>> 2012年6月




2012年6月1日(金)

一階の台所にアリが湧いたのでなんとかしろ、と勅命が下った。
我が家は二世帯住宅で、一階には祖母が住んでいる。
弟の部屋もある。
弟に頼めと思わないでもない。
以前にも1ミリほどの謎虫が大量発生したことがあり、その一件を解決したのが俺だったためであろう。
ちなみに俺は虫が大の苦手である。
余計な真似をしてしまった。
うにゅほと連れ立って一階の台所へ行くと、たしかにアリの姿が散見された。
アリと聞いて想像されるサイズより、二回りほど小さい。
春だからだろうか。
「◯◯ー」
手分けしながら侵入口を探していると、うにゅほが俺の名を呼んだ。
「ここ」
うにゅほがガス台の裏を指さす。
覗きこんでみると、
「……ぎゃあ」
うようよ。
見なかったことにしようと思った瞬間、
「えい」
うにゅほが手のひらをガス台の裏に押しつけた。
指先ではない。
手のひらである。
「あー……」
「見せないで! 見せないで! 手を洗う!」
慌ててコックを捻り、水を出した。
相変わらず虫に対し非情である。
しかし、わかったこともあった。
どうやらガス台の奥に、見えない穴があるらしい。
縁の下に新しくできた巣から這い出たアリが、その穴を通り、食物の潤沢にある台所へと侵入しているようだ。
これはアリの巣ごと潰さなければどうしようもない。
とりあえずホームセンターへ行き、アリの巣コロリ(の類似品)を買ってきた。
ひとつ様子を見てみよう。



2012年6月2日(土)

Q.
ああ、空はこんなに青いのに
風はこんなにあたたかいのに
太陽はとっても明るいのに
どうしてこんなに眠いの?

A.
本当は怖い家庭の医学

シャレにもならない冗談はさておき、今日は睡魔の勤労意欲がやたらと高かった。
眠たければ眠ればいい。
しかし、ひとつだけ問題があった。
午後からうにゅほと外出する約束をしてしまったのである。
天気もよく、暑いくらいの日和である。
ゲオで「となりのトトロ」を借りるなり、ちょっと長めの散歩へ行くなり、いろいろと考えていた矢先にこれだ。
うにゅほも完全に行く頭になっていたようで、半寝ぼけのまま芋虫のように転がっている俺の様子を幾度となく窺っていた。
こんな会話をした気がする。
「ね」
「……ん」
「ひとりで行ってきていい?」
「いい……よ──」
本当にいいのか?
と自問自答するころには、うにゅほの姿は既になかった。
うにゅほが一人で外出するなど、半年ぶりのことである。
まだ家に馴染んでいなかったころ、たびたび散歩へ出ていた記憶があるが、それ以降は確認していない。
大丈夫なのか?
いやべつに治安が悪いとかではなく、迷子になったりしないだろうか。
半覚醒状態の意識で急に心配になり、寝床から這い出た。
そして、上半身をカーペットに押しつけた状態のまま、えらく夢見の悪い眠りに呑まれていった。
は、と唐突に目覚めた。
既に日が傾いていた。
うにゅほの姿がないことに慌ててリビングへ出ると、母親と一緒に名探偵コナンを見ていた。
じゃがりこも食べていた。
散歩に出たはいいが、特に行くところも思いつかず、犬を連れて散歩コースを一周してきただけらしい。
無駄悪夢である。
コナンが終わったあと、ふたりで二度目の犬の散歩へ行った。
すこしコースを外れてみた。
たまにはまあ、いいものである。



2012年6月3日(日)

食欲がなかったので、ブランチを抜いた。
腹の虫が騒いだのは午後四時頃で、そのまま食べられるものも見つからなかった。
ならば卵でも焼こうかと冷蔵庫を漁っていると、うにゅほが作ってくれると言った。
卵を渡して、食卓についた。
すくなくとも目玉焼きに関して、もう不安はない。
卵を割るときだけは危なっかしいが、そもそも俺は完熟派である。
いずれにしても黄身は潰すのだ。
カラさえ入っていなければ、なんだって構わない。
ふと思い出す。
そういえば、「黄身を潰して焼く」という調理法に気づいたのは、うにゅほが卵を割り損ねたおかげだった。
目玉を焼いて十余年、白身を焦がさず黄身に火を通すことだけに注力してきた。
白身を焦がすたび、半熟の黄身がトロリとこぼれるたび、無力感に苛まれたものである。
常識だと思っているものには、意外と抜けがあったりする。
考えてみればごく当たり前の調理法なのに、十年以上気がつかなかったのだから、なんともはや。
ぼんやりとそんなことを考えていると、完成したようだった。
フライ返しを使って目玉焼きを皿に乗せ、うにゅほは軽く小首をかしげた。
そして、「まあいいか」とばかりに両手で皿を持ち、数歩離れた食卓に歩み寄った。
「はい!」
「さんきゅー」
皿を受け取ると、目玉焼きが二つ折りになっていた。
ああ、移し損なったな。
「まあいいか」とばかりにマヨネーズをかけて、そのままいただいた。



2012年6月4日(月)

不意に食べたくなるものがある。
俺にとってのそれは、さけるチーズである気がしてならない。
それもプレーンに限る。
最近台頭してきたガーリック味は実に美味だが、ガーリックバターの味と言われれば、否定できる材料がない。
だったらガーリックバターを舐めても同じである。
ジャンプを求めてコンビニへ行った際、手に取ってしまったのがいけなかった。
戻そうと思っても指先から離れない。
仕方がないので、割高なのを覚悟し、ついでに購入することにした。
うにゅほに何味がいいか問う。
コンビニのさけるチーズは1本パックなので、彩りよく味を変えられるのがメリットと言える。
数秒ほど考え、うにゅほが手に取ったのは、同じくプレーンだった。
なんだか損した気分。
でもプレーンとスモークしかなかったし、だったらプレーンになるかな。
レジを通して帰宅し、手を洗ったあとで、ソファに並んでパックを開けた。
ちびちびと裂きながら雑談していると、ふと思い出したことがあった。
それは、さけるチーズを食べるたびに思い出し、食べ終わると共に忘れてしまう、夢まぼろしのようなひらめきである。
「俺、さけるチーズを裂かずに食べたことってないんだよね」
食べるたびにやってみようと思い、結局やらずにここまで生きてきた。
「さかずに?」
「だから、このまま齧るんだよ」
ジェスチャーを交えて説明してみせると、
「こう?」
がぶり。
く、食いよった!
こいつ食いよったで!
うにゅほはしばらくもむもむと咀嚼し、ゆっくりと嚥下したあと、
「……あんまおいしくない」
と、渋い顔をした。
目の前でやられてしまったら、試す以外の道はない。
俺は震える手でさけるチーズを口元へと持っていくと、ままよとばかりに齧りついた。
もぐもぐ。
うん。
裂いて食べることを想定して作られている製品を、裂かずに食べて美味しいはずがない。
わかってた。
フグ刺しをがばっと取って食べるのも似たようなものなんだろうな、などと胸中に去来した晩春の午後だった。



