2012年4月1日(日)
夕食後、チェアでくつろいでいる俺に、うにゅほが近寄ってきた。 背中に隠していた両手を、楽しげな様子で差し出す。 手のひらの上には、以前リサイクルショップで入手した、ゴマフアザラシのぬいぐるみが乗っていた。※1 「おに」 「えっ」 「おにです」 え、なに。 なんなの? ぬいぐるみの名前? 「お、鬼ですか」 「おにです」 そうか、鬼か。 トラ柄の腰巻とツノをつければ、たしかに鬼かもしれない。 可愛いかもしれない。 可愛いかもしれない、けど。 リアクションに困っていると、うにゅほが言った。 「ウソです!」 そこで、ようやく思い出した。 今日はエイプリルフールである。 いやゴマフアザラシのぬいぐるみを差し出されて、それを鬼だと言われたところで、嘘という発想には至らないけれど。 どちらかと言うと、珍言のたぐいだし。 「じゃあ、本当は?」 「たまちゃん」 「……その名前って、誰がつけた?」 「おかあさん」 えらい安直だな。 改めて考えてみると、うにゅほが嘘をついたところなど、見たことがない。 もしかすると、これが出会ってから初めてついた嘘かもしれない。 ……うん。
※1 2012年3月19日(月)参照
2012年4月2日(月)
父親に頼まれて、ビール瓶をケースごと売りに行った。 ビール瓶の買取なんて、まだやっていたのだなあ、と感心する。 中身が入っていないため片手でも持てるビールケースを、うにゅほと二人で後部座席へと積み込んだ。 リカーショップへ車を走らせている最中、ふと思いついたことがあった。 「ケース、一人で持ってみるか?」 うにゅほは、鼻息荒く頷いた。 ビールケースを車から降ろし、うにゅほに手渡した。 持てるかどうか心配だったが、なんとか歩けそうである。 第三者から見ると、少女に荷物を持たせて歩く非道な兄ちゃん以外の何者でもないが、まあいい。 リカーショップの店員さんも眉をひそめていたような気がしたが、きっと思い過ごしだろう。 ビールケースと十九本の空き瓶は、295円になった。 店員さんから小銭を受け取り、そのままうにゅほに手渡した。 「お疲れさま」 「……?」 「労働には、対価がある」 いいことを言ったつもりだったが、なんだかよくわからない顔をされた。 うにゅほは財布を持ってきていなかったので、ジーンズのポケットに直接小銭を突っ込むことになった。 歩くたびに音が鳴るのが、気になっているようだった。 今週のジャンプを買うためにコンビニへ寄ると、うにゅほが中華まんをおごってくれた。 俺はベルギーチョコまんを、うにゅほはあんまんを購入し、二人で半分ずつ食べた。 あんまんの舌への攻撃性を舐めてかかり、仲良くやけどした。 見た目や味で判断してはいけない。 やつはトガってやがる。
2012年4月3日(火)
天気が悪いと、気分も沈む。 体調もよくない。 午後三時過ぎになってようやく起き出し、重い頭を振った。 「……だいじょぶ?」 大丈夫かそうでないかで言うなら、最悪だ。 うにゅほの頭をぽんぽんと叩いて、冷めた味噌汁を胃に流し込んだ。 出かける気にも、布団に戻る気にもなれない。 こんなときこそ、うにゅほと遊ぼうと思った。 なにをしても気が晴れないなら、なにをしたっていい。 一緒にいる相手を楽しませることができれば、トータルではプラスだ。 もはや考え方が個人のそれではないが、そう悪いことでもないだろう。 さて、なにをしようか。 「いっせーのーで!」は流行の終焉を迎え、ここしばらく相手をしていない。 感覚的に遊べて、そこそこ楽しいなにか。 ああ、そうだ。 まちがい探しなんて、ネットに転がっているのではないか。 そう考えて検索してみると、案の定あった。 丸椅子を用意して、うにゅほを隣に座らせる。 「左の絵と、違うところを探すんだ」 ひとつふたつ見つけてみせてから、うにゅほにマウスを手渡した。 マウスを使うのは初めてのはずだが、ぎこちないなりに使い方はわかるようだった。 時間の経過を示す時計の音が、うにゅほを焦らせる。 「ない! ないよ!」 カーソルの下にある鍋のフタは、左の絵だとフリスビーだぞ。 「あー!」という小さな叫びと共に、時間切れとなる。 笑って見ていると、反撃がきた。 「◯◯もやってよ!」 やってみた。 七個中四個しか見つけられなかった。 俺とうにゅほは結託し、二人で間違いを正して行こうと決意した。 二時間くらい遊んでいたら、いつの間にか気分も良くなっていた。
2012年4月4日(水)
みよし野に 春の嵐や わたるらむ 道もさりあへず 花のしら雪 などと言っている場合ではない。 花のしら雪どころか、暴風雪である。 そんな日にも用事は重なるもので、郵便局をはじめ、いくつかの目的地へと車を走らせた。 突風に車体が揺れるたび、うにゅほがきゃあきゃあと声を上げる。 怯えているのではない、喜んでいるのだ。 アスファルトが露出しているとは言え、軽自動車は横風に弱い。 こちらはヒヤヒヤしながら運転しているのに、のんきなものである。 帰宅してソファで人心地ついていると、強風で家が揺れた。 家鳴りもひどく、うるさいくらいだ。 「◯◯……」 うにゅほが隣に腰を下ろし、くっつくように身を寄せた。 すこし驚いたが、なんのことはない。 風の音が怖いらしい。 車は揺れて当たり前だが、家が揺れるのは埒外の出来事なのだろう。 なにか恐怖を忘れさせるようなことは、ないだろうか。 ふと、古代中国の麻酔法が脳裏に浮かぶ。 華佗は、戦で怪我をした関羽を手術する際、囲碁を打たせて痛みを忘れさせたという。 よし、囲碁だ。 ルールとかよく知らないから、やっぱり漫画にしよう。 そんなこんなで、二人でエクセル・サーガを読んでいた。 犬の散歩へ行くころには、風もだいぶ弱まっていた。
2012年4月5日(木)
