>> 2012年7月




2012年7月1日(日)

年老いたせいか、愛犬の目やにがひどい。
黒い涙のような筋が鼻梁に沿って伸びている。
冬場に室内で飼っていたときは気にならなかったので、砂ぼこりが原因かもしれない。
日に日に小汚くなっていく愛犬の顔に、とうとう我慢がならなくなった。
「犬、押さえてて」
「はーい」
うにゅほが愛犬の胴体を抱き寄せる。
さあ、狩りの時間だ。
右手に濡れティッシュ、左手で愛犬の顔を押さえ、つまみ上げるように目やにを処理していく。
目やにと一緒に毛が引っ張られて痛いのだろう、愛犬も黙ってはいない。
ぐりんぐりんと首を振り、俺の手から逃れようと躍起である。
「しっかり押さえてろよー」
「う、うん」
作業を続けること数十秒。
愛犬は抵抗の虚しさを悟り、されるがままとなった。
最初からそうすればいいものを。
一枚目の濡れティッシュを丸めて置き、二枚目をドローしようと左手を離した瞬間だった。
それを隙と見た愛犬が、顔面を激しく左右に振る!
「わわ!」
うにゅほの腕から逃れ、愛犬は闇雲に突進した。
俺の、腹に向かって。
さほど勢いがあったわけではない。
痛くもなければ、バランスも崩していない。
しかし、だ。
俺の着ていたシャツに、黒い目やにがくっきりとなすりつけられていた。
ああ、どうして俺は白いシャツを着ているのだろう!
嘆く俺に向かい、うにゅほが右手を差し出す。
「ぬいで!」
「いやここ外」
「はやく!」
愛犬を繋ぎ、玄関に戻ってシャツを脱ぐ。
それを渡すと、うにゅほは洗面所でシャツの汚れをすすぎ、なんだかよくわからないものを当該部分に噴霧した。
「これ、汚れがきれいになるやつ」
正体が気になる。
それにしても、けっこう手際がいいものだ。
毎朝洗濯の手伝いをしているだけはある。
俺はうにゅほに礼を言うと、自室に戻って黒いシャツを着た。



2012年7月2日(月)

数日前、父親の知人のディーラーから、程度の良いミラジーノが見つかったと連絡があった。
その日のうちに見に行った父親が、すぐさま購入を決めてきた。
細かな修理、清掃を済ませ、いつでも引き渡せると再度連絡があったのが昨晩のことである。
正午過ぎ、母親と連れ立ってディーラーへ向かった。
後部座席のうにゅほも楽しみにしているようで、「♪」と鼻歌交じりで揺られていた。
父親の言うとおり、価格のわりに綺麗な外装だった。
走行距離もさほどではないし、内装の木目も美しい。
外見は文句なしである。
しかし、うにゅほはいささか不満のようだった。
「……色…………」
パープルである。
ミニカと同じシルバーを想像していたのだろう。
「俺はこの色のほうが好きだけどなー」
安いくせに無駄な高級感があって。
申し訳ないが、この場においてうにゅほの発言力は無きに等しい。
たとえ今は気に入らなくとも、長く乗っていれば愛着も湧いてくるはずだ。
契約を済ませ、ミラジーノのキーを貰う。
母親に「まだ保険入ってないんだから」と安全運転を厳命されたあと、運転席に乗り込んだ。
「わあ……」
助手席のうにゅほが嘆声を漏らす。
「つやつやしてる」
運転中にハンドルに触れるんじゃありません。
ともあれ、意外とすぐに気に入ったようだ。
俺も同じ感想だった。
加速もいいし、エンジンも静かだし、パワステもついてないし、いい車じゃないか。
パワステの利いたハンドルは軽すぎて気持ちが悪いのだ。
「ミニカはミニカちゃんだろ。
 ミラジーノはなんて呼ぶんだ?」
帰宅したあと、うにゅほにそう尋ねてみた。
「ミラちゃん? ジーノちゃん?」
うにゅほはすこし考えたあと、ためらいがちに答えた。
「……ジーノさん」
距離を感じる。



2012年7月3日(火)

犬の散歩にサマータイムを導入した。
なんのことはない、犬が暑さでぐでーっとしているので、涼しくなってから散歩をすることにしたのだ。
保険に加入したミラジーノでいつものルートを一巡りしてくると、ちょうど午後の七時だった。
「いぬー」
うにゅほが愛犬に駆け寄っていく。
愛犬は、名をコロという。
しかし、うにゅほは個体名ではなく種族名で呼ぶ。
愛情の欠如を疑われてしまいそうだが、ちゃんと理由がある。
家族がコロのことを、ロンちゃんやらワンコロやらバカ犬やらロコロコやらと適当に呼ぶからだ。
混乱した結果、「いぬ」で定着してしまったらしい。
直そうと努力はしているのだが、これがなかなか難しいようである。
犬の散歩を終え、エサを作る。
俺が缶詰とカリカリを混ぜ合わせているあいだ、うにゅほは愛犬と戯れる。
ここ数日は、でろんと頭を垂れた愛犬を撫でているだけだったが、今日は違った。
涼しい時間帯だけあって滅多矢鱈に元気である。
エサを前にして興奮していることも理由のひとつだろう。
タケコプターのように尻尾を回転させつつ、うにゅほの腕にじゃれかかる。
「わっ!」
その勢いに驚いたうにゅほが、愛犬から一歩距離を取った。
愛犬がうにゅほを追って飛び掛かり、
「きゅ」
と可愛らしい声を上げて空中で停止したあと、べちゃりと地面に落下した。
リードの限界である。
お前はルパンか。
そして、本当にもうすぐ十六歳なのか。
「だいじょうぶ!?」
と愛犬に駆け寄るうにゅほを横目で見ながら、俺は笑いを噛み殺すのに必死だった。
なんにせよ、元気なのはいいことである。



2012年7月4日(水)