2012年6月5日(火)

月に一度の通院日だった。
薬袋を受け取り、まっすぐに帰宅した。
部屋の扉を開くと、
「もわっ」
とした熱気が、逃げ場を探すように溢れ出た。
「あつ!」
うにゅほが軽く悲鳴を上げ、一歩後退る。
そうか、今年もこんな時期がやってきてしまったか。
俺とうにゅほの部屋は日当たりが良いため、夏場に窓を閉め切っていると、あっという間に蒸し風呂状態になってしまう。
夏の一文字はまだ遠いけれど、今日は快晴で、気温も高かった。
窓を閉めて出たのは失敗だったようだ。
出入口の扉と二枚の窓を開けて、風の通り道を作った。
数分もすれば快適な室温に戻るだろう。
リビングに避難していたうにゅほにその旨を告げ、適当にテレビをつけた。
冷凍庫に何故か常備されているザクリッチをふたつ取り出して、片方をうにゅほの眼前に差し出した。
「暑いの嫌いか?」
「うん……」
「寒いのと、どっちがいい?」
「さむいほうがいいな」
体温が高いからだろうか。
いや、それだと相対温度が大きくなるから、寒いのが苦手になりそうなものである。
しかし、なんとなく得心が行くのは、年少へと戻るほど寒さが気にならなかった記憶があるからだ。
体表面積の差なんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、
「◯◯は、あついの好き?」
俺は、確信を持って答えた。
「大嫌いだな」
要は、暑いのも寒いのも駄目なのだ。
おまけに虫も駄目なのだ。
夏よ来るなと叫びたい。
うにゅほは虫に嫌悪感がないようなので、奴らが現れたときは背中に隠れようかと画策している情けない俺である。
人には得手不得手があるのです。



2012年6月6日(水)

「となりのトトロ」のDVDを借りてきていたので、PCで視聴することにした。
スタジオジブリの名前はしっかり覚えているようで、うにゅほは見るからにそわそわしていた。
トレイにDVDを入れたがったくらいだから、間違いないだろう。
やはりジブリは偉大である。
俺にとっても数年ぶりの視聴だ。
見入っているうにゅほの邪魔をしないよう、俺も画面に集中した。
twitterクライアントも最小化しておいた。
エンディングの後、
「面白かった?」
と問うと、こくこくと深く頷いた。
言葉もないらしい。
よかった。
ジブリ作品のなかでも「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」は、うにゅほのツボに違いないと睨んでいたのだ。
「天空の城ラピュタ」も「風の谷のナウシカ」も、放映時間のせいかクライマックスで寝ているからな。※1 ※2
後日、ラピュタはDVDをレンタルさせられたけれど。
閑話休題。
改めてトトロを見て感じたのは、やはりサツキのしっかり者ぶりである。
頭が下がると共に、そうならざるを得なかった家庭環境を不憫に思ってしまう。
だからこそ、母親が退院したあとを描いたエンディングムービーに、心の底から「よかったなあ」と感じるのだ。
「サツキはしっかりしてるよな」
「うん」
「十歳なのに」
「えっ」
「えっ?」
たしか十歳だったはず。
調べてみたら、あまりにしっかりし過ぎているので、後から十二歳に変更されたらしい。
「わたしより年下だったんだ……」
いや待て。
君は、自己像の年齢をもうすこし引き上げたほうがいい。
と思ったけど、言うほど離れているわけでもないのか。
ジェネレーションギャップである。

※1 2011年12月9日(金)参照
※2 2012年5月11日(金)参照



2012年6月7日(木)

ビッグねむネコぬいぐるみをギュウギュウと絞め上げながら、うにゅほがリビングでトトロ三周目を観賞していた。
二周目までは付き合ったが、さすがにきつい。
しかし、なにかに集中していると楽になるらしいので、止めるのも悪い。
「俺、図書館に行ってきていいか?」
「うー」
いいのか悪いのか。
行って返して借りて帰ってくるだけだから、一時間とかからない。
三度目のエンディングが流れるころには、既に帰宅していることだろう。
俺がそう説明すると、
「……いってらっしゃい」
トトロ見たさが勝ったのか、画面に顔を向けたまま、そう呟いた。
うにゅほと別行動をとるのは久方ぶりである。
外出用のイヤホンを机の引き出しから取り出して、iPhoneに繋げた。
つい半年前までは、どこへ行くにも片耳にイヤホンを装着していたものである。
iPod機能を呼び出し、ラジオのバックナンバーを再生する。
数秒の後、音が途切れた。
断線しかけているのか?
それとも、iPhoneの不調?
どちらにせよ使えないことに変わりはない。
溜息をひとつついて、イヤホンを仕舞い直した。
十分ほど車を走らせて、市立図書館へ。
幸先の悪さでなんとなく予想がついていたが、探している書籍は相変わらず貸出中だった。
これで三度目である。
大仰だと思って避けていた予約サービスも視野に入れるべきだろう。
菌糸類についての資料とクラシックのCDを二枚借りて、駐車場へと足を向けた。
数歩進んで、立ち止まった。
なにか忘れてはいまいか。
自問し、自答し、図書館へと取って返した。
帰宅したときには、トトロは既に終わっていた。
こころなしか恨みがましいうにゅほの視線に怯みながら、一冊の本を差し出した。
タイトルは「たのしいムーミン一家」。
図書館二階の最奥にある例の児童書コーナーで見つけたものである。※1
どれを読めばいいかわからないなら、選んであげようと思っていたのだ。
俺もアニメしか見たことはないが、ハズレということはないだろう。
「明日にでも、一緒に読むか」
そう言うと、うにゅほは深く頷いて、ビッグねむネコぬいぐるみに顔をうずめてしまった。

※1 2012年4月28日(土)参照



2012年6月8日(金)

昨日の約束通り「たのしいムーミン一家」を一緒に読むことにした。
ソファに並んで座り、うにゅほにも見えるよう本を開く。
しかし、しっくりこない。
ジャンプを読むときの姿勢なのだが、文庫本の大きさではいささか首がつらい。
いろいろと試行錯誤した結果、二人羽織りの形になった。
俺がソファに深く腰をかけ、両足を広げる。
そして、うにゅほがそのあいだに座るという、なんというか、気恥ずかしい体勢だ。
しかし、読みやすいことは読みやすい。
問題らしい問題と言えば、密着しているせいで暑いくらいのものである。
1ページ目を三度黙読し、そろそろいいかと繰ろうとしたとき、
「まって!」
うにゅほが制止の声を上げた。
ま、まだか。
五度目の黙読を終え、文庫本を軽く曲げようとすると、
「まだ!」
そうだ、うにゅほは活字を読み慣れていないのだった。
どうして俺は、一緒に読もうなどと言ってしまったのだろう。
もはや音読したほうが早いのではないか。
「……それだ」
そう、音読したほうが早いなら、音読すればいいのである。
うにゅほに了解を取って、俺は咳払いをした。
「えー、ある灰色にくもった日のことです。ムーミンたちの住む谷間に──」
単に読み聞かせるのもつまらない。
うにゅほには、スノークのおじょうさんとムーミンママの台詞を担当してもらうことにした。
第一章を読み終えて、うにゅほに尋ねてみた。
「どう?」
「おもしろい!」
「内容と、読むのと、どっちが?」
「よむほう」
そっちですか。
地の文を頼んでもいいかもしれないな。
そして、日記を書いている今、ふと気がついたことがあった。
思いつきで始めた朗読だが、もしかしてムーミン一家シリーズをすべて読み切るまで終わらないのではないか?
いや、そんな。
まさか。