風も幾分か収まり、時折晴れ間が見えるようになった。 大した用事もなく車を走らせていると、視界の端を横切るものがあった。 小さな羽虫である。 ああ、春になったのだな。 昨日のような寒波が来たら、こいつ凍死するな。 「ほら、虫がいる」 信号待ちの際、うにゅほに指先で示した。 「ほんとだ!」 「まだ寒いのに、チャレンジャーだな」 車内が暖かいから、つられて乗ってきたのかもしれない。 信号が青になり、アクセルを踏み込んだ。 俺の視線が、左右に振れる。 視界を横断する羽虫が、ちらちらと目障りなのだ。 これくらいで運転に集中できなくなるほど経験は浅くないが、気になるものは気になる。 羽虫には悪いが、窓から外に出してしまおうか。 そんなことを考えていたときだった。 うにゅほがティッシュを引き抜き、ふつうに潰した。 「あっ」 「え?」 「あ、いや、別にいいんだけど」 「なんか、じゃまそうだったから」 「うん、ありがとう」 「……?」 案外、俺のほうが感傷的なようだ。 凍死どころか圧死を迎えた羽虫に同情すべきなのか、すこしだけ迷った。 でもあいつらでかくなるしな。 血とか吸うし。 うんざりするほど見るようになれば、そんなこと露ほども考えなくなるのだろう。 「うん、正しい」 数分ほど経ってからそう呟いたところ、うにゅほは不思議そうな顔をしていた。
2012年4月6日(金)
引き出しの整理をしていて、あるものを見つけた。 サイコロだ。 それも、ふたつ。 入手経路はまったく思い出せないが、プラスチックの感触が手に馴染み、意味もなく振ってしまう。 今日は金曜ロードショーで「紅の豚」を放送していたので、うにゅほと並んで観賞した。 CMの最中、手遊びでサイコロを振っていると、 「……わたしも振ってみたい」 と、うにゅほが遠慮がちに言った。 大して面白いものでもないが、隣で何度も振られると、やってみたくなるのだろう。 うにゅほがマウスパッドの上に、そっとひとつずつサイコロを落とす。 これでピンゾロでも出てくれれば話の種になるのだが、目は1と6だった。 「7!」 嬉しそうに、そう言った。 ああ、この子はなにが出ても喜ぶのだろうなあ。 そう考えながら、再びうにゅほの手にサイコロを握らせた。 出た目は、1と6。 「また7!」 同じ目とは、珍しいようなそうでもないような。 CMはまだ終わらない。 うにゅほが三度投擲する。 2と5。 う、うーん……。 なんというか、なにもかもが半端だ。 サイコロをふたつ投げて、出た目の和が7になる確率は、1/6である。 それが三回続いたのだから、1/216。 凄い、のか? うにゅほは喜んでいたようなので、それ以上は考えない。 とりあえず、紅の豚もうにゅほのお気に召したようなので、良かった。 「なんでポルコ、豚になったの?」 と聞かれたが、俺もよくわからない。 並んで思索にふけっていたら、いつの間にかエンディングが終わっていた。
※追記 日記をしたためながらサイコロを何度か振ってみたところ、6ゾロが連続で出た。 実に1/1296である。 確率って、けっこう適当だ。
2012年4月7日(土)
暇ではない。 決して暇ではないのだが、つい車を走らせてしまう。 気分転換も理由のひとつだし、うにゅほがおでかけを楽しみにしていることも、大きい。 しかし、今日はちゃんとした目的があるのだった。 柄杓でガソリンを撒くような、不毛な行動では決してないのである。 要約すると、プリンタのインクが切れたのだ。 ヤマダ電機の店内をうろつき、インクコーナーを探す。 意味もなく冷蔵庫売り場に寄り、「でかい!」と「高い!」だけで会話を成立させたりもする。 それにしても、純正のインクは割高だ。 ふたつで五千円もする。 隣を見ると、半額以下の社外品があった。 でもなあ。 もしインクを詰まらせてしまったら、喪黒福造みたいなキヤノンの社員が、 「非↑純正インクを使ってしまったんですねオーッホッホ、ドーン!」 という経緯の後、インクカートリッジのなかで一生墨をすり続けることにもなりかねない。 樋口一葉に別れを告げることにした。 ヤマダ電機を出て、近所の百円ショップへ寄った。 小腹が空いたので、二人分の飲み物と、ナッツの詰め合わせと、ビーフジャーキーを購入した。 車内でビーフジャーキーを口に入れたうにゅほが一言、 「……かたい」 そういうものだから仕方ない。 「あんまり味しないよ」 噛んだら、だんだん旨みが出てくるから。 しばらく後、美味しいか尋ねると、 「ふつう」 との答えが返ってきた。 それでもけっこう食べていたので、気に入らないわけでもないらしい。 最終的にあごが疲れたらしく、付け根のあたりを必死に撫でていた。 俺も、隣で同じことをしていた。 二人だから二袋と思ったのだが、買いすぎたようである。
2012年4月8日(日)
図書館へ行く際、スーパーへと寄った。 俺の目的はペプシNEXの備蓄だが、今日はうにゅほにも目当てがあったようで、財布を持って来ていた。 うにゅほの財布は俺のお下がりで、歳相応とは言えないが、当人はあまり気にしていないようだ。 なにを買うつもりなのか問うと、 「ま、ま……ナッツ!」 木の実であることはわかった。 売り場へ行くと、嬉しそうにマカダミアナッツを手に取った。 最近おやつにナッツの詰め合わせを食べることが多く、密かに気に入っていたらしい。 しかし、マカダミアナッツは高い。 ほんのちょっとしか入っていないのに、平気で三百円とかする。 以前ハマっていたとろろ昆布とは段違いである。 車内へ戻り、早速開封した。 一粒ずつ食べて、すぐに仕舞った。 うにゅほの財政を心配していたが、どうやらちょびちょび食べるらしい。 思っていたよりも金銭感覚があるのか、単に貧乏性なのか。 ちなみに俺は甘味に餓えているので、マカダミアナッツよりもカシューナッツのほうが好みである。 うにゅほにそれを話すと、 「どんなやつ?」 「ナイキのマークみたいなやつだよ」 「ナイキ……?」 しまった、わかりにくいネタを振ってしまった。 慌てて「バナナっぽい形の」と言い直すと、今度は伝わったようだ。 マカダミアナッツ入りのチョコが売っているという話をすると、目を輝かせていた。 やっぱり値段のわりに量は少ないけどな!