帰宅してミラジーノから降りると、下校中らしき小学生の集団に挨拶をされた。
すわ不審者扱いかと警戒したが、そういうわけでもないらしい。
うにゅほと顔を見合わせ、戸惑いながら挨拶を返す。
すると、小学生の一人が
「こんちくわー!」
と諸手を上げた。
なんという小学生センスであろう。
こんちくわこんちくわと連呼しながら去っていく子供たちを見送ったあと、ハッと振り返った。
うにゅほが両手で口元を押さえている。
ああ、やはりか。
うにゅほの笑いのツボは、かなりアレなのである。※1 ※2
「……こんちくわー。ふふ」
思いついたように呟いてはくすくす笑い続けるのだから、いささか怖い。
夕食後、気に入りすぎて歌まで口ずさみはじめてしまったので、なかば呆れながら告げた。
「もう、こんばんわの時間だぞ」
「あ」
『こんばんわ』と『こんちくわ』では、かなり遠い。
うにゅほが小首をかしげ、問う。
「じゃあ、こんばんわだと、なに?」
また返答に困る質問を。
俺は、顎を撫でさすりながら頭を回転させた。
ちくわに対応するのだから、食べ物だろう。
母音が「あ・ん・あ」となる、三文字の食べ物と言えば──
「こ、こんあんまん?」
苦しい。
語感はいいが、字余りな上、時期はずれでもある。
「こんあんまん?」
「こんあんまん」
「……こんにくまん!」
キン肉マンの親戚かなにかか。
こうして『こんにくまん』『こんあんまん』コンビが『こんちくわ』に成り代わるかと思いきや、このみっつを織り交ぜて歌い始めてしまった。
ちくわだけ浮いてるのがすごい気になる。

※1 2012年6月14日(木)参照
※2 2012年6月27日(水)参照



2012年7月5日(木)

夕立ちがあった。
風下の窓を閉じて、チェアに戻った。
ガラス越しに雨音。
雨は嫌いではない。
出先で急に降られたなら、呪詛を篭めて空を見上げるだろう。
しかし、予定のない午後に屋内から眺めるぶんには、嫌う理由が見当たらない。
「──…………」
ふと思いついたことがあった。
「なあ」
漫画を開きながら船を漕いでいたうにゅほに声を掛け、言った。
「散歩、行こうか」
目を覚ましたうにゅほが、窓の外を見る。
「……あめだよ?」
「雨だからだよ」
まだ、していないことをしよう。
ただそれだけの単純な発想だった。
玄関へ向かい、等しくどこかが壊れている古傘をそれぞれ手に取った。
外に出て、傘を差した。
無数の雨粒が傘布を叩く。
「トトロみたい」
笑いながらうにゅほはそう言った。
犬の散歩コースから逸れ、町内を大回りした。
俺とうにゅほの傘が、何度もぶつかる。
距離が近すぎるのだ。
考える素振りを見せたあと、うにゅほは手を思い切り伸ばし、傘を空へと突き立てた。
そして、俺の傘の上に、自分の傘を半分ほど重ねる。
「これでよし!」
歩きづらいだろうに。
仕方がないので、自分の傘を畳む。
うにゅほの傘を受け取り、相合傘で家まで歩いた。
夕立ちは徐々に勢いを弱め、帰宅するころには上がっていた。



2012年7月6日(金)

犬の散歩をしていると、道路に落書きがしてあった。
チョークで描いたものか、白に黄色に青に赤と、カラフルでにぎにぎしい。
「あ、ドラえもん!」
うにゅほが落書きのひとつを指差す。
「……ドラえもん?」
思わず首をかしげたが、よく見ると逆さまになった拙いドラえもんの顔が紛れていた。
子供が適当に描いたオリジナルのモンスターかと思った。
赤かったし。
犬にエサをあげたあと、砂利のなかから白くて柔らかな石をひとつ拾い上げた。
チョークはなくとも絵は描ける。
ささっと流れるような石さばきで、道路にドラえもんの顔を描き上げた。
「おおー!」
歓声と共に、うにゅほが拍手をする。
ふふ、ドラえもんの顔だけは得意なのだ。
顔だけはな!
調子に乗った俺は、ドラえもんの隣にコロ助の顔を描いた。
コロ助も得意なのだ。
こちらはちゃんと胴体まで描ける。
「……ドラえもんの、偽物?」
「ち、違う!」
しまった、キテレツ大百科は知らなかったか。
「これは、ドラえもんと同じ作者が描いた漫画のキャラ」
「ふうん?」
「例えるなら、そうだな──」
しばし逡巡し、口を開いた。
「ドラえもんから四次元ポケットを取り上げたみたいなロボットかな」
「それって、そんざいいぎ?が……」
やたら難しい単語で疑問を唱えられてしまった。
これは俺の説明が悪かった。
間違ってはいないと思うけど、マスコットキャラクターだって必要だと思います。
「ほらっ」
誤魔化すように白石を渡す。
うにゅほが描いたドラえもんは、青と白との境界線が目の上を通る典型的なうろ覚えドラだった。
隣に手本があるのに何故そうなる。
みっつほど描いたあたりで、なんとかコツを掴んだようだった。
うにゅほのお絵かきレベルが1上がった。



2012年7月7日(土)

「うるさいね……」
うにゅほがそう呟き、窓の外へと視線を向けた。
我が家の目と鼻の先にある公園には、夏場になると近所迷惑な輩がたむろする。
深夜に笑い声が響くのはまだ良い方で、爆竹やロケット花火などの騒音も珍しくはない。
外からこだまする破裂音も、そういったたぐいのものだと思っていた。
「──……?」
耳を澄ます。
爆竹にしては音が低く、腹の下に響くような重さがある。
もしかして。
チェアから腰を上げ、両親の寝室へと急ぐ。
寝室の窓から覗くのは、想像したとおりの光景だった。
打ち上げ花火である。
そういえば、今日は七夕だった。
北海道では一ヶ月ずれた八月七日に行われるのが慣例だが、七月七日にイベントがないわけではない。
恐らく、七夕祭りかなにかが催されているのだろう。
俺は自室に取って返し、
「◯◯! 花火花火!」
うにゅほの手を引いて、そうまくし立てた。
「え、花火?」
「そう、花火!」
両親の寝室へ戻り、窓から遠くの空を眺める。
一分。
二分。
光どころか、音すらしない。
「花火はー?」
うにゅほが不満げに俺を見上げる。
「……終わった、かな」
なんとタイミングの悪い。
ほんの一分早く気がついていれば、一緒に花火を見ることができたのに。
しかし、幸いにも夏はまだ始まったばかりである。
「また機会はあるさ」と、自分とうにゅほに言い聞かせた。



2012年7月8日(日)