2012年6月9日(土)

iPhone用のイヤホンが壊れたことは、以前に書いた。※1
そう頻繁に使うものではないが、常に備えておくことを常備と言う。
五百円分の割引券もあるし、ほんのすこしだけ財布も潤っている。
砂漠だけど火星より潤っている。
最近ちょっとヤバい声でいななく軽自動車を駆り、ヤマダ電機へと向かった。
うにゅほはヤマダ電機が好きである。
というか、ヨドバシカメラとビックカメラがあまり好きではない。
その理由というのが「空いてるから」という不名誉なものであったとしても、好意であることに変わりはない。
炊飯器のフタを意味なく開け閉めしたりしつつ、イヤホン売り場へと歩を進めた。
さて、読者諸兄はご存知だろうか。
イヤホンコードにはY型とU型の二種類がある。
Y型は「文字通り」左右のコードが同じ長さのものを指す。
イヤホンと聞いて想像されるのは、恐らくこちらだろう。
対してU型は、右側のコードだけがだらりと長い。
未使用時、首に掛けられるように配慮されているのである。
俺は以前からU型のイヤホンを愛用していたのだが、探してみるとほとんどがY型だった。
どうしてなのだろう。
だって、イヤホンだぞ。
ヘッドホンじゃないんだぞ。
街中で不意に知人と会ったとき、外したイヤホンを持て余したりはしないのか。
うにゅほと手分けをして、U型のカナルイヤホンをひとつだけ見つけた。
しかし、お値段2480円。
音に一切こだわりのない俺にとっては、かなりの出費である。
980円くらいのでいいのに……。
涙を呑んで、購入した。
帰宅し、新旧のイヤホンを見比べていたうにゅほに、
「古いほう捨てといてー」
と言い置いてリビングへと向かった。
牛乳を一口煽り、自室へと戻ると、
「……古いのって、どっち?」
と、うにゅほが困惑していた。
「古いほうって、そりゃあ──」
イヤホンを見比べる。
同じ形。
同じ模様。
これ、同じイヤホンだ!
そういえば、以前もU型を必死に探した記憶がある。
このメーカーが作らなくなったらどうしよう。
コードに縛り癖のない古いイヤホンをゴミ箱に放り捨てながら、そんな不安に駆られた。

※1 2012年6月7日(木)参照



2012年6月10日(日)

数日前に届いた郵便物が、エアパッキンで梱包されていた。
いわゆるプチプチである。
捨てるのももったいない気がして、荷物一時置き場※1に放置していたものを、食後にぷちぷちと潰していた。
「なにしてるの?」
うにゅほが興味を示した。
「プチプチ」
と口にしたあと、追って説明の言葉を探した。
「このまるいのには空気が入ってて、これをぷちぷち潰してたんだよ」
「なんで?」
論より証拠だ。
俺はエアパッキンをうにゅほに手渡した。
うにゅほが緊張の面持ちで、気泡をぐにっと押し潰す。
ぷす。
あまりに気の抜けた音に、持ち上がった口角を手のひらで隠した。
空気の少ない気泡に当たったらしい。
うにゅほが小首をかしげる。
「これ、コツがあるんだよ」
中央部を上下に潰すのではなく、端から空気を追い込むように潰すのだ。
そうしたほうが握力も要らないし、鳴りも良い。
ぷちっ!
「おー!」
俺の指導の通りに気泡を潰したうにゅほが、感嘆の声を上げた。
なんかよくわからないけど気持ちよかろう。
ぷちぷちぷちぷち。
ぷちぷちぷちぷち。
夢中で潰して三十分。
そこには、気泡の全滅したしわしわのエアパッキンがあった。
うにゅほは単純作業向きである。
「もうないの?」
これが、あるから困ってしまう。
荷物一時置き場からエアパッキンを無言で取り出し、うにゅほに渡した。
ぷちぷちぷちぷち。
ぷちぷちぷちぷち。
就寝時刻までやっていた。
これを毎日続けていたら、腕力とかすごい鍛えられそうだ。

※1 荷物一時置き場
本棚の前にある折りたたみテーブルのこと。
「あとで片付ける」たぐいのものが一時的に保管されている。
永住者もいる。



2012年6月11日(月)

午後、コンビニで少年ジャンプを買った。
ついでに必要ないものまで買ってしまう癖は、直したほうがいいかもしれない。
和風フライドチキン塩ダレ味はそこそこ美味だった。
帰宅して、ソファに腰を下ろした。
ジャンプはうにゅほと一緒に読む決まりになっている。
しかし、表紙をめくっても、隣の席が埋まる様子はない。
不信に思い視線を上げると、うにゅほは虚空をぼんやりと見つめ、何事か思案しているらしかった。
「!」
表情が明るくなる。
うにゅほが俺の手を取り、引っ張った。
「え、どうした?」
「まあまあ」
されるがままに立ち上がる。
きちんとベッドメイクされたうにゅほの寝床を前にして、
「ねて!」
まあ、したいようにさせてみよう。
掛け布団の上に、仰向けで横になる。
「ぎゃく!」
「はいはい」
くるりと反転し、うつ伏せに。
「ジャンプもって」
「へいへい」
うつ伏せでジャンプを読む格好となり、うにゅほの意図になんとなーく気付く。
でもちょっとだけ静観。
「よっしょ」
背中に心地よい重みと、体温。
そして、吐息が触れるくらいの距離にうにゅほの顔。
「めくってー」
「…………」
無理です。
この姿勢でジャンプを読み進めるのは不可能です。
調子こいてすみませんでした。
両腕を使った伏臥上体そらしでうにゅほの下から逃げ出すと、慌ててソファに戻った。
うにゅほは不思議そうな顔をしていた。



2012年6月12日(火)

