2012年10月1日(月)
「あ、トンボだ」 「え……」 「背中に隠れるほどのものかあ?」 「……◯◯はだいじょぶなの?」 「まあ、あんまり苦手意識はないけど」 「でっかいよ?」 「大きいけど──考えてみれば不思議だな。なんでトンボは平気なんだろ」 「くもはだめなのにね」 「ああ、ほら……蜘蛛は部屋に入り込むだろ」 「あー」 「蜘蛛だけじゃなくて、蛾とか、名前も知らない変な虫とか、ああいうのは部屋に出るから怖い。 外で見ても──まあ、それほどではない」 「そとでもこわいんだ?」 「前触れなく顔面に向かって飛んできたら、小石だって怖いさ」 「うん」 「その点、トンボは部屋に入ってこないだろ? 大きいから網戸の目をくぐらないし、秋の昆虫だから窓を開け放していて迷い込むことも少ない。 だからまあ、あんまり人に嫌われる昆虫ではないよな。害もないし」 「ふうん……」 「むしろ、子供たちの恰好の標的と言える」 「こんちゅうさいしゅう?」 「夏休みが終わったあとだから、採集って感じじゃないな」 「じゃあ、なに?」 「昆虫分解、昆虫実験、昆虫ホロコースト──だいたいそんなかんじ」 「?」 「首をもいだり、羽根を千切ったり、神経を抜き取ったり」 「うええ」 「子供って残酷だよな」 「わたし、むり……」 「俺も無理」 「むし、きらい」 「この前、手のひらで大量のアリを押し潰してなかったか?」 「ありはちっさいもん」 「小さくても、びっしりたくさんは無理だな。 そりゃ一匹くらいなら大丈夫だけど」 「そういうもの?」 「俺はね」 「そっかー」 「──…………」 「──…………」 「──…………」 「どうしたの?」 「トンボ、捕まえようかと思って」 「ゆびくるくる?」 「あれで捕れた試しないんだよな、俺」 「とってどうするの?」 「キャッチアンドリリース」 「にがすの?」 「飼うわけにもいかな──あ」 「とんだ」 「逃げた……」 「ざんねんだね」 「どうせ逃がすんだから、捕る手間が省けたさ」 「つよがり」 「うるさいっての」
2012年10月2日(火)
スーパーマーケットで珍しいものを見つけた。 おやつの豆大福と一緒に購入し、店を出た。 「それ、なに?」 「家に帰ってからのお楽しみです」 車内に戻り、エンジンを掛けた。 帰宅し、ビニール袋からそれを取り出す。 「なんだと思う?」 商品名を見せないようにして、うにゅほに差し出す。 知ってるかな? 知らない気もする。 「……わかんない」 うにゅほが眉根を寄せ、そう答えた。 「食べてみましょう」 包装を剥き、うにゅほに差し出す。 「あーん」 「あー……んむ」 もくもく。 「おもち?」 「なにかの素材です」 「……?」 今度、ラーメンズのライブ映像でも見せてあげよう。 ああでもyoutubeは今まずいのか。 よくは知らないけど。 「答えは、ういろう」 「なにが?」 「今××が食べているものが」 「ういろう?」 「たしか、名古屋の名物だな。久しぶりに見たもんだから、つい買っちゃったよ」 うにゅほの歯型のついたういろうを口に入れる。 「めいぶつって、やつはしみたいの?」 「そうそう、こないだ食べたろ。生八ツ橋の、生地だけのやつ」 「おいしかったね」 「最近、各地の名物を百円くらいで売るのが流行ってるのかなあ。手軽でいいけど」 「やつはしの、ちゃんとしたのたべてみたいな」 「まあ、そればっかりは誰かが京都に行かないと」 俺はビニール袋から豆大福を取り出し、言った。 「あんこはあんこでも、今日はこっちで我慢だな」 「うん」 うにゅほがソファから腰を上げる。 「ぎゅうにゅうのむ?」 「頼むー」 ひらひらと手を振って、うにゅほを見送った。
2012年10月3日(水)
台所の隅に牛乳パックが溜まっていたので、ハサミで切って開くことにした。 そうしておかないと回収ボックスに入らないらしい。 詳しくは知らないが、大した手間でもないので、見かけたら切っておくことにしている。 ひとつかふたつ切り終えたところで、テレビを見ていたうにゅほがとてとてと歩み寄ってきた。 「てつだう?」 さほど量はないのだが、手伝ってくれると言うのなら断る理由はない。 右手のキッチンバサミをうにゅほに譲り、俺は包丁で牛乳パックを切ることにした。 「──…………」 包丁のほうが切りやすいが、左右にぶれる。 あまり好みではない。 「……あの」 うにゅほがおずおずと口を開く。 「わたし、ほうちょうでもいいよ?」 うにゅほと、包丁。 あまり握らせたくないのは、指を切り落としかけた過去があるからだ。 「わたし、おみそしるつくれるよ?」 たしかにそうである。 この一年でうにゅほも成長している。 包丁を扱う際に猫の手を怠ることも、もうないだろう。 でもなあ。 母親の意見を仰ぎたいところだ。 台所において、俺はしがない中間管理職に過ぎない。 「だって、おかあさんはまだだめっていうんだもん」 なら駄目だ。 俺は即答した。 母親が駄目だと言うならば、なんらかの理由があるのだろう。 最高権力者の判断に従うべきである。 「えー……」 ぶーたれても、駄目。 恨むなら母親を恨んでくれたまえよ。 まあ、でも、わがままを言っているわけではない。 もっと手伝いたい、もっと役に立ちたい──そう言っているのだ。 ……たぶん。 それをないがしろにするのも心苦しい。 なにか、うにゅほに頼めることはなかっただろうか。 ひとしきり頭を巡らせて、溜息をついた。 ない。 今は、なにもない。 仕方がないので、牛乳パックを切り終えたうにゅほを言葉の限り褒めそやしてみた。 「?」 きょとんとされた。
2012年10月4日(木)
来た。 波が来た。 チェアから立ち上がり、腹部を押さえてトイレへと駆け込む。 用を済ませて水を流し、手を洗って部屋へ戻る。 その繰り返しが、既に三度。 頬がこけそうである。 「……だいじょぶ?」 うにゅほが心配そうに俺の顔色を窺う。 声を出す気にもなれなくて、軽く右手を挙げてみせた。 どうも、下しやすい体質である。 水を飲み過ぎても下すし、食べ過ぎても下す。 なにもなくても勝手に下る。 汚い話で申し訳ない。 腹を撫でながら、腹痛の波が治まるのを待つ。 腹部前面には腹痛に効くツボが集まっているので、撫でたり押さえたりするのは効果的であるらしい。 気休めでもいい、治まるのなら。 生理痛を彷彿とさせるが、そんなことを言うと各所から怒られそうである。 うにゅほも毎月毎月大変そうだし。 「うぐー……」 上体をくの字に曲げ、波が過ぎ去るのを待つ。 痛みが下腹部に移動してくれるとトイレに行けるのだが、いかんせん済ませてきたばかりではどうしようもない。 赤玉が早く効いてくれることを祈るばかりである。 「──…………」 右手にそっと温かいものが触れた。 うにゅほの手だった。 「おなか、なでてあげる」 ありがたい。 でも、気恥ずかしい。 そして、くすぐったい。 俺よりも体温の高い手が、そっと腹部を撫でさする。 しばらくして、膝立ちのうにゅほが言った。 「……あれ、やせた?」 そう、すこし痩せたのである。 外見からはまったくわからないと思うが、4kgほど落ちた。 「う」 そして、今さらに落ちそうである。 それから数分ほどして、腹痛はようやく治まった。 本当に勘弁していただきたい。 来る数日前に、せめて手紙をいただきたい。 赤玉と正露丸を用意しておくから。
2012年10月5日(金)
