌なのか。
「でも、受けとかなきゃな。インフルエンザになんてかかったら、大変だ」
「うん……」
嫌で嫌で仕方がないけど、覚悟はできているらしい。
病院で二人分の予診票を記入し、呼ばれるのを待って処置室へ入る。
先に俺が済ませ、うにゅほの番となった。
「刺すときは痛くないですけど、入れるときちょっと痛いですからねー」
「うぅ……」
肘の上に、針が刺さる。
看護師の指先が、注射器の頭部を押し込んだ。
「お、おあぁー──…………ぁ」
長い声のネコか。
看護師がくすりと声を漏らした。
帰りの車中、うにゅほがしきりに注射した場所を気にしていた。
「なんか、かたい」
触らせてもらうと、確かに小さなしこりがあった。
「二、三日で治るって、もらった紙に書いてたよ。俺は、かゆい」
「そっか」
納得したらしい。
軽く寄り道をして、帰宅した。



2012年11月17日(土)

愛犬が寝たきりとなり、散歩へ行く必要がなくなってから、しばらくが経つ。
ふとカレンダーを見て、十一月も半ばを過ぎていたことに気がついた。
道理で冷え込むはずである。
旧暦の十月を、初冬あるいは孟冬と呼び習わす。
暦の上でも冬、ということだ。
「……さむい」
「ああ、寒い、寒い……寒い……」
両手を拝むようにこすり合わせながら、天井を睨みつける。
摩擦熱でどうにかなる寒さでもないが、やらないよりはましである。
「──んあー、駄目だ! ストーブつけよう!」
とうとう耐えかねて、ストーブの電源を強めに押した。
「あれ」
無反応である。
「コンセントは?」
「それだ」
コンセントにプラグを差し込み、再度電源ボタンを押す。
「──…………」
つかない。
調べてみると、給油ランプが点灯していた。
「灯油を汲んでこよう」
灯油タンクを提げて玄関へ行くと、18リットルのポリタンクが軒並みカラだった。
「……どうする?」
「うーん……」
互いに顔を見合わせた。
「──それで、そんなことになってんの?」
自室を訪れた母親が、呆れたように言った。
まあ、そうだろう。
俺がうにゅほを後ろから抱く形で、二人羽織り状に半纏を着込んでいるのだ。
うにゅほの発案を冗談半分で実行してみたら、これがけっこう暖かい。
「そんなことするくらいなら、灯油買ってきてよ。ガソリンスタンドで」
「らじゃー」
もたもたと半纏を脱ぎ、身支度を整える。
ポリタンクをふたつ荷台に積み込み、近所のガソリンスタンドへ赴いた。
満タンのポリタンクを、荷台へと戻す。
「わたし、もつよ」
「キャベツが持てないんだから、無理だと思うけど」
どれほど巨大なキャベツであれ、二十キロはさすがにあるまい。
いやギネス級ならどうか知らないが、あのキャベツはせいぜい十キロくらいのものだ。※1
「もてるよ!」
持てなかった。
「灯油がこぼれるかもしれないから、支えててくれよ」
「うん」
うにゅほが後部座席に乗るのを確認し、運転席のドアを開いた。
帰り道の途中、ふとあるものに目を奪われて、ブレーキペダルを踏んだ。
「どうしたの?」
「ああ、いや──」
すこし言葉に詰まり、ゆっくりと答えた。
「もう、紅葉してたんだな、って。当たり前だよな、なに言ってんだろ」
自嘲気味に息を漏らす。
それだけ、余裕がなかったということなのだろう。
「──うおっ」
うにゅほの両手が、背後から俺の頬に触れた。
雰囲気が笑っていた。
「灯油くさいな」
俺も、すこし笑った。

※1 2012年11月8日(木)参照



2012年11月18日(日)