夕方、ゲオへ行った。
DVDを数本と、スケッチブック8巻を手にし、帰途に着いた。
帰り際にドラッグストアへ寄った。
弟に便秘薬を頼まれていたのである。
弟の排泄事情はさておき、ふと思いついたことがあった。
うにゅほはひとりで買い物ができる。
まあ、某バラエティ番組で、誰にも内緒でとばかりに幼児がおつかいをこなすさまを見れば、当然のことではあろう。
だからこそ、ひとつ難易度を上げてみてはどうか。
俺の右手に、弟の愛用している便秘薬の箱がある。
店員に見せれば一発だが、知らない人に話しかける勇気が必要とも言える。
「というわけで、ひとりで行ってみよう」
「……えー」
便秘薬の箱をうにゅほに手渡し、言った。
「ちゃんとできたら、わがままのひとつくらい聞いてあげるから」
「うん……」
不安そうにチラチラとこちらを振り返りながら、自動ドアの奥へと消えていく。
俺は車内に戻り、ハンドルに上体を預けた。
一分。
まだ入ったばかりだ。
二分。
店内をうろついている頃だろうか。
五分。
さすがにそろそろ店員と話しているかもしれない。
十分。
遅い。
確実に遅い。
ドアノブに右手を掛け、店内に乗り込むべきか迷っていると、ようやくうにゅほが戻ってきた。
しかし、その手に袋はない。
「どうだった?」
「おなじのなかった……」
「そっか。ちょっと遅かったからさ」
「店員さんに、いろいろきかれて」
なんでも、便秘薬を必要としているのがうにゅほであると勘違いした店員が、いろいろと薬を見せてくれたのだそうだ。
ありがた迷惑というやつである。
「じゃ、わがままをひとつ聞いてあげよう」
買えなかったのは品揃えのせいであり、うにゅほに落ち度はない。
うにゅほは憔悴した様子で、答えた。
「つぎのお店は、いっしょにきて……」
俺は、笑って頷いた。
弟の便秘薬は、帰り道にある別のドラッグストアで見つかった。
帰宅して一息つき、スケッチブック8巻を本棚に仕舞おうとすると、既に同じ背表紙が並んでいた。



2012年6月13日(水)

水曜と土曜は、祖母を整形外科へと連れていく日である。
治療に一時間ほどかかるので、送りと迎えで二往復する。
二度手間になるため、整形外科の場合はうにゅほを連れて行かないのが常である。
いつものように玄関を出ようとすると、祖母が一階からうにゅほを呼びつけた。
うにゅほが慌てた様子で階段を下りてくる。
なんでも、行きしなに買い物をするので、付き合ってほしいそうだ。
食料雑貨の買い出しはそう珍しいことでもないが、普段は病院からの帰り道である。
理由を問うと、帰りは帰りでまた別の用事があるらしい。
いやまあ付き合いますけど。
スーパーマーケットで三袋分の食料を買い込み、祖母を病院で降ろし、来た道を取って返した。
家の前に駐車し、うにゅほに軽い袋を渡す。
ペットボトル入りの二袋は、俺が両手に提げた。
細く伸びたビニールが手のひらに食い込む。
重みよりも痛みに耐えながら、小走りで玄関へと向かい、ドアノブを捻った。
がちゃがちゃ。
開かない。
母親と弟が母方の実家へ行っているため、鍵を掛けて出たことを思い出す。
鍵はポケットに入っている。
中身がこぼれないよう、ビニール袋をバランスよく置くのが面倒だったので、無理な体勢で右手をポケットに突っ込んだ。
「ぎぎ」
持ち手がつかえて、指先までしか入らない。
悪戦苦闘していると、
「わたしやる」
うにゅほがそう言って、背後から俺のジーンズのポケットへと手を突っ込んだ。
「うひゃ」
くすぐったい!
「うごかないで!」
「おまそんなこと言ったってうひゃいひゃひゃ」
一分ほどのやり取りのあと、
「あったー」
うにゅほが鍵を眼前に掲げた。
俺は、なんだかぐったりと疲れてしまった。
セクハラされた気分である。
ちなみに、祖母の帰りの用事とは、古本屋で小説を仕入れることだった。



2012年6月14日(木)

「たのしいムーミン一家」を、ふたりで朗読しながら読んでいる。※1
児童書とは言え、文字数も多く、まだ半分も進んでいない。
ちょうどニョロニョロが出てきたあたりで、今日は本を閉じた。
ニョロニョロ。
ムーミン一家シリーズに登場する、ふしぎな生き物である。
白く塗った消火栓に手のひらをふたつ取り付けたような外見で、その名の通りにょろにょろくねる。
実は、ほぼ等身大のぬいぐるみが部屋にある。
うにゅほも見たことはあるはずだが、覚えていなかったらしい。
俺とうにゅほの部屋には、プライズゲームで取ったぬいぐるみが小山ほどあるので、それも仕方のないことと言えよう。
そんなわけで、箪笥と本棚の隙間に押し込められていたニョロニョロを、えいやと引っ張り出してみた。
両手で掲げて、うにゅほに見せる。
「ほら、ニョロニョロ」
「にょろにょろ」
「挿絵あったろ。ニョロニョロ」
「ほー」
ニョロニョロの頭をぐわしと掴まれた。
もっと持ち方あるだろ。
それにしても、このニョロニョロのでかいこと。
二分の一うにゅほくらいある。
あまりのでかさに置くところがなく、無理矢理隙間に詰め込んだことを思い出した。
他にもいくつかの隙間にぬいぐるみが詰まっている。
梱包材か何かか。
軽く振り回されていたニョロニョロを受け取り、仕舞おうと箪笥の傍にしゃがみ込む。
「──…………」
ふと思いついたことがあった。
立ち上がり、ニョロニョロの頭部と底部を鷲掴む。
そして、アコーディオンの要領でニョロニョロを激しくくねらせた。
「ニョロニョロがニョロニョロ!」
えらいウケた。
普段はポーカーフェイスなくせに、笑いの沸点が低い。
ちなみにダジャレも好きだったりするのだが、それは別の機会にでも。

※1 2012年6月8日(金)参照



2012年6月15日(金)

「あれ?」
犬の散歩をしている最中、うにゅほが立ち止まった。
「ここの犬、いないね」
うにゅほは、ある一軒の民家の庭へと視線を向けていた。
立派な犬小屋が、わざわざ反転して置かれている。
入り口が見えないように。
「ああ」
俺は理由を知っている。
あの立派な白犬が、どこへ行ってしまったか。
それを告げることを逡巡する。
必要のない重荷だ。
悲しみとはロウソクの炎のようなもので、分けることはできても、分け合うことはできない。
与えて、減らすことができない。
なら、伝えることに意味はあるのか?
「……ここの犬、死んだんだ」
膝を折り、愛犬の背中を撫でながら言った。
「しんだの?」
「そう」
うちの犬は十五歳だ。
数年のうちに死ぬだろう。
俺やうにゅほがその瞬間に立ち会う確率は、限りなく高い。
「そっ、か」
うにゅほは何事か思案したあと、ゆっくりと歩き出した。
家に帰るまで、なにも話さなかった。
うにゅほに言わなかったことがある。
白犬は晩年、飼い主から世話を放棄されていた。
散歩すら、哀れに感じた隣人が行なっていたという。
それを知ったとき、やるせない気分になった。
これこそが必要のない重荷だ。
だから、分けない。
エサ皿を置くタイミングを図るうにゅほと、興奮してまとわりつく犬を見ながら、なんとはなしに安堵していた。



2012年6月16日(土)