部屋に小バエがいた。 空気を入れ換えようと窓を開けた隙に侵入したと思われる。 網戸を掻い潜るとはなかなかの猛者である。 だからと言って、追撃の手を緩めることはない。 右手にハエ叩き、左手にキンチョールを構え、小バエの気配を探る。 「──……そこだ!」 天井にハエ叩きを振り上げる。 しかし、僅かな隙を突いて小バエは飛び去った。 空中戦には利があると油断した小バエに、キンチョールを噴霧する。 隙を生じぬ二段構えである。 「……けむい」 ポヨのぬいぐるみをぎゅうぎゅうに絞め上げたうにゅほが、ぼそりと呟くように言った。 「ごめん……」 小バエどころではないらしい。 昨日の腹痛を鑑みれば、容易に想像はつく。 立場が逆であれば、できるだけ静かにしてほしいと思うもの。 「──…………」 うにゅほの隣に腰を下ろし、我が物顔で部屋を飛び回る小バエに視線を巡らせる。 叩き落としたい。 でもなあ。 気もそぞろに天井を見上げていると、うにゅほが言った。 「おなか、なでてほしい」 ああ、そうだな。 昨日、撫でてくれたものな。 ポヨのぬいぐるみを受け取り、膝の上に乗せる。 そして、左手でうにゅほの腹部に触れた。 熱い。 あと、柔らかいんだか引き締まっているんだかよくわからない。 とにかく、撫でる。 上着越しに腹巻の感触があって、なんとなく嬉しい。 いつだったか、俺がうにゅほに買ってきてあげたものだと思う。 「──……あ」 小バエが、眼前にあるPC本体に止まった。 距離にしておよそ1メートル。 しかし、今はうにゅほの腹部をさすり続けなければならない。 俺を嘲笑うかのように、小バエはその場を微動だにしなかった。 左手を動かしながら、小バエを睨みつける。 俺が小バエを仕留めるのは、太陽が沈みきったあとのこととなる。
2012年10月6日(土)
大学時代の同窓会にかこつけた飲み会へ行ってきた。 一次会で梅酒をかぱかぱ空けて、二次会はカラオケで自慢の喉を唸らせてきた。 それにしても、B-DASHの「ちょ」なんて何年ぶりに耳にしたかわからない。 世代である。 適当に解散し、地下鉄に乗った。 最寄り駅までは弟が迎えに来てくれた。 「さんきゅ」 ミラジーノの助手席に乗り込み、弟に礼を言う。 「××はもう寝たみたい?」 「いや……」 「どうした?」 「まあ、寝てるっちゃ寝てるんだけど」 弟が肩越しに後部座席を示す。 パジャマの上からジャケットを羽織ったうにゅほが、ごろんと横になっていた。 橙色のほのかな光に照らされた寝顔は実に安らかである。 「ついてくるって聞かなくてさ」 「あー……」 ありそうだ。 寝てしまっては本末転倒だと思うが。 「起きたら、ただいまって言ってあげなよ」 「わかってるって。 でも、なるべくなら起こさないように運転してやってくれ」 「わかってるよ。 普通に運転しても、起きないとは思うけど」 弟がミラジーノを発進させる。 「──あのさ、兄ちゃん」 「なんだよ」 「助手席が空いてるのに、後部座席に座られるのって、わりとショックでかいな」 「……俺のために助手席を空けておいたんだろ」 「わかってる。わかってるけど、なんか存在を否定されたような気が……」 「わかる」 「兄ちゃんも経験あんの?」 「ある」 「いつさ」 「何年か前だったと思うけど、合コンに行ったときに──」 うにゅほにはとても聞かせられないような会話を交わしながら、帰宅の途についた。 家の近くまで来て、うにゅほがようやく目を覚ました。 「ただいま」 「……おあよう」 よほど眠かったのか、うにゅほはさっさと部屋に戻ると布団に入ってしまった。 迎えにまで来たというのに、淡白である。 もしかして、弟との会話が聞こえていたのだろうか。 いや、聞こえてもさして問題のない範囲に留まっていたはず。 そのはず。 結論:アルコールが全部悪い。
2012年10月7日(日)
「あ……ふぁう」 昨夜のアルコールが残っているのか、幾度も生あくびを繰り返した。 「ねむいの?」 ビッグねむネコぬいぐるみを抱いた隣席のうにゅほが、小首をかしげながら言った。 「いや、眠いのかな……よくわからない」 「なにそれ」 うにゅほがくすりと笑い声を上げる。 しかし、本当にわからないのだから仕方がない。 「おふぁ──……うふう」 我ながらすっきりしないあくびが口の端から漏れる。 くしゃみが出そうで出ない感覚に近い。 くい。 うにゅほが俺の耳たぶをつまみ、軽く引っ張った。 「ん」 そして、自分のふとももをぽんぽんと叩く。 もにょもにょしたあくびが耳障りだから、さっさと眠れということか。 位置を調整して、横になった。 膝枕なんて久しぶりである。 俺はふとももの肉付きがすこぶる良いためか、膝枕をするばかりでされることはあまりない。 しっくりくる位置を探して、しばしもぞもぞと頭を動かす。 もものあいだに耳朶を入れると収まりが良いことに気付き、ようやく目を閉じた。 「──…………」 「──…………」 ふと気を抜きかけた瞬間、うにゅほの手が頬の下に差し入れられた。 そのまま頭を持ち上げられる。 「うお、どうした?」 「……あ、うん。ごめん。ちょっとまって」 頭の下にやわらかいものを詰められた。 体を起こして確認すると、それはビッグねむネコぬいぐるみだった。 「……?」 まあ、いいけど。 枕は幾分か高くなったが、それでも充分に心地よかった。 贅沢な昼下がりである。 小一時間ほど横になり、目を覚ました。 「……いま、何時?」 「さんじちょっとすぎ」 あ、やばい。 今日はDVDの返却日なのである。 借りるだけ借りてずっと見ていなかったDVDを、慌ててPCのトレイに挿入した。 結果として、あまり面白い映画ではなかった。 うにゅほは早々に離脱し、ソファでうとうとしていた。 やっぱりジャケ借りは駄目だなあ。
2012年10月8日(月)
「できたー!」 リビングへと繋がる扉が音を立てて開かれた。 「できたよ!」 うにゅほがとてとてと駆け寄り、薄い冊子を掲げて見せた。 「え、睡眠日誌?」 もう一ヶ月経ったのか? まじで? 内心の動揺はとりあえず置いておこう。 睡眠日誌とは、睡眠状態の記録をまとめるために医師の指示で俺が付けている日誌である。 うにゅほが試しに書いてみたいと言うので、一ヶ月ほど前に一冊だけ進呈したのだ。※1 なんだかんだ真面目に付けていたのだなあ。 日誌の姿を見なかったので、渡したことすら忘却の彼方だったけれど。 「みてみて!」 「はいはい」 睡眠日誌を受け取り、開く。 午後十一時付近に就寝し、午前六時に起床するという、健康的なグラフが四週間分並んでいた。 まあ、ある意味では予想通りである。 「どう?」 どうって言われても。 「えーと……ちゃんと続けて、偉いな」 頭など撫でてみる。 「ちがくて」 「違うのか」 「なにか、わかる?」 なるほど。 睡眠日誌を渡したときに医師が言う、あれか。 「そうだな。あー……毎日、規則正しい生活を送っているようですね」 「はい!」 「たいへん素晴らしいことです。 これからも健康的な生活を心がけてください」 どの口が言うか、と内心で自嘲する。 でも、うにゅほが喜んでくれたようなので、べつにいい。 「◯◯はどんなふうになったの?」 「えー……?」 あんまり見せたくないなあ。 「恥ずかしい」 「わたしのはみたのに」 見せたんだろ、と思ったが口にはしない。 「ほら」 引き出しを開き、俺の睡眠日誌をうにゅほに手渡す。 ぱらぱらとめくり、うにゅほが呟くように言った。 「……すごい、ねてるね」 「グラフで見ると、また凄いだろ」 「いち、に、さん──このひ、12じかんねてるよ?」 「……具合が悪かったんだろうな」 不健康な生活を赤裸々にされてしまった。 もうお婿に行けないのである。 「──…………」 無言で頭を撫でられた。
※1 2012年9月10日(月)参照
2012年10月9日(火)
「──……はあ」 運転席で財布を開き、溜息をついた。 金がない。 いつものことだが、今月は特に余裕がない。 予定外の飲み会があったことも原因のひとつだが、薬の量を調節するために通院が隔週に増えたことも大きい。 医療費が単純に倍加するわけではないが、1.5倍ほどには膨れ上がってしまう。 「本屋に寄って帰ろうと思ってたけど、今日はやめとくか……」 「えっ」 うにゅほが狼狽する。 「新刊が出てても買えないんじゃ、行っても仕方ないだろ」 「おかねないの?」 「そう、お金ないの」 「おかね、おろそう」 「無限に下ろせるわけじゃないんだよね……」 計画的に使わなければ、貯金などあっという間に尽きてしまう。 「じゃあ、じゃあ──」 うにゅほがポシェットから財布を出して、慌て気味に開いた。 「いくらほしい?」 「──…………」 うにゅほは意外と小金持ちである。 ちゃんと毎月おこづかいをもらっているし、俺と行動することが多いために出費がほとんどない。 視界の端で捉えた財布のなかにも、紙幣が幾枚も詰まっていた。 でもなあ。 「……それをもらってしまうと、俺は人間として完全にアウトになってしまうんだよ」 「よくわかんない」 「とにかく、お金はもらえません。財布を仕舞ってください」 「うん……」 「あと、他の人に同じようなこと言っちゃ駄目だぞ」 「いわないよ」 「ならいいんだけど」 気持ちだけはありがたくいただいておこう。 病院の駐車場から出て、帰途につく。 「──…………」 言葉少ななうにゅほを横目で気に掛けながら、そっと溜息混じりに告げた。 「やっぱり、本屋は寄る。金がなくても立ち読みくらいはできるもんな」 「あ……うん!」 そう言えば、ここのところ大きな本屋を訪れていなかったからな。 ずっと行きたかったのかもしれない。 もうすこし、うにゅほの胸中を察することができるようになりたいものである。