2012年4月9日(月)
母親が「蛍火の杜へ」を借りてきた。 原作者及びアニメスタッフが夏目友人帳と同じため、食指が動いたらしい。 よく考えると、うちの家族はほとんどが夏目友人帳のファンである。 うにゅほに限っては作品それ自体より、ニャンコ先生が好きなだけ、という節があるけれど。 内容は緑川ゆきらしく、妖怪ものだった。 人に触れられると消えてしまう妖怪と、人間の少女の交流を描く。 夏にしか会えない妖怪に、少女は恋心を抱いていく。 触れたい、と願っていく。 切なくて、優しい物語だった。 画面が暗転し、エンドロールが流れたとき、うにゅほは泣いていた。 絨毯の上に置かれた手が、なにかを探すように動いた。 俺の指と、うにゅほの指が、軽く触れた。 指先が絡んで、繋がれた。 俺たちは互いに触れ合えるのだ。 当たり前のはずのことに、感謝したくなった。 エンドロールが終わり、DVDの宣伝が流れるころ、背後から視線を感じた。 ソファに腰を下ろした母親と弟が、意味ありげな視線をこちらへ向けていた。 うっせーお前ら泣いてたの知ってるんだからな! 鼻すする音とか聞こえてんだからな! まあ俺もうるっときたけど!
2012年4月10日(火)
月に一度が、すぐにやってくる。 本当に、あっという間だ。 これを十二回繰り返しただけで、一年が終わってしまう。 そう考えただけで、気が遠くなりそうである。 病院へ行こうと上着を羽織り、うにゅほの頭を撫でた。 うにゅほは、お留守番だ。 ポヨのぬいぐるみをぎゅうぎゅうに絞め上げながら部屋中をうろつくうにゅほを、連れ出すわけにもいかない。 落ち着かないのはわかるけど、とりあえず安静にしろとしか。 案の定ぐずったが、体調が芳しくないのは事実である。 母親がなだめてくれているあいだに家を出た。 一人で病院へ行くのは、久しぶりだ。 広い待合室で、所在なく天井を見上げる。 二人でいれば、待ち時間なんて大して気にもならないのに。 主治医に四週間の病状を伝え、再び待合室に戻る。 ぼんやりと、目を閉じた。 なにか、買って行こうかな。 それとも、どこかに寄ろうかな。 薬を受け取って、外へ出た。 春らしい、いい日和だった。 二時間くらい待っていた気がしたが、その半分しか経っていなかった。 結局、寄り道はせず家路を急いだ。 うにゅほは部屋のソファで横になっていた。 眠っているようだった。 ほっぺたをつついて、反応を楽しんだ。 それからしばらく、ソファに寄りかかって読書をした。 うにゅほの寝息を聞きながら。
2012年4月11日(水)
床屋へ行く際、下校する学生の集団を見かけた。 真新しい制服に着られている、新一年生らしき姿もあった。 本来なら、うにゅほもあそこに混ざっているべきだ。 生々しい理由は割愛するが、それが不可能であることだけは明記しておく。 結局のところ、力不足である。 うにゅほはさほど興味なさそうに、カーステレオから流れるアニメソングに聞き入っていた。 何度かしたことのある質問を口にする。 「学校、行きたいか?」 うにゅほはすこしうんざりした様子で、 「いきたくないよ」 と答えた。 「制服とか、似合いそうなのに」 「ふつうだよー」 反発などもなく、本当にどうでもいいと思っているらしい。 関心が、ごく狭い範囲で閉じてしまっている。 どうすべきか、と軽く溜息を吐いた。 床屋を営む伯父に、すこし相談してみた。 「学校に行けないのは仕方ないにしても、他に方法があるんじゃないか?」 うにゅほは今日も、伯母とお茶会である。 「ほら、お前が勤めてた、フリースクールとか」 それについては一度、調べたことがあった。 しかし、我が家との距離を含めた諸条件に適したものがなかったのだ。 一例とは言え内部の実態を知る身として、あまり通わせたいとも思えない。 別れ際に伯父が言った、 「思った通りにさせることが、相手のためになるわけじゃないぞ」 という言葉が、耳に痛かった。 もうすこし考えてみようと思った。
2012年4月12日(木)
大きなタスクをひとつ消化したので、久しぶりに札幌市街へと繰り出した。 減った気がまったくしないことには目をつぶる。 前に来たのは、正月だったろうか。 うにゅほにせがまれて車を出したことを覚えている。 仮に正月だとすると、実に四ヶ月ぶりだ。 出不精を改善せねばという使命感は、くすぶったまま煙ばかり上げている。 ステラプレイスをぐるりと回り、ESTAの9階へ。 プライズコーナーには心揺さぶる景品がなかったので、ペットショップへ入った。 仔猫が別の仔猫のしっぽを狙うさまを、二人で食い入るように見つめた。 店員さんに笑われたので、退散した。 大通りへ向かう際、 「ほら、時計台」 と指差したところ、 「とけいだい」 とオウム返しに呟いた。 ああ、これは完全に興味がないときの反応だ。 俺も由来とか全然知らないけど。 夕刻ということもあり、狸小路商店街はすこしだけ混み合っていた。 俺とうにゅほは人混みのなか、決して並んでは歩かない。 手は繋ぐが、前後に分かれる。 うにゅほが通行人にごすごすぶつかるからである。 ジャパニーズニンジャへの道は遠そうだ。 三時間ほど歩いて、駐車場へと向かうころには、前後が逆になっていた。 運動不足も改善しなければならない。 うにゅほの夏靴は下ろし立てだったのだが、靴擦れもなく快適そうである。 帰り際、びっくりドンキーで遅めの夕食をとった。 食事を済ませて外へ出ると、目と鼻の先にCOCO'Sがあることに気がついた。 俺は内心、失敗したと思った。 COCO'Sに行ってみたいと、漏らしたことがあったのだ。 たしかドラえもんを見ているときだったと思う。 助手席のうにゅほは、ポテサラパケットディッシュに満足したようで、上機嫌だった。 良かった、気づいていない。 というか忘れているかもしれない。 今度外食をするときは、一応COCO'Sにしておこう。