帰宅した父親をふたりで出迎えると、
「ほれ」
と缶コーヒーを放られた。
父親は時折、缶コーヒーを持って帰ってくることがある。
土産にしては微妙だし、いつも一本だけである。
たぶん、職場で誰かにもらっているのだと思う。
冷蔵庫に入れる手間が省けたとばかりに風呂場へ向かう父親を見送ったあと、缶コーヒーを掲げて俺は言った。
「飲む?」
「はんぶんでいい」
缶コーヒーの半分なんて、精一杯の一口くらいしかない気がするけど。
プルタブを開けて、試してみる。
精一杯でもなかった。
すこし多めの一口だった。
嚥下して、缶を手渡す。
受け取ったあと、
「あっ」
と声を上げて、うにゅほが缶を取り落とした。
絨毯にコーヒーが広がっていく。
口をつけようとして手が滑ったらしい。
俺は慌ててしゃがみ込むと、缶を立てて被害の拡大を防いだ。
「◯◯! なんか拭くもの!」
「は、うん!」
呆然としていたうにゅほが、弾けるように動き出した。
そして、ティッシュを二枚ドローした。
「はい!」
せめて箱ごと取ってくれ。
「悪いけど、ちょっと拭いてて」
「うん!」
これは、自分で動いたほうが早い。
濡らした雑巾を洗面所から持ってくると、うにゅほと交代した。
うにゅほの手には、野球ボールサイズの茶色い物体があった。
さらにドローしたらしい。
水分はティッシュで粗方吸い取られており、あとは染み抜きの真似事をする程度で済んだ。
「ごめんなさい……」
うにゅほがシュンとする。
なんとかなったし、怒るほどのことでもない。
しかし、反省しているのに、それを否定するようなことを言うのもなんだかなあ。
すこし濡れたコーヒー缶を掴み、うにゅほと視線を合わせる。
「罰として、残りも俺のな」
そう告げて、雀の涙ばかりの液体を口内へと流し込んだ。



2012年6月17日(日)

父の日である。
それとはまったく関係なく、家族でラーメンを食べに行くことになった。
目当てのラーメン屋の駐車場からは、日曜の昼時とあって、自動車が何台も溢れ出ていた。
相談の末、新しくできた評判のよいラーメン屋へと取って返すことになった。
実に残念である。
最初に行こうとしたラーメン屋には、まるで泥のようなスープを使った名物ラーメンがあるのだ。
しかも、うまい。
まあ、今度平日にでも連れて行けばいいや。
新しいラーメン屋でも、席が空くまでに十分ほど待たされた。
休日昼時のラーメン屋は避けるべきだ、とXボタンで心に刻み込んだ。
俺はこってり味噌を、うにゅほは珍しがってつけ麺を頼んだ。
ああ、そんなことをしたら、味見と称して皆から麺をむしられるに決まっているのに。
大食いというほどではないが、うにゅほは見た目よりよく食べる。
ちょっとしょんぼりしているうにゅほに、あらかじめ頼んでおいたチャーマヨ丼を差し出した。
はんぶんこである。
つけ麺が意外と美味しくて、けっこう食べてしまったことの埋め合わせとも言う。
このチャーマヨ丼がうにゅほのツボに入ったらしく、目を輝かせながらハムスターのように詰め込んでいた。
「これくらいなら、家で似たようなの作れるぞ」
と言おうかと思ったが、あからさまに体に悪い食べ物なのでやめておいた。
こういうのは、たまに食べるから美味しいのだと思うし。
ちなみに、つけ麺ほどではないが、普通のラーメンもけっこう美味かった。
また来よう、などと話しながら帰宅の途についた。
父の日のプレゼントは、うにゅほと折半してウイスキーを買った。
うにゅほは酒を送ることに抵抗があるようだったが、父親の喜ぶ顔を見て意見を変えたらしい。
まあ、父親にとってのウイスキーは、コレクションのようなものだ。
ちびちび飲るならアルコールも悪くはないさ。



2012年6月18日(月)

バスタオルを購入した。
ローテーションで使用される二枚のうち、より小汚いほうを畳んでリビングに置いた。
雑巾か何かに生まれ変わるかもしれないし。
畳みながら思った。
それにしても、小汚い。
元々は白かったはずなのに、今やクリーム色と化している。
むらがないので、元々こういう色だったと言い張れば言い張れるほどだ。
ちゃんと洗っているため衛生的には問題ないはずだが、よくもまあ使い込んだものだと我ながら呆れてしまう。
しばらくしてリビングへ立ち寄ると、うにゅほがバスタオルに鼻をうずめていた。
「……なにやってんの」
うにゅほが顔を上げ、不満そうな声音で答えた。
「くさくない」
そりゃ洗濯してるもの。
というか、どうして君は臭いことを期待しているんだ。
気恥ずかしさを感じて、うにゅほからバスタオルを奪い取った。
そう言えば、灯油の匂いも好きだったな。※1
臭いものを嗅ぎたい心理はわかるが、その欲求が自分へと向けられることにはいささか抵抗を覚える。
やり返してさしあげたいが、その場合ひとつ問題がある。
というか、問題しかない。
少女の全身だの脱いだ服などをくんかくんかと嗅ぎ回る成人男子を見たら、家族だって通報するだろう。
というわけで、俺は泣きコールドスリープに入ることに決めた。
起こさないように。

※1 2012年2月11日(土)参照



2012年6月19日(火)

午後から図書館へ行った。
探している本は相変わらず貸出中のままだったので、代わりにシダ植物の写真集を借りた。
間断なく貸し出されるほど人気のある本とも思えないので、誰かが延滞し続けていると見た。
「たのしいムーミン一家」は、うにゅほ的にはいまいちだったようで、続きは借りなかった。
しかし、ふたりで本を音読することは、どうやら気に入ったらしい。
ならばと、より読みやすい児童書を探すことにした。
五分ほど本棚を漁り、今回は「彦一とんち話」を借りることにした。
懐かしいなあ。
小学生くらいのとき、塾の本棚に張り付いて読んだものだ。
帰宅して、さっそく最初の話を朗読した。
読み終えて、空咳をする。
以前から感じていたのだが、どうにも声がうまく出ない。
最近、家族以外とあまり会話をしていないからなあ。
家族や近しい友人と話すときは、どうも何かのスイッチがオフになっているらしく、声が小さいどころか目すら開いていないとよく言われる。
これでは、いざと言うときにジョークのひとつもかませやしない。
「発声練習をしよう」
「はっせい?」
「◯◯もやる?」
「やる」
唐突な奇行に妙な視線を向けられるのも嫌なので、うにゅほを巻き込んだ。
「これを、ゆっくり読み上げるんだ」
発声練習の定番「アメンボ赤いなあいうえお」をディスプレイに表示させ、順に読み上げていく。
「アメンボ赤いなあいうえお!」
「あめんぼあかいなあいうえお」
「声が小さい!」
「あめんかかいなうえお!」
短縮された。
次も定番、「あえいうえおあお」である。
「あ・え・い・う・え・お・あ・お!」
「あ・え・い・う・え・お・あ・お!」
これはアメンボより楽かな。
噛まずに濁音までこなし、
「にゃ・にぇ・にぃ・にゅ・にぇ・にょ・にゃ・にょ!」
に差し掛かったとき、
「にゃ! にぇ! に! にょ! にゅにょににゃ!」
みたいになった。
あまりこういったことは直接的に表現しないようにしているのだが、今回ばかりは言わせてほしい。
可愛かったです。
そして、日記を書きながら気付いたことがひとつ。
これって発声の練習ではなく、滑舌の練習ではないか?
うん。
まあ、いいや。