2012年10月10日(水)
「──ぶしっ!」 霧状の唾液が飛散する。 いちいち手で遮っているとべとべとになってしまうくらい、くしゃみが止まらない。 「ぶー……」 くしゃみだけではなく、鼻水も止まらない。 ねとついた生理食塩水をティッシュで拭い取りながら、ぼんやりとした頭でディスプレイに向かっていた。 時計の針は既に深夜を指している。 さっさと床についてしまおうか悩むが、ずれた生活サイクルとは言え崩したくはない。 「──…………」 むずむず。 大きいのが来る。 「ふぃ──……ぱッ、ショん! ……ぶー……」 ティッシュを二枚ドローする。 鼻の下が痛くなってきた。 「……だいじょうぶ?」 「うホぅ!」 いつの間にか、うにゅほが隣に立っていた。 作業用BGMの流れるイヤホンを外し、誤魔化すように口を開く。 「あ、悪い……起こしたか」 「うん……くしゃみ、すごいね」 「完全に鼻風邪だな。季節の変わり目はだいたいこんなもんだ」 見た目に反して体の弱い俺である。 「くるしい?」 「いや、苦しくはないな。鬱陶しいだけで」 「そうなの?」 「××はわりと丈夫だからピンと来ないかもしれないけど、本当に辛いのは咳だよ──っと」 鼻をかみ、丸めたティッシュをゴミ箱に捨てる。 燃えるゴミの日が来る前に山盛りになってしまいそうな勢いである。 「咳は、ひどいと息ができなくなるからな」 「しんじゃうよ……」 「まあ、死にそうなくらい辛いときもある。それに比べれば、鼻風邪くらいどうってことないさ」 「そっか」 「心配かけて、ごめんな」 うにゅほが首を横に振る。 「悪化しないうちに、さっさと治さないとなあ」 「はやくねないと」 「……そうだな。俺ももう寝るから、××も布団に戻りな」 「うん。あったかくしてね」 「ああ……」 温かくしたくても、毛布は両親の寝室にある押し入れのなかである。 昼間のうちに出しておけばよかった。 仕方がないので、とりあえず靴下を履いて就寝した。 いまいち微妙な感じは否めなかった。
2012年10月11日(木)
友人の恋人から贈り物が届いた。 どうして友人の恋人と荷物を送り合っているのかよくわからないが、仲介させられる友人も大変である。 包みを開くと、うにゅほ向きの品物がいくつか入っていた。 友人の恋人はうにゅほが殊の外お気に入りらしい。 「おー?」 なかでもうにゅほの目を引いたのは、ごてごてとしたフェイクパールのネックレスだった。 「おー……」 クレヨンしんちゃんみたいな声を上げながら、うにゅほがネックレスを掲げる。 ネックレスがじゃらりと音を立てた。 「気に入ったか?」 「うん……」 うにゅほの瞳が輝いている。 アクセサリーなんて、リボンバレッタやシュシュくらいしか持っていないからなあ。 なんだかんだでちゃんと女の子なのである。 「──…………」 しかし、俺にはある懸念があった。 「……着けてみるか?」 「どうしたらいいの?」 「ちょっと貸してみな」 ネックレスを検める。 「この大きさなら、頭も通るんじゃないか?」 そう言いながら、うにゅほの頭にネックレスをかぶせる。 「わ」 通った。 前後を直してあげて、一歩下がる。 「──…………」 じっ──と、うにゅほを観察する。 うにゅほはネックレスに恐る恐る手を触れながら、不安げに問いかけた。 「……にあう?」 「んー……」 似合わない。 はっきり言って、まったく似合っていない。 その姿を言葉で言い表すならば、母親のネックレスを勝手に持ち出したいたいけな少女のそれである。 あどけない顔つきにも、子供っぽい服装にも、なにひとつとして調和していない。 「んんー…………」 憂慮したとおりの事態である。 どうしよう。 うにゅほがこれを着けて出歩くのは、あまり想像したくない。 でも、喜んでいるところに水を差すのはどうか。 そもそも、俺の一存でうにゅほからオシャレの自由を奪っていいものか。 いろいろ悩んで、結論を出した。 「似合ってないな」 「え……」 うにゅほが絶句する。 「勘違いするなよ。 今は似合わないってだけだ。 もうすこし成長して、ファッションを意識するようになれば、似合う服装を選べるようになる」 「そうなの?」 たぶん。 「……それに、近いうちにプレゼントしたいものもあるんだ」 「?」 「ま、楽しみに待っててくれよ」 俺はそう告げて、うにゅほの頭を撫でた。 うにゅほはくすぐったそうにしていた。 なんとか乗り切った。
2012年10月12日(金)
今日は、伯父の経営する床屋へ行った。 実に二ヶ月ぶりの散髪となる。 ここまで野放図に伸び散らかしてしまったのは、蓬髪を帽子で隠すことを覚えてしまったせいである。 人は楽からは逃げられない。 むべなるかな。 伯父から経営難についての話などを聞きながら、耳触りの良いハサミの音を楽しむ。 うにゅほは伯母に連れて行かれた。 いつものことである。 「はい、終わり。これでいいか?」 伯父から眼鏡を受け取り、掛ける。 「おお」 久しく会っていない旧友と再会を果たしたような気分になった。 そう言えば、こんな顔だったような気がする。 髪型ひとつで印象がこうも変わるものかと思わず感心してしまう。 というか、前がひどすぎた。 金田一耕助もかくやと言うざんばらだったのだから。 「××、そろそろ帰るぞー」 「はーい」 ジャケットを羽織り、居間へと引き込まれたうにゅほを呼ぶ。 「う」 扉を開いたうにゅほが、固まった。 「? どうした」 うにゅほの視線は俺に向けられている。 振り返ってみる。 ガラス越しに、暗くなりかけた市街地が見えた。 「あの、なんでもない! なんでもない……」 うにゅほが靴を履く。 「──…………」 どうして半身で立つ。 どうして横目で見る。 「なに照れてんの?」 「てれてないです!」 たしかに、髪を切ったくらいで照れるのはおかしい。 伯母になにか言い含められたのだろうか。 「まあ、いいや。そろそろ帰──」 きびすを返すと、フォーマルなトップスに身を包んだ自分の姿が窓ガラスに映っていた。 思い出した。 うにゅほはワイルド系よりフォーマル系の服装のほうが好みなのだ。 そこに散髪したての髪型が組み合わさり、うにゅほのツボに入ったのだろう──か? 試してみる。 「そろそろ、帰ろうか」 真面目くさった顔をして、うにゅほの手を取った。 「ぴっ」 「ぴ?」 「その──かえろう、かえろう……」 うにゅほの視線が宙をさまよう。 面白い。 「お前ら、いちゃつくんなら家でやれよ」 伯父が呆れたように言った。
2012年10月13日(土)