2012年4月13日(金)
毎月第二土曜日は古紙回収である。 毎週確実に5センチほど高さを増していくジャンプタワーをリセットする、唯一の機会である。 普段は月末あたりで自らの不甲斐なさに切歯扼腕しているのだが、今回は違った。 なんと、前日に思い出すことができたのである! うにゅほが! ちなみに俺は、古紙回収など言われるまで忘却の彼方であった。 この子、意外とカレンダーとか見ている。 俺はおもむろにすずらんテープを取り出し、十五冊ほどのジャンプタワーを縛り上げた。 改めて言おう。 俺は不器用である。 ジャンプタワーを縦横に結ぶすずらんテープは、駄菓子屋のおばあちゃんくらいゆるゆるであった。 くそっ、しめしめ45があれば……。 仁礼工業株式会社の家庭用小型結束機、しめしめ45さえあれば! と、ほぞを噛んでも仕方ない。 縛り直そうとハサミを手に取ったとき、うにゅほが言った。 「やってみたい!」 やってみたいと言うならば、させてみるのが俺である。 しかし、最初からすべてやるのは難しいかもしれないので、現状を補強する形で縛ってもらうことにした。 ジャンプタワーを横に倒し、俺はすずらんテープを切る係に徹する。 結果的に、見事ジャンプタワーを崩さずに持ち上げることが可能となった。 団鬼六もかくやという芸術的な緊縛となったことに、なんら問題はない。 運べればよかろうなのだ。
2012年4月14日(土)
家の前は、公園である。 一メートルほど掘り下げられており、冬場は近隣住民の雪捨場へと用途を変える。 その雪が、ここ数日の陽気で、ようやく解けた。 公園には東屋があり、ベンチが据え付けられている。 うにゅほと初めて出会ったのは、この小さな屋根の下だ。 去年の十月、時雨降りしきる夕刻のことだった。 そんなことを思い出し、うにゅほを外へ誘った。 ついでだからと犬を連れてあたりをぶらつき、ふと思いついたふりをして、園内へと足を向けた。 僅かばかり残った雪を踏みしめる、シャクシャクという音が心地良い。 ベンチに並んで腰を下ろした。 春風の運ぶ暖気が、日陰にも満ちていた。 「気持ちいいなー」 「だねー」 うにゅほは犬の耳を両手でぴこぴこさせながら、相槌を打った。 目を閉じた。 気分がいい。 春になったら、うにゅほとここに座ろうと思っていた。 それが叶ったこととはあまり関係なく、ただぼんやりと安らいでいた。 死を迎える瞬間を選べるなら、今と答えるかもしれない。 「なあ、覚えてるか?」 思い出話ができるくらい、時間を積み重ねたのだな。 そんなことを考えながら、言葉を継ごうとしたとき、 「◯◯……」 うにゅほが、口を開いた。 「うんこしてる」 目を開けた。 犬が、踏ん張っていた。 お前さっきもうんこしただろ! 慌てて家へと駆け戻り、ビニール袋を手に取った。 近くてよかった。 人間の感傷は、動物の生理現象に勝てないらしい。
2012年4月15日(日)
春らしく気持ちのよい日曜日。 今日は、タイヤ交換をした。 父親が。 数年前に「お前がいると余計に時間がかかる」と言われて以来、手伝っていないのだ。 車庫の二階へとタイヤの上げ下ろしをするときだけ、助太刀する。 車好きの父親と、興味のない息子の、よくある構図である。 しかし、うにゅほにとっては物珍しいらしく、父親の作業を見守ることにしたようだった。 この二人の組み合わせは、滅多に見ない。 俺も人のことは言えないが、父親の外見も原因のひとつだろう。 鬼とドワーフを足して二で割ったような父親だが、近所の子供には意外と人気があったりする。 わからないものである。 父親も父親で悪い気はしないのか、上機嫌でうにゅほに色々と教えていた。 野暮かと思い、部屋に戻った。 しばらくして帰ってきたうにゅほが、 「ナットは、星型にしめるんだよ!」 と、得意気に教えてくれた。 ああ、うにゅほよ。 その知識が活かされる日が、来るといいな。 俺みたいに、生涯で一度使うか使わないかくらいの無駄知識貯蔵庫になってはいけないぞ。 水戸の郵便番号が「310」であるとか知ってても、水戸に知り合いいねえし。 とりあえず、ランドクルーザーの冬タイヤを持ち上げたときに痛めた腰を、うにゅほに揉んでもらった。 あれすげえでかいし重い。 二分の一うにゅほくらいある。
2012年4月16日(月)
部屋の片隅が、物置き場となっている。 ほとんど使わない、しかし片付けるほどでもないものたちが押しやられ、小さな山を作り上げている。 動線に絡まないため、普段は意識にすら上らない。 うにゅほが掃除機を掛けるときにさえ、迂回されている。 そこに、スイカほどの大きさの布袋がある。 「SHOEI」とロゴが打たれたそれを抱え、うにゅほが俺を呼んだ。 「これ、なに?」 また、懐かしいものを。 俺がバイクに乗っていたときの、ジェットヘルメットである。 無数の擦り傷のついた、年代物だ。 「昨日、車庫のなかでバイクを見たろ? あれに乗るとき、かぶるんだ」 もう数年、乗っていないけれど。 自賠責も切れているし、タイヤも溝が残っていない。 廃車同然のバイクだ。 「かぶる?」 「ほら、バイザーを開けて──」 そのまま、うにゅほにかぶせてみた。 ほとんど抵抗なく、するっと入った。 頭のサイズのあからさまな違いに、内心忸怩たるものを抱く。 というか、左右に開かなくても普通に入ったな。 「……おもい」 うにゅほが頭を押さえながら、部屋を後にした。 家族に見せに行ったのだろう。 リビングから「うわっ」と弟の声がしたので、俺は密かににやりとした。 それにしても、バイクか。 乗れる状態に戻すのに、いくらくらいかかるかな。
2012年4月17日(火)