2012年6月20日(水)

PCの動作が重いので、メモリを増設することにした。
ついでに頼まれた蛍光灯をヨドバシカメラで購入し、いそいそとドスパラへ向かった。
客足の多い電機店は、やはり苦手であるようだ。
今度またヤマダ電機へ連れて行くから、今回は駐車場代と割り切ってくれ。
ドスパラでメモリについて尋ねると、親切に教えてくれた。
それにしても随分と安くなったものだ。
数年前に512Mのメモリを買ったときは、一万円以上した記憶がある。
それが4G×2で3480円だというのだから一驚を喫する。
512のメモリなんて、もはや手裏剣にすらならない。
「これなに?」
車中でうにゅほに尋ねられたので、いろいろと頭を巡らせた挙句、
「たぶん、ドラえもんの頭に入ってるのと同じ部品」
と答えた。
さすがのうにゅほも誤魔化されたと理解したのか、渋い顔で小首を傾げていた。
帰宅して、PCケースの蓋を開いた。
ダスキンでホコリを取りながら、マザーボードをいじる。
メモリの増設は非常に簡単である。
マザーボードから古いメモリを引っこ抜き、新しいメモリを挿し込むだけでいい。
鼻歌まじりでメモリのロックを外そうとして、凍りついた。
グラフィックカードが片方のロックを塞いでいる!
そして、当のグラフィックカードを引き抜こうとすると、今度はハードディスクに引っ掛かってしまう。
これは大仕事になりそうだ。
工具箱からマグネットドライバーを取り出し、マザーボードごと外そうと奮闘すること三十分。
うにゅほが夕飯の支度から戻ってきた。
「なにやってるの?」
「メモリを取り替えたいんだけど、引っ掛かってできないんだ」
「メモリって、さっきのやつ?」
「そう。だから、分解してるの」
「ぬけないの?」
「見てな」
俺はメモリのロックを六角レンチで押し込み、指先にぐっと力を込めた。
「ほら! ……抜けた……」
抜けてしまった。
「ぬけたね」
「ああ、うん。よかった。ありがとう」
「? うん」
単純に引っ張る力が足りなかっただけらしい。
よく考えてみると、そもそもグラフィックカードを抜かないとメモリを増設できないマザーボードなんて不良品もいいところである。
組み立てて起動してみると、メモリはちゃんと認識されていた。
動作も良好である。
ただ、手元に残った五つのネジだけが不安を誘う。
たぶん大丈夫だと思う。
思いたい。



2012年6月21日(木)

「ちゃ!」
朝起きてリビングへ行くと、うにゅほが俺を指差して叫んだ。
俺の苗字は加藤ではない。
理由をすぐに思い出し、寝癖を軽く撫でつけた。
昨夜、うにゅほが寝た後にブリーチをかけたのだ。
起きている最中にやると、うにゅほに髪の毛をおもちゃにされてしまう。※1
嫌ではないが、ムラができそうで怖い。
正直に理由を伝えるのもなんなので、うにゅほの髪の毛を弄んでうやむやにした。
閑話休題。
うにゅほの精神年齢は、読者諸兄が思っているよりも幾分か高い。
それは書き分けの都合上、うにゅほの台詞をひらがなにしたり、短い台詞ばかりを抜き出しているためである。
うにゅほは確かに舌足らずであるし、喋るのがあまり得意ではない。
しかし、一方的に言葉を連ねることも、そう珍しくはないのだ。
一例として、本日交わした会話を記憶の限り書き出してみよう。
「えと、部屋なの。
 部屋がね、部屋なんだけど、なんかへんなんだけど、部屋なの。
 でも、ななめなの。
 ななめで、うん……すべりだい?
 すべって、ソファだけすべってくから、あわてて乗った。
 ずるずるすべってね?
 わたしこわくて。
 すっごいはやいの!
 で、暗いからライトつけるでしょ?
 でもライトのスイッチが見つかんなくて、ソファのすきまに手を入れたら、犬がいた」
昨夜見た夢についての説明である。
これでも俺が一度咀嚼し、整理したものであるから、元の会話よりわかりやすくなっているはずだ。
実際には、より煩雑で、横道にうつろい、かつ噛みながら話している。
そういった具合であるため、長い台詞は要約し、地の文としてまとめているのである。
単語だけで会話をしようとする傾向は確かにあるので、脚色には当たらないと信じたい。
いずれにしても、うにゅほはうにゅほである。
頭をカラにして読んでいただければ幸いだ。

※1 2011年12月12日(月)参照



2012年6月22日(金)

俺が車を購入したのは、もう五年も前のことだ。
職場への足を欲し、ただひたすらに格安の中古車を探し求めた。
そうして見つけたのが平成10年式のボロっちいミニカだった。
カーステレオ完備、車検二年付き、冬タイヤまで付属して、支払総額しめて12万円。
もはや格安を超えて激安の域であるが、仕事を辞めた今でもちゃんと走り続けている。
やたらとファンベルトの切れる、財布泣かせの一台だ。
このミニカを、五万円で譲ってほしいという人が現れた。
父親の同僚である。
今乗っている車の車検が切れたため、新車を購入するまでの繋ぎにしたいそうだ。
当然、快諾した。
どうせ半年もすれば、車検が切れて廃車になる予定だったのだ。
それが幾許かの金になるならば、断る理由などありはしない。
降って湧いた臨時収入に軽く興奮していると、
「……ミニカちゃん、うっちゃうの?」
うにゅほが俺の顔と床とに視線を惑わせながら、そう言った。
ああ、そうか。
うにゅほは愛着が強い。
人に対しても、物に対してもだ。
俺は答えた。
「ああ、売るよ」
先方とは既に話がついているし、今日中に取りに来る手筈になっている。
断る理由は、ひとつできた。
しかし、それを認めるわけにはいかない。
認めた先にあるものは、たぶんゴミ屋敷とかそういうのだ。
「だから、最後のドライブに行こう」
そう言って、うにゅほの手を取った。
ドライブと言っても、特別なことはしない。
いつもの道を、どこにも寄らずに、ただ走るだけだ。
カーステレオから流れる聞き覚えのない新曲に乗せて、訥々と会話を交わしながら。
日が沈み、ミニカは引き取られていった。
「いっちゃったね」
「そうだな」
五年分のありがとうを視線に込めて、しばらく街路を眺めていた。



2012年6月23日(土)