急激な冷え込みと、家鳴りで目を覚ました。
家が揺れている。
それが暴風によるものであると理解するまで、いささかの黙考を要した。
「……なにやってんの?」
俺の足元で、うにゅほが頭から布団にもぐっていた。
足先が暖かい理由がわかった。
「いえ、ゆれてる……」
「風が強いんだな」
「いえ、こわれないかな……」
「築年数はそれなりだけど、そこまでボロ屋じゃないよ」
「ガラスわれたりとか……」
「なんでだよ」
「なんか、とんできて……」
「どうしてそう、自分で自分の不安を煽るんだ」
不安スパイラルである。
俺自身、覚えがないと言えば嘘になるけど。
「ほんと、こういうの苦手だよな」
「うん……」
「着替えるから、ちょっとどいてくれ」
「うん……」
着替えを終えて、自室のソファへ戻ると、うにゅほがまだ布団にくるまっていた。
「小学生じゃないんだから」
「ちがう」
「違う?」
「さむい……」
たしかに。
ソファから身を乗り出して、ストーブの電源を入れる。
「これでいいか?」
「まださむいよ」
「そんな一瞬であったかくなったら、嬉しい以前に怖いよ」
「そういうもの?」
「たぶん、焦げたりする」
「それはやだな」
部屋が徐々に暖かくなり、うにゅほが布団から顔を出した。
「あつい」
「動かないから、寝たのかと思った」
「いきぐるしいから、ねれない、よ──」
うにゅほの言葉尻を遮るように、窓の外に閃光が走った。
直後、轟音。
近い。
雷が落ちたのだ。
「──…………」
うにゅほが俺の腕を抱き寄せていた。
「……雷も駄目か」
「──…………」
無言で何度も頷く。
風はまだ、やみそうにない。
朝食を我慢して、しばらくはうにゅほに付き合うこととしよう。
ソファの上で背中合わせに座り、iPhoneで動画を見たりしながら午前中を過ごした。



2012年11月19日(月)

体調が悪いと、睡眠時間が長くなる。
深くなるかと言えばそうではなく、果てなく続く中途半端な悪夢に身悶えたりもする。
「──…………」
目を覚ますと、既に夕刻だった。
うにゅほの姿はなかった。
家族もいなかった。
買い物にでも出ているらしい。
階段の窓から外を見ると、端々に雪が残っていた。
初雪を見逃した。
見ても嬉しくないくせに、見逃すと損をした気分になる。
厄介なものだ。
自室へ戻り、とりあえず着替えた。
鏡を覗くと、ひどい寝癖がついていた。
太陽も沈もうかという時刻になって、寝癖を直すのも面倒だ。
帽子で誤魔化しておこう。
「──……あれ?」
帽子が見当たらなかった。
おかしいな。
いつも、飾り棚の決まった段に置いてあるのに。
「はあ……」
溜め息をつき、予備でもいいかと顔を上げる。
すると、見つかった。
箪笥の上にあった。
より正確に言うと、箪笥の上に飾ってあるビッグねむネコぬいぐるみが、サンタ帽のようにかぶっていた。
確実にうにゅほの仕業である。
「それにしても、よく届いたな……」
さして大きくもない衣装箪笥だが、それでもうにゅほの身長よりは高い。
手を伸ばせば届くには届くだろうが、頭上で作業をするのはいささか難しいのではないか。
帰宅したうにゅほに尋ねてみると、
「おろして、かぶして、もどした」
との答えが返ってきた。
なるほど。
せっかくなので、帽子は予備のものを使うことにした。
床屋へ行きたいなあ。
でも、明日は火曜日だから行けないのだ。



2012年11月20日(火)

ふりかけにハマっている、という日記を以前書いたと思う。※1
店頭に並んでいるふりかけをひと通り試して、最終的に丸美屋のすきやきと味道楽に落ち着いた。
元々好きだったふりかけであるため、一周して戻ってきたと言える。
「──…………」
もぐもぐ。
すきやきと味道楽を一口ずつ交互にふりかけながら、ふと思った。
「これ、混ぜたら美味しいんじゃないか?」
「ほおー」
うにゅほが感嘆の声を漏らす。
感嘆か?
まあ、感嘆ということにしておく。
ふりかけはすべて、ガラス製の専用容器に移してから使っている。
思いつきが色褪せてしまわぬうちに、未開封の味道楽を戸棚から取り出すと、すきやきふりかけの容器にサラサラと流し入れた。
あとは、フタを閉めて振るだけである。
「うおおおおおお!」
意味もなく全力を出してみた。
朝から元気ですね。
「わたしも!」
うにゅほに容器を手渡す。
「うおおおおおー!」
しゃかしゃかしゃかしゃか!
小気味良い音がリビングに響き渡る。
「よし、そこまで!」
「はい!」
うにゅほから容器を受け取り、蛍光灯に透かしてみる。
混ざっている──気は、する。
ふりかけの新しいフレーバー「すき道楽」が完成した──気が、する。
でも、まだ混ざりきっていない気もする。
人差し指でフタを軽く押さえ、ほんの数回ほどおまけで振ってみた。
「──うおッ!」
「わあ!」
刹那、小指の爪の先ほどの無数の細かな切片が空中にばら撒かれた。
「あー……」
フタじゃないところを押さえていたらしい。
「そうじき! そうじき!」
うにゅほが収納を開き、掃除機を取り出す。
「俺も──」
「うごかないで!」
うにゅほに掃除機で全身を隈無く吸われながら、俺は意気消沈していた。
あまりに情けないではないか。
自責の念が強すぎて、衣服に付着したふりかけを一旦すべて払い落としてから改めて床を掃除すればいいのではないか、と言い出すこともできなかった。
ただただ黙って吸われるばかりであった。
朝食は金、とよく言われる。
本来とはまた違った意味でそのとおりであるなあ、と、なんとなく沈んだ一日を過ごしながら思った。
ちなみに「すき道楽」の味は普通だった。
互いのいいところを足して2で割ったような味がした。
考えてみれば、当たり前である。