時間がぽんと空いたので、PSVitaを起動した。 日本一ソフトウェアのロゴとタイトル画面が順に表示される。 「……ゲーム?」 うにゅほがぴくりと反応する。 「飛び出さないぞ」 うにゅほは俺が3DSでゲームをしているところを隣で見るのが好きなのだ。 立体視が楽しくて仕方がないらしい。 ものすごくプレイしにくいが、楽しそうだからいい。 「なんだ……」 うにゅほが浮かせかけた腰をそっと下ろす。 「なんのゲーム?」 「ノベルゲーム──つってもわからないよな。あー……」 「?」 天井を仰ぎ、言葉を探す。 「……紙芝居?」 「なにそれ」 うにゅほが小首をかしげる。 ああ、俺は紙芝居を知らない世代の少女と一緒に暮らしているのか。 一気に老け込んだ気がした。 「まあ、読んで進めるだけのゲームだよ」 「それ、ゲームなの?」 「ゲームなのかなあ……」 ウイルスが生物か否か、という議論くらい難しい。 「まあいいや。さっさとクリアしちゃおう」 弟が売りたがっているし。 「みじかいの?」 「いや──まあ短いは短いけど、××が寝たあとにこっそりプレイしてたからな」 「えー……」 不満そうである。 「ね、どんなないよう?」 「××の嫌いなやつだよ。オカルト、宇宙人、超常現象」 「……こわいやつ?」 「こわ──くは、ないんじゃないか」 呟くように言葉を漏らしながら、ふと脳裏をよぎることがあった。 うにゅほはアニメやドラマなどの殺人シーンは苦手である。 では、怪談はどうか。 確かめたことはなかった気がする。 「××、ちょっと来て」 「?」 うにゅほに席を譲り、Softalkに怪談を朗読させている動画を開いた。 「なにー……?」 「いや、ちょっとどうかと思って。駄目だったらイヤホン外していいから」 不安そうなうにゅほを尻目に、再生ボタンをクリックした。 「──…………」 数分後、動画の再生が終わる。 「面白かった?」 「おもしろ──くは、ない」 「怖かった?」 「こわ──くも、ない」 「じゃあ、どうだった?」 「よくわかんない……」 視覚的な恐怖に弱いだけなのかもしれない。 それでは、無感情なテキスト読み上げソフトではなく、稲川淳二の語る怪談ならどうだろうか。 そこまで考えて、ふと我に返った。 怖がらせようとしてどうする。 「えーと、まあ、あれだ。ゲームしよう。どんなのか見てみるか?」 「みる」 うにゅほと並んでソファに座り、しばらく読み進めていた。
2012年10月14日(日)
うららかな陽気に誘われてふらふらとうにゅほの寝床へ吸い寄せられていると、なにかにつまづいた。 手に取る。 図書館で借りた本だった。 挟んであったレシートを開き、さっと青ざめる。 返却期限は既に過ぎ去り、我々はただ未来を見つめ歩き続けるほかないのだ。 思わず現実逃避をしてしまった。 借りるだけ借りて読んだら忘れるのでは、どんぐりを埋めた場所を忘れてしまうリスと大差ないではないか。 そうか? 混乱している。 まあ、実のところ長期延滞をしてしまったわけではない。 ほんの数日である。 しかし、図書館を頻繁に利用する身としては、マナーを守って楽しいライブラリーライフを送りたいのである。 「図書館行くけど、行くか?」 「いくー」 うにゅほに声を掛けて、さっと返却してくることにした。 「──…………」 さっと返却し、帰宅した。 本も見ず、寄り道もしなかった。 「──…………」 「そうむくれるなって」 あまりの直帰ぶりに、うにゅほの機嫌を軽く損ねてしまった。 いつものドライブを期待していたらしい。 「いや、なんか眠くてさ──……ぁふ」 思わずあくびが漏れる。 「……ねむいの?」 「わりと、眠い。だから、さっと行ってさっと帰ってぐうと寝たかったんだよ」 「そっか……」 なら誘うなという話ではあるが、それはそれでへそを曲げるので取り扱いが難しい。 「じゃあ、ねる?」 うにゅほが自分のふとももを、軽く叩いた。 嬉しい。 嬉しいが、わりと本格的な眠気に襲われつつあるので、正直言うと普通に寝たい。 でも空気的に断れない。 「じゃあ……」 そっと、うにゅほのふとももに頭を乗せる。 やわらかたくて心地良い。 あと、妙な達成感と充足感がある。 でも熟睡はできそうにない。 ちょっと動くし。 贅沢な葛藤である。 「──あれ、ぬいぐるみはいいの?」 先週、同じように膝枕をしてもらったときは、頭の下にぬいぐるみを差し込まれたのだ。※1 「うん、きょうはいいの」 「……なんで?」 「いいの!」 よくわからないが、まあいい。 しばらくそうしていると、やがて睡魔が訪れた。 半覚醒状態のままうとうとと午睡を楽しんでいると、いつの間にか二時間近く経過していた。 「──おきた?」 「あ、うん……足しびれてないか?」 「だいじょぶだけど──おしっこ!」 「うお、悪い!」 慌てて頭を上げる。 「もれるー!」 小走りでトイレへ向かううにゅほを見送りながら、申し訳ない気分になった。 起こしてくれてもよかったのになあ。
※1 2012年10月7日(日)参照
2012年10月15日(月)
昨日のおわびという名目で、うにゅほを外へ連れ出した。 小樽まで足を伸ばしてたっぷりと時間を稼ぎ、日没を大きく過ぎたころに帰宅した。 「ただいまー」 うにゅほが階段を上りきる。 その瞬間、
「ハッピーバースデー!」
四人の声が重なった。 「……?」 きょとんとするうにゅほの肩に手を掛け、告げる。 「誕生日おめでとう」 「お、おう……たんじょうび?」 「今日は、××が家に来てちょうど一年だろ」 「あ」 「忘れてたな、お前……」 「それは──うん、あ、でも、たんじょうびだっけ?」 「誕生日だよ」 法的にも疑いの余地はない。 ただし、うにゅほの戸籍上における年齢について疑問を差し挟む余地は大いにある。 まあ、その点を追求してもアホウドリが見えるばかりなので、やめよう。 「10月15日は、××の誕生日。 これから先は、ずっとそうだ。 だから、忘れるなよ?」 「──…………」 うにゅほは、しっかりと頷いた。 「おーい、誕生日プレゼントいらねーのかー」 「いるいる!」 うにゅほがきびすを返し、父親の元へと駆け寄る。 父親と弟からのプレゼントは、可愛らしいダッフルコートをはじめとした冬物一式だった。 これはちょうどいい。 前年度は雪が解けるまで俺のジャケットを羽織り続けていたので、冬が来る前に買わなければと思っていたのだ。 「まだ十月なのに、冬物なんて売ってるんだな」 隣の弟に囁くと、 「知らないけど」 と、にべもなかった。 「いや、買ったんだろ? あれ」 「春先の冬物処分市でな」 今日までずっと仕舞っておいたらしい。 抜け目がないというか。 母親からのプレゼントは、この一言だった。 「それじゃあ、今日から包丁を使ってもいいことにします!」 「わあ!」 「ただし、私の前でだけね」 「はい!」 このために今日まで包丁の使用を禁止していたとするなら、母親は俺が思っていた以上にしたたかである。 金も使わず、手間もかけず、それでいてこの反応なのだから、男二人が浮かばれない。 「ほれ、おこづかい」 祖母からのプレゼントは、樋口一葉だった。 生々しいような、おばあちゃん補正でそうでもないような。 「──それじゃ、最後は俺だな」 「うん!」 うにゅほが期待に潤んだ瞳で俺を見上げた。 ポニーテールの髪先が犬のしっぽだったなら、空も飛べそうなほど振り回されていてもおかしくはない。 「……えーと、後ろ向いてくれるか」 「? うん」 うにゅほのうなじを視界に収めながら、自分の首の後ろに手を回した。 琥珀のペンダントを外す。 そして、それをうにゅほに着けた。 「あ、これ──」 「これなら、どんな服装でもだいたい合うからな。オシャレ初心者向きだよ」 「◯◯、パジャマのときもつけてるもんね」 「……それは外し忘れてるんだよ」 「──…………」 うにゅほが、首元を飾る琥珀のペンダントヘッドを両手で包み込んだ。 「ありがと。たいせつに、する」 「……あー、なんだ、その」 かゆくもない頬を指先で掻いて、視線を虚空にさまよわせる。 そして、うにゅほの頭を照れ隠しに撫でた。 「さ、食べよう。ケーキもあるぞ!」 「うん!」 母親の作ったパーティ料理を口に放り込みながら、うにゅほを見ていた。 うにゅほは楽しそうだった。 一年前の今日、冷たい雨に濡れながら公園のベンチにぼんやりと座っていた少女を、すこしは幸せにできたのだろうか。 うにゅほが笑顔なら、俺は嬉しい。 それでいいか、と思った。
2012年10月16日(火)