俺は、パブリックイメージほど読書に時間を割いていない。 「そんなイメージはない」という読者諸兄は、どうか見逃していただきたい。 ともあれ、うにゅほのほうがずっと読書家であるということは、ここに明記しておく。 漫画だって、本である。 馬鹿にしてはいけない。 理由はいくつかあるが、読書をする場所が決まっていることが大きい。 実に読書時間の九割が、半身浴の最中である。 だから今日のように半日ほども読書に没頭することは珍しかった。 うにゅほと並んでソファに座り、左手で文庫本を開く。 部屋ではほとんど漫画しか読まないため、この構図が長く続くことはあまりない。 うにゅほがなんだか上機嫌だったのは、それが理由かもしれない。 本を開いてから一時間ほどしたあたりで、「逃さん」とばかりに太腿に頭を乗せられた。 膝枕をするのも久しぶりだ。 二週間くらいぶりだと思うが、日記に記述はなかった。 太腿から流れ落ちる長髪を右手で弄ぶ。 濡れたような感触なのに、さらさらとしている。 毎朝、髪の手入れだけは欠かしていないためか、心地良い手触りである。 意味もなく指先にくるくると巻きつけて、離す。 そんなことを飽きもせず繰り返しながら、二人で読書に耽った一日だった。 ちなみに夕刻、俺が小用を我慢しきれなくなってお開きとなった。 足もすこし、痺れていた。
2012年4月18日(水)
おやつの時間、という予定がスケジュールに組み込まれているわけではない。 必ずしもおやつがあるわけではないし、三時にそれを食べるという決まりもない。 しかし、三時を過ぎたあたりで口寂しくなるのは、なるほど習慣というものかもしれない。 今日のおやつは、茹でた大豆だった。 貧乏臭いと言うなかれ。 ヘルシーである。 タッパーに詰められて冷蔵庫で保存されていたものを勝手に食べたのだが、そこは重要ではない。 うにゅほの箸さばきをテストする良い機会だ、と思った。 それは、長い戦いの歴史である。 うにゅほは、去年まで正しく箸を使うことができなかった。※1 箸の持ち方から根気よく教え、ようやく形になるまで一ヶ月。 そこから先は単純に慣れの問題である。 今では自然に箸を使いこなしているうにゅほだが、果たして豆を掴み取ることができるのだろうか。 かつて辛酸を舐めさせられた黒豆より、更に小さい。 食卓テーブルに並び、小皿に塩を振る。 うにゅほが、塗り箸の先をタッパーに差し入れる。 緊張の一瞬。 うにゅほはあっさりと、大豆を口へ運んだ。 「……味ないよ」 だから塩を用意したのだよ。 ともあれ、テストは見事に合格である。 俺はうにゅほの背中を、ぽんと叩いた。 うにゅほは箸をくわえながら、きょとんとしていた。
※1 2011年11月27日(日)参照
2012年4月19日(木)
歯ブラシがくたびれていたので、揃って新調した。 俺は、新しいものが好きだ。 歯ブラシ程度のものでさえ、歯磨きをするのが待ち遠しくなる。 うにゅほはちょうど、その逆であるようだ。 歯ブラシ程度のものにさえ、愛着が湧くらしい。 しかし、使用済みの歯ブラシをうにゅ箱に仕舞おうとするのはいかがなものか。 そんなもの、ネットオークションに顔写真つきで出品するくらいしか用途はない。 ジョークである。 それにしても、歯ブラシを交換するなんて初めてのことでもあるまい。 取っておくほどの理由でもあるのだろうか、と疑問符を浮かべながらうにゅほを止めようとしたとき、 「……あ」 うにゅ箱の中身が、ちらと見えた。 古い歯ブラシが二本ほど、ハンカチに包まれていた。 まずい、奇行のたぐいだ。 価値観は人それぞれであり、否定する権利は誰にもない。 権利はないが、義務はある。 衛生的に問題があり、かつ終わりのない代物をコレクションさせるわけにはいかない。 後顧の憂いは断つべきだ。 叱り方というのは難しいもので、強制には必ず反発が起こる。 うにゅほが歯ブラシを自ら捨てるよう仕向けるのが理想である。 かと言って、それほど都合のいい文句がぽんぽんと出るようであれば、口先だけで生きて行けるに違いない。 結局、訥々と説明をして、なんとか納得してもらった。 うにゅほが素直な子で良かった。
2012年4月20日(金)
昨夜はすこし夜更かしをした。 生活サイクルがずれている俺のことだから、朝更かしと呼んで差し支えない。 夜空が白みかけていたので、弁解の余地もない。 不規則ではなく、あくまでずれなので、起床時刻はおおよそ決まっている。 つまり寝不足ということだ。 寝不足のときほどすっきりと起きられるのは、いったいどういう生理に基づくものなのだろう。 今日は家人が出払っており、うにゅほと二人きりだった。 こういった午後は、リビングでテレビを見ることが多い。 お昼の情報番組をだらだら見ているうち、徐々に睡魔が襲ってきた。 生あくびを噛み殺していると、 「ねむいの?」 と、うにゅほがソファから腰を上げた。 せっかくなので、横になった。 耳朶を打つテレビの音が心地良い。 あたたかな陽射しが、春を感じさせる。 いささか眩しいが。 左腕で日光を遮っていると、周囲が急に暗くなった。 目を開くと、カーテンが閉じられていた。 気が利くようになったなあ。 うにゅほに礼を言って、そのまま眠りに落ちた。 目を覚ますと二時間ほど経っており、テレビの電源は落とされていた。 うにゅほは、ソファに寄り掛かって漫画を読んでいた。 なんだか、このあいだとは逆の構図だなあ。※1 そんなことを考えながら、うにゅほの頭に手を伸ばした。 うにゅほは振り返らずに、 「おはよう」 と言った。
※1 2012年4月10日(火)参照
2012年4月21日(土)