風はあるが、湿度の高い日だった。
窓を開けると肌寒く、閉めると今度は蒸し暑い。
そんな二律背反、あるいは帯に短したすきに長しな状態を、たちどころに解決する道具がある。
そう、扇風機だ。
車庫の二階に仕舞われていた扇風機を引っ張り出し、専用のスペースに置いた。
冬場はストーブによって占有されていた場所である。
部屋の片隅に追いやられたストーブを尻目に、扇風機はさぞ気分のいいことだろう。
でもお前、夏以外は車庫だからな。
北海道において、扇風機とストーブのどちらが重要か、考えるまでもない。
扇風機を設置すると、うにゅほが早速スイッチを入れた。
いきなり強風。
「わあ!」
デスクの上に置かれていた紙片が吹き飛んだ。
「消して消して!」
質量の軽いものを選別する無慈悲なマシンと化した扇風機が、首を振りながら様々なものを薙ぎ払う。
「どれ!?」
「一番左のボタン!」
「ひだりってどっち!」という小ネタなどは特になく、扇風機がゆっくりと動きを止める。
半笑いでこちらを窺ううにゅほの頭部に手刀を入れて、散らかったメモやら書類やらを片付けた。
扇風機は、微風から徐々に強めていきましょう。
午後九時からトイ・ストーリー3を放映していたので、うにゅほ用の椅子を持ってきて二人で観賞した。
クライマックスでボロ泣きしてしまったが、うにゅほも同じくらいティッシュを消費していたので、どっこいどっこいである。
涙もろくなったものだ。



2012年7月9日(月)

自動車のダッシュボードの上に見慣れないものがあった。
両の葉をぴこぴこと揺らしながら澄ました笑顔を浮かべる一輪の花。
太陽電池で動く置物である。
両親のどちらかが飾ったのだろう。
「なにこれ、かわいー」
そうか?
俺にはいまいち可愛げがないように見える。
せわしなく動くものだから、運転中に気が散るし。
「これ、なんでうごいてるの?」
「生きるのが楽しくてしょうがないんじゃないかな」
そういう顔をしている。
「……? 生きてるの?」
わかってて返答を間違ってみた。
「ほら、見てな」
植木鉢に空いた長方形の穴を、人差し指で塞ぐ。
葉っぱは徐々に勢いを弱め、やがてその動きを止めた。
「おー」
うにゅほが感嘆の声を漏らす。
「ここで太陽の光を受けて、動力源にしてるんだよ」
「でも、くもりだよ?」
厚い雲が空を覆っている。
「でも、明るいだろ?」
明るいということは、雲を透過して太陽光が降り注いでいるということだ。
「ふうん? じゃ、夜は?」
「夜は暗いから動かない」
「でんきじゃだめ?」
「……どうだろ。蛍光灯の光だと、弱すぎるんじゃないかな」
「ためしていい?」
「いいよ」
という会話を交わしてから数時間、うにゅほは既に夢のなかへと旅立ってしまった。
完全に忘れ去っているらしい。
仕方がないので、一人で実験してみた。
蛍光灯の下では、その動きはとても弱々しい。
太陽電池を懐中電灯で照らしてみると、昼間と遜色ない程度に葉を揺らした。
明日、うにゅほに教えてあげよう。



2012年7月10日(火)

祖母が梅酒を漬けたいというので、近所のスーパーへと連れ立った。
リカーコーナーで35度の焼酎と氷砂糖を購入し、生鮮食品売り場へ。
梅酒用の南高梅は意外に高く、一袋千円ほどもした。
ついでに食料品や消耗品なども大量にカゴに入れ、レジへと向かった。
「合計で5347円になります」※1
祖母が財布を開き、呟くように言った。
「……◯◯。財布、持ってるか」
もしかして。
肩越しに祖母の財布を覗くと、千円札が三枚しか入っていなかった。
明らかに足りない。
しかも、一、二点戻した程度でどうにかなる額ではない。
じゃあ、家に帰って財布取ってくるよ。
そう言いかけて、ハッとうにゅほに視線を向けた。
以前にも同じような出来事があったのだ。※2
そのときはたしか、大声で受付の女性に謝ってくれたのだった。
「──……ッ」
うにゅほも成長したのか、同じ轍は踏まなかった。
青い顔でカゴからたけのこの里を取り出し、
「もどしてくる……」
と駆け出しそうになっただけで済んだ。
「いいから待ってな」
俺はうにゅほにそう伝え、レジ打ちの女性に平謝りしたあと、駐車場へと走り出した。
帰宅し、財布を引っ掴むと、靴を履く間ももどかしくサンダルを突っ掛けてスーパーへ戻った。
祖母に五千円札を渡し、会計を済ませてもらう。
うにゅほは何故か飴を舐めていた。
また貰ったのか。
くれたのが顔見知りの女性店員だったので、感謝を込めて会釈した。
「はい」
うにゅほが俺の手にミルクキャンディを乗せた。
口のなかへ放り込むと、懐かしい味がした。
飴を舐めていると、なんだか落ち着くものだ。

※1 正確な数値は忘れてしまった。
   五千円からすこし足が出た程度だったことは間違いない。
※2 2011年12月20日(火)参照



2012年7月11日(水)

「──っ! き、きて!」
うにゅほが引き攣った声で俺を呼んだ。
その視線と指先とは、窓のほうへ向けられている。
なんだなんだと重い腰を上げると、窓の外で蜘蛛が巣を張っていた。
「うわ!」
でかい。
親指の第一関節くらいある。
本州以南の方々には馬鹿にされるかもしれないが、北海道ではこのサイズでも十分に大きいのだ。
と、いうかだな。
「◯◯、虫は大丈夫じゃなかったの……?」
俺の背中に隠れてしまったうにゅほに、そう尋ねた。
手のひらで大量のアリを圧殺した人間の反応ではないと思う。※1
うにゅほはふるふると首を振り、
「でっかい!」
と声高に答えた。
あー、大きいと駄目なんですね。
部屋に虫が入り込んだとき、すべてをまかせて撤退しよう。
そんな日本有数の情けなさを誇る目論見が、淡くも崩れ去ってしまった。
「──…………」
すこしのあいだ空を見上げたあと、目の前にある現実を直視することにした。
この蜘蛛、どうしよう。
デコピンで吹き飛ばすには、いささか大きすぎる。
優しくデコピれば問題は解決せずに不快感だけが残るし、思い切ってデコピると指先に体液がつきかねない。
迷った末に人類の叡智を使うことにした。
「まーごーのーてー」
「?」
ドラえもんの真似だと気付かれなかった。
再び空を見上げたあと、巣を巻き取って蜘蛛を落とした。
とりあえず、忘れるまで孫の手は使わないことにする。

※1 2012年6月1日(金)参照



2012年7月12日(木)