うにゅほが掃除機を止めて、部屋の隅にしゃがみ込んだ。 「どした?」 ダスキンで本棚を掃除しながら、問う。 「ホコリって、どこからくるの?」 振り向いたうにゅほの指先には、ホコリがつままれていた。 後でしっかりと手を洗わせよう。 「あー……そうだな、ホコリか。ホコリね」 頭のなかで言葉をまとめ、口を開いた。 「日光が差した部屋で、なにかがキラキラしてるのって見たことないか?」 「キラキラ?」 「そう。なんか、糸くずみたいのが──」 「あ、ある!」 「普段見えないだけで、空気中にはそういった小さなゴミがたくさん浮いてるんだ」 「じゃあ、いまも?」 「今も」 「だいじょうぶなの?」 うにゅほが軽く口を押さえる。 「ハウスダストって言ってな。人によってはアレルギーが出るけど、それくらいだよ」 一般家庭では、と但し書きがつくけれど。 「それが、時間をかけてゆっくりと積もっていったのが、そのホコリというわけだ」 「へー……」 うにゅほがしげしげとホコリを眺める。 説明になっただろうか。 「それじゃ、このけは?」 「──…………」 うにゅほの指先に顔を近づける。 ホコリのなかに数本のちぢれ毛が混入していた。 「……それは、たぶん俺のスネから抜けたやつだよ」 短いので、陰毛ではないはずだ。 「ひっぱらなくてもぬけるの?」 「××の髪の毛だってよく落ちてるだろ」 「そういうもの?」 「そういうもの」 うにゅほが納得したので、掃除を再開した。 後で一緒に手を洗った。
2012年10月17日(水)
「……きのう、どうしたの?」 うにゅほが躊躇いがちに口を開いた。 「昨日って?」 「きのう、すごいトイレいってたから」 「トイレ……──あっ」 思い出した。 「いや、なんか寝ようとしたら尿意が気になってさ」 「にょーい?」 「おしっこしたい感じのことだよ」 「あー」 うにゅほがうんうんと頷く。 「じゃ、ねるまえにみずとかのんだの?」 「そうでもないかな」 「おしっこしたかったんでしょ?」 「そういうわけでもないんだけど……」 「……?」 うにゅほの頭上にクエスチョンマークが浮かんで消える。 「だから、さほど小便したいわけでもないのに、気になって眠れなかったんだよ」 「したくないのに、きになるの?」 「ぬぅ……なんて言ったらいいかな」 言葉による意思の伝達は不完全だ。 感覚をダイレクトに伝えることができればいいのだが、そのためにはテクノロジーの発達を待たねばならない。 まあテクノロジーを得たところで伝達するものは尿意に過ぎないのだから、科学者もさぞ肩を落とすことだろうけれど。 「つまり、ちょっとしか小便が溜まってないのに、それが気になって気になって仕方なかったわけだ」 「ちょっとしか?」 「ちょっとしか」 「ちょっとだけ?」 「ちょっとだけ」 「……なんで?」 むしろ俺が聞きたい。 「ノイローゼの一種なのかなあ……」 「のいろーぜ?」 しまった、どちて坊やスパイラルだ! どちて坊やスパイラルとは、説明をしているあいだに新たな疑問が立ち現れて、質問が延々と続くことである! ヒマだからべつにいいんだけどさ。 尿意の神よ、どうか今夜はゆっくり寝かせてくださいますよう。
2012年10月18日(木)
夕方近く、ほんの半刻ほど小雨が降った。 窓から手を出して雨が止んだことを確認し、俺とうにゅほは外へ出た。 犬の散歩へ行くのである。 午後五時を回ると、既に夜だ。 犬小屋は街灯から離れており、薄暗く手元も見えない。 愛犬との付き合いも、今年で十六年だ。 リードの付け替えなど、目を閉じていてもできる。 リードの持ち手をうにゅほに渡し、街路へ出た。 愛犬は歩くのも億劫な様子で、以前のように先導することもなくなった。 セルフ首吊りとしか表現のすべがないほど強烈な引っ張りを見せたかつての姿は、もう見られない。 急にくたびれてしまった。 終わりが見えてきたのだろう。 家の前の児童公園を一周するころには、愛犬の歩く速度は目に見えて落ちている。 うにゅほも愛犬に合わせて歩く。 背後を気にしながら、ゆっくりと歩く。 うにゅほがなにを思っているのか、尋ねたことはない。 なんとなく、無言で歩く。 帰宅して、物置にある冷蔵庫から犬用の缶詰を取り出す。 それをエサ皿に開け、乾燥タイプのエサを一掴み入れてスプーンで混ぜるだけでいい。 簡単なものだ。 俺は水道の傍に干してあったエサ皿を手に取ると、 「──……?」 小首をかしげた。 エサ皿に、なにかが貼り付いている。 それがなんであるか理解した瞬間、 「──……ぁ……」 絶句した。 正確には、叫ぼうとして声が出なかった。 「どうしたの?」 犬を撫でる手を止め、うにゅほが立ち上がる。 「ナメ……ナメ……──」 「なめなめ?」 「ナメクジ!」 しかも二匹。 大根もおろせるような鳥肌が全身の皮膚を侵食する。 軟体系は駄目なのだ。 より正確には、軟体系も駄目なのだ。 道を這っているぶんには大して気にもならないが、ここまで近づいてしまうと思った以上に駄目だった。 「これ、なめくじ?」 「ナメクジ……です……」 「はじめてみた」 うにゅほがひょいとナメクジを掴む。 「ぎゃあ!」 「うわ、ねとねとしてる」 「捨てる! 投げる!」 「? はい」 ナメクジが花壇に消えていく。 脅威が半減した。 「──…………」 この段階に至り、ようやく自分の情けなさに頭が重くなってきた。 「……よし!」 ぴんっ。 もう一匹のナメクジを、恐る恐る指で弾き飛ばす。 「あ、しおかけたかった」 「今度な……」 愛犬にエサをあげたあと、二人でしっかりと手を洗った。 ナメクジには寄生虫がいると聞くし。
2012年10月19日(金)
歯ブラシの交換時期は、どれくらいが適正なのだろうか。 検索してみると、一ヶ月が目安であるらしい。 たとえ毛先が広がっていなくとも、毛に付着した雑菌が繁殖し不衛生であるため、月に一度は交換すべきなのだとか。 そういえば、今の歯ブラシは随分と使い込んでいる気がする。 うにゅほが間違って購入した、高くて大きくて毛先まで漆黒の歯ブラシである。※1 レジに通したとき、あまりの値段に思わず背後を確認したほどの逸品だけあって、ちっとも毛先が広がらない。 あまりに広がらないから、交換という単語が脳裏をよぎることもない。 はて、歯ブラシを新調したのはいつのことだったろうか。 もしかすると、三ヶ月くらいは経っているかもしれない。 そんなまさかと笑いながら日記を手繰ると、五ヶ月前だった。 「──…………」 口臭を確認しつつ、歯ブラシを買いに行くことにした。 「どんなのにするの?」 ドラッグストアの歯ブラシ売り場へと向かう途中、うにゅほが尋ねた。 「今回は、普通のにしよう。普通の」 高い歯ブラシは、丈夫だ。 しかし、すこしはくたびれてくれないと、気づいたときには半年近く経っていることになりかねない。 なりかねない、というか、なった。 「ふつうのー……?」 不満そうである。 「いや、だって前のは歯ブラシ立てにも入らなかっただろ」 あまりの大きさに、ワンカップ大関のビンを調達する羽目になった記憶がある。 「すぐに交換するんだから、百円くらいのでいいんだよ」 「じゃあ、わたしがきめてもいい?」 「……高くないのなら」 「やた!」 うにゅほは五分ほどの熟慮の末、くの字型に屈曲した歯ブラシをふたつ手に取った。 物珍しさに勝てなかったらしい。 「はぶらし、わたしもかえていい?」 「前に変えたのは?」 「わかんない。でも、けがしんでる」 薄毛の方々がドキッとするような表現はいかがなものか。 「いいけど、同じ色は駄目だぞ」 「えー」 「見分けつかないだろ」 相談の結果、俺がブルー、うにゅほがグリーンということになった。 帰宅して古い歯ブラシに別れを告げ、新しい歯ブラシを歯ブラシ立てに入れることにした。 「──…………」 折れ曲がったデザインのため、入らなかった。 ワンカップ大関のビンが、俺を使えと無言で主張していた。 俺とうにゅほの歯ブラシが仲良く寄り添っているのはいいが、どうにもオッサン臭い光景であることは否めない。
※1 2012年5月24日(木)参照
2012年10月20日(土)