我が家の洗面所に、木製の身長計が提がっている。 二十年以上ものあいだ、インテリアとして壁を飾り続けてきたものだ。 かつての幼児は育ちきり、身長計の上限などとうに突き抜けてしまった。 今日の午後、うにゅほがその身長計に背中を預けていた。 「◯◯、なんセンチ?」 近寄って確認する。 久方ぶりに脚光を浴びたかに思えた身長計だが、目盛りが足りていなかった。 元々子供用のもので、150センチまでしか計測できない。 それに、二十年もぶら下がっているのだ。 今でも正確さを保っているとするのは、いささか盲信が過ぎるだろう。 俺は、メジャーを取り出した。 手段は置くとして、これならば5mの巨人だって測ることができる。 メジャーの端を爪先で踏みつけ、壁に沿って伸ばした。 152センチ、前後。 だいたいこんなものか、という数値である。 うにゅほに伝えると、 「……ほー」 という、なんとも微妙な反応だった。 知りたかったんじゃなかったのか。 その後、案の定うにゅほが俺の身長を測りたがった。 俺の真似をして、メジャーを伸ばす。 必死に手を伸ばし、なんとか頭まで届いたようだった。 「何センチ?」 自分の身長くらい、知っているけれど。 「……わかんない」 壁に密着し過ぎて、メジャーの数値がよく見えないらしい。 結局、横になった状態で測ることになった。 しかも結果が、 「187!」 誤差にしておよそ10センチ。 メジャーが、確実に途中で曲がっている。 ちゃんと訂正したが、うにゅほはいまいち納得していないようだった。 今度、目の前でしっかりと測定してやる。 病院とかで。
2012年4月22日(日)
俺はPCのエキスパートである──と、思われている。 そのイメージは家族に留まらず、どうやら近隣住民にまで及んでいるようだ。 母親やら祖母やらが尾ひれをつけて流していると思われる。 これは、あれだ。 PCに対する無知に加え、他に褒めるところがないから、つい誇張してしまうのだろう。 実際には、中級者が精々と言ったところだ。 つまるところ、PC関連の便利屋として付近住民から扱われているということである。 今日は、家の裏手に住む女子大生から依頼があった。 女子大生とだけ書くと魅惑的に感じるが、俺は彼女が幼稚園に入る前から知っている。 うにゅほを連れて行くと、歓迎された。 顔を合わせたことくらいはあるものの、しっかりと挨拶をするのは初めてだった。 「……こんにちわ」 俺の背中に半分隠れながら、うにゅほが会釈をする。 その姿が、女子大生曰く「可愛い!」らしく、妙に好評だった。 同感である。 依頼内容はプリンタの不調で、原因はノズルの目詰まりだった。 ヘッドクリーニングを行なってあっさりと解決し、その後は細々とした問題を解消しながらしばらく談笑していた。 うにゅほは、あまり喋らなかった。 十数メートルほどの帰宅の途、うにゅほは俺の手を離さなかった。 まったくの推測で恐縮なのだが、もしかしてこれは、あれだろうか。 やきもちだろうか。 そう言えば、うにゅほの前で妙齢の女性と会話をしたことはなかった気がする。 なんというか、うん。 にやける。 俺は、誤魔化すようにうにゅほの頭をわしわしと撫でた。 女子大生が今度お礼にくれるというロールケーキの話をしながら、二人で部屋に戻った。
2012年4月23日(月)
以前からずっと考えていたことがあった。 うにゅほを、この箱庭に閉じ込めてしまっていいのだろうか、と。 うにゅほはそれを望むだろう。 しかし、当たり前の友人関係を築くことは、決してマイナスにはならないはずだ。 距離はあるが条件の悪くないフリースクールに電話を掛けたのが、先週のこと。 一週間の体験入学が始まったのが、今日のことだ。 うにゅほに了解を取ったとき、筆舌に尽くしがたいほど渋い顔をされたが、なんとか納得はしてくれた。 初日は午前から、明日以降は午後のみとなる。 その代わり、今日だけ俺が付き添いとして参加する。 まず、軽い自己紹介からだ。 うにゅほは意外にも、俺の背中に隠れることなくあっさりと挨拶を済ませた。 なんだろう、想像と違う。 なんかクールっぽいキャラになっている。 このフリースクールは一般家屋の二階をぶち抜いたような造りになっており、部屋の隅に机が並んでいる。 勉強時間は設けられているが、あまり厳密ではない。 「やることがなくなったら勉強をする」といった印象で、実にフリーである。 生徒数は十数人ほどで、一部に知的障害児が混じっている。 男子は男子と。 女子は女子と。 手のかかる知的障害児は指導員と。 手のかからない知的障害児は孤独に。 うにゅほは、俺と一緒にいた。 まずい、これはいけない。 俺が壁になっている。 そう考えた俺は、男子の輪へと入っていった。 適当に盛り上げながら横目で見ていると、女子グループがうにゅほを誘っている。 よし、いい流れだ。 どうやらトランプをするようだった。 後で聞いたのだが、遊び道具の持ち込みは基本的に禁止であるため、トランプと読書くらいしかすることがないらしい。 なるほど自主的に勉強するわけだ。 しかし、よく考えてみると、うにゅほはトランプをしたことがない。 周囲が丁寧に教えてくれているようだが、案の定うにゅほはつまらなそうな顔をしている。 会話も、ほとんどしていない。 やがて輪は散り散りになり、うにゅほだけがその場に残された。 失敗だ。 どこかにあった楽観的な部分が、あっさりと打ち壊された。 コミュニケーションが取れないのではない。 取る気がないのだ。 うにゅほを強力に牽引してくれる、俺以外の誰かが必要だった。 他にも色々とイベントはあったが、結果は似たようなものだ。 俺はと言えば、持ち回りで入っている母親連中に根掘り葉掘り聞かれてクタクタになってしまった。 しかも午前と午後で交代するものだから、同じ話を二度繰り返す羽目になった。 帰宅の車中、 「……つかれた?」 と、うにゅほに心配されるのだから、逆である。
2012年4月24日(火)