※1 2012年10月24日(水)



2012年11月21日(水)

「わあー……」
うにゅほが窓ガラスに張り付き、吐息で曇らせていた。
「ゆきだー……」
「初雪ってわけじゃ、ないだろ」
「ふぶいてる」
「一昨日は吹雪いてなかったのか」
「ふぶいてた」
急に頭が重くなったような気がした。
「……まあ、珍しがれるうちに、珍しがっておけばいいよ」
「うん」
子供のころは、俺もこんな感じだったのだろうか。
天気予報を信じて時間を潰し、晴れ間が覗くのを確認して外出することにした。
あてもなく、自動車でぶらぶらと。
「それ、よかったな」
うにゅほの羽織っている薄いベージュのコートを指して、言った。
父親と弟からの誕生日プレゼントである。
「へへー」
うにゅほは軽く照れ笑いを浮かべると、
「てぶくろもあるよ」
そう言って両手を掲げてみせた。
真っ赤なミトンである。
「ミトンはまだ早くないか?」
「ミトン?」
「そういう手袋のこと。ヒーターつけてるから、すぐ暑くなるよ」
「だいじょうぶ」
「外してポケットに入れといたほうがいいと思うけど」
「だいじょぶ!」
陽射しとの相乗効果で、案の定車内は晩春のような気温となった。
随分と暑そうにしていたが、うにゅほはミトンを外そうとしなかった。
お気に入りらしい。
リサイクルショップで暖かそうなジャケットを購入し、昼食を取ることにした。
「なに食べたい」
「あんこがいい」
「それはデザートで」
喧々諤々の議論の末、パスタということになった。
席に案内され、うにゅほにメニューを手渡す。
俺は、カルボナーラと決めている。
「うーん……イカスミ、かな……」
嫌な予感がした。
注文も済ませたあと、うにゅほに言った。
「コートは脱いでおいたほうがいいと思う」
「なんで?」
「おろしたてのコートに、セピア色の汚れなんてつけたくないだろ」
うにゅほはしばし黙考し、
「……おろしたて?」
「そこかよ」
意味を説明すると、うにゅほは納得してコートを隣席に置いた。
薄い色のコートは汚れる運命にある。
気に入っている様子だから、綺麗なまま長く使えるといいと思った。



2012年11月22日(木)