先日、iPhone4の二年契約が満了した。 あれほどサクサクだった動作も、今や老齢を感じさせるほどの鈍さである。 なるほど、寿命と考えれば二年という契約期間も頷けるというものだ。 契約が自動更新されないうちに、さっさと変えてしまうことにした。 iPhone5にすると家族に告げたところ、祖母を除く家族全員が我も我もと名乗りを上げた。 使いこなせるかは疑問だが、そうしたいと言うのならわざわざ止めることもない。 ただし、うにゅほ以外。 うにゅほの携帯は新規契約してからまだ一年も経っていないし、充電もしないから万年電池切れだし、そもそも持ち歩かないのだから仕方がない。 これで新しい携帯を買い与えるのは、さすがに甘やかしすぎである。 「──…………」 当然、むくれる。 仲間はずれにするつもりはないが、そうなってしまっていることは事実である。 お揃いであることに並々ならぬ執着を持つうにゅほであれば尚更だ。 しかし、うにゅほは決して自分勝手ではない。 それどころか、むしろ控えめでつつましやかな性格である。 むくれてはいるが、それが自分のわがままであることを自覚しているのだと思う。 「××!」 家族に背を向けて自室へ戻ろうとするうにゅほを呼び止めた。 「俺の携帯は、二人で使えばいいよ」 「……いいの?」 「俺も、そんな頻繁に使うほうじゃないしなあ。それくらいでちょうどいいんじゃないか」 怪しいデータはPCにしか入っていないし。 「みんなでiPhone用のケースを買いに行くらしいから、××が選んでくれよ」 「うん……」 うにゅほの瞳が潤んでいた。 俺はもう駄目だと思った。 その後、家族全員でヤマダ電機へ行った。 うにゅほはピンク色のグラデーションのついたクリアケースを選んだ。 ピンクはどうかと思ったが、つけてみると意外に悪くなかった。 iPhone5の処理速度にひと通り戦慄したあと、巷で話題のなめこ栽培アプリをダウンロードしてうにゅほに手渡した。 チュートリアルが進むたび、ソファと俺とを往復するのが微笑ましかった。 面白いのだろうか。 そういえば、ゲームらしいゲームをするのは初めてだったかもしれない。
2012年10月21日(日)
寒さに打ち震えながら、両手を擦り合わせる。 北海道の秋は短い。 短いどころか、ほとんどないとさえ言える。 4月から6月までが春、7月から9月中旬までが夏、10月の終わりまでが秋で、残りはすべて冬である。 日本ではなくロシア領と言われたほうがしっくりくる。 洗濯物置き場と化しているストーブを見て、ふと誘惑に駆られた。 いやいやいや。 11月までは、せめて11月までは我慢しよう。 「……寒くない?」 「ん?」 「今日、寒くないかって」 「はだざむいねえ」 俺、昨夜は寒くて寝付けなかったんだけど。 よく見ると、うにゅほはけっこうな薄着だった。 生足である。 これが若さか。 寒いなか足を出していると太くなる──あとでそう耳打ちしておこう。 「そうだ、毛布を出そう!」 高らかに宣言した。 「おー」 なんか拍手された。 毛布は、両親の寝室にある押し入れに仕舞われている。 布団のあいだに腕を突っ込むと、三枚ほど出てきた。 たぶん在庫はまだあるだろう。 うにゅほに一枚渡し、自分のぶんを一枚確保して、最後の一枚を押し入れに戻そうとした。 「しまっちゃうの?」 「あ、使いたかったか?」 首を振る。 「◯◯、にまいつかえばいいのに」 「……あー」 その発想はなかった。 しかし、俺の寝台はソファである。 二枚の毛布を足して計四枚はどうなのだろう。 ただでさえ、ずり落ちやすいのに。 試してみることにした。 「──…………」 毛布を挟んだ四枚の布団の下に全身を滑り込ませる。 「どう?」 「……重い…………」 厚手の毛布なので、滅茶苦茶重い。 羽毛布団では軽すぎて眠れないという話を聞いたことがあるけれど、その逆も然りであると思い知らされた。 当たり前である。 最後の一枚は、やはり押し入れに戻すことにした。 まあ誰か使うだろう。
2012年10月22日(月)
なにをしたかよく思い出せない日、というものは、ままある。 当然ながら、まったくなにもしていないわけではない。 文章としてまとめるには、いささか取り留めのない一日と表現すべきかもしれない。 母親と弟が母方の実家へ行き、ふたりきりの午後だった。 俺は、最近また始めたelonaをぼんやりとプレイし、うにゅほはiPhone5の画面をじっと睨みつけていた。 なめこが生えるさまを観察しているのだ。 そして、生え揃ったところで一気に収穫する。 それが気持ちいいらしい。 犬が自分の尾を追いかけてくるくる回るような不毛さだが、やっていることはこちらも同じだ。 人生とは、壮大な暇潰しである。 誰が言ったか思い出せないが、至言である。 夕刻を迎え、部屋に小バエが出没した。 自室で越冬はさせまいと、キンチョールを手に立ち上がる。 キンチョールを数回ほど噴霧し、小バエのライフゲージが半分以下になったあたりで、ふと姿を見失った。 ぶぶぶと音はする。 「──◯◯、ここ!」 うにゅほが箪笥を指さした。 耳を澄ませる。 たしかにここだ。 箪笥の裏の僅かな隙間に、キンチョールを十秒ほど噴霧した。 反対側から白煙が立ち上る。 ふう、と汗を拭うふりをしたあと、うにゅほとハイタッチを交わした。 犬の散歩を終え、今週のジャンプを求めてコンビニへ行った。 ウチカフェスイーツに芋ようかんが並んでいるのを見て、気づけばふたつ購入していた。 ふたり並んで口に放り込み、うにゅほと顔を見合わせた。 「うまい!」 「うまい!!」 まるでさつまいもを潰し、砂糖を混ぜて成形したような。 原材料を見ると、さつまいもと砂糖だけだった。 うまいけど、これは芋ようかんなのか? ようかんとはいったい。 夕飯はつぼ鯛だった。 脂が乗っていて美味だったが、相変わらずうまく食べられない。 隣を見ると、うにゅほの指もべたべただった。 外で焼き魚は食べまい。 食後に、母親たちがおみやげに買ってきた冷凍のプリンとチーズケーキを食べた。 これもまた美味だった。 チーズケーキの固さに、うにゅほの塗り箸が折れそうになっていたので、慌てて俺が使っていたティースプーンを手渡した。 ちなみに、弟はプラスチック製のスプーンを折っていた。 うまいが、固い。 というかちゃんと解凍されていなかったのだろう。 つれづれなるままに筆を走らせたが、なんか食べてばっかりである。 まあ、そういう日もある。
2012年10月23日(火)
単行本を開きながら、うにゅほがうつらうつらしていた。 「眠いのか?」 「!」 びくっ、と顔を上げる。 「眠いなら、すこし横になればいいと思うけど」 「ちがうよ?」 「眠くないの?」 「ねむいけど……」 そう言って、あくびをひとつ。 「××が眠そうにしてるなんて、珍しいな」 「うん……──あのね」 とっておきの秘密を打ち明けるように、うにゅほが声をひそめた。 他に誰もいないが、気分だろう。 「ハエの、ゆうれいがいる」 「ハエの幽霊?」 またけったいなことを。 「きのう、ハエころしたでしょ。 ねてるとき、まくらのしたからハエのおとがしたの」 「それで寝不足なのか」 「うん」 「仕留め損ねたかな……」 「ゆうれい!」 幽霊らしい。 しかし、そもそもハエの霊って生きているハエとなんの違いがあるんだ。 二度は殺せないということか? うにゅほはやがて睡魔に敗北し、抵抗の証である面白い寝相を衆目というか俺に晒していた。 口がぽかんと開いている。 指を突っ込みたい衝動をかろうじて抑えているうちに、犬の散歩の時刻となった。 窓から外を見ると、雨が降っていた。 家が軋んでいる。 風も強い。 わざわざうにゅほを起こすこともあるまいと、一人で犬小屋へ向かった。 ひーひー言いながら濡れネズミになって帰宅すると、うにゅほが玄関で待っていた。 「おいてかないで! しんぱいするでしょ!」 俺はべつに、台風の日に田んぼの様子を見に行ったわけではないのだが。 目を覚ましたとき一人だったことが、心細かったのだろう。 ごめんごめんと頭を撫でて、靴を脱いだ。 二階へ上がると、リビングにハエがいた。 野郎やっぱ生きてやがった。
2012年10月24日(水)