フリースクール体験入学・二日目。 迎えに行った帰りの車中で、うにゅほは一言も口を開かなかった。 「すわ、いじめか!」と反射的に激昂しかけたが、よく考えるとありえない。 指導員なり母親連中なりの目が、四六時中光っているのだから。 帰宅するなり、うにゅほはポヨのぬいぐるみを抱き締め、部屋の隅に向かって体育座りを始めてしまった。 とりあえず事情を聞き出さないことには対処のしようがない。 放っておくという選択肢など思慮の外である。 床に腰を下ろし、うにゅほの背中に寄り掛かった。 背中に熱がともる。 しばらく無言でそうしてから、躊躇いがちに尋ねた。 「今日は、なにをしたんだ?」 「……本、読んでた」 教室の本棚には、小中学生向けの蔵書が揃っていた。 「ずっと?」 「……うん」 あれ、なんで機嫌が悪いんだ? 「教室で、嫌なことあった?」 「──…………」 首を振る気配。 俺が本格的に頭を悩ませ始めたところで、うにゅほが搾り出すように言った。 「……◯◯、なんで帰っちゃったの」 ああ! やっとわかった。 俺が毎日付き添うものだと勘違いしていたらしい。 体験入学が決まった時点で伝えたはずだが、確認を怠ってしまった気がする。 後悔で、胸が痛んだ。 たった一人で、見知らぬも同然の人たちのなかに置き去りにされたのだ。 うにゅほの胸中たるや察するに余りある。 俺は、うにゅほに「ごめん」とだけ告げて、しばらくそのままの姿勢でいた。 そして、明日以降も付き添えないことを改めて伝えた。 うにゅほはぶーたれたが、それだけは堅持した。 優しくすることと、甘やかすことは、きっと異なるはずだから。
2012年4月25日(水)
フリースクール体験入学・三日目。 朝から妙に具合が悪く、半死半生でうにゅほを送迎した。 よほど顔が青かったらしく、うにゅほに心配を掛けてしまった。 だから、どうして本人よりもダメージを受けているんだ、俺は。 うにゅほはと言えば、三日目にして新しい環境に慣れつつあるようで、平然としたものである。 「……友達、できた?」 と尋ねると、予想通り首を横に振られた。 「なにしてた?」 「本よんでた」 やはり、簡単には行かないか。 「面白かった?」 その質問に、うにゅほは目を輝かせた。 なんでも、マジック・ツリーハウスという児童書がとても面白いらしい。 たしか子供向けの小説だ。 これまで漫画しか読んでこなかったうにゅほが、思ってもみなかった方向に成長したものである。 ともあれ、フリースクールに通うことに苦痛を覚えていないことは確かなようだ。 本来の目的は果たされていないが、それだけでも喜ばしい。 すこし気分が良くなったので、遠回りしながら帰宅した。 車中で、何故春になると日没が遅くなるのかを問われ、言葉に詰まった。 図を見せずして地軸の傾きを上手く説明できる自信がなかったのだ。 代わりに、極圏で見られる白夜や極夜の話をして誤魔化した。 今度同じことを尋ねられたときのために、しっかり予習しておかねば。
2012年4月26日(木)
四日目も無事終了し、帰りの車中でのことである。 強風に揺れる信号機に不安を覚えながらブレーキペダルを踏みしめていたとき、不意に視線が歩道へと向いた。 そこには、可愛らしい女子高生の姿があった。 ふむ。 女子高生は、向かい風にスカートをはためかせながら、必死の形相を浮かべて歩いている。 ほう。 ぼんやり見ていると、女子高生が唐突にしゃがみ込んだ。 どうやら靴紐が解けたようである。 俺は、ほんの少しだけ背中を丸め、視点を低くした。 観音様の一枚でも御開帳なされまいかという期待があったことは否めない。 そして、ほんの僅かではあるが、うにゅほの存在を忘れ去っていたことも否めない。 「うー……」 仔犬のような唸り声に、ふと我に返った。 恐る恐る視線を向けた。 怒って──は、いない。 拗ねてもいない。 うにゅほの瞳には、困惑があったように記憶している。 よく考えてみれば、それも当然のことかもしれない。 うにゅほの気の引き方は、こっちの水は甘いぞ方式である。 俺に怒りを向けることはないし、比較対象を貶すこともしない。 だから、俺の気を引けるものが手持ちの材料にないと、どうしていいかわからなくなってしまうのだろう。 急にうにゅほが愛おしくなって、わしわしと頭を撫でた。 髪型は崩れたが、嬉しそうだったので問題はない。 ただ、懸念ならばひとつある。 もしも、俺がパンツを覗こうとしていたことを、うにゅほが正しく理解していたなら。 そして、うにゅほのボトムスが、ジーンズではなくスカートであったなら。 うにゅほは、如何にして俺の気を引こうとしただろうか。 今後、余所見は自重しよう。 現実になるのが怖い。
2012年4月27日(金)
フリースクール体験入学・最終日。 指導員との面談があるとのことだったので、早めに迎えに行った。 階段の陰から、そっと教室を覗く。 穏やかな昼下がりを絵に描いたようだった。 阿鼻叫喚の一階とは異なり、年長者の威厳すら感じられる。 雑談に興じる生徒たちの向こう。 本棚の隣で一人、読書をするうにゅほの姿があった。 それは決して仲間はずれなどではない。 棲み分けに慣れたフリースクールの子供たちが導き出した、ひとつの答えなのだろう。 面談は、短かった。 女性指導員は、うにゅほの現状を取り繕わずに述べた。 曰く「ゆっくりと慣れて行きましょう」だそうである。 俺は勘違いしていた。 このフリースクールは、箱庭なのだ。 傷を負った子供たちに無条件で居場所を提供する、閉じられた箱庭。 究極的には、ただそれだけの場所。 それを批判するつもりはない。 あの子供たちにとって、必要な場所に違いないのだから。 けれど、うにゅほにとっては、そうではない。 俺たちは既に箱庭を持っていた。 ふたつはいらない。 ひとつで構わない。 「入学は、すこし考えさせてください」 と、女性指導員に告げた。 たぶん、同じ答えしか出ないだろうけれど。 うにゅほにも礼をするように促して、フリースクールを出た。 「じゃ、帰るか」 そう言うと、うにゅほは柔和な笑みを浮かべた。 どんな物語より心を打つ笑みだった。