忙しい一日だった。
午後一番で市役所へ行き、空欄を埋めた書類を提出した後、また新しく記入する書類を手渡された。
「あ、はつねミク」
うにゅほが市役所の掲示板を指さした。
そこには、赤い羽根共同募金のポスターを飾る初音ミクの姿があった。
いいのか、これ。
「はっつねミクー、はっつねミクー」
自作の初音ミクの歌をワンフレーズだけ口ずさみ、うにゅほが言った。
「はつねミクって、なにしてるひと?」
……人?
「えっと、歌手?」
間違ってはいまい。
市役所へ行った足で、以前掛かっていた病院へと赴き、診断書を受け取った。
相変わらず、手間のわりに高額である。
その後、スーパーマーケットなどを経て、床屋を経営している伯父を訪ねた。
散髪しているあいだ、家庭環境から世界情勢まで、気の滅入るような雑談をした。
伯父とは、よくこういう会話をする。
うにゅほは奥の間で伯母と世間話をしているので、気兼ねなく伯父と話すことができた。
「さっぱり、さっぱり」
俺の後頭部を撫でるうにゅほを放置しながら、親戚価格の散髪代を支払う。
そして、財布をジーンズの後ろポケットに収めた。
「相変わらず、財布を仕舞うときだけカッコいいよなあ」
伯父があごを撫でながら言った。
「うん、カッコいい──です、です」
え、なにそれ。
「……なんか変だった?」
「わざとやってるんじゃないのか?」
「わざともなにも」
「いや、まるで拳銃をホルスターに入れるみたいに仕舞うからさ」
え、なにそれ。
脳内でシミュレートしてみる。
まず、財布の持ち手を空中で調整し、ヒップラインを指でなぞりながら最短距離で財布を──
「……やってる」
完全に無意識だった。
というか、無意識に行動を最適化した結果だった。
「カッコいい──です、よね?」
うにゅほが不自然な敬語で伯父に話しかける。
「ああ、カッコいいな。そこだけ」
そこだけカッコいいと、逆に滑稽ではないか。
「もっかいやって」
「嫌です」
これだけカッコいいカッコいい言われたら、もう二度とできない。
財布の仕舞い方を改める必要がある。
夕刻に帰宅し、寝たきりの愛犬にエサを与えた。
愛犬は、あまり食べなかった。
オムツを交換したあと、携帯に着信があった。
うにゅほからiPhoneを受け取り、確認したところ、友人からの他愛ないメールだった。
「あ──……」
画面に表示された日付けを見て、思い出した。
うにゅほに向き直り、告げる。
「今日は、11月22日だったんだな」
「? うん」
「十六年前の今日だ。こいつが、うちに来たのは」
目の開いていない愛犬を撫でる。
まだ息をしている。
「じゃあ、わたしの、おにいちゃん?」
「そうだな」
いつの間にか、最年少ではなくなっていたんだな。
「そっか……」
うにゅほが愛犬の長い口吻を、軽く掴んだ。
愛犬は、うにゅほの手を押すように、やんわりと前足を動かした。
俺とうにゅほは、顔を見合わせて、すこしだけ笑った。



2012年11月23日(金)

雪が積もった。
両親の寝室の窓から覗く景色が、ただ一面に白い。
「根雪になるかもしれないな……」
11月の積雪は一度すべて解けるのが常だけれど、何事にも例外はある。
「そうだねー」
窓ガラスに両手で触れながら、うにゅほが頷いた。
「あれ、根雪ってなんだか知ってるの?」
「しってるよ」
知らないだろうと思っていた。
「ゆきの、いちばんしたのゆきでしょ?」
「そうそう」
「きのう、おとうさんとおかあさんがいってた」
「日が浅いな……」
得意げにしないところが、うにゅほらしいと言えば、らしい。
冬は日が短い。
太陽の名残は、午後五時にはもう稜線にすら留まっていなかった。
これでまだ冬至を迎えていないというのだから、気がくさくさしてしまう。
タイヤ交換を済ませたミラジーノに乗り込み、DVDを返却するためゲオへと向かった。
買うものも借りるものも特になかったため、すぐに帰宅の途についた。
「なんか、甘いもの食べたいな……」
「うん」
「なに食べたい?」
「あんこがはいってるのがいい」
「俺は、あれだな……」
口にしてから、考える。
「ああ、そうだ。わらび餅がいいな」
「わらびもち?」
「食べたことなかったっけ」
すくなくとも、俺にその記憶はない。
「あ──……るぅ?」
なさそうだ。
「ちょっと遠回りになるけど、セブンイレブン寄って行こう。
 たしか、売ってるの見たことある」
「どんなの?」
「やわらかくて、あまいお菓子だよ」
「だいふく?」
「ちょっと違う」
和菓子の半分くらいは、やわらかくてあまい気がする。
自宅の近所にあるセブンイレブンで、わらび餅を購入した。
車内でケースを開く。
「しょうゆついてるよ」
「それは、黒みつだな。まずは、なにもつけずに──あれ?」
プラスチック製の刺すやつが見当たらない。
車内が薄暗いせいかとライトをつけてみたが、やはりない。
「帰ってから、爪楊枝で食べるか……?」
「えー」
気持ちはわかる。
最初から家で食べるつもりだったなら、なにも問題はなかった。
しかし、心のいただきますは既に済んでいるのだ。
「……手で食べるか。
 きなこまぶしてあるから、大福とそう変わらないと思うし」
「うん、うん」
しっとりとしたわらび餅を指先でつまみ、ふるい落とされるきなこを手皿で受けながら、口元へ運ぶ。
うにゅほも同様の仕草で、わらび餅を頬張った。
「ふまい!」
「××、きなこ飛んでる」
「ごめんなさい」
「まあ、あれだ。黒みつつけても美味しいけど、それはまた今度な」
「うん」
プラスチック製の刺すやつは、わらび餅の下から出てきた。



