>> 2012年5月




2012年5月1日(火)

うにゅほは前屈限定で体が固い。
足とかはけっこう開くし、背中に手を回して繋ぐこともできる。
けれど前屈に限っては、地面どころか向こうずねまでしか届かない。
隣で悠々と手のひらをつけ、あまつさえ軽く肘まで曲げている俺に対し、呆然とした表情を浮かべていたことを覚えている。
体が固くて困るときと言えば、いつだろうか。
うにゅほを見ている限りでは、足の爪を切るときであるらしい。
新聞紙を広げ、難しい顔をしながら、爪切りを右手で持ったり左手に持ち替えたりと忙しい。
どうにかしてあげたいが、こればかりは如何ともしがたい。
いちいち切ってあげるほど子供扱いはしていないつもりだ。
ああ、でも、方法はある。
もう雪はすべて解けて、気候も春らしい。
窓を開けても問題ない、ということだ。
俺とうにゅほの部屋はベランダに面している。
窓の下枠に腰掛けて、湯上がりの肌を夜気に当てながら、爪を切る。
冬場は雪が積もっていて開けられないし、夏場は虫が入るため開けたくない。
春と秋限定の、風情ある爪の切り方である。
切った爪が新聞紙の範囲を超えて飛んでいくこともないし、いいことづくめだ。
根本的な解決には、まったくなっていないが。
「きもちいいねー」
両足をベランダに放り出しながら、うにゅほが言った。
足の爪は、なんとか切り終えたようだった。
そうだろう、そうだろう。
そう言いながらうにゅほへと視線を向けたとき、衝撃的なものを目にした。
ロングヘアが燃えないゴミ箱にすっぽり入っている!
俺は、湿って重くなったうにゅほの髪の毛を無言でまとめ、ゴムでくくった。
燃えないゴミのほうで、まだよかったよ本当。



2012年5月2日(水)

両親の趣味はゴルフである。
年に何度か、泊まりがけでゴルフ場へ赴く。
今日は、冬期間になまった腕を練習場で磨き直すことにしたらしい。
俺たちを引き連れて。
はっきり言って、俺は運動音痴である。
文化系一筋二十数年、得意なスポーツは消去法でスキー。
「なにかスポーツをしていらしたんですか?」
ではなく、
「なんのスポーツをしていらしたんですか?」
と経験者前提で尋ねられる外見に反し、体力はゴマメだ。
1メートル以上もある棒の先端を、直径4センチほどの球体にジャストミートさせるなど、俺にしてみれば、はじめてのおつかいレベルの難易度である。
どないせいっちゅーのだ。
祖母に次いで身長の低いうにゅほもさぞ苦労しているだろうと隣を見ると、ぱっかんぱっかん打っていた。
母親の指導が良かったらしい。
そうだよな。
うにゅほは、俺に合わせて動かないだけで、運動神経悪くないもんな。
ひとり落ち込む。
父親はとんでもない音を立てながら200ヤード以上飛ばすし、母親は綺麗なフォームで確実に当てていく。
弟は小器用でなんでもこなすし、うにゅほに至ってはプロゴルファー猿みたいだ。
宮里藍でも目指したらいいんじゃないかしらん。
いろいろと諦めて、ひなたぼっこに興じることにした。
しばらくして、椅子に腰掛けた俺の肩に、うにゅほが体重を預けてきた。
「もう打たないのか?」
「手、いたい」
見せてもらうと、数ヶ所ほど赤くなってしまっていた。
これは痛いだろう。
「楽しかった?」
と問うと、
「うん」
と弾んだ声で答えた。
うにゅほが楽しかったなら、いいや。
手は、帰宅してから流水で冷やし、ハンドクリームを塗っておいた。
たぶん大丈夫だろう。



2012年5月3日(木)

借りていた本を手早く片付けて、図書館へ行った。
図書館は閑散としていた。
ゴールデンウィークの只中である。
派手か地味かで言えば限りなく地味な娯楽施設に、他のレジャースポットを押しのけるほどの集客力はない。
まっすぐ端末へ向かい、「マジック・ツリーハウス」で検索をかけた。
検索結果、0件。
一応作者名でも検索してみたが、結果は変わらず。
既に探した場所だけに、あまり期待はしていなかったが、うにゅほの落胆は避けられなかった。
しかし、俺は逆に燃えてきた。
こうなったら、自宅から半径十キロ圏内、思い当たる限りの古本屋を虱潰しにしてやる!
そして数時間後。
疲労と落胆とで言葉すら発さなくなった二人が、そこにいた。
つーか、なんでないんだ!
俺の記憶がたしかなら、映画化もされた人気作だぞ。
古本屋に流通して然るべき作品のはずである。
「ふつうの本屋さんでかおうかな……」
いかん、うにゅほの心が折れかけている。
仕方ない。
俺は、伝家の宝刀を抜くことにした。
オンなのかオフなのかわからないことでお馴染み、ブックオフオンラインである。
自室のPCから検索をかけると、あっという間にヒットした。
「おー!」
うにゅほが隣で感嘆の声を上げる。
1巻と2巻、そして5巻と、新書をいくつか見繕ってカートに入れた。
3巻と4巻は、フリースクールで既に読んでしまったらしい。
「教室に1巻はなかったの?」
と尋ねると、
「あったよ?」
との返事。
し、シリーズものは1巻から読み始めるのが常道ではないのか。
偏見と常識の壁が打ち壊されるのを感じつつ、注文を確定した。
数日中に届く旨を伝えると、うにゅほはとても喜んでいるようだった。
うにゅほの感情表現は、とても幅が狭い。
でもなあ。
ブックオフオンラインは便利すぎて、外出する気が失せるのが嫌なのだ。
俺たちには時間があるのだから、すこしくらいの徒労なら楽しんだほうがいい。
たまになら、ね。



2012年5月4日(金)

昨夜のことである。
我が家に限らないことと思うが、家族が風呂に入る順番はおおむね決まっている。
俺は最後であり、必ず日をまたいでからとなる。
家人が寝静まったなか、風呂場へと向かう。
左手でバスタオルを抱え、右手には文庫本が一冊。
半身浴をしながら読書をするのが習慣となっている。
テタヌストキシンの致死量に思いを馳せていると、脱衣所から物音がした。
祖母がトイレに起きたのだろう。
気にせずページを繰る。
「……◯◯」
思わず顔を上げた。
磨りガラス越しに、うにゅほの矮躯が透けて見えた。
「どうした?」
「──…………」
言葉に詰まる気配がした。
「怖い夢でも見た?」
「……ねむれない」
ヒュプノスの寵愛でも受けていそうなほど快眠なうにゅほにも、そんなことがあるのか。
ああ、ていうか、ああ。
眠っていなかったということは、だ。
通りすがりにうにゅほの頬をもにもにしたことも、普通にバレているということじゃないか!
言えよ!
無言で身悶えていると、うにゅほが遠慮がちに言った。
「……ここにいていい?」
深夜に、ひとり。
たったそれだけのことを怖がっていた時期が、俺にもあった。
「いいよ」
と答え、文庫本を閉じた。
「こっち見るなよ!」という定番の、しかし配役が逆のイベントをこなしつつ、風呂から上がった。
メープルシロップを混ぜたホットミルクを飲み、布団の上で談笑するうち、ようやく眠気が襲ってきたようだった。
「おやすみ」と告げて、電灯の紐を引いた。
宵っ張りの俺は、もうすこし起きていた。