2012年4月28日(土)
本の返却期限が過ぎていたことに気づき、慌てて図書館へ行った。 ゴールデンウィークに突入したせいか、館内はそこそこ混んでいた。 新たに数冊ほど見繕ったところで、ふと思いついた。 せっかく活字に目覚めたのだ。 うにゅほもなにか借りてみてはどうだろう。 俺がそう進言すると、うにゅほは 「マジック・ツリーハウスがいい」 と答えた。 フリースクールにあった児童書だが、途中までしか読めていないらしい。 なるほど、それはいけない。 俺はうにゅほと児童書を探す旅に出ることにした。 館内は狭いようで広い。 足を踏み入れたことのない区画の、あまりの多さに瞠目する。 俺は小説か学術書しか読まないのだから、考えてみれば当然のことなのだけれど。 児童書のコーナーはすぐに見つかったが、品揃えはいまいちだった。 その頃には目的が探検にシフトしていたので、さほど気を落とすこともなかった。 宝の山を見つけたのは、それからすぐのことである。 二階の最奥。 文化系中二病の高校生がキャスター付きの踏み台に腰掛けて三島由紀夫でも読んでいそうな一角に、それはあった。 数架の書棚にびっしりと並ぶ児童書の群れである。 古い作品はこちらに収められているようだ。 「わあ……」 うにゅほが感嘆の声を上げる。 残念ながらマジック・ツリーハウスは見当たらなかったが、懐かしのズッコケ三人組までずらりと揃っている。 江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズがあったので薦めてみたが、 「絵がこわい」 と拒否されてしまった。 結局、なにを読んでいいか決められないとのことで、本を借りるのは次回に持ち越しとなった。 選択肢が多いと選べなくなるのは、普遍的な心理である。 マジック・ツリーハウスは古本屋で探そうと約束し、帰宅した。 そして今、日記を書きながら思い出したことがある。 検索用端末の存在だ。 ひと通り探検したあとに使おうと思っていて、完全に忘れていた。 次行ったとき、改めて検索してみよう。 見逃したのかもしれないし、貸出中だったのかもしれない。 けっこう人気のあるシリーズらしいから。
2012年4月29日(日)
夕刻、家族で母方の実家へ行った。 結婚して名古屋へと移り住んだ従姉が、二年ぶりに帰ってきたのである。 母方の血縁が十数人ほど集まり、飲めや歌えや肉焼けやの騒ぎとなった。 酔っぱらいとは、いつの世も無粋である。 その視線は常に面白そうなものを探し求め、その舌は狙った話題に巻きついて離れない。 俺にぴたりと寄り添って見知らぬ人々を警戒するうにゅほは、格好の標的と言えた。 当然、俺ごとである。 やれ「二人はどこまで行ったの」だの、 やれ「ずいぶん仲良さそうじゃない」だの、 やれ「同じ部屋で生活してるって本当?」だの、 やれ「本当本当! いつ間違いが起きるか期待してんだけどな!」だの、 おい父親、おい。 俺もネクタルを飲んで亡者の仲間入りをしたいところだが、運転手であるために許されない。 それに、うにゅほを精神的に置いてけぼりにするわけにもいかない。 さっさと焼肉を詰め込んで、屋内へと逃げ込んだ。 リビングのソファに腰を下ろす。 うにゅほも隣に座った。 薄く開いた窓から、屋外の馬鹿騒ぎが聞こえてくる。 「ごめんな。嫌だったろ」 うにゅほは首を横に振り、言った。 「やじゃないよ」 浮かべた笑顔は、すこし固かった。 「無理すんな」 と言って、頭を撫でた。 「……焼肉のにおいがする」 上着の匂いを嗅ぐと、たしかに臭かった。 うにゅほのジャケットも同じだった。 屋外なのに、けっこう匂いがつくものだな。 帰宅したあと、二人でファブリーズを噴霧しあった。 これでまあ、大丈夫だろう。
2012年4月30日(月)
うららかな陽気に誘われて外出した。 ドライブがてらだが、当てはある。 うにゅほが律儀に抱いている紙袋の中身は、数冊の漫画と数本のゲームだ。 古本屋で売却し、いくばくかの小遣いを得ようと言うのである。 もちろん、うにゅほが読みたがっているマジック・ツリーハウスシリーズのことも忘れていない。 カーステレオから流れる音楽に合わせて鼻歌が飛び出るほど、うにゅほは上機嫌である。 うにゅほの様子を見ていると、児童書とは言え一度読んでみたくなる。 たしか海外作家の翻訳本だったはずだ。 似たような条件の作品は、ハリー・ポッターしか読んだことがない。 あまり俺には合わなかったけれど。 買取カウンターで番号札を受け取り、うにゅほに手を引かれるまま店内を見て回った。 「……ない」 さほど広くない店内には、児童書のコーナー自体がなかった。 ほとんどが漫画で、ごく一部に小説。 あいだに、ハードカバーの棚がひとつだけ。 ああ、うにゅほが意気消沈している。 表情はあまり変わらないが、雰囲気でわかる。 番号札と引き換えに「まあ、こんなものか」という額を受け取って、古本屋を出た。 うにゅほが助手席に乗り込むのを待って、口を開いた。 「次は、ブックオフだな」 大した距離でもない。 見つからないのも、なんだか悔しいし。 ほう、と喜色を湛えたうにゅほの表情も、一時間後にはまた翳ってしまっていた。 三軒ほど覗いたにも関わらず、見つからないのである。 おかしいなあ……。 けっこう売れてるはずなのに。 「また図書館、行ってみようか?」 と言ったが、 「こんどでいい」 とそっけない。 「普通の本屋で探すとか」 「……やすいほうがいい」 意外と、金銭感覚がしっかりしている。 うにゅほの機嫌を取るために、入った金でたこ焼きを買った。 たいへんお気に召したらしく、食べ終わるころには上機嫌に戻っていた。
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