2012年11月24日(土)

肩が凝っている。
寒さに次いで雪まで積もった日には、もう冬ごもりしかない。
動かなくなると、筋肉が固くなる。
桶屋が儲かる、もとい肩が凝る。
実のところ腰も痛いのだが、そちらは緊急性の高さゆえに幾つかの対策を講じている。
日常的に気になるのは、やはり肩である。
「お、う……」
左肩の筋を、右手で揉みほぐす。
固い。
具体的に言うと、軟骨かってくらい固い。
「──…………」
腕を揉んでみる。
しなやかである。
力も入れていないのに、どうして肩だけこんなにも固いのだろうか。
首は、頭部を支えているためだ。
腰は、二足歩行への進化を果たした人体にとって基幹となる部分である。
では、肩は?
両腕がぶら下がっているからだろうか。
散漫な思考に没しながら自分の肩を揉んでいると、うにゅほが不意に俺の手に触れた。
「もんであげる」
「ああ、うん。ありがとう」
上体をひねり、うにゅほが揉みやすいよう位置を整える。
もみもみ。
「きもちいい?」
握力が致命的に足りない。
何度か揉んでもらったことはあるのだが、そのたびに思う。
心地いいが、気持ちよくはない。
「もっと、こう、思いっきりギュウギュウに力入れてもいいよ」
「いたくない?」
「痛いくらいがいいんだよ」
もみ、もみ、ぎゅうー。
「ど……、お?」
ちょっと気持ちいい。
「……はー」
でも、数もみでうにゅほの体力が尽きかけている。
このまま続けてもらうのも、気が引ける。
どうしようかと頭を巡らせた矢先、ふと思い出したことがあった。
「あのさ」
「なに?」
「揉むんじゃなくて、ちょっと叩いてみてくれるか?」
「たたくの?」
「た」の連続する言葉として幼稚園児や小学生を中心に一世を風靡した、かたたたきである。
アニメやドラマなどで、孫が祖父母に行なっている光景をよく見かける。
「あれ、いまいち気持ちよさそうに見えないんだけど、実際はどうかなって」
「やってみる」
とん、とん、とん、とん。
うにゅほの拳骨が、一定のリズムで優しく両肩を叩く。
「きもちいい?」
「──……うん」
心地いいが、気持ちよくはない。
しばらくは肩の凝りと戦い続けなければならないだろう。
礼を言って、うにゅほの肩を逆に揉んであげた。
相変わらずのゆるゆるぷにぷにだった。



2012年11月25日(日)