部屋のエントロピーが増大してきたので、掃除をすることにした。
うにゅほが定期的にしているのだが、彼女は整理整頓が苦手である。
順序など気にせず空いているところに漫画を突っ込むし、邪魔なものはとりあえず部屋の隅に寄せておく。
寝る前に布団のなかで漫画を読むのが日課なので、枕元にうず高く塔が築き上げられている。
対して俺は、掃除こそ嫌いであるものの、整理整頓は得意なほうだ。
破れ鍋に綴じ蓋。
二人の力を合わせれば、やってやれないことはない。
うにゅほがダスキンでホコリを落とし、俺がそこに整理した漫画を差し入れる。
そのあいだに、落としたホコリをうにゅほが掃除機で吸い込み、掃除は完了である。
「ほー……」
すっきりと生まれ変わった部屋に、うにゅほが驚嘆の声を漏らす。
予想以上に手間が掛かったものの、こうして結果が出ると掃除も悪くないと思える。
汗ばんだ肌に風を浴びていると、うにゅほが悪気ない様子で言った。
「いつもてつだってくれたら、いっつもきれいなのに」
かちん。
何故かちんときたか。
図星だったからである。
「ちゃんと本を片付けてくれたら、いっつもきれいなのに」
「ぬ」
「む」
お互い睨み合って、すぐに破顔した。
二人で汚した部屋を、二人で綺麗にしただけのことだ。
「なるべく、このままにしておこうな」
「うん」
そんな会話を交わしながら、思った。
掃除は、ちゃんと毎回手伝おう。



2012年7月13日(金)

母親と弟と連れ立って、近所にあるパークゴルフ場へ行ってきた。
俺もうにゅほも初めての経験だ。
パターゴルフを想像していたため、コースの長さと手入れの悪さに目を見張った。
まさにミニチュアのゴルフ場と言える。
しかし、クラブまで短いのはなんとかならないだろうか。
がに股で膝を曲げながら振らなければ当たらないため、なかなかに恥ずかしい。
1ホール目の1打目を見事にOBし、うにゅほにクラブを渡す。
うにゅほはゴルフが得意である。
過たずに表現するなら、ゴルフの打ちっぱなしが得意である。※1
狭いコース内では「いかに手加減するか」が肝要だ。
だからこそ、予想はしていた。
──ぱかん!
「あーっ!!」
素晴らしい打球音を残し、オレンジ色のボールが遥か遠く深い茂みのなかへと消えていった。
「あーあ……」
と溜め息をついたのは弟である。
ボールがひとつ足りなくなってしまった。
平謝りするうにゅほをなだめ、チーム分けをすることにした。
俺・うにゅほチーム VS 母親・弟チーム。
結果は記すまでもない。
PAR4のコースを8打で通過したり、
当たりどころが良すぎて次のコースまで飛ばしてしまったり、
カップには入りやしないのに相手チームのボールをやたらと弾き飛ばしたりしたが、なかなか面白かった。
それはうにゅほも同じである。
「また来ようか」
そう問うと、両の手を握りしめて何度も頷いた。
やはり、体を使う遊びのほうが性に合っているのかもしれない。
自転車の乗り方でも教えようかなあ。

※1 2012年5月2日(水)参照



2012年7月14日(土)

ひどい腹痛と眠気に襲われて、日中は床に伏していた。
以前急性腸炎を患ったときとはまた違う症状である。※1
弟も似たような症状でリビングのソファをひとつ占有していたので、もしかしたら悪いものでも食べたのかもしれない。
両親とうにゅほの消化器が強靭なのか、俺と弟が貧弱なのか、あるいはその両方か。
浅い眠りと覚醒とを繰り返すなかで、うにゅほがずっと傍にいたことをかすかに覚えている。
そして、その両手で開いている書籍がVOW5だったことも覚えている。
いかん、それは教育によろしくない本だ。
夢見は異常に悪かった。
夕刻には眠気も治まり、腹痛も気にならない程度に和らいでいた。
凝り固まった背筋を伸ばしながら、
「ちょっと早いけど、犬の散歩行くか」
そう言うと、腕を取られた。
そのまま部屋まで手を引かれ、うにゅほが寝床をぽんぽんと叩く。
「さんぽ、ひとりでもだいじょぶだよ」
なるほど、まだ寝ていろということか。
俺が病弱なせいで、いつも心配を掛けている。
俺は、うにゅほの気遣いをありがたく受けることにした。
「──…………」
再び横になり、目を閉じる。
こっそりと薄目を開けて、うにゅほが部屋から出て行くのを確認する。
気遣いは嬉しいが、ひとつ問題がある。
もう、まったく眠くないのだ。
なにしろ今日は総計で十二時間も睡眠をとっている。
この僅かな時間を利用してネットサーフィンでも楽しもうかと、立ち上がって眼鏡を掛けたとき、
「──…………」
じっ、と。
扉の隙間から覗く瞳と目が合った。
眼鏡を外していたせいで気がつかなかったのだ。
扉を開き、うにゅほが言う。
「おやすみ」
「……はい」
俺は、
まったく、
眠くないんだァ──ッ!
起きたら夕食だった。

※1 2011年12月15日(木)参照



2012年7月15日(日)

昨夜の夜更かしが祟り、起床したのは正午近くだった。
壁掛け時計を見て慌てかけたが、約束にはまだ間に合う時刻だ。
急いで身支度を整えると、うにゅほに「おはよう行ってきます」という忙しない挨拶をして家を出た。
数年ぶりに会った大学時代の友人たちは、変わったようでいて変わっていなかった。
しかし、無職が多いのはどうだろう。
人のことを言えた義理ではないのだけれど。
帰宅したのは、午後九時をすこし回ったころだった。
扉をゆっくりと押し開けて、口を開く。
「……ただいまー」
返事はなかった。
探すまでもなく、うにゅほはソファにいた。
体を横たえ、半開きの口から寝息を漏らしている。
俺は苦笑し、うにゅほの傍らに屈み込んだ。
ほっぺたが肘掛けでうにゅっとされて、いささか間抜けな顔である。
「──……んぅ」
額に貼り付いた前髪を払ってやると、うにゅほの目がおもむろに開かれた。
「ただいま」
「……おかえり」
うにゅほが体を起こし、ソファをぽんぽんと叩く。
意図は伝わった。
一日放っておいたのだから、これくらいは構わない。
ソファに腰を下ろす。
俺の太腿に、頭が乗せられた。
うにゅほが満足気に目を閉じる。
それにしても、随分と甘え上手になったものだ。
以前はもうすこし遠慮がちだったように思う。
俺が受け止められるくらいのわがままなら、いくら言ってくれても構わないけどさ。
その後、うにゅほは本格的に寝入ってしまい、二時間ほど動けなかった。



2012年7月16日(月)