2012年5月5日(土)

満月、もしくは新月と、月の最接近とが重なる現象のことを、スーパームーンと呼ぶらしい。
月が普段より大きく、そして明るく見えるのだとか。
今日がその日だと聞いて、月見もよかろうと思い、うにゅほを連れて外へ出た。
雨上がりの空気は清浄で、肺に心地よかった。
ふたり並んで空を見上げる。
指で弾いた金貨のような月は、どこにも見当たらなかった。
「みえないねー」
天気が悪かったのか、時間帯が悪かったのか。
前者のような気がする。
かつて雨雲だったものが、夜空の七割ほどを覆っている。
スーパームーンというくらいだから、少々の雲なら透かして見えそうなものだけど。
趣向を変えて、花見と洒落込むことにした。
北海道の桜は、いまくらいが見頃である。
我が家からほんのすこし離れたところに、絶好の花見スポットがあるのだ。
私有地だけど。
そもそも犬の散歩コースなので、大して有難味もないが、夜桜だって悪くはない。
街灯に照らされて薄緑に染まるソメイヨシノは、なかなかの美しさだった。
桜と少女。
あとは月と酒があれば、至上の贅沢である。
そんなことを漏らすと、
「……ここで?」
と冷静に突っ込まれてしまった。
私有地には入れないので、普通に路傍である。
こんなところに座り込んで酒を飲んでいたら、確実に通報される。
「……まあ、言葉のあやというか」
お酒は駄目とかなんとか言われながら、家に帰った。
結局、外にいたのは五分ほどだった。



2012年5月6日(日)

裏に住む女子大生からシュークリームをもらった。
以前、PC関連の問題を解決した際の謝礼である。※1
ロールケーキという話だった気がするが、まったく問題はない。
「うまいは甘い」と魯山人も言っている。
ケーキボックスを開封すると、人数分のシュークリームが並んでいた。
「おー!」
うにゅほが目を輝かせる。
俺とうにゅほの感性は、似ているようで随分ずれている。
けれど、甘いものに対する希求心だけは、どうやら一致しているようだった。
シュークリームをひとつ、手に取る。
「重っ」
指先に伝わるたしかな重み。
コンビニで売っているスカスカのシュークリームでは、こうは行かない。
俺の漏らした声に対してか、不思議そうな表情を浮かべていたうにゅほに、シュークリームを手渡した。
「おも!」
ははは、重かろう重かろう。
しかし、満足感と引き換えに失われたものがある。
食べやすさだ。
クリームのみっしり詰まったシュー生地は、どこから食べても垂れ落ちてしまいそうだ。
俺は大口を開ければ良いが、うにゅほにはそれも難しい。
お上品と言うより、そもそもサイズに開きがある。
結果、どうなったか。
両手の指はべたべた、唇の横にもべっとり。
極めつけに、クリームの三分の一ほどを食卓テーブルの上に落としてしまった。
「あー……」
俺の台詞でもある。
席を立ち、キッチンダスターを手に戻ってくると、テーブルのクリームがなくなっていた。
こいつ、舐めたな。
うにゅほの脳天にチョップをかまし、手と顔を拭いてやった。
でも、同じ状況に陥ったら、たぶん俺も舐める。

※1 2012年4月22日(日)参照



2012年5月7日(月)

午前中、うにゅほ待望の品が届いた。
佐川急便の配達員から紙袋を受け取り、足取りも軽やかに階段を上っていく。
愛想笑いを浮かべる配達員に苦笑を返し、俺は受領書にサインをした。
部屋に戻ると、うにゅほが唸っていた。
「……あかない」
紙袋のわりに厳重な梱包だから、仕方ない。
俺はハサミを取り出すと、柄の方を向けてうにゅほに渡した。
「おー!」
中身は、マジック・ツリーハウスの1、2巻、そして5巻。
ついでに俺用の新書が三冊。
ずいぶん探した品だけに、喜びも大きいようだった。
うにゅほは床に女の子座りをしたまま、5巻をぱらぱらと開いた。
「1巻からじゃないの?」
「途中までよんでたの」
なるほど。
じゃあ、1巻は俺が読もう。
うにゅほがひとつの作品にここまで固執するのは、初めてのことである。
たかが児童書と軽んじるべきではない。
文章は平易で読みやすく、挿絵も可愛らしい。
そして、意外とハラハラドキドキする。
これは、あれだ。
主人公たちがほんの子供である故に、好奇心の赴くまま何をしでかすのか予測がつかないのだ。
けっこう面白い。
読破するのに三十分と掛からないため、コストパフォーマンスが極めて悪いのを考慮に入れなければ、であるが。
その点も、うにゅほにとってすれば、まったく問題ではない。
なにしろ5巻を読み終えたのが、午後を大きく回ったころである。
途中から読み始めたにも関わらず、だ。
そのあとは、日が暮れるまで1巻を熟読していた。
なんとなく気づいてはいたが、改めて感じた。
うにゅほの集中力は、凄い。



2012年5月8日(火)

天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。
などといたずらにスケールを大きくしても、過ぎ去った月日は戻らない。
今日は、今月の通院日である。
矢の如し、とはよく言ったものだ。
うにゅほは、午前中からずっと読書に耽っていた。
邪魔をするのも悪いかと思ったが、時間が近づくと当たり前のように用意を始めた。
ありがたいと言えばありがたいし、嬉しいと言えば嬉しいが、心中複雑でもある。
外に出ると、うにゅほがぐるぐると腕を回し始めた。
「なにやってんの?」
「なんか、へん……」
「なにが?」
「なんか……」
肩でも凝ったのかと思い、揉んでみた。
思ったより硬い。
長時間、食い入るような姿勢で読書をしていたせいだろう。
この年で肩凝りか、うにゅほよ。
ついでに首筋も揉んでやると、「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」と表記しづらい声を上げた。
痛いんだか気持ちいいんだか。
たぶん両方だろうけど。
いつものように薬を受け取ったあと、病院をはしごした。
別の持病の薬が切れていたことを思い出したのである。
我ながら病弱だ。
途切れ途切れに飲んでいた二ヶ月分の薬が切れたのだから、三ヶ月ぶりくらいかと思っていたら、五ヶ月だった。
まず主治医に怒られ、待合室でうにゅほに怒られた。
立つ瀬がない。
身長計があったので、誤魔化すように測ってみた。
176センチ、変わらず。
うにゅほは小首を傾げていた。
いや、187とかないから。※1
うにゅほの身長は、151.3センチだった。
こちらは誤差の範囲内。