数日前、二年間愛用したブーツのソールが真っ二つに折れた。
靴修理店のおじさんをして「これは……ちょっと、無理だねえ」と言わしめたほどの見事な折れっぷりであった。
合成皮革の安物で、ソールも随分と薄かったから、もともと寿命は短かったのかもしれない。
昨日のミニカといい、愛用物さよなら週間かなにかなのだろうか。
金が入ると、すぐに支出が発生する。
支出に困っていると、不思議と臨時収入があったりする。
不思議なものだ。
いずれにしても都合は良い。
ミニカの代わりに支払われる予定の五万円のうち、一万円くらいなら靴に使っても構わない気分だった。
母親の車で近隣の靴屋を片っ端から巡っていく。
うにゅほの靴を選んだことはあったが、俺の靴をうにゅほと探すのは初めてだ。
それにしても、自分の靴を買ったときより張り切っているのはどういうことだろう。
たしか帽子や服のときもそうだった気がする。
そして、うにゅほの服や靴を選んだときは、逆に俺のほうが楽しんでいた記憶がある。
自分より相手、と言えば聞こえはいいが、要するに互いが互いを着せ替え人形にして遊んでいるのだ。
問題がないとは言いがたいが、互いに楽しんでいるので相殺ということにしたい。
コンビニでおやつを買いつつ十件ほどを見て回った結果、一番最初のABCマートにあったブーツがいいのではないか、という結論に達した。
サイズはすこし大きめだが、中敷きでなんとかなる程度だ。
そして、本革で触り心地も良い。
うにゅほはしきりに派手なランニングシューズを勧めていたが、それ予算オーバーなんだよ。
あとランニングとかしないし。
ブーツを実際に試着し、
「似合う?」
と尋ねたところ、
「ごっついねー」
との答えが返ってきた。
たしかにごつい。
でも、こういうのが似合う外見ですから。
店員さんに勧められるがまま防水スプレーをついでに購入し、帰宅した。
玄関を探すと同じ防水スプレーが置いてあったので、カッとなって封を開け、両腕をクロスさせながら二本のスプレーをブーツに噴霧した。
目を輝かせたうにゅほに、
「カッコいい!」
と何故か褒め称えられた。
うにゅほ的には、こういうのがカッコいいのか……。
特撮ヒーローとか気に入るんじゃないか、この子。



2012年6月24日(日)

母親に一万円札をぽんと渡された。
残りの四万円の行方を尋ねると、代わりの中古車の購入資金に充てるらしい。
「あんたも乗るんだからいいでしょ?」
と言われ、ぐうの音も出なかった。
それはいい。
仕方ない。
でも、最初に言ってくれよ!
べつに断らないよ!
靴代合わせてプラマイゼロだよ!
うにゅほの頭にあごを乗せ、ぬか喜びの傷を癒す。
五分ほどそうしていると、両親が中古車ディーラーを幾つか見て回ると言った。
暇だったので、一緒に行くことにした。
手稲に白石、伏古に屯田。
中古車情報サイトでめぼしいものをチェックしていたらしく、あとは店員に話を聞くだけの簡単なお仕事だ。
乗るばかりで自動車に詳しくない俺とうにゅほは、
「あ、これミニカちゃん」
「ほんとだ。でもオートマだ、これ」
「オートマ?」
「マニュアルじゃない、簡単なやつ」
「ほー」
などと適当に会話を交わしながら中古車観賞と洒落込んでいた。
それも段々と飽きてきた四軒目、父親が唐突に俺たちを呼んだ。
「お前ら、これとこれだったらどっちがいい?」
パープルのダイハツ・ミラクラシックと、シルバーのミラジーノ。
俺には、うにゅほがどちらを選ぶのか、容易に推測することができた。
「……こっち」
うにゅほが指差したのは、ミラジーノだった。
何故なら、一昨日さよならしたミニカと雰囲気がよく似ていたからだ。
同じ色だし。
「俺も、ミラジーノかな」
うにゅほに合わせたわけではなく、俺もそちらのほうが好みだった。
クラシックデザインはけっこう好きだ。
結局、そのディーラーでは購入せず、父親の知人の店で条件に合う中古車を探してもらうことになった。
その条件とは、まず安いこと。
走行距離が短いこと。
そして、車種がミラジーノであること。
いい車が見つかればいいけれど。



2012年6月25日(月)

東京で就職をした友人が、一週間ほど前から帰ってきていた。
出戻りである。
その友人から昼食兼市内巡りに誘われたので、iPhoneを耳に当てながら鷹揚に頷いた。
「? はいんないの?」
うにゅほがすき家の入り口を指差す。
ちょうど店舗の前だったのだ。
うにゅほの頭に手を乗せ、言った。
「もっといいもん食おう!」
意図的に書き分けていないだけで、日記に登場する俺の友人は数人いる。
そのなかで唯一、面識を超えて僅かながらうにゅほと交流があるのが、彼である。
一緒に初詣へ行ったことも記憶に新しい。※1
「おなかすいた……」
うにゅほは不満気だった。
牛丼を食べようと誘ったのは俺だ。
謝りながら自宅へ取って返し、友人の迎えを待った。
三十分ほどで合流し、車内でこれから行く中華料理店について説明する。
うにゅほと出会う以前から友人とよく行った店で、これがまたやたらにうまい。
なに頼んでもうまい。
「そっかー」
うまいうまいと二人で力説していると、うにゅほも段々と楽しみになってきたようだった。
到着し、顔なじみのおじさんに大盛りエビチャーハンを頼む。
友人は大盛りあんかけ豚肉焼きそばだ。
いつも同じものを頼んでしまうのは、遠くてたまにしか来られないからだろう。
うにゅほはどうするのか問うと、
「おなじの」
と答えた。
「同じのかあ……」
本当にお揃いが好きだな、この子は。
俺の言葉に不満を嗅ぎ取ったのか、
「じゃ、カニチャーハンにする」
と言った。
できればまったく新しいメニューを開拓してくれると嬉しかったのだが。
数分待ち、威勢良く出されたチャーハンを口へ運ぶ。
ああ、この味だ。
うにゅほは言葉もないようで、猫背になりながら夢中で頬張っていた。
しかし、半分ほど食べてから一言。
「……カニは?」
「ほら、この細いの」
「えっ」
うにゅほが俺の皿のエビと、自分の皿のカニとを見比べる。
わかる。
なんか損した気分になるんだ、カニチャーハンって。
しかも、ここのエビはでかくてプリプリなのだ。
あからさまに俺が悪いので、無言でエビを数匹分けてあげた。
「エビ、うまい?」
無言でこくこくと頷くうにゅほに、連れてきてよかったと強く感じた。
今度来るときは、お揃いでエビチャーハンを食べよう。

※1 2012年1月1日(日)参照



2012年6月26日(火)

引き出しの整理をしていると、証明写真が出てきた。
六分割で、二枚だけ使われている。
指に挟んでうにゅほに渡してみた。
「? しゃしん?」
「そう。切り抜いて、履歴書とかに貼るんだよ」
「つかうの?」
「いや、もう使ったんだ。だいぶ前に」
「……?」
小首をかしげる。
やっぱりわからないか。
俺は自嘲気味に笑うと、
「下のほうに日付があるだろ。何年になってる?」
「えっ、と。にせんろく──」
「何年前?」
「えっ……ろ、ろくねん?」
「そ」
2006年と言えば、六年前。
俺が【機密事項】歳のときの写真ということになる。
うにゅほに至っては、恐らく年齢が繰り上がる前の話だ。
自分で言うのもなんだが、顔がまったく変わっていない。
老け顔が年齢に追いついた、とも言える。
うにゅほは証明写真と俺の顔とを幾度か見比べて、
「メガネがちがう!」
と高らかに答えた。
確認すると、たしかにその通りだった。
「あと、みたことない服きてる」
いやこれ間違い探しじゃねーから!
まあ、楽しそうだからいいけど。
証明写真を仕舞おうとすると、
「あ、いちまいほしい」
と言われた。
な、なしてですか。
嬉しいと同時に気恥ずかしくもあったので、奮発して二枚も切り取ってしまった。
たぶん、今は二枚ともうにゅ箱に保管されているはずである。
目に画鋲が刺された状態で発見されたら、俺は失踪する。