ふりかけにハマっている。 炭水化物の塊である白米は、低脂質ダイエットにおける主食として適しているのだ。 パンじゃ駄目なのかと疑問に思われる読者諸兄もおられるかもしれないが、パンじゃ駄目なのである。 あれはバターとか入ってるからね。 閑話休題。 卵かけごはんなどを駆使して飽きが来ないよう工夫をしていたが、やはりごはんだけでは物寂しい。 あとはサラダくらいしかないが、おかずとしての決定力に欠ける。 そこでふりかけの登場だ。 ごはんと添い遂げるためだけに作り上げられたふりかけは、まるでのび太とドラえもんのように相性がいい。 各社各様の味が楽しめることも魅力のひとつである。 とりあえずスーパーで棚の端から大人買いし、日替わりでいろんな味を試してみることにした。 「これなにあじ?」 うにゅほが、俺の手にしている赤いパッケージを指さした。 「七味唐辛子」 「からいの?」 「辛いってほどでも……」 紅蓮に染まったごはんを見て、思う。 「まあ、辛そうではあるよな」 でも、丸美屋のすきやきふりかけも見た目は赤いし。 「一口食べてみるか?」 「いいの?」 「ほれ、あーん」 うにゅほの口に箸ごと白米を突っ込む。 「んむ」 しばらく咀嚼して、目を丸くした。 「──……ッ」 洗面所に走り、水道水を思い切りあおる。 「からい!」 「……そんなにかあ?」 辛くないことで有名な吉野家の七味唐辛子に塩味をつけただけのようなふりかけなのだが。 それとも、俺の味蕾が死んでいるのか? 「うそつきー……」 「辛いときは、牛乳飲むといいらしいぞ」 「ほんと?」 「これはほんと」 うにゅほが牛乳をちびちびと舐めるのを横目に、俺は丸美屋の味道楽を手に取った。 七味唐辛子ふりかけは、正直微妙である。 「うう……」 うにゅほが水腹をさする。 水でおなかがいっぱいなら、牛乳をなみなみ注がなければいいのに。 「牛乳、ちょっと飲ませて」 「あ、うん」 俺はコップを受け取ると、中身を半分ほど飲み下した。
2012年10月25日(木)
「──…………」 じー。 「──…………」 じー。 「──…………」 じー。 ひゅひゅひゅひゅーん、ぽぽぽぽぽぽぽ(なめこ収穫音) 「──……なに?」 うにゅほがじっと見つめてくる。 正直、落ち着かない。 たったひとりの視線がどれほどの重圧を与えうるか、身を持って体験している。 「んー……」 小首をかしげ、うにゅほは答えない。 なんなんだろう。 なにかしたか、俺? いや、うにゅほの視線は責めるようなものではない──気がする。 かと言って、好いた腫れたの思春期街道驀進中なそれでもない──はずだ。 感覚的に喩えると、母親に抱かれている赤ん坊に意味もなくじっと見つめられているような、えらいイノセントな感じである。 猫がなにもいない天井を見上げているときのような、と言い換えてもいい。 「……なんか、気になる?」 「んー?」 「いや、んー?じゃなくて」 「んー↓」 「いや、んー↓でもなくて──……いいや」 あきらめた。 まあ、言わないのであれば言いたくないのだろう。 言いたくなれば、言うはずだ。 いろいろなものを完全に丸投げして、手元にあったサナギさん6巻を開いた。 犬の散歩を終えたあと、久方ぶりにゲオへ行った。 ディーふらぐ!やリューシカの新刊を購入し、ホクホク顔で家路についた。 「──……◯◯?」 帰りの車中、うにゅほがためらいがちに口を開いた。 「まえば、ノリついてるよ」 「え、マジ?」 バックミラーで確認しようとして、気がついた。 今、夜じゃん。 前歯の海苔なんて見えないじゃん。 「えーと……いつから?」 「あさから?」 あの視線はそういうことか! 「言えよ! 言ってくれよ! すぐに、その場で、疾く疾く疾く!」 「なんか、つけてるのかとおもって……」 「前衛的だな、ははは!」 もはや笑うしかない。 「まあ、その……あれだ。そういうときは言ってくれ、頼むから」 「わかった」 鏡を見るときは、寝癖ばかりを気にするのではなく、クワッと歯も剥き出して確認することにしようと思った。
2012年10月26日(金)
「車洗っといてね!」 そう言い残し、母親は姿を消した。 恐らく、友人と外食を楽しんでいるのだろう。 優雅なものである。 残された俺はと言えば、ひとり途方に暮れていた。 洗車など、何年ぶりのことだろう。 我が子より愛車のメンテナンスに時間を割いてきた父親が、ずっとひとりで行なってきた仕事である。 やり方がさっぱりわからない。 いや、水をぶっかけて汚れを落とし、乾拭きをすればいいのはわかる。 しかし、どの道具を使えばいいかわからない。 「……困った」 愛車のムーヴコンテの前で、腕を組み呟いた。 「なにが?」 うにゅほが答える。 「なにもかもがわからない」 自分が生きている意味さえもわからない。 思考がスパイラルを起こす前に、うにゅほが口を開いた。 「わたし、あらったことあるよ」 言われてみれば、そうだ。 日曜の午後などに、うにゅほは父親の洗車を手伝っているではないか。 父親がうにゅほにやたらと甘いのは、そのあたりが関係しているような気がする。 「うーとね……」 うにゅほが物置から、持ち手のついたスポンジを取り出した。 「みずをかけて、これであらう」 左手の青いクロスを掲げる。 「これで、ふく」 シンプルである。 「ワックスとかは?」 そこまで求められても困るが。 「ワックスは、かかってるからだいじょうぶ」 「そっか」 「わたしがあらうから、◯◯はふいてね」 なんと頼りになることだろう。 うにゅほと一年暮らしてきて、ここまで心強いのは初めてではあるまいか。 「とどかないから、うえはあらってね」 そうでもないか? ともあれ、うにゅほのおかげで滞りなく洗車を終えることができた。 なにか礼をしたいが、特に思いつかなかった。 仕方ないので、肩を揉んでみた。 「お客さん、凝ってませんね……」 やわやわである。 「おきゃくさんは、こってますねー」 逆に揉まれた。 まあいいか。
2012年10月27日(土)
糖分は、炭水化物である。 したがって、白米を食べるのも、台所に忍び込んでそっと砂糖を舐めるのも、栄養学的には大差ない。 それが奇行であろうと、栄養学的には大差ない。 便利な言葉だ。 つまりダイエットに際し甘味を断つ必要はないのである。 ただし、洋菓子には多量の脂質が含まれているので、和菓子に限る。 和菓子、いいじゃない。 祖母を病院へと送り届けた帰り、近所のコンビニに寄ってお茶と和菓子を購入した。 すべての甘いものには牛乳が合うよ教団の要職に就いている俺ではあるが、牛乳の成分表示を見てしまっては仕方がない。 俺は豆大福を、うにゅほはウチカフェスイーツの芋ようかんを選び、車内に戻った。 最近は、よく車内でものを食べる。 ゴミを持ち帰らずに済むのが、なんとなく気軽でいい。 「あ、スプーンない……」 うにゅほがビニール袋を探り、嘆いた。 「もらってこようか?」 「うーん……」 じっと考え込んだあと、首を振った。 「いい、てでたべる」 「そう? まあ、いいならいいけど」 考えてみれば、豆大福だって素手で掴んで食べるのだ。 まあ芋ようかんはちょっとべたべたするかもしれないけど。 「お茶、開けとくよ」 おーいお茶濃い味のキャップをひねり、運転席と助手席のあいだにあるドリンクホルダーにペットボトルを置いた。 和菓子ひとつでお茶500mlはさすがに多いので、ふたりで回し飲みをすることにしている。 「──…………」 豆大福の包装を解き、その柔肌を露出させる。 小麦粉の付着したその肢体は、しっとりとして重みがあり、ひどく柔らかい。 これで甘くて豆が入っているというのだから、官能的ですらある。 豆大福を口に入れ、引っ張る。 中身を露出させながら、大福がうにょんと伸びた。 ちゃんと前歯で噛み切らなければ、こうなる。 「──…………」 うにゅほが芋ようかんを手にしたまま、こちらをじっと見つめていた。 嚥下し、口を開く。 「どうした?」 「だいふく、たべたい」 「伸びちゃったけど……」 「たべたい」 いや、いいけど。 大福が伸びるさまを見て、なんだか急に食べたくなったらしい。 気持ちはわかる。 半分ずつ食べて、豆大福と芋ようかんを交換した。 ウチカフェスイーツの芋ようかんは、相変わらず美味だった。 コンビニってすごい。
2012年10月28日(日)