※1 2012年4月21日(土)参照




2012年5月9日(水)

俺のヒゲは薄い。
朝に剃って、夕方にはもう生え揃っている人たちと比べると、無きに等しい。
それでも一週間ほどすると、ぽつぽつと無精髭が生えてくる。
剃るほどのものでもないので、手鏡とにらめっこをしながら毛抜きで引っこ抜くことになる。
おしゃれヒゲに憧れないでもないが、体質的に不可能だ。
いつものように下唇を持ち上げながら毛抜きを振るっていると、うにゅほが興味を示した。
「やってみていい?」
そりゃあ、べつにいいけども。
アゴの下とか、鏡では見れないし。
毛抜きをうにゅほに渡し、必死の形相で天井を見上げた。
首筋がくすぐったい。
たまに、痛い。
「やりにくいー」
それはそうだろう。
俺はパソコンチェアに座っている。
うにゅほは床にしゃがみこみ、両腕を頭上まで持ち上げている。
作業しづらいし、疲れるはずだ。
どうしたものかと考えていると、うにゅほに手を取られた。
導かれるままソファに座り、横になる。
普段まくらにしている肘掛けから、頭がはみ出た。
歯医者もかくやという格好である。
なるほど。
さっきより、ずっと抜きやすそうな体勢だ。
ソファの傍で膝立ちになりながら、ぷちぷちと俺のヒゲを抜いているうにゅほに話しかけた。
「どう? 抜きやすい?」
「しゃべんないで!」
喋ると喉が動くらしい。
無言でぼんやりしていると、そのうち解放された。
アゴの下がつるつるである。
うにゅほは、けっこう完璧主義なところがあると思った。



2012年5月10日(木)

けだるくて、昼間はずっと横になっていた。
うにゅほは、俺の隣でずっと読書をしていたようだった。
薄暗い部屋でふたり、ただただ無言で時を過ごす。
ふと石川啄木あたりを思い出したが、それほど大したものでないことを、俺は知っていた。
昨夜、うにゅほが床についた後のことである。
こっそり購入したチューハイを冷蔵庫から取り出し、晩酌をした。
久しぶりのアルコールである。
十三日に友人と飲む予定が入っているため、なまけていた肝臓に刺激を与えてやるつもりだった。
それが、このざまである。
頭は痛くないし、吐き気もない。
ただただ、だるい。
二日酔いっぽくはないが、二日酔いの一種なのだろう。
アルコールが酸化したアセトアルデヒドは人体にとって有毒である。
それを分解する酵素が、たまたま備わっているに過ぎない。
「中和剤があるから、毒を飲んでも構わない」
我々はそう言って笑いながら、日々アルコールを摂取している。
分解能力をほんのすこし上回っただけで、このざまだと言うのに。
俺は、小声でうにゅほの名前を呼んだ。
「昨日、お酒飲んじゃった」
うにゅほは、本から顔を上げることなく、
「……うん」
と頷いた。
日が暮れて、体調も幾分か戻り、犬の散歩へ行った。
そこで怒られた。
はい。
家で飲むときは、一缶までにします。



2012年5月11日(金)

午後、友人が遊びに来た。
うにゅほと面識のある友人だが、互いに会話を交わしたことはなかったと記憶している。
うにゅほは人見知りだが、そればかりが原因ではない。
友人も、うにゅほをどう扱っていいかわからないようだった。
立場を逆にしてみれば理解しやすい。
うにゅほは、言うなれば俺の妹のような存在である。
遊びに行った先で、友人の部屋に妹が常駐していたとなれば、それは居心地が悪いだろう。
自ら部屋を出て、リビングで母親と過ごしてくれるのだから、言葉もない。
以前までは、友人に怯えているのだと思っていた。
しかし、今では違うとわかる。
うにゅほは、うにゅほなりに、気を遣ってくれているのだ。
夕方となり、友人と本屋へ行った。
ばのてん4巻を購入した帰り、コンビニへ寄った。
おつまみコーナーにマカダミアナッツがあったので、手に取った。
「おっさんくさい」と揶揄する友人に、うにゅほへの土産だと答えると、今度は呆れられた。
友人曰く、過保護らしい。
そうだろうか。
そうかもしれない。
金曜ロードショーで風の谷のナウシカを放映していたので、家族で見た。
うにゅほは、二十三時を回ったあたりでうとうとし始めた。
たしか、ラピュタのときも寝落ちしていたな。※1
放映時間が長いと駄目なのか、就寝時刻を過ぎると駄目なのか、いずれ検証してみたい。

※1 2011年12月9日(金) 参照



2012年5月12日(土)

今日は、心底寒かった。
明日にもストーブを片付けようと考えていた矢先だった。
カイロス神あたりに感謝を捧げようかと思ったが、灯油が切れていた。
給油すればいいだけの話だが、次の冬までストーブを使う機会が訪れるとも思えない。
なんか、酸化しそうで嫌だし。
うにゅほと相談の上、対症療法的に上着を着込むことにした。
春物のジャケットを羽織り、パソコンチェアの上で体育座りをしながら、しばし打ち震える。
ふと横を見ると、うにゅほがソファで布団にくるまっていた。
ず、ずるい!
ソファは俺の寝床でもあるので、当然ながら端に布団が寄せてある。
「俺の布団はあったかいか」
「ぬー……」
なかば眠りかけていた。
そんなのどかな光景を網膜に映すうち、なんだか俺も眠くなってきてしまった。
大丈夫、寒さ故ではない。
寝ても死なない。
どうも最近、眠りが浅いのだ。
平均睡眠時間が今の半分でありながら、倍以上に活動的だった時期があるなんて、とても信じられない。
まあ、そんなことしてるから病むわけだけど。
俺は、空いていたうにゅほの寝床に体を滑り込ませた。
寝床交換である。
俺がうにゅほの布団で昼寝をするのは、そう珍しいことでもないけれど。
快い香りに包まれながら、ふと不安を覚えた。
俺の布団、臭くないかな。
最近干してないし。
安らかそうだったから、気にすることもないのだろうけど。
そんなことを考えながら、いつのまにか浅い眠りに落ちていた。
起きたときには忘れていた。※1