月曜祝日のため、少年ジャンプが前倒しで発売されていたことを知ったのは、今日になってからだった。
半端に知ってしまったため、なんだか損をした気分である。
うにゅほにはその事実を教えず、コンビニへ向かった。
嫌な予感はしていたと思う。
数台の大型トラックのあいだを縫うようにして駐車したときから、鈍くではあるけれど。
さっさと用事を済ませてしまおうと、ジャンプを片手にレジへ向かった。
「今、俺が並んどったろうが」
振り返ると、三十代半ばほどのツナギを着た男性が、俺を睨みつけていた。
「いや、お前のが遅いから」
連れらしき男性が、ツナギの男性を諌めた。
俺は連れの男性に軽く頭を下げると、前を向いて財布を取り出した。
「いい年こいて漫画か!」
揶揄するような声に、うにゅほが俺の腕を掴んだ。
怖いか。
俺も怖いよ。
他人に悪意を向けられるのは、怖い。
会計を済ませ、足早にその場を後にしようと──
どん!
臀部に衝撃が走った。
蹴られたのだと理解したときには、もう止められなかった。
「わああああッ!」
ツナギの男性を、うにゅほが思い切り突き飛ばしたのだ。
男性はホットドリンクの棚に寄りかかり、一瞬だけ呆然とした表情を浮かべた。
そして、瞬時に激昂する。
口を開く前に、二人は動いた。
連れの男性は、ツナギの男性を前から押さえ込んだ。
俺は、うにゅほの手を引いて駈け出した。
慌てて自動車に乗り込み、エンジンを掛けて発進する。
幾度かバックミラーを確認し、ほうっと重い息を吐いた。
よかった。
大事にならなくて、本当によかった。
しゃくり上げるような声に、助手席へと視線を向ける。
うにゅほは泣いていた。
驚いたのかもしれない。
悔しかったのかもしれない。
年齢を重ね、自分のために怒ることは少なくなった。
俺の代わりに怒ってくれたうにゅほを、泣いてくれているうにゅほを、素直に愛おしいと思った。
「──…………」
家に着く直前、わざと帰途を逸れた。
うにゅほが泣き止むまで、そのままドライブを続けることにした。
懸念がひとつ。
あのコンビニ、しばらく行けないな……。



2012年7月17日(火)

ELECOM製のPCスピーカーが安かったので、思わず衝動買いしてしまった。
「安さのELECOM、安さのBUFFALO」と呼ばれるほどの信頼性だが、安くなければ勢いで購入はしない。
いろいろと寄り道をして帰宅した。
「? なに、それ」
スピーカーの箱を掲げ。高らかに口を開く。
「スぴーかぁ~!」
「……?」
不思議そうな顔をされた。
俺のドラえもんの物真似は、そんなに似ていないか。
思い切りが足りなかったかもしれない。
まあいい。
「これがあれば、イヤホンをしなくてもパソコンの音が聞けるんだよ」
「ほー」
興味があるような、ないような。
けっこう便利だと思うんだけどなあ。
早速設置し、適当な動画を再生してみる。
「?」
音が出ない。
PCの音量をいじると、音楽が流れ出した。
しかし、いまいち音が小さい。
スピーカー側の音量つまみを最大にすると、谷山浩子の歌声に嫌というほどノイズが混じった。
「なんか、ぱっとしないねえ」
「そうだな……」
サウンドカードで濾過した水に、改めて塩素を混ぜたような音質だ。
安物買いの銭失いである。
こんなことなら、たけのこの里のひとつやふたつ、うにゅほに買ってあげたほうがよかったかもしれない。
光を失った電源ランプを見つめながら、俺はひっそりと溜め息をついた。



2012年7月18日(水)

パークゴルフ場からの帰り道、スーパーでコンビーフを購入した。
好物、というほどでもない。
ごくたまに前触れなく食べたくなるたぐいのものである。
「これなにー?」
天井に掲げたコンビーフ缶を仰ぎ見ながら、うにゅほが興味深げに問い掛けた。
「コンビーフだよ」
「コンビーフって?」
「牛肉の塩漬け、だったかな」
調べてみたことはない。
「たべもの?」
「そうそう」
「おいしい?」
「食べてみるか?」
「うん」
「じゃ、開けてみな」
すこしいじわるをしてみる。
左手にコンビーフ缶、右手にコンビーフの鍵を持ったうにゅほが、小首をかしげながら存在しない鍵穴を探す。
これが漫画なら、頭上に大きなクエスチョンマークが浮かび上がっていることだろう。
手のひらで口元を隠しながらその姿を堪能し、
「ほら、貸してみな」
そう言って途中まで開けてみせた。
「おー!」
コンビーフ缶を返すと、ぎこちない手つきで鍵を回しはじめた。
実に楽しそうだ。
俺も、コンビーフ自体より、開けるのが楽しくて買っている節がある。
鍵を回し切り、うにゅほが缶の底をぱかっと開く。
「──…………」
なんだか渋い顔でこちらを窺っている。
「……なんか、犬のごはんのにおいする」
あー。
似てるかもしれない。
小皿に盛って食べさせてみると、
「ふつう」
とのことだった。
まったくもって同感である。
俺が三分の二ほどを平らげて、おやつの時間は終了となった。



2012年7月19日(木)

左手の付け根にしこりができた。
整形外科へ行くと、ガングリオンという九十年代アニメのような病名を下された。
良性腫瘍であり、放っておいても特に心配はないとのことである。
ああ、持病がまたひとつ。
「位置が悪いから、どうしても気になるようなら手術しかないですね」
医師があっさりそう告げると、
「し、しじちゅ──」
うにゅほが世界の終わりのような表情でそう呟いた。
言えてないけど。
手術という単語に過敏なのは、以前ブラック・ジャックを読ませたせいだろうか。
「手術といっても一泊二日の入院なので、彼女さんの心配するようなことはないですよ」
医師が苦笑しながら言った。
兄妹はそう珍しくないが、恋人同士に見られたことは初めてである。
外見のちぐはぐさから醸し出される得も言われぬ犯罪臭は気にならないと申すか。
やるな、医師。
家庭の事情を説明するのが面倒なので、否定せずに診察を終えた。
放心しているうにゅほの手を取り、車へ戻る。
「……しゅじちゅ、するの?」
言えてない。
「しないって」
「ほんと?」
あー。
正直に言ったほうがいいか。
「このしこりが、うんと大きくなったら、手術することになると思う」
ガングリオン自体に害はないが、神経や血管を圧迫することがある。
そうなれば手術は避けられまい。
「そっか……」
うにゅほはそう呟き、俺の左手を取った。
「ちいさくなれっ!」
語気の強さに反し、やわらかな仕種で手首のしこりを撫でる。
うにゅほの体温が心地良い。
でも、このままでは車が出せません。
うにゅほの気が済むまで、されるがままにしておいた。