欲しいものがあったような気がして、百円ショップへ寄った。
もし思い出せなくても、適当に商品を見て回るだけで会話の種になるし、けっこう楽しい。
「──あっ」
コスメのコーナーに足を踏み入れたとき、不意に思い出した。
「毛抜きを買おうと思ってたんだ」
「けぬき? なんで?」
「いや、なんか見当たらなくて」
小物を失くすのは、よくあることだ。
「つくえと、かべのあいだは?」
「あー……」
落ちているかもしれない。
しかし、デスクを動かすのは面倒である。
百円なのだし、買ったほうが確実で手間もかからない。
「──…………」
なんてことを言ったら、うにゅほに怒られそうな気がする。
「まあ、予備があってもいいじゃない」
「そう?」
「そうそう」
家に帰っても探さないと思うけど。
我が家の毛抜き埋蔵量は、いったいどれくらいなのだろう。
十本くらいは隠れていそうな気がする。
「あとは──」
視界に爪切りが映ったので、手に取ってみた。
「つめきり、あるよ?」
爪切りは、自室、リビング、各所に点在している。
「あるのは知ってるけど、ほら」
うにゅほに爪切りのパッケージを見せた。
「プラスチックでサイドを覆ってあるだろ?
 こういう爪切りって、爪が飛ばない──らしいんだよ」
家にある爪切りはすべて貰いもので、カバーなど望むべくもない。
「ふうん……つめ、とぶもんねー」
「飛ぶ。コメツキムシみたいに飛ぶ」
「コメツキムシってみたことない」
「飛ぶぞー」
裏返しの状態から戻るために飛び跳ねるそうだが、それにしたっていくらなんでも飛ぶ。
帰宅し、シャワーを済ませたあとで、カバー付き爪切りを試してみることにした。
「××、近い」
そんな間近で凝視しなくとも。
うにゅほが顔を離すのを確認し、親指に爪切りをあてがう。
ぱちん!
「あ、飛ばないな」
「ほんと?」
手皿の上で爪切りを振ると、切った爪が落ちてきた。
「ほら」
「ほんとだ」
これは使えるかもしれない。
「わたしもやってみたい」
「全部切るまで待ってくれよ」
爪を切り終えて、爪切りをうにゅほに手渡した。
ぱちん!
「飛ばないだろ?」
「とばないけど……おおきくて、きりにくい」
うにゅほの指には大きすぎたらしい。
「あ、あしのつめなら」
「こないだ切ってただろ」
たぶん、まだ伸びていないはずだ。
うにゅほは、なんとなく残念そうにしていた。



2012年11月26日(月)

「たっけたー、たっけたー、ごっはんっがたっけたー」
上機嫌に歌いながら、うにゅほが自室の扉を開いた。
最近、オリジナルソングを口ずさむことが多いような気がする。
しかし、残念ながらその曲はカラオケに入っていないのだ。
「◯◯、ごはんだよ!」
改めて言わなくても伝わっている。
ゆっくりと腰を上げ、首を回しながら部屋を出た。
「たっけたー、たっけたー……」
妙に耳に残るフレーズである。
夕飯は、サラダと味噌汁だった。
なんて豪勢なのだろう!
たまごと肉のそぼろを前に手を合わせているうにゅほの隣で、たまごかけごはんを作る。
俺は永遠のダイエッターである。
「──……ふむ」
ずっと思っていたことがある。
卵かけごはんは、ごはんにくぼみを作り、卵を落として混ぜながら食べる。
しかし、我が家では違う。
まず生卵を深皿に落として溶いたあと、ごはんを入れて掻き混ぜるのである。
後者のほうが均等に混ざり、美味しい──と思う。
「でも、これってたまごかけごはんじゃなくて、ごはんかけたまごだよな」
「そんなこといわれてもなあ……」
そぼろを選り分けながら、うにゅほがそっけなく答えた。
「××はどっちが美味しいと思う?」
「ちゃんとまざるから、うちのほうがおいしいとおもう」
「だよなー」
どちらが一般的なのだろう。
茶碗で作ろうとすると、どう考えても容積が足りない気がするのだけど。
「──んで、××はなにやってんの?」
「にくと、たまごを、わけてる」
「……なんで?」
「にくは、あじがこいから、ごはんとたべる。たまごはうすいから、そのままたべる」
「そうか」
まあ、好きなように食べればいい。
それより重要なことがある。
「じゃん! 丸美屋の最終兵器、のりたま!」
未開封ののりたまを掲げ、切り口を一気に裂いた。
今週のジャンプを求めて外出した際、一緒に買っておいたのだ。
「たまごかけごはんに、のりたまをかけて食べる──こんな贅沢なことがあっていいのだろうか」
「そうなの?」
「そうなの!」
たまごかけごはんに、更にのりたまをかける。
なんて美しい。
そうだ、これをのりたまごかけごはんと名付けよう。
一口食べる。
「うまい」
「どれくらい?」
「いや、まあ、普通にうまい」
想像を超えるでもなく、下回るでもなく、ごく普通に美味である。
「ふうん?」
うにゅほはうにゅほで、肉そぼろのみをごはんにかけて食べていた。
それはそれで美味そうだった。



2012年11月27日(火)