※1 日記を書いている最中に思い出した。



2012年5月13日(日)

母の日である。
せっかくふたりいるのだから、別方面からのアプローチを試みたい。
弟は弟で、勝手になにかやるだろう。
そんなことを考えていると、うにゅほが躊躇なく母親に尋ねた。
「おかあさん、なにほしい?」
か、確実だ!
絶対に外すことがない、という点で、非常にクレバーだ。
二枠あるのでサプライズ要素も失われない。
不二家のロールケーキというリクエストを承ったので、そちらは俺が購入することにした。
うにゅほにとって千円は、かなり大きな出費だろうし。
スーパーの母の日コーナーを見たが、お菓子ばかりが目についた。
ロールケーキとかぶる。
うにゅほに意見を求められたので、無難にカーネーションを指さした。
由来は知らないが、母の日と言えばカーネーションである。
「造花と生花があるけど」
「ぞうか? せいか?」
「造花は、作り物の花。枯れない花。
 生花は、生きた花。枯れる花」
「……?」
わかってないときの顔だ。
でも、わかってないなりに思うことがあったらしく、うにゅほは造花と生花を一本ずつ買った。
両方のいいところを総取りしたかったのだと思う。
けれど俺は、なんだか喉の奥に引っ掛かるものを感じていた。
選べないことと、切り捨てられないことは、同義である。
比較される苦悩を、一瞬ではなく、延々と与え続けることと相違ない。
それは、ある意味でひどく残酷なことではないか。
明らかに考えすぎである。
今日は飲み会だ。
存分に憂さを晴らしてこよう。

※追記
うにゅほの就寝時刻前に帰宅することができた。
俺の帰宅を待ってソファで寝ることは避けられたようで、よかった。
晩御飯は寿司だったそうである。
いいなあ。



2012年5月14日(月)

幾度か覚醒して、また布団に戻り、夕刻にようやく起きた。
飲酒の報いである。※1
ジャンプの発売日であることを思い出したが、自動車がなかった。
最寄りのコンビニでも、歩くにはすこし遠い。
かと言って、数キロも離れているわけではない。
仕方ないと溜息をついて、散歩がてらと外へ出たとき、ふと思い出した。
ママチャリがあるじゃない。
一台しかないが、うにゅほはそもそも自転車に乗れない。
二人乗りなら、まあ可能だろう。
その旨を伝えると、楽しそうだとノリノリだった。
サドルを右手で固定し、うにゅほを促す。
うにゅほは片足を大きく上げて──
「わああ」
慌てて止める。
君が履いているのはなんだ。
ひざ丈のスカートだぞ!
「だめなの?」
「だめなの」
羞恥心が足りない。
「どうやって乗るの?」
うむ。
ここはやはり、足を揃えて乗るべきだろう。
またいで乗ると、第三者に下着が見えてしまう可能性もある。
それは非常に不愉快だ。
まず俺がサドルに腰を掛け、両足でしっかりと自転車を固定する。
うにゅほは荷台に背を向けて立ち、あらかじめ俺の腰に抱き着いてもらう。
そして、俺を支えにしながら、
「ほっ」
と、飛び乗る。
すこしバランスを崩したが、許容範囲だ。
ペダルに二人分の重みを感じながら、自転車は前に進み始めた。
なんというか、その、なんだ。
すげえ青春って感じがしました。
「耳をすませば」みたい。
うにゅほは段差で尻が痛いと嘆いていたが、そんなものは座布団ひとつで解決するのです。
また付き合いなさい。

※1 2012年5月10日(木)参照



2012年5月15日(火)

ちょっとした手続きがあり、市役所へ行った。
今にも垂れ落ちそうな色合いの雨雲が空を覆っていたせいか、人影はまばらだった。
けっこう立派な建物だけに、寂寥感が尋常ではない。
書類に住所氏名を書き込みながら、意識は隣のうにゅほへと向いていた。
俺にはわかる。
うにゅほは、わくわくしている。
こういう場所は冒険心をくすぐるものだ。
「退屈なら、すこし遊んできてもいいよ」
顔を上げ、そう言った。
うにゅほはすこし驚いた素振りを見せたあと、
「いいの?」
と問い返した。
「二階は駄目」
探す範囲が広すぎる。
「はーい」
足取り軽く、うにゅほがその場を離れていく。
女性職員の「妹さんですか?」という言葉に、曖昧に頷いた。
手続きは十分ほどで終わった。
ホールまで足を伸ばすと、うにゅほはあっさりと見つかった。
テーブルを囲む四人の老婦人と話していたのだ。
前から思っていたが、異様に老人ウケの良い子だ。
当然のように飴を舐めている。
まあ、還暦も過ぎた御婦人方が四人も揃えば、その場に飴がひとつもないほうがおかしい。
うにゅほを引き取りに行って、見事に巻き込まれた。
御婦人方はデイサービスの利用者で、送迎待ちなのだそうである。
切れ目なく話題の推移するテクニカルな思い出話を無理矢理打ち切って、なんとかその場を後にした。
うにゅほは「もう帰るの?」と言わんばかりの表情を浮かべていた。
もうって……もう、手続き自体より長い時間、話を聞いていたからね?
うにゅほが老人から人気がある理由がわかった。
目を輝かせて自分の話を聞いてくれる相手に、好意を抱かないはずがない。



2012年5月16日(水)

こんな夢を見た。
水銀灯の青白い光が、手元の図鑑を照らしていた。
豪州に生息する毒蟻の写真が、本物以上の光沢を帯びていた。
この蟻に噛まれると、千鳥格子が全身を蝕み、いずれは織物になってしまうという。
窓を見た。
無数の光が軽やかに動いている。
鉄道に乗っている。
対面の座席で、同じように外を眺めていた少女が言った。
「前の車両を見てきてもいいですか」
俺は左手を掲げた。
手錠が掛けられている。
目の細かい鎖は、少女の右手首の手錠まで一直線に繋がっている。
「大丈夫、伸びるから」
伸びるなら大丈夫だろう。
少女が席を立ち、前の車両へ姿を消した。
毒蟻に噛まれる痛みを想像するうち、いつしか景色が止まっていることに気がついた。
車掌に確認する。
「終着駅です」
かすれた声がした。
姿はないのに奇妙である。
鉄道を下りると、機関車がなかった。
客車を残して走り去ったのだ、と思った。
手錠の鎖は、レールの遥か先へ伸びていた。
俺は走り出した。
枕木が根腐れしていて、時折つまづいた。
走る。
走る。
しかし、いつまで経っても機関車は見えない。
当然である。
足より遅い機関車などない。
楽観的に考えて、倍は速いと思われた。
一時間走った。
機関車はその一時間先を行く。
二時間走った。
機関車はその二時間先を行く。
走れば走るほど遠くなる。
四年走った。
機関車はその四年先を行く。
足を止めた。
無理だと思った。
鎖は、蜘蛛の糸のように細い。
触れると切れてしまいそうだった。
俺は、鎖を右手に巻きつけて、思い切り引っ張った。