2012年7月20日(金)

左奥、上の歯がしみる。
歯医者へ行くと、虫歯ではないと言われた。
歯の一部が欠けているのだそうである。
しっかりと磨いているのに、おかしいと思ったのだ。
しかし、痛いことにも治療をすることにも変わりはない。
「じゃあ、麻酔打ちますから」
待て。
何故麻酔を打つ。
その理由はすぐにわかった。
患部は銀歯の隣にある。
その銀歯をペンチのようなもので力任せに剥がされれば、それはもう虫歯とか関係なく痛い。
思わず、
「ぎゃア!」
と叫び声が飛び出たくらいである。
治療室と待合室とは距離も扉もない。
パーティションで区切られているだけである。
うにゅほに叫び声を聞かれていないか心配だった。
恥ずかしいからではない。
治療を終えて待合室へ戻ると、うにゅほが軽く怯えていた。
ああ、懸念した通りだ。
歯医者に対する恐怖を植え付けてしまった。
「あの声は、痛いというかびっくりしてだな──」
などと恐怖を和らげるべく熱弁していると、
「くち、なんかヘンなにおいする」
歯の被せ物に使った薬品の匂いだよ!
その言い方やめて!
夕食後、洗面所で十分くらい歯を磨くうにゅほの姿を見た。
歯を磨きすぎるとエナメル質が削れて知覚過敏になりやすいらしいと告げたところ、
「どうすべきなの!」
と、人類の存亡でも賭けていそうな口調で怒られた。
必死である。
要するに、短い時間で的確に磨けばいいのだ。
具体的にどうすべきかは知らないけれど。



2012年7月21日(土)

昼食は家族で蕎麦を食べに行った。
きのこよりたけのこ、うどんより蕎麦である。
ああ、きのこ派と香川県に喧嘩を売ってしまった。
俺は天ざる、うにゅほはとろろ蕎麦を注文した。
「あ、美味い」
てんぷらがやたらに美味い。
蕎麦はふつう。
とろろ蕎麦はどんなものかと一口もらったところ、
「……うま」
すげえ美味い。
濃厚なうずらの黄身がとろろと絡み合い、得も言われぬ妙味を醸し出している。
何故とろろ蕎麦を頼まなかったのかと過去の自分を責め立てていたところ、
「たべすぎ!」
「はッ!」
気付くと一口では済まなくなっていた。
食べたものは戻らないので、えび天半分で手打ちにしてもらった。
犬の散歩を終えて帰宅すると、リビングで27時間テレビを放映していた。
「なにこれ」
「27時間テレビだよ」
「ほんとにそんなにやるの?」
「やる」
「◯◯はみる?」
「今年はどうかなあ。何年か前、最初から最後まで見たことあったけど」
面白ければ、見るにやぶさかでない。
「そっかー……」
うにゅほが沈思黙考する。
興味はありそうだ。
「◯◯が見てみたいなら、俺も付き合うけど」
「ほんと?」
「本当。まあ、面白くなければやめたらいいよ」
「じゃ、みてみる」
サブディスプレイをソファへ向け、対映画用の環境を整えた。
午後十一時半現在、うにゅほはまだまだ行けそうである。
さて、何時まで起きていられることやら。
どんなに頑張ったところで、毎度のごとく朝方に放送されるF1には勝てないと思うけど。



2012年7月22日(日)

午前一時頃、シャワーを浴びて戻ってくると、うにゅほがソファで横になっていた。
意図的に眠ったわけでないことは、そのけったいな寝姿でわかる。
27時間のうち6時間でKOだった。
俺は苦笑を浮かべると、うにゅほの体に俺の布団を掛けた。
深夜帯に入ってからが本番なのに。
教育に悪いからいいけど。
俺は午前四時まで朝更かしをしたあと、うにゅほを起こさないよう床に就いた。
寝床を奪われたのはむしろありがたい。
うにゅほの布団は落ち着くし、寝返りができるので深く眠れる。
ソファで眠るのも、随分と慣れてしまったけれど。
起床すると、午前十一時だった。
両親はおらず、うにゅほだけがリビングでテレビを見ていた。
「27時間テレビはいいの?」
うにゅほが見ていたのは、何故か将棋だった。
「……うん。ねちゃったから」
妙なところで完璧主義である。
眠ってしまったことに罪悪感を覚えているらしい。
「こういうのは、無理に付き合う必要はないんだよ」
俺はリモコンを手に取り、チャンネルをフジテレビに変えた。
見たいときに見て、気が向いたら出かけて、帰ってきたらまたテレビをつける。
その程度のゆるさでいいのだ。
「今年は結構面白いから、俺は見たいかな。◯◯はどう?」
「うん……みたい」
「じゃ、見よう」
俺はうにゅほの隣に腰を下ろし、犬の散歩まで一緒にテレビを眺めていた。
午後七時からは劇的ビフォーアフタースペシャルを見た。
珍しくテレビ漬けの一日だった。
「あ、来月は24時間テレビがあるぞ」
「また!?」



2012年7月23日(月)

知人に「太った?」と尋ねられた。
痛いところを突く。
まさしく太ったのである。
そうは言っても肋骨は変わらず浮いているし、「太っている」かと問われればそうではない。
そもそも俺は、脂肪がつくとガタイがよくなる体質なのだ。
胴回りには、あまりつかない。
ダイエットを志して約半年、一時は理想体重に迫ったこともあった。※1
しかし、ダイエットとはバネのようなものである。
痩せれば痩せるほど痩せにくくなるし、同時に太りやすくなっていく。
太りやすい時期に外食でも続こうものなら、あっという間にこの有り様である。
「痩せよう……」
決意を口に出し、天を見上げた。
青雲の志である。
「──あひゃ!」
不意に横っ腹をつままれて、妙な声が出てしまった。
「やめい!」
うにゅほの手を振り払う。
「おなか、やわいね」
頭部をフライパンの底で殴られたような衝撃が走った。
そうなんですやわいんです!
腹に脂肪がつきにくいとは言え、つかないわけじゃないんです!
知人に同じことを言われたときの数倍は傷ついた。
「痩せる! 痩せてやる!」
今は遠き理想体重へと辿り着いてやる!
夕食は天ぷらだった。
さつまいもの天ぷらは、うにゅほにあげた。

※1 2012年1月13日(金)参照



2012年7月24日(火)