暴風雪に落雷という、この世の地獄じみた天候だった。
そんなこともあるのかと調べてみたら、雷雪という自然現象らしい。
家は揺れ、雷光閃き、雷鳴轟く。
暴風くらいでは動じなくなってきたうにゅほも、さすがに怯えているようだった。
「おーい」
ソファの上で俺の布団を占拠し丸くなっているうにゅほに声を掛ける。
顔も出ていないが、苦しくはないのだろうか。
「おい、おーい」
ゆすってみる。
「──…………」
動かない。
仕方がないので、布団のなかに手を突っ込んでくすぐってみた。
なにか変なところに触れたような気もするが、まあ役得としておく。
「──ふはあ! なにすんの!」
うにゅほがようやく顔を出した。
「いや、聞こえないみたいだったから」
「きこえてるよ!」
「じゃあ、答えてくれよ」
「こたえてるよ!」
布団のなかでもごもご言われてもなあ。
「いや、ちょっと病院に書類持ってかなきゃだからさ。××はどうするかなって」
「い──く……え、そと?」
「まあ、外には出る」
「どうしよう……」
「怖かったら、婆ちゃんのところにいたらいいんじゃないか」
犬の様子も見ていてもらえたら、ありがたい。
「でも、だって、かみなり……」
「そうそう落ちないって」
「おちたらしぬ!」
そんなに思いつめなくても。
「いいか、××。ファラデーの箱というものがあってな──」
以下、雑学の披露がしばらく続く。
「──そういうわけで、雷が落ちても自動車のなかは比較的安全なんだよ」
「…………?」
「安全なんだよ」
「そうなの……」
よし、丸め込んだ。
「それで、どうする? 一緒に行くか?」
「い、いく……」
「そっか。なら、さっさと行ってさっさと帰ってこよう」
「うん」
ジャケットを羽織り、準備を整える。
「ねえ、◯◯?」
「んー」
「ずっと、くるまにいたらいいじゃない」
「嫌だよ……」
用事を済ませて病院から出るころには、雷はもう止んでいた。



2012年11月28日(水)

ふりかけが切れた。
もう切れた。
一日三食やたらめったらふりかけていれば、備蓄を含めて三袋が数日で消えてしまっても無理はない。
しかし、白米に味噌汁だけではあまりに寂しい。
ねこまんまという手もあるが、それは最終手段である。
「コンビニ行くかー……」
茶碗に盛ってしまったごはんを炊飯器に戻し、菓子パンと牛乳を前にして臨戦態勢に入っていたうにゅほに声を掛けた。
「コンビニ?」
「ふりかけないかなと思って」
「スーパーいかないの?」
「あー……」
最寄りのコンビニもスーパーも、距離としてはどっこいどっこいである。
むしろ、スーパーのほうが近いかもしれない。
「なんか、コンビニのが手軽な気がして」
「ふうん?」
スーパーは広すぎる、気がする。
なんかこう、行くのに気合がいる、気がする。
「まあ、コンビニ行って、なかったらスーパー行こう」
「うん」
ジャケットを羽織り、玄関へ降りた。
「──…………」
すこしだけ逡巡し、サンダルに爪先を触れる。
「えっ」
うにゅほが絶句した。
「サンダル、はくの?」
「あ、うん。近いし、コンビニだし……」
「ゆきつもってるのに?」
「車で行くんだし……」
「すべってころぶよ! ころんでしぬよ!」
「死にはしないと思うけど……」
なんだ、君は僕を殺したいのか。
「いや、なんかさ……この靴、履きづらいんだよ」
コンバースのスニーカーを視線で示す。
「ちいさいの?」
「そうでもない。なんて表現すればいいかわかんないけど、この靴ってなんか、その──深いだろ?」
自分で買っておいてなんだけど。
「じゃあ、こっちのかわぐつは?」
「ちょっとつっかけてコンビニ行くって感じの靴じゃないしなあ」
「ごついけど……」
「それに、ほら……前の革靴、底取れちゃったろ。覚えてるか?」
「かぱかぱになってたね」
「これ高かったし、あんまり履き潰したくないなーと」
「ごついよ?」
「いや、まあ、考えすぎだと思うけど」
本当は履くのがちょっと面倒くさいからだし。
「でも、サンダルだめだよ。すべってしぬよ?」
受験生には聞かせたくない言葉だ。
「まあ、なあ……」
時期的に非常識だとも思うし。
「じゃあ、サンダルはもう靴箱に封印しよう。誰かが間違って履かないように」
「うん」
うにゅほが神妙な顔で頷いた。
コンビニにふりかけは見当たらず、結局スーパーまで足を伸ばすこととなった。
冬場につっかけでスーパーへ行くのはいささか勇気がいるし、うにゅほの言葉を素直に聞いておいて正解だったかもしれない。