そこで目が覚めた。
よろよろと立ち上がり、リビングへ通ずる扉を開けた。
ソファに腰を据えたうにゅほが、マジック・ツリーハウスをまた最初から読み直している。
傍に寄って、手を取った。
捕まえた。
「──……?」
うにゅほが不思議そうな表情を浮かべ、俺はようやく我に返った。
寝癖満開でなんつー夢を見てるんだ俺は!
空いた左手で、左頬を二度叩いた。
「なんでもない」
と言って、洗面所へ向かった。
赤面症でなくてよかった。



2012年5月17日(木)

スーパーが特売日だったので、祖母を連れて行った。
近所に大きなスーパーがあるためか、さほど混んでいなかった。
経営者からすれば頭を悩ませる事態かもしれないが、こちらにとっては都合が良い。
祖母は足が悪く、杖がなければまともに歩けない。
店内ではカートを杖がわりにするが、小回りが効かない。
他の客にぶつかる心配が少ないというのは大きな利点と言える。
祖母と買い物に行くことはたびたびあるが、うにゅほと連れ立って、というのはあまりない。
理由は、うにゅほと祖母との不仲にある。
祖母にとってみれば、家族づらをした闖入者に過ぎなかったのだろう。
嫁姑に聞くような陰険なものではないが、戦前生まれだけに言葉がきつい。
うにゅほが怯えて距離を取り、それがまた祖母の癇に障る。
悪循環が起こっているように、見えた。
と言うのも、そういったわだかまりが、いつの間にか解消されていたからだ。
なにがあったのかは知らない。
祖母とうにゅほのあいだに日常会話はないが、過剰な距離もない。
祖母が頼み、うにゅほが取ってくるという、当たり前の光景がそこにある。
「好きなもの、ひとつ持ってき」
祖母が言った。
俺だけでなく、二人に言った。
俺とうにゅほは顔を見合わせ、互いに微笑した。
ここで三百円のマカダミアナッツを選ぶあたり、うにゅほはしたたかだと思った。
ひとつはひとつだもんな。
レジを通り、両手にエコバッグを持った。
祖母は買い物を終えると、疲れて人の手に掴まりたがる。
荷物があるので、一人だと大変だった。
これからは大丈夫だ。
祖母とうにゅほが手を繋いで歩くのを見て、そう思った。



2012年5月18日(金)

人は誰しも苦手なものがある。
全き個人の領分であることから、飲食物において顕著だ。
たとえば俺などは、生のトマトを蛇蠍の如く忌み嫌っている。
赤いし。
うにゅほはあまり好き嫌いをしないが、ひとつだけ駄目なものがある。
豆乳だ。
200mlパックの豆乳を俺が好んで買うため、うにゅほが味見をしたいとねだったことがあった。
ストローに吸い付くや否や、
「……ばあ」
半開きの口の端から豆乳が垂れ落ちた。
車内だったので大惨事である。
ティッシュでなんとか拭い取って、うにゅほに感想を聞いてみた。
「……まめ」
そりゃあ豆乳ですから。
しかし、俺が飲んでいたのは調整豆乳である。
無調整豆乳のまめまめしさに拒絶反応を示す人は多いらしいけれど。
そんなことを思い出し、ちょっと試してみることにした。
本日用意したのは二種類の豆乳である。
ひとつは無調整豆乳。
ひとつは紀文の豆乳飲料シリーズより、ココアである。
まず俺が一口飲み下し、人体に害がないことを示したのち、うにゅほによる実飲に入った。
無調整豆乳。
「…………まめ」
うにゅほの眉根はひそめられていたが、調整豆乳ほどの拒否反応はなかった。
あらかじめ覚悟があったおかげかもしれない。
ココア豆乳。
「……? おいしい?」
豆乳の味がほぼ打ち消された製品だけに、美味しくいただけたようである。
「でも、なんか、まめ」
うにゅほは味覚が鋭敏なのかもしれない。
以上の実験から、うにゅほはプレーンな調整豆乳のみ飲めないということがわかった。
恐らく、半端に隠そうとして隠しきれていないまめまめしさが悪さをするのだろう。
うにゅほの好き嫌いについては、今後も調査を続けていく所存である。



2012年5月19日(土)

俺はあまり音楽を聞かない。
「作詞をする人間としてどうか」という意見には、耳を塞いでかぶりを振ろう。
昔からそうなのだから仕方ないではないか。
iPhoneの中身は九割九分がラジオのバックナンバーで、うにゅほが我が家に来て以来それすらまともに聞いていない。
流行曲どころか、好きなアーティストの新譜を漁ることすらなくなった。
作詞参加しているサークルのCDだけを、ただひたすらに回転させる日々である。
そんな毎日に終止符を打ったのが、作業用BGMの存在だ。
俺の作業は文筆が多いため、気を散らすものは厳禁と言える。
テレビ、ラジオは言うに及ばず、Skypeやtwitterクライアントにすら集中を乱される。
唯一うにゅほとの会話にだけは苛立たずに済んでいるが、作業が捗るわけでもない。
なかでも最悪なのが、リビングのテレビである。
薄い壁を挟んで1メートルと離れていないおかげで、パソコンチェアを下りることなく番組の内容まで理解できてしまう。
母よ、どうして俺の聴覚にミュート機能を備えてくれなかったのだ。
そう嘆いてしまうくらい、うるさい。
「なんか、音楽きくのは?」
軽く愚痴っていると、うにゅほがそう言った。
「いや、俺あんまり音楽聞いてて作業捗ったこと──」
答えながら、考えた。
何故捗らなかったのか。
それは、つい歌詞に意識を持って行かれたからではなかったか。
いやどうだ。
その日の深夜、作業用BGMで検索し、試してみた。
うん。
すげえ捗る。
これまでの自分が馬鹿みたいである。
翌日、うにゅほの髪の毛と耳とのあいだに両手を差し入れて、軽く揺らしながら礼を言った。
うにゅほは目を白黒させていた。
そんなこんなで本日、図書館へ行った際にクラシックのCDを借りてみた。
今日の日記は、それを流しながら書いている。
この感動が伝われば幸いである。



2012年5月20日(日)