朝起きると、寝癖がついていた。 誰にでもあることだ。 俺は人よりもすこしだけ髪の毛が硬いため、すこしだけ寝癖がつきやすく、すこしだけ直りにくい。 シャワーを浴びる必要のある難治性のものも珍しくはない。 なので、人前に出る予定のない日は、けっこう放置している。 「ねぐせついてるよー」 パソコンチェアに腰掛けた俺の髪の毛を、うにゅほが手で押さえる。 「ぴょん、ぴょん」 うにゅほが妙な擬態語を唱えた。 たぶん、撫でつけた寝癖が跳ねて元に戻るさまを表現しているのだと思う。 「なおらないねえ」 「だから、直すのめんどくさいんだよねえ」 腰に届かんばかりのロングヘアを毎朝手入れしているうにゅほからすれば、なに言ってんだこいつみたいな話かもしれない。 でも、めんどくさいもんはめんどくさいのである。 そもそも、怒髪でもないのに天を衝くんじゃない。 そういうのはスーパーサイヤ人にでもまかせておけばいいのだ。 「あっ」 俺の頭を両手で掻き回していたうにゅほが、驚いたような声を上げた。 「どうかした?」 「あたま、へこんでる」 「えっ?」 言われて頭部に手を伸ばす。 「どこ?」 「ここ」 うにゅほに手を導かれて、右後頭部に触れた。 「──……へこんでる……」 しかも、けっこう深い。 えぐれている、と言い換えてもいい。 「なんだこれ……」 我慢のできない子供の前に飾られたリンゴかなにかか俺は。 「……だいじょぶ?」 「いや、単に頭の形が悪いだけだと思うけど……」 いくら見えないところとは言え、二十数年間も気づかないとは我ながら間抜けとしか言いようがない。 うにゅほがいなければ、その事実を知る前に寿命が尽きていたかもしれない。 「おかーさーん! ◯◯のあたま、へこんでる!」 うにゅほが母親を呼ぶ。 「なに?」 母親が億劫な様子で顔を出した。 「◯◯のあたま、へこんでる」 「頭……? ああ、後ろのほうでしょ」 なんで知ってるんだ。 「子供のときは、形も良かったのにねー」 いや、だから何故知っている。 「中学のときまでスポーツ刈りだったでしょ?」 俺とうにゅほは顔を見合わせた。 母親が偉大なのか、見てわかるほどへこんでいるのか、そのどちらかである。
2012年10月29日(月)
うにゅほとふたり、珍しくリビングでくつろいでいると、不意に異臭を感じた。 「……くさい」 うにゅほが鼻を押さえ、呟く。 「なんの臭いだ、これ」 「なんか、すっぱいよ?」 「すっぱい?」 すんすんと鼻を鳴らしてみるが、よくわからない。 うにゅほは俺より嗅覚が鋭敏である。 そのうにゅほが言うのだから、なんだか知らんがとにかくすっぱいのだろう。 異臭はどうやら階下から立ち上ってきているらしい。 「──…………」 視線で互いの意向を確認し、俺とうにゅほは一階へ下りてみることにした。 一階は、臭いがより濃かった。 悪臭というほどではないが、すこし鼻につく。 「くさいー」 嫌そうに目を細めているあたり、うにゅほにとっては結構な臭気なのかもしれないが。 台所へ行くと、祖母がなにかを煮ていた。 「婆ちゃん、なんか知らないけど換気扇回してる?」 「あっ」 老人のうっかりは洒落にならない。 「おばあちゃん、なににてるの?」 うにゅほが、鼻をつまみながら鍋を覗く。 「ああ、菊だよ」 「きく?」 「ほら、花畑に生えてたろう。あれを煮てるんだよ」 菊と言えば、食用にもなる花だ。 刺身のつまとして添えられていることも多いが、食べたことはない。 「へえ、菊って煮るとこんな臭いするんだ」 花を煮たことなんてないから、初めて知った。 「そりゃあ、酢を入れてるからな」 「入れてるのか……」 そりゃそうだ。 いくら花が香るからと言って、煮たくらいでこんな異臭になるわけがない。 ひそかに早とちりを恥じる。 「きく、にて、どうするの?」 「酢の物にするんだよ」 「すのもの?」 祖母と会話をするうにゅほを尻目に、これは長くなりそうだと二階へ退散した。 しばらくして、うにゅほが階下から姿を現した。 軽く肩を落としている。 「……きく、すっぱかった」 「そりゃ、すっぱいだろう。酢が入ってるんだから」 「あまいかとおもった……」 なるほど、花だからか。 酢の物には砂糖も入っているはずだが、うにゅほの想像ではもっと夢のように甘かったのだろうなあ。 けっこう女の子らしいところもあるんだなと再確認した月曜の午後だった。
2012年10月30日(火)
小用を済ませて部屋へ戻ると、うにゅほが扉に背を向けて布団の上に正座していた。 「なにし──」 声を掛けようとして、様子がおかしいことに気がついた。 右手で口元を隠すような姿勢で、なにやらもぞもぞと動いている。 うわあ、なんだか妙な場面に出くわしてしまった。 できることなら見なかったことにして台所で牛乳でもあおりたいが、教育係を自任する俺としては放っておくわけにもいかない。 深呼吸をひとつ。 「女の子なんだから、あんまりハナクソをほじるのは……」 「──ッ!」 うにゅほが慌てて振り返る。 「ち、ちがう! ちがう!」 「違うもなにも」 あれ。 うにゅほは今、口を大きく開いてはいなかったか。 「は! はに、なんかはさまってたの!」 「歯?」 「ほら!」 うにゅほが天井を仰ぎ、口を開ける。 「いや見えないから」 まあ、納得はした。 背中を向けて食べかすを取っていれば、鼻をほじっているようにも見えるだろう。 「わざわざ隠さなくたっていいのに」 「だって、へんなかおになるもん……」 おい、なんだ、かわいいな。 痒くもない後頭部を掻いて、言った。 「なら、爪楊枝を使えばいいよ。爪で取るのは衛生的によくない」 「つまようじ?」 「ほら、小さくて細い木の棒、あるだろ」 「きのぼう?」 「あー、わかんないかな」 言葉で伝えるのは不可能と見て、きびすを返した。 戸棚に仕舞ってあった爪楊枝を一本引き抜いて、うにゅほに見せる。 「これだよ」 「あ、これかー」 うにゅほが何度も首を縦に振る。 「これでどうするの?」 「歯のあいだに突っ込んで、ほじる」 「ほー」 爪楊枝を手渡すと、うにゅほはちらっと俺の顔を窺って、小走りに自室へ戻った。 入ろうとすると、扉が音を立てて閉じた。 「はいんないでね!」 最近、羞恥心が芽生えてきている気がする。 感慨深い。 「間違って鼻ほじるなよー」 「ばか!」 うにゅほに馬鹿なんて初めて言われた。 感慨深い。 一分ほどして、扉が開いた。 「ゴマだった」 「そうか」 いまいちリアクションに困る。
2012年10月31日(水)
「んー……」 卓上鏡を覗き込みながら、唸る。 「なにやってるの?」 うにゅほの顔が鏡に映り込む。 「眉毛を整えてるんだよ」 言いながら、右手に持った毛抜きで産毛を抜き取る。 ああ、眉毛にまで寝癖がついている。 うつ伏せで眠ったのだろうか。 これは、あとでカットする必要があるな。 「──……ん?」 いや待て、なんでソファで眠っているのにうつ伏せになれるんだ? 寝返りを打つと自動的に落下するシステムなのに。 「謎だ……」 「ねえ」 「ん?」 「わたしもぬいていい?」 顔を上げて、うにゅほの顔をあらためる。 「××は抜く必要ないだろ。眉毛薄いし、産毛も目立たないし」 羨ましい限りである。 「ちがくて」 「じゃあ、なんだ?」 「◯◯のまゆげを、ぬいていい?」 「あー……」 うにゅほは、こういう手入れのような作業がけっこう好きらしい。 意味もなく俺のメガネを拭きたがる時期もあったっけ。 「……だめ」 ぼそりと呟くように言った。 「えー!」 「えー、と言われてもな」 「ひげはぬかせてくれたのに!」 言われてみれば、そんなこともあった。 「ヒゲと眉毛は違うんだよ」 「なにが?」 「いや、なんというか──……痛いんだよ、眉毛は」 自分で抜いても痛いのに、人に抜かれたらもっと痛いに決まっている。 「うー……?」 納得の行っていない様子のうにゅほが、唸るように声を上げた。 「いや、××にはヒゲないからわからないと思うけどさ。 たぶん神経が集中してるんだと思うけど、眉毛は抜くと痛いんだよ。マジで」 ヒゲはヒゲでも、口ヒゲは痛いが。 「おなじ、けなのに?」 「同じ毛なのに」 「ふーん……」 不満そうである。 どんだけ俺の眉毛を抜きたいんだよ。 「──じゃあ、ちょっと試してみるか」 「ためす?」 俺は無言でソファに腰を下ろすと、自分の膝を叩いた。 うにゅほが横になり、俺の太腿に頭を乗せる。 「一本だけ抜いてみるぞ」 「うん」 目尻に近いほうの眉毛を、毛抜きで一本だけ掴む。 「せーの──」 ぷちっ! 「いたい!」 うにゅほの悲鳴が室内に響き渡った。 毛抜きを確認すると、二本抜けていた。
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