2012年11月29日(木)

冬になると、唇が割れる。
大して痛くもないのだが、気になって舐めたり噛んだりしてしまう。
薬用のリップスティックがあったはずだと机の引き出しを漁ること数分、プラスチック製の下敷きの更に下から見つかった。
「──…………」
さっそく塗ろうとして、はたと気付く。
「……××」
「んー」
「これ、覚えてる?」
濃緑色のリップスティックを掲げて見せる。
「あ、あれだ」
「そう、それだ」
「ちがう! あの、あの、すーすーするやつ」
「そう、それだ」
「それが、どうしたの?」
「そこなんだよなあ……」
大袈裟にかぶりを振り、うにゅほに尋ねた。
「これ使ったの、いつだったか覚えてるか?」
「……きょねん?」
「そう、去年なんだよ」
日記を遡って確かめたから、間違いない。
「去年から使ってないリップスティックって、衛生的に大丈夫なのかな……」
「んー……」
しばし唸ったあと、うにゅほが口を開いた。
「だいじょぶ……じゃ、ない?」
「大丈夫なの? 大丈夫じゃないの?」
「だいじょぶじゃない?」
「どっちだよ……」
「だいじょぶ! だいじょうぶです!」
うにゅほ曰く、薬用だし殺菌効果もたぶんあるから恐らく大丈夫だと思うらしい。
「でも、すーすーするのってメントールだから……」
殺菌作用とかあったかな。
「だいじょ……ぶ?」
うにゅほも自信がなくなってきているようだ。
「なにより、ほら」
チェアから腰を上げ、リップスティックの先をうにゅほの眼前に差し出した。
「なんか、赤茶色のがついてる」
「あー……」
「なんだろ、これ」
唇の皮か、唾液が変色したものか、食べもののカスの成れの果てか。
「だいじょぶ……じゃない、ね」
「ちょっと抵抗あるよな」
「あたらしいの、かうの?」
「いや、もったいないから──」
ティッシュを一枚ドローし、リップスティックの先を強めに拭う。
「こうする」
「つかうんだ……」
「……××も塗るか?」
「あ、うん……ちょっと……」
視線を逸らされた。
至極まっとうな反応であるが、ほんのすこしだけ傷ついた。
傷つくとわかっていて、何故俺は、嗚呼。



2012年11月30日(金)

今朝、愛犬が死んだ。
十六年生きた。
口吻の長い犬だった。
最後まで、弟にだけは懐かなかった。
死に目を看取ったのは祖母で、俺を起こしたのはうにゅほだった。
うにゅほはなにも言わなかったが、起こされたという事実に嫌なものを感じ取り、階下へと向かった。
あと数分早く起きていればと後悔はすれど、それは後知恵に過ぎないだろう。
愛犬の頭を持ち上げて、そっと戻した。
眼球に指を触れて、死んでいることを確認した。
死に水だけでもと愛犬の口元を注射筒で濡らし、ゆっくりと自室へ戻った。
うにゅほが部屋に入る前に扉を閉め、背中を預けた。
弱いところを見せたくなかった。
死ぬことはわかっていた。
見るからに衰弱して、もう動くこともできなかった。
でも、今日死ぬとは思っていなかった。
明日までは命を繋いでいるだろうと、いつまでも思っていたかった。
歯を食いしばりながら数分ほど涙して、扉を開いた。
うにゅほも泣いていた。
堰を切ったように、こわい、こわいと泣きじゃくっていた。
布団の上に腰を下ろし、無言でうにゅほの背中を撫でた。
泣き疲れて眠ったうにゅほに半纏を掛けて、ソファの上で横になった。
頭が痛かった。
考えなければならないことは幾つかあったが、今だけはなにも考えたくなかった。
布団を引き上げて、またすこしだけ泣いた。
ぐちゃぐちゃで、わけがわからなくて、つらくて、くるしい夢を見た。
慌てて目を覚まし、思った。
しばらくは夜が長くなりそうだ。
それでも、うにゅほにだけは心配を掛けたくないと。


← previous
← back to top


inserted by FC2 system