うにゅほの舌は、どちらかと言えば和風寄りである。
どこか非常に微妙な点において和食に傾いていると、俺は感じている。
ショートケーキとまんじゅうであれば、前者を取るだろう。
しかし、それがチーズケーキであった場合、途端にわからなくなる。
すいません例えを間違えました。
それは単に、うにゅほがチーズケーキを食べたとき、反応がいまいちだっただけだ。
つまり、比喩すら難しいほどにセンシティブな問題ということである。
なんとか誤魔化せた。
母親が好んで買ってくるお菓子に「いわしせんべい」なるものがある。
いわしの身に水飴を塗って焼いたような菓子だ。
硬くて甘くてそこそこ美味しい。
これがまたうにゅほの口に合ったらしく、取り分を朱塗りの容器に入れて、カリカリと少しずつ食べている。
一気に食べるより、長く楽しむ。
それがうにゅほのポリシーであるようだ。
日持ちのしないお菓子のときは全力で止めよう。
そんなことを考えながら、ハムスターのようにいわしせんべいを食むうにゅほの姿を眺めていたとき、
「ちゃっ」
と、謎の言葉が発された。
「ちゃ?」
「……んえ」
うにゅほが眉をひそめながら、あかんべえをするように舌を出した。
赤い。
舌を塗り潰すように、更なる赤みが一筋──
「わああ!」
血である。
いわしせんべいで切ったのだ!
そしてうにゅほは、舌から血が垂れそうになっていることに気づいていない。
このままではスカートが汚れると直感した俺は、慌てて左手でティッシュを引き抜き、右手をうにゅほのあごの下に差し出した。
当然、右手にティッシュは持っていない。
間違えた。
血と唾液の混じったなんとも言えない感触が手のひらから伝わってくる。
うにゅほの口を閉じさせて、右手をティッシュで拭った。
「……痛い?」
「ふょっと」
今日はもう食べないほうがいいと告げて、パソコンチェアへ戻った。
どう感じていいものか、いまいち整理のつかない出来事だった。



2012年5月21日(月)

午前七時過ぎから始まる金環日食を観測するため、昨夜は徹夜をした。
時間を潰すためにフリーゲーム「elona」をプレイしていたら、いつの間にか朝日が昇っていた。
相変わらず恐ろしいほどの時食い虫である。
午前六時を迎え、にわかに家中が活気づき始めた。
それに合わせ、ほんの3メートルほど先で物音が聞こえた。
パソコンチェアから半身を乗り出し、サブディスプレイの向こうを覗き見る。
うにゅほがのそのそと布団から這い出していた。
眠るところは毎日のように見ているが、起きるところは初めてかもしれない。
着替え始めそうな気配がしたので、立ち上がって声をかけた。
「おはよう」
うにゅほはこちらを見て、しばらく固まったあと、
「……おはよ?」
と、疑問形で挨拶を返した。
リビングの両親と「今日は日食だねえ」などと会話を交わし、久方ぶりの朝に没頭する。
両親が出勤したあと、テレビ中継を見ながら金環日食について軽く説明をした。
うにゅほはわかったんだかわかってないんだかよくわからない顔をしていたが、すごい天体現象であることだけは伝わったようである。
サングラスを三重にした即席日食グラスで、欠け始めた太陽を順番に覗く。
「すごい! 月みたい!」
「そーだろそーだろ」
はしゃぐうにゅほに、俺は内心いい気分だった。
徹夜までした甲斐があったというものである。
「月が太陽の真ん中にまで来たら、金色の環になるんだ」
「おー」
目を傷めないよう、短時間ずつ観測を続けていると、おかしなことに気がついた。
金環になることなく、月が太陽から離れていくのである。
見逃したか?
いや、それはないはずだ。
慌てて調べてみると、緯度の関係上、北海道では部分食しか見られないのだという。
俺は頭を抱えた。
金環食を見ることができなかったのは、いい。
ただ、ろくに調べもせずに見れるとばかり思い込んで、うにゅほに期待を持たせてしまったことが、つらい。
天井に向かって溜息を吐き、ありのままを伝えて頭を下げた。
「もうみれないの?」
「いや、北海道では十八年後に見れるらしいけど……」
「じゃ、それみよ?」
うにゅほはそう告げて、俺の手を取った。
十八年後と言ったら、うにゅほは三十代だし、俺に至っては四十路過ぎなんだけど。
でも、気持ちはありがたい。
謝罪の言葉を礼に変えて、そのまま布団にもぐり込んだ。
部分食でも珍しい……部分食でも珍しい……。



2012年5月22日(火)

レンタルした「シャイニング」のDVDにヒビが入っていて見れなかったため、ゲオで返金してもらった。
借り直すつもりだったのだが、貸出中となれば仕方がない。
大長編ドラえもんでも見ようかと専用のコーナーへ行くと、恐ろしいまでのレンタル率だった。
穴空きと言うより、むしろ浮島である。
他に当てもなかったので、目についたインディ・ジョーンズを借りて帰途についた。
ふと思いついてスーパーに寄り、二人分の歯ブラシを買った。
うにゅほの歯ブラシのへたり具合までは知らないが、消耗品は買っておいて損になるものではない。
本人に尋ねても、いまいち要領を得ないし。
まあ、意識していないのだから、歯を磨くのに支障はないのだろうけれど。
ナッツ類の特売が行われていたので、手に取ってみた。
「うわ、バナナチップス入ってるよ」
「? ばなな?」
「ポテチのバナナ版」
「バナナって、ナッツなの?」
「違うと思う……」
アメリカっぽい感じのミックスナッツには、よくジャイアントコーンが入っているが、あれも怪しい。
結局300グラム298円の詰め合わせを購入し、帰宅した。
封を開けてみると、八割くらいピーナッツだった。
でかでかと袋に描かれたくるみは何処へ行ったのだ。
切歯扼腕していると、
「ピーナツ、きらい?」
「好きだけど……」
好き嫌いの問題ではない。
単価の問題なのだ。
でもまあ、うにゅほの言うとおり、嫌いではない。
インディ・ジョーンズを見ながら、二人でぽりぽり食べていた。



2012年5月23日(水)

祖母に頼まれて、近所の金物屋へと連れて行った。
金物屋とはそういうものなのか、それともここが特殊なだけなのか、植物の苗を販売している。
もちろん鍋や包丁も売っている。
何物屋であろう。
祖母は農家の出で、家庭菜園を趣味としている。
野菜も作るし、花も育てる。
祖母が育てたニラだのキュウリだの、食卓に上ることも少なくはない。
唐辛子を始めとした結構な数の苗を、うにゅほと手分けして運んでいると、祖母が言った。
「トマト好きか?」
大嫌いである。
しかし、祖母は俺に尋ねたわけではない。
「? はい」
うにゅほが頷く。
それを嬉しそうに見つめながら、祖母はトマトの苗をうにゅほのカゴへ入れた。
「明日植えるよ」
これは、あれである。
間違いなくあれである。
うにゅほに、家庭菜園を手伝えということだ。
母親もたまに手伝っている。
俺は、畑を耕すときくらいしか頼まれたことがない。
これが「家族の一員として見なす」という遠回しな言葉なら、なんというツンデレ婆さんであろう。
うにゅほと家庭菜園。
なんというか、すごく合う。
家の仕事としてではなく、趣味になったらいいなあと思った。