具合が悪く、正午過ぎに起きた。
部屋を出ると、足元に得体の知れない物体があった。
よく観察してみると、カエルの潰れたような体勢で床にうつ伏せているうにゅほだった。
時折切なげな声音で、
「うー」
と呻いている。
仕方がないので跨いで通り、牛乳をコップに注いで飲み干したあと、ソファに腰掛けてテレビをつけた。
「うー!」
呻きが激しくなったので、声を掛けることにした。
「なにやってんの?」
「こしいたいー」
腰痛は俺の専売特許である。
「なんか、心当たりはあるの?」
「……草むしり」
なるほど、祖母の手伝いか。
それは、是が非でもねぎらってあげねばなるまい。
ガニ股状態で開かれているうにゅほの足を整え、挟むようにして膝頭を床につけた。
そして、両手の親指を腰のあたりに押し込む。
「どう? このあたり?」
「そ、こ、じゃ、な、いー」
「もっと上? 下?」
「した」
そんな問答を数度繰り返したあと、俺は手を止めた。
これより下がると、臀部である。
わかりやすく言えば、おしりである。
腰痛なのかそれは。
でも、草むしりで腰から尻にかけてを痛めるのは、なんとなくわかる気がする。
俺は立ち上がり、自室へ戻った。
さすがにおしりは揉めません。
しかし、素人の俺が按摩をするより、ずっと良い手段がある。
箪笥より取り出したるものは、
「マーサー子ーちゃーん~!」※1
「……?」
ドラえもんの物真似には相変わらず気付かれなかったが、まあいい。
マサ子氏は、四つの揉み玉とヒーターを備えた高性能マッサージクッションである。
俺はマサ子氏をうにゅほの臀部に押し当て、スイッチを入れた。
「お、お、おおおー!」
一瞬、うにゅほの上体が仰け反った。
「どうよ!」
「いいわー……」
おっさんみたいな返事だな。
そのまま五分ほど押し当てていたら、腰痛も引いたようだった。
恐るべしマサ子氏。

※1 2012年1月20日(金)参照



2012年7月25日(水)

歯医者で銀歯を入れたあと、整骨院へ行った。
整骨院は混んでいた。
時間帯が悪かったらしい。
幸いにも漫画が揃っているので、待ち時間も苦ではない。
うにゅほが手に取ったのは「弁護士のくず」だった。
それ結構精神的にエグいけど大丈夫なのか?
せっかくである。
俺も、普段は買わないような漫画を、あえて読んでみようと思った。
指先を迷わせ、抜き出したのは、「岳」の1巻だった。
山岳救助の漫画らしい。
しばらく読み進めるうち、ふと思い出したことがあった。
「◯◯。この漫画、読んだことある?」
隣席のうにゅほにそう尋ねてみる。
「うん」
「これ、どんな漫画?」
「なんか、そうなんした人を、たすけるやつ」
なるほど。
「……もしかして、スキーに行くときに一悶着あったのは、これのせい?」
もう五ヶ月ほども前の話になる。
スキーと雪山遭難とを脳内で直結させてしまったうにゅほが、スキー場へ行こうとする俺を激しく引き止めたことがあったのだ。※1
「?」
本人はいまいち思い出せていないようだけれど。
単に、ピンときていないだけかもしれない。
積年の疑問が氷解して、なんだかすっきりとした気分である。
「来年こそは、スキー行こうか」
「うん!」
などと気の早い会話をしながら、待ち時間は過ぎていった。

※1 2012年2月21日(火)参照



2012年7月26日(木)

洞窟物語3Dとスーパーダンガンロンパ2の発売日だったので、近所のゲームショップで購入した。
帰宅するなり、入れ替わりで母親が外出した。
うにゅほの手を引いて。
なんだかよくわからないが、まあいい。
自室のソファで横になりながら3DSをプレイしていると、
「◯◯ー」
部屋の扉が開かれた。
視線を上げると、水着姿のうにゅほがいた。
「うお!」
水着を買いに行っていたのか。
自室に水着を着た少女がいるという非現実感に、思わず声が上ずってしまった。
「にあう?」
尋ねられたのだから、答えなければならない。
答えるためには、観賞しなければならない。
心中で言い訳を呟きながら、視線を上下に動かした。
トップスがワンピース状に広がった、露出度控えめの水着である。
カラフルなパステルボーダーが夏らしくてよい。
「ああ、似合ってる」
人生のイベントCGが一枚埋まった。
余は満足である。
しかし、
「ゲームやってたの?」
と言いながら、うつ伏せで寝転がっていた俺の背中に乗るのはやめなさい。
はしたないですよ。
くぐもった声で
「……似合ってるから、着替えてきなさい」
と、言うのが精一杯だった。
水着を買ったからには、海かプールにでも連れていかなきゃならないな。
夏は刺激的な季節である。
この夏を、うにゅほに楽しんでもらいたいと思った。




2012年7月27日(金)

起床してリビングへ行くと、うにゅほが夏服の襟元を両手で押さえていた。
「おはよう」
「うー……」
唸られた。
「どうかしたのか?」
「かゆいー」
うにゅほが手を退ける。
首元から襟の下にかけて、赤く腫れ上がっていた。
「虫に刺されたのか……」
見ただけで痒そうだ。
蚊にしては腫れが大きいように思えたが、体質の問題もある。
「薬は? 塗った?」
「ううん」
俺は戸棚からウナコーワクールを取り出し、うにゅほに差し出した。
しかし、うにゅほは受け取らなかった。
涙目でこちらを見上げながら、
「……やって?」
ときたものだ。
断れる道理があるはずもない。
うにゅほの名誉のために一言添えるならば、恐らく甘えて言ったわけではない。
ウナコーワクールの使い方がよくわからなかったのだと思う。
ただ、天然悪女の素質があることは否定しない。
うにゅほの胸元にできた痛々しい歪な腫れにウナコーワクールを塗布し、ほっと溜め息ひとつ。
ふと、俺も蚊に刺されていたことを思い出した。
うにゅほの隣に腰を下ろし、右足の甲にウナコーワを塗りたくる。
「? なんで◯◯もぬったの?」
「いや、刺されたから……」
「どこ?」
「ここ」
と、針の先ほどの赤いぽっちを指さした。
「かゆいの?」
「いや、そんなに」
そもそも俺は、蚊に刺されてもそれほど腫れないし、痒くもならない。
父方の遺伝であるらしい。
そう説明すると、
「ずるい!」
と激昂されてしまった。
代われるものなら代わってあげてもいいが、体質ばかりはどうにもならない。
うにゅほをなだめながら、並んでカップアイスを食べた。
機嫌はすぐに直った。
うにゅほは食べ物にも弱い。



2012年7月28日(土)