2012年6月27日(水)

髪の毛の長さが気になって過去の日記を辿ってみると、前回の散髪からちょうど一ヶ月経過していた。※1
今日、うにゅほは連れて行かなかった。
伯父も伯母もすこし残念そうだったが、こればかりは仕方がない。
髪が伸びると共に、しこりが消えていくことを祈ろう。
帰宅すると、母親と祖母が近所のスーパーへ行くと言った。
特売日なのだそうである。
うにゅほはどうしたいか尋ねようとして、やめた。
外出用のポシェットを肩に掛けている。
気が早い。
三十分くらい休ませてくれ。
荷物持ちが必要だと思ったので、弟も誘ってスーパーへと繰り出した。
店内は混んでいた。
うにゅほが俺の腕を抱く。
人混みが苦手なくせに、行きたがるは行きたがるのだから不思議だ。
弟がロール状の冷凍肉を指して、
「この肉、なんで丸まってるんだろ」
と言った。
「焼きにくそうなのにな」
「焼肉用だけに?」
『わっはっは』
という、通りすがりの侍に袈裟斬りにされても文句の言えないような会話をしていると、すぐ隣で吹き出す音が聞こえた。
うにゅほは、こういうつまらんダジャレに弱いのである。
「この豚も、盆を過ぎたら供養してやらないとな。
 ……秋に供養」
などと畳み掛けようかとも思ったが、公衆の面前なのでやめておいた。
あと、いまいちわかりにくいし。
「ひー」
と顔を上げたうにゅほの額をぺちんと叩き、買い物を続けた。
うにゅほはマカダミアナッツ、俺はペプシNEXを買ってもらった。
いい年こいてます。

※1 2012年5月27日(日)参照



2012年6月28日(木)

太陽が夏色を帯びた、うららかな日和だった。
「布団を干そう!」
「りょうかい!」
ベランダに出て、うにゅほが持ってきた二人分の掛け布団を受け取り、並べて干す。
敷き布団も干そうかと思い、室内へ戻った。
うにゅほの腕力でも持てないことはないだろうが、そこらじゅうが引っ掻き回されそうで怖い。
敷き布団を両手で抱えると、すのこが顔を出した。
「わ」
「どうかした?」
「なにこれ」
ああ、そうか。
掛け布団は何度も干しているが、もしかすると敷き布団は初めてだったかもしれない。
「すのこだよ。こいつのおかげで、布団が湿気ないんだ」
「ほー」
自分が何の上に寝ているか知らないのはいささか間抜けだが、そもそも教えなかったのは俺だ。
責任は俺にあるのだから、うにゅほが間抜けなら、俺もそうである。
ベランダに干した布団のように、仲良く並んで間抜けなら、それはそれで楽しそうだ。
友人と約束があり、正午から市内を巡った。
うにゅほも来たがったが、今回ばかりは丁重に断った。
らしんばんやらメロンブックスを連れ歩くのは、どう考えても問題がある。
五時頃に帰宅すると、母親がディスプレイから視線を上げ、唇に人差し指を当てた。
首をかしげながら自室の扉を開けると、うにゅほが取り込んだ布団の山の上で眠っていた。
安らかな寝顔と、カエルが潰れたようなポーズに、思わず口元がほころぶ。
もうちょっとなんとかならなかったのか。
室内は風通しがよく、すこし涼しかったので、あられもない寝姿を布団で隠してあげた。
六時には目を覚ましたので、一緒に犬の散歩へ行った。



2012年6月29日(金)

うにゅほが衣装持ちだ、という話は以前にも書いたと思う。
俺を含めた家族が買い与えたものの他に、両親が知人から譲り受けたお下がりが段ボール箱ひとつ分ある。
当然ながら、袖を通していないものも多い。
今日は、最高気温が三十度に届こうかという夏日だった。
リビングへの扉を開き、うにゅほと挨拶を交わす。
見たことのない夏物のトップスを着ていることに新鮮さを覚える。
白地にポップな英字体のプリントされたレイヤード風のカットソーである。※1
うにゅほに歩み寄り、間近で観察する。
サイズが小さいのか、いささか窮屈そうだ。
「…………」
子供服、だろうか。
そのあたりの判別は不可能だが、似合うならばなんだって構わない。
しかし。
しかし、だ。
「……この服、やめたほうがいいな」
「? なんで?」
理由はひどく言いにくい。
しかし、言わずに済ませるわけにもいかない。
「……下着のラインが、すごい浮いてる」
うにゅほよりも身長の高い小学生など、いくらでもいる。
だが、うにゅほは、小学生の平均より大きいサイズのものをお持ちである。
夏服に限っては、ワンサイズ大きいものを選ぶ必要がありそうだ。
うにゅほが小首をかしげ、問う。
「だめなの?」
「……駄目なの」
他人には見せたくないし、俺も目のやり場に困るし。
でも部屋着なら、いや駄目です。
嗚呼!
夏はなあ!
くそう!
ばかやろう!!

※1 洋服には詳しくないため、後から調べた。



2012年6月30日(土)

野暮用があり、札幌市街まで繰り出すことになった。
どうしてもらしんばんへ行く必要があったので、うにゅほを連れ歩くことはできなかった。
次の機会はなくても作るから、と両手を合わせ、逃げるように家を出た。
用事が長引き、帰宅したのは午後六時を回ったころだった。
うにゅほは犬小屋の傍の縁石に腰を下ろし、犬の脇腹を撫でていた。
犬の散歩は午後六時と決まっている。
散歩から帰ってきて、そのまま犬と戯れているのだと思った。
「ただいま」
「おそいー」
「悪い、店が混んでて」
うにゅほが立ち上がり、スカートの砂を払う。
「じゃ、さんぽいこ」
「えっ」
「え?」
ま、まだ行ってなかったのか。
「えと、もしかして、俺が帰ってくるの待ってたの?」
「うん」
「何時くらいから?」
「六時くらい」
腕時計を確認する。
午後六時半。
三十分も待ってたのか!
ものすごい罪悪感が湧き上がる。
しかし、それと同時に思い至ることがひとつ。
「……電話かメールで、何時に帰るか確認してくれれば」
「あ」
携帯電話の存在を完全に忘れ去っていたらしい。
まあ、うにゅほには友人もいないし、俺と離れることもあまりない。
たぶん、電池切れのまま、うにゅ箱のなかに安置されているのだろう。
それでも必要なときがあるから、解約できないのがもどかしい。
いや待て。
そもそも持ち歩いてないから、必要なときに使えないじゃないか!
せめて携帯させよう、携帯電話なんだから。


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