2012年5月24日(木)

一昨日、歯ブラシを買ったことは既に書いた。※1
このときうにゅほが選んだのは、毛先まで黒い、巨大な歯ブラシである。
理由は「かっこいいから」だそうだ。
レジを通したとき、あまりの値段に驚いた。
……俺が。
その大きさも、価格に見合って尋常ではなく、洗面所備え付けの歯ブラシ立てに入らないほどだ。
仕方がないので、台所からワンカップ大関のビンを持ってくる羽目になった。
実に厄介な代物である。
午後九時頃、洗面所を通りかかると、うにゅほが歯を磨いていた。
鏡越しに目が合う。
うにゅほは「やべっ!」みたいな表情を浮かべ、ゆっくりと振り返った。
理由はすぐにわかった。
お前それ俺の歯ブラシ!
詰問すると、案の定「みがきにくいから」ときたものだ。
だから普通のにしとけと言ったろう。
しかし、相手がうにゅほとは言え、歯ブラシを共有するのはさすがに抵抗がある。
巨大な歯ブラシは、順当に押し出され、俺のものとなってしまった。
ついでだから、歯を磨いてみた。
でかい。
あ、でも高いだけあって、思ったより磨きやすい。
単純に口の大きさの問題だったのだろう。
そう告げると、うにゅほが得意げに背筋を伸ばしたので、とりあえず頭頂部に一撃くれておいた。

※1 2012年5月22日(火)参照



2012年5月25日(金)

桃屋の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」が流行したことがあった。
あまりの入手困難さに、自家製レシピが広く知れ渡ったことも記憶に新しい。
母親もレシピに頼った口で、流行が過ぎ去った今でもたまに作る。
これが、かなり美味い。
冷奴に食べるラー油と醤油をたっぷりかけていただくと、思わず財布を取り出したくなるくらい美味い。
うにゅほは昨夜、初めて食べたのだが、目を皿のように丸くしていた。
そんな理由から数日でなくなってしまうラー油だが、ある問題を引き起こす材料がひとつ入っている。
ニンニクである。
御丁寧に、揚げたものとすりおろしたものの二通りが、たっぷりとっぷり入っている。
翌日どうなるかは推して知るべし。
シャツの首元を広げ、体臭を確認しては首をかしげていると、ふと趣味の悪いことを思いついた。
はて、うにゅほはどうかしらん。
あれだけラー油をぶっかけていたのだ。
ニンニクの引き起こす宿命から逃れるすべはないはずだ。
ちょいとそこ行くうにゅほの両肩を背後からわっしと掴み、鼻の先で髪の毛を掻き分ける。
……ふむ。
臭くは、ない。
でも、いつもより匂いが濃い。
同じ人間なのに、ここまで体臭が違うのは、常在菌の分布の問題だろうか。
それとも、男女のホルモンの差?
そんなことを考えながらくんかくんかと嗅いでいると、
「なにー」
と、うにゅほが迷惑そうな声を上げた。
ニンニクを摂取すると体臭がきつくなる、という話をすると、うにゅほが俺の胸に顔をうずめた。
「臭い?」
「……くさい!」
ちょっとショック。
離れようとすると、追いすがられた。
おいやめろ。
臭いならもう嗅ぐな!
くさいくさいと笑いながら、うにゅほが俺を追いかけて、外にまで出る羽目になった。
痴漢される女性ってこういう気分なんでしょうか。



2012年5月26日(土)

今日は母親の誕生日である。
夕食は行きつけの焼肉屋で済ませることになった。
贅沢と言えば寿司か焼肉な我が家である。
うにゅほは内臓系、なかでもホルモンが好物だが、火の通るタイミングがどうにも掴めないらしい。
たしかに、わかりにくいことはわかりにくい。
薄いホルモンは丸まるが、肉厚のものは経験と観察力とがものを言う。
焼肉と言えばバトルの勃発するような飢えた家族ではないので、うにゅほに肉が当たらないということはない。
隣に座っている俺や母親が、焼けた端からうにゅほの皿に投げ込んでいくからだ。
施しを甘んじて受けながら、うにゅほの視線は七輪へと向けられていた。
人の手を借りずして焼き加減を見極めたいという欲求があるようだ。
自立心である。
しかし、まだ焼けていない豚トロを、噛み切れないままぐにぐにぐにぐに咀嚼したあたりから、諦めムードが漂い始めた。
最後のほうはもうずっと、馬肉ユッケをちょびちょび食べていた。
美味しいけどさ。
夏場になれば庭でも焼肉をやるので、そこで慣れたらいい。
近所の人たちも来るから、ついでにそっちもね。



2012年5月27日(日)

ふと気がつくと、髪の毛がわっさわさになっていた。
日記で確認したところ、床屋に行ってから既に一ヶ月半経過している。※1
一ヶ月を目安としているため、そりゃあ野放図に伸びまくろうというものである。
「今日はどうする?」
「短めで」
というアバウト極まりない注文を伯父に伝え、三十分も雑談をすれば散髪完了である。
鏡で仕上がりを確認する。
うむ、先月と同じ!
これで親戚価格なのだから、他の床屋に行く理由がない。
毎度のごとく伯母の話に付き合わされていたうにゅほを回収し、帰ろうとしたときだった。
「◯◯ちゃん、髪の毛長すぎるんじゃない?」
伯母がそう言った。
たしかに、長い。
ジーンズのベルトが髪の毛で隠れているくらいだ。
しかし、髪の毛はうにゅほ自慢の逸品である。
手入れだって毎日欠かさない。
「ちょっと切ってきな。わたしやるから」
「はい」
嫌がるかと思いきや、うにゅほはあっさりと理容椅子に腰掛けた。
ちなみに伯母も、理容免許を持っている立派な床屋さんだ。
背中の真ん中あたりからばっさりと切り落とし、生え際のあたりからざっくりすいていく。
数十分後、そこには随分とさっぱりしたうにゅほがいた。
俺が、
「似合ってる似合ってる」
と伝えると、うにゅほは肩のあたりの髪の毛をいじりながら、
「かるい……」
と呟くように言った。
満足なのか不満なのかいまいちよくわからない。
まとめたら小型犬くらいの大きさになった床の髪の毛でひとしきり盛り上がったあと、代金を支払って外へ出た。
当然、二人分請求された。
うん。
まあほら、こないだ自転車に二人乗りしたときとか、スポークに絡みそうで怖かったんだよね。
うにゅほは変わらず可愛いし、親戚価格だし、よし!