スーパーへ寄った際、200mlパックのココアを購入した。
車内で飲もうとストローを外し、
「あっ」
誤って取り落としてしまった。
運転席と助手席とのあいだに入り込んでしまったようで、手を挿し入れても一向に見つからない。
喉が乾いていたのだが、仕方ない。
「のむ?」
うにゅほが缶コーラを半分くれたので、喉を潤すことはできた。
帰宅して台所の引き出しを探すが、見つかったのは太いストローばかりだった。
「どうしよう……」
ストロー付きの製品をもうひとつ買ってくるしかないのだろうか。
しかし、そこまでして飲みたいわけでもない。
ココアを前にして頭を抱えていると、うにゅほが助け舟を出してくれた。
「そのままのめないの?」
「……そのままって?」
「あなあけて、ちゅーって」
なるほど。
いささか無理が過ぎる感はあるが、他に方法はなさそうである。
俺は小指の爪で銀紙に穴を開けると、そのまま紙パックに吸い付いた。
「──…………」
飲みにくいが、飲めないことはない。
悪戦苦闘する様子を楽しそうと判断したのか、うにゅほが「ひとくち」と手を差し出した。
缶コーラを半分もらっているので、恩を返さないわけにはいかない。
「はい」
ココアを渡す。
躊躇なく紙パックに吸い付いたうにゅほを見て、思わず背筋が伸びた。
間接キスにはもう慣れたが、さすがにこれは恥ずかしい。
「……美味しい?」
「うん」
「じゃあ、全部飲んでいいよ」
「うん?」
不思議そうな表情を浮かべたうにゅほに、苦笑を返すことしかできなかった。
二度とストローは無くすまい。



2012年7月29日(日)

友人と旅行へ行くことになった。
日帰りであるため、うにゅほも一緒である。
道の駅をはしごし、きのこ汁をすすったり名物を試食したりと、食い道楽じみた旅路となった。
旅には目的が必要だ。
たとえ有名無実と化そうが構わない。
目的があるというだけで気持ちが引き締まるものである。
今回の場合、それは室蘭名物カレーラーメンだった。
俺はカツカレーラーメンを注文したのだが、控えめに言っても失敗だった。
不味いわけではない。
むしろ美味い。
とろみのあるカレースープが麺と絡み合い、名物の名に恥じぬ味と言える。
しかし、重いのだ。
胃にずしりとくる重さは、カツへの後悔を抱かせるに十分だった。
「……うぷ」
隣席のうにゅほが口元を押さえた。
麺は半分ほど残っているが、うにゅほはそもそも辛いものが苦手なのだ。
よく頑張ったほうである。
うにゅほの食べ残しを処理していると、間もなく胃袋の限界がやってきた。
仕方がないので、俺の食べ残しを友人の前にそっと移動させた。
三段逆スライド方式である。
持つべきものは、大食いの友人かもしれない。
室蘭の道の駅では、うにゅほが物欲しそうに眺めていたイルカのストラップを買った。
これで携帯を持ち歩くようになってくれればいいのだが。
地球岬で絶景を写真に収めたあと、夕日に見送られて家路についた。
帰りの車内、うにゅほは後部座席でずっとうつらうつらしていた。
午後八時過ぎに帰宅したあとも、いつもより早くに就寝してしまった。
エアコンの冷風に当てられたのかもしれない。
十時間以上も車内にいたのだから、無理もない話である。
体調を崩していなければいいのだけれど。



2012年7月30日(月)

悪い予感が当たるのは、希望が混じらないからである。
午前中から、顔色が悪いとは感じていた。
昼食のそうめんを半分以上残したあたりで、ようやく確信が持てた。
「◯◯。具合、悪いんだな?」
語気を強めて言った。
「……うん」
俺たちは家族である。
引け目を感じて体調不良を訴えなかったうにゅほにも、遠慮をさせてしまった自分たちにも、等しく腹が立つ。
午後一番で、かかりつけの内科へ連れて行った。
医療費は母親と折半した。
「夏バテですね」
医師がそう診断を下したとき、緊張の糸がぶつりと切れた。
よかった。
いやよくはないけど、大きな病気でなくて安心した。
「滋養をとって、ゆっくり休んでください。
 心配であれば、ビタミン剤を出しておきましょうか」
二週間分のビタミン剤を処方してもらい、帰宅した。
「すこし眠ったほうがいいと思うよ」
「うん」
自分の寝床へ向かうかと思いきや、うにゅほは自室のソファに腰を下ろした。
このソファは、俺の寝床でもある。
そのままごろんと横になったので、タオルケットを掛けてあげた。
「……ありがと」
「ここで寝るの?」
「うん」
PCチェアに腰掛ける。
チェアとソファの位置は程近く、2メートルと離れていない。
人恋しいのかもしれないと思った。
適当にネットサーフィンをしながら、時折うにゅほの様子を窺っていると、
「ふふっ……」
よくわからないが、笑われてしまった。
心外である。
数十分もそうしているうちに、ようやく寝ついたようだった。
「おやすみ」
口の中でそう呟いた。
具合がよくなったら、プールにでも行こうか。



2012年7月31日(火)

四週間に一度の通院日だった。
うにゅほも一緒に来たがったが、昨日の今日である。
静養するように言って、家を出た。
帰宅すると、うにゅほがリビングのソファに腰を下ろしながらテレビを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
顔色も、声の張りも悪くない。
すこし元気になったのかもしれない。
母親が外出していたので、昼食はカップラーメンで済ませることにした。
火を使う料理など、暑くてやっていられないという事情もある。
「ほら」
スープまで平らげたうにゅほに、昨日処方されたビタミン剤を渡す。
うにゅほは渋い顔をして、
「……もうなおったよ?」
と言った。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
すこし元気になったと思ったら、すぐこれである。
「ちゃんと飲まないと駄目だ」
「だって、のどにひっかかるんだもん」
なるほど、喉元をなかなか過ぎてくれないのか。
錠剤を飲めない人がいるらしい、という話は聞いたことがあった。
共感はできないが、理解はできる。
単純に慣れの問題なのだろう。
さて、どうすべきかと黙考したところ、テーブルの上の紙袋が目についた。
四週間分の薬である。
寝る前に飲む薬であるため、うにゅほには見せたことがなかった。
ずらりと繋がれた小袋を千切り、うにゅほに手渡す。
「くすり……?」
「俺の薬。十二錠で一回分」
「えっ」
「比べることじゃないけど、俺はこれだけ飲んでるよ」
そう言って、俺は部屋に戻った。
しばらくしてうにゅほの薬袋を検めると、ビタミン剤が減っていた。
不健康自慢ほど痛々しいものはない。
しかし、それでうにゅほが薬を飲んでくれたなら、恥を忍んだ甲斐があったというものである。


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