※1 2012年4月11日(水)参照



2012年5月28日(月)

うにゅほのテンションが低い。
髪の毛を指にくるくると巻きつけて離す行為を繰り返している。
天井の遥か先に焦点を合わせ、小首をかしげたまま動かない。
白状しよう。
その理由に心当たりは、ある。
昨日の時点で気づいてはいたのだ。
しかし、どうすることもできなかった。
雑誌から視線を上げた時点で、伯母のハサミは既に、うにゅほの長髪を切り落としていたのだから。
「やっぱり、切りすぎたな」
「うん……」
それでも、十分なくらいロングヘアなのだけれど。
うにゅほにとって髪の毛とは、俺が思っていた以上に大切なものだったのかもしれない。
よし。
随分とまとめやすくなった髪をポニーテールにすると、俺はうにゅほの手を引いた。
部屋でくさくさしていても仕方がない。
せっかくの晴天なのだからと、座布団ひとつ持って外へ出た。
車庫から自転車を出して、荷台に座布団をくくりつける。
これで尻は痛まないはず。
二人乗りでコンビニへ行き、ジャンプとジュースを購入した。
そのまま森林公園へ向かい、ぐるりと一周したあと、人工池に沿ったベンチでジャンプを読んだ。
風はすこし強めだったが、それが心地よかった。
人工池にはカモがいた。
うにゅほが触ろうとして、逃げられていた。
雑菌とかいるから汚いぞ、カモ。
とりあえず、気分転換にはなったようだった。
「髪の毛なんて、またすぐ伸びるさ」
なんて心ない言葉が、口をついて出なくてよかった。



2012年5月29日(火)

ゲオへ行き、DVDと新刊数冊を購入した。
夕食後、うにゅほが風呂に入っている隙に、箪笥の奥に仕舞ってあった夏用の寝巻きを取り出した。
甚平である。
「ちょっとそこまで」レベルの外出が可能なジャパニーズトラディショナルホームウェアである。
二着を着回すことにより、ずっと甚平のターンも夢ではない。
風呂上がりのうにゅほの前で「どう?」とばかりにポージングを決めてみせると、袖の付け根にあるスリットに指を突っ込まれた。
やめろ、そこは腋だ。
ソファに半分横になってひろなex.4巻を読んでいると、うにゅほがクッションを持ってきた。
どうするのかと横目で見ていると、股のあいだにぽんと置いた。
うにゅほがそこに頭を乗せ、横になる。
上から見ると、俺がうにゅほに肩車されているような体勢である。
お前なにもそんなところに。
なんだか安らいでいるようなので邪魔をする気にもなれず、読書に戻った。
しばらくすると、ふくらはぎにちくりと痛みが走った。
原因はすぐにわかった。
「……スネ毛を引っ張るのはやめなさい」
「きになる」
そんなところに挟まっていたら、そりゃ気にもなろう。
無節操に生やらかしているし。
注意してもやめないので、片膝を倒した。
うにゅほは
「ぎゅ」
と声を上げた。



2012年5月30日(水)

腰痛が解消されないのは、運動不足が原因である!
すべての問題は筋肉によりたちまちのうちに解決されるであろう!
などと思い立ってみた。
たしかに運動不足は深刻である。
一日一時間わけのわからん強度のトレーニングを繰り返していた時期は、ブルーカラーのアルバイトをばりばりとこなしていた。
でも、よく考えると当時から腰痛はあった。
考えないことにする。
とりあえず、まずは腹筋から始めることにした。
最盛期のトレーニングメニューなどこなした日には、残りの23時間動けない。
床に仰向けに寝そべり、うにゅほをちょいちょいと手招いた。
「足の上に座って、膝のあたり押さえて」
「なにするの?」
「腹筋」
うにゅほに頭突きをしないよう気をつけて、何回できるのか試してみた。
結果、五十五回。
「え、おわり?」
うにゅほが邪気のない、純粋に意外そうな声を上げる。
かちんときた。
「五十回ワンセットじゃ!」
プラス十回で腹筋が攣った。
駄目だ。
なまりきっている。
本格的な肉体改造が必要かもしれぬ。
ちなみにうにゅほは十八回だった。
君も人のことは言えないじゃないか。



2012年5月31日(木)

作詞した曲がカラオケに入ったと聞いて、久しぶりに行ってみた。
せっかくなので記念写真を撮り、声帯に紙やすりを仕込んだような声で一曲歌い上げた。
喉までなまっている。
そういえば、うにゅほをカラオケに連れてくるのは初めてである。
同時に気がついた。
うにゅほの知っている曲、とは。
この子が歌っているところなど、鼻歌くらいしか覚えがない。
とりあえず確実に覚えているであろう「ドラえもんのうた」を入力し、マイクを手渡した。
新ドラのオープニングテーマのタイトルがわからなかったので、こちらである。
うにゅほは緊張の面持ちで画面を睨み、「こんなこといいな」の最初の「こ」で音を外した。
頬が赤く染まる。
おお、照れている。
すごい珍しい。
口角が上がらないよう唇を内側に巻き込んでいたのだが、いささか不自然であったらしい。
マイクを押し付けられてしまった。
一人で「ドラえもんのうた」を歌い切り、その後はうにゅほの知っている曲探しに終始した。
大長編ドラえもんの武田鉄矢メドレーはそこそこ覚えているようだった。
ジブリはどうかと「紅の豚」のエンディングテーマを入れたが、不思議そうな表情を浮かべるのみだった。
こないだ一緒に見ただろ!
ならばと「となりのトトロ」を送信したあとで気がついた。
うにゅほは、トトロを、見てません。
元ネタのわからない相手の前で成人男子が「となりのトトロ」を熱唱することほど恥ずかしいものはない。
思わずDragon Ashの「Fantasista」を歌ってしまったのも無理からぬことだろう。
というかうにゅほさん。
一曲くらいは歌いませんか。
最初の歌い損ねでイップスになってしまったらしい。
おまけに歌えるほど熟知している曲がほとんどない。
いたずらに時間は過ぎて、結局俺リサイタルのまま幕が下りてしまった。
案外楽しそうだったことだけが救いである。
次の機会までに数曲ほど仕込んでやる。
雪辱に燃えながら家路を辿っていると、カーステレオからある曲が流れた。
カラオケの空気に当てられたのか、うにゅほが鼻歌を歌う。
……この曲はなんなんだよ!
アニソン・ゲーソンを集めた弟の自作CDであることしかわからない。
くそう、次だ!
次こそは!


← previous
← back to top


inserted by